夏。とにかく暑い、日差しのとても強いある日のことだった。三鷹佳乃は気晴らしに散歩に出たことを早くも後悔していた。
涼しげな水色のワンピースの裾が、熱風で翻る。
「うー…あっつい。なんで夏ってこんなに暑いんだろう」
特に誰が聞いているわけでもないのに疑問を投げかけて、彼女はため息をつく。まだ家から出て数分ほどしか歩いていないが、早くも本気で引き返そうか迷っている佳乃である。
汗が喉元を伝う。ああ、よし、もう帰ろう。
そう決心し、彼女は来た道を引き返そうと体を方向転換する。が、不意に目眩に襲われてしまい、視界がぐにゃりと歪んだ。
日差しが強い、足に力を入れようとしてもうまく入らない。もうだめだ、倒れる。そう思い、そのまま地面に叩きつけられる衝撃を待つ。だが、なかなかそれは訪れなかった。それどころか、二の腕あたりを掴まれている感覚がして、薄れていく意識で不思議に思っていた。
「大丈夫ですか?」
声をかけられたと思う。けれど、それに返答する余力はもうなかった。
話し声が聞こえる。一つは、鈴を転がしたような声、という表現が言い得て妙な女性のもの。それと、力強くも柔らかな青年の声。
「軽い熱中症でしょうね。起きたら飲めるように、何か冷たい飲み物を用意してきます」
「すみません、急に来たのにいろいろご親切に…」
「いいえ。具合の悪い方を放っておくなんてできませんので。お気になさらず。あなたも疲れたでしょう、何しろ女の子とはいえ人一人をここまで背負ってきたのですから」
ごゆっくり、と軽やかな口調と足音を立てて、女性はどこかにいったようだった。
佳乃はうっすらと目を開ける。
「ん…」
小さく声を漏らした佳乃に気づいたのか、青年の方が近づく気配がした。それに、目をぱちりと開く。
「起きた?具合はどうかな?」
目の前に広がっていた顔は、とんでもないイケメンだった。
亜麻色の癖毛に琥珀色|《こはくいろ》の綺麗で丸い瞳。肌はお決まりのように純白だ。
何も言わない佳乃に、青年は心配そうに眉を寄せる。
「やっぱりまだ気分が優れないよね…もう少し寝ていてもいいからね?」
ふわりと頭を撫でられ、佳乃の顔は真っ赤に染まった。これは熱中症が原因ではない。
この日この瞬間、佳乃は恋に落ちたのだ。
氷同士がぶつかる音が不明瞭だった脳内に鳴り響いた。それに、佳乃は我に帰る。
そんな彼女の目の前に、黄色く透き通る飲み物が差し出される。繊細なガラス細工が施されたカップからは、ひんやりとした冷気が立ち上っていた。
「どうぞ。蜂蜜レモン水です。熱中症にもよく効きます」
「あ、ありがとうございます…」
緊張しながらそれを受け取り、差し出し人を見ると、そこにはこれまたとんでもない美女だった。
艶やかな癖のない、腰まで伸びる黒髪に驚くほど碧く丸い瞳。肌は真珠のように真っ白だ。
じっと見つめてくる佳乃に、彼女は不思議そうに首を傾げる。
「なにか?」
「い、いえ!なんでもありません!」
会って間もない人物をじろじろ見つめるなど、失礼極まりない行為だ。気をつけなければ。
努めて平静を装い、彼女は手渡された蜂蜜レモン水を一口飲んだ。途端に口の中に爽やかなレモンの風味と、柔らかな甘味が広がった。程よく冷えており、身体中に冷たいものが隅々まで行き渡る感覚がして、ほっと息をついた。
「美味しい…」
「ふふ、それはよかった。気分はどうですか?」
美女がふわりと微笑んだ。佳乃は恥ずかしそうに顔を赤く染める。
「え、えと…今はなんともないです。すみません、迷惑かけちゃって…ありがとうございます」
「どういたしまして。けれど、気になさらないでください。具合の悪い人を放ってはおけないので。それに、私はただこの場を提供して、飲み物を用意しただけです。お礼なら、そこの方に。彼があなたをここまで運んできたので」
言いながら、彼女はすっと青年へと手を向ける。
「あっ、ありがとう、ございます。わざわざこんな暑い中、運んでもらうなんて…本当に、すみません」
心の底から申し訳なくて、佳乃は慌てて立ち上がり青年に頭を下げた。
「大丈夫。気にしないで。目の前に倒れかけてる人がいたら、助けないわけにはいかないからね」
にこにこと穏やかに笑う青年に、それでも佳乃は申し訳なさが拭いきれなかった。
「あの、何かお礼をさせてもらえませんか?」
女性と青年を交互に見て、佳乃は精一杯の思いを込めて言う。それに、二人は考えるように目を伏せる。
「…そうですね。では、急で申し訳ないけれど、明日からここで働いてもらってもいいでしょうか?ちょうど、人手が欲しかったんです。最近できたばかりの店なので…」
