斜め後ろに立った桐原さんが説明してくれる。ページをめくると、今度はチャペルの中の写真で、祭壇の前にベールをかぶった女性が俯き気味で立っている。ステンドグラスから差し込む光がキラキラと写りこんで、荘厳な雰囲気。
「すごくきれい」
思わず呟くと、後ろから照れたような声がかかる。
「仕事抜きで目の前で見られるのは、ちょっと恥ずかしいかも」
奥で仕事してるから、ゆっくり見てて、と言って、桐原さんはパソコンに向かい始めた。
次々ページをめくっていくと、ドレス姿の女性以外にも、いろんな表情の人たちの写真が現れる。口の周りをケチャップでベタベタにした子供のあどけない顔、老夫婦が寄り添って笑う姿、大きなお腹のお母さんの幸せそうな微笑み。
違うアルバムを手に取ると、今度は抜けるような青空の写真が現れた。こちらは広告ではなく個人的に撮ったものなのか、いろんな写真が集められていて、風景だったり人物だったり、食器や時計などの物体だったりした。
私は写真のことなんてよくわからないし、美的センスもないけれど、それでも引き込まれていく力が写真たちにはあった。感じることがうまく言葉にできなくてもどかしいけれど、なんていうか……。
凛とした、静けさというか。
雪の日の朝が思い浮かんだ。冷たく澄んだ空気の中で雪が降り積もっていく、すべてを包むような、しん、という音にならない音。
無理に言い表そうとすると途端に陳腐になる、けれどそこに確実にある、なにか。
ふと、ページをめくる手が止まった。そこにある写真に、目が釘付けになる。
夕日に染まる部屋の中の写真だった。家具もなんにもなくて、からっぽの部屋の写真。
なぜだろう、なんだか妙に、悲しくなった。心の一部をえぐり取られるような、痛みを伴う既視感。昔、こんな気持ちになったことが、確かにある……。
そう思うのと同時に、私の目からいきなりぼろぼろと涙がこぼれた。
なんで、なんでこんなに悲しい気持ちになるんだろう?
自分の感情についていけなかった。わけがわからないまま、涙だけが溢れてくる。
「日南子ちゃん、どうかした……」
動かなくなった私を不審に思ったのか、桐原さんがこっちに目を向けて、私を見るなりぎょっとした。
「え、なに、具合でも悪くなった?」
おろおろ近づいてくる桐原さんに申し訳なくなるけれど、私もどうしていいかわからない。
「違います、なんだか、勝手に泣けてきて」
差し出されたティッシュの箱を受け取って、深呼吸を繰り返すと、どうにか落ち着いてきた。
「わあ、びっくりした」
呟いた私に、心配そうにこちらを見ていた桐原さんが、大きくため息をつく。
「びっくりしたのはこっちだよ。なにかあった?」
「この写真、見てたら急に悲しくなって」
開いたアルバムを指差す。覗き込んだ桐原さんは、なぜだか驚いたような顔をした。
「……これ?」
こくん、と頷く。
「なんだか、昔見たことがある気がするんです。何かの広告に使ったりしましたか?」
「いや、このブックの写真は全部アシスタント時代に練習で撮ったものだし。これは展示会に一度出したことがあるけど、ニューヨークでだよ?」
ニューヨーク、展示会……。その言葉で、急速に記憶が蘇ってくる。
「それって、六年くらい前じゃないですか?」
「確かにそれくらいだけど」
「大きいギャラリーみたいなところで、誰かの個展の隅っこで、いろんな人の写真が集まってるような」
「……なんで知ってるの?」
訝しげな桐原さんとは反対に、私は納得した。あの時に見た写真だ。
「私、ニューヨークのその展示会、見たんです。おじさん夫妻に連れて行かれて」
あの時、私を救ってくれた写真。
六年前、中学一年生だった頃の冬の初め。
大好きだったお母さんが交通事故で死んだ。飲酒運転の車が、お母さんが運転していた車に突っ込んできたからだった。私も後部座席に乗っていたのだけれど、奇跡的にカスリ傷程度で済んだ。その代わり、お母さんは即死だった。
その時のことはあんまり覚えていない。大事をとって入院していたせいで、お葬式にも出なかったし、退院した頃には全て終わっていたからだ。
