日彩が隣の席で良かったと、心底思った。いつの間にか息をしていない自分がいて、手は固く拳を作っている。
首を締められていた手から解放された時のように、私は肩で呼吸を繰り返していた。
エンドロールが流れる、まだ薄暗いこの空間で、私の様子を知っているのは、隣で涙を流す彼女一人だろう。
それほどに素晴らしいものだった。
色鮮やかな絵と、映画館全体を通した壮大な音の響き。肌にビシビシと伝わる臨場感。展開に合わせて同時に盛り上がっていく音楽。叫ぶように広がる登場人物たちの声。
何よりストーリーの流れが観ている人を引き込んだ。
序盤に大きな謎となるものを持ち込み、それによって〝気になる〟という感情を引き出す。
それからも、季節が変わる事に種を撒くことで、四季折々の花を楽しめるように、小さな仕掛けを残していく。最後に摘まれた花たちは、花束となって偉大な作品を作り上げるのだ。
この作品はまさにそうだ。
滑らかな動きとその見せ方も、当然ながらプロのものだった。到底敵う相手ではないとわかってはいても、何か得体の知れない汚いものが胃の中をぐるぐると掻き乱して、首から上が熱い。
鼻をすする日彩にティッシュを渡すと、丁度エンドロールも終わり、温かみを帯びた照明が現実への扉を開ける。
ふと日彩の奥に並んで座る人の横顔が見えた。エンドロールが終わっても、未だ見えない世界に浸るように、灰色の画面を見つめている。
上原くんだ。
「うわー最高だったっすね! 話題になるのも頷ける」
「わかる。動きも凄く綺麗だった」
立ち上がってうんと伸びをする吉岡くんに、大賀くんが答えた。隣に座る上原くんのことなど気にも留めないように、二人は飲み物や鞄を整理する。
日彩も慌てて荷物を片付けた。
ぞろぞろと立ち上がる人々の口からは、「凄かったね」とか「面白かった」などと、ありふれた感想が漏れ出している。
その中で、彼らの会話だけは異色を放っていた。
「あそこで足元を映してるのが良くね? 水たまりに顔が映っててさ」
「そうだな。観客に想像させる形とか、やっぱりもう少し視点を増やすことも大事だな」
作り手となると、やはり着眼点が違うのだろう。
かくいう私もそうだ。純粋に作品を楽しむ気持ちもあるが、どこかに伏線があるのではないか、ここの映し方はいいな、などと無意識に考えてしまっている。
日彩以外のここにいる人たちは、きっと同じ感覚を持ち合わせているのかもしれない。
シンデレラの魔法が溶けたような余韻に浸りつつ、ようやく立ち上がった上原くんと共に、私たちは映画館を後にした。
ショッピングモールの一部に、大きなフードコートがある。
クレープ、パスタ、アイスクリーム、ラーメン、ステーキ、たこ焼き、うどん、海鮮丼と、様々な飲食店がそこに並んでいた。
休日のお昼時は人通りが多く、五人で座れるような席は見当たらない。手分けして探すことになり、私は椅子と椅子との間をするりと抜けて行く。
現実世界に足をつけながらも、私の思考は未だ先程の画の中にいた。
「ぎゃああああ!」
突然、すぐ近くから叫び声が響く。何事かと思い、一瞬肩が跳ねるも、それは小さな子供の泣き声だった。
「あーもう、はいはい! ほら、行くよ!」
抱き上げられた子と、その家族が席を立つ。荷物を抱えてテーブルから一歩離れた瞬間、私は椅子に鞄を置いた。
席を取ることができた。そう伝えなければならなかった。
でも近くには日彩も三人組も居なくて、私は一人椅子の前に立ち、辺りを見回す。
隣の席の人が、挙動不審な私を見ているのがわかった。
私は思わず俯く。小さなリュックと、椅子の背に置かれた手だけが見えた。
探しに行けばいいことはわかっていたけれど、どうにもあの三人に話しかけられる気がしない。心の中で、情けなく妹の名を呼んでいた。
「あ、お姉ちゃん! 席見つけたの?」
聞きなれた優しい音に、私は顔を上げて振り返る。いつだって彼女は私の救世主だった。現れた時の安心感といったら。私は思わず彼女につられて笑みを零す。
「うん、丁度空いたから」
「良かった! さっき赤ちゃんの泣き声が聞こえたから来てみたら、お姉ちゃんが居たからびっくりして。あ、先輩たちも呼ばないと!」
日彩は狭い道をスキップするように軽々と通り抜けていく。その度に、左右に揺れるポニーテールが、彼女の感情をそのまま表しているように見えて仕方がなかった。
椅子を引き、腰を下ろすと、タイミングが良いのか悪いのか、上原くんが目の前に現れる。
「あ、永遠。席取ってくれたんだ、ありがとう」
閉じられた口の中で「うん」と呟く。周りの声に、私の咲きかけた蕾を潰されることなど分かりきっていた。
上原くんは何も言わず、向かいのソファーに座る。二人の間だけ、時空が歪んだように気まずい空気が渦巻いていた。
私は膝の上に乗せた荷物を、半分抱えるような体制で、真っ白な机を見つめる。
「なあ、あれどう思った?」
突然、声が降ってきた。その反射で「え?」と喉が鳴る。黒縁眼鏡のレンズの向こうに、私を掴む眼があった。
「感想とかさ。普通の人から観た意見が聞きたい」
まるで自分は普通じゃないと言うような話し方だったが、真意は理解出来た。上原くんは最早純粋で漠然とした面白さよりも、作り手としての捉え方が色濃く表れてしまうのだろう。
でもそれは、私も同じだった。
「……モヤモヤした」
未だに抜けない余韻のせいで、私はまだおかしな気分が晴れなかった。ゴムベラでねっとりとした生地を混ぜるように、胃の中がぐるぐる回ってお腹が減らない。
顔は熱く、ぼうっとしていた。
「モヤモヤ?」
「うん。……多分悔しかった」
そこでようやく気がついた。
凄いと思った、感動した。そしてその分、悔しくて仕方なかったのだ。
私もこんな作品を作りたいと、その手法を盗むことに集中して、隅々まで観れば観るほどその技術は素晴らしくて。感動して悔しかった。
「永遠って、何か作ってんの?」
正直に頷いた。そこで映画研究部に興味を持った理由を何となく察したのだろう。上原くんは先程より声を大きくして話し始めた。
「マジか、それは知らなかった。俺もすげぇ悔しかった。やっぱり、プロとアマの差って結構大きいよな」
また何かを考え込むように、今度は宙を見上げた。
上原くんには何が見えているのだろうか。文化祭で、あれだけのものを披露する実力があるにもかかわらず、それでも及ばないと考える理由は何だろう。
最初からそうだった。その技術や答えを知るためだけに、映画研究部を訪れていたのだから。
「ぶ、文化祭のも凄かったと思う」