女性がそう言う。そこで、ようやくここが洋菓子店だということに気づいた。
オレンジ色の暖かく明るい照明に、いくつもの木枠の小窓。一箇所だけ大きな窓があり、それはスタンドガラスでできていた。猫足のアンティーク風のテーブルにはたくさんの焼き菓子。ショーケースの中には、様々な種類のケーキが宝石のようにその身を輝かせていた。
「えっと、むしろ、こんな素敵なお店で働かせていただけるならとても嬉しいです。あくまでもお礼なので、お給料、安くていいです!ていうかなしでお願いします!」
佳乃は甘いものが好きだった。そんな彼女にとって、お礼に洋菓子店で働いてくれ、という頼みは、至福でしかなかった。
嬉々として即答した佳乃に、少女は嬉しそうににっこりと笑う。
「なら、よかった」
次に、未だ悩んでいる様子の青年へと佳乃は目を向ける。
視線に気づいたようで、目が合うと少し困ったように笑った。そんな顔もかっこいい。
「本当に、お礼とかいいんだけど…きっと、それじゃ君の気持ちが収まらないんだろうね」
その言葉に、佳乃は少しバツが悪いななどとは思いながらも素直に頷く。特段悪い申し出をしているわけではないはずなので、大丈夫だろう。たぶん。
「…それじゃあ、来週の月曜日、またこの店に来るよ。君はここで働くみたいだし、なにかご馳走してくれるかな。なんでもいいから」
「わ、わかりました!頑張ります!」
敬礼するような勢いで返事をする佳乃に、青年はおかしそうにクスクスと笑った。
「う…すみません」
「ふふ、ううん。こちらこそ笑っちゃってごめんね。楽しみにしてる」
そう言うと、彼は立ち上がり女性に軽く頭を下げた。
「すみません、今日はこれで失礼します。ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。お気をつけてお帰りください」
女性がにっこりと笑っていうのを確認して、彼は佳乃に手を振りながら店を出て行った。
「えっと、これからよろしくお願いします!」
礼儀正しく腰を折った佳乃に、女性は満足げに微笑んだ。
「ええ、よろしくね。私はアリス。ここの店長よ」
「私、三鷹佳乃っていいます。高校二年生です」
若い店長さんだなぁ、ハーフさんかな?などと呑気に考えていると、アリスが先ほど佳乃に用意した蜂蜜レモン水のグラスを片し始めた。
「あ、すみません。手伝います」
「あらいいのよ。今日はまだ体調が万全ではないでしょうし、ゆっくりしていて」
柔らかく微笑まれてしまい、張り切り過ぎてしまったことに対して少し恥ずかしくなってしまった。
大人しくもう一度椅子に座り直り、改めて店内を見回す。本当に素敵なお店だ。モダンな雰囲気があるもののちゃんとおしゃれ。
思わず気分が上昇し、頬を緩ませていると、先ほど店の奥に行っていたアリスが戻ってきた。
「ふふ、気に入ってくれたようで嬉しいわ」
「はい。本当に素敵なお店ですよね。こんなお店が家の近くにできたなんて、気づきませんでした」
彼女は甘いものが好きなだけあって、近所の洋菓子店は全て把握しているつもりだったのだ。当然、このような店があればチェックしているはずなのだが。
佳乃の言葉に、アリスはそれまでとは少し違った悪戯じみた笑みを浮かべる。
「そうね…このお店は少し特殊だから」
意味深な言葉に、彼女は首を傾げる。どういうことだろうか。
その言葉の意味を聞こうとしたとき、店のドアベルが軽快な音を立てた。
「いらっしゃいませ」
店内に入ってきた人…いや、モノを見て、佳乃は目を丸くした。
入ってきたのは、大きなフクロウだったのだ。
艶やかな銀の翼と大きくて立派なクチバシ。そして、まん丸な金の瞳をしている。
「え」
まさかまだ熱中症が治っていないのだろうか。こんな幻覚を見るとは予想以上に消耗しているのかもしれない。帰ったほうがいいだろうか。試しに目を擦ってみても、それは姿を消したり変えたりしていなかった。フクロウのままだ。頭の上に疑問符を数個浮かべていると、アリスがフクロウに近づいていった。
「何を御所望でしょうか」
彼女は特段気にした様子もなく、フクロウに話しかけている。フクロウは、自分の胸元あたりにクチバシを突っ込み、中から何か紙を取り出した。それを、アリスに渡す。
彼女はお礼を言いそれを受け取ると、さらりと目を通す。
「承りました。少々お待ちください」
にっこりと笑って、アリスは再び奥に引っ込んでしまった。
その場に残された佳乃とフクロウの間に、なんとも言えない微妙な空気が流れる。
「えっと…」
これはどうすればいいのだろうか。大人しく座っていればいい?
