7日で記憶が消えるなら僕は天使がくれた悪魔の契約を飲む。

ここは柚子白(ゆずしろ)高校。都心部とはかなり離れている田舎の学校だ。
昼休みという空腹が満たされている至福の休み時間。
僕、露木(つゆき)隼人(はやと)はカッターシャツの上に冬服を身に纏い、窓側の一番後ろの席という誰もが憧れる席に座り、本を読んでいる。
本を読みながら横目に見える窓。その窓の奥からは雪が深々と降り、積もっている。道路には(わだち)ができ、本格的な冬の訪れを感じる。

「また本読んでる。隣いい?」

声のする方に目を向けると、幼馴染兼彼女である水菜(みずな)瑠璃(るり)の姿があった。
きちっとしたセーラー服を身にまとい、黒髪ロングに水色のヘアピンをつけている。瑠璃の姿はかわいいというより綺麗という言葉が似あう女の子だ。

「いいよ。僕の隣の子、今日は休みだから」

そう言うと瑠璃は僕の隣の席に腰を下ろした。
瑠璃の長い髪の毛が僕の肩に触れて、少しばかり緊張する。

「風邪流行ってるもんね」

「そうだね」

瑠璃と付き合い始めたのはつい先日のこと。
今までは至って普通の仲の良い幼馴染という関係だった。
瑠璃と出会ったのは幼稚園の時。絵本を読んでいた僕のところに瑠璃が声をかけてくれた。
それからだ。僕は毎日、瑠璃と遊ぶようになっていった。幼稚園だけじゃない。それ以降の小学校、中学校と僕の日常にはずっと瑠璃がいるのが当たり前になっていった。いつからだっただろう。
瑠璃が好きという気持ちが表れたのは。確か小学校の高学年になってからだったと思う。そんな中、今の今まで告白しなかったのは単に怖かったからだ。今まで仲良く過ごしていた日常が壊れることが。友達としていつも横にいた瑠璃が離れてしまう可能性があることが。だから今までずっと好きという気持ちは押し殺してきた。
僕は、気持ちを伝えるつもりは全くなかった。
だけど先日の帰り道。ふと瑠璃の顔をみてつい口にこぼしてしまった。

「好きだ」

「え?」

「あ、えーと...」

ふいに出てしまった言葉。故意じゃない。無意識だ。もう後には戻れない。誤魔化すような機転の利くセリフも僕は持ち合わせていない。
こぼした瞬間、頭が真っ白になる。隠せないな。そう思い、僕は思いを告げる。

「瑠璃。ずっと...ずっと好きだった。僕と付き合ってくれませんか?」

後半は謎に恥ずかしさが勝り敬語になってしまった。普段は瑠璃に敬語なんて使わないのに。
今、思うとなんてぎこちない告白なんだろうと思う。

「やっと...やっと好きって言ってくれた。うれしいよ。隼人。私もずっと好きだった。これからは仲の良い友達としてじゃなく、恋人だね」

瑠璃は微笑んだ。とてもやさしい笑顔を僕に向けて。
こんな形で告白は成功。決してかっこいいとは言えない告白だった。
そして、今、恋人として瑠璃は隣の席に座っている。

「なんの本読んでるの?」

「よくあるミステリー系かな」

「へぇー。読み終わったら貸してよ。私も読んでみたい」

「いいよ。明日にでも貸すよ」

「相変わらず読むの早いね、隼人は」

「瑠璃も似たようなもんだろ」

お互いに本が好きという事もあって、昼休みは本の話をする。時には一緒に本を読んだりもする。
他のクラスメイトは体育館に行って、バスケットボールやドッジボールをして楽しんでいる。今、教室にいるのは僕と瑠璃だけだ。僕は断然インドア派の人間。こんな寒い日に教室から出るなんて考えられない。というか凍え死ぬことが目に見えてるし。
何より瑠璃と過ごすこの静かで穏やかな時間が非常に落ち着く。

「今日も静かだね。この教室は」

「嫌か?」

「ううん。逆。とても落ち着く」

「僕も」

そう言って瑠璃は僕の肩に頭をこてんと預けてくる。とても濃い時間だ。
そんな二人の時間に浸っていると、ガラッと教室の扉が開く。
そちらに目を向けると見知った二人の姿があった。
一人は僕と同じカッターシャツを着ていて、腕を物干しざお代わりに冬服をかけている少し茶色がかった短髪の男子生徒。もう一人は瑠璃と同じセーラー服をきているがベージュのカーディガンの腕の部分を腰に回し結び付けており、茶髪のポニーテールを跳ねさせているいかにもJKというような女子生徒だ。

「おうおう、お熱いですな。お二人さん」

そう煽ってくる物干し竿、いや男子生徒は小学生から仲良くしてる僕の親友。翡翠(ひすい)(れん)だ。
小学生のころに同じ陸上のクラブに入っていた。小学生当時はクラブに入ることが強制だった。僕は先生に言われて陸上に入ったが、インドアな人間からしたら地獄だ。そんな時に悩みを聞いてくれたのが蓮だ。それを機に仲良くなった。今ではもう本音を言い合える唯一の友達だ。

「どうしたんだ蓮。とっくに夏は過ぎてるぞ」

僕は煽りを華麗にスルーして返事をする。
蓮は高校になって急激に短距離のタイムが伸び、うちの高校のエースといわれるくらいの実力者だ。そのせいか他校の女子からは絶大な人気を誇っている。あくまで他校だ。この高校では大人気というわけではない。理由はただ一つ。うるさいからだ。もう少しおとなしくしていれば顔立ちもいいし完璧なのにと僕は思う。

「無視か。まぁ、いいけど、実は「聞いてよ!りー!」」

蓮の会話に割り込んで来るや否や椅子の背もたれ越しに瑠璃に抱き着いてきたのは瑠璃の友達の桔梗(ききょう)紗南(さな)
桔梗は僕と家が近く、顔見知り、というか普通に女友達だ。瑠璃とは中学のころ、一緒のクラスになってからずっと仲がいいらしい。瑠璃も大切な友達って言ってたし、なにかきっかけがあったのかは知らないけど、瑠璃と一緒にいる友達といえば桔梗というイメージがあるくらいだ。

「この蓮とかいうバカが、また騒いで先生に捕まってさ。たまたまそこにいた私も捕まって二人でこの寒い中、掃除させられてたの」

「わぁー、ほんとだ。紗南ちゃんの手、すごく冷たいね。私の手でよければカイロ代わりに使って?」

「りー!ありがとう!お言葉に甘えてりーも寒いだろうから右手だけ借りるね」

「どーぞ」

瑠璃はにこっと微笑んで桔梗に右手を貸してあげている。
というか、昼休みのあとに掃除の時間があるのに、その昼休みに掃除なんてこいつらも大変だな。桔梗は蓮が騒いでたって言ってるけど大方、桔梗も騒いでいたんだろう。

「うそつけ。紗南、お前も騒いでたくせに」

「ふんっ」

蓮の言葉に知らんぷりをする桔梗。これはやっぱり予想通りみたいだ。

「ところでりーと本屋さんはまた本読んでたの?」

「うん。そうだよ。隼人も私も本好きだから」

「毎回言うけど、僕のことを本屋さんっていうのはやめてくれ」

桔梗はとにかく変なあだ名をつける。
友達だったら、あだ名で呼び合いたいというのが彼女の性らしい。瑠璃の"りー"はまだわかる。女子生徒同士のあだ名って感じだ。だが、"本屋さん"は違うだろ。名前の原型もないし、その呼び方だと誤解を招く場合もある。

「えーいいじゃん。別に。いつも本読んでるし」

「その呼び方だとどう考えても変だろ。というかあだ名じゃない」

「うー。わかったよ。また考えとくから」

と返事する彼女だが多分、これは考えないパターンだ。もう数十回このやり取りをしているが、一向に"本屋さん"からあだ名は変わったことがない。もう半分あきらめかけている僕がいるのも確かだ。

「にしてもようやく付き合ったよな隼人と瑠璃」

この二人は唯一、僕と瑠璃が付き合っていることを知っている。
お互いの親友の好みってことで二人には伝えた。

「翡翠くん、昨日も同じこと言ってたよ」

微笑みながら返事をする瑠璃。
瑠璃は基本的につながりがあれば誰とでも話せる。蓮とも僕との友達つながりから仲良くなっている。

「いや~、なんかお父さんの気分だよ俺は」

「なんでだよ」

すぐさまツッコミを入れる。
まぁ、蓮が言うことも分からなくはない。小学校の頃から蓮に瑠璃が好きっていうのは気づかれていたみたいだし。そう考えれば蓮は約5年くらい付き合うまでを見ていたという訳だ。と言ってもお父さんの気分は盛り過ぎだとは思うが。

「ほんとやっとかって感じで。俺はうれしいよ」

「はいはい。それはありがとう」

「私も、りーと本屋さんのこと応援してるよ。なんたって二人お似合いのカップルさんだもんね~」

「ありがとう。紗南ちゃん」

桔梗。お前やっぱり直す気ないだろ。と思いつつも素直に応援してくれることはありがたいことだ。
僕と瑠璃とはまるでタイプの違う親友が二人。この二人のおかげで僕と瑠璃だけでは彩られないであろう日常が彩られるのは素直にうれしいことだ。僕も瑠璃も比較的おとなしい方だから、賑やかな二人が入ると楽しい。高校生っていう感じだ。それになにより、こんな騒がしい二人の親友も本気で僕と瑠璃の関係を応援してくれている。お互いに良い親友を持ったと心の底から思う。

「桔梗ー!蓮ー!どこ行ったー!まだ、掃除終わってないだろー!」

教室の外から僕らのクラス担任の西田先生の声が聞こえてくる。
僕らの担任はいかにもな体育会系。あんな大きな声を出す先生、うちの学校にはそういない。

「やばっ、先生の声だ。紗南、行くぞ。これ以上掃除増やされたらたまったもんじゃない」

というかお前ら、反省の掃除抜けだしてきたのかよ。せめて掃除終わってから、僕らのところに来た方がよかったんじゃないかと思う。

「えー、やだ。私はりーと温め合いっこするの」

そう言って瑠璃から離れようとしない桔梗。

「ほらっ、行くぞ」

先生の声が近づいてくる。
焦った蓮は瑠璃と桔梗を無理やり引きはがし、腕を引っ張りズルズルと連れていく。

「やだやだ。りー助けてー」

「ごめんね、紗南ちゃん。掃除終わったら、また手貸してあげるから」

「そんなぁ~」

がっかりした顔で連れていかれる桔梗。さすがにこれは瑠璃でも擁護しようがないだろう。というか二人が悪い。仕方のないことだ。

二人が教室を出るとき、蓮がこちらを向いて、僕を指さす。
どうせいつものあれだろう。

「隼人!瑠璃を幸せにしてあげろよ」

蓮は毎日同じことを僕に向かって言う。付き合い始めてからずっとだ。
そんなこと蓮に言われなくてもわかってるよ。でも僕のことを思って言ってくれているのだけは毎回伝わってくる。

