僕らのノイズ

「ただいま……」

 恐る恐る玄関を開けながら、小声で呟いた。
 奥にある台所から、お母さんがこちら側に大きな足音を立てて鬼の形相で向かってくる。
 私はお母さんに叩かれる気がして、反射的に顔に力が入って下を向いた。

「遅い! 夕飯は十九時って決まってんでしょ! いつまで待たせるの!」
 
 お母さんは両腕を組んで怒りを沸騰させたまま、「もう!」と後ろを振り向いて台所へ戻っていった。
 ローファーを脱いで家に上がり、電気を消したままの冷たい廊下を歩いて食卓につく。並んでいるのは、スーパーのお惣菜と、炊飯器で炊きあげたばかりであろう、お椀に盛られた白いご飯が二つ。
 お父さんは残業で帰りが遅くなるんだ、良かった。でも、怒ったままのお母さんと食卓を囲むのは、気まずい。

 椅子に座って、お母さんと向かい合って「いただきます」と告げた。
 白いお皿に、レタスと一緒に盛り付けられた、お惣菜のコロッケが温かい。わざわざ容器から出して温めてくれたんだ。
 お母さんの変な優しさと、目の前から伝わってくる怒りの温度差が妙に気持ち悪くて、なかなか箸が進まない。
 
「仕事でさ、新人ナースがまたやらかしてー」

 ……またか。この妙な優しい食卓が用意されていたのは、そういうことだったのか。
 お母さんが苛立ちながら、肘をついて悪態をつき始めた。ここから二時間ほど一方的に仕事の愚痴を聞かされるのか、とうんざりしてしまう。進んでいかない箸で無理におかずを挟んで、口に運んだ。こういうとき、よく砂の味がすると聞くけれど、私の舌はコロッケの味を訴えてくるばかりで、砂の味なんて微塵もしてこなかった。
 お母さんの愚痴は、時折こちらが相槌を打って「ちゃんと聞いている」と意思表示さえしておけば、勝手に満足してくれる。

 ご飯を食べ終えて、ごちそうさまをしても、まだ話が続いている。
 本当は私だっていろいろ話を聞いてほしいのに……。唇をきゅっと結んだ。ゆるんでしまうと、私は許されてもいないのに、自分の話をしそうになるから。そんな衝動が胃からこみあげてくる予感がしたから。
 お母さんは小さい頃から、何も聞いてくれないし、話そうとしたら被せられて何も言えなくなる。お母さんは発散できても、私の中には鬱憤が溜まり続けていて、息が詰まる。息苦しい。
 私は俯いて、制服の赤色と紺色で彩られたチェック柄のスカートを小さくぎゅっと握った。

 ある程度話を聞き終わって、少し気が緩んだ。スマホを確認すると、二十時半を過ぎている。
 いつもより短い時間で済んで、ホッとした。
 椅子から立ち上がって、台所から出て階段を上り、自分の部屋に入った。

 ベッドにうつぶせになって、真っ暗な部屋の壁を横目で見つめた。
 今日はもう何もしたくない。考えすぎたような、そうでもないような、どちらなのかさえよく分からない。ただ、もやもやが残る頭でこれ以上何かする気は起きない、それだけ。
 寒いからエアコンを付けたいけど、リモコンを置いてある机まで手を伸ばすのも憂鬱で、諦めた。
 制服から寝間着に着替えないといけないけれど、それもしんどくて、そのまま目を閉じた。