ちらりとフクロウを見てみると、こちらをじっと見つめていた。
少し怖い。
そのまま無言で(喋られても困るが)見つめられ、佳乃の背筋は凍った。
それから少しして、フクロウが一歩、佳乃に近づく。
「ひっ…」
思わず小さく悲鳴を上げてしまい、慌てて手で口を押さえる。
フクロウはそれにピタリと動きを止めた。次に、再び自分の胸元あたりにクチバシを突っ込み、ブチっと若干痛そうな音を立てながら羽を一枚むしり取った。そしてそれを、そっと佳乃に渡した。
「え…くれるん、ですか?」
それに、フクロウはこくりとうなずいた。
「あ、ありがとうございます…」
綺麗な銀色の羽に、佳乃は嬉しくなってお礼を言う。するとフクロウは満足そうに胸を膨らませる。
結構可愛いかもしれない。
試しに勇気を振り絞って触ろうと手を伸ばしてみたら、どうぞといわんばりに自分から体を寄せてきた。
「…高級羽毛布団よりも柔らかい」
とんでもないもふもふふわふわを堪能していると、アリスが戻ってきた。
佳乃とフクロウの姿に、彼女はおかしそうに笑う。
「仲良くなったようで何より。こちらがご注文の品になります」
言いながらフクロウに見せたのは、フィナンシェと呼ばれる細長い台形の洋菓子だった。
「わぁ、美味しそう…」
思わずそう溢すと、アリスは嬉しそうに笑った。
「ふふ、ありがとう」
そして、フクロウと目を合わせる。
「こちらでよろしかったでしょうか?」
それに、フクロウは先ほどと同じようにこくりと頷く。そして、それを加えると、佳乃たちに軽く頭を下げてからドアへと体を向ける。帰るようだ。
「またのお越しをお待ちしております」
ドアを開けてやって微笑むアリスに見送られ、フクロウは飛び立っていった。
「…あの、今のって…」
「お客様よ。ここは、魔女や魔法使い、使い魔たちなどの不思議な方々専用の洋菓子店なの。普通の人間も歓迎するけどね。私も使い魔よ」
その言葉の意味を理解しようと、佳乃は固まる。
たっぷり数十秒、間を開けてから、彼女は口を開いた。
「…わかりました。頑張ります、色々と」
「ええ、改めて、これからよろしくね」
にっこりと美しく微笑むアリスに、佳乃は覚悟を決めた。
改めてお礼を言って、店を出た佳乃は再び倒れることを防ぐため、まっすぐ家に帰った。
部屋に入って、ベットにダイブする。
「あー…」
意味のない呻き声を上げてから、バッ!という効果音がつきそうな勢いで、ベッドから身を起こした。
「バイト、頑張るぞー!!ちょっと、いや、かなり変わったお店だけど!背に腹は変えられない!!」
どこまでも前向きな佳乃だった。
佳乃が帰った後、アリスは明日の仕込みをしながら上機嫌に鼻歌を歌っていた。
「ふふ、人間の女の子が働きにきてくれるなんて嬉しいわ。これから楽しみね…」
楽しげな声が、厨房に響いた。
涼しげな水色のワンピースの裾が、熱風で翻る。
「うー…あっつい。なんで夏ってこんなに暑いんだろう」
特に誰が聞いているわけでもないのに疑問を投げかけて、彼女はため息をつく。まだ家から出て数分ほどしか歩いていないが、早くも本気で引き返そうか迷っている佳乃である。
汗が喉元を伝う。ああ、よし、もう帰ろう。
そう決心し、彼女は来た道を引き返そうと体を方向転換する。が、不意に目眩に襲われてしまい、視界がぐにゃりと歪んだ。
日差しが強い、足に力を入れようとしてもうまく入らない。もうだめだ、倒れる。そう思い、そのまま地面に叩きつけられる衝撃を待つ。だが、なかなかそれは訪れなかった。それどころか、二の腕あたりを掴まれている感覚がして、薄れていく意識で不思議に思っていた。
「大丈夫ですか?」
声をかけられたと思う。けれど、それに返答する余力はもうなかった。
話し声が聞こえる。一つは、鈴を転がしたような声、という表現が言い得て妙な女性のもの。それと、力強くも柔らかな青年の声。
「軽い熱中症でしょうね。起きたら飲めるように、何か冷たい飲み物を用意してきます」