退院した後に待っていたのは、ただお母さんがいないだけのいつも通りの日常だった。だからだろうか、私にはお母さんが死んだという事実がうまく飲み込めなくて、悲しんだり泣いたりできなかった。ただ、なんだか気力が湧かなくて、ずっとぼんやりし続ける……そんな私は、周りの人には相当無理しているように映ったらしい。見兼ねた母の姉が、自分たちの住むニューヨークに遊びにおいで、と言ってくれた。叔母は母が亡くなってからそのまま日本に滞在して、私たちの面倒を見てくれていたのだけれど、私を置いていくのは不安だと、帰るときに一緒に連れて行ってくれたのだ。少し環境を変えてみたほうが、気分転換になるだろう、と言って。
学校の許可を得て長めの春休みを取ると、叔母と二人、ニューヨークへ旅立った。初めての海外で、もっとドキドキするかと思ったけど、私の壊れかけの感情はあんまりうまく働いてくれなかった。久しぶりに会う叔父もとても親切にしてくれたし、叔母と二人、いろんなところに連れて行ってくれたけれど、見るもの全て、なんとなく霞がかった印象しか持てなかった。
そんな時に連れていかれたのが、叔父の知り合いの画廊で開かれていた個展だった。ニューヨーク在住の日本人のフォトグラファーの個展だったと思う。私にはあんまり興味が持てなくて、画廊のオーナーと話しながら見て回る叔父夫妻から一人離れて、見るともなしにぼんやり眺めながらぶらぶらしていた。個展の片隅には、そのフォトグラファーのアシスタント達の写真も飾られていて……。
そこで目に飛び込んできたのが、その部屋の中の風景の写真だった。
他の写真と何が違ったのか、今でも全くわからない。
だけどその写真は、強く強く私の心を引っ掻いた。
いきなりぶわっと悲しい気持ちが溢れ出して、その写真の前で、涙腺が崩壊したかのようにひたすら泣いた。驚いた叔父夫妻が泣き止ませようとするのだけれど、どうしても止まらなくて、結局帰りの車で泣き疲れて眠ってしまった。
その日以降、麻痺していた心が反動で過剰反応を起こすように、全ての感情がいつもの何倍もの鮮やかさで私に襲い掛かった。何を見ても何をしても、全てが悲しいくらいに美しく感じられた。母が死んでからの涙を全部溜め込んでいたのかと思うくらい、私は涙を流し続け、ようやく落ち着いたのは日本に帰ってきてからだった。
それまで頭にかかっていたもやもやが嘘のように消えて、私はそこで、ようやく母が亡くなったという事実を納得できたんだと思う。日常生活に戻っても、楽しい時は笑えるようになり、母を思い出しては悲しむことができるようになった。父と二人、頑張っていかなきゃ、と思えるようになり、そして徐々に、母がいなくなった寂しさを乗り越えていくことができたのだ。
「写真の存在なんて、正直今まで忘れてましたけど。やっぱり強く印象に残ったものって、どこかに引っかかってるんですね」
びっくりしたけれど、あの時私を救ってくれたのが桐原さんが撮った写真だったなんて。神様が糸を繋いでくれたような、運命的なものを感じる。
「誰が撮ったものかなんて全然知らなかったけど、わかって嬉しいです。ありがとうございました」
「いや、礼を言われるようなことしてないし」
「ううん、この写真に出会えなかったら、今でもちゃんと悲しむことができないままだっかもしれないから。やっぱり、桐原さんのおかげです」
笑みがこぼれる私から、桐原さんは視線を逸らし、どこか遠くを見るように視線を宙に向けた。あまり嬉しそうではなく、どちらかというと沈んだ表情を浮かべる。
どうしてそんな顔をするのだろう。なんだか悲しみを無理に押し込めているような、寂し気な顔。
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「なに?」
「この写真、どこを写したものなんですか?」
なんの変哲もない窓の写真なのに、どうしてこんな気持ちになるんだろう、と見た時は不思議だった。そして思ったのだ。
もしかしたらこの写真を撮った人も、悲しみの中にいたのかもしれない、と。
