僕らのノイズ

***
 2026年、1月
 東京都 某所
 午前7時を少しすぎた頃。

 私は、部室で1人、自主練をしてから集合場所へ向かうため、時計と楽譜、両方と睨めっこをしていた。
「ここの小節……」
 顧問に『命を賭けてソロを歌え』と散々言われてきた箇所を、右手の人差し指でなぞりながらため息をついた。
 他の箇所とは違って、何度も何度も書き込んだから、本来の内容は塗りつぶされてしまった。
 それでも"慣れ"とは恐ろしいもので、その箇所のみ自分にだけ音符と歌詞が浮き上がって見える。
 そしてこう語りかけてくる。

 "僅かな鼓動を、あなたが奏でなさい。" と。

 時計は既に、8時を指していた。このままでは間に合わない。
 急いで楽譜をバッグにしまい、走って、部室を後にした。
 私は、会場に向かう途中、何度も横断歩道を渡らなければならないことを忘れていた。時間が迫ってくるのと同時に、焦りをつのらせていた。足は今すぐにでも駈け出しそうなのに、信号はこれでもかと赤色を私につきつけてくる。
 心の雲行きが怪しくなってきて、雨が降り始めていた。
 課題曲で降り止まない雨を、自由曲の太陽で大地を照らす。今年の芝学はそんな素敵な時間を聴衆に届けようと切磋琢磨してきた。それを自分自身が壊してしまうかもしれない・・・。そんな焦りは、思わぬ形で私を追い詰めた。
 最後の1つ前の横断歩道を、やっと渡ろうとした時、既に次の信号の点滅が始まっていた。
 あと1つ、あの横断歩道を走れば絶対間に合う・・・。そう思って、私の両足は、走るのを止められなかった。
 その時だった__________。
 自動車のブレーキ音、鈍い音。全て、灰色の世界に染まっているように見えた。
 あんなにもゆっくりと、時間は流れていくことってあるんだ、と思った。
 
 (みんなと一緒に歌いたい)
 (こんなゆっくりじゃ、本番に間に合わない)
 (先生に怒られちゃうな)
 (私、なんで宙に浮いてるの?)

 そう思うと同時に、私は全身を強打し、意識をそのまま失った。
 
 目覚めると、目の前には真っ白の世界。耳をすますと、一定数、何かが滴る音、アルコール消毒液の匂い、それと……なんだか頭の中が掻き回されているような、気持ち悪さを感じた。……ここは、
「目、覚めた?」
「おか、あ、さ…ん」
 余っている力を振り絞って、呼吸に合わせて返事をした。
 意識が鮮明になってくる頃には医者が来て、自分が事故に遭ったこと、車に轢かれて2日ほど意識が無かったことの説明をされた。
足の骨折以外には全身打撲だから1週間様子観察、その後は入院しながら、リハビリを1ヶ月程度行う、ということで入院が決まっていた。
 春休み前の学校復帰は難しいか、頑張っても数日程度だから進級までは、進級のためのレポート課題のをこなし、基本的には休学状態になることを選ばされた。
 数時間経ち、ふと、ベッドの横にある棚を覗くと、あの日のバッグが、血液と灰色や黒色の傷だらけになった状態のままで置かれていた。汚れが、目立つ。
 母曰く、事故に遭ってからの二日間、顧問と私を特に慕ってくれている後輩1人以外は、誰も面会に来なかったらしい。
 朋美は来てくれると思っていたから、少し寂しい気持ちになった。唯一の幼馴染で、ずっと、一緒に音楽をやってきた仲間でもある朋美が、なぜ?未成年だから?とはいえ、年齢的に、来れなくはないはず。

 でも、私は、その時、芝学合唱部に何が起きていたかを何も知らないまま、リハビリを続け、春休み中、退院の日を迎えた。

***

 2026年3月末。
 春休み。
 学校の昇降口で、好きな合唱曲を口ずさみながら靴を履き替える。心が躍っている。
 今日はやっと、やっと部活に復帰する日。みんなと歌える日が、あの事故の日を境に1ヶ月以上空いていた。1月のコンクールに、私は出られなかったけれど、先生が「3月末からゴールデンウィークにかけて、定期演奏会と依頼演奏が多いから頑張れ」って、背中を押してくれた。
 合唱部のエースとして、一人の部員として、また、みんなと舞台に立って歌いたい。入院中はずっと、そればかり考えて過ごした。
 まだ少し、体の節々が地味に痛むけど、せめて、定期演奏会で歌いたい。
 それに、私がいないと、ソロを全て他のメンバーに譲ることになる。それだけは絶対に嫌。