「すみません、急に来たのにいろいろご親切に…」
「いいえ。具合の悪い方を放っておくなんてできませんので。お気になさらず。あなたも疲れたでしょう、何しろ女の子とはいえ人一人をここまで背負ってきたのですから」
ごゆっくり、と軽やかな口調と足音を立てて、女性はどこかにいったようだった。
佳乃はうっすらと目を開ける。
「ん…」
小さく声を漏らした佳乃に気づいたのか、青年の方が近づく気配がした。それに、目をぱちりと開く。
「起きた?具合はどうかな?」
目の前に広がっていた顔は、とんでもないイケメンだった。
亜麻色の癖毛に琥珀色|《こはくいろ》の綺麗で丸い瞳。肌はお決まりのように純白だ。
何も言わない佳乃に、青年は心配そうに眉を寄せる。
「やっぱりまだ気分が優れないよね…もう少し寝ていてもいいからね?」
ふわりと頭を撫でられ、佳乃の顔は真っ赤に染まった。これは熱中症が原因ではない。
この日この瞬間、佳乃は恋に落ちたのだ。
氷同士がぶつかる音が不明瞭だった脳内に鳴り響いた。それに、佳乃は我に帰る。
そんな彼女の目の前に、黄色く透き通る飲み物が差し出される。繊細なガラス細工が施されたカップからは、ひんやりとした冷気が立ち上っていた。
「どうぞ。蜂蜜レモン水です。熱中症にもよく効きます」
「あ、ありがとうございます…」
緊張しながらそれを受け取り、差し出し人を見ると、そこにはこれまたとんでもない美女だった。
艶やかな癖のない、腰まで伸びる黒髪に驚くほど碧く丸い瞳。肌は真珠のように真っ白だ。
じっと見つめてくる佳乃に、彼女は不思議そうに首を傾げる。
「なにか?」
「い、いえ!なんでもありません!」
会って間もない人物をじろじろ見つめるなど、失礼極まりない行為だ。気をつけなければ。
努めて平静を装い、彼女は手渡された蜂蜜レモン水を一口飲んだ。途端に口の中に爽やかなレモンの風味と、柔らかな甘味が広がった。程よく冷えており、身体中に冷たいものが隅々まで行き渡る感覚がして、ほっと息をついた。
「美味しい…」
「ふふ、それはよかった。気分はどうですか?」
美女がふわりと微笑んだ。佳乃は恥ずかしそうに顔を赤く染める。
「え、えと…今はなんともないです。すみません、迷惑かけちゃって…ありがとうございます」
「どういたしまして。けれど、気になさらないでください。具合の悪い人を放ってはおけないので。それに、私はただこの場を提供して、飲み物を用意しただけです。お礼なら、そこの方に。彼があなたをここまで運んできたので」
言いながら、彼女はすっと青年へと手を向ける。
「あっ、ありがとう、ございます。わざわざこんな暑い中、運んでもらうなんて…本当に、すみません」
心の底から申し訳なくて、佳乃は慌てて立ち上がり青年に頭を下げた。
「大丈夫。気にしないで。目の前に倒れかけてる人がいたら、助けないわけにはいかないからね」
にこにこと穏やかに笑う青年に、それでも佳乃は申し訳なさが拭いきれなかった。
「あの、何かお礼をさせてもらえませんか?」
女性と青年を交互に見て、佳乃は精一杯の思いを込めて言う。それに、二人は考えるように目を伏せる。
「…そうですね。では、急で申し訳ないけれど、明日からここで働いてもらってもいいでしょうか?ちょうど、人手が欲しかったんです。最近できたばかりの店なので…」
女性がそう言う。そこで、ようやくここが洋菓子店だということに気づいた。
オレンジ色の暖かく明るい照明に、いくつもの木枠の小窓。一箇所だけ大きな窓があり、それはスタンドガラスでできていた。猫足のアンティーク風のテーブルにはたくさんの焼き菓子。ショーケースの中には、様々な種類のケーキが宝石のようにその身を輝かせていた。
「えっと、むしろ、こんな素敵なお店で働かせていただけるならとても嬉しいです。あくまでもお礼なので、お給料、安くていいです!ていうかなしでお願いします!」
佳乃は甘いものが好きだった。そんな彼女にとって、お礼に洋菓子店で働いてくれ、という頼みは、至福でしかなかった。