私が急に話し始めたせいか、ゆっくりとその表情に目をやると、キョトンという言葉がぴったりと当てはまるくらい、目が点と化していた。
「文化祭?」
「そう。あれは誰が描いたの?」
普段なら、ここまで話すこともできないはずなのに、何故か私は口に出していた。まだ私の意識は映画の世界にいるからだろう。
私はあれほどの作品を作ることはできない。そんなことは百も承知だ。だからこそ、もっと上手くなりたい。もっと色んな技術を盗んで、素晴らしい作品を作りたい。
唯一私にできることだ。それだけは、何故か負けたくなかった。
欲だけは強い。他ならぬ自分のためだから聞けたのだ。
「描いたのは主に俺。スピード調整とか音楽とか、そういうのは吉岡と大賀メインかな。でも主にってだけで、どれも全員担当してた。テストとかで時間が無かったから、中学の時コンテストに出したものをちょっと改善したくらいなんだけど」
コンテスト、という言葉を耳にして、誰かの会話を思い出した。
『ねぇ、あれ作った人、中学の時どこかのコンテストで入賞したらしいよ』
その時、隣の椅子が動いた。驚いて見上げると、日彩が「お待たせ」と手に持つノートを机に寝かせている。後ろには吉岡くんと大賀くんもいて、二人は上原くんの隣に並んで座った。
「二人ともまだ注文してないのか?」
大賀くんが、上原くんの方へ壁でも作るように荷物を置いてそう言った。
そこでようやくここが昼食を取るために来た場所であると思い出す。理解した瞬間から、お腹が空いてきたような気がした。
「そうだよお姉ちゃん! 私にステーキ奢ってくれるんでしょ?」
そう言って私の顔を覗き込む日彩の瞳は、天井から降り注ぐ無数の照明によって、更に輝きを増していた。
「よし! じゃあ皆それぞれ買いに行くっすか!」
疎らに席を立つ中、上原くんだけは荷物を見ていると言って残る。私は日彩に奢らなければならないため、財布を手に持ち、椅子と別れた。
日彩はすぐさまステーキ店の前に並ぶ。昼間からステーキだなんて、贅沢だなぁと、心の中で財布に話しかけながら私も並んだ。
「見て! 期間限定チキンステーキ定食だって! 食べたことないから、あれにしようかなぁ!」
大きくオススメと表示されたそのメニューは、中々のお値段だった。アルバイトもしていない高校生が、映画を観て、自分と妹の分の昼食となると、少々痛い。
それでも自分が言い出したため、容赦のない注文に応えるしか無かった。
「わ、わかったよ……」
手に持つ財布は、内臓を引き抜かれたように薄くなって泣いていた。
注文を済ませ、呼び出しベルを二つ受け取り席に戻ると、上原くんが財布を持って立ち上がった。
「いくらだった?」
「え?」
「それ。部費から出るから、レシート置いといて」
言い捨てるようにそう呟いて去っていく。それと同時に、吉岡くんが帰ってきた。
「お! ステーキっすか! いいっすねぇ」
恐らく、呼び出しベルの色を見てわかったのだろう。私は上原くんに言われた通り、机にレシートを置いた。何も言わない私の代わりに、日彩が答える。
「そうなんですよ〜。でも部費からご飯代まで出るなんて、初めて聞きました! 私は仮入部してないので、お姉ちゃんの奢りですけど」
日彩がからからと笑う。酷い妹だ。でもこの大事な時期に、私の個人的な用事に付いてきてくれたのだから、相当の対価だろう。
吉岡は一瞬不思議そうな顔でいたが、三秒経つ頃には腹を抱えて笑っていた。
「おい、大丈夫か」
汚物を見るような目で、帰ってきた大賀くんが腰を下ろす。吉岡くんはどうしたものか笑いが止まらないらしく、大賀くんの肩に手を預けて全身を震わせていた。
「大賀、聞いてくれよー! 上原が昼食費を部費から出してくれるんだってさ」
その言葉の意味を理解したのかしていないのか、大賀くんの口角が薄らと上がる。
私と日彩は顔を見合せた。何だかよく分からないが、楽しそうな二人を見て日彩も笑っている。私だけが状況を理解出来ず、更には溶け込むことも出来ずにしばらくの間居座っていた。
上原くんが戻ってくる頃には落ち着いているかと思いきや、その沼は思った以上に深いらしい。
呼び出しベルと財布を片手で持ちながら、上原くんが帰ってきた。この異様な空気に、訝しげな表情で全体を見るも、特に話題に触れることなく座る。
「上原ぁ、俺らの分の昼食費はー?」
冗談らしき口調で、吉岡くんはくしゃりと笑いながら絡んでいく。上原くんは何かを察したのか、今まで見た中で一番疲れた表情を出していただろう。
「仮入部生限定だよ」
ガンッと私の手前の机に拳が乗る。それが離れると、価値のある紙切れの遺物が三枚あった。
私と日彩の二人分だった。
「え、でも……」
「部費からだから、気にすんな」
そうは言いつつも、上原くんは自身の財布を鞄に直している。強制的に連れてきてしまったことに対するお詫びだろうか。いや、それでも結局来たのは私だ。
受け取ることに戸惑っていると、大賀くんが「部費だから、ここは遠慮せず受け取っておいた方がいい」と鼻で笑いながら話す。余計に真意がわからない。
「あ、ありがとう」
ちゃんと届いただろうか。悪いとは思いながらも、受け取るより他にない様子だった。日彩の方を見ると、何やらくすくすと笑っている。
日彩が笑っていることはいつもの事だが、今回ばかりは何故か不愉快だった。
「ピピピピピ、ヴーッヴーッ」
私と日彩の呼び出しベルが振動して、机上を滑る。
日彩が素早く二つ手に取り、椅子を倒す勢いで立ち上がった。
「吉岡先輩、大賀先輩、一緒に取りに来てもらってもいいですか?」
誘われるがままに、二人は机に手をかけた。高い背丈が伸び、席から離れる。
「え、でもそれ私のだから……」
「お姉ちゃんは座ってて!」
走り去るように三人は行ってしまった。
一体何の気遣いだか。ただでさえ、他人と二人きりなんて厳しいのに。
私は荷物を整理する振りをして、鞄の中を漁った。でも、特に整理できるほど物は入っておらず、ハンカチ、ティッシュ、財布に携帯くらいだった。
「永遠は、どういう感じのを作ってんの? 恋愛ものとか、高校生向けとか」
特にすることが無かったのか、先程と変わらぬ話題を持ち出してきた。私は鞄を掻き回す手を止め、チャックを閉める。
「一応、中学生が主人公のもの……」
声は小さいながらも、私はハッキリと答えていた。恐らく、アニメについてだからだろう。趣味について共有出来る仲間は今まで居なかった。日彩ですら、私が動画を投稿してることを知らないはず。だから、どこかで楽しんでいる自分に気付いていたのかもしれない。
