* * *
会場について、入り口から入ると、楽譜とピンク色の蛍光ペンを持った朋美が、駆け寄ってきた。
「夕夏!遅いよ!」
「ごめん……」
「これで全員揃ったし、ソロパート、絶対成功させようね!」
電話口での怒りを含んだ声とは反対に、はにかんだ笑顔と楽しそうな声で肩をポンと叩かれ、「はやくついてきて、みんなが待ってる!」と右手を引っ張られて、リハーサル室に連れて行かれた。
……どういうこと?
妙な感覚の元を辿ると、「そういえば大会前までは、仲は良かったっけ……」と思い出した。
いじめに気を取られていたのか、それまでの朋美との関係……仲良しな幼馴染、を忘れかけていた。
後ろ姿からだけでも伝わってくる、朋美の楽しそうな雰囲気。
大会だろうが、依頼演奏の舞台だろうが、朋美はいつも楽しそうにしていたっけ……私も、あの頃は例外なく。
「先生、夕夏を連れてきました、リハお願いします!」
狭い出入り口でローファーを脱ぐと、紺色の靴下がリハーサル室の床を滑って転びそうになった。
懐かしい。
この大会じゃなくても、中学時代に何度もこの会場の、このリハーサル室には来たことがある。
……時間が戻っている、なんてことは初めてだけれど。
「じゃあみんな並んで。課題曲と自由曲を一回全体で通して、次に自由曲のソロ」
先生が指揮棒を右手に持ち上げると、リハーサル室には、空調の微かな音だけが残った。
(しばらく歌っていないのに、声なんて、以前のようにスムーズに出せるのかな。)
不安なまま、課題曲を通した。でも、何事もなく、無事に歌い終えた。
……まだ体が、曲を覚えている。
そして、一番不安な、自由曲が始まった。
不安なのは、曲というよりも、ソロパート。
朋美、陸と三人で歌うソロパートを、今は一番歌いたくない。
でも、歌わなきゃ――。
意を決して、深く息を吸い込んだ。
* * *
歌い終えると、先生が指揮棒を譜面台に置いた。
「佐々木、いつもの調子はどこに行った?」
「え、いや、あの、……久々に歌ったから、かなと思います」
しどろもどろになりながら、はは、と、ごまかした。
先生は驚きを混ぜた、妙な顔になる。
「久々って……」
先生が呆れ顔で続ける。
「一昨日も全員で通しただろ?」
その言葉で、確信した。
――――時間が、戻ってる。
だって、一昨日はまだ、夏休み。
私は、一日中、自宅で過ごしていたはずだから。
そもそも、外だって、体の芯まで冷えるような寒さじゃなかった。
来るときは夢中で走っていたから、寒さどころじゃなかった、それだけで。
ふと、少し前の自分が、あのサイトに送信してしまった文章を思い出した。
(願い事、叶い始めてる……)
不思議と驚かなかった。
それよりも、朋美が楽しそうなこと、私に快く話しかけてきたこと、私が今、ここにいること、しばらく歌っていないのに、声が自然と戻っていること。
驚くのはむしろ、それらの事実だった。
リハーサルを終え、舞台裏に向かう途中、頭の中でひたすら、ソロパートの練習を繰り返した。
ステージに立ち、先生と伴奏担当の部員が一礼すると、懐かしい拍手の雨がホール中に降り始めた。
けれど、歌い始めてすぐに、観客席に違和感を覚えた。
中央の審査員席のすぐ後ろで、全身に黒色をまとって、顔しかよく見えない男の人が満面の笑みで座っている。
(この曲、笑顔になれるような要素、あったっけ……)
いくら、頭の中で楽譜を開いて辿っても、そんな箇所は見つからない。
誰かの知り合い、とかなら、二階の一般席に座るはず。
関係者だとしても、不正を防ぐため、普通、あの席が解放されることなんてない。
じゃあ、一体……。
ぐるぐると考えているうちに、拍手の音で我に返った。
気づいたころには、自由曲は終わってしまっていた。
ソロを、歌わないまま、歌えないまま。
大会には出られたのに、過去の私があんなに歌いたくて必死に練習していた、あのソロパートを、私が、声が、体が……歌うことを忘れていた。
――あの黒い人のせいだ。
あの人さえ、あの席にいなければ、この場にいなければ、私は歌えていたはずなのに。
会場について、入り口から入ると、楽譜とピンク色の蛍光ペンを持った朋美が、駆け寄ってきた。
「夕夏!遅いよ!」
「ごめん……」
「これで全員揃ったし、ソロパート、絶対成功させようね!」
電話口での怒りを含んだ声とは反対に、はにかんだ笑顔と楽しそうな声で肩をポンと叩かれ、「はやくついてきて、みんなが待ってる!」と右手を引っ張られて、リハーサル室に連れて行かれた。
……どういうこと?