「海外に行く前に住んでたアパートだよ。……そうだな、これを撮った時、俺も同じような気持ちだった」
私の心を読んだかのように、桐原さんが呟いた。
「大事なものをなくしたあとだったから」
その表情を見て、なんでこんなこと聞いちゃったんだろう、と後悔した。
痛いのを堪えているような、見ていて辛くなるような微笑みだった。
本人が分かっていなさそうなのがさらに辛い。あの時の私も、こんな顔をしてたんだろうか。
何を失くしたんだろう。今でもそんな顔をするくらい、大事なもの。
「もう一個だけ、変な質問していいですか?」
やめておけばいいのに、私の口が勝手に動き出す。
「うん?」
「どうして、ニューヨークに行ったんですか?」
容子さんから聞いた話。真相は全然違う気がする。
私の表情を見た桐原さんは、何かに気付いたようだった。
「もしかして、ようちゃんからなにか聞いた?」
「恋人から逃げるためだったって噂があるって」
桐原さんが苦笑する。
「なんでそんな話になるんだろう」
「本人が、それらしいことを言ってたって」
「俺、そんなこと言ったかな」
心底不思議そうに首をかしげ、それからああ、となにか思い出したように頷いた。
「確かに、逃げるためだ、とは言ったかも。その時の自分から、っていう意味だったんだけど」
それから、冷めちゃったね、と言って、半分飲みかけだった私のカップを持って、また奥に下がってしまった。これ以上、何も話すつもりはないよ、とでも言いたげに。
何を……誰を。なくしたんだろう。
時間が経っても忘れることができないような、大切な、大切な、もの。
知りたい、と思った。桐原さんの心の中を。
過去を。
どんな別れを経験してきたのかを。
◆
もう遅くなったし、送るよ、と言うと、彼女はそんなに遠くないから大丈夫、と断った。
「この辺外灯が少なくて危ないから。家を知られるのが嫌なら途中まででいいし」
「そういうわけじゃないですけど、いつも夜に一人でコンビニとか行くし」
「今日みたいな泣いたあとの顔で、一人でフラフラしてたら、襲ってくださいって言ってるようなもんだよ」
この子は少し無防備すぎる。いつかひどい男にひっかかって、騙されそうで心配になる。
彼女は、う、と言葉につまり、じゃあお願いします、と小さな声で言った。
ほんとに近いから、と車は遠慮されたので、連れ立って二人で歩く。今回は少しだけ彼女が前を行った。さっき、少し強引に会話を終わらせてから、彼女の口数が減った気がする。いろいろ聞きたいことはあるけれど、聞けない、ってところだろうか。つくづくわかりやすい子だな、と思う。
「家は実家?」
こちらから話を振ると、どことなくほっとしたように表情が和らいだ。
「ううん、今は一人暮らしです。お父さん、私が大学に入るときに再婚したから、私は家を出ることにしたんです」
これはあまり突っ込まない方がいい話題なのかな、と少し迷うと、気配を察してか慌てて付け足した。
「べつに居づらかったわけじゃないですよ、相手の人もすごくいい人だし。でも、やっぱりお母さん、って素直に呼べなくて。無理して一緒に暮らさなくてもいい、って言ってくれたし、私も新婚の邪魔はしたくなかったので」
今でもご飯食べにちょくちょく帰ってます、と笑う。
「桐原さんはご実家はどこなんですか?」
「実家、っていうものはない、かな。俺の両親、ガキの頃に死んでるから」
え、と今度は彼女の方がすまなそうに顔を曇らせた。
「俺もそんなにひどい思いしたわけじゃないよ。引き取ってくれた親戚の家でも、本当の家族みたいに接してもらったし」
それでも、そこは実家とは言わないだろう。高校を出て働き始めてからは、ほとんど連絡は取っていない。
「ひとりでいるのも慣れてたし。どっちかというと誰かといるより、ひとりでカメラを構えてる方が楽しかった」
「小さい頃から、写真を撮るのが好きだったんですか?」
「俺が、というか親父の趣味で。子供用のカメラを買ってもらって、海とか山とかよく一緒に撮りに行ったよ」