「そうなんだ。俺は今まで自分の年齢に合わせた主人公にしてきたけど、次は中学生にしようかな」
上原くんが凪いだ目付きで遠くを見つめた。その先には地元の制服を着た、男子中学生が楽しそうに会話をしたり、ラーメンをズルズルと啜っている。
休日だから部活帰りなのかもしれない。私の中学は、寄り道を禁止されていたが。
「あそこ、部活帰りかな。寄り道とか、俺の学校じゃあ怒られてたけど。今は違ってんのか、それか普通に校則違反をしてるだけか。そういうのって、やっぱりその年齢でないと分からねぇし、リアリティ出ないから難しい」
同じことを考えていた事に驚いていたことが顔に出たのか、上原くんは眉を下げ、ため息のごとく小さな笑いで吹いた。
どこか気恥ずかしい思いに支配され、肩を竦めて鞄を抱き寄せる。
「う、上原くんが、制作において大切にしてることってリアリティなの?」
話題を逸らしたかったけれど、これだけは聞きたかった。何を重要視するのが一番良いのか、まだ作り始めて二年未満の私にはわからない。
「そうだな、リアリティはある程度大切にしてる。その時々の流行りとか言葉遣いとかルールとか。色んな経験をして、それを元に作ることが一番大事かな。中学生を主人公にしてるなら、中学を取材してみれば?」
「取材?」
さも当たり前かのように、“取材”なんて言葉を口にする。確かに、リアリティを出すためには一番だろうが、私にそんな勇気はない。日彩を見て、何となくで描いているだけだ。
だがもし、それによって良いものが作れるのなら。上原くんや、今日の映画の作者に近づけるだろうか。
そんなことを想像すると、欲望と自分のコミュニケーションスキルとの差に苦しくなった。
「そう。妹、中学生だよな? 今何する時期だっけ、受験勉強のことしか覚えてねぇんだけど」
私も同じく、勉強の記憶しかない。友達もいない私にとっては、受験生など関係なく毎日がそれだった。
日彩なら何をしているだろうか。きっと青春を謳歌しているに違いない。
勉強以外で何かをしていると話していた記憶の糸を辿る。網で魚を引き上げるように、細い糸を手繰り寄せた。
「あ、卒業式の歌の練習してるって言ってたかも、指揮者の担当になったって……」
見事に魚が釣れた。それに上原くんが食らいつく。
「歌か、そういえばそんな事してたな。永遠、今度一緒に取材行かね?」
「え?」
息をするほど自然に誘われた。周りの声が一段と大きくなった気がする。
エアコンの温度がしっかりと調整されている、暑くも寒くもないこの空間に居座りたいという気持ちは山山だが、今だけは何も言わずに立ち去りたい思いでいっぱいだった。
「ほら、色んなことを見聞きしたり挑戦してみることは、絶対今後の作品にも繋がるしさ。妹の指揮姿も見れるし」
ほとんど諭すような形だった。初めは絶対に嫌だと思っていたものの、“今後の作品にも繋がる”という何とも断り難い文言を並べられると、どうしてもそちらに吸い寄せられてしまう。
空腹の動物に、餌をチラチラと見せびらかせているようだ。
「い、いいよ」
そう言うと、上原くんの肩から空気が抜け、少しだけ口の端を上げたように見えた。
いつもはあまり感情を表に出さない彼でも、睨みをきかせる時と安心した時の様子はわかりやすい。
「じゃあ妹の中学に連絡しておく。第二中だよな?」
「う、うん。ありがとう。上原くん、色々詳しいね」
思い返せば、彼は様々なことを知っていた。私の名前も、いつどこで知ったのだろう。私も通っていたが、日彩の中学をどうして知っているのだろう。
「え、いや、別に。この辺だと一中か二中か三中くらいしかないだろ」
あくまで平然を装っているつもりだろうが、無性に落ちてくる眼鏡が気になるらしく、何度も指で押し上げている。
何を隠しているのだろう。上原くんは一体何者なのだろうか。
「お待たせしましたぁ! いやぁ、先輩たちの分も途中で呼ばれて、遅くなってしまいました!」
楽しそうな声が響き、大きなトレーがカタンと置かれる。吉岡くんが私の分まで持ってくれており、軽く頭を下げて受け取った。
入れ替わりで上原くんの呼び出しベルも鳴り、取ってくると目で合図をして床を蹴った。
「仲良くなれた?」
突然、日彩がそんなことを耳打ちしてくる。周囲の雑音に負けないよう、手を添えたおかげで届いた。
仲良くなれたかと言われると微妙なところだが、制作のことについて話せたことは有益だったし、楽しかった気がする。
そもそも、ここまで誰かと話すことが久々なくらいだ。
私は一旦首を傾け、その後頷いた。日彩はその反応を見て嬉しそうに微笑む。
日彩なりに、私の友達事情を気にしてくれていたのかもしれない。
「じゃあ食べよ! 見て、中のお肉がちょっとつやつやしてる! 美味しそう!」
大きくいくつかに分けられたチキンステーキを見て、いただきます、とナイフを立てる。
吉岡くんと大賀くんも、その姿を見て食べ始めた。
日彩のステーキ、吉岡くんのラーメン、大賀くんの海鮮丼、そして私のハンバーグ。
家族以外の人と食事をするなんて、滅多にない。
何だか胸がくすぐったく感じた。
今日も動画を投稿した。
厳しい親元で監視されながら勉強に追われる中学生が、宿題を燃やして一日思いっきり遊ぶというアニメーション。
動画サイトの年齢層は広いが、やはり見てくれるのはそれ相応の年齢の人が多いらしい。
まだ子供らしい純粋なコメントで溢れていた。だからこそ、時に皮肉なものもあったけれど。
そしてまた一つ、目に付いた。
『もうすぐ死ぬ』
まただ。この時の私は至って冷静だった。
一体誰が死ぬというのだ。動画と全く関係がない。
そりゃあ、主人公が後々親に叱られて心が死ぬということを言っているのかもしれないけれど。
それにしたって、それを予言するようなコメントは他になかった。
「誰が死ぬの? 教えてください。貴方は誰ですか?」
画面に向かって私は話しかけていた。もちろん、それに対して返ってくることはない。
その時、肩に何かが触れるのがわかった。
『ねぇ……』
冷凍庫の中にでも瞬間移動したように、背筋が凍る。
ラジオから流れる砂嵐に紛れたような声を掛けられ、意を決して振り向いた。
「ねぇ、お姉ちゃん!」
目が覚めると、日彩が私の布団を引き剥がしていた。眩しい光に、思わず目を細める。
「今日実力テストの日じゃないの!? それ終わったらうちの学校にも来るんでしょ! 遅刻するよ!」
見ると、時計の針は七時半を指していた。私は慌ててベッドから飛び起きる。