嬉々として即答した佳乃に、少女は嬉しそうににっこりと笑う。
「なら、よかった」
次に、未だ悩んでいる様子の青年へと佳乃は目を向ける。
視線に気づいたようで、目が合うと少し困ったように笑った。そんな顔もかっこいい。
「本当に、お礼とかいいんだけど…きっと、それじゃ君の気持ちが収まらないんだろうね」
その言葉に、佳乃は少しバツが悪いななどとは思いながらも素直に頷く。特段悪い申し出をしているわけではないはずなので、大丈夫だろう。たぶん。
「…それじゃあ、来週の月曜日、またこの店に来るよ。君はここで働くみたいだし、なにかご馳走してくれるかな。なんでもいいから」
「わ、わかりました!頑張ります!」
敬礼するような勢いで返事をする佳乃に、青年はおかしそうにクスクスと笑った。
「う…すみません」
「ふふ、ううん。こちらこそ笑っちゃってごめんね。楽しみにしてる」
そう言うと、彼は立ち上がり女性に軽く頭を下げた。
「すみません、今日はこれで失礼します。ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。お気をつけてお帰りください」
女性がにっこりと笑っていうのを確認して、彼は佳乃に手を振りながら店を出て行った。
「えっと、これからよろしくお願いします!」
礼儀正しく腰を折った佳乃に、女性は満足げに微笑んだ。
「ええ、よろしくね。私はアリス。ここの店長よ」
「私、三鷹佳乃っていいます。高校二年生です」
若い店長さんだなぁ、ハーフさんかな?などと呑気に考えていると、アリスが先ほど佳乃に用意した蜂蜜レモン水のグラスを片し始めた。
「あ、すみません。手伝います」
「あらいいのよ。今日はまだ体調が万全ではないでしょうし、ゆっくりしていて」
柔らかく微笑まれてしまい、張り切り過ぎてしまったことに対して少し恥ずかしくなってしまった。
大人しくもう一度椅子に座り直り、改めて店内を見回す。本当に素敵なお店だ。モダンな雰囲気があるもののちゃんとおしゃれ。
思わず気分が上昇し、頬を緩ませていると、先ほど店の奥に行っていたアリスが戻ってきた。
「ふふ、気に入ってくれたようで嬉しいわ」
「はい。本当に素敵なお店ですよね。こんなお店が家の近くにできたなんて、気づきませんでした」
彼女は甘いものが好きなだけあって、近所の洋菓子店は全て把握しているつもりだったのだ。当然、このような店があればチェックしているはずなのだが。
佳乃の言葉に、アリスはそれまでとは少し違った悪戯じみた笑みを浮かべる。
「そうね…このお店は少し特殊だから」
意味深な言葉に、彼女は首を傾げる。どういうことだろうか。
その言葉の意味を聞こうとしたとき、店のドアベルが軽快な音を立てた。
「いらっしゃいませ」
店内に入ってきた人…いや、モノを見て、佳乃は目を丸くした。
入ってきたのは、大きなフクロウだったのだ。
艶やかな銀の翼と大きくて立派なクチバシ。そして、まん丸な金の瞳をしている。
「え」
まさかまだ熱中症が治っていないのだろうか。こんな幻覚を見るとは予想以上に消耗しているのかもしれない。帰ったほうがいいだろうか。試しに目を擦ってみても、それは姿を消したり変えたりしていなかった。フクロウのままだ。頭の上に疑問符を数個浮かべていると、アリスがフクロウに近づいていった。
「何を御所望でしょうか」
彼女は特段気にした様子もなく、フクロウに話しかけている。フクロウは、自分の胸元あたりにクチバシを突っ込み、中から何か紙を取り出した。それを、アリスに渡す。
彼女はお礼を言いそれを受け取ると、さらりと目を通す。
「承りました。少々お待ちください」
にっこりと笑って、アリスは再び奥に引っ込んでしまった。
その場に残された佳乃とフクロウの間に、なんとも言えない微妙な空気が流れる。
「えっと…」
これはどうすればいいのだろうか。大人しく座っていればいい?
