夏。とにかく暑い、日差しのとても強いある日のことだった。三鷹佳乃は気晴らしに散歩に出たことを早くも後悔していた。
涼しげな水色のワンピースの裾が、熱風で翻る。
「うー…あっつい。なんで夏ってこんなに暑いんだろう」
特に誰が聞いているわけでもないのに疑問を投げかけて、彼女はため息をつく。まだ家から出て数分ほどしか歩いていないが、早くも本気で引き返そうか迷っている佳乃である。
汗が喉元を伝う。ああ、よし、もう帰ろう。
そう決心し、彼女は来た道を引き返そうと体を方向転換する。が、不意に目眩に襲われてしまい、視界がぐにゃりと歪んだ。
日差しが強い、足に力を入れようとしてもうまく入らない。もうだめだ、倒れる。そう思い、そのまま地面に叩きつけられる衝撃を待つ。だが、なかなかそれは訪れなかった。それどころか、二の腕あたりを掴まれている感覚がして、薄れていく意識で不思議に思っていた。
「大丈夫ですか?」
声をかけられたと思う。けれど、それに返答する余力はもうなかった。
話し声が聞こえる。一つは、鈴を転がしたような声、という表現が言い得て妙な女性のもの。それと、力強くも柔らかな青年の声。
「軽い熱中症でしょうね。起きたら飲めるように、何か冷たい飲み物を用意してきます」
「すみません、急に来たのにいろいろご親切に…」
「いいえ。具合の悪い方を放っておくなんてできませんので。お気になさらず。あなたも疲れたでしょう、何しろ女の子とはいえ人一人をここまで背負ってきたのですから」
ごゆっくり、と軽やかな口調と足音を立てて、女性はどこかにいったようだった。
佳乃はうっすらと目を開ける。
「ん…」
小さく声を漏らした佳乃に気づいたのか、青年の方が近づく気配がした。それに、目をぱちりと開く。
「起きた?具合はどうかな?」
目の前に広がっていた顔は、とんでもないイケメンだった。
亜麻色の癖毛に琥珀色|《こはくいろ》の綺麗で丸い瞳。肌はお決まりのように純白だ。
何も言わない佳乃に、青年は心配そうに眉を寄せる。
「やっぱりまだ気分が優れないよね…もう少し寝ていてもいいからね?」
ふわりと頭を撫でられ、佳乃の顔は真っ赤に染まった。これは熱中症が原因ではない。
この日この瞬間、佳乃は恋に落ちたのだ。
氷同士がぶつかる音が不明瞭だった脳内に鳴り響いた。それに、佳乃は我に帰る。
そんな彼女の目の前に、黄色く透き通る飲み物が差し出される。繊細なガラス細工が施されたカップからは、ひんやりとした冷気が立ち上っていた。
「どうぞ。蜂蜜レモン水です。熱中症にもよく効きます」
「あ、ありがとうございます…」
緊張しながらそれを受け取り、差し出し人を見ると、そこにはこれまたとんでもない美女だった。
艶やかな癖のない、腰まで伸びる黒髪に驚くほど碧く丸い瞳。肌は真珠のように真っ白だ。
じっと見つめてくる佳乃に、彼女は不思議そうに首を傾げる。
「なにか?」
「い、いえ!なんでもありません!」
会って間もない人物をじろじろ見つめるなど、失礼極まりない行為だ。気をつけなければ。
努めて平静を装い、彼女は手渡された蜂蜜レモン水を一口飲んだ。途端に口の中に爽やかなレモンの風味と、柔らかな甘味が広がった。程よく冷えており、身体中に冷たいものが隅々まで行き渡る感覚がして、ほっと息をついた。
「美味しい…」
「ふふ、それはよかった。気分はどうですか?」
美女がふわりと微笑んだ。佳乃は恥ずかしそうに顔を赤く染める。
「え、えと…今はなんともないです。すみません、迷惑かけちゃって…ありがとうございます」
「どういたしまして。けれど、気になさらないでください。具合の悪い人を放ってはおけないので。それに、私はただこの場を提供して、飲み物を用意しただけです。お礼なら、そこの方に。彼があなたをここまで運んできたので」
言いながら、彼女はすっと青年へと手を向ける。
「あっ、ありがとう、ございます。わざわざこんな暑い中、運んでもらうなんて…本当に、すみません」
心の底から申し訳なくて、佳乃は慌てて立ち上がり青年に頭を下げた。
「大丈夫。気にしないで。目の前に倒れかけてる人がいたら、助けないわけにはいかないからね」
にこにこと穏やかに笑う青年に、それでも佳乃は申し訳なさが拭いきれなかった。
「あの、何かお礼をさせてもらえませんか?」
女性と青年を交互に見て、佳乃は精一杯の思いを込めて言う。それに、二人は考えるように目を伏せる。
「…そうですね。では、急で申し訳ないけれど、明日からここで働いてもらってもいいでしょうか?ちょうど、人手が欲しかったんです。最近できたばかりの店なので…」
女性がそう言う。そこで、ようやくここが洋菓子店だということに気づいた。
オレンジ色の暖かく明るい照明に、いくつもの木枠の小窓。一箇所だけ大きな窓があり、それはスタンドガラスでできていた。猫足のアンティーク風のテーブルにはたくさんの焼き菓子。ショーケースの中には、様々な種類のケーキが宝石のようにその身を輝かせていた。
「えっと、むしろ、こんな素敵なお店で働かせていただけるならとても嬉しいです。あくまでもお礼なので、お給料、安くていいです!ていうかなしでお願いします!」
佳乃は甘いものが好きだった。そんな彼女にとって、お礼に洋菓子店で働いてくれ、という頼みは、至福でしかなかった。
嬉々として即答した佳乃に、少女は嬉しそうににっこりと笑う。
「なら、よかった」
次に、未だ悩んでいる様子の青年へと佳乃は目を向ける。
視線に気づいたようで、目が合うと少し困ったように笑った。そんな顔もかっこいい。
「本当に、お礼とかいいんだけど…きっと、それじゃ君の気持ちが収まらないんだろうね」
その言葉に、佳乃は少しバツが悪いななどとは思いながらも素直に頷く。特段悪い申し出をしているわけではないはずなので、大丈夫だろう。たぶん。
「…それじゃあ、来週の月曜日、またこの店に来るよ。君はここで働くみたいだし、なにかご馳走してくれるかな。なんでもいいから」
「わ、わかりました!頑張ります!」
敬礼するような勢いで返事をする佳乃に、青年はおかしそうにクスクスと笑った。
「う…すみません」
「ふふ、ううん。こちらこそ笑っちゃってごめんね。楽しみにしてる」
そう言うと、彼は立ち上がり女性に軽く頭を下げた。
「すみません、今日はこれで失礼します。ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。お気をつけてお帰りください」
女性がにっこりと笑っていうのを確認して、彼は佳乃に手を振りながら店を出て行った。
「えっと、これからよろしくお願いします!」
礼儀正しく腰を折った佳乃に、女性は満足げに微笑んだ。
「ええ、よろしくね。私はアリス。ここの店長よ」
「私、三鷹佳乃っていいます。高校二年生です」
若い店長さんだなぁ、ハーフさんかな?などと呑気に考えていると、アリスが先ほど佳乃に用意した蜂蜜レモン水のグラスを片し始めた。
「あ、すみません。手伝います」
「あらいいのよ。今日はまだ体調が万全ではないでしょうし、ゆっくりしていて」
柔らかく微笑まれてしまい、張り切り過ぎてしまったことに対して少し恥ずかしくなってしまった。
大人しくもう一度椅子に座り直り、改めて店内を見回す。本当に素敵なお店だ。モダンな雰囲気があるもののちゃんとおしゃれ。
思わず気分が上昇し、頬を緩ませていると、先ほど店の奥に行っていたアリスが戻ってきた。
「ふふ、気に入ってくれたようで嬉しいわ」
「はい。本当に素敵なお店ですよね。こんなお店が家の近くにできたなんて、気づきませんでした」
彼女は甘いものが好きなだけあって、近所の洋菓子店は全て把握しているつもりだったのだ。当然、このような店があればチェックしているはずなのだが。
佳乃の言葉に、アリスはそれまでとは少し違った悪戯じみた笑みを浮かべる。
「そうね…このお店は少し特殊だから」
意味深な言葉に、彼女は首を傾げる。どういうことだろうか。
その言葉の意味を聞こうとしたとき、店のドアベルが軽快な音を立てた。
「いらっしゃいませ」
店内に入ってきた人…いや、モノを見て、佳乃は目を丸くした。
入ってきたのは、大きなフクロウだったのだ。
艶やかな銀の翼と大きくて立派なクチバシ。そして、まん丸な金の瞳をしている。
「え」
まさかまだ熱中症が治っていないのだろうか。こんな幻覚を見るとは予想以上に消耗しているのかもしれない。帰ったほうがいいだろうか。試しに目を擦ってみても、それは姿を消したり変えたりしていなかった。フクロウのままだ。頭の上に疑問符を数個浮かべていると、アリスがフクロウに近づいていった。
「何を御所望でしょうか」
彼女は特段気にした様子もなく、フクロウに話しかけている。フクロウは、自分の胸元あたりにクチバシを突っ込み、中から何か紙を取り出した。それを、アリスに渡す。
彼女はお礼を言いそれを受け取ると、さらりと目を通す。
「承りました。少々お待ちください」
にっこりと笑って、アリスは再び奥に引っ込んでしまった。
その場に残された佳乃とフクロウの間に、なんとも言えない微妙な空気が流れる。
「えっと…」
これはどうすればいいのだろうか。大人しく座っていればいい?
ちらりとフクロウを見てみると、こちらをじっと見つめていた。
少し怖い。
そのまま無言で(喋られても困るが)見つめられ、佳乃の背筋は凍った。
それから少しして、フクロウが一歩、佳乃に近づく。
「ひっ…」
思わず小さく悲鳴を上げてしまい、慌てて手で口を押さえる。
フクロウはそれにピタリと動きを止めた。次に、再び自分の胸元あたりにクチバシを突っ込み、ブチっと若干痛そうな音を立てながら羽を一枚むしり取った。そしてそれを、そっと佳乃に渡した。
「え…くれるん、ですか?」
それに、フクロウはこくりとうなずいた。
「あ、ありがとうございます…」
綺麗な銀色の羽に、佳乃は嬉しくなってお礼を言う。するとフクロウは満足そうに胸を膨らませる。
結構可愛いかもしれない。
試しに勇気を振り絞って触ろうと手を伸ばしてみたら、どうぞといわんばりに自分から体を寄せてきた。
「…高級羽毛布団よりも柔らかい」
とんでもないもふもふふわふわを堪能していると、アリスが戻ってきた。
佳乃とフクロウの姿に、彼女はおかしそうに笑う。
「仲良くなったようで何より。こちらがご注文の品になります」
言いながらフクロウに見せたのは、フィナンシェと呼ばれる細長い台形の洋菓子だった。
「わぁ、美味しそう…」
思わずそう溢すと、アリスは嬉しそうに笑った。
「ふふ、ありがとう」
そして、フクロウと目を合わせる。
「こちらでよろしかったでしょうか?」
それに、フクロウは先ほどと同じようにこくりと頷く。そして、それを加えると、佳乃たちに軽く頭を下げてからドアへと体を向ける。帰るようだ。
「またのお越しをお待ちしております」
ドアを開けてやって微笑むアリスに見送られ、フクロウは飛び立っていった。
「…あの、今のって…」
「お客様よ。ここは、魔女や魔法使い、使い魔たちなどの不思議な方々専用の洋菓子店なの。普通の人間も歓迎するけどね。私も使い魔よ」
その言葉の意味を理解しようと、佳乃は固まる。
たっぷり数十秒、間を開けてから、彼女は口を開いた。
「…わかりました。頑張ります、色々と」
「ええ、改めて、これからよろしくね」
にっこりと美しく微笑むアリスに、佳乃は覚悟を決めた。
改めてお礼を言って、店を出た佳乃は再び倒れることを防ぐため、まっすぐ家に帰った。
部屋に入って、ベットにダイブする。
「あー…」
意味のない呻き声を上げてから、バッ!という効果音がつきそうな勢いで、ベッドから身を起こした。
「バイト、頑張るぞー!!ちょっと、いや、かなり変わったお店だけど!背に腹は変えられない!!」
どこまでも前向きな佳乃だった。
佳乃が帰った後、アリスは明日の仕込みをしながら上機嫌に鼻歌を歌っていた。
「ふふ、人間の女の子が働きにきてくれるなんて嬉しいわ。これから楽しみね…」
楽しげな声が、厨房に響いた。
翌朝、目を覚ました佳乃は気合を入れるために自分の頬を音を立てて叩いた。
「よっし!頑張るぞー!!」
おー!と、拳を掲げて言ってから、ベッドから起き上がりいそいそと着替えを始める。
飲食店なので髪は一つにまとめ、動きやすい服装を選んだ。なにせ、普通の洋菓子店ではないのだ。いつなんどき、何が起こるかわからない。
鏡で何かおかしなところがないかを確認してから、部屋を出る。
玄関まで行ったところで、母親である紗和が心配そうに頬に手を添えながら出てきた。
「しっかり水分補給しながらお店に向かうのよ。昨日みたいに倒れないように」
「はーい。わかってるよ。いってきます」
ひらりと軽く手を振って、家を出る。
昨日帰ってから、バイトの話をする際倒れたことを話さずにはいられなかったため、話したが。
「あー…話さないほうがよかったかなぁ。お店の秘密とかは言ってないんだから、別に全部話す必要なかったかも」
昨日の自分の行いを軽く後悔しながら、店への道をゆったりと歩いていく。
今日も今日とてやはり夏だけあって暑いが、昨日よりは風がある分マシだった。
ふわりと柔らかく吹いてくれた風に感謝しながら、気分良く微笑んだ。
店の名前は『Nota Western CUPPEDIAE』ラテン語で使い魔の洋菓子という意味らしい。
やはり普通の店ではないので不安もあるが、楽しみでもある。
これから、どんなことが起こるのか。
「ワクワクするなぁ」
雲ひとつない晴天を見上げて、佳乃は呟いた。
カランコロン、と、何度聞いても軽快で爽やかな音を響かせて、佳乃はNotaを訪れる。
「こんにちは」
少し緊張で声が硬くなってしまった。
「こんにちは」
それに、柔らかなアリスの声が返ってくる。昨日とは違い、パティシエールらしくコックコートを着ていた。
「暑かったでしょう?昨日みたいに体調を崩さないようにね」
今朝の母親と同じことを言われてしまい、少し複雑に思いながらも彼女はうなずく。佳乃としても、昨日のようなことは繰り返したくはなかった。
佳乃の神妙な様子に、アリスはおかしそうに笑ってから手に持っていた白黒のワンピースのようなものを手渡した。
「この店の制服よ。気にいるといいけど…」
軽く折り畳まれたそれを、佳乃はそっと広げてみる。
白い生地に右胸に小さな黒猫が刺繍されており、下は白黒のプリーツスカートになっていた。
「わ、かわいいです!」
「ならよかった。厨房に入る時はこのエプロンをつけてね。それ以外はつけなくて構わないわ」
手渡されたエプロンは黒地に白猫が描かれたものだった。それを受け取って、うなずく。
「あの、店長」
「アリスでいいわ」
「じゃ、じゃあ、アリスさん。私はなにをすればいいですか?」
もっともな質問に、アリスは小さくうなずいた。
「あなたには主に店番とラッピング、店内・店の周りの軽い清掃を頼みたいの。慣れてきたらイートンインスペースを解放して、接客も頼みたいと思っているわ。やることが多いけれど、大丈夫?」
予想以上に多い仕事量になりそうなのには少し驚いたが、この店のバイトは元はと言えば助けてくれたお礼なのだ。問題はない。
「はい!大丈夫です。バイトは初めてなので、至らないところはあると思いますが、がんばります」
その言葉にうなずいてから、アリスは店の奥、厨房とは違うドアを指差す。
「じゃあ、そこの部屋で着替えてきて。着替え終わったら厨房に入ってきて。私はそこにいるから」
「わかりました」
佳乃は、言われた通りその部屋に入っていった。
「…すごい、ちょっと怖いくらいサイズがぴったり」
先ほど手渡された制服を着てみると、驚くほどに体の大きさとマッチしていた。
「やっぱり使い魔だからかな…」
なんとなく納得できるような、できないような。そもそも使い魔とはどういうものなのだろうか。魔女の部下?
