僕らのノイズ ~捨ててやる、こんなもの~




 ――高校二年、三月末、春休み。

 学校の昇降口で、大好きな合唱曲を口ずさみながら、久しぶりの上靴に履き替えた。歌い終わっても、心はるんるんと踊ったまま、つい、口角が上がってしまう。

 今日はやっと、やっと部活に復帰する日。
 みんなと歌える日が、あの事故の日を境に二ヶ月近く空いてしまった。一月のコンクールに、私は出られなかったけれど、先生が「三月末からゴールデンウィークにかけて、定期演奏会と依頼演奏が多いから頑張れ」って、右肩を通りすがりにポンと優しく叩かれ、背中を押してもらった。

 合唱部のエースとして、一人の部員として、また、みんなと舞台に立って歌いたい。入院中はずっと、そればかり考えて過ごした。
 まだ少し、体の節々が地味に痛むけど、せめて、定期演奏会で歌いたい。大会に出られなかったからか、今もぎゅっと、何かに掴まれたように苦しくなるから。それを消したくて。

 それに、私がいないと、ソロパートを全て、他のメンバーに譲ることになる。それだけは絶対に、嫌。

 部室の目の前で深呼吸を二度し、ドアをそっと開けた。その途端、先にいた後輩部員たちが、一斉に私に注目した。
 今までの私が知っている、大会の時期以外は割と穏やかなはずの部室とは思えない、むしろそこは、舞台本番を直前にした、ギスギスした部員たちそのものだった。

 ……いつもの、みんなじゃない。

 後輩の一人が私を見るなり、急に血が引いたように顔が青ざめ、手に持っていた楽譜を近くの机に置き、準備室の方へと走っていった。
 私はカバンを床に置くと、みんなの方を向いて「おはよう!」と明るく挨拶した。けれど、誰一人として返事をしてくれない。

 きっと、――みんな私が復帰した姿に驚いているんだよね! そりゃそうか、もう二ヶ月も顔を合わせていなかったし。
 もしかして、幽霊と思われてるとか? ……でも、「エースの一人が不在」という事態に陥らせていた期間は申し訳なかったと思っている――自分ではもう何を言っているのか分からなくなるくらい口任せに話すほど、みんながお互いの顔を見合わせ、目配せしして、バツが悪そうな表情に変わっていった。

 話し終わりかけたとき、準備室のドアが音を立てて勢いよく開いて、さっき入っていった後輩と朋美、陸、那月が出てきた。
 朋美だけ私のもとへとまっすぐ歩いてきて、目の前に大きな壁のように立ちはだかった。

「朋美、あのっ――」

 全てを言い終わる前に、朋美は片手で私の頬を強く叩いた。私は痛いと感じるよりも、まず、状況を飲み込めず、不安な気持ちを怪しまれないように穏やかに口角を上げて微笑み返した。そうしたら、朋美の顔が鬼のように歪んで、今度はもう片方の頬を叩かれた。
 じわじわと痛みを感じ始め、最後に叩かれた右頬を手で抑えて朋美を睨んだ。

 朋美がこんなことをするなんて、信じられない。いつもだったら、"おかえり!"って抱きしめて優しく出迎えてくれるはずなのに、……酷い。

 朋美の後方ですべて見ていた那月が朋美に駆け寄り、朋美の肩をさすり始めた。私はその様子を、ただただ見つめることしかできない、何も言ってはいけない、そんな空気になってしまった。

「あんたが……あんたが……」

 朋美が血走った目で私を睨み、那月を左手で退けた。私は呼吸が苦しくなりそうなくらい、襟をぎゅっと強く掴まれる。
 こんな朋美、一度も見たことがない。血走った目も、今みたいに襟を掴むところも。

「あんたがいなければ、全国まで行けたはずなのに! エース組がいれば大丈夫って、あれだけ言われてきて、練習もずっとしてきたのに……。で、この有様? 事故に遭って、エースが欠けました。歌えませんでした。で? はい、終わり? ふざけんじゃねえ!」

 まるでリトルクレッシェンドのように、少しずつ大きくなっていった朋美の声に、周りは怯えているようだった。私も例外ではない。私は、自分の両手両足が小刻みに震えるのを見られないよう、とにかく全身に力を入れてその場に立っているので精一杯だった。
 そもそも、"歌えませんでした"とは何のことだろうか。コンクールには出たはずなのに、"歌えなかった?"
 身体の震えが止まらない。その震えを隠そうとして、思わず、クスっと笑いながら言ってしまった。

「まさか、緊張してたから歌えなかったの? でも結局それって、練習不足が招いていることでしょ? なんでこんな風に責められないといけないの?」

 陸が大きなため息をつきながら、私のすぐ近くの椅子に座り、頬杖をついた。

「夕夏、お前、マジで何も知らないの? 先生から聞かされてないの?」

「何も……何かあったの?」

「何か、って……芝学は、お前が事故に遭ったから、ソロが一人いなくなった状態だっただろ? でも、代理を立てていなかったから、曲を一曲歌い通せない、と先生が判断して、リハーサル直前で棄権したんだよ。俺ら全員、あの舞台で、県大会で歌えずに今ここにいるんだよ」

「なんで……? 一緒に練習してきて、自分のパートしか音を覚えてなかったってこと?……それって変だよ。みんなの音を聴いて歌うのが合唱じゃないの? 普段からそういう練習してたよね、"互いの音を覚えることも練習の一つだから"って。だから、みんな歌えるはずじゃん……。代理がいないくらい、なんとかなったはずじゃ……」

 私がそう言うと、陸は呆れたように大きなため息を一つついて椅子から立ち上がり、部室からぶっきらぼうに出ていった。
 朋美は肩で呼吸をしながら両手をやっと私の襟から離すと、私を背に、ピアノのほうに歩いていった。

「あんたはほんと、そういうところ無知。エース組としての恥晒しもいいとこよ。本当は代理を正式に立てて、別の出場申請書に書かないといけない決まりでしょ。今年はエース組に全ソロを任せていたから、代理は必要ないと先生が判断して、出場申請書に書かなかった。そういう意味では、先生にも責任はあるけれど……。元々、あんたもあんたで、時間ギリギリまで学校で練習して、挙句に走って間に合わせようとしてたんでしょ? しかも、交通事故に巻き込まれた。……馬鹿じゃないの? 結局……あんたはいつもそう。大事なところで、周りを巻き込んで失敗する。


もう、金輪際、ここの合唱部員を名乗らないで。


……顔も見たくない」


 朋美はそう言い切ると、退部届と大きく書かれた書類を私の胸に押しつけた。
 私の頭の中は真っ白になった。

 何も考えられなくなっていた。

 朋美は、後輩に「今日は外で全体練習だから」と指示を出して、那月たちと部室から出ていってしまった。

 一人、静まりかえった部室に取り残されて、緊張の糸が解けて、膝から崩れ落ちた。
 事故で負った全身の痛みなど、どうでもよくなってしまったくらい、心が張り裂けそうでどうしようもなかった。
 涙がとめどなく溢れて、このままどうにかなってしまうのではないか。そう思いながら、声が枯れてもずっと、小さい子どもみたいに泣き続けた。
 音楽室の反響版が、虚しく私の声を余計に響かせてきた。
 どれくらいの時間が経ったんだろう。いつの間にか、顧問の先生が部室を訪れていて、私をいろんな言葉で慰めてくれた。けど、どんな言葉もはね退けてしまうくらい、滅茶苦茶だった。
 こんなに声を上げて泣いたのは、いつ以来なんだろう。


 その日を境に、私は責任をとるように部活を辞め、合唱部員と自分から関わることもやめてしまった。



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