 部室の目の前で深呼吸を二度し、ドアを静かに開けた。その途端、先に部室に来て自主練していた部員たちが、一斉に私に注目した。
 まるで、それまであったはずのアットホームな部室とは思えない、その欠片さえ感じられない部室と化し、それはまさしく本番を直近に控えた部活そのものだった。私の知るみんなじゃない、それだけは一瞬で分かった。
 後輩の一人が、青ざめた顔で、手に持っていた楽譜を近くの机に置き、準備室の方へと走っていった。
 私は荷物を床に置くと、みんなの方を向いて「おはよう!」と明るく挨拶した。けれど、誰一人として返事をしてくれない。
 きっと、みんな私が復帰した姿に驚いているんだろう。
 …とはいえ、エースの1人が不在という事態に陥らせていた期間は申し訳なかった、と思い、その旨も話した。話せば話すほど、みんな、お互いの顔を見合わせたり、目配せしたりして、バツが悪そうな表情へと変わっていく。
 その時、準備室のドアが音を立てて勢いよく開き、さっき入っていった後輩と朋美、陸、那月が出てきた。
 朋美だけ私のもとへとまっすぐ歩いてきて、目の前に大きな壁のように立ちはだかった。
 「朋美、あの」
 全てを言い終わる前に、朋美は片手で私の頬を叩いた。私は状況を飲み込めず、不安な気持ちを怪しまれないように口角を上げて笑顔で応じた。そうしたら今度はもう片方の頬を叩かれた。
 じわじわと痛みを感じ始めると、最後に叩かれた右頬を手で抑えて朋美を睨んだ。
 理由も言わず、こんなことをするなんて、信じられない。…酷い。
 朋美の後方で、すべて見ていた那月が朋美に駆け寄り、朋美の肩をさすり始めた。私はその様子を、ただただ見つめることしかできない、何も言ってはいけない、そんな空気を感じた。
 「あんたが…あんたが……」
 朋美が血走った目で私を睨み、那月を退けて、私の襟をこれでもかというほど、強く強くぎゅっと掴んだ。
 こんな朋美、一度も見たことがない。血走った目も、今みたいに襟を掴むところも。 「あんたがいなければ、芝学は全国まで行けたはずなのに!エース組がいれば大丈夫って、あれだけ言われてきて、練習もずっとしてきたのに…。で、この有様?事故に遭って、エースが欠けていました。歌えませんでした。はい、終わり?ふざけんじゃねえ!!!!」
 まるでリトルクレッシェンドのように、少しずつ大きくなっていった朋美の声に、周りは怯えているようだった。私も例外ではない。私は、自分の両手両足が小刻みに震えるのを見られないよう、とにかく全身に力を入れてその場に立っているので精一杯だった。
 そもそも、"歌えませんでした"とは何のことだろうか。コンクールには出たはずなのに、歌えなかった、とは。
 「緊張してたから歌えなかったの?でも結局それって、練習不足が招いていることでしょ?なんでこんな風に責められないといけないの?」
 そう言った途端、陸が大きなため息をついて私のすぐ近くの椅子に座り、頬杖をついた。
 「夕夏、お前マジで何も知らないの?先生から聞かされてないの?」
 「何も…何かあったの?」
 「何か、って…芝学は、お前が事故に遭ったから、ソロが1人いなくなった状態だっただろ?でも、代理を立てていなかったから、曲を1曲歌い通せない、と先生が判断して、リハーサル段階で棄権したんだよ。俺ら全員、あの舞台で、県大会で歌えずに今ここにいるんだよ。」
 「なんで…?一緒に練習してきて、自分のパートしか音を覚えてなかったってこと?…それって変だよ。みんなの音を聴いて歌うのが合唱じゃないの?普段からそういう練習してたよね、"互いの音を覚えることも練習の一つだから"って。だから、みんな歌えるはずじゃん…。代理がいないくらい、なんとかなったはずじゃ…。」
 私がそう言うと、陸は大きなため息をまた1つついて椅子から立ち上がるなり、部室からぶっきらぼうに出ていった。
 朋美は、やっと私の襟から手を離すと、ピアノのほうに歩いていった。
 「あんたはほんと、そういうところ無知。エース組としての恥晒しもいいとこだよ。本当は代理を正式に立てて、別の出場申請書に書かないといけない決まりなの。今年の芝学は、エース組に全ソロを任せていたから、代理は必要ないと先生が判断して、出場申請書に書かなかった。そういう意味では、先生にも責任はあるけれど、元々、あんたもあんたで、時間ギリギリまで学校で練習して、挙句に走って間に合わせようとしてたんでしょ?しかも、交通事故に巻き込まれた。…馬鹿じゃないの?結局…あんたはいつもそう。大事なところで、周りを巻き込んで失敗する。もう、金輪際、芝学の合唱部員を名乗らないで。…顔も見たくない。」
 朋美はそう言い放つと、退部届と大きく書かれた書類を私の胸に押しつけ、「今日は外で全体練習だから」と他の部員と揃って一緒に部室を出ていった。
 一人、部室に取り残された私は、膝から崩れ落ちた。
 事故で負った全身の痛みなど、どうでもよくなってしまったくらい、心が張り裂けそうで辛かった。涙があふれて、心が締め付けられ、このままどうにかなってしまうのではないか、と怖くて、その場で声が枯れるまで泣き続けた。
 部室は、普段、音楽室として使用されているから、普通の教室や部室よりも、はるかに私の泣き声が響いていたんだろう。
 しばらくして、顧問の先生が部室を訪れ、私をいろんな言葉で慰めた。けど、どんな言葉もはね退けてしまうくらい、心がめちゃくちゃに壊れてしまいそうだった。
 その日を境に、私は部活を辞め、合唱部員と関わることさえもやめてしまった。
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