「何回言えば、気が済むんだよ。お前は。わかってるよ」

僕が蓮に向かってそう言うと、蓮はにこっと笑顔を向けグッドポーズをした。そして、そのまま、桔梗を連れて教室を出ていった。
二人が教室を出ていった後も、扉越しに二人が言い合いをする声が聞こえてくる。

「あの二人、なんだかんだ仲いいよね」

「二人とも同じタイプだし、なんだかんだ気が合うのかもな」

「ちょっと憧れるな」

「蓮と桔梗に?」

確かにあの二人は何事に対してもはっきりというか自分の意見を言う、積極的と言えばいいのだろうか。そういうタイプだ。瑠璃はどちらかといえば消極的の方ではある。でも人はそれぞれだ。

「うん。それに隼人も」

ここで僕が出てきたのは意外だった。だって、どう考えても消極的な方だと思うからだ。瑠璃への告白だって何年もしなかったくらいだし。

「二人はともかく僕は違うと思うけど」

「そんなことないよ。3人とも自分の意見をはっきり言う方だよ。さっきの隼人と翡翠君のやり取りみたいに」

なるほど。そのことか。
今思うと、確かに恥ずかしいことをはっきりと言ってしまった。今になって顔が熱くなってくる。

「あの時は...」

言いかけた時に昼休みの終わりを告げるチャイムが響く。
それと同時に瑠璃が席から立ち上がる。

「昼休み終わっちゃったね。さ、掃除いかないと」

そういって教室の扉のほうに向かう瑠璃。
僕はさっきの会話がどことなく引っ掛かって瑠璃を引き留める。

「瑠璃!人はそれぞれだし、意見を言うことがすべてじゃないと思う。瑠璃は人の話をきちんと聞いてくれて、思いやりがある。僕は瑠璃のそういうところに憧れてる」

「ふふっ、心配してくれたの?ありがとう」

「あ、いや...」

「ねぇ、隼人。私も隼人のこと幸せにしたいと思ってるよ」

その言葉を残して瑠璃は教室を後にしていった。
教室に一人残った僕は、本を閉じながら

「瑠璃こそしっかりしてるよ」

小さくつぶやいた声は静かな教室に溶け込んでいった。

あっという間に1日の授業が終わる。あとはホームルームを残すのみだ。
教室は帰宅の準備を始めながらがやがやとクラスメイト同士で騒ぐ声に包まれている。
少しすると、ガラッと扉が開き、担任の西田先生が入ってくる。

「ほらー、席につけー」

その言葉で一気に教室が静まり返る。さすが体育会系の先生といったところだ。

「明日からまた雪がひどくなるらしいから、気を付けて学校に来るように」

「せんせー!休みにはなりませんか?」

蓮が手を挙げて先生に尋ねる。
学校では一度は味わったことがあるこの下り。蓮はたびたびこの下りをする。まぁ、クラスではムードメーカー的存在なのだ。

「蓮、お前だけは絶対登校だ」

「えー、それはあんまりっすよー」

先生と蓮のやり取りでクラスが笑いで包まれる。

「じゃあ、ホームルームはこの辺で」

「あ、そうだ。露木。放課後、職員室に来てくれるか?」

僕の名前が呼ばれ、なにかしたっけと考えつつ返事をする。
誰しも先生に呼ばれたときは、まず、心当たりを探すことから始まる。僕もそうだ。

「はい、わかりました」

「あー、隼人。お前なんかしたんじゃねえか」

蓮に茶化され、クラスの視線が僕に集まる。

「蓮じゃあるまいし、そんなわけないだろ」

「安心しろ蓮。お前と違って露木は優秀だからな。委員会のことだ」

「二人して、つめたーい」

なまったるい声で蓮が答える。
その返事でまたクラスに笑いが起こる。ほんとこのクラスは蓮のおかげで賑やかといっても過言ではない。
そして、蓮のおかげで僕が呼ばれた理由のおおまかなことは分かった。

「じゃあ、気をつけて帰るように」

瑠璃も聞いていたはずだから分かってるとは思う。
けど、とりあえず先に帰っててくらいは言っておかないと。ずっと待ってもらうのも悪いし。

「あ、瑠璃、今日...」

「うん。下駄箱のところで待ってるね」

「遅くなるかもしれないよ?」

「いい。待ってる」

瑠璃は一度言うと聞かない、謎に頑なな部分がある。

「わかった。あまりに来なかったら帰ってていいから」

「うん」

瑠璃を後にして、帰る荷物をまとめて一階の職員室に向かう。
なんだろう。職員室に呼ばれるなんて初めてなくらいだ。蓮や桔梗みたいに職員室常連じゃない。
そんな疑問を持ちつつ、職員室の扉を開ける。

「2年C組の露木です。西田先生いらっしゃいますか?」

「露木。こっちだ」

職員室に入ると、すぐに先生に呼ばれた。僕のほうに向かって手を振っている。
独特な空気に包まれた生徒なら誰しも緊迫する空気を切りながら、先生の机に向かう。

「悪いな。放課後に」

「いえ、大丈夫です」

「この本を図書室に持って行って、登録しておいてくれないか?」

先生の頼みは図書室にはいる新規本の登録の話だった。
この先生は体育会系でありながら、図書委員会の担当教諭という似合わない役職に就いている。
まぁ、先生本人は読書が好きらしい。知ったときは人は見た目じゃないという言葉が身にしみて感じた。

「わかりました。やっておきます」

「おう。頼んだぞ」

僕はこの先生が嫌いじゃない。
いや、この先生が嫌いな生徒なんていないと思う。
もちろん厳しい部分はあるが、面白いし、生徒一人一人と向き合う。時には男女関係なく生徒と遊ぶ。
人気な先生の典型的な例だ。なにより、生徒に対してこんな温かい目で見てくれる人はそういない。

職員室を後にした僕はすぐに図書館に向かう。
新規本の登録。1年生の頃はとても手際がいいとは言えず、かなりの時間がかかっていた。
でも、2年生になった現在まで図書委員を続けているおかげか手際よく、図書室の仕事なら大抵のことはできるようになった。今では、僕のことを"図書室の番人"なんて呼ぶ生徒もいるくらいだ。
放課後の図書室は相変わらず閑散としていた。まぁ、休み時間ならまだしも放課後に図書室に来るもの好きな生徒なんてそういないか。

「100冊くらいか」

とはいえ、この量は骨が折れそうだ。
職員室から持ってきた分だけかと思っていたが、図書室にはそれ以上に新規本が山積みになっていた。
本来なら僕のクラスの図書委員は僕を含めてもう一人いるけど、あいにくその子は今日休んでいる僕の隣の席の子だ。一人では多いなんて言っていられないので、とにかく手を動かす。黙々と本の中身に印を押す。ページを開く音だけが静かな図書室に流れていった。
作業を終えるころには、雪は止み、雲の隙間から顔を出した陽が窓に差し込んでいた。嵐の前の静けさというやつだろうか。

「もう5時か」

職員室に行った時が3時半くらいだったから、あれから1時間半経っているわけだ。
何かに集中すると、時間の流れが速く感じるとはこのことだ。

「もうさすがに帰っただろうな」

誰一人いない図書室の窓に向かってつぶやく。
そして、荷物をまとめ図書室を出る。今の時期は雪が降り積もるということもあり、部活動をする生徒はいない。
通常ならば部活動の声が聞こえてくる時間帯の廊下を抜け、下駄箱に向かっていく。

「あ、おつかれ」

「瑠璃。先帰っていいって言ったのに」

下駄箱には瑠璃の姿があった。
相当待ってたんだと思う。この季節の廊下、ましてや外の風が流れ込んでくる下駄箱付近はとにかく寒い。
瑠璃の手先が真っ赤になっていることが待ち時間の長さを示していた。

「待ってたかったから」

もちろん僕にとっては嬉しいこと。だけど、もう少し自分を大切にしてほしいと思う部分が瑠璃には多々ある。
この件だけではない。瑠璃は優しすぎるから、自分は二の次なことが多い。

「せめて教室で待っていればよかったのに」

「入れ違いになるかなと思って」

淡々と返答してくる瑠璃。
確かに入れ違いの可能性があり、筋が通っているから、僕は何とも言い返せない。

「次からは教室で待ってて」

「うん。わかった」

「さ、帰ろっか。待たせてごめん」

「全然いいよ。帰ろ」

二人並んで学校を後にする。
並んで帰る通学路。僕は車により跳ねる雪解け水から瑠璃を守るように車道側を歩く。
僕らの横の道路を車が走り抜ける。車が通るたびに冷たい風が突き刺さり、僕らの間を突き抜けていく。
隣では、瑠璃が真っ赤にした両手を擦り合わせている。見るからに寒そうだった。

「手、つなぐ?寒そうだよ」

「いいの?」

「うん、いいよ」

「ありがとう」

ここで僕らは恋人という関係になって初めて手をつないだ。少しばかり恥ずかしい。
瑠璃の右手から、氷のような冷たさが左手に伝わってくる。随分、待たせてしまったなと改めて感じる。
なんだか未だに実感が湧かない。瑠璃が彼女として僕の隣にいるのは。

「ふふっ、なんか実感湧かないな。今まで幼馴染で友達だった隼人が恋人として隣にいるなんて」

「僕も同じこと考えてた」

「ねぇ、隼人。これからは恋人としての思い出たくさん作っていこうね」

この日一番の瑠璃の笑顔が僕に向けられる。
とても幸せだ。もう一生気持ちを伝えられないと思っていた瑠璃が今はこうして隣にいる。
心が満たされていく感じだ。これから瑠璃と恋人として様々な思い出が形成されていく。楽しみで仕方がない。

「うん。もちろん」

それからは他愛のない話をしていた。話が盛り上がるころにはお互いの家が近くなり、住宅街の路地に差し掛かる。僕らが二手に分かれる交差点が見えてきた。
まだ付き合って間もないがここに来ると少し寂しい思いに駆られることが多い。なにより今日は手を繋いでいるため、寂しさがいつもより深く感じてしまう。

「じゃあ、また明日ね。隼人」

「うん、また明日。気を付けて」

「うん、ありがとう。じゃあね」

淡々と別れの挨拶を告げ、手が離れる。
手を離した後も瑠璃の背中を目で追ってしまう。好きな人を目で追うことはいつになっても変わらないな。
かすかに右手に残る温かさがより一層寂しさを感じさせる。
さて、寒いから早く帰宅しよう。瑠璃の背中を追うことをやめ、瑠璃とは反対の道を進んでいく。