小学四年の時に事故で母が亡くなり、あとを追うように父も一ヶ月後に死んだ。心臓の発作で突然倒れたらしいけど、それまでなんの病気もしてこなかった人が母が死んで急に倒れるなんて、なんて仲のいい夫婦なんだ、と子供ながらに皮肉げに思ったものだ。
突然ひとりぼっちになった俺は、父の妹の家に引き取られた。叔母は自分の子供と同じように接してくれたし、両親がきちんと保険に入ってくれていたおかげで、そこまで肩身の狭い思いはしなかった。それでもやはりひとりだけ異質なものだという自覚はあった。遠慮もあったし、なるべくひとりでいるように意識していたところもあったかもしれない。大学まで行け、という叔母の言葉にも逆らった。早く好きな仕事で食っていけるようになりたかったし、誰にも頼らないで生きていけるようになりたかった。
高校の時にバイトしていた写真館の店主の息子が沢木さんだ。当時東京のスタジオでバリバリ活躍していた沢木さんの口利きで、俺も卒業後にそこで使ってもらうことができた。
「東京にいたんですか?」
「うん。二年くらいしかいなかったけど」
東京へ行って、ニューヨークへ行って。我ながら贅沢な経験をさせてもらってるな、と思う。全部沢木さんのおかげで、だからいつまでたってもあの人には頭があがらない。
「なんだか羨ましいです。幸せですね、自分の好きなことを思い切りやれるって」
それは本当にその通りだと思う。選びようがないまま流されることもあったけど、その時々で導いてくれる人がいて、いまこうやって自由にやらせてもらえている。自分は幸運だ。
「日南子ちゃんだって、今やりたいこと好きなだけやればいい。先のことなんて、案外どうとでもなるよ。いつか後悔しないように」
何かを永遠に失ったあと、それに対して悔やんだって、取り返しはつかないから。
「はい」
素直に頷く彼女は、例えなにか困難にぶつかったとしても、きっと真っ直ぐに向かっていくんだろう。
ここです、と彼女が指し示したアパートは、事務所から本当に近くて、ゆっくり歩いてきたけれど十分もかからなかった。今日コンビニで出会ったのがすごい偶然だと思っていたけど、案外ほかにもすれ違ったりしていたのかもしれない。
「送っていただいてありがとうございました」
丁寧に頭を下げる彼女に、じゃあね、と手を振り踵を返すと、あの、と呼び止められた。
真剣な目でこちらを見ている。
「また、写真見に行ってもいいですか?」
どう返事をするか一瞬迷った。これ以上、彼女に関わるのは怖いような気がする。だけどそれと同じくらい、また会いたい気もする。
「いいよ。いつもいるわけじゃないから、来ても留守かもしれないけど」
「いなかったら、何回でも出直します」
真っ直ぐに見返してくる、その目に、射抜かれる。
「……待ってる」
その目から逃れるように、今度こそ振り返ることなく歩き出した。彼女の視線が追って来るのを感じながら、自然と早足になった。
あの目で真っ直ぐぶつかってこられたら、俺はどうするだろう。何度も何度も、躱し続けることはできるんだろうか。もし、躱しきれなかったら? あの目に、捕らわれてしまったら?
想像しかけて、早々にやめた。
考えるだけ無駄だ。どうなるかなんてわかりたくもない。
もう二度と、誰かの人生に深く関わることなんて、したくなかった。
※
「写真、撮ってるの?」
一人でふらりと川沿いまで歩き、桜にカメラを向けていた時、ふいに後ろから声をかけられた。
明るいパステルピンクのワンピースを着た女の子が、興味深そうに俺の手の中のカメラを見つめていた。
「おんなじクラスの、桐原くん、だよね?」
「……中屋、さん」
声をかけたものの自信がなかったのか、彼女はよかった、と少しほっとしたように笑った。
彼女のほうはうちの高校の有名人だった。入学式の時に、美人のしかも双子がいる、と男子の中でかなり騒がれていた。しっかりもののクールな姉と、ふわっとした少し天然気味の妹は、雰囲気は違えど造作はほとんど一緒で、見た目では微妙な髪の長さの違いでしか判別できない。
同じクラスということは、これは妹の方だろうか。
「後ろから見てて、なんか見たことある人だなあって思ったの。ね、それすごいね、自分のなの?」
