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高校二年最後の実力テストは、いつもの授業より二時間ほど早く終わりを迎えた。
上原くんが校門で自転車を押して待ってくれていたため、そのまま歩いて日彩の中学へと向かう。
今回も中の下辺りだろうか。実際の成績には入らないと伝えられているため、正直あまりやる気が出なかった。
進路も考えないといけない時期なのはわかっているが、まだ何をしたいのか私には見えてこない。
そもそも高いお金を払ってまで進学すべきなのかもわからなかったが、既に自称進学校の波に呑まれていた私は、必然的にその道を歩まされていた。
「ここが二中か」
いつの間にか、懐かしい門が目の前にあった。
錆びついて、少し禿げている黒い鉄の門。
赤みが濃いレンガ造りの壁についたインターホンを、上原くんが押した。
「すみません、先日連絡した上原です」
挨拶をし、一言二言何かを話して会話を終えていた。私の母校というよりも、上原くんの方がそれらしい。
マフラーからは白い空気の粒が立ち上っていた。
「あ、こんにちは。ちょっと待ってなー」
どこか聞き覚えのある男の先生の声が近づいてきて、来客用の門を開ける。
外と変わらぬコンクリートの地面なのに、特別な場所へ足を踏み入れたような心地がした。
「初めまして。本日はお忙しいところすみません。よろしくお願いします」
淡々と礼儀として挨拶ができる上原くんを、純粋に尊敬した。私も何かを言わなければと、口を開きかけるも、先生によって機会を奪われる。
「よろしくお願いします。数学を担当している生田です。えっと、上原くんと……あれ、前田?」
顔は見ないように相手の靴元を見ていたことが、間違いだったのかもしれない。その声の記憶を辿る前に、顔を上げた。
「前田だよな。久しぶりじゃないか、元気にしてたか?」
明るく私の名を呼ぶのは、中学三年生の頃の担任だった。進路の懇談ほどしか話したことが無かったにも関わらず、名前を覚えていてくれるとは驚きだったが、すぐに日彩の存在を思い出す。
生徒からも先生からも愛される前田日彩には姉がいて、それは私だったというだけのことだ。
「は、はい」
「そうかそうか。良かった。じゃあ早速行くか。丁度、三年生が体育館で全体練習をしてるよ」
上原くんの自転車を校内の駐輪場に置き、私たちは体育館へと向かった。
異国に来たわけでもないのに、肺に入る空気が何だか違っている。外靴がむき出しになった下足箱、錆びた柱、葉を散らした木、真っ白なグラウンド、洗浄中のウォータークーラー。古い校舎の廊下は少し暗く、そこを通って体育館に向かう。
全てが懐かしかった。大層な思い出はなくとも、毎日通っていた場所というだけでそこは大事な空間だった。
三年弱の間、足を踏み入れなかったその空間は、多少の変化はあれど、その存在は変わらない。
少し歩くと、微かに歌声が聴こえてきた。
砂の被った石段を上り、私たちは体育館の扉を引く。
「やめて!!」
突如、叫び声に等しい言葉が体育館に響き、歌声とピアノが止まった。私も驚いて、進もうとしていた足を止める。シンと空気が固まっていた。
「皆さんやる気はあるんですか!? 卒業式まで時間がないんですよ!? 何度言えばいいですか!? 声が小さい! 口パクの人が多すぎます。全然覚えてきてませんね。はい、やり直しー。皆が歌えるようになるまで終わりませんよー?」
最後の方は、煽るかのように五十代くらいの女性が叫んでいた。声はよく通るため、音楽の先生なのかもしれない。
いくらしっかりと歌を歌わせる為であったとしても、この言いようは完全に生徒のやる気を削いでいた。
壇上に立つ先生には聞こえない程度に、後方にいる誰かが舌打ちをする。
クスクスと笑う声も聞こえた。
「あーごめんな、タイミング悪かったなぁ」
生田先生が頭を掻きながら苦笑する。上原くんは小声で大丈夫ですと答えた。
「前田は知ってるかもしれないけど、実は私立受験の二日前なんだよ。だから歌詞を覚えてないのも仕方がないんだけどさ」
生田先生はまだ若い。生徒に対する理解力もあるため、好かれていた方だと思う。
内心、受験二日前に全体練習を強制された生徒を哀れんでいるのかもしれない。
「ほら、指揮者も何か言ってやって!」