「はぁー、にしても寒い」

この日は最近で一番の寒さ。ほんとに冬は寒いから苦手だ。かといって夏が好きかと言われれば違う。夏はまた暑いから苦手だ。これは一般の人が大抵思う事なんだろう。
こんな寒い日だと人も少ない。みんな家で暖を取っているんだろうと思っていた矢先、角を曲がると人だかりが見えた。

「なにかあったのか」

人と絡むつもりもないので人だかりの少し後ろの方で僕はみんなの視線の先を見る。
そこには警察官数名にいかにもな中年くらいだろうかおじさんが道路に俯せになる形で押さえつけられていた。騒ぎの原因はこれか。

「はなせっ」

「うるさいっ。おとなしくしてろっ」

いつもなら閑静な住宅街に怒鳴り声が響く。
見るからに何か犯したのだろう。にしても珍しいな。こんな田舎は滅多に犯罪なんて起こらないから。
そのギャップもあり、こんなに人が集まっているってことなのだろう。決して見せ物ではないが、騒ぎのもとに集まるのは人間の性だな。僕も含めて。

帰ろう。僕は事態が知りたかっただけだ。何事なのか知れた以上、ここに止まる必要もない。
僕が後ろを振り向いて歩き出したと同時に後ろから悲鳴が聞こえてきた。

「きゃあああああ!」

「うああああああ!」

何事だ。すぐさま僕はまた後ろを振り返る。
僕の目にはとんでもない光景が飛び込んできた。警官の拘束を振りほどいた犯人が暴れている。そしてこっちに向かって走ってきている。
あれほどまで人だかりだった場所は一瞬で崩れ、レッドカーペットが敷かれたかの如く人の壁が二手に分かれた。
その中央をその犯人が走ってきて、一直線に僕の方に向かってくる。やばいやばいやばいやばい。どうする。逃げなきゃ。いや、だめだ。間に合わない。すぐそこまで来てる。やばい。やばい。

「あぶないっ!!」

警察官であろう人の声が僕の耳に入る。
ぷすり。

「っ!」

首元になにか刺された。
首筋の血管を伝って、何かの液体が流れ込んでくる。首筋から体の上へ下へと隅々まで流れ込んでくる感覚だ。その感覚を最後に僕の意識は途絶えた。


誰だろう。
誰かの声が聞こえてくる。聞き覚えのある人の声だ。

「はやと!」

その声に呼び戻されるように意識が起こされる。
目を開けると視線の先には真っ白な天井が広がっていた。独特な薬品のような匂いが鼻腔を刺激する。

「はやと?」

声のなるほうに顔を向けると僕の母親の姿が横にあった。
母さんは仕事終わりなのかスーツを身にまとい、背もたれもない独特の丸椅子にちょこんと座っていた。
僕はどうやら眠っていた。いや、意識を失っていたらしい。ぼやけていた意識が徐々に覚醒し、状況がつかめてくる。

「わかる?母さんだよ?」

「母さん」

「よかった。目を覚まして」

震えた声で母親が返事をする。頬には涙が乾いた跡がある。
どうやら相当心配をかけてしまったようだ。

「ここは?」

「隣町の病院よ」

やっぱりか。なんとなく理解はできた。
あの時、意識をなくしてからどうなったのか覚えていない。そして今、ベットに寝かされている。
この状況から察するに、あの後、僕は救急車で運ばれたのだろう。

「ほんと心配したんだから。隼人が救急車でこの病院に運ばれたって聞いて」

「ごめん。心配かけて。僕はどれくらい眠ってた?」

「私が来てから1時間くらいかしら」

ということはあれからそんなに時間は経ってないらしい。ベットの脇の時計を見ると、短針が8時を指していた。
アニメのように3日も眠り続けていたわけではないようだ。

それからはしばらく母さんと話していた。
僕が見たあの事件の犯人はあの後、警察官にまた取り押さえられたこと。病院の先生によると命に別状はないとのこと。ひとまず、それを聞いてほっとした。
僕が意識を失っている間に様々な検査をしたらしい。検査結果が出るまではもう少しかかるみたいだ。
検査結果を聞くまでもなく僕は大丈夫だろうと思う。目立った外傷もないし、何より自分の体のことは自身が一番わかっている。寝かされていることがおかしいくらい至って健康体だ。
気掛かりなことが一つあるとすれば、意識を失う直前に刺された"なにか"のことぐらいだ。

母親と話に夢中になり、お互いに笑顔もこぼれ始めた頃に、病室のドアをノックする音が聞こえた。

「はい」

「失礼します」

母さんがドア越しに返事をすると、白衣を身にまとった40代?いやもう少し若いくらいの男性が入ってきた。
言わずもがな僕を診てくれた医師なのだろう。

「目を覚まされたみたいでよかったです」

「ありがとうございます」

「先生、ほんとにありがとうございます」

母さんと僕はベットの脇に立った先生にお礼を言う。
おそらく検査結果が出たのだろう。ここに医師が来たという事はそういう事だ。

「で、どうでしたか?結果のほうは」

母が真剣な面持ちで先生に尋ねる。

「命には別状はありませんでした」

「そうですか。よかった。ほんとによかった」

母は椅子に座り込んでほっとしたように崩れてしまった。
でも、僕には先生の言った言葉に引っかかった。"命には"という言葉に。その言葉遣いだと命には異常はないが、他の場所に異常があるように聞こえる。
そう考えていると先生がベットに座っている僕の目線まで腰を下ろす。

「確かに命には別状はありませんでした」

先生の顔色が曇り、真剣な眼差しを僕に向ける。

「隼人君もお母さんも落ち着いて聞いてください」

急な空気の変わりように一気に病室に緊張感が走る。
母さんの息を呑む音が聞こえてくる。それに呼応するように僕も息を呑む。

「隼人くん。君の記憶はあと7日後に消えてしまう」

「え...」

僕の日常が壊れた瞬間だった。

先生との僕との短い距離の間で緊迫した空気が流れる。
え、今、なんて言った?記憶がなくなる?7日で?どういうこと?訳が分からない。
一瞬の静寂が病室内を包み込む。

「隼人君。君の体にはとある薬品が投与されている」

一瞬の静寂をすぐさま先生が破り、言葉を音として発する。
口内に変な酸味が上がってきて、汗がにじみ出てくる。心臓がバクバクと大きな音を立てる。決していい気分とは言えない。
先生が言った言葉が理解できない。悪い冗談かなにかか。そうだよ。きっと冗談だ。
そんな逃避を自分の中でしてみるが、病室内の緊迫な空気に先生が発する重く真剣な声が、冗談という僕の逃避が冗談じゃないことを物語っていた。

「ちょ、ちょっとまってください!せんせい!命に別状はないんですよね!なら、なんでそんな記憶が消えるなんて!」

母さんが先生に反論し返事を促す。
母さんも突如、先生から言われた言葉に理解が追い付いていないようだった。状況が呑み込めないのも無理はない。ましてや薬品が投与されているなんて母さんには想像すらできないだろう。

「もちろん、命は大丈夫です。しかし、それとは別に隼人君の体の中にはある薬品が入り込んでしまっている。その薬品は端的に言うと、記憶を消す効果があるということです」

「記憶を消す...?」

母さんがぽつりとつぶやく。母さんはひどく混乱しているようだ。僕もそうだ。
母さんと先生の言葉を耳の中に入れるのがやっとの状況だ。頭が真っ白になってなにも考えられない。
いきなり記憶が消えるなんて言われて、はい、そうですか。なんて言えるはずもない。

「隼人君、辛いことを思い出させて申し訳ないが、事件に巻き込まれたときに何かを首元に刺されたはずです」

先生の言葉が僕を無理やり現実に引き戻す。
その言葉。僕の気掛かりがつながる。あの時、意識がなくなる直前、僕の中に流れ込んできた"なにか"のことが思い浮かんだ。なにかを刺されたことだけははっきりと覚えている。

「隼人君が病院に運ばれてきたときに警察官が言っていました。僕はすぐに命に別条がないか調べ、その後すぐに刺された首元からその成分を採取して調べました」

つながってほしくない全てのピースがつながる。
気掛かりだった"なにか"それが今回、記憶が消えると言われている原因だってことは分かりたくはないが分かってしまった。

「その成分。僕の中に投与されたのはなんなんですか」

喉から恐る恐る声を吐き出す。
横目に見える母さんは横で力が抜けたかのように座っている。

「その薬は"MR7"と呼ばれている薬です」

「"MR7"...」

ぽつりと僕はつぶやく。

「その薬は、海外から入ってきた記憶を消去してしまう薬です」

記憶を消去する薬。
バカげている。そんな薬、なんで存在しているのか。僕はその効果、薬の名称を聞いて麻薬関連のものだと想像をした。よくわからない感情がこみ上げてくる。怒り?苛立ち?いや、ちがう。なんでそんなものが僕に刺されたという現実を恨む感情。なんていう感情なのかはわからなかった。

「なんでそんな薬...」

先ほどのトーンとは少し低い声を先生にぶつける。

「僕は、この病院に来る前に精神科医を務めていた時期があってこの薬を知っています。もちろんこの薬の詳細なことも」

「隼人君。記憶とはみんなが持っているものだ。僕も同様に」

そんなことわかってる。
意味が分からない。なんで僕にそんな言葉を投げかけるのか。

「記憶は人間が脳内に保存されている情報。深い記憶は長期的に保存される。例えば印象的な思い出なんかが挙げられる。逆に保存されずに失われるものもある。単発的などうでもいい日常の動作とかね」

先生は淡々と僕に話してくる。
ますます意味が分からない。意味が分からないというのは先生の話してる内容についてのことじゃない。印象的な思い出は残り、どうでもいい思い出は消える。先生が話してる内容は理解できる。わからないのは僕にその記憶というものの説明をする意味のことだ。

「隼人君、君はこの薬を聞いてすぐに麻薬を想像したとおもう」

先生に見事に言い当てられてしまう。

「でも、これは麻薬ではなくて、正式な薬です」

そう言われても、納得なんてできるはずがない。
信じられるわけがない。正式な薬?記憶を消去するなんて薬のどこが正式なのか。

「なんのためにそんな薬...」

疑問だ。疑問しかない。
なぜという思いから、なんのためにそんな薬が存在しているという思いに変わる。

「確かに記憶を消すなんて薬、聞いただけじゃ必要ないと思うだろう。しかし、さっき話した記憶の話。長期的に残る記憶が精神的にマイナスなものだとしたらどうだろう。例えば、いじめや虐待、誰しも消してしまいたい思い出だ。でもその思い出は印象深く永遠に心の傷として残り続ける」