コンパクトなデジタルカメラはだいぶん普及したけれど、こんなでかい一眼レフは、普通の高校生はあまり目にすることはないだろう。しかもかなりの年代物。
「元は親父のだけど。貰ったんだ」
貰った、というか遺された、というか。彼女がどれだけ俺の家庭の事情を知っているかはわからないけれど、自分からいちいち説明するものでもない。
「そうなんだ。かっこいいね、すごい本格的」
すごい、すごいと連発しながら、カメラを眺めまわし、持ってみたい、と言い出した。
「いいけど」
落とすなよ、とカメラを渡すと、恐る恐るという感じで両手で受け取った。
「けっこう重いんだね。すごーい」
楽しそうにカメラをひっくり返したり、撫で回したりしている。
……よくこんなに楽しそうにできるな。
人付き合いがそんなに得意じゃない俺には、同じクラスだというだけでほとんど話したこともない人間に、にこにこ話しかけてくる気持ちが理解できない。微妙な知り合いの姿を見かけたら即立ち去るし、正直今も居心地が悪かった。だけど彼女はそんな俺のことなどお構いなしで、カメラに夢中だ。あろうことか、撮ってみたい、と言い出した。
「いいけど、どんなのが撮れたかなんて、現像しないと見れないよ?」
フィルムのカメラはデジカメと違って、その場で画面を見て確認なんてことはできない。しかも古ぼけたこいつは扱い方も難しくて、慣れない人が撮ったったら確実にボケるかブレるかして何を撮ったかわからなくなる。俺も始めの頃はずっとそんな感じで、必死で勉強して練習して、やっとちゃんと撮れるようになったのだ。
「いいよ、出来上がるまで楽しみに待ってる」
ということは、現像して持って来い、ってことか?
「ねえ、どうすればいいの?」
まあ、いいか、と簡単に思った。珍しいおもちゃで遊んでみたいだけだろう。写真のことなんてすぐ忘れるだろうし、とりあえずシャッターを押せば写真は撮れる。
「ここ、覗いて。シャッターはこれ。押せばいいから」
面倒な説明は全部省いた。どうせ理解できるとも思えない。
そんな適当な説明に気づかず、彼女は真剣な顔でカメラを構えると、桜の花に向かってファインダーを覗き込む。えい、という掛け声付きでシャッターを押した。
「これで撮れた?」
撮れた。なにかしら物体は写ってるだろう。頷いてみせると、ありがとう、と嬉しそうに笑ってカメラを寄こす。
「桐原君の家、ここの近所なの?」
「近くもないけど」
「そうなの? うちは近くなの。毎年ここの桜、咲くの楽しみにしてるんだ。家族みんなでお花見するの。理恵と二人で来たりするんだよ。あ、理恵、わかる? 三組の」
彼女は一人で楽しそうに話し続けた。俺の愛想のかけらもない返事なんて、一向に気にしていないようだった。天然、って噂、本当なんだな、と勝手に納得する。
「明日、雨らしいから、もう全部散っちゃうなあって思って見納めに来たの。満開の時もいいけど、このくらいの散り際も綺麗だよね、ふわーって花びらが風に舞って」
しゅんとしたりうっとりしたり、くるくる表情が変わる。
風が吹いて飛んできた花びらを、追いかけようと彼女が手を伸ばして、捕まえられず宙をかいた。口を開けて、一心に花びらを目で追う姿はなんだか子供みたいで、思わず小さく笑ってしまった。
笑われた気配に気がついて、彼女がこちらを振り返る。
「あ、笑った」
ごめん、と謝ると、ううん、となぜか嬉しそうにする。
「笑ったところ、あんまり見たことないから貴重だなあって思って。もっと笑えばいいのに」
何が嬉しいのかニコニコしている。周りから無愛想だと言われるのは事実だけど、今初めて話したような相手にそんなことを言われると思わなかった。
「だってもったいないよ。笑ったらかっこいいのに」
そんなこと面と向かって言われても返答に困る。
「あ、でもやっぱりそのままでいいかなあ」
ふふっ、と彼女は微笑んだ。
「私だけが知ってる方が嬉しい」
耳が赤くなったのが自分でもわかった。可愛いことで有名な彼女に、なんでこんなこと言われてるんだろう。そりゃ褒められて嬉しいけど、変な風に勘違いしそうになる。
「あ、赤くなった」