「聞いてみよう」
自分で考えていても埒があかないので、こういう時は本人に聞くのが一番である。
部屋を出て、言われた通りエプロンをつけてから厨房へ入った。
アリスは、何か白い生地をこねている最中だった。あれはなんだろう。
佳乃が入ってきたのに気づいたようで、彼女は顔をあげる。
「着替え終わったのね。サイズはどう?」
「ぴったりです。少し怖いくらいに」
「ふふ、ならよかった」
素直な感想に、アリスはおかしそうに笑いながら、その生地を冷蔵庫の中へとそっと入れた。
「あの、それ何の生地ですか?」
「パイ生地よ。チェリーパイの注文が入っているから、仕込みをしていたの。受け取りは明日。今からフィリングを煮詰めるけれど、見学する?」
パイ生地、という単語を聞いたところで目を輝かせた佳乃に、アリスはにっこりと笑った。それに、彼女は大きくうなずく。
「ぜひ!」
それを受けて、アリスは生地を入れた冷蔵庫とは別の冷蔵庫を開け、そこから真っ赤なさくらんぼを取り出した。まるでとれたてのように艶やかだ。そのまま食べても美味しいだろう。
それを軽く水で洗い流し、へたを手際よく外していく。
なんだかただ見学しているのも悪い気がしてきて、佳乃は口を開いた。
「あの、何か手伝えることはありますか?」
「そうね、じゃあグラニュー糖を計っておいてくれる?量はそこの紙に書いてあるわ」
まるで佳乃が手伝いを申し出るのをわかっていたかのような指示と用意周到さに、またまた目を瞬かせる。
なんでもお見通しだ。
ぼうっとしているわけにもいかないので、言われたように紙を見てグラニュー糖を計っていく。
その間に、アリスはへたを外し終えたさくらんぼを鍋に入れ、水を注いでいた。
「計り終わりました」
「ありがとう」
差し出されたそれを受け取り、さらさらと心地よい音を立ててさくらんぼの入った鍋へとグラニュー糖をいれていく。
軽く鍋を揺すってから、火をつけて弱火にする。
少しして、甘い香りが鍋から漂ってきた。匂いだけで味が想像できそうだ。
しばらくして煮詰め終わったようで、アリスが火を止める。予め用意していたバットの中にフィリングを入れ、ケーキクーラーの上に乗せた。
「あとは粗熱をとって、冷蔵庫で冷やして完成よ」
「わぁ、楽しみですね!どんなお客さんなんですか?」
「魔女よ。私の主の友人なの」
「おぉ…すごい。あ、もしかして昨日オーナーは別にいる、って店長言ってましたけど、それが店長のご主人様ですか?」
目を輝かせる佳乃に、彼女はうなずく。
「あまり店には顔を出さないの。そのうちきたら紹介するわね」
結構適当な扱いなので、それでいいのかと若干心配になってしまうが、本人がいいと言っているならいいのだろう。
「わかりました。楽しみにしてますね」
「ええ。さてと、それじゃあ、細かい仕事内容について説明するわね。ついてきて」
軽く使った鍋や台を片してから、アリスは厨房を出る。それに、佳乃は慌てて後を追った。
仕事内容を全て教わり、ちょうど正午に差し掛かったので、昼食を取ろうということになった。
「あの、昨日言われたように私なにも持ってきてないのですが…」
「大丈夫よ。今から私がまかないをつくるわ」
「ありがとうございます。じゃあ、手伝いますね!」
元気よく言った佳乃に笑ってうなずいて、再び二人は厨房に入る。
二人で作ったまかないを店内の奥、いわば休憩室のようなところで食べ始める。
「そういえば、昨日の彼に作るお菓子の話だけれど。何を作るのかはもう決めたの?」
アリスの問いかけに、佳乃はわかりやすくギクリと体を硬直させた。
「それが…まだ決めてないんです。一応時間はあるので焦らなくてもいいとは思うんですけど…」
それにうなずいて、アリスは首を傾げる。
「あなた、お菓子作りは得意なの?」
佳乃は、微妙な顔をした。そして、軽くため息をつく。
「得意か不得意かで聞かれると、あんまり。基本的には食べる専門ですね!」
堂々と言ってのけた佳乃に笑いながら、彼女は提案がある、とでもいうように人差し指をピンと立てた。
「なら、クッキーはどうかしら?」
「クッキー、ですか」
虚をつかれたように目を瞬かせる佳乃にうなずいて、佳乃は立ち上がり一冊のノートを取り出す。
それを佳乃に開いて見せてくれた。開かれたページには「基本の型抜きクッキーの作り方」というタイトルと共に、可愛らしい形をしたクッキーのイラストが描かれていた。
「わぁ、可愛いですね。それに意外と簡単そうです」
軽くレシピに目を通しても、工程はあまり多くないように見える。これならほぼ初心者である佳乃にも作れそうだ。
「そうでしょう。意外と簡単なのよ。それに、いろんな形にできるから自分の気持ちを伝えるのにもいいのよ。ほら、このハート型とか」
ハート型にくりぬかれたクッキーのイラストを指差して、アリスは悪戯っぽく微笑む。それに、佳乃はうっ、と恥ずかしそうに目を逸らした。
「…バレました?」
「まぁ、あんなにかっこいい子に助けてもらったら、好きになるのは仕方ないもの。わかるわよ。顔も真っ赤だったしね」
くすくすと、おかしそうに笑われてしまい佳乃は恥ずかしさで消えてしまいと思ったが、バレてしまったら背に腹は変えられない。
「もうこの際なので開き直りますが、あの人のこと好きなんです。でも、その、やっぱりまだハート型とかはちょっと、ハードルが高いというか…」
ごにょごにょと言葉を濁すと、アリスは考えるように頰に手を添える。
「そうね…じゃあ、他にもいろんな形で作ってみて、いくつかハート型を紛れ込ませれば変に思われないんじゃないかしら」
それは妙案だ。
「そうします!」
「じゃあ、せっかくだし一緒に作りましょうか。初めて作るのよね?」
その言葉に、佳乃はうなずきながらも首を傾げる。
「でも、いいんですか?私がここにバイトさせてもらってるのも、お詫びなんですが…」
なんだかかえってこちらが色々してもらっている気がしてならない。
不安そうに眉を寄せる佳乃に、彼女は柔らかく笑った。
「大丈夫よ。人手が足りなかったのは事実だから、あなたがきてくれて助かってるわ。それに、忙しくなるのはこれからよ」
たしかに、通常の洋菓子店のピークはお昼を過ぎたあとから夕方にかけてだと記憶している。
まぁ、佳乃としてはお礼になっているならいいのだが。
いまいち釈然しないままだが、断る理由は思いつかなかったのでその申し出をありがたく受けることにする。
「じゃあ、お言葉に甘えて。バシバシ鍛えてもらっていいです!」
ぐっと拳を握りしめて気合を入れたところで、ドアの向こうから耳になじみ始めたあの軽快な音が響く。
「お客様がいらっしゃったみたいね」
言いながら立ち上がるアリスに、佳乃も立ち上がる。
さぁ、クッキー作りの前に働かなければ。
夕方、最後の客が帰ったあと、佳乃は予想以上に疲労していた。
「洋菓子店の店員」というのは、笑顔で可愛く、お客様と楽しくお喋りをする、というイメージが強かったのだが、実際にやってみるとなかなかにハードだったのだ。まぁ、もちろんここが普通のお店でないことも理由の一つだが。
客の中には使い魔らしき動物も多かったので、それらが落としていく羽毛やらなんやらを全て掃除し、聞いたことのない洋菓子を聞かされそれを探し、まだ覚え立てで時間をかけながらも精一杯ラッピングをし…などなど。店内は冷房が効いているとはいえ、汗が首筋を流れた。
「つ、疲れた…」
すでに何もなくなったショーケースの上に突っ伏し、佳乃はうなだれる。
「お疲れ様」
店のドアに「close」の看板をかけてきたアリスが、苦笑まじりにねぎらってきた。そして、その足のまま厨房に入ったかと思ったら、なにか赤く透き通る飲み物が入ったグラスを手に戻ってきた。
「どうぞ。さっき手が空いた時作っておいたの。よく冷えているから今のあなたにはぴったりよ」
見るからに美味しそうに輝くそのドリンクを、佳乃は一口口に含む。
口いっぱいに広がるチェリーの香りと程よい酸味と甘み。すこしだけ柑橘系のなにかが入れてあるのか、後味がとても爽やかだった。思わず一気に飲み干していく。
「これ、すっごく美味しいです!もしかして、さっき作ったチェリーのフィリングででたシロップですか?」
「ええ。それを冷水で割って、すこしだけライムを絞り入れたの。気に入ってもらえたならよかったわ」
汗水を流して働いた後に、こんな爽やかなドリンクを飲んで気に入らない人間なんていない。
感動しながら、佳乃はアリスの言葉にうなずく。
「アリスさんって、なんでも作れますよね。プロなのはわかってるんですけど、心からすごいと思います」
しみじみとカラになったグラスを見つめながら言う佳乃に、彼女はふわりと柔らかく笑った。
「それはありがとう。私はこう見えて、やっぱり人よりは長く生きているから、その分たくさんのお菓子やドリンクの作り方を研究してきているから、そう言われると嬉しいわ」
そうか。あまりにも普通の人と変わらなかったので、すっかり忘れていた。そういえば、彼女は使い魔なのだった。
「アリスさんは、なんの使い魔なんですか?」
なんだか言い回しがおかしくなってしまったような気がするが、他にいい言い方が思いつかなかった。仕方ない。きっと伝わるだろう。
「私は猫よ。ちょうど、その制服に刺繍されているような黒猫ね。今は無理だけれど、そのうち見る機会があると思うわ」
魔女に黒猫。まさに御伽噺によくあるような、某ジブリ作品のような定番の組み合わせだ。なんだか感動してしまう。
「楽しみにしてますね!」
急に瞳をきらきらと輝かせた佳乃に、アリスは少し不思議そうに首を傾げる。
「ええ。それで、今日からクッキー作りの練習をしていきたいと思っているのだけど、大丈夫?」
「あ、はい!大丈夫です。今のドリンクで疲れが吹っ飛びました。さすがですね」
「ふふ、あれには特になんのおまじないもかけていなかったから普通のドリンクなのだけど。それならよかったわ」
言いながら、彼女は厨房に入っていく。入りかけたところで、後ろをついてきていた佳乃を、何かを思い出したように振り返る。
「ごめんなさい、いま嘘をついたわ」
その言葉に、佳乃は虚をつかれたような顔をする。どれが嘘だったのだろうか。
「なんのおまじないもかけていない、と言ったけれど、あなたが元気になるようにという気持ちは込めたわ」
悪戯っぽく笑って、今度こそアリスは厨房に入っていく。佳乃は、そんな可愛らしい店長にくすりと笑みをこぼした。
家に帰る道のりで、佳乃はアリスのギャップに打ちひしがれて、とぼとぼと歩いていた。
結論から言って、彼女はとんでもないほどのスパルタだったのだ。
初心者だというのを伝えていたとは思うのだが、少しでも間違えれば綺麗な笑顔で。
「それは違うでしょう?同じ間違えをしているわよ。ほらもう一度最初から」
と、レシピ本をわざわざ佳乃の顔の目の前につき出し言うのだ。そして途中まで進んでいても最初からやり直し。
かれこれ4回ほどやり直し、ようやく成功したので、解放されたのだ。あたりはすっかりと薄暗くなっている。
今は真夏なので一年で最も日が長い時期のはずだ。なのに薄暗いと言うことは、7時は過ぎているだろう。
「…今日、家に帰ったら練習しよう…またアリスさんにスパルタ指導を受けるわけにはいかない…」
軽くトラウマになっているあの綺麗な笑顔を思い出し、佳乃は身を震わせた。美人の怒った顔は怖いものだ。
不意に、上から影がかかった。
「…?」