先生の話を聞いて察した。
その場合に投与する薬だということ。確かに必要かもしれない。確かに理には叶っている。それでも記憶を消すというのはあまりにも非人道的だ。

「簡単に言うとそのような精神的なストレスが身体に害を及ぼす場合に使われる薬です。もちろん、この薬は簡単に使えるものではありませんが。」

「この薬は投与後、副作用で一度、意識を失います。そして投与されたその次の日から7日のカウントを得て記憶が消去される。この7日間は記憶を消す準備期間になります。ゆえにメモリーリセットセブンとも呼ばれています」

メモリーリセットセブン。
笑ってしまいそうなくらいそのままなネーミングだ。そして最悪な運命だ。
記憶が消える薬が運悪く、僕の中に入ってしまった。あの時、人だかりに近づかずに帰っていれば、いや、図書館の仕事なんかせずに早く帰っていれば。後悔の波が次々と僕に襲い掛かる。でも、引き時がないその波は現実の僕に打ち付けられる。

「その、その薬を取り除く方法はないんですか?」

先ほどまで石像のように固まって聞いていた母さんが声を震わせながら、口を開く。

「残念ながら、血液の中に浸透してしまった液体を取り除くことは...不可能です。一度、投与してしまったら最後で...申し訳ございません」

先生が頭を下げる。分かりきっていた現実が僕と母さんに降りかかっていた。
小説で呼んだことがある。インフォームドコンセント。医師は医療知識のない患者に対して、うそ偽りなく伝えてから治療するという義務がある。だから先生は僕に対して、記憶の説明から薬の説明まで事細かく説明したのだろう。でも、治療の説明までは至らなかった。治療方法なんてものは存在しないから。そもそも通常ならこの薬自体が治療という手段だ。
でも、今回くらいは嘘でも希望はあります。くらい言ってほしかった。避けることができないどうしようもない運命が僕に襲い掛かる。


"明日から7日で記憶が消える。"


そのあとは先生から封筒を受け取り、僕と母さんと先生の3人で1階のエントランスの受付前に足を運ばせる。
どうしようもすることができない。それに僕の体には何の異常もない。咳が出るわけでもなければ、高熱があるわけでもない。ただ一つ記憶がきえてしまう以外は。だから病院側もなにかをしてくれるわけでもない。それに現代、ただでさえ病院のベット数が足りないとニュースに流れるくらいだ。いたって健康な僕がいる理由はなかった。
帰り際に先生が一言。

「はやとくん。なにかあったらまた来るといい」

病院の先生としての謳い文句だ。なんども耳にしたことがある言葉だ。
僕と母さんは一礼をしてから病院を後にした。
病院のエントランスを抜けて屋外駐車場に出る。夕方は止んでいた雪が深々と降りかかっており、車のフロントガラスがうっすらと白く染まっていた。
母さんはフロントガラスの雪をさっと払ってから車に乗り込む。僕は助手席、母さんは運転席に乗り込んだ。普段の車内なら母さんと世間話をして盛り上がる空間だが、今日はお互いに何も言葉を交わさず、静寂に満ち溢れていた。
隣町の自宅までは1時間程度。エンジンの音が鳴り響き車が走り出す。僕は無言で車窓を眺めていた。薄暗かった外もすっかり真っ暗になっていて、車窓には外の景色は映らず、代わりに自分のひどい顔が反射して映り込んでいた。

「隼人。ごめんね。母さん、守ってあげられなくて」

病院と自宅のちょうど半分の距離にきたあたりで母さんが口火を切った。

「母さんが変わってあげられたら」

普段なら母さんの声に反応して助手席に目を向けるのだが、今の僕はそんな気分になれない。だから終始、自分の顔が映る車窓を見つめていた。
母さんの震えた声。多分、泣いているんだと思う。
そして、ドラマや漫画でしか聞いたことがない親が子供にかける言葉。まさか自分がその声をかけられる立場になるなんて思ってもみなかった。実際にこの立場になって分かる。こんな言葉、今の僕には何も響かない。所詮母さんからしたら他人事だ。そんな言葉、気休めにもならなかった。


自宅について車が車庫にすっぽりと入る。
シートベルトを外し、車外にでた瞬間に夕方とはまた違った冷たい風が吹き抜ける。
病院を出た時に降っていた雪は止んでおり、空には雲の切れ間からかすかに星が輝いていた。この季節の天気はほんとに変わりやすい。明日の朝にはまたおそらく雪が降り積もっているんだろう。

「少し出てくる。すぐに戻るから」

終始無言だったからからか、久しぶりに発した声はすこし枯れていた。
僕は少しの間、一人になりたいと思い、自宅とは反対方向に足を運ばせる。

「ごはん作っておくからね」

「うん」

会話とも呼べるのか分からない少しの言葉の掛け合いを母さんとして、自宅から離れる。
僕は路地の傍らに積もっている薄い雪をサクサクと踏みしめながら、普段なら学校へいくための通学路を歩いていく。
記憶が消える。その実感が全く湧いてこない。多分、身体になんの影響も出ていない至って健康なことが実感が湧かない原因なのだろう。そして今こうして考えている実感が湧かないという記憶さえもきえてしまうのか。
しばらく歩くと、僕が事件に巻き込まれた交差点が見えてくる。事件に巻き込まれたときは騒がしかったこの路地もいまでは閑散としていた。夕方のことを思い出しても僕は何とも思わなかった。いや、多分、頭の整理ができていない今だからこそ何とも思わないんだと思う。
夕方のように立ち止まらずにすぐさま僕はそこを後にする。そこからまた少し歩くと、小さな橋が見えてきた。橋と言っても名前がつくような大きな橋ではなく、ほんとに短い小さな橋だ。僕はその橋の中央で立ち止まり、手すりに両腕を這いつくばせて、少しの静寂に浸っていた。

『これからは恋人としてたくさんの思い出を作っていこうね』

静寂が身を包む中でふと瑠璃の言葉を思い出す。
そういえば、瑠璃に告白した場所もちょうどこの橋の上だった。
瑠璃の言葉が今の僕にはとても胸に刺さる。夕方時に聞いたときは心躍らせたあの言葉が。
これから瑠璃との思い出をどれだけ作ったとしても7日後には僕の記憶からは完全に消えてしまう。いや、それだけじゃない。瑠璃とのこれまでの時間も告白した瞬間もすべて消える。蓮との思い出も桔梗のあの変なあだ名も、家族とのこれまでの思い出も。全部...。全部消える...。

「...なんで僕なんだよ」

先ほどまではなかったとてつもない絶望感が僕を襲う。
なんであの場にいた僕なんだ。他にも人はたくさんいた。その中でなんで僕だった。なんで警察官は一瞬、逃がしてしまったんだ。どう言っても仕方ない怒りが込み上げてくる。

「なんで、なんで...」

橋の手すりにおいた手を力いっぱい握りしめる。それに呼応するように顔が熱を帯びる。

『私も隼人のこと幸せにしたいと思ってるよ」

走馬灯のように思い出す瑠璃の言葉。
今まで友達という関係だったのに、やっとの思いで恋人という関係になれた。これからなんだよ。これから幸せな時間を二人で共有しようと思っていた。たくさんの思い出を瑠璃と作ろうと思っていた。大好きな人とようやく結ばれた。もしかしたらこのまま二人でなんて可能性もあったのかもしれない。

「なんでなんだよ...」

どうしようもない虚無感に襲われる。
力なく最後に発した声は僕の下を流れる水の音にかき消されて空気に溶け込んでいった。

「はぁ...」

母さんに心配をかけるわけにもいかないから僕はそこを後にして自宅のほうに足を運ばせる。
今のこの状況なら母さんが行方不明といって警察に通報なんてことにならないとも言い切れないし。
帰りの道では行きと違い、僕の重い足取りがより一層、道の傍らにある雪を深く沈んでいるように感じた。

家に着いて玄関を開けると同時に母さんが廊下の奥にあるリビングの暖簾から顔を出してきた。

「おかえり。ごはんできてるわよ」

決して優れているとは言えない疲れ切った顔。無理もないと思う。ただでさえ仕事で疲れているのにその状況下で僕が病院に運ばれたという連絡。そして立て続けに自分の子供の記憶が消えてしまうなんて言われたんだ。母さんも一杯一杯なんだろう。

「うん、ありがとう。すぐに行くよ」

僕は玄関で靴に付いた少しの雪を払いのけ家に上がる。
奥の方から暖房の機械音が聞こえてくる。外の寒い空気とは一変してとても暖かい空気が僕を包み込んだ
。リビングに行く前に廊下を右に逸れて、洗面台に向かい、手洗いうがいをする。今の季節はインフルエンザにかかる可能性があるし。いや、いっそのことインフルエンザにでもなってしんどい思いをした方が少しはこの虚無感が薄れるのだろうか。

「はぁ、何考えてるんだ僕は」

洗面台の鏡に向かってつぶやく。
鏡に映った僕の顔は相変わらず車窓でみた時とは変わらないひどい顔をしていた。
その後、すぐにリビングへ向かうとダイニングテーブルの上には二人分のカレーライスが置いてあった。僕の大好物であるカレーライス。少しでも気を持たせたいと思い母さんが気を使って作ってくれたのだろう。

「寒かったでしょう?カレー作ったよ」

「うん、ありがとう」

母さんが座っている席の真正面に座り、手を合わせて"いただきます"をする。
カレーを口に入れるとほのかにスパイスの利いた味が口いっぱいに広がる。僕は甘口でもなく辛口でもない中辛を好むため母さんがいつも絶妙に調節してくれている。確か甘口と辛口のルーを半々で入れてるって言ってたっけ。いつもの家庭の味だ。この大好きな味さえも忘れてしまうのだろうか。そもそもカレーが大好きということも忘れてしまうのかもしれない。
記憶が消えると言われてから、今まで何も感じてなかった日常の一つ一つを繊細に感じてしまう僕がいる。

「どう?おいしい?」

真正面に座っている母さんが尋ねる。

「うん、美味しいよ」

「よかった」

いつもならテレビをつけて母さんと二人で笑いながらごはんを食べる日常。でも今日はそんなはずもない。
母さんは気を使って、今日あったことについては触れてこようとはしなかった。ううん、僕がその話をしないでほしいという雰囲気を出しているんだろう。
とてもとても静かな時間が流れていく中、僕は口にカレーを運び続けた。

食べ終えたカレーが入っていた皿をキッチンにもっていき、水をかける。
あれから結局、母さんとはほとんど会話をしなかった。今日ほど自分の親と会話をしなかったことはないと思う。反抗期の時のほうが話していたと思えるくらいだ。
少しばかり申し訳ない気持ちが僕の頭の中に流れ込む。
でも、ごめん。母さん。今は頭の中がぐちゃぐちゃなんだ。