ちらりとフクロウを見てみると、こちらをじっと見つめていた。
少し怖い。
そのまま無言で(喋られても困るが)見つめられ、佳乃の背筋は凍った。
それから少しして、フクロウが一歩、佳乃に近づく。
「ひっ…」
思わず小さく悲鳴を上げてしまい、慌てて手で口を押さえる。
フクロウはそれにピタリと動きを止めた。次に、再び自分の胸元あたりにクチバシを突っ込み、ブチっと若干痛そうな音を立てながら羽を一枚むしり取った。そしてそれを、そっと佳乃に渡した。
「え…くれるん、ですか?」
それに、フクロウはこくりとうなずいた。
「あ、ありがとうございます…」
綺麗な銀色の羽に、佳乃は嬉しくなってお礼を言う。するとフクロウは満足そうに胸を膨らませる。
結構可愛いかもしれない。
試しに勇気を振り絞って触ろうと手を伸ばしてみたら、どうぞといわんばりに自分から体を寄せてきた。
「…高級羽毛布団よりも柔らかい」
とんでもないもふもふふわふわを堪能していると、アリスが戻ってきた。
佳乃とフクロウの姿に、彼女はおかしそうに笑う。
「仲良くなったようで何より。こちらがご注文の品になります」
言いながらフクロウに見せたのは、フィナンシェと呼ばれる細長い台形の洋菓子だった。
「わぁ、美味しそう…」
思わずそう溢すと、アリスは嬉しそうに笑った。
「ふふ、ありがとう」
そして、フクロウと目を合わせる。
「こちらでよろしかったでしょうか?」
それに、フクロウは先ほどと同じようにこくりと頷く。そして、それを加えると、佳乃たちに軽く頭を下げてからドアへと体を向ける。帰るようだ。
「またのお越しをお待ちしております」
ドアを開けてやって微笑むアリスに見送られ、フクロウは飛び立っていった。
「…あの、今のって…」
「お客様よ。ここは、魔女や魔法使い、使い魔たちなどの不思議な方々専用の洋菓子店なの。普通の人間も歓迎するけどね。私も使い魔よ」
その言葉の意味を理解しようと、佳乃は固まる。
たっぷり数十秒、間を開けてから、彼女は口を開いた。
「…わかりました。頑張ります、色々と」
「ええ、改めて、これからよろしくね」
にっこりと美しく微笑むアリスに、佳乃は覚悟を決めた。
改めてお礼を言って、店を出た佳乃は再び倒れることを防ぐため、まっすぐ家に帰った。
部屋に入って、ベットにダイブする。
「あー…」
意味のない呻き声を上げてから、バッ!という効果音がつきそうな勢いで、ベッドから身を起こした。
「バイト、頑張るぞー!!ちょっと、いや、かなり変わったお店だけど!背に腹は変えられない!!」
どこまでも前向きな佳乃だった。
佳乃が帰った後、アリスは明日の仕込みをしながら上機嫌に鼻歌を歌っていた。
「ふふ、人間の女の子が働きにきてくれるなんて嬉しいわ。これから楽しみね…」
楽しげな声が、厨房に響いた。