周囲が薄暗いのはわかるが、その影はなんの前触れもなく、しかも、佳乃の真上にのみ出てきたのだ。まるで逆のスポットライトのように。
首を傾げ上を見上げてみると、なんと昨日の巨大フクロウが。
「わ…!昨日のお客様!」
慌てて、フクロウに向けてペコリとお辞儀をする。
フクロウはそれに応えるように彼女の真上を一周ぐるりと飛んだ。そして、バサリと大きな音を立てて佳乃の目の前に降り立つ。
『こんばんは、人間の娘よ』
「こ…こんばんは…」
言葉が通じるのか。中性的な声なので、オスなのかメスなのかはわからない。
内心でひどく驚きながら、とりあえず挨拶を返す。
『アリスから聞いた。貴女はNotaで働くことになったんだろう?近いうち、私の主人があの店を訪れる。その時は紹介させてくれ』
綺麗な金の瞳に見つめられて、佳乃は興奮気味にうなずく。
「はい!楽しみにしています。わざわざありがとうございます」
もう一度ぺこりと腰を折ると、フクロウがおかしそうに笑った。
『ふふっ、貴女は使い魔の私にも礼儀を払ってくれる。変わった人の子だ』
「そ、そうでしょうか…?」
どう答えればいいかがわからず困惑していると、フクロウが首を傾げる。やはりフクロウだけあって首がよく曲がる。
『人の子…ましてや娘がこの時間に一人で出歩くのは少しばかり心配だ。私が貴女の家まで乗せて行こう。さぁ、私の背に乗るといい』
そう言って、己の背を向けて身を低くして見せるフクロウに、佳乃は慌てて首を横に振った。
「そ、そんな!お客様にそのようなことをしてもらうわけにはいきません。私は大丈夫ですので!!」
もちろん、あの高級羽毛布団以上の柔らかさ、もふもふさをもう一度、いや、昨日以上に堪能できるというのはとても魅力的なのだが、さすがに今の自分の立場上それはだめだろう。
佳乃の答えに、フクロウはふふん、と胸を膨らませる。
『遠慮をすることはない。私は貴女を気に入っている。貴女さえ良ければ、友人になりたいと思っているのだ。友人としてならば、私の背に乗ってもいいだろう?貴女ともっと、話をしたいんだ』
柔らかく心地よい声に、佳乃はうっと言葉を詰まらせる。流石にここまで言われて断るわけにはいかない。
「わかりました…そういうことなら」
そう言って、そっとフクロウの背に乗る。触り心地は胸毛よりは硬いように感じられるが、やはり高級羽毛布団に劣らない柔らかさともふもふさを持っていた。
「はぁぁ…すごい癒し…」
思わずしがみ付いてしまって、慌てて慌てて体を離す。
「ご、ごめんなさい!つい」
『構わないよ。しっかり捕まっていなければ、振り落とされてしまうからむしろ先ほどよりも強く捕まっていてくれ』
そう言われて、若干の申し訳なさを感じながらも痛みを感じないように慎重になりながら、彼女はフクロウの羽毛を握りしめる。
それを感じ取ったのか、フクロウは体制を整え、羽を大きく広げた。
風がふわりと舞う。体を、重力に抗う感覚が襲った。
徐々に地面が遠く離れていく。あっという間に地面が見えなくなって、そっと下を覗いてみると点々と灯る家の灯りが目に映った。
「わぁ…すごい、私、初めて空を飛びました」
普通に考えてみれば、当たり前のことなのだろうけど。
すっかりと姿を消して、けれど、わずかに面影を残す夕日の茜色の空を見ながら、そう呟く。
『そうか。喜んでもらえたならよかった。人間には、空高い場所が苦手な者もいると聞いたので、少し心配だったのだ』
高所恐怖症の人のことだろう。このフクロウ、および他の使い魔たちは、果たしてどのように自分たち人間のことを知っているのだろうか。
まだまだ、知らないことばかりだ。
「そういえば、お客様にはお名前はありますか?私は佳乃です」
『私はオウクリウム。金の瞳という意味だ。他からはリウムと呼ばれている。ヨシノも、そう呼んでくれて構わない』
「わぁ、素敵な名前ですね」
リウムは、それに羽を大きく動かして応える。きっと喜んでいるのだろう。
『ヨシノ、貴女の家はどちらだ?』
問われて、佳乃はそっと下を見下ろす。すこしだけ怖いと思ったが、それ以上に景色の良さとはじめての経験による気持ちの方が上回っていたので、落ち着いて自宅を探すことができた。
少しの間見下ろしていると、やがて見慣れた家の外観がぼんやりと見つけられたので、それを指差す。
「あれです」
『ふむ。ならば近いな。少し、遠回りをしようか』
楽しげな声に、佳乃は元気よく返事をした。
返答を受け、リウムはそのままぐるりと方向転換する。すでに日が落ちたことにより、心地よい風が吹く。
上を見上げてみると、ちょうどリウムの瞳のようなまん丸で、綺麗な金色に輝く満月が雲に隠れながらも顔を出す。
「わ、今日の月、リウムさんの目みたいですね!」
『あぁ、そうだね。今日は満月だ。私の主人や、アリスの主人の魔力が高まる日でもある。もちろん、使い魔である私たちもその恩恵を受けているけどね』
佳乃からすれば摩訶不思議な世界の話に、胸を高鳴らせる。
「やっぱり、魔女や魔法使いたちにとっては満月は特別なんですね。よく御伽噺とか本の中ではそうですから」
『ふむ。人間界にも私たちのことは正しく伝わっているようだね。喜ばしいことだ』
また少し、上に高く飛んでから。
『…ヨシノは、昔私たちのようなものたちと貴女たち人間が、共に支え合って暮らしていたことを知っている?』
「え?」
それは初耳だ。
彼女の反応に、リウムは目を細める。
『随分と前の話だよ。訳あって、決別してしまったけど。魔女や魔法使いたちの中には、人間との共存を願っているものもいるんだ』
「そうなんですか…」
『今、その話の中心にあるのがNotaなんだ』
唐突にでた現在のバイト先の名前に、佳乃は目を瞬かせる。一体、どういうことだろう。
その反応に、リウムは苦笑したようだった。
『きっと、アリスは面倒がって貴女に説明していないだろうから私から説明してしまうね。先月、サバト…魔女や魔法使いたちの会合のようなものが開かれて、今話した人間との共存を望む魔女たちがそれを実行するかどうかを議論にかけた。だが、当然それに反対するものもいる。そこで、魔女や魔法使いたちを統べる長が、アリスの主人である魔女、ノエルに命じたんだよ「人間界にてなんらかの関わりを持ち、共存しても構わないか否かを見定めろ」と』
まだ会ったこともない自分のバイト先のオーナーの話に、ごくりと生唾を飲む。ノエルという名前なのか。
『ノエルは希代の大魔女だ。魔女としての実力も知力も申し分ない。彼女が判定役というのに、誰も異論を唱えなかった。なにより、ノエルはこの議論に対して、中立の立場だったからね』
つまり、ノエルはどちらでもないということだ。もしかしたら人間があまり好きではないのかもしれない。
『そして、ノエルは店を作った。それがNota Western CUPPEDIAEだよ。ただ、彼女自身はなんの店でも良かったらしくて、アリスが申し出て洋菓子店にしたらしい。彼女は昔から、洋菓子を作るのが得意だったからね。それで、ノエルはズボラな性格だから、面倒がって、今はほとんどアリスが店を経営しているという状態なのさ』
自分のバイト先のまだ会ったことのないオーナーの話を聞き、若干呆れてしまう佳乃である。だが、あのアリスの主人で、しかも現役?の魔女なのだ。美人であることは間違い無いだろう。
などという少しズレたことを考えていると、返事がないのを不思議に思ったのか、リウムが軽く首を動かした。
『ヨシノ?』
「あ、ごめんなさい。ちょっとオーナー…ノエルさんてどんな魔女さんなのかな、って思って」
それに、なるほどというようにリウムは目を細める。
『そうだな…彼女は、なんというか…一言で、ガサツな女性、とでも言おうか。面倒がり屋で、色んなことにズボラだ』
結構な言われように、佳乃は困ったように笑う。
『だが、魔女としての腕は確かだし、性格も情に厚くて優しい。安心してあの店で働くといい。アリスも、君が働くことを喜んでいるようだしね』
ふふふ、と安心させるように柔らかい声音で言ってくれたリウムに、佳乃は大きくうなずいた。
無事に家まで送り届けてもらって、佳乃はようやく夕飯にありついた。
「あぁ…働いた後のご飯最高!」
幸せを噛み締めるように呟いた娘に、紗和はおかしそうに笑った。
「随分と遅いから心配したけど、やりがいのある仕事をしてきたのね」
「うん!洋菓子店で働くのって、大変なんだねぇ。これからもがんばらなきゃ」
しみじみとお茶碗を片手に言う佳乃に、紗和は肩を竦める。
「あら、大変なのは洋菓子店だけじゃないのよ。他のお仕事だってうんと大変なんだから。大変じゃないお仕事はお仕事とは言わないわ」
なんとも説得力のある母の言葉に、彼女はなるほどと相槌を打つ。現に、父である佳彦は毎晩遅くまで働いて帰ってくるのだ。働く大人はかっこいい、という言葉を何度か耳にしたことはあったが、いざ自分が働く立場になるとその言葉の意味を痛感することができた。
「…お父さんに感謝しなきゃね」
「そうよ〜。今佳乃が食べているご飯だって、お父さんが一生懸命働いてくれるおかげで食べられてるんだからね!」
紗和の言葉に、佳乃はご飯を丁寧に食べ進めた。
佳乃を自宅まで送り届け、主人の元へ戻ってきたリウムは、フクロウ特有のよく回る首をくるくると動かす。いるはずの主人の姿が見えないのだ。
「こっちだよ、リウム」
ふと、上から声が聞こえてきた。
見上げると、青々としげる木の上にはお目当ての主人、アルバがいた。
一つに緩くまとめた癖のある黒髪が、吹いた風になびいた。
特徴のある赤い目を細めて、アルバは腕を上げ優しく笑う。
「おいで?」
そんな主人の様子に少し呆れながら、リウムは体を縮める。通常のフクロウと同じ大きさになった。
そのままバサバサと音を立てて、リウムはアルバの上げられた腕に乗る。
『アルバ様、アリスの作ったフィナンシェはどうでした?』
「うん、とっても美味しかったよ。彼女は器用だね。僕はああいうの、作れないから。ノエルが羨ましい」
ふふ、と穏やかに笑って、月を見上げる。
「今日は満月だ。君の瞳と同じ色だね」
そのまま満月に意識を集中させてしまったので、リウムは呆れたように胸を膨らませる。
『アルバ様』
一拍置いて、彼はゆっくりとリウムを見る。
「なぁに?」
『Notaに人間の娘が働くことになったのは、昨日お伝えしましたよね?』
それに、ゆっくりとうなずく。
『その娘、ヨシノというのですが、とてもいい娘です。興味があれば今度一度、店に行ってみればよろしいかと』
「へぇ〜。じゃあさっきまで、リウムはその子と一緒にいたの?」
人間の匂いがついてる、というアルバに、今度はリウムがうなずいた。
「そっか。じゃあ、気が向いたらいくね。美味しいフィナンシェのお礼もしたいし」
のんびりという主人にうなずいて、リウムも月を見上げる。
もしかしたら、彼女ならば人間との共存に批判的な魔女や魔法使いたちの気を変えられるかもしれないな、と先ほど別れた人間の少女を想った。
佳乃は、お風呂あがりに台所に立っていた。
「よし、やるぞ!」
やる、というのはクッキー作りだ。今日アリスの教わったコツやらなんやらを、復習しておくのだ。
なにしろ、初恋の相手に渡すクッキーだ。あのスパルタ店長アリスにも追いついていかなければ。
気合を入れ直したところで、紗和がひょこりと顔を出す。
「随分気合入ってるじゃない。なにするの?」
「クッキー作るの」
娘の返答に、彼女は首を傾げる。