「今日はもう部屋にいくの?」

リビングを出て、自室に戻ろうと階段を上がりかけたところで後ろから母さんに声をかけられる。

「うん、ごめん。今日はもう寝るよ」

「そう」

母さんの返事を聞き終わるまでに僕は階段を上りだす。
ちょうど1階と2階の真ん中部分の踊り場に差し掛かったあたりで、母さんの声がまた後ろから聞こえてきた。

「はやと。母さんはどんなことになっても隼人の味方だからね」

そのとても優しい声が耳に入り、思わず振り返る。
母さんはとても優しそうな顔をこちらに向けていた。僕は今、どんな顔をしているんだろう。なぜかはわからないけど、僕の瞳が水分を含んだことに気づいたのですぐに母さんに背を向けた。

「うん、ありがとう。...ごめん」

僕はそう一言残し、自分の部屋に向かった。

自分の部屋のドアを開けると、エアコンの温かい空気が降りかかってきた。多分、母さんが僕のために自室を温めておいてくれたのだろう。僕の部屋はこたつ付きの机にベット、そして本棚が置いてあり、極力ほかのものは置いていない部屋だ。世間で言うミニマリストというやつなんだろう。
机の上を見ると、一枚の書類が置いてあった。その紙は病院でもらった"MR7"についての詳細が書かれている書類だ。僕はその書類を持ち上げ少し目を通す。先生が簡単に説明してくれたものが難しい言葉で羅列してあった。毎日、小説を読むくらい活字が得意な僕だが気分的にどうも読む気にはなれず、すぐに元あった机の場所に戻して、ベットに崩れ落ち、横向きに寝転んだ。

「(あと7日。7日ですべて消える)」

心の中でどうでもよくなっている自分がいる。
なんでこんな自暴自棄になっているんだろう。多分、いろいろ考えすぎた結果がこれだ。
これから何をしても僕の記憶には残らなくなる。どんなに特別なことをしても、いや普通の日常でさえ僕の中には残らない。いや、残ったところで消えてしまう。

「瑠璃...」

横向きの態勢から仰向きになって少し凹凸がある真っ白な天井に向かってつぶやく。
こんな状況でも瑠璃のことが頭によぎってしまう。僕は余程、瑠璃のことが好きらしい。

「ははっ。別れたくないなぁ」

乾いた笑いが部屋に響く。
もう自分の中では決めていた。いや、病院でその話を聞いた後の帰りの車内でもう決めていた。
瑠璃とは別れようって。もちろん別れたくない。大好きな人と恋人という関係になれて別れたいと思うなんて人はいないはずだ。
でも、別れないといけない。記憶がなくなる僕といると瑠璃につらい思いをさせてしまう。別れるのは嫌だ。でも、大好きな瑠璃がつらい思いをしてしまうのはもっと嫌だ。だからもう心に決めていた。
それに今なら、僕と瑠璃が付き合ってるという事実を知っている人も少ないから、怪しまれることもない。
まぁ、親友二人には怪しまれるかもしれないけど、インフルエンザという体で学校を休んで二人に合わなければ、問い詰められることもない。
瑠璃には明日、電話で伝えよう。

『ねぇ、はやと』

『うれしいよ。はやと』

『私もずっと好きだった』

走馬灯のように瑠璃の言葉がよぎる。僕の瞳が潤んでくる。

「ごめん。瑠璃。約束かなえれそうにないや」

つぶやいた言葉は僕の部屋に溶け込み、消えていった。
そして、急激な睡魔に襲われてそのまま僕は眠りについた。


カーテンから眩しい日差しが差し込み、半強制的に起こされる。
隙間から差し込む日差しをよけるようにベットから上半身だけを起こす。まだ、意識がぼんやりとしていて目がかすんでいる。少しのあくびをしてベット脇に置いてある時計に目を向けると時間は午前11時を回っていた。どうやら、太陽が昇りすぎてここまで日差しがさしこんでいたらしい。
普段ならこんな時間に起きることは絶対にない。ましてや平日の学校がある日。遅刻というかもう学校に行く気分にもならない。その理由は他でもなく昨日の出来事のせいだ。
この時間まで誰にも邪魔されずに起きなかったことから考えるに母さんは僕に気を遣って起こしに来なかったのだろう。

「はぁ」

ベットの上で一つ息を吸って吐き出してみる。
疲れて熟睡していて陽光で目が覚めるという気分のいい目覚めの典型的な例。でも昨日と変わらずいい気分とは言えなかった。
もう一度、時計を見つめる。長針が刻一刻と進んでいる。時計にタイムリミットがとうとう始まったなと言われている気分になる。7日間というタイムリミットが。

気怠い身体を動かし、昨日は見向きもしなかった机の上に置いてある"MR7"についての書類に手を伸ばす。もちろん見る気にはならない。でも一度目を通す必要があるから仕方なく目を通して詳細を見ていく。ほとんどのことが先生から聞いたことばかり。だけど僕にとって重要なのは成分や副作用ではなく、記憶の期間についての細かいことだ。
症状の欄に目を向け一通り見る。先生も言ってた通り薬を打たれた次の日から7日間のカウントを得て記憶が消去される。つまり今日が金曜日ということは来週の金曜日の朝に記憶が消えるってことだ。記憶が消える当日の具体的な時間までは解明されていないらしい。だが今までこの薬を扱ってきた患者の例を見ると、どうやら当日の起きた瞬間にはもう記憶が消えているらしい。
考えただけでもゾッとしてしまい、息を呑み込む。見るんじゃなかったと後悔してしまうがもう遅い。その後悔とともに時計のカチカチという音がいつもよりも早く感じる。


鉛のように重い身体を動かし、自分の部屋を出て1階に降りる。洗面台で顔を洗った後、リビングに向かう。リビングには母さんの姿は見えず、昨日カレーを食べた机の上に置手紙らしきものと朝ごはん、というか昼ご飯らしきものが置いてあった。

『休みたいところだけど、休めそうにないから母さんは仕事に行ってきます。横に置いてあるご飯しっかり食べてね。学校には体調不良と連絡しておいたからね』

どうやら学校への連絡も母さんが済ませておいてくれたらしい。僕の気を案じて体調不良という体にしてくれた。昨日は話す気にもなれなかったが母さんの優しさが心臓に突き刺さる。記憶が消えるまでには感謝を伝えておかないといけないなと思った。今までのことを思い返すと母さんはほんとに僕のことに精一杯尽くしてくれていた。学校や部活、陸上の大会の送迎なんかもそうだ。それも含めて伝えないと。まるでお別れかのように考えてしまう。いや、でも実際お別れなんだ。僕である露木隼人という人格は消えるわけなのだから。

母さんが作ってくれていた朝ごはん兼昼ごはんを食べ終える。食器を流し台に持っていき、洗い流していく。外気温のせいか蛇口からでてくる水がものすごく冷たい。今日、僕は瑠璃に連絡をしないといけないこと以外特にすることもない。瑠璃へ伝えなければならないことを考えるとさらに頭が重くなる。

瑠璃に伝えるのは夜でいいか。自分の中でそんな結論に至っていると、玄関の方からバイクが止まる音が聞こえてきた。少し時間をおいてまたバイクが走り出す音が聞こえる。おそらく郵便物かなにかだろう。そう思い、玄関の方に足を運ばせる。玄関の鍵を開けて扉を開く。外は晴れながらも雪がちらちらと降っていた。ほんとにこの季節の天気は変わりやすい。ポストから郵便物を取り出してすぐに中に入る。ほとんどが母さん宛の郵便物。主に化粧品のカタログなんかだけど、一つだけ茶封筒に僕の名前が書いてある郵便物を見つけた。あて名には病院機構団体と記載されていた。母さん宛の郵便物だけリビングの上に置いて、その茶封筒だけをもって僕はまた自室に戻った。

病院機構団体。宛名からして内容はおおむね予想がつく。
封筒を開けてみると、難しい文字が羅列してあった。そして一番最初に目に着いたのは"MR7の使用における研究への協力依頼"と書いてあった。難しい文字を読むまでもなく理解できた。

「はぁ、僕はモルモットなんかじゃないんだけどな...」

吐息を漏らすように声を漏らす。
人が絶望の淵に立たされているというのにこの封筒が僕の心をさらにたたきつけるようだった。というかプライバシーはどうなってるんだ。こんな封筒を送ってきた主に憤りを感じつつも僕はすぐに茶封筒ごとその紙をぐちゃぐちゃに丸めてごみ箱に放り投げた。
母さんがいなくて逆によかった。こんな封筒見たらまた母さんに心配かけることになる。これ以上母さんに心配はかけたくない。それだけが救いだった。


時刻は午後16時過ぎ。
どうやらあの後、また眠ってしまっていたらしい。途中までは瑠璃に送るメールの文章を考えていたんだけど、ベットの脇に携帯が投げ出されているあたり寝落ちというものをしてしまったみたいだ。
冬ということもあり太陽が沈むのも早く、カーテンの隙間からは夕日が差し込んでいた。一日の半分以上が過ぎた。もう僕の記憶が持つのは7日間もないわけだ。何度考えても実感が湧かない。頭でわかってはいても何かがつっかえている。そんな気分だ。

少しの時間ベットの上に座って天井を見上げていると下の階からインターホンを鳴らす音が聞こえてきた。
母さんが帰ってきたのかな。しかしインターホンは鳴りやまない。何度も鳴るあたり母さんではないみたいだ。冷静に考えてみると母さんなら鍵を持っているはずだから開けて入ってくるはず。もし鍵を忘れていても裏口から入ってくるはずだ。
あまり気乗りはしないけど、駆け足で階段を降りて玄関の方に向かう。玄関の前に着くとうっすらと扉の向こうにボラーがかかっている人影が映る。見たことのある紺色の服、下半身の方は少し長めのスカート。すぐに同じ高校のしかも女子生徒の制服だと理解した。
おそるおそる扉を開けるとそこには見覚えのある彼女がそこに立っていた。

「瑠璃...」

「あ、はやと。体調大丈夫?」

肩の方に少しだけ積もった雪を払いのけながら、僕の方に目を向けてくる。どうやら随分と雪が降ってきたらしい。瑠璃の背景の道路には轍の上にふさふさとした新雪が積もっていた。
瑠璃が僕を心配して来てくれるなんて普段の僕なら嬉しくて舞い上がってしまうところだけど、当然今はそんな気分になれない。

「う、うん、大丈夫。だいぶましになってきてるし」

「そう。よかった。はい、これ。今日のプリント」

今日、配られたであろうプリントを渡してくる。週末の課題と委員会だよりのプリントだ。

「月曜日には提出できるようにしておくようにって先生から伝言。と昨日、委員会の仕事、無理させてしまったみたいでごめんなだって」

どうやら先生は昨日の仕事のせいで体調を崩してしまったと思っているようだ。そしてわざわざ伝言を頼むあたり、ほんとにうちの担任は生徒一人一人をしっかりとみていると改めて思う。