また楽しそうに笑って、俺に向かって手を伸ばしてきた。驚いて身を引くと、その手は俺の髪に伸びて、花びらを摘んでいた。
「ついてたよ」
ふうっと息を吹きかけて飛ばすその姿は、なんだか少し艶かしくて。
天然なのか、わざとなのか、わざとなら何の意味があるのか。
真意がわからなくて混乱しかけた俺をよそに、写真できたら教えてね、と言って彼女は去っていった。ひらひら手を振りながら。
なんなんだ。なんなんだ一体。
彼女の後ろ姿を見ながら、俺はしばらくその場でバカみたいに突っ立っていた。
次の日から、彼女がよく話しかけてくるようになった。他愛もない話に彼女はよく笑い、つられるように俺も笑った。初めのうちは周りに冷やかされたりするのが面倒だったけど、徐々にそれもなくなっていき、俺の目が自然に彼女を追うようになった頃、彼女から告白された。
中屋、から自然に名前で呼ぶようになった。
優衣、と。
彼女はいつも、名前を呼ぶと、少し照れたようにはにかんだ。
優衣と付き合い始めてから、双子の姉の理恵とも話をするようになった。見慣れてしまえば二人は全然違っていて、同じ服を着て同じ髪型をしていても、見分けられる自信がある。理恵とも仲良くなった頃、優衣には内緒、と言ってこっそり教えてくれた。
「あの子、多分ガクに一目惚れしたのよ。入学式の日から、違うクラスの私でも気付くくらいいつも見てたもん。ほんとわかりやすいよね」
理恵も優衣も、俺のことを下の名前で呼んだ。でもやっぱり声にも性格が出るのか、理恵が呼ぶとさっぱりした響きになるのに、優衣が呼ぶと柔らかく響いた。
優衣があの日撮った桜の写真は、当然ながらピンボケで、渡した時、彼女はひどく落ち込んだ。付き合うようになってから、ちゃんと説明しなかったことを明かすと、思い切り拗ねて、丸一日無視された。今度きちんと教えてあげるから、と俺にしては必死で謝って、ようやく許してもらった。
一台のカメラを交互に譲り合って、二人でよく写真を撮った。彼女が撮った写真を見るのは、自分とはまた違った感性があって新鮮で、面白かった。俺が優衣を撮ることもあって、彼女が笑う、その姿を何度でも焼き付けたくて、夢中でシャッターを切った。
高三になって、俺が東京で就職する、と言うと、彼女と大喧嘩になった。
優衣の家はお父さんが厳しい人で、当然のように地元の大学に進学しろ、と言われていた。優衣も、俺が就職するつもりなのは知っていたけど、バイト先の写真館でそのまま社員になると思っていたらしい。
沢木さんから東京行きの話をもらったとき、俺は一も二もなく飛びついた。優衣と遠距離になることも一瞬頭をよぎったけど、それよりも、新しい世界を見てみたい気持ちの方が何倍も強かった。優衣も理解してくれると勝手に思いこんでいた。
離れ離れになっても平気なの、と彼女は泣きながら俺を詰った。
『私のことなんて、全然大事に思ってない。ガクは写真が撮れれば、ほかのことはどうだっていいんでしょ』
ふだんおっとりとした彼女のどこにこんなに激しい感情が眠っていたのかと驚くくらい、すごい剣幕で怒りをぶつけられて、俺はようやく優衣の気持ちを全く無視してしまっていた事に気がついた。
事の経緯を知った理恵が俺に行った。
「ガクはこれからのことどう考えてるの?」
正直、その時点で二人の将来を具体的に考えるのは難しかった。だけど、いつか自分の腕で生きていけるようになった時、優衣に隣にいて欲しかった。
俺から逃げ回る優衣を理恵が説得してくれて、二人で話し合った。俺が自分の気持ちを正直に伝えると、優衣は東京に進学することを決めた。
優衣はカンカンに怒ったお父さんを理恵と二人でなんとか説き伏せ、東京の大学を受験した。なんとか第一志望に受かって、晴れて二人で東京に行けるのが決まった時は、抱き合って喜んだ。
未来は明るく開けていると思った。新しい世界は少し怖くもあるけれど、そばに優衣がいてくれれば大丈夫だと思ったし、なんでも乗り越えられると思った。
ずっとこのまま一緒にいて、いつか家族になって、ともに年老いていくのだと、信じて疑いもしなかった。