聞いてる側の立場なのだから、同じ考え方だろうと味方のレッテルを貼られたのは、日彩だった。
「妹じゃん。大丈夫か?」
いきなり話を振られ、遠目から見てもわかるほど日彩は困惑気味だった。だが、すぐにグランドピアノの上に置かれていたマイクを手に取り、話し始める。
「皆、受験二日前の不安な時にも関わらず、こうして集まってくれて本当にありがとう!」
第一声はそれだった。日彩は笑顔だった。反対に、先生の方は顔が引き攣っている。
「どうして受験前にこんなことしないといけないんだって思ってるよね。正直私もそう思う!」
あはは、と声高らかに笑う日彩につられて、生徒たちも笑った。冷えきった空気を一瞬にして溶かす日彩は、皆の太陽に思えた。
「そんな大変な状況なのに、多少なりとも歌詞を覚えてる皆は本当に凄いよ! だから、もう少しだけ声に出して、早く終わらせよう! 皆なら絶対できるよ! 今は今しかないから、今できることを全力でやろう!」
マイクを通した高く優しい声が、体育館によく響いた。
日彩の言葉はまるで魔法だ。つい先程まで負の感情が渦巻いていたこの場所も、日彩が笑って伝えるだけで、その場が自然と明るくなる。
ふと、周囲の顔色を見た。皆無意識だろうが、若干唇の端が上がっている。
「じゃあ、歌おっか!」
先生の口を挟む隙を与えず、日彩は両手足を広げ、指揮棒を高く上げる。
操られたかのように、それを見た生徒は一斉に肩幅まで足を動かした。
ピアノに向けられた指揮棒が綺麗な四拍子を刻む。
静かで美しい音色が木霊した。卒業式に相応しい伴奏。
日彩が左手を上げ、それと同時に呼吸音が空気を攫う。
外から聴こえた歌声よりも大きく、そして優しかった。全員が一体となってひとつのものを作り上げる姿は、この三年間の集大成とも言えよう。
声が壁にぶつかり、反響した。ひとつの大きな玉になっているようだった。
私だって経験している。合唱なんて今まで何度も繰り返してきた。一種のこなさなければならない課題のようなものだった。
それなのに、いざ聴く立場に立つと、どうしてこんなにも心が震えるのだろう。ただの歌なのに、どうして一つになったように感じるのだろう。
何かが頬に降ってきた。雨だと思った。でもそれは生暖かい雫で、雨雲となって雨を降らせるその正体は私の目だった。
「永遠? 大丈夫か?」
必死に涙を拭う私を見て、上原くんが声をかけてきた。
「ご、ごめん」
これはただの練習に過ぎない。それなのに、生徒たちや日彩はキラキラと輝いていて、私の心を奪ったんだ。
涙は本番に取っておきたかったと思ったが、きっと同じように溢れてくるだろう。
やがて歌は静かに溶けた。左手と指揮棒がキュッと結ばれ、足を閉じる。
その声量に満足したのか、先生は日彩を敵視しつつ頷いていた。
「まあ、本番はこれ以上のものを目指して、練習しておいてくださいね。では今日はこの辺で終わります」
解放された生徒たちが、一斉に話し出す。出入口付近にいた私たちは、そそくさと壁の方へ寄った。歩いて来ることができる地元の公立高校のため、中学生もよく知っているのか、制服姿の私たちを横目で見ながら通り過ぎる。
そんな中、日彩が壇上から下りると、複数人の生徒たちが日彩を囲んだ。
「日彩ちゃん本当に最高だよー!」
「よくぞ言ってくれた、って思った!」
「まじで日彩が先生ならいいのに!」
「前田が言ったからちゃんと声出したぜ」
「さすが元生徒会長だな!」
男女ともに、学年全体から慕われる日彩は、照れくさそうに「ありがとう」と笑顔の花を咲かせていた。
一輪の花の周りを舞う、数々の蝶たち。まさに青春という言葉をそのまま象ったような、青い香りがした。
私が手にした事の無い、青い花。友達とたわいないお喋りをして、くだらないことで笑って、何かに一心不乱に取り組んで、その成功も失敗も全部を自分の経験にして、これからに活かしていく。
そんな憧れとも言える青く儚い時間を、私は今まで手にしてこれただろうか。
「妹の人気凄いな」
上原くんが呟く。
その通りだった。同じ血が流れているはずなのに、私とは住む世界が違う、雲の上の存在になっていた。
「凄いね……」
かっこよくて、優しくて、友達が多くて。
私はそんな日彩を尊敬していた。
でも、同じくらい日彩が羨ましかった。