「そう。ありがとう」

「ねぇ、上がっていい?久しぶりにはやとの部屋でお話したいな」

お礼をして少しの間が開いた後に瑠璃が僕の方を覗き込むようにしてそう提案してきた。
断る理由もないけど、これから別れようって連絡を入れようとしていた瑠璃を入れるのは流石に気まずい。なにより、僕の部屋には"MR7"についての書類が置いてある。僕の状態がばれてしまう可能性だってあるわけだ。僕の状態について言うつもりはない。だからばれてしまうであろうリスクは少しでも減らしたい。

「いや、でも、うつるといけないし...」

「大丈夫。治りかけなんでしょ?私なら平気」

「いや、でも...」

歯切れ悪く話す僕を見かねたのか瑠璃は覗き込んだ顔をもとの位置に戻した後、少しうーんと悩む動作をしている。

「じゃあ、マスクつけるから」

そう言うとマスクを取り出して口元に当てた。なんというさっぱりとした方法だ。
どうやら帰るつもりはないらしい。相変わらず謎に頑な部分がある。こうなってしまったら瑠璃の中で帰るという選択肢はなくなってしまう。

「はぁ、いいよ。上がって」

「やった。お邪魔します」

家の前で立ち往生されるのも困る。それに時々、手を擦り合わせて寒そうにしている。外は陽が落ちてきたこともあり、寒さを加速させていた。こんな状況で瑠璃を外に置いておくわけにも行かないのでしぶしぶ家に上げる。
瑠璃は僕の後ろにぴったりとくっついてついてくる。後ろから瑠璃が手に息をはぁと吐く音が聞こえてくる。相当寒かったのだろう。

「今、散らかってて片づけるから少し待ってて」

「そんなの気にしないのに。それに隼人の散らかってるは散らかってないでしょ?」

瑠璃の言う通り僕は男子にしては比較的部屋は綺麗な方だ。別に散らかってるわけじゃないし、片づけるわけでもない。気掛かりな書類を隠すためだ。
瑠璃を廊下に待たせて、僕だけ先に部屋に入る。机の上に置いてある書類を枕の下に隠す。ベットの下に落ちていた携帯も画面を開いて瑠璃に送るために考えていた別れの言葉を全部消してポケットにしまう。
怪しまれないように少し物を移動させる音を立てて、1分くらいたったあとに瑠璃を呼ぶ。

「入っていいよ」

「ほら、散らかってない」

「さっきまで散らかってた」

「ほんとに?変わってないと思うけどな~」

瑠璃はそうぼやくと、僕の部屋のベットに腰を掛けた。
普段の僕なら瑠璃の隣に座るところだが、少し距離を置いてカーペットの上に腰を下ろす。

「ひさしぶり。はやとの家に来るの」

「そういえば、そうだね」

確かに。瑠璃が僕の部屋に上がるのは随分久しぶりだ。
高校生になるまでは良くうちに遊びに来ていたけど、高校生になってからは減っていた気がする。ましてや付き合ってからははじめてだ。

「だいぶ雪積もってきたみたいだね」

「うん、学校帰る途中くらいからだいぶ降ってきたかな」

「ごめんね。寒い中、届けてくれて」

「ううん。私がしたくてしたんだから」

他愛のない話をしながら瑠璃は首に着けていたマフラーに手を伸ばす。マフラーを取ると同時にマスクに手をかけて取り外した。

「ちょっ。マスクしてないと」

「なにがうつるの?隼人、別に体調、悪くないでしょう?」

「え...」

見透かされるような透き通った瞳を僕に向けてくる。
ばれてる?ずる休みだってこと。タラリという効果音が鳴りそうな冷や汗が突如として湧き出てくる。

「そんなことないよ。今日はずっと寝込んでたし」

とりあえずごまかしておく。
寝込んでた。というか寝疲れてたってのが正しいけど、別に嘘を言ってるわけじゃない。間違いなく今日は寝ている割合のほうが多いのだから。

「それはほんとかもね。でも熱を出してたり、風邪ってわけでもなさそう」

瑠璃は膝の上に肘をついて顔を手の上に乗せたかと思えば、僕の方から目線を外し宙に向けている。
芯を貫かれるような瑠璃の言葉に流石にたじろいでしまう。思わず下に目線を下げてカーペットを見つめる。

「...どうしてそう思うの?」

下を向いたままおそるおそる聴き返す。

「だって、隼人が嘘ついてるの分かるから」

「昔からそう。隼人自身気づいてないのかもしれないけど、隼人って嘘つくとき目を合わせてくれないから」

知らなかった。
瑠璃に言われてはじめて気づいたことだった。確かに言われてみればそうなのかもしれない。現に今日は瑠璃の表情をしっかりと見ていない気がする。瑠璃の顔を見るとつい目線を逸らしていた。
なんてわかりやすい人間なんだろうと今日ばかりは自分を責める。

「なにがあったの?隼人が理由もなく学校休むなんてことないはずだよ」

瑠璃はベットから降りて、僕と同じ高さのカーペットに正座で座る。そして一番聞いてほしくない質問が投げかけられた。
どう答えればいい。瑠璃の言い方からしてごまかしてもすぐに嘘だとばれてしまいそうだ。まっすぐな瞳が刺さるように痛い。
僕のことをすべて分かっているように話す彼女。普通の高校生カップルならこんな嬉しいことはないだろう。自分のことを分かってくれる彼女がいるなんて理想のカップルって感じだ。でも、その嬉しさは微塵もない。状況が状況だからだ。

「瑠璃...」

「なに?」

優しい声で瑠璃が応じる。
僕は相変わらず上を向いて瑠璃と顔を合わせることができず下を向いている。

「...別れよう」

ぽつりとでた言葉。
つい数時間前までメールを送ることすらためらっていたこの言葉は簡単に吐き出せた。
おそるおそる瑠璃を見てみるとなにも動じていないようだ。さっきとは変わらず僕をまっすぐ見つめてきている。

「どうして?理由を聞きたいかな」

「それは...」

ひと時の静寂が包み込む。
別れようの言葉は簡単に出たけど、そのあとのことを考えていなかった。
まるで瑠璃に告白したときのような見切り発車だ。あのころと何にも変わっていない。
いっそのこと言ってしまいたくなる自分がいる。記憶が消えてしまうことを。いや、でも言うわけにはいかない。

「瑠璃と付き合うのは僕じゃ駄目だと思ったから」

「隼人。理由になってないよ。それに私は隼人が好きだよ」

また沈黙。居心地がいいとは言えない空気が部屋を満たす。
瑠璃からの好きという言葉。嬉しい。嬉しすぎる言葉だ。なんで。なんで。
瑠璃と別れたくない。いやだ。これからの日々を瑠璃と過ごしていきたい。少しの間、収まっていた感情があふれんばかりの感情が今にも心のダムを決壊させて飛び出しそうだった。

「僕は...僕は...瑠璃のことが嫌いになった」

うそだ。
ほんとは大好きだ。手放したくない。せっかくなれた関係を崩したくない。
でも、こう言う以外の回答を僕は持ち合わせてない。

「うそだよ」

「うそじゃない!!」

自分でもびっくりするくらい大きな声が部屋に響き渡った。瑠璃の体が僕の声に反応してピクリと動いた。
瑠璃に見透かされるように否定されるのが辛くて、痛くて、反射的に声を荒げた。思い出したくない昨日の出来事が鮮明に思い出される。頭の中を駆け巡る。

「うそ...じゃない」

「じゃあ、なんで隼人は泣いてるの?」

そっと自分の顔に手を当てる。
確かに自分の瞳から涙が流れてる。もうだめだ。止まらない。感情が滝のようにあふれ出してくるのを止めるすべを僕は持ち合わせてない。瑠璃の前で、大好きな人の前で、大粒の涙を流している。情けない。
潤んだ瞳でかすんで見える瑠璃はいつものような優しい顔をこちらに向けてくれている。

「隼人。なにがあったの?」

「....瑠璃、好きだ。好きなんだ。嫌いになるはずがない。別れたくない」

ぽつりぽつりと声を漏らしていく。

「うん、知ってる」

「でも、別れないといけない。瑠璃を...瑠璃を悲しませたくない。せっかく一緒になれたのに、これからだっていうのに」

いつものように淡々と話す余裕はなかった。
声が震える。奥底に眠っていた本心が、さきに言った言葉とは矛盾している本心がとめどなく外に出ていく。
そのとき、ふっと手を引っ張られ、瑠璃の胸の中にすっぽりと頭を抑え込められる。

「隼人。落ち着いて。大丈夫。私も隼人が大好きだよ」

もう限界だった。
そのまま、瑠璃に抱きしめられながら泣いた。ただひたすらに。
泣くのなんて久しぶりだった。高校生で泣くことになるなんて思ってもみなかった。
瑠璃は僕が泣いている間、ずっと頭を撫で続けてくれていた。優しく温かな瑠璃の手が僕のため込んでいたものを溶かしていくように感じられた。

「落ち着いた?」

「うん、ごめん。情けないところ見せて」

「いいよ。隼人の彼女は私なんだからこれくらいのこと」

あれからどれくらい泣いていたのか分からないけど、ようやく落ち着いた。
瑠璃の制服が涙で滲んでいるあたり相当泣いてたんだと思う。何も解決したわけじゃないのに泣いたら少しだけ心が軽くなった。
もうどうでもいいと思った。自暴自棄な方のどうでもいいではない。言葉では言い表せないけど。
僕はベットに隠してある封筒を取り出して瑠璃に手渡す。

「これ、"MR7"っていう薬。昨日の帰り道、いろいろあって今、僕の体内にその薬が入り込んでる」

昨日の出来事のすべては話さず、最小限のことだけを伝える。
聞きながら瑠璃は渡した封筒の中の書類を目で追っている。

「見ての通り、僕はあと7日で記憶が消える。治すすべもない。僕はただ空白になるこれからを過ごすだけなんだ」

瑠璃は何も言わずに書類を読み終えた後、少しだけ目を瞑っていた。そしてまたすぐに僕に顔を向けてくる。
さっきと変わらない優しい表情。その裏にある感情を僕は読み解くことができない。さっき瑠璃がしたように僕の本心を見破る。なんてことはできない。今、瑠璃はどう思ってくれているんだろう。悲しい。寂しい。嫌だ。今、瑠璃はどんな感情なのだろう。

「だから、もうどうでもいいんだ。これから何をしようと僕の記憶には残らない。今こうして瑠璃に話していることすら消えてしまう」

「だから、別れようって」

「そう。ほんとはこのことは言わないつもりだった。でも、」

言わないと引けないところまで、来てしまった。
瑠璃のまっすぐな瞳と頑なに頑固な部分を前にして隠し通せる自信がない。なにより泣いてから、心が少し軽くなってから、ああ、もういいやってなった。おかしなものだ。さっきまでは絶対に言わないと決めていたのに。その信念は簡単に崩れ去る。人間なんて所詮こんな生き物なんだ。