「なんでまた。今まであんまりお菓子作りなんてしたことなかったのに」
「色々あるの。お母さんはあっちいってて!」
強引に台所から押し出され、紗和は心の中で思った。
(これは好きな人でもできたな)
と。
まさか母親にバレているとはつゆほども思わず、佳乃はアリスに教わったコツやらなんやらを思い出しながら、クッキー作りに励んだ。
朝、佳乃は目を覚まして着替えてから、昨夜作ったクッキーを軽くラッピングして家を出た。アリスに食べてもらって、感想を聞こうと思っているのだ。
けちょんけちょんに言われたらどうしよう、と少し思ったが、一応自分の中では頑張った。大丈夫なはずだ。たぶん。
などと考えながらそろそろ慣れてきたNotaへの道のりを歩いていく。今日も今日とて、快晴で暑い。
「はぁ〜、なんで夏って暑いんだろうなぁ」
呟いて、空を見上げる。当然、太陽が元気よく輝いていた。なんだかだんだん憎らしくなってきた気がする。
首が疲れて元に戻し、むむ、と眉間にシワを寄せていると、一匹の黒猫が佳乃の目の前に飛び出してきた。
「わ!」
艶々とした黒い毛並みにまん丸な碧い瞳。なんだか、どこかでみたことがあるような。
「ア…アリスさん…?」
恐る恐るというように首を傾げてみると、黒猫はまるで「正解」とでもいうようにニャーンと一鳴き。
この時、佳乃は改めてアリスが使い魔だということを自覚した。
黒猫、もとい、アリスと共にNotaを訪れると、冷房の効いた涼しい空間に一気に気が抜ける。
「あー、涼しい」
「ふふ、外はとても暑かったからね。私も肉球が火傷しないか心配になったわ」
歩いているうちに慣れたけど、と付け加える下から聞こえるアリスの声に、佳乃はん?と自分の耳を疑った。
「え、アリスさんその状態で話せるんですか?」
「ええ。さっきは外で、誰がみているかわからなかったから普通の猫のフリをしたの。あなたがすぐに私だって気付いてくれて助かったわ」
音を立てずに彼女の目線に合わせるように机の上に上がって、アリスは目を細める。
「いや、なんか…なんとなく、アリスさんに似てるなぁ、この猫って思っただけだったんですが。目の色とか」
自分を見つめてくる深い碧い瞳を見つめ返して、本当に綺麗だななどと呑気に考える。
「なんか、本当に使い魔なんですね、アリスさん」
しみじみという佳乃に、彼女は器用に前足を自分の口元へ持っていく。
「何度も言ってきていたのに信じていなかったの?」
「いや…信じてはいたんですよ?リウムさんのこともあるし…ただ、なんか、アリスさん普通の人間みたいだから」
それにうなずいて、アリスは少し笑ったようだった。
「人になるのがうまいということは嬉しいわ。最初のころはあんまりうまくいかなかったから。それにしても、リウムというのはオウクリウムのことよね。随分仲が良くなったのね?お店に来た時、自己紹介をしていたかしら?」
首を傾げるアリスに、佳乃は緩く首を振る。
「実は、昨日バイトの帰り道にリウムさんが私のところまで来てくれて。それで家まで送ってもらったんです。その時自己紹介をしました」
それにうなずいて、アリスは一つ瞬きをする。すると、見慣れた人の姿をしたアリスが吉野の目の前に立っていた。
「オウクリウムは人が好きだから、きっとあなたのことが気に入ったのね。これからも仲良くしてくれたら私も嬉しいわ」
にっこりと笑うアリスに、佳乃は大きくうなずく。それはこちらも同じだ。
「あ、あと、リウムさんがこのお店がなんのためにあるのかとかも聞きました。私、本当にそんなすごいことに関わっていいんでしょうか?」
首を傾げる佳乃に、アリスはうなずく。
「大丈夫よ。むしろあなたのような子がこの店にいてくれれば助かるわ」
「ならよかったです」
あくまでもこの店に働くのはお礼のためだ。邪魔になっていては意味がない。
「あ、それと、今度リウムさんの主人さんもこのお店に来るそうですよ」
「あらそう。じゃあ、ノエルにも伝えておきましょう」
少し驚いたような反応に、リウムの主人のことを考えてみる。果たしてどんな人なのだろうか。あのリウムの主人だ。きっといい魔女か魔法使いなのだろう。
「アリスさんは、ノエルさんのことを呼び捨てなんですね」
「そうね。最初はちゃんと様をつけて呼んでいたのだけど、本人が嫌がって」
当時を思い出したのか、苦笑するアリスに、昨日のリアムが言っていたノエルの特徴は間違っていないのだな、と勝手に再認識する。
そこで、佳乃は包んできたクッキーの存在を思い出す。まだ開店するには早い時間だ。渡すなら今だろう。
「あの、昨日家で1人で作ってみたんです。よかったらもらってもらえません?」
バックからそれを取り出し、緊張気味に手渡す。アリスはそれを笑顔で受け取った。
「見た目も綺麗に焼けているわね。美味しそう。早速一枚いただくわ」
サクッ、といい音を立てて咀嚼していく。
「うん、とても美味しくできてるわ。これなら人にあげても文句なしね」
「ほんとですか!?やったぁ!」
「頑張るのよ。可愛い女の子に手作りクッキーなんてもらって嬉しくない男の子なんていないもの。きっとうまくいくわ」
その言葉に、佳乃は大きく頷く。
「頑張ります!」
まだ名前も知らないあの青年の顔を思い浮かべ、佳乃は再度覚悟を決めた。
その日の夕方、もう閉店の時間だという時に、とびきり美人な女性が入ってきた。
毛先の方だけ癖のついた、背中まで伸びる美しい艶のある銀髪に、薄い水色の瞳。肌はまさに珠のように白い。長い睫毛が影を作っている。黄色いレースの半袖に、白いシフォンのスカートという装いで、とても涼しげだ。
佳乃は、その女性の来店に思わず息を呑んだ。
「…い、いらっしゃいませ!」
なんとかそれだけ絞り出して、彼女は固まる。アリスやあの青年といい、最近自分の周りには美形が揃ってきている気がしてならない。心臓が持ちそうにないな。
「貴女が佳乃ちゃん?」
にっこりと笑って首を傾げ、名前を呼ばれた佳乃は、かろうじて首を縦に動かした。
「なるほど。確かに可愛い子だね。アリスはいる?」
「え、えっと、今倉庫のほうに行っていて…。すぐに戻ってくると思います」
アリスの知り合いなのか。ということは、魔女か使い魔だろう。それにしても、美人だ。アリスももちろん美人だが、彼女はそれとはまた違う意味での美しさがある。
「ここでの仕事はどう?楽しい?」
不意に美女が聞いてきた。自然と背筋がピンと伸びる。
「は、はい!大変ではありますけど、楽しいです」
明らかに緊張している様子の佳乃に、女性はおかしそうに笑った。
「そんなに緊張しなくていいよ。私が怖い?」
「違います!怖いとかじゃなくて、その、すごく美人でびっくりして…」
「あはは!ありがとう」
大人しそうな見た目とは裏腹に、なんとも明るい性格をしている。
裏口のドアが開閉する音が聞こえた。アリスが戻ってきたようだ。
「あ、戻ってきたみたいだね」
その言葉から間を開けずに、厨房からアリスが出てきた。女性の姿を認めて、少し驚いたように目を丸める。
「珍しいわね、ノエル。なにかあったの?あなたがこの店に来るなんて」
「え!?」
「えー、ひどいい草だなぁ。一応ここのオーナーなんだから、用事がなくてもきてもおかしくないでしょ」
「えぇ!?」
2人の顔を交互に見合わせて、佳乃ほ困惑する。アリスは軽くため息をついた。
「…紹介するわ。この店のオーナーのノエルよ」
「は、はじめまして。三鷹佳乃です」
「はじめまして、ノエルです。Nota Western CUPPEDIAEで働いてくれてありがとう」
とてもいい発音・笑顔で手を差し出され、佳乃は困惑気味にその手をそっと握る。
「私とアリスの正体は知ってるんだよね?」
それに、うなずく。ノエルは、満足げに笑った。
「ならよかった。アリスのことだからちゃんと説明してないんじゃないかと思ったんだ。この店のことも知ってるよね?」
「はい。昨日、リウムさんから教わりました」
彼女の言葉に、ノエルは軽く目を丸めた。
「リウムって、オウクリウムのことだよね。アルバのところの」
「アルバ…?」
「オウクリウムの主人のことよ。魔法使いなの」
アリスが答えて、佳乃はなるほどとうなずく。そして、ノエルの問いかけにうなずいた。
「へぇー、仲良くなったんだ。よかったね!」
にこにこと笑うノエルに、佳乃はなんとも言えない劣等感を感じてしまった。
どうしてこうも美人なのだろうか。目が焼ける。
むむ、と眉間にシワを寄せていると、ノエルが偶然にもアリスが手に持っていた佳乃の手作りクッキーを目に留めた。
「それ、アリスが作ったの?」
「違うわ。これは佳乃が作ったもの。彼女、初恋の人にこれをあげる予定なのよ」
「わー!アリスさん!!」
会ってまもない人物(?)にそんなことを言われてしまえば、恥ずかしい以外のなにものでもない。
顔を赤くして、あっけなく暴露してくれたアリスに抗議の目を向けたが、軽くスルーされてしまった。
「それは素敵だね!うまくいくように、私が軽くおまじないをかけてあげよう」
「わぁ、本物の魔女がかけるおまじないって本当に効きそうでなんか怖いですね…」
ワクワク半分、恐ろしさ半分といった感じだ。だが、仮におまじないのかかったクッキーで両思いなれたとしても、嬉しくない。
そんな佳乃の考えを読み取ったのか、ノエルが安心させるようにぐっと親指を立てた。美人にはいささか似合わない行動である。
「大丈夫。おまじないといっても、本格的なものじゃないから。気休め程度のものだよ。安心して。こと恋愛ごとにおいて、相手の気持ちを勝ち取るのは自分でやらなきゃね!」
そんなノエルに、佳乃は儚げな見た目とは違い中身は随分とサバサバしているな、と変に感心してしまった。
「は、はい!頑張ります!」
とりあえず応援されていることには違いないので、彼女自身もまた拳を握りしめる。
そんな2人に、アリスは少し呆れたようにため息をついてから、ノエルにクッキーを差し出す。
「よかったら、ノエルも食べてみれば?なかなかおいしいわよ」
「あ、いいの?」
ちらりと一瞥されたので、佳乃は無言でうなずく。
「じゃあ、いただきます」
サクサクと咀嚼音が聞こえる。やはり、自分の作ったものを人に食べてもらうのはなかなかに緊張するものだ。
アリスは、ノエルがクッキーを食べ始めた時点で店のドアに「close」の看板を出しに行っていてこの場にいない。
クッキーを飲み込むまでの時間は、きっとそれほど長くはなく、かかっていたとしても数十秒。
アリスが食べているときとはまた違う、この店のオーナーであり、大魔女であるノエルに手作りクッキーを食べてもらっていると事実に、得体の知れない緊張感を佳乃は味わっていた。
「うん、とっても美味しかったよ。ごちそうさま。これならきっと、その初恋の彼の心も鷲掴みだ!」
にっこりと満面の笑みでそう言ってもらえただけで、佳乃にとっては充分すぎるくらい強いおまじないだ。
「ありがとうございます!当日は絶対緊張すると思うんですけど、ちゃんと渡しますね!!」
改めて気合を入れ直している佳乃をうんうんとうなずきながら見ていると、アリスが戻ってきた。
「よかったわね、無事にノエルにもお墨付きを貰えたようで。これでもう心配はいらないわ」
「はい!あとは肝心のあの人に渡すときのクッキーを失敗しないようにすることだけですね」
佳乃は、そう言ってこれから当日までの数日の夜を、クッキー作りに費やすことを決めた。
当日。佳乃は、やはり緊張していた。