普段なら、こんなにも慌ただしい朝を迎えた時、夢の内容なんて一瞬で溶けていくが、『もうすぐ死ぬ』という言葉だけは、脳裏に焼き付いてどうしても離れてくれなかった。
夢の出来事なんて、何の意味もない。それでも、これほどまでに何度も似たような夢を見ると、虫の知らせなのではないかと恐怖に襲われた。
*
高校二年最後の実力テストは、いつもの授業より二時間ほど早く終わりを迎えた。
上原くんが校門で自転車を押して待ってくれていたため、そのまま歩いて日彩の中学へと向かう。
今回も中の下辺りだろうか。実際の成績には入らないと伝えられているため、正直あまりやる気が出なかった。
進路も考えないといけない時期なのはわかっているが、まだ何をしたいのか私には見えてこない。
そもそも高いお金を払ってまで進学すべきなのかもわからなかったが、既に自称進学校の波に呑まれていた私は、必然的にその道を歩まされていた。
「ここが二中か」
いつの間にか、懐かしい門が目の前にあった。
錆びついて、少し禿げている黒い鉄の門。
赤みが濃いレンガ造りの壁についたインターホンを、上原くんが押した。
「すみません、先日連絡した上原です」
挨拶をし、一言二言何かを話して会話を終えていた。私の母校というよりも、上原くんの方がそれらしい。
マフラーからは白い空気の粒が立ち上っていた。
「あ、こんにちは。ちょっと待ってなー」
どこか聞き覚えのある男の先生の声が近づいてきて、来客用の門を開ける。
外と変わらぬコンクリートの地面なのに、特別な場所へ足を踏み入れたような心地がした。
「初めまして。本日はお忙しいところすみません。よろしくお願いします」
淡々と礼儀として挨拶ができる上原くんを、純粋に尊敬した。私も何かを言わなければと、口を開きかけるも、先生によって機会を奪われる。
「よろしくお願いします。数学を担当している生田です。えっと、上原くんと……あれ、前田?」
顔は見ないように相手の靴元を見ていたことが、間違いだったのかもしれない。その声の記憶を辿る前に、顔を上げた。
「前田だよな。久しぶりじゃないか、元気にしてたか?」
明るく私の名を呼ぶのは、中学三年生の頃の担任だった。進路の懇談ほどしか話したことが無かったにも関わらず、名前を覚えていてくれるとは驚きだったが、すぐに日彩の存在を思い出す。
生徒からも先生からも愛される前田日彩には姉がいて、それは私だったというだけのことだ。
「は、はい」
「そうかそうか。良かった。じゃあ早速行くか。丁度、三年生が体育館で全体練習をしてるよ」
上原くんの自転車を校内の駐輪場に置き、私たちは体育館へと向かった。
異国に来たわけでもないのに、肺に入る空気が何だか違っている。外靴がむき出しになった下足箱、錆びた柱、葉を散らした木、真っ白なグラウンド、洗浄中のウォータークーラー。古い校舎の廊下は少し暗く、そこを通って体育館に向かう。
全てが懐かしかった。大層な思い出はなくとも、毎日通っていた場所というだけでそこは大事な空間だった。
三年弱の間、足を踏み入れなかったその空間は、多少の変化はあれど、その存在は変わらない。
少し歩くと、微かに歌声が聴こえてきた。
砂の被った石段を上り、私たちは体育館の扉を引く。
「やめて!!」
突如、叫び声に等しい言葉が体育館に響き、歌声とピアノが止まった。私も驚いて、進もうとしていた足を止める。シンと空気が固まっていた。
「皆さんやる気はあるんですか!? 卒業式まで時間がないんですよ!? 何度言えばいいですか!? 声が小さい! 口パクの人が多すぎます。全然覚えてきてませんね。はい、やり直しー。皆が歌えるようになるまで終わりませんよー?」
最後の方は、煽るかのように五十代くらいの女性が叫んでいた。声はよく通るため、音楽の先生なのかもしれない。
いくらしっかりと歌を歌わせる為であったとしても、この言いようは完全に生徒のやる気を削いでいた。
壇上に立つ先生には聞こえない程度に、後方にいる誰かが舌打ちをする。
クスクスと笑う声も聞こえた。
「あーごめんな、タイミング悪かったなぁ」
生田先生が頭を掻きながら苦笑する。上原くんは小声で大丈夫ですと答えた。
「前田は知ってるかもしれないけど、実は私立受験の二日前なんだよ。だから歌詞を覚えてないのも仕方がないんだけどさ」
生田先生はまだ若い。生徒に対する理解力もあるため、好かれていた方だと思う。
内心、受験二日前に全体練習を強制された生徒を哀れんでいるのかもしれない。
「ほら、指揮者も何か言ってやって!」
聞いてる側の立場なのだから、同じ考え方だろうと味方のレッテルを貼られたのは、日彩だった。
「妹じゃん。大丈夫か?」
いきなり話を振られ、遠目から見てもわかるほど日彩は困惑気味だった。だが、すぐにグランドピアノの上に置かれていたマイクを手に取り、話し始める。
「皆、受験二日前の不安な時にも関わらず、こうして集まってくれて本当にありがとう!」
第一声はそれだった。日彩は笑顔だった。反対に、先生の方は顔が引き攣っている。
「どうして受験前にこんなことしないといけないんだって思ってるよね。正直私もそう思う!」
あはは、と声高らかに笑う日彩につられて、生徒たちも笑った。冷えきった空気を一瞬にして溶かす日彩は、皆の太陽に思えた。
「そんな大変な状況なのに、多少なりとも歌詞を覚えてる皆は本当に凄いよ! だから、もう少しだけ声に出して、早く終わらせよう! 皆なら絶対できるよ! 今は今しかないから、今できることを全力でやろう!」
マイクを通した高く優しい声が、体育館によく響いた。
日彩の言葉はまるで魔法だ。つい先程まで負の感情が渦巻いていたこの場所も、日彩が笑って伝えるだけで、その場が自然と明るくなる。
ふと、周囲の顔色を見た。皆無意識だろうが、若干唇の端が上がっている。
「じゃあ、歌おっか!」
先生の口を挟む隙を与えず、日彩は両手足を広げ、指揮棒を高く上げる。
操られたかのように、それを見た生徒は一斉に肩幅まで足を動かした。
ピアノに向けられた指揮棒が綺麗な四拍子を刻む。
静かで美しい音色が木霊した。卒業式に相応しい伴奏。
日彩が左手を上げ、それと同時に呼吸音が空気を攫う。
外から聴こえた歌声よりも大きく、そして優しかった。全員が一体となってひとつのものを作り上げる姿は、この三年間の集大成とも言えよう。
声が壁にぶつかり、反響した。ひとつの大きな玉になっているようだった。
私だって経験している。合唱なんて今まで何度も繰り返してきた。一種のこなさなければならない課題のようなものだった。