「これから瑠璃とどんな思い出を作っても残らない。瑠璃との約束を守れないのはほんとにごめん。でも瑠璃を悲しませ...」

「別れるつもりはないよ」

僕の言葉を遮るように瑠璃が言う。凛とした迷いもなにもない声で。

「別れるなんてことはしない」

「瑠璃...。頼むよ。もう僕はどうでもいいんだ。こんなどうでもいい僕なんかのために時間を割く必要はない。瑠璃ならなんとなくそう言うと思ってた。でも」

本心だ。
さっきの別れたくないって言ったのも本心だけど、これもまた同時に心の底から思っていること。二つの答えを持ち合わせていてどちらも正解という矛盾しているけど。

「ならさ、隼人の時間を、これからの時間を、私にちょうだい」

座り直して、もう一度まっすぐな目で僕を見つめてくる。
瑠璃が言ってくる言葉の意味がつかめない。

「別れるつもりはない。隼人とこれからも一緒にいる」

「瑠璃、言っただろ。これから僕と一緒にいても」

「どうでもいいんでしょ?隼人は。自分のこれからの時間が」

食いつくように瑠璃が言ってくる。

「ならいいはずだよ。私がその時間をもらっても」

何も言い返せない。
瑠璃が言ってることが理に適ってるから。まぁ、でも僕の意見は全く通ってないが。

「隼人。これは契約だから。隼人の時間は今をもって私が全部もらうから」

自信満々に少しの笑顔を交えながら言う瑠璃を止める術がなかった。
これでもし僕が反発しても、また、どうでもいいんでしょ?って誇った顔で言われるのが目に見える。

「じゃあ、帰るね。私。長居する予定じゃなかったし」

マフラーを巻き直し、マフラーの中に入ったロングの髪を外に出している。
瑠璃は僕に有無を言わせない勢いで帰る準備をぱっと済ませていく。
張りつめた部屋の空気を割るようにぱっと瑠璃が立ち上がって、扉に向かう。

「じゃあ、また明日ね。明日はちゃんと起きてね」

最後にまた明日という意味深な言葉を残して瑠璃は部屋を出ていった。
あまりにもテンポよく進むものだから唖然としていた。なにも言い返せる余地もなく、先ほどまで瑠璃がいた部屋は一気に静まり返った。僕はただただ瑠璃が出ていった扉を眺めていた。


僕は迫りくるその時に怯えている。どうしようもない恐怖。自分が自分じゃなくなる。そんな途方もない恐怖。別に死ぬわけじゃないなんて思う人がいるのかもしれない。それでも、死ぬことよりも恐怖なのだ。死ぬというのは無くなるということ。でも僕の場合は違う。無くなることはないけど無くなってしまう。あまりにも短すぎるリミットが近づいてきていた。神様は非道だ。


リミットが後6日となってしまった午前10時。
玄関を開けるとそこには瑠璃がいた。すっとした冷たい空気が流れ込む。
普段見る制服ではなく、水色のセーターを身に纏い、昨日と同じマフラーを身に付けた私服姿の瑠璃。普段とは違う姿に新鮮味を覚える。

「あ、ちゃんと起きてた。おはよう」

「え、あ、おはよう」

土曜日の朝早くから、淡々と挨拶する瑠璃がいて戸惑ってしまう。
結局、昨日は瑠璃の言葉に唖然としたまま、日常を過ごした。昨日はひたすらに考えた。瑠璃の言った言葉の意味を。別れようと思っていた理想が瑠璃の言葉に打ち砕かれた。嬉しいという感情は湧いてこなかった。ただただ困惑するだけだった。結局答えは出ずにそのまま眠りについた。
一つ分かっていたことと言えば、また明日。って言葉くらいだ。その言葉に些細な予感を危惧していたから自然と目が覚めたし、何があってもいいように軽い支度は済ませておいた。

「ほんとに来るなんて」

「昨日言ったよ。また明日って」

「そうだけど」

外は快晴。昨日の大雪が嘘のように空は晴れ渡っていた。
陽光が雪解け水に反射して道路はきらきらと輝きを放っている。それを背景に僕の視界に映る瑠璃はとても綺麗だった。

「さ、行こ」

瑠璃にぐっと手を引っ張られて、玄関から連れ出される。
僕の危惧していた予感が的中した。なんとなく瑠璃が来るかもという予感が。我ながら感心する。

「ちょ。まって。行くってどこに」

「うん?遊びにいくんだよ」

「なんで急に。それに僕は...」

言いかけた言葉を発しようとしたときに瑠璃の人差し指が口元を遮ってくる。
瑠璃はそのままにこっとした笑顔を僕に向けて、手を引っ張ってきた。さすがに母さんに何も言わずに出ていくわけにもいかないから、瑠璃と出てくるとだけ伝える。母さんはいってらっしゃいと普段通りの言葉を投げかけてくれた。そのまま瑠璃の変に強引な謎めいた行動に僕は戸惑いながらもされるがままに瑠璃の後ろについていった。


しばらく歩くと駅前の喫茶店に着いた。
早々と二人で入り、いや、瑠璃に連れられて席に着く。ゆったりとしたBGMが店内に流れ包み込んでいる。店内にはお客さんはおらず閑散としていた。
むしろいない方が落ち着くのから嬉しいけど。お店的にはどうなのかとも思ってしまう。

「ふぅ、ここで一息つこうか」

「一息どころか連れられるがままだったから疲れた。二息ぐらいさせて」

別にそこまで疲れてはないけど少しの冗談を交える。
ここに来るまでに瑠璃と少し話したけど、いつも通りだった。特にあれについての会話もない。この前の本読み終わった?とか、普段の会話だった。瑠璃と話すことが心地よかった。

「ふふっ。元陸上部でしょ」

「あれは半強制的にだよ」

「続ければよかったのに」

「僕は蓮みたいなスポーツオタクじゃない」

それを聞いて瑠璃はくすくすと笑っている。
間違いなく蓮はスポーツオタクだ。体育会系って感じが似合っている。
一方、僕は反対に何の変哲もない普通のオタク。オタクって言っても特定のコンテンツが好きなオタクじゃないけど。いわゆる平凡な人間ってやつだ。

「頼むもの決まった?」

「うーん、コーヒーで」

「大人だね。私はココアにしようかな。ホットでいい?」

「もちろん」

そのまま瑠璃は呼び出しボタンに手を伸ばし押し込んだ。
店員さんが来てスラスラと注文していく瑠璃を見ながら思う。瑠璃は何を考えているんだろうって。要因として僕の状態っていうのがあるだけでそれ以外は検討もつかなかった。
というかまぁこの状況に変に順応してしまっている僕も僕なのだけど。瑠璃の言う通りこういう面は大人なのかもしれない。昨日あれだけ吐き出してしまったら今更思うこともない。もちろん恐怖が消えたわけじゃないし、未だに実感も湧いてこない。でも、瑠璃との二人の空間は容易に僕の心を溶かしていた。コーヒーイコール大人はあまりに偏見が過ぎるけど。

「ふぅ。あったまるね」

「そうだね。特に冬のココアは最高だろうね」

「飲む?」

瑠璃はそう言うと僕の方にココアが入ったカップを差し出して来た。
間接キス。なんて余計なことが頭によぎったけどこういうのは恥ずかしがらない方がいいって蓮に教えてもらったからお言葉に甘えて、カップに口を付ける。確かにこういうのは男子という立場からしたら結構意識してしまうけど、女性からしたら何も思っていないのだろうと思う。ましてや付き合っているのだから。そんな思考をしながらココアを口に流し込んだ。

「うん、美味しい」

ほんのり甘い味が口の中いっぱいに広がる。

「でしょ?」

「瑠璃もコーヒー飲む?」

「ううん。甘いもの飲んだ後だととても苦そうだし」

ちょっとまて。よく考えたらそうじゃないか。

「ちょ。瑠璃。もしかして分かって飲ませた?」

「さぁ?」

瑠璃があからさまに悪魔の微笑みをしながら首をかしげる。

「絶対仕組んだだろ」

瑠璃の策士な部分に引っかかる。
なんというか見かけによらずいたずらもしてくる時があるのはつい最近知ったことだ。それさえも可愛いと思ってしまう自分がいるのは余程、瑠璃に恋しているからなのだろう。
好きになった人の一つ一つの仕草が気になるのと同じことなんだろう。

「やっと笑った」

「え」

「昨日から隼人の笑った顔見てなかったから」

やっぱり瑠璃は策士だ。

「そうかな」

「うん。昨日は主に泣き顔しか」

「それはすぐにでも忘れてほしい」

彼女の前で大泣きするなんて僕としてはすぐさまに忘れてほしいものだ。
というか、そこだけをピックアップする必要はないと思う。少なくとも泣いていたのは瑠璃といた時間を考えると2割くらいだろう。

「大丈夫。誰にも言わないから」

ココアをの飲み口から口を話した後に瑠璃は自分の口に人差し指を当てて言った。
こういうのをひと時の幸せとでも言うのだろうか。昨日あれだけ考え込んでいたことが一瞬だけ今の今まで頭から離れていた。この日常が一生続くと錯覚してしまうほどに。この瑠璃との日々が一生続くと思うほどに。

「瑠璃。昨日も言ったけど僕は記憶がなくなる」

そう。日常は続かない。
どれだけ続いてほしいと願っても、時計の針は動き続け、やがてその日が来る。

「こうして瑠璃と喫茶店でお茶してる思い出さえなくなる」

「分かってるよ。隼人が聞きたいのはなんでこんなことをするのかってこと?」

聞きたいことはその通りだ。
この目的と意味を知りたい。だって僕からしてみればこの瑠璃との思い出すらも残らないのだから。

「うん」

「昨日は強引に結んだ契約を改めて結ぼうと思って」

昨日の契約。
僕の時間を瑠璃にあげるという契約のことだろう。確かに昨日は理解が追いつく前に瑠璃が帰ってしまったけど、一日置いた今だからなんとなく理解はできる。ただこの契約の理由を知りたい。瑠璃にはなんのメリットもないこの契約の理由を。

「改めてね。隼人の時間、私にくれる?」

既視感のある真剣な瞳をこちらに向けてくる瑠璃。
とんでもない契約だ。
もちろん嬉しいという感情も少なからずある。でもそれ以上に瑠璃への負担が頭をよぎってしまう。二つ返事で返せるものではなかった。沈黙が僕らの間を包み込む。