彼はちゃんときてくれるだろうか。クッキーは他人からしても美味しくできているだろうか。ラッピングはおかしくないか。などなど、要らぬ心配事まで出てきてしまい、それが頭の中でぐるぐると回っている。悪循環だ。
もはや目までぐるぐるしている様子の佳乃に、それを見ていたアリスが苦笑まじりにため息をついた。
「緊張しすぎよ。今日は別に告白するわけでもないんだから、クッキーをお礼として、渡すんでしょう?」
「そうなんですけど…こんなの初めてなので、緊張はします…」
もしも佳乃に耳がついていたらそれは今、しょんぼりと垂れ下がっているだろう。
と、そんな時、店の扉が勢いよく開いた。心なしか、いつもは軽やかになるドアベルも騒々しく聞こえる。
「佳乃ちゃん!おまじないかけにきたよ!」
「え!?」
言いながら入ってきたのは、ほかでもないノエルだった。
「あれって、本気だったんですか?あれからお店にいらっしゃらないので、てっきり冗談なのかと」
サラリと心にグサリと刺さることを言われてしまい、ノエルは少し苦笑した。これからはちゃんと定期的に店に顔を出すことにしよう。
「本気の本気だよ。可愛いバイトちゃんためなら火の中水の中、なんちゃって」
パチンと切れ長目をウィンクさせて、宣言したオーナーになんだか徐々に緊張が解けてきた。もしかしたら、すでにおまじないをかけられているのかも知れない。
「ノエルさんはいい人…あ、人じゃない、魔女さんですね」
おかしそうに笑いながら言われてしまって、ノエルは軽く目を丸めた。
「そんなこと初めて言われたよ。佳乃ちゃんは変わっているね」
魔女に変わり者呼ばわりされるのは少し複雑だ。
少し不服そうに口を尖らせる佳乃に、ノエルはそっと近づく。そして、優しく手を取った。
目を閉じて何かをボソボソと呟くと、手を離される。
触れられた手が、暖かい。
「がんばってね!応援してるから」
「はい!」
流石にここまでされて、先ほどのようなことを考えたりするほど、冷たい人間ではない。きっと成功する。
「頑張ります!」
夕方。ノエルの入店時とは大きく違い静かに扉が開き、ドアベルが鳴った。
入ってきたのはあの青年だった。
「こんにちは」
あの人変わらず優しく爽やかな笑みを向けてくる。
今、店内には佳乃しかいない。アリスは気を使って倉庫に、ノエルは用事があるということで先ほど帰っていった。
「こんにちは、いらっしゃいませ」
やはり緊張するのは変わらない。でも、先ほどのような悪い考えはもうなかった。
彼はちゃんときてくれた。考えてみれば、見ず知らずの人を助けるくらいいい人だ。人からもらったものを卑下するような人なはずない。
「ごめんね、遅くなっちゃって。本当は昼間に来ようと思ってたんだけど、急用ができて…」
申し訳なさそうに言う青年に、佳乃は勢いよく首を横に振る。
「気にしないでください!そもそも、私が勝手にお礼したいなんて言ってことなので。来てくださったことだけで十分嬉しいです」
すると、青年はおかしそうに口元を覆って笑い始めた。それに、佳乃は首を傾げる。
「ふふ、前から思ってたけど、君すごく礼儀正しいね。今まで、君みたいな丁寧な子あんまり会ったことないよ」
「え、あ、ありがとうございます。祖父祖母が礼儀に厳しい人なので、それで鍛えられました」
まさかそんなことを褒められるとは思っていなかったので、小さい頃叩き込まれた礼儀は無駄ではなかったことを改めて感じて、心の中で祖父と祖母に感謝した。
思わぬところで好感度アップである。
そこまで考えて、本来の目的を思い出す。そして、それまで手に持っていたアリスというプロ直伝の丁寧にラッピングしたクッキーを差し出す。
「えっと、じゃあ、お礼にクッキーを焼いてみたんです。美味しいかはわからないけど、それでよかったらどうぞ」
「ありがとう」
丁寧に両手で差し出されたそれを同じく両手で受け取り、青年はまじまじとクッキーを見つめる。
「すごく綺麗な焼けてるね。美味しそうだ。早速一枚いただいてもいいかな?」
「あ、はい!どうぞ」
そして、青年はラッピングを外しクッキーを一枚口に入れた。
ノエルがクッキーを食べている間とは比にもならないくらいの緊張が彼女を襲う。
もしも口に合わなかったらどうしよう。少し大袈裟かもしれないが、命の恩人に不味いものを食べさせてしまったとなると取り返しがつかない。
ぎゅっとエプロンを握りしめてじっと青年を見つめていると、彼は少し困ったように苦笑した。
「…そんな顔しなくても、すごく美味しいから大丈夫だよ。お店で売ってるのと変わらないくらい、美味しい」
「は、本当ですか!?よかった〜。命の恩人に不味いもの食べさせたらどうしようかと…」
心の底から安堵した様子の佳乃に、彼は本当におかしそうに笑った。
「命の恩人って…!そんなに大袈裟なものじゃないのに」
「いやいや、熱中症って結構怖いんですよ?現に、今の時期熱中症で亡くなった人も結構いるんですから、侮れません。私ももしかしたら、あそこで倒れたままだったら死んでたかもしれませんからね!」
憤然と言い切る佳乃の言葉に、彼はなるほどとうなずいた。
「確かにそうかもね。じゃあ尚更、あの場で君を助けてよかったよ。こんなに美味しいクッキーももらえたしね」
「わー、そう言ってもらえると嬉しいです」
ずっと張り詰めていた糸が切れたような感覚なので、ゆるゆると表情筋が緩んでいくのが感じられる。
「ふふ…あ、ねぇ、名前を聞いてもいいかな。僕は倉木蒼」
「あ、三鷹佳乃です」
今更ながら、お互い名前を知らぬまま会話をしていたのだ。通常ならば佳乃から名前をきき出さなければならなかったはずなのに、蒼から聞かせてしまった。
反省していると、蒼が首を傾げる。
「えっと、三鷹さんは今高校生だよね?ここでのバイトはもう今日で辞めちゃうの?」
「え、いえ。そういうわけでは。少なくともアリスさん…店長に言われるまでは働くつもりです。あと、私高校二年生です」
「そっか。じゃあ、またここに来れば会えるかな?」
「え」
思わぬ言葉に、硬直する佳乃。にこにこと、それを面白そうに蒼は眺めている。
「……えっと、面白がってますか?」
「少しだけ?」
こてんと可愛らしく小首を傾げられ、佳乃はどうしたらいいか困惑した。
何せこういったことは初めてだ。果たしてこういう場合どのように返せばいいのか。
「え、えぇっと…」
ぐるぐると目を回していると、後ろからぽんと肩に手をおかれた。目線だけ後ろにやると、にっこりと微笑むアリスの姿が。
「佳乃、無事にクッキーは渡せたのね。よかったわ」
「あ、は、はい…おかげさまで?」
というか、いつからそこに。
不思議そうに首を傾げている佳乃の隣に立って、アリスは蒼に向き直る。
「この子のクッキーが気に入ったならよかったです。このレシピはうちの店のクッキーと同じものなので、ぜひまたいらっしゃいませ。先ほどあなたがおっしゃったように、この店にくればこの子にも会えますよ」
なんだか一瞬、この2人の間に青白い火花が散った気がした佳乃は、2人を交互に見つめる。
「…すみません、少し意地悪でしたね」
不安そうな目をする佳乃に、蒼は苦笑した。
「全くです。あまりからかわないでください」
アリスは嘆息して、丁寧に腰を折った。
「それでは、生憎と閉店の時間となってしまいましたので、またのご来店をお待ちしております」
それに、佳乃ははっと壁にかけられた時計に目を向ける。確かに、閉店5分前だ。
「あ、ありがとうございました。ぜひまた遊びにきてください」
アリスと同様に丁寧に腰を折った佳乃に、蒼はうなずいた。
「うん。またくるよ。このお店気に入ったしね」
にっこり笑って、彼は会釈して背を向ける。
ドアが開閉した音を聞くまで、佳乃はずっと、腰を折っていた。
翌朝。佳乃が店に来ると、ノエルがイートインスペースでコーヒーを飲んでいた。
「あ、ノエルさん。おはようございます」
「おはよう、佳乃ちゃん。昨日はどうだった?」
キラキラと色素の薄い水色の瞳を輝かせるノエルに、佳乃はぐっと親指を立てて見せた。
「とりあえず、クッキーは渡せました!緊張はしちゃいましたけど」
「でも渡せただけマシだよ。よかったよかった」
「はい!ありがとうございます」
そういえば、アリスの姿がない。きょろきょろと店内を見渡す佳乃に、ノエルがドアの外を指差す。
「アリスなら今店の外で花を積んできてるよ。綺麗な百合が咲いてたらしいの」
「それってお店の周りにですか?」
「たぶん?ただ、朝から機嫌が良かったからきっととても綺麗に咲いていたんだろうね。気になるなら、見てきたら?まだそんなに時間経ってないから、遠くに行くとしてもそこらへんにいるとおもうよ」
少し考えた末、やはり気になるので行くことにする。幸い、開店時間には時間に余裕があるので、掃除は戻ってきてからでも間に合うだろう。
「じゃあ、ちょっと行ってきます!」
「うん、いってらっしゃい」
柔らかく微笑むノエルに見送られて、佳乃は店を出た。
少し早歩きで店の周辺を歩いていると、見慣れた後ろ姿が。
「アリスさん!」
名前を呼ばれて、アリスは長い黒髪をふわりと揺らして振り向いた。まるで映画のワンシーンだ。
「佳乃。どうしたの?」
いつものように柔らかく微笑むアリスに、なんだかほっとして胸を撫で下ろす。
「いえ、ノエルさんからアリスさんが百合をつみにいったことを聞いて、私も気になって追いかけてきたんです。見つかって良かった」
「そう。じゃあ一緒に行きましょうか。少し遠いのよ。昨日、猫の姿で散歩してる時、偶然見つけてね。真っ白で、凛としていたから一目惚れしてしまって。お店に飾るのにいいと思ったの」
嬉しそうに笑って話すアリスに、佳乃はうんうんとうなずく。
普段、彼女はあまり口数が多くない。佳乃自身、あまりアリスと過ごした時は決して多くはないが、それがわかるくらいには彼女と共にいる時間が長い自信がある。なにせ、日中はずっと店にいるのだ。クッキー作りがあるときには、夜までいたこともままあった。そういう時はたまに、リウムが家まで送ってくれることもあって、少しずつ、自分の生活が変化していくのを、佳乃は感じた。
アリスのことも、ノエルのことも、リウムのことも。これからもっと、知っていけたら嬉しいなと思う。
「佳乃?」
どうやら考えているうちに足が止まっていたようで、それを不思議に思ったアリスが彼女の顔を覗き込んできた。
「どうしたの?」
「あ、いえ、なんでもありません。早く行かなきゃ、お店開けるの遅くなっちゃいますよね!急ぎましょう」
はっとしてそう言えば、アリスは不思議そうに小首を傾げながらもうなずいた。
それから少しの間歩いていると、家がだんだんと少なくなっていき、やがてひらけた場所に出た。野原と森林が混ざったような場所で、佳乃は目を丸くする。
「わぁ、こんなところにこんな場所あったんですね。結構近所なのに、知りませんでした」
「ここは私のお散歩コースなの。自然が多いところに行くと、いろんな収穫ができていいのよ。今回みたいなケースとかね」
そして、すっと少し離れた場所を指差す。差された場所を見てみると、大量の白い花が咲き乱れて、吹いた風に無抵抗に揺られている。
「あれが百合ですか?」
「そう。近づいてみれば、よくわかるわよ」
言われたようにその場所まで歩いていくと、確かに見事な百合が咲き乱れている。朝露が太陽の光に反射して、百合の純白さがより一層映えていた。
「綺麗ですね!お店の雰囲気にも合いそうです」