それなのに、いざ聴く立場に立つと、どうしてこんなにも心が震えるのだろう。ただの歌なのに、どうして一つになったように感じるのだろう。
何かが頬に降ってきた。雨だと思った。でもそれは生暖かい雫で、雨雲となって雨を降らせるその正体は私の目だった。
「永遠? 大丈夫か?」
必死に涙を拭う私を見て、上原くんが声をかけてきた。
「ご、ごめん」
これはただの練習に過ぎない。それなのに、生徒たちや日彩はキラキラと輝いていて、私の心を奪ったんだ。
涙は本番に取っておきたかったと思ったが、きっと同じように溢れてくるだろう。
やがて歌は静かに溶けた。左手と指揮棒がキュッと結ばれ、足を閉じる。
その声量に満足したのか、先生は日彩を敵視しつつ頷いていた。
「まあ、本番はこれ以上のものを目指して、練習しておいてくださいね。では今日はこの辺で終わります」
解放された生徒たちが、一斉に話し出す。出入口付近にいた私たちは、そそくさと壁の方へ寄った。歩いて来ることができる地元の公立高校のため、中学生もよく知っているのか、制服姿の私たちを横目で見ながら通り過ぎる。
そんな中、日彩が壇上から下りると、複数人の生徒たちが日彩を囲んだ。
「日彩ちゃん本当に最高だよー!」
「よくぞ言ってくれた、って思った!」
「まじで日彩が先生ならいいのに!」
「前田が言ったからちゃんと声出したぜ」
「さすが元生徒会長だな!」
男女ともに、学年全体から慕われる日彩は、照れくさそうに「ありがとう」と笑顔の花を咲かせていた。
一輪の花の周りを舞う、数々の蝶たち。まさに青春という言葉をそのまま象ったような、青い香りがした。
私が手にした事の無い、青い花。友達とたわいないお喋りをして、くだらないことで笑って、何かに一心不乱に取り組んで、その成功も失敗も全部を自分の経験にして、これからに活かしていく。
そんな憧れとも言える青く儚い時間を、私は今まで手にしてこれただろうか。
「妹の人気凄いな」
上原くんが呟く。
その通りだった。同じ血が流れているはずなのに、私とは住む世界が違う、雲の上の存在になっていた。
「凄いね……」
かっこよくて、優しくて、友達が多くて。
私はそんな日彩を尊敬していた。
でも、同じくらい日彩が羨ましかった。
半分に割れた目玉焼きのような太陽が落ちる。一面オレンジ色の光で覆われた、細く長い道のりを二人で歩いた。
自転車の車輪がからからと回転する。わざわざ押して歩く必要もないのに、上原くんは歩幅を合わせて隣に並んでくれた。
「どうだった?」
漠然とそう聞かれた。普段の私であれば、そこで言葉の意味を探ろうとするのに、今回は即答してしまっていた。
「キラキラしてて、眩しかった。青春だなって思った」
果たしてこれが、上原くんの聞きたかった答えかどうかは定かではない。
それでも私はそう思ったのだ。当時の私にはわからなかった輝きが、失ってみると良く見える。
「良い取材になったな。自分が中学生の頃には見えなかったものや感じなかったことが見えてくることもあるし」
自分も別の中学校の様子を知ることができて良かったと、上原くんは満足気な横顔を見せていた。
冬の夕暮れは早い。一歩ずつ足を進める度に影が伸び、群青色がゆっくりと世界を覆う。
「永遠は次、どんな話にするんだ? この取材を活かすような作品?」
言葉と共に溢れた白い息が、天然のスポットライトに照らされて輝いた。
次の作品か。何も考えていなかった。でも、そろそろ今投稿しているアニメも完結するから、取材を活かせるようなものにしたいな。
『色んな経験をして、それを元に作ることが一番大事かな』
以前、上原くんに言われた言葉が脳裏をよぎる。その瞬間、ある過去のしがらみが砂嵐のように汚い残像として流れてきた。
これまでの経験を活かし、今回得たものを掛け合わせたもの。
苦しくて、悔しかった。そんな過去でも、自分の力で願った通りの世界に書き換えられる。それが創作の最高の利点なのかもしれない。
「男の子に大切な絵を破られた女の子が、その子を撃退する話にでもしようかな」
靴が地面に擦れる音がして、自転車が止まった。カラスの鳴き声が無駄に大きく響き渡る。
不思議に思って、私も数歩進んだ先で足を止め、体を半分後ろへ向けた。
「それって、どういうこと?」
上原くんは、心配しているような、怒っているような表情で私を見つめていた。何故かその目を逸らしてはいけない気がして、私はレンズ越しの瞳に吸い寄せられる。
彼の問いがはっきりと理解できない私は、行き場のない空っぽの手で、背負っていた鞄の紐を弄った。
「上原くんが、前に色んな経験をして、それを元に作ることが一番大事って言ってたから……。私の苦い過去と、キラキラしてかっこいい日彩みたいな子を掛け合わせたの。私が日彩みたいだったらどうするかな、あの時の自分を救ってあげられるかなって」
上原くんは、相変わらずその場から一切動かなかった。まるで彼だけ時が止まってしまったかのように、太陽だけがゆっくりと傾く。
私も困惑して、視線を下に滑らせた。背の高くなった、真っ黒の自分がそこにあった。
「その……大切な絵を破られたってのが、永遠の苦い過去なのか?」
やや間があって、上原くんが口を動かした。何か思い詰めたように、自転車のブレーキを何度も弄んでいる。何故こんなことを聞くのか、私にはわからなかった。最初からずっとそうだ。上原くんは、まるで未来か過去からやってきた人かのように不思議な人。
「……そうだよ。小学校の時の話だけど……。私は何も出来ずに泣いてたから。私の生み出すお話の中で、過去の自分を救えたらいいな、なんて……」
小学生の時、ずっと一人の男の子に虐められていた。暴力こそなかったものの、鉛筆や消しゴムを取られたり、黒板を消す時に邪魔をしてきたり、給食を配る際、私のおかずだけ少なくしたり多くするなど、あからさまな嫌がらせを受けていた。私が大人しく、言い返しもできなくて反応が面白かったのかもしれない。
それに終止符が打たれたのは、忘れもしない、卒業間近の頃。
入院中だった日彩を元気づけるために、昼休みに私は絵を描いていた。
当時の私にしては、上手く描けたと思い、特定の仲の良い友達はいなかった私は、一人それを眺めて喜んでいた。
そんな様子を見ていたのだろうか。また私に近づいてきた男がいた。
「何描いてんだよー! うわ、へったくそ! 女子同士で手繋いでハートとか描いてる、きっもー!」
そう言いながら、私の絵を奪い取られた。もう名前も思い出したくない。そう、あの人の名前はーー。