妙な感覚の元を辿ると、「そういえば大会前までは、仲は良かったっけ……」と思い出した。
いじめに気を取られていたのか、それまでの朋美との関係……仲良しな幼馴染、を忘れかけていた。
後ろ姿からだけでも伝わってくる、朋美の楽しそうな雰囲気。
大会だろうが、依頼演奏の舞台だろうが、朋美はいつも楽しそうにしていたっけ……私も、あの頃は例外なく。
「先生、夕夏を連れてきました、リハお願いします!」
狭い出入り口でローファーを脱ぐと、紺色の靴下がリハーサル室の床を滑って転びそうになった。
懐かしい。
この大会じゃなくても、中学時代に何度もこの会場の、このリハーサル室には来たことがある。
……時間が戻っている、なんてことは初めてだけれど。
「じゃあみんな並んで。課題曲と自由曲を一回全体で通して、次に自由曲のソロ」
先生が指揮棒を右手に持ち上げると、リハーサル室には、空調の微かな音だけが残った。
(しばらく歌っていないのに、声なんて、以前のようにスムーズに出せるのかな。)
不安なまま、課題曲を通した。でも、何事もなく、無事に歌い終えた。
……まだ体が、曲を覚えている。
そして、一番不安な、自由曲が始まった。
不安なのは、曲というよりも、ソロパート。
朋美、陸と三人で歌うソロパートを、今は一番歌いたくない。
でも、歌わなきゃ――。
意を決して、深く息を吸い込んだ。
* * *
歌い終えると、先生が指揮棒を譜面台に置いた。
「佐々木、いつもの調子はどこに行った?」
「え、いや、あの、……久々に歌ったから、かなと思います」
しどろもどろになりながら、はは、と、ごまかした。
先生は驚きを混ぜた、妙な顔になる。
「久々って……」
先生が呆れ顔で続ける。
「一昨日も全員で通しただろ?」
その言葉で、確信した。
――――時間が、戻ってる。
だって、一昨日はまだ、夏休み。
私は、一日中、自宅で過ごしていたはずだから。
そもそも、外だって、体の芯まで冷えるような寒さじゃなかった。
来るときは夢中で走っていたから、寒さどころじゃなかった、それだけで。
ふと、少し前の自分が、あのサイトに送信してしまった文章を思い出した。
(願い事、叶い始めてる……)
不思議と驚かなかった。
それよりも、朋美が楽しそうなこと、私に快く話しかけてきたこと、私が今、ここにいること、しばらく歌っていないのに、声が自然と戻っていること。
驚くのはむしろ、それらの事実だった。
リハーサルを終え、舞台裏に向かう途中、頭の中でひたすら、ソロパートの練習を繰り返した。
ステージに立ち、先生と伴奏担当の部員が一礼すると、懐かしい拍手の雨がホール中に降り始めた。
けれど、歌い始めてすぐに、観客席に違和感を覚えた。
中央の審査員席のすぐ後ろで、全身に黒色をまとって、顔しかよく見えない男の人が満面の笑みで座っている。
(この曲、笑顔になれるような要素、あったっけ……)
いくら、頭の中で楽譜を開いて辿っても、そんな箇所は見つからない。
誰かの知り合い、とかなら、二階の一般席に座るはず。
関係者だとしても、不正を防ぐため、普通、あの席が解放されることなんてない。
じゃあ、一体……。
ぐるぐると考えているうちに、拍手の音で我に返った。
気づいたころには、自由曲は終わってしまっていた。
ソロを、歌わないまま、歌えないまま。
大会には出られたのに、過去の私があんなに歌いたくて必死に練習していた、あのソロパートを、私が、声が、体が……歌うことを忘れていた。
――あの黒い人のせいだ。
あの人さえ、あの席にいなければ、この場にいなければ、私は歌えていたはずなのに。