その場でしゃがみ込んでそう言う佳乃に、アリスは胸の前に手のひらを優しく合わせる。
「そうでしょう?さぁ、さっそく何本かもらっていきましょう」
彼女もまたしゃがみ込み、優しく百合を手折っていく。佳乃もそれを見習って、丁寧に、花を傷つけないように手折っていく。
お互い片手がいっぱいになるまで摘んで、立ち上がる。
「たくさんありますね!」
「ええ、いろんなところに飾れるわ。手伝ってくれてありがとう」
嬉しそうに目を細めるアリスに、佳乃は大きくうなずく。
こんなことで喜んでもらえるならいくらでもする。
「さて、じゃあ戻りましょうか」
そうして、数本の百合の花束を片手に2人は店への道のりを歩いて行った。
店に戻ると、佳乃にとっては知らない男性がいた。
「お帰り」
ノエルが優しい笑みで出迎えてくれたのに、佳乃はうなずくことで精一杯になる。またもや、その男性は美形だったのだ。どちらかというと、アリスタイプの美人さんだ。
「こんにちは、アルバさん」
アリスはその男性に対してスカートの裾を少し持ち上げ、左足に重心を乗せて、右足を伸ばし、右足を左足の後ろに持ってきて、軽く挨拶をする。男性はそれに応えるように手をゆるく振る。
その所作がとても綺麗で、まるで西洋中世を描いた漫画やアニメなどの貴族そのものだった。
なるほど、魔女や使い魔というのは元はと言えば西洋のものなので、礼儀作法も西洋のものなのか。
変に納得して感心してしまい、佳乃は何度もうなずいた。
そして、ん?と首をかしげる。
「アルバ…さん?」
「うん、そうだよ。僕がアルバ。リウムと仲良くしてくれてありがとう。君がヨシノだよね?」
ふわふわとまるで綿飴のように笑うアルバに、佳乃は固まる。
初対面だというのに挨拶もせず、不躾に顔やらなんやらをじろじろと見つめてしまった。失礼極まりない。その上、彼はあのリウムの主人である。普段なんやかんやで自宅まで送ってくれているあの優しいフクロウの主人には、いつかきっちりとお礼をしたいと思っていた矢先に、これはまずい。
「す、すみません!!ちゃんと挨拶もせずに顔をじろじろとみちゃって…!殴ってください!!」
バッと音を立てて深く腰を折って謝る佳乃に、アルバはおかしそうに笑った。
「あははっ、大丈夫だよ。全く気にしてないから。なるほど、確かに面白い子だなぁ…リウムが気に入るの、少しわかる気がする」
いまだに頭を下げたままでいる佳乃を眺め、彼はにこにこと朗らかに笑う。
そんな様子にアリスが呆れたように軽くため息をつく。
「佳乃、いつまでもそうしていても仕方ないでしょう。アルバさんの相手は私とノエルがするから、あなたは着替えてきて。アルバさんも、あまりからかわないでください」
そう言われてしまえば佳乃には何もいえないので、アルバに軽く会釈をして大人しくうなずきいつも着替える場所へと移動する。
「ごめんね?つい」
ドアを閉める直前、全く反省していなさそうな返答に、珍しく目をすがめるアリスの姿を捉えた。
もしかしたら、アルバはとても自由な性格をした魔法使いなのかもしれない。それこそ、普段は穏やかで優しいアリスが呆れるほどには。
着替え終えて店内へ戻ると、アルバとノエルが優雅に紅茶を飲んでいた。
アリスはきっと厨房だろう。ちらりと時計を確認すると、この時間なら商品の最終仕上げをしているはずだ。
「ふふふ、やっぱりその制服かわいいね」
うんうんと満足気にうなずいているノエルに、佳乃は大きくうなずく。
「私も初めてこれを渡された時感動しました。この制服って、ノエルさんがデザインしたんですか?」
「そうだよ。アリスも少しだけ関わってるけどね。ちなみに、魔法で作りました」
ふふんと自慢気に言われた衝撃的事実に、彼女は目を丸めた。
今現在進行形で自分が身に纏っているものが、魔法で作られている。
「なんか、着るのが恐れ多くなってくるような…」
妙な罪悪感を感じて、複雑な表情になった佳乃に、ノエルはおかしそうに笑った。
「そんなに気にしなくていいんだよ。魔法で作った方が早くて着心地が良くなると思って、ちょちょいと作ったんだから。意外と簡単だよ。見てみる?」
片目を閉じて可愛らしくウィンクして見せたノエルに、佳乃はパッと瞳を輝かせる。
「いいんですか!?」
なんだかんだ言って、何気に魔法をちゃんとみるのは初めてだ。
もっとも、リウムやアリスのお蔭で摩訶不思議なことにはある程度の耐性がついてきたようには思えるが。
「もちろん。毎日しっかり働いてくれている、私からのせめてものお礼だよ。そこにかけてあるリボンを取ってもらってもいいかな?」
ずっと指差されたところを目で追うと、ラッピング用の赤いリボンがかけられている。
言われた通りにそれをとってノエルに渡す。
ノエルは手渡されたそれを礼を言ってから受け取ると、左の手のひらにふわりとのせた。
「Pulchre chorus」
当たり前なのかもしれないが、とても流暢な発音で、右手の指をくるりとリボンの上で円を描く。
すると、急にリボンが命を吹き込まれたようにふわりふわりと輝きを放って舞い始めた。
まるで花びらが舞い落ちてくるかのようなゆったりとした動きに、佳乃は見惚れる。
「すごく綺麗…!」
「あはは、嬉しい反応だね。ノエル」
踊るリボンに夢中になっている佳乃を、アルバは微笑ましい笑みで見守る。
「そうだね。あんなに喜んでもらえるなら、いくらでも魔法を使ってあげたくなっちゃう」
にこにこと嬉しそうに笑っていると、魔法が切れたようでふっとリボンの動きが止まる。
「ありがとうございました。すごく楽しかったです。やっぱり、魔法って素敵ですね!」
きらきらと瞳を輝かせる佳乃に、ノエルとアルバはおかしそうに笑った。
アルバとノエルが紅茶を飲み終え、店を出てから、開店してまもなく、店のドアベルがいつものように軽快な音を立てて店内に鳴り響く。何度聞いても、この店のドアベルは耳に心地よい。まぁ、それも状況によることを、佳乃は昨日実感したが。
「いらっしゃいませ」
いつものように挨拶をすると、入店してきた男性が少し照れたように会釈をしてきた。
見たところ30代前半の会社員といった感じだろうか。
今は午前中だ。夏休み真っ只中とはいえ、この時間帯に人間の男性1人が入店してきたのはとても珍しかった。佳乃が覚えている限りでは、片手で数えられる程度の人しかいない。それも、大抵は予約のケーキや焼き菓子を受け取りに来るだけの人だけだった。だが、今回のこと男性は少し違うようだ。先ほどから、そわそわと焼き菓子コーナーとショーケースの中をちらちらと交互に見ている。
こういう時は、店員として思い切って声をかけてみることにする。決して、失礼のないように。
「あの、お客様。なにかお探しでしたら、お手伝いさせてもらえませんか?」
「あ、はい…お願いします。いやぁ、恥ずかしながら、こういうお店に1人できたのは初めてでして…私のような人は、あまり来ないでしょう。こんなおしゃれなお店」
年下である佳乃にも丁寧で優しい話し方に、きっとこの人はとても真面目な人なんだな、と考える。
「確かに珍しいかもしれませんが、ご心配には及びません。当店はどんな方でも受け入れますので」
にっこりと、笑ってそう言う。なにせ、この店には人間どころか、魔女や魔法使い、使い魔など、人外のものまで来店するのだ。今更少し変わった人物が来店したとしても、さすがに驚きはしない。
佳乃の言葉にほっとしたのか、幾分か緊張がほぐれた様子の男性が、少し申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「あの、この店に金色のレモンタルトと赤いレモンタルトはありませんか?もしなければ、注文することは可能でしょうか」
その言葉に、佳乃は少し考えるように手を顎に添える。
「そうですね…申し訳ありませんが、金色のレモンタルトと赤いレモンタルトというのは当店では扱っておりません」
それに、男性は落ち込んだように肩を落とす。佳乃は、慌てて手を横に振る。
「ですが、注文ならできると思います!店長に確認してくるので、おかけになって少々お待ちください」
「ああ、ありがとう」
ほっとしたように笑う男性にうなずいて、佳乃は厨房にいるであろうアリスの元へと向かった。
佳乃から話を聞いたアリスは、作業を一旦止めて店内の男性の待つイートインスペースへと向かった。彼女には新たな来店者が来ていたいので、その対応についてもらっている。
「私がこの店の店長のアリスです。当店ではご注文も取り扱っているので、どんなお菓子でもできる限り最善を尽くしてお作りいたします。お客様のご要望を改めてお聞かせ願いますか?」
ぱっと見のアリスの外見年齢が若いので、男性は少し戸惑ったように視線を泳がせながらもうなずく。
「えっと…レモンタルトを二種類、作ってもらいたいんです。月をモチーフにした、金色のものと、赤い色のもの」
「なるほど。味は双方で変えた方がよろしいでしょうか?」
その問いかけに、男性は目を丸くした。
「え、作れるんですか…?
「はい。今のご説明で大体のイメージは固まりましたので」
「そうですか…えっと、味の方なのですが、赤いレモンタルトは少し、酸味を抑えてもらえれば幸いです」
それに、アリスは少し考えてからうなずく。そして、少し申し訳なさそうに眉を寄せた。
「差し支えなければ、お答えしていただきたいのですが…」
「はい」
やはり断られるか。無理もない、もしも自分だったらこの注文内容だけでは到底あのレモンタルトを作れる自信がない。もう少し、具体的なイメージなどが固まっていたら、話は別だったが。
「もしかして、そのレモンタルトは現在では閉店してしまった駅前の洋菓子店のものですか?」
予想外の問いかけに、男性は驚きながらも無言でうなずく。
それに、アリスは少し安心したように笑った。
「ならよかった。私もそのレモンタルト、頂いたことがあるんです。あのお店が閉店してしまって、私もとても残念に思っています」
「そう、そうなんです。昔、友人とたまたま入ったあのお店で、宝石のように輝くあのレモンタルトに目を惹かれて。普段は洋菓子なんて買わないのに、つい買ってしまうほど綺麗だったんです」
少し気恥ずかしそうに話す男性に、アリスも何度もうなずく。確かに、あの二種類のレモンタルトはとても美しかった。艶々とした光沢に、鮮やかな黄色と赤。あまりにも艶やかなので、黄色だとはわかっていても金色に感じてしまうほどのものだった。
「それで、その時…その、友人に告白したんです。そのレモンタルトを駅のベンチで、2人で食べてたら、つい口から出ちゃって…。晴れてその友人とは付き合うことができたんです。ずっと好きだったので、本当に嬉しくて…」
話しているうちに、徐々に男性の表情が暗くなっていく。
「ただ、今少し、うまくいってないんです。お互い社会人になって、忙しくなってくるとなかなか会えなくて…この前、食事を断った時、彼女に言われてしまったんです。もう自分のことは好きではないのか、と。私は、どうしてか答えられませんでした。愛想を尽かされても仕方ありませんよね、こんな不甲斐ない男。でも、私はまだこれでも、彼女のことが好きなんです。仲直りが、したくて…あのレモンタルトをもう一度食べれば、初心に帰れるのではと思ったんです」
男性の瞳がゆらゆらと不安そうに揺れている。もしもレモンタルトを食べて、もう一度話し合ってもダメだったら?彼女が、自分の誘いにすら乗ってくれなくて、レモンタルトを食べてすらくれなかったら?