「返して! 返してよ松木!」
松木は何かと私にちょっかいを出てきた。周りは「またか」といった表情で私たちを眺める。
「もう松木! 永遠ちゃんに返してあげなよ! 人のもの奪うとかサイテーだよ!」
気の強い女子たちが、いつも味方してくれていた。それは小学生によく見られる、女子と男子の対立からくる味方のようなものだったのだと思う。
いつもなら、周りの女子に口を挟まれると松木は「はいはい」とあしらうようにやめてくれたが、その時はやめようとしなかった。
そのまま松木は廊下に出て、男子トイレに駆け込む。
「なになにー? “ひいろへ、早く元気になってね”って? 何これ、妹にあげんの? こんなの貰っても嬉しくねーだろ、あはは!」
私が絵と共に書いたメッセージを馬鹿にするように読み上げた。男子トイレに入ることもできない私は、トイレの前でひたすらに返してと叫ぶ。
それを煽るかのように、松木は入口に近づいて、私の手の届くか届かないかギリギリのところでひらひらと紙を見せつけてきた。
「取れるものなら取ってみろよ〜!」
一歩でもその空間に足を踏み入れようなら、一体教室で何と言われよう。『こいつ、男子トイレに入ってきた変態なんだぜ』とでも言われ、あらぬ噂を立てられるに違いない。
そんなことをされるわけにはいかなかった私は、何度も必死に手を伸ばした。
そして、届いたのだ。
「うわ、往生際の悪い女!」
「お願い、妹にあげるの、返してぇ!」
互いにそれを引っ張り合った。これだけは譲れなかった。だって全く同じ絵は、二度と描くことができないのだからーー。
鈍く脆い音が響いた。その絵は確かに私の手元に返ってきて、その反動で私は尻もちをつく。
だが、それは相手も同じだった。まるで鏡のように手に紙が吸い付いている。
破れたのだ。この世にたった一枚しかない、私の大切な絵が。
「……ご、ごめ……」
そこまでするつもりじゃなかったのだろう。小さな声で謝ろうとする松木。でもそんなこと、どうでも良かった。喪失感と、怒りが私を襲った。
溢れそうになる涙を必死に堪え、唇を噛み締めながら立ち上がる。そして彼のいる空間に足を踏み入れ、その手にあった絵を勢いよく奪った。
そうして、これでもかと言うくらい睨みつけたと思う。松木は何も言わなかった。私も何も言わずにその場から立ち去る。私は何か罵倒できるような言葉を使えるほど、強い人間ではなかった。ただやられた事をひたすら受け止め、自分の中に溜め込み、仕返しだって言い返すことだってできなかった。弱い人間だった。
日彩と繋いだ手が離れてしまった絵を見て、どうしようもなく悔しい気持ちに包まれる。
悲しくて、悔しくて。松木のことは大嫌いだった。でも、何もやり返せない自分も嫌いだった。
幸い、男子トイレに入ったことを公言されることはなかった。それにその事件以降、目も合わせないように避け続けていると、松木は私に話しかけてこなくなった。最初こそ、何か言おうと近づいて来ている気はしていたが。
そして一言も話すことなく、穏やかに卒業を迎えた。卒業と同時に、松木は家庭の事情で引っ越して行き、平穏な日々が訪れた。
だが彼が残した傷痕は、別の方向からその後も続いたのだ。
だから、あの時の何も出来ず悔しい思いをした自分を救いたかった。過去に戻ることはできなくても、自分の作る世界で、あの時をやり直したい。やり返して、今を楽に生きたい。中学生を舞台にして松木のことを撃退する、なんて話を作れたら、私は私を救ってやれるだろうか。
日彩のように、周りから愛されている自分を、別の世界で作ってあげたい。もう一人の私には、幸せであってほしい。
そんな願いを込めて、思いついたのだ。
「そいつのこと、恨んでる?」
上原くんは、やはり表情を変えずに聞いた。
「恨んでるとまではいかなくても、やっぱり辛かったかな……」
松木に虐められたことも辛かったが、なによりその後のある出来事が決定打となり、今に繋がる傷痕となっている。それがずっと辛くて、苦しくて、だから私は日彩のようにはなれない。
「そっか……」
上原くんがハンドルを固く握るのが分かった。後ろからチリンと音を立てた自転車が、私と上原くんの間を通過する。
空に浮かぶ目玉焼きは、もうほとんど食べ尽くされていた。
「ごめん」
上原くんは、珍しく足元を見てそう言った。いつもなら、真っ直ぐに私の瞳を貫くのに。
言葉の意味が分からず、私は「え?」と間抜けな声を出した。
「全部知ってた」
続けて彼の口が動くも、私の思考は動かない。ただ混乱していた。
どういうことだろう、何を知っているのか。上原くんは一体何者なのか……。
「俺が、永遠の絵を破った。あの松木康助だ」
世界がぐらりと反転した気分だった。
耳から入る情報が私の許容量を超え、壊れた鼓膜が全てを遮断する。
世界から音が消え、ただ脳内で上原くんの言葉だけが幾度も反芻していた。
「松木……康助……?」
上原くんの背後から、私の立つ場所に向けて冷たい風が吹き荒れる。
それが走馬灯のように流れ、あの頃の彼の顔立ちが聡明に浮かんだ。
忘れたかった。だからずっと考えないようにしていた。いつしか本当にその頃の彼の顔がぼんやりとしてきて、私の中で消化されかけていたのに。
身長が高くなり髪も伸びて、眼鏡をかけ、声も低くなった松木と再会するだなんて、一体誰が予想できただろう。
「ずっと、謝りたかった」
私は声を発することすらできなくなっていた。あれだけ私を虐めていた人物が、今ここにいて、何気ない会話をしながら帰路についている。
「ど……どうして……」
振り絞って出た言葉はそれだけだった。全てが“なぜ”で埋め尽くされていた。
どうして私を虐めたのか。それにも関わらず、どうして再会して、自分のいる部に誘ったのか。また私を虐めて楽しむつもりだろうか。それにしては、何故私に協力的に動いてくれたのだろうか。
「好きだったから。永遠のこと」
カラスの鳴き声が、耳元で聴こえたように感じるほど大きく響いた。
好きだったから虐めた? なにそれ、意味がわからない。
私は今でもこんなに苦しんでいるのに。
体が後ろに倒れそうになって、必死に足に力を入れた。運動靴と地面が擦れる音さえも爆音で、思わず肩が跳ね上がる。
このままでは壊れてしまう。
どこかでそう悟ったのか、悟る前に逃げ出したかっただけなのか、気がついた時には黒い世界に視線を落とし、走り出していた。
何も見えない、何も聞こえない。
いや、何も見聞きしたくなかったんだ。
私の名を呼ぶ声さえも耳に入れないよう、全速力で地面を蹴った。