悪い方向に考え方が行ってしまう。そんなことを今考えていても、仕方のないことなのに。
「では、そのご注文承ります」
ぱっとその思考が晴れていく。顔を上げると、アリスが自信に満ち溢れた笑顔を浮かべている。
「本当…ですか?」
「はい。3日後、またお越し下さい。その時は、お連れさまもご一緒に」
にっこり笑っていうアリスに、男性は大きくうなずいた。もしかしたら、この人なら本当にあのレモンタルトを再現できるかもしれないと、大きな期待を胸に抱いて。
ドアに「close」の看板をかけて、店内に戻った佳乃は、アリスの姿がないことに首をかしげる。いつもは店内の掃除や売れ残りをチェックしているはずだ。厨房だろうか。
試しにエプロンをつけて厨房の中を覗いてみる。だが、彼女はいなかった。
「どこいったんだろう」
そういえば、あれから忙しくて聞けなかったが、あの男性の注文とやらはどうなったのだろう。
少しの間その場で立ち尽くしていると、奥から物音が聞こえてくる。その次に、厨房と倉庫を繋ぐ扉が開いた。入ってきたのは、大量のレモンを両腕に抱えたアリスだった。
「わ、すごい量ですね、そのレモン」
目を丸くする佳乃に、アリスは苦笑混じりにうなずく。
「そうね。これから注文のレモンタルトを作ってみようと思って。佳乃も作るの、見ていく?」
「ぜひ!」
たまにこうして、運が良い時はアリスがお菓子を作るのを見ることができる。佳乃はその時間がたまらなく好きだった。
しかも、今回は普段は店にないレモンタルトを作るというのだ。これを見学しない事はない。
わくわくと瞳を輝かせる佳乃におかしそうに笑いながら、アリスは長さの中にレモンをどさどさと入れていく。
次に、レモンを流水で丁寧に洗う。佳乃はアリスの隣に移動して、もう一つの水道で手を洗い始める。
「私も手伝いますね」
「ありがとう」
まだ洗っていないレモンに手を伸ばし、アリスと同様に丁寧にレモンの表面を洗っていく。
何もしていない状態でも十分良い香りがするので、加工したらどうなるだろうと今からとても楽しみだ。
「先ほどのお客様なのだけどね」
「はい」
佳乃が気になっていることを察したのか、アリスが切り出す。
「高木亮さんと言って、会社員なんですって。以前駅前にあった洋菓子店を知ってる?」
それに、佳乃は記憶を辿ってみる。そしてうなずいた。
「はい。一回だけチョコレートケーキを買って食べたことがあります。美味しかったです」
「それはよかったわね。それで、そのお店で売っていたレモンタルトが、もう一度食べたいんだそうなの。恋人と喧嘩してしまったらしくて、仲直りのために。今回は、それを再現するつもりよ」
全てのレモンを洗い終え、それをボウルに入れてそれを台の上に置く。そのまままな板と包丁を取り出し、半分に切っていく。佳乃も自分の分のまな板と包丁を用意して、同じように半分に切っていく。
「再現することなんてできるんですね。どんな味なのか、楽しみです」
「ええ。今回も味見は頼んだわよ。佳乃、切るのはいいから、これを使って私が切ったものを絞っていってくれる?」
いいながら、引き出しから銀のステンレスでできたスクイーザーを手渡す。
「わかりました。絞った汁と皮はどうしますか?」
それに、アリスは中小のボウルを取り出し、軽く洗って台の上に置く。
「中くらいの大きさの方に皮を、小さい方に絞り汁を入れてもらえる?あとで皮も使うつもりなの」
「わかりました!」
すでに切られていたレモンをスクイーザーに押しあて、絞り汁が出なくなるまで絞る。
途端に芳醇なレモンの香りが厨房に広がる。
「わぁ、清々しいですね」
その香りをめいいっぱい吸い込む佳乃に、アリスが嬉しそうに笑った。
「今朝採れたばかりのレモンなの。とても綺麗にできたから、早速使う機会が生まれて嬉しいわ」
うなずきかけて、ん?と佳乃は首をかしげる。
「え、このレモン自家製なんですか?」
「そうよ。あら、言ってなかったかしら。このお店で使っている果物のほとんどは、裏の畑で採れたものよ。ノエルが魔法でどんな果物でも春夏秋冬、全ての季節育つようにしているの」
「す、すごいですね…」
なるほど、どうりでどの果物も新鮮なわけだ。裏に畑があるのはなんとなく知っていたが、まさかそこが店の果物生産所だとは思っていなかった。ましてや、そこに魔法がかけられていることなど想像すらしていなかった。
「お陰で足りなかったらすぐに採りにいけるから、とても助かってるわ」
「そうですね。え、あとで見にいってもいいですか?」
「もちろん。一緒に行きましょう。説明するわ」
「ありがとうございます」
新たな楽しみが増えて、佳乃はさらに機嫌が良くなる。
そこからは、黙々とレモンを絞っていく。
全部絞り終えると、アリスが小ぶりのドーム型をいくつか取り出した。そして、それを固定するためらしき道具も、台の上に置く。
「それどうするんですか?」
「ここにレモンゼリーを流し込むの。月をモチーフにしたレモンタルト、とのご注文だから、満月をイメージしてこの型にするわ」
言いながら、彼女はその型を固定台の上にセットしていく。
そして、レモン汁を濾しながら全て大きめの鍋に入れ、火にかける。
温まるまでの間に、薄力粉、卵黄、グラニュー糖、バターを計り、タルト生地を作っていく。そこに細かく刻んだレモンの皮とレモンエッセンスを投入し、ひとまとめにした生地をラップで包み、冷蔵庫の中へ入れた。同時にタイマーをセットする。
ちょうど温まってきたレモン汁を木べらで大きくぐるりとかき混ぜて、くつくつとに立っていることを確認する。そして、あらかじめタルト生地を作る際に計っておいたグラニュー糖を投入する。
再び煮立つまで待っている間に、粉ゼラチンを計っておく。
もう一つのコンロに、小さい鍋を置き計った水と砂糖、水飴を入れ、煮詰めていく。しばらくして艶が出てきたら火を止めた。
レモン汁の中にゼラチンを入れ、再び温めて火を止める。粗熱を取るために、その鍋をあらかじめ敷いておいた布巾の上に乗せた。
アリスがくるくると動き回り、色々な作業を次々に終わらせていくのを、佳乃は楽しそうに見ていた。
あっという間に一つのお菓子を形作るものができていく。何度も見ても飽きない光景だ。
そんなことを考えている間に、アリスはオーブンの余熱を始める。生地を伸ばすために必要な麺棒と製菓用のマットを取り出す。中くらいの大きさのタルト型にバターを塗っていく。ちょうど、タイマーが鳴り響いた。
寝かせておいた生地を冷蔵庫から取り出し、それを伸ばしていく。ピカローラーを使い、均一に穴を開けておく。
伸ばした生地を型にはめ、天板に乗せオーブンへ投入する。
焼き時間を設定し、後は焼き上がりを待つのみだ。
次に、粗熱の取れたゼリー液をもう一つ、鍋を用意して二つに分けた。
一つの方に赤い着色料とさらにグラニュー糖を入れる。それを全体的に赤く染まるまで混ぜつづける。その様子を見て、そういえば高木は赤いレモンタルトも、と言っていた。さらにグラニュー糖を入れたのは、きっと、赤いレモンタルトの方は味を変えるよう注文を受けたのだろう。
なるほど、着色料で色をつけるのか。納得しているうちに、アリスが先ほど用意していたドーム型の中に赤いゼリー液を流し入れる。そして、何も入れていない普通のゼリー液の前に立って、右の人差し指を鍋の上でくるりと回した。
「Aurum in luceat」
すると、パッと鍋の周りが輝いて、ゼリー液がうっすらと金色に変わった。
「今の、魔法ですよね?」
目を丸くする佳乃に、アリスはうなずく。
「あのお店ではきっとお店特有のやり方であの輝きを出していたんでしょうから、それを完全に再現することはできないわ。代わりに、魔法でやってみようと思って。うまく色づいてよかったわ」
ほら、と鍋の中身を見せてくれたので、そっと覗いてみる。
キラキラと輝くゼリー液は、まるで星屑を溶かし込んだように美しかった。
「グラサージュの照りだけじゃ、少し足りないから。これなら満足でしょう」
「はい!私だったらこれを見ただけでもテンションが上がります」
「ふふ、それならよかったわ」
そう言って、彼女はそのゼリー液を型に流し込んでいく。
そして、それを全て冷蔵庫の中に入れて、後は固まるのを待つのみとなる。
「これで一通り終わったわ。後は焼き上がったタルトにゼリー液を合わせて、グラサージュを塗ったら完成よ」
「わぁ、楽しみです!」
佳乃は完成形を想像して、胸を踊らせた。
流石に完成を待っていたらまた夜になってしまいそうなので、完成形をみるのは明日にしようとなった。
アリスに見送られて、佳乃はいつもの帰路を歩いていく。
ふと夜空を見上げると、今夜は半月だった。
金色に光り輝く半月に、もしもあれが満月だったらより一層眩しかったんだろうな、と想像する。
そういえば、リウムの名前は金の瞳という意味を持つことを思い出す。あのフクロウの丸い綺麗な金の瞳を思い出して、アルバはとてもいい名前をつけるな、と今更ながらに思った。
視線を前に戻して少し歩いていると、急に月の光が陰った。
なんだか、以前にも同じようなことがあったような気がする。
再び上を見上げてみると、案の定リウムがいた。いつものように大きな翼を広げて飛んでいる。
「リウムさん!」
『ヨシノ、今から帰りかい?』
それに、彼女はうなずく。リウムはばさりと音を立てて地面に着地した。
『では、いつものように私の背中に乗って。今日も空中散歩をしようか』
目を細めて佳乃がのりやすいように体を低めてくれたリウムに、彼女は大きくうなずいてそっと背中に乗った。
そよそよと肌を撫でる夜風が心地よい。日中もこのくらいの気温ならいいのに。
『ヨシノ、今日は私の主人がNotaを訪れたようだね。主人が貴女のことを話していたよ』
その言葉に、彼女は申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「そうなんです…あの、アルバさん怒ってませんでしたか?すごく失礼なことをしてしまって…」
それに、リウムはおかしそうに笑った。
『気にしなくてもいいんだよ。あの方はそんなことで怒るような魔法使いじゃないから。むしろ、貴女のことを気に入っていたよ。面白い子だと』
「そ、そうですか…?」
なんだか褒められているのかわからない言葉に、佳乃はどう反応すればいいか困惑した。
『大丈夫、気に入られていることには変わりないから』
それもそうか。ならば前向きに考えよう。
そして、佳乃は首をかしげる。
「そういえば、今日リウムさんはアルバさんと一緒にはいなかったですよね。何かご用でもあったんですか?」
リウムはうなずき、いつもは飛ばない方向へと体を向けた。
『今から貴女に見せたいものがあるんだ。少し遅くなるかもしれないけど、大丈夫?』
案じる声音に、彼女はうなずく。
「大丈夫です。うちは特に門限とかはないので」
『ならよかった。少しスピードを上げるから、しっかりつかまっていてね』
言う通りに痛くない程度に羽毛をしっかりと掴む。それを感覚的に確認して、リウムは徐々にスピードを上げていく。少しだけ息苦しさを感じた。
それから少しして、いつものゆったりとしたスピードに戻った。乾くのを防ぐために目を閉じていた佳乃は、そっと開ける。
『ヨシノ、下を見てご覧』
下を見下ろしてみると、鬱蒼とした森林の中に、いくつもの赤い光が灯っている。
「わぁ…なんですか?あれ」
『あれはルチアという昆虫だ。半月の日はああやって赤く光るんだよ。人間の間では知られていない、こちら側の昆虫なんだ』
「虫、なんですか」
日本でいうところの蛍のようなものだろうか。
「半月の日は、ってことは、月の満ち欠けによって光る色が違うんですか?」
リウムは森の中へと少しずつ降下していき、彼女に負担のないようにそっと地面に着地した。体勢を低くし、降りるように促す。
『そうだね。あまり細かくは分かれていないけど、満月の日は銀色に。新月の日は、金色に変わる。どの色も見事だよ。また今度見せてあげよう』
「ありがとうございます!」
地面に降りて、改めて周りの木々を見渡す。灯の数からして、かなりの数がいることがわかる。
なんの鳴き声も物音もしないが、たしかに存在していることだけはわかった。本当に、世の中にはまだまだ知らないことがたくさんある。
上を見上げれば、煌々と輝く半月が浮かんでいる。すぐ近くには、赤い光を放つ昆虫が。
「…そうだ。どうせ仲直りしてもらうなら、ずっと印象に残るようなものがいい」
「仲直り?誰かと喧嘩したの?」
不意にすぐ後ろから低く穏やかな声が聞こえてきた。それに、彼女は反射的に応える。
「あ、いえ…私ではなくて…って、え?」
これは、すでに聴き慣れてきたリアムの声とは異なるものだ。慌てて後ろを振り向くと、そこには黒い服にゆったりとした深緑のマントを肩にかけたアルバの姿があった。
「こんばんは」
びっくりしすぎて固まっている佳乃に、彼はにっこりと微笑みかけた。
「こ、こんばんは…」
なんとか挨拶だけを返して、佳乃は困惑する。なぜここにアルバがいるのだろう。というか、いつからいたのか。
『アルバ様、なぜここに?』
リウムもこの場に自分の主人がいることに驚いているようで、瞳をパチパチと瞬かせる。
「うん、たまたまホウキで上を通りかかってね。何してたの?」
やはり、魔女や魔法使いたちはホウキで空を飛ぶのか。
呑気に考えているうちに、リウムが羽で赤く灯る木々を差した。
『ヨシノにルチアを見せていたんです。人間には珍しいかと。今日、貴方からのお使いの帰り道に見つけまして』
それにふむと一つうなずいて、アルバは後ろポケットから杖をすっと取り出す。
「Lucia, vel repandi lilii: facti sunt」
ふわりと波のように杖を振ると、先端から銀色の光の粒が出た。それは、そのままルチアたちの元へと飛んでいく。
そして、徐々に集まってくると彼らは空中で一つの百合の花となった。
「す、すごい…!今の魔法ですよね?何したんですか!?」
目の前に咲き誇る赤く光る百合の花に、佳乃は大興奮する。なにせ、こんなものを見るのは初めてだ。
「あはは、今のは魔法というよりルチアたちにお願いをしたんだよ。集まって、百合の花を作ってください、って」
「へぇ〜…そんなこともできるんですね」
感心して何度もうなずく佳乃に、彼は満足げに微笑んだ。
「いやぁ、君は反応がいいから魔法の使い甲斐があるね。ちなみに、今朝ノエルがリボンにかけた魔法も、これと少し似ているんだ。あれの場合、お願いではなくて命令だけどね」
杖をしまいながらそう説明してくれたアルバに、彼女はなるほどとうなずく。魔法にもいろいろな種類があるのだ。
「ノエルさんやアリスさんは杖を使ってませんでしたけど、杖なしでも魔法は使えるんですね」
2人の魔法を使っている時を思い出し、佳乃は不思議そうに首をかしげる。それに、彼はうなずいた。
「そうだね。簡単な魔法や、小規模なものなら杖を使わずに魔法をかけることができるんだ。今のは少し規模が大きかったから、杖を使ったんだよ」
本当に、御伽噺の中に入り込んでしまった気分である。
すでに元いた場所に戻りつつあるルチアたちに、佳乃はなんとなく頭を下げる。
「わざわざ集まってくれてありがとう!」
それに応えるように、ルチアたちはくるりと一周彼女の体の周りを飛んで戻っていく。
「そうだ、リウムさん」
名前を呼ばれ、それまで黙ってその様子を見守っていたリウムが首をこてんと傾ける。
『なんだい?ヨシノ』
「今更なんですけど、使い魔ってどんな存在なんですか?」
それに、リウムは目を瞬かせる。アルバは、面白そうに口元に笑みを浮かべた。
『そうだね…簡単に言えば、主人である魔女や魔法使いのサポート役、といったところかな。もちろん、主人によってやる内容とかも変わってくるけど、私の場合、アルバ様にはよく軽いお使いなどを頼まれるよ。今日もそれをこなしてきたんだ』
「アリスの場合は、本来ならノエルがやらなければならないことをやっていることが多いよね。彼女はズボラな性格をしているから、仕方のないことかもしれないけど」
うなずいていいのかわからないので、そこには何も触れずに曖昧に笑う。
「まぁでも、ノエルはやるときはやる魔女だ。信頼できるよ」
柔らかく笑うアルバに、そういえば彼とノエルは友人だと、アリスが以前話していたのを思い出す。
「アルバさんは、ノエルさんと仲がよろしいんですよね。やっぱり、小さい頃から一緒だったりするんですか?」
それには、意外にもアルバは首を横に振った。
「友人であることは認めるけど、彼女と仲良くなったのはつい二百年くらい前だよ」
「つい、百年くらい前…」
当然だが、人間である佳乃と、生粋の魔法使いであるアルバたちとでは、流れる時間が大きく違う。見た目は若く見えても、彼らは何百年も生きているのだ。
「そ、それで…どうやって仲良くなったんですか?」
あまり深く考えないようにして、気を取り直すように話を元に戻す。
「うぅん…これ、僕が勝手に話していいのかわからないから、ノエルに聞いたほうがいいかもしれない。あとで怒られても嫌だからね」
苦笑して、アルバは肩を竦める。
「あ、確かにそうですよね。じゃあ、明日聞いてみます」
「うん、そうしな。さて、もうそろそろ家に帰ったほうがいい。人の子が夜遅くに出歩いていては危ないよ」
そう言われてみれば、すでに結構な時間が経っていることに気づく。流石にそろそろ帰らねば紗和が心配するだろう。
『では、ヨシノ。私の背に…』
乗りやすいように体を低くしてくれたリウムの背に乗ろうとしたところで、アルバが首をかしげる。
「僕が君の家まで飛ばそうか?」
「と、飛ばす…??」
その言葉の意味を図りかねて、今度は佳乃が首をかしげた。
一方でリウムが、主人の提案にうなずいている。
『それは妙案です。そのほうが断然早い』
「え、あの、飛ばすって…?」
「大丈夫、決して危険じゃないから。少し触れるよ?」
戸惑いながらも、それにうなずく。アルバはそっと彼女の肩に手を添えた。
「自分の家を思い浮かべて。なるべくしっかりと」
言われた通りに、彼女は目を閉じて自宅を思い浮かべる。
『また会おう、ヨシノ。おやすみ』
「お、おやすみなさい!」
「Salire ad locum quo haec mens fit」
それを最後に、頭の中になにかが走り抜ける。意識が一瞬、途切れた。
目を開けると、目の前にはよく見慣れた自宅が。
佳乃は、なにが起こったのかさっぱり理解できずに、ただひたすらに首をかしげた。
翌朝。軽く息を弾ませてNotaにやってきた佳乃を見て、アリスは不思議そうに首をかしげた。
「おはよう、佳乃。どうしたの?そんなに焦った様子で…」
「あ、あ、あの!実は昨日…」
後半覚めぬ様子で、一気に昨日の出来事を話していく佳乃に、アリスは時折うなずきながら自分の目が据わっていくのを感じた。
本当に、あの魔法使いは自由気ままで困る。
「もう、本当に。昨日はとにかく驚きました!ある程度摩訶不思議な現象やらなんやらになれてきたかな、って思っていた自分が恥ずかしいです」
そう言い切って、佳乃は満足したのかふぅと息をつく。
「ごめんなさいね。まさかアルバさんがそんなことをするとは思ってなかったわ。あの方はとても自由な魔法使いだから、なにをするのかわからないのよ」
呆れたように嘆息するアリスに、彼女は苦笑する。確かに、少し自由すぎるくらいの魔法使いではあった。けど、お蔭で一瞬で家に帰れたのだからかえってよかったのかもしれない。
そこまで考えて、昨夜考えた案を思い出し、佳乃はポンと手を打った。
「アリスさんに提案があるんですけど…例の、高木様のご注文について」
「あら、何かいい案でも浮かんだの?」
薄く微笑して小首をかしげるアリスに、彼女はうなずいた。
約束の、注文をしてから3日後。高木は恋人と共にNotaを訪れていた。
といっても、彼らの間には気まずい空気が流れている。喧嘩はまだ続いているのだ。
お互い無言で顔を合わせないまま、扉を開ける。彼らか間を漂う重い空気とは裏腹に、ドアベルが軽快に鳴った。
「いらっしゃいませ」
佳乃がショーケースの内側から笑顔で挨拶をする。高木が軽く会釈をすると、佳乃はうなずく。
「ご予約の高木様ですね。お待ちしておりました。ただ今ご注文の品を持って参りますので、おかけになってお待ち下さい」
丁寧に腰を折ってから厨房へと姿を消した佳乃に、彼らは無言で顔を見合わせ言われた通りにイートインスペースの椅子に向かい合い座る。
やはり無言だ。
「ここ、素敵なお店だね」
声をかけてきたのは恋人である玲那の方だった。それに驚きつつも、高木は何度もうなずく。彼女と話すのは久しぶりだ。
「そうなんだ。たまたま見つけんだけど、君が好きそうなお店だと思って」
緊張しているのが声に出ている。玲那はそんな恋人に少し呆れたように笑った。
「緊張してるの丸わかり。今日は喧嘩、するつもりないよ」
その言葉に、彼はほっと胸を撫で下ろす。
と、あの軽快なドアベルが店内に鳴り響いた。どうやら新たな来店者が来たらしい。
入ってきたのは蒼だった。店内を見渡し、首をかしげる。
「…あの子、すごくかっこいいね。あんな子本当にいるんだ」
目を丸くして言う玲那の言葉通り、確かに整った顔立ちをしている。
高木は、少し迷った末に話しかけてみることにした。
「あの、店員さんなら今少し奥に行っているよ。もう少しで戻ってくると思う」
周囲に誰もいないことにより、自分が話しかけられていることを知った蒼は、慌てて軽く頭を下げた。
「わざわざ教えてくださりありがとうございます。少し待ってます」
やはりただ単に洋菓子を買いに来ただけではなさそうだ。先ほどの少女の彼氏だろうか。
それからほんの少ししてから、佳乃がトレーを持って戻ってきた。
「お待たせいたしました…って、え…?」
彼女は蒼の姿を見ると、目を丸くして固まった。そんな佳乃に、彼はにっこりと笑う。
「こんにちは。今日は洋菓子を買いに来たんだけど、そっちの仕事が終わったらおすすめのお菓子を紹介してもらえるかな」
「こ、こんにちは…もちろんです。少々お待ちください」
それにうなずいて、蒼はもう一つの椅子に腰掛ける。
少し緊張している様子の佳乃に、高木と玲那はなんとなくこの2人の関係性を悟ってしまった。少し見るだけでわかってしまうくらい、自分たちが大人になったと言うことなのか、はたまた、彼女がわかりやすいのかは定かではない。
気を取り直して、佳乃は高木たちへと向き直る。
「失礼します。こちら、ご注文の品のレモンタルトでございます」
カチャカチャと耳障りでない程度の食器同士が擦れる音を立てて置かれたそれに、高木は首をかしげる。
真っ白の皿の上に乗せられていたのは、双方半分しかない、金色のレモンタルトと赤いレモンタルトだった。
玲那の皿に赤いレモンタルト。高木の皿には金色のレモンタルトが、半分ずつ乗せられている。
「あの、これは一体…?」
自分は「月をモチーフにした」と言ったはずだ。指定はしていないが、普通なら満月を思い浮かべ、丸いタルトを作るだろう。
「えっと、それは…」
「それは、月もそうですが、お二人をイメージしてお作りさせていただいたタルトになっています」
言いながら、アリスがトレーに水を乗せて、蒼へと運んでいく。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
水を置き終えると、彼女は高木たちの元へと移動して、タルトに手を添える。
「どちらかがないと、完全な円形にはならない。まるでお二人の関係のようではありませんか?」
にっこりと微笑むアリスに、2人は顔を見合わせる。その隣で佳乃が、少し緊張しながらも口を開いた。
「お連れ様は高木様が仕事で忙しく、あまり相手をしてくれないことへの不満が溜まりお怒りになりました。一方で、高木様はそんなお連れ様の気持ちを知り、深く反省していて謝りたい。まるで一度は欠けてしまった半月が、時間をかけてゆっくりと丸い満月になっていくように思いませんか?このレモンタルトは、そうなることを願って、店長が作ったものなんです」
玲那が、ゆっくりと添えられたフォークとナイフを手に取り、自分の分のレモンタルトをそっと恋人の皿に移し、円形を作る。
「本当だ。色は違うけど、綺麗な満月。私たちみたいだね」
柔らかく笑う玲那に、高木も大きくうなずく。
「…この前は、ごめん。せっかく誘ってくれたのに、断っちゃって。考えてみれば、少しくらい仕事を後回ししたっていいんだよな」
「こっちこそごめん。あなたが仕事を精一杯していることを知っているのに、ついきつい言い方をしちゃって。反省してるよ」
さらさらと述べられていくお互いの謝罪の言葉に、なんだかおかしくなってきたようで、2人は同時に吹き出した。
「ふふっ、本当私たちバカみたい。なんであんなことで喧嘩しちゃったんだろう」
「そうだよな。今考えてみると、本当にくだらないよ」
クスクスと笑い合う玲那に気づかれないように、アリスがそっと高木に赤いリボンで括った数本の百合の花束を手渡した。
高木はその意図を読み取り、僅かにうなずいてからそれを受け取った。
「玲那」
「なぁに」
急に真剣な面差しに変わった恋人に、彼女は首をかしげる。
高木は、震える両手で百合の花束を玲那に突き出した。
「俺は不甲斐ないし、君の気持ちを蔑ろにしてしまうことがこれからもあるかもしれない。けど、君のことがとても好きなんだ。愛してる。これからも、ずっと俺と一緒にいてくれないかな」
それに、玲那は目を丸めて固まる。
一拍置いて、彼女は満面の笑みでそれを受け取った。
「もちろん。あなたみたいな人と一緒に入れる人なんて、私くらいだよ。こちらこそよろしくお願いします」
可愛らしく輝くような笑顔を浮かべてそう言った玲那に、彼は立ち上がり、その手を握った。
「ありがとう、玲那!」
「ふふっ…」
幸せそうに笑い合う2人に、アリスと佳乃はそっと目を合わせ、嬉しそうに笑った。
その後レモンタルトを仲良く食べ終えた2人は、手をしっかりと握って帰っていった。きっと、また喧嘩をしたとしてもすぐに仲直りすることができるだろう。
「よかったですね、あのお二人。ちゃんと仲直りできて」
「そうね。元から謝る気持ちがあったからあまり心配はしていなかったけれど、うまくいってよかったことには変わらないわ。それにしても、よくあんなこと思いついたわね」
そう。レモンタルトをわざと半分にして出そうと提案したのは、ほかでもない佳乃だったのだ。
「えへへ、といってもきっと、私だけじゃあの考えには至りませんでしたよ。リウムさんとアルバさん、それにルチアたちのおかげです」
照れたようにほおを染める佳乃に、それまで水を飲んでいた蒼が微笑んだ。
「でも、きっかけがあったとはいえ三鷹さんがあの案を思いついたのならすごいと思うよ。僕には考えられなかっただろうし」
「あ、ありがとうございます。というか、おすすめのお菓子でしたよね!今ご紹介します」
そう言って、ショーケースの中身をじっくりと見つめ始める佳乃を、彼は面白そうに眺める。アリスが、水のグラスを片すためにトレーを片手に席まで歩いていく。
「あまりうちの子をからかわないでくださいね。あなた、あの子の気持ちに気づいているでしょう」
片しながらそう言うアリスに、蒼は肩を竦める。
「バレました?あれだけわかりやすい反応をされれば、誰でもわかりますよ」
「まぁ、それはそうかもしれませんが。なら、尚更ああいう思わせぶりな態度は取らないほうがよろしいと思いますよ。失礼ですが、あなたのように顔立ちが整っていれば、女性関連でトラブルもあるのではないでしょうか。それにあの子を巻き込むのはあまり好ましいとはおもいません」
普段とは違い、ピリピリとした空気を放つアリスに、彼は苦笑する。
「大丈夫ですよ。そんなに心配しなくても。告白をされたら、しっかりと振るので」
ちらりと佳乃の様子を確認すると、彼女はまだぶつぶつと何かを呟きながらショーケースの中身を吟味している。一体いつまで悩んでいるつもりだろうか。
おかしそうに笑う蒼に、アリスは呆れたようにため息をつく。先ほどの冷たい言葉とは裏腹に、彼はずいぶん楽しそうに佳乃を見つめている。本人も気付いていないのか、もしくは、気付かないようにしているのか。
別に、佳乃の恋を反対するつもりは毛頭ない。ただ、失礼だとは思うがこの青年は少々面倒そうだ。初恋の相手がこの人では、彼女はきっと苦労するだろう。
「…簡単に報われる恋なんて恋じゃない、のかしらね」
いまだに真剣にショーケースの中身を吟味している佳乃と、それを面白そうに眺める青年に、アリスはため息をついた。