地面を叩く音と荒れた呼吸で、全部忘れてしまいたかった。
そうだ。私は弱い。
いつまでも忘れられない。いつまでも過去のしがらみから解放されない。
ふと、壇上でマイクを持つ日彩が目に浮かんだ。
先生という、立場が上の人に対しても恐れず、自分の意を伝えられる強さ。
それを兼ね備えた日彩なら、こんな時どうしただろうか。
めげずに一人の人間に向き合い、過去のことは過去の事として終わらせ、今を大切に進んでいくのだろうか。
駄目だ。私にはできない。
私はそんなにも強くない。
どうしたって、あの日のことを思い出してしまうのだ。
羨ましい。
日彩が羨ましい。
強い日彩も、明るい日彩も、元気な日彩も、賢い日彩も、優しい日彩も、沢山の人に囲まれている日彩も。
私に無いものばかり持っていて、幸せそうな日彩が羨ましくて……恨めしくて仕方がない。
息が上がる中、唾を飲み込んだ。瞬間、酸素を補うことができない肺が悲鳴をあげ、ぐっと胸を掴む。
咳をした。何度も何度も吐き出し、そして吸い込む。冷たい空気が鼻腔を出入りして、じんと赤くなる感覚があった。
それでも私の足は止まらなかった。恐ろしい自分という影から逃げるように、無我夢中で地面を蹴る。砂利が靴の裏にひっついて跳ね上がった。
こんな自分から変わりたい。
今日流した何度目かの雨が、また違う感情とともに落ちていった。
*
一度力を抜いた体は鉛のように重く、膝をがくがくと震わせていた。
毎年体育の授業である持久走でも、これだけ長時間長距離を走ったことがない。日彩に比べると少しは運動ができる方だが、それでも一般的に見ると体力は無い方である。
それがいきなり酷使されたのだ。一歩一歩がたどたどしく、肩を使っての呼吸が収まらないのも無理はない。
ずっと流れていく地を見つめていた。時折塀にぶつかりながらも、なんとか良く知る扉の前に立つ。
震える手で鞄のチャックを摘み、鍵を取り出して差し込んだ。
扉を引く力も弱く、ガチャっと小さく金属が擦れる音を立てて、中に入った。天井にある電球が、私という存在を感知して光を注ぐ。
足元に現れた真っ黒な私が、私をじっと見つめている気がした。
弱い奴だと、指を差されながら笑われている心地になり、思わずそれを靴で踏み潰して家に上がる。
「あら永遠、帰ったなら一言声くらい掛けなさいよ……って、どうしたの?」
母がエプロン姿で、心配そうな表情を向けてきた。
無理もない。無理もない。
ただ自分に言い聞かせる。全速力で天然の冷たいドライヤーに当たった酷い髪と、頬に浮かぶ枯れかけの川の跡、真っ赤になっているであろう鼻や耳、ミイラのように震えた手足と、上下に揺れる肩。
「……ううん。大丈夫だよ」
何が大丈夫なのだろう、と口に出してから考える。だがその答えは見つからない。最早その問いすらどうでも良い。
私は母から体の向きを遠ざけ、二階にある自室へ向かおうとした。
『もうすぐ死ぬ』
突然、今朝の夢の映像が頭をよぎる。
どうして今日はこんなにもついていないのだろう。朝からおかしな夢を見て、日彩の凄さを思い知らされ、記憶の奥にしまっていた人物と再開していたことがわかって。
挙句の果てに、好きだったからと。
今日一日に私が抱えられる負荷の量は優に超え、ばらばらと腕の中からこぼれ落ちた。
やめて、これ以上私を追い詰めないでーー。
「ただいまー!」
階段の手すりをぎゅっと握った時、相変わらず元気な声が玄関から響いてきた。
学校が終わって疲れているはずなのに、本当に相変わらず明るくて、相変わらず幸せそうで……相変わらず羨ましい。
「おかえりなさい日彩。もうすぐご飯できるから、手洗いうがいしておきなさいよ」
母が背後でそれだけを言い残し、さっさと台所へ戻っていく。はーい、とこれまた陽気な声を弾ませながら、鞄に付けた学業御守の鈴の音が、ちりんちりんと近付いてきた。
「わ、びっくりした。どうしたのお姉ちゃん? そんなところで立ち止まって」
階段手前は死角になっていて存在を確認できなかったのか、私を見つけるや否や、大きな目がわざとらしく更に開く。
そんな表情も可愛らしい。
いいな。どうして同じ血が流れているのに、こんなにも違うのだろう。
「……日彩は幸せそうでいいよね」
黒いモヤの掛かった言葉が、口という煙突から溢れ出した。
そこでハッと我に返る。何でもない、とでも言ってそそくさと部屋に戻ればよかったんだ。
でもそれより早くに、彼女の言葉が返ってきてしまった。
「お姉ちゃんも、何事ももっと前向きに捉えたら幸せになれるよ!」
日彩は屈託のない笑みを浮かべて、私にそう言ったのだ。
私の汚い感情を纏った言葉を、皮肉とすら捉えず、どうすれば私が幸せに感じられるかを提案してしまう。その心の清らかさと、自分の醜さを無意識に比べてしまって、私はこのぶつけようのない感情を、どうしても内に留めておくことができなかった。
「日彩は本当にお気楽だよね……。そんなのだから、自分の悪いところにも気付かないのよ」
何がしたいのか、自分でもよく分からなかった。日彩を傷つけたいのだろうか。酷いことを言ってしまっている自覚はある。けれど、自分が受け止めきれなかった分の負荷を、誰かに押し付ける事しか、今の私には処理の仕方がわからなかったのだ。
日彩は一瞬瞳を揺らし、口角が下がる。ああ、日彩でもそんな表情をする事があるんだと思ったが、それは一瞬のことで、すぐに彼女は手札である様々な表情を展開させて見せた。
「うーん、確かにそれはそうだよね。前向きに捉えすぎるのも良くないけど、幸せを感じる一番の方法は、物事を前向きに捉えることだと思うよ! 私はもう少しダメなところも見直した方がいいけどね。教えてくれてありがとう!」
あはは、と軽く笑いのけてみせた彼女に、無性に腹が立った。
違う、そんなことを言って欲しいんじゃない。
ダメなところってどこだ。日彩のどこにダメなところがあるって言うんだ。日彩にダメなところがあるとするなら、私なんてダメなところしかないじゃないか。
目の前の笑顔を崩したくなった。傷つけたかった。傷ついて欲しかった。
……ううん、傷ついて、私と同じ気持ちをわかって欲しかったんだ。
「私は前向きになんて捉えられないよ。幸せにだってなれない。日彩と私は違うんだから。私は日彩みたいに明るくないし、賢くもない。フレンドリーでもないし、強くもない。なりたくてもなれない……私は一生変われないの!!」
腹の奥底から湧き出る黒い泉が、どんどんいっぱいになって、氾濫のラインを超え、洪水になる。
大きな声となって日彩を呑み込んだ。
私の目論みはおおよそ叶った。日彩は傷ついていたと思う。今までに見たことも無いような悲しい表情を浮かべ、次第にそれは怒りにシフトしていた。
「お姉ちゃんが前向きに捉えたら良いだけじゃん! そんなの簡単に変えられるじゃん!」
日彩は私の数倍以上に声を張り上げる。悲しみと、苦しみと、怒りの合わさった、綺麗に通る声だった。
氷のような廊下が、つま先をどんどん蝕んでくる。
簡単に変えられる? 変えられるわけがない。変われるものなら今すぐ変わりたい。こんな自分、やめてしまいたい。
そう反論しようとするも、彼女の口は止まらなかった。
「人生一度きりなんだから、やりたいこと沢山やって、直したい部分は直していけばいいじゃん! 今は今しか来ないんだよ!? 変わりたいなんて口だけ。本当は一切変わる気も勇気もないから動けないだけなんでしょ!? だから行動にはしないんでしょ!? いつまでも言い訳ばっかりして可哀想な自分に酔って……ネガティブに浸るな!」
日彩は私を押しのけるように階段を駆け上がっていった。制服の袖で涙を拭う後ろ姿が残像として残る。
私は何も言えなかった。だって日彩の言ったことは全て正しかったから。
変わりたいと願って、私は何か自ら行動に移してみただろうか。ただ自分と日彩を比較して、日彩を羨んで、勝手に八つ当たりして。
可哀想な自分に酔っているとは、正にその通りだ。
それでも私の曇った感情は晴れなくて、ただ胸の中で助けを求める。
あれだけ酷い言葉をぶつけてみても、何もスッキリしない。加えて図星まで言われてしまう始末。
「もう嫌だ……」
自分なんて大嫌いだ。
どうしようも無い感情の暴走の行き着いた先は、彼女を傷つけた後悔しか残らなくて、私はまた自分に負荷を抱き締めさせたのだった。
それからというもの、日彩は受験勉強のため部屋に籠りがちに、私は動画作成を中心とした生活を送っていたため、会話の機会がないまま二日が過ぎた。
いつもならば、喧嘩をしても次の日の朝には何事もなかったかのように話をしていたが、何せ顔を合わせる機会がなければ、仲直りも普段通りの会話もできない。そんなこんなで二日も経ってしまい、もはやどうすれば良いのかわからなくなってしまったのだ。
そして今日も朝が来る。私は部屋の前で何やら声が聞こえて目が覚めた。まだ外は薄暗く、入ってくる光は紫色で、暖房の切れた部屋は布団から少し足を出しただけで凍えてしまいそう。
「ええ、そんな状態で受験会場まで行けるの?」
母の心配そうな声がはっきりと聞こえた。
勉強のし過ぎで日彩が体調を崩してしまったのではないかと、会話に耳を澄ます。
「まあ、お腹は壊してるみたいだけど、頭は大丈夫だし問題ないよ! でも脚が一番おかしいんだよね、動かしづらくて。あと腰が痛い。座りっぱなしが良くなかったのかなぁ。まあ帰ってきたら寝て、ちょっとゆっくりするよ」
「本当に大丈夫? 怖いから、お父さんに車で送ってもらおうか」
「え、いいの? じゃあお願いしようかな」
声は徐々に遠ざかり、ただの音となる。部屋から出て階段を下りて行ったらしかった。
受験当日に不調だなんて、日彩も運が悪い。この受験が第一志望と言っていたから、今日こそ持ち前の元気で乗り越えてほしいのに。
日彩のことを哀れみながらも、私はどこか他人事のように捉えていた。きっと日彩なら、何だかんだと言いつつ無事に終え、やり切ったと伸びをしながら嬉しそうに帰ってきて、受験から解放された喜びで録画をしていたドラマを見たり、高校入学に備えた勉強に取り掛かったりするのだろうと。あの完璧な日彩であれば大丈夫だと、信じていた。
心配はしつつも、これまでの経験上の安心感から、私は特に起き上がって声を掛けることもなく、そのままもう一度眠りについた。
*
もはや展開は読めた。
私はパソコンに向かって座っており、相も変わらずコメントを追っている。
そしてこれは夢であると、背後にいる何者かの気配に気付いて振り返った瞬間に悟った。
自室だったはずの空間が、いきなり真っ白な部屋へと変わり、窓も家具も、立ち上がった瞬間から椅子も消えてしまっていた。どこまでも広がる白い世界は、壁があるのかないのか、上下すらも分からない。ただ白い、そんな場所にクリーム色のパーカーを着た人物が一人立っていた。下を向いており、フードを深く被っているせいで、顔が一切見えない。背丈は私と同じくらいで、横髪が少し見えていることから、女の子であることは認知したが、それ以外の情報を視界から手に入れることはできなかった。
でもなぜか、私はその人物に親しみを感じたのだ。まるで自分自身と向き合っているような。そして、例のコメントの主も彼女であると、私の直感が伝えていた。
しんとした空気が流れる。私の体は動かなかった。彼女に近づくことが許されていないような。彼女に親しみは持つことができるのに、触れてはいけないと肌で感じる。
すると謎の少女は小さな声で呟いた。
「生きたかった」
およそ八メートルは離れていると思われる距離で、彼女の声は耳元で生まれたかのように、空気を裂いて届いた。
唐突に聞こえる重みを含んだ発言に、私は息をのむ。手がじわりと汗ばんだ。
「やりたいこと、まだまだたくさんあったのに」
矢で射られたと思うほど、強く、鋭く、耳元で鳴る。だが、いや違う、と思った。彼女は私の脳内で話しているのだ。聞こえる声は全て私の声で再生される。言わばテレパシーだ。
「大人になりたかったよ……」
脳内で弾ける声が弱くなる。なぜだか私まで、涙が瞳を覆ってきた。手を伸ばしたくて、抱きしめて守ってあげたくて、私はなんとか言葉を返した。
「だ、大丈夫?」
すると私の存在に気が付いたのか、ピクリと肩が動き、彼女は少しだけ顔を上げる。
きらりと一筋の涙が頬を伝い、何もない白い空間に落ちていった。
頬がくすぐったくて、何かを払うように目が覚めた。手についたそれを見ると、生暖かい透明な水滴。それが涙と分かるまで、そう時間を要しなかった。
壁に時計を見ると、起きる予定時刻の十分前だったため、私はそのまま布団と別れを告げて立ち上がる。床から素足に直接伝わる冷気が、目覚まし代わりとなった。
そこにはしっかりと家具があった。壁も、窓も、机に広がっているパソコンたちも。立ち上がり離れたはずのベッドも、消えることはない。
どうしてこんなにも同じ夢ばかり見るのだろう。それに、いつまで経っても終わらない。延々と続きがある。
連日のように見る同じ夢に、私は恐怖を覚え始めていた。