「隼人がどんなことを考えているのかはなんとなく分かる」

瑠璃が口火を切る。

「私のことを心配してくれているのも分かる。でもお願い。隼人。何も言わずにこの契約を承認してほしい」

懇願と強気が入り混じった声が入り込み、瞳はまっすぐに僕の方に伸びてきていた。

「自分から改めてなんて言っておいて、何も言わずにていうのも変な話だけど、お願い」

この契約は天使が差し出す悪魔の契約だ。
絶対に幸せな結果はない。待っているのは辛い結果。それも、瑠璃だけが傷つくという。僕も傷つくのだろうけど、僕の記憶はなくなる。瑠璃には残り続ける。天秤にかけても圧倒的に瑠璃の方が重い。どんなに神様に願おうとハッピーエンドはないこの契約。二つ返事で断るのは簡単だ。
でも、瑠璃のその真剣な瞳が僕の心を容易に揺らがせた。

「相当、辛いとおもう。僕も瑠璃も。いや瑠璃のほうが辛いよ確実に」

「うん」

「瑠璃には記憶に残っても僕には残らない」

「うん」

「僕は6日後に瑠璃に向かって誰?って聞くことになるんだよ」

「うん」

「今は付き合ってるけど、その関係も消えてしまうと思う」

「うん」

改めてこれから起こるであろうことを自分でも確かめるように悪い例ばかり出していく。
分かっててほしかった。これから起こりうるであろうことを。
それさえも真剣に瑠璃は頷き、呑み込んだ。射貫くような瞳は覚悟というものを纏っていた。

「...分かった。その契約結ぶよ」

結んだ。結んでしまった。結局、理由は分からない。いや、聞けなかった。
この選択は正解なのだろうか。多分、不正解なのかもしれない。

「ありがとう。隼人」

胸に手を当ててほっと肩を撫でおろしながらお礼をする瑠璃がなぜか見ていられなかった。
お礼をされるのは僕なんかじゃないからだ。
この契約は正直きつかった。瑠璃に折れてほしかった。こんなにも罪悪感に駆られる契約なのだから。

「瑠璃。ごめん」

「ううん。隼人は何も気にしなくていいよ。私のわがまま。それに隼人は被害者だから」

先ほどまで湯気を放っていたコーヒーはすっかりぬるくなってしまった。
喉の渇きを取るためにコーヒーを口に運ぶとやはり苦さが広がっていった。僕らはもう甘酸っぱい恋なんてできない。このコーヒーみたいに苦い恋になるんだろうと思った。

「あ、りーに本屋さん!」

「え、あ、ほんとだ。隼人!」

聞き覚えがあるうるさい声が店の入り口から聞こえてくる。
声のする方に目を向けるとそこには紗南とそして蓮が立っていてこちらに手を振ってきている。
僕らはすぐにこの重い空気を切り替える。

「紗南ちゃんに翡翠くん!」

蓮が店員さんにあの二人と同じ席でと指さしてこっちの方に向かってきた。

「隼人。昨日休んでて今日はデートですか。うらやましいですな」

そう言いつつ、蓮は僕の隣にどさっと座ってきた。それに乗じて紗南も瑠璃の隣の席に腰を下ろす。

「はぁ、別にいいだろ。すぐに治ったんだよ」

少しばかりの罪悪感を感じつつ、蓮に返答する。
蓮の言葉を冷たい言葉で返すのは今までの経験上慣れっこだと思ってたけど、この嘘はさすがに気が引ける。今後これが続くと思うとかなりきつい。蓮は友達。いや親友だから。

「紗南ちゃんと翡翠くんはどうしてここに?」

「えーと、それはですね」

「まぁ、いろいろと」

急に歯切れが悪くなる蓮と紗南。

「お前らもデートか?」

冗談交じりに聞いたつもりだったけど、空気が一変。そんなわけないだろってすぐさま返事が返ってくるかと思ったけど返ってこなかった。え、どういうこと。この空気。

「あはは。私、蓮と付き合うことにしたんだ」

「え、ほんとか?」

「隼人。割とまじだ」

「いや、まじか」

「うん、まじだ」

「好きなのか?」

「好き...だな」

「紗南ちゃん。おめでとう。よかったね」

「りー、ありがとね。いろいろ」

おい、待て。
女子二人組は話が噛み合ってるんだが。

「蓮。瑠璃は知ってたみたいだが」

「ああ、らしいな」

「らしいってお前な」

「俺だって驚いたよ。紗南に告白されて。でも、普通に嬉しかったし、なんか瑠璃にも相談してたらしいし」

どんどん声が小さくなっている。いつもの威勢はどうしたんだと思うくらいに。
どうやら告白したのは紗南の方らしい。そして、見た感じ蓮も紗南のことが好きだったのだろう。学校で見てる分にはそんな素振り一度も見せなかったから分からなかった。というか聞いた今でも信じられない。あの蓮と紗南が付き合うなんて。そしてここまで委縮する蓮を見るかぎり、恋って人を変えてしまうと改めて実感する。あれほどうるさい蓮がここまでおとなしくなっているのだから。

「ちょっと!蓮!恥ずかしがらないでよ!こっちまで恥ずかしいじゃん」

威勢よく言った紗南も後半は声が小さくなって、頬を赤く染めている。
前に瑠璃と話してたようになんだかんだお似合いで、似た者同士って感じだ。

「そんなこと言われてもなー」

先ほどまでとは打って変わって賑やかになる空間。
この二人はほんとに僕らには織りなすことができない楽しい空間をつくることができる。二人で言い合ってる様子が微笑ましかった。蓮も紗南も恋愛関係を築いた後も築く前も本質は全然変わっていなかった。瑠璃も微笑ましい笑顔で二人に相槌を打っている。
そして、同時に二人が羨ましく思えてしまう。僕らとの決定的な違いに。
紗南も蓮も今後、この関係が続いていくんだ。制限なく。でも瑠璃と僕は違う。僕らもこんな風に続いたらなんて考えてしまう自分がいた。
ふと瑠璃に目を向ける。口パクでなにか伝えようとしていた。
その口は音を発することはないが、僕には分かった。大丈夫だよ。って言ってくれているのが。なんだろう。なんだかやるせなくなる自分がいた。

「じゃあ、今日はダブルデートしようよ!」

紗南が立ち上がり名案というように自身気に提案してきた。

「ダブルデート?」

「そう!私と蓮、りーと本屋さんでばっちりじゃん!どう?」

「いいんじゃないか。紗南と二人だけは気恥ずかしいし」

「どういう意味よ。蓮」

「そのまんまだ」

「そうですかー!」

紗南が口を開いてべーっと下を出して蓮に向けている。
なんだかんだ、付き合ってもこの感じは二人の味って感じがする。

「本屋さんとりーはどう?」

「私はいいけど、隼人は?」

「瑠璃が決めていいよ」

なぜなら僕の時間はもう瑠璃のものなのだから。
わざわざ僕に確認を取る必要はない。というように瑠璃に目を向ける。

「じゃあ、一緒にデートしようか」

少しだけ寂しそうな顔をした後に瑠璃は応じた。
瑠璃に判断を委ねてしまうのは辛い。でも、僕に回答を求めても色々考え込んでしまうのが目に見えている。

「やった!ダブルデート決定だね!」

「紗南。はしゃぎすぎだ」

「蓮だけには言われたくない」

そうして今日の予定はダブルデートに決まった。
まさか、蓮と紗南と一緒にデートをする日が来るなんて思いもしなかったけど、内心僕はテンションが上がっていた。仲の良いグループで遊べるのだから。そういえば、この4人で遊ぶのは初めてかもしれない。最初で最後になるのかもな。
そのあとは賑やかな時間がカフェ内を包み込んだ。
僕の記憶が消えてしまうことは極力考えないようにした。契約を結んだからには少しでも考えないように瑠璃に負担をかけないようにしたかったから。
他愛もない雑談をして、そうしているとお昼時になったのでそのままそこでお昼ごはんを食べて、カフェを後にした。


先のカフェよりもさらに賑やかな空気が4人を包み込む。
蓮と紗南が前を歩き、瑠璃と僕は二人の後ろについて歩いていく。
両サイドを見ると、親子連れだったり、中学生だったり、また大学生のカップルだったり、様々な人がいて色んな声が飛び交っている。
今、僕らは電車を使って隣町の大型ショッピングモールに来ている。デートと言えばここでしょと言って紗南が提案した。いや、デートと言えば遊園地とかではないのかって僕も蓮も声を合わせたが、僕らが住んでいる近くに遊園地なんてものはないし、よくよく考えたら必然的にここが一番最適解になる。
それに、紗南も瑠璃も楽しそうにしてるから来た甲斐はあったと思う。それだけで充分だった。

「ねぇ、どうこの服?」

お店の待機場所の椅子に座っている僕と蓮のもとに紗南と瑠璃が駆け寄ってくる。
ここはモール内のファッションフロアの一角にあるお店。紗南がまるで赤ずきんのような服を見つけて試着していた。
このお店はどうやら童謡に出てくる服をモチーフにしているらしい。そして珍しい試着を売りにしているお店だった。もちろん服を買うこともできるが大抵のお客さんは試着で満足している姿が伺える。写真を撮ったり、紗南みたいに他人に意見を求めたりしている人など様々だ。

「可愛いんじゃないか?」

「ああ、似合ってると思う」

「ほんと?」

「嘘言ってどうするんだ」

「やった。りー、蓮と本屋さんが可愛いって!」

「紗南ちゃん。よかったね。ほんと可愛いよ!」

蓮と紗南の惚気を見た後に、瑠璃は紗南の衣装を見て目を光らせている。
女子という生き物はほんとにこういうところが好きだなと身を染みて感じる。男子からしたら絶対に来ない場所だろうけど、こういう場所に来れるのは少し新鮮な気持ちになった。

「今度はりーの番だよ。ここでさらに本屋さんをメロメロにさせないと」

紗南。どういう目的を持ってるんだ。
ここに来た目的が少し垣間見えた気がした。

「えー、私はいいよ」

「そんなこと言わずに。えーとっ」

瑠璃は恥ずかしがりながら拒んでいるけど、それを気にも留めずに紗南はラックにかかった服を漁っている。

「楽しそうだな。あいつら」

「ああ、そうだな」

「まさか隼人達とダブルデートする日が来るなんてな」

「それはこっちのセリフだ。ほんと驚いたよ」

「まぁ、そうか」

「いつから好きだったんだ」

「んー、中学生くらいからかな」

「お前もだいぶこじらせてたんだな。全然気づかなかったよ」

「俺は隼人と違って隠すの得意だからな」

「誇って言うなよ。同じだろ。ぐずぐずしてたのは」

「まぁな。ほんとなんだかんだ俺ら似てるよな」

「違いない」

そう言って二人で笑い合う。

「隼人。瑠璃を幸せにしてあげろよ」

いつも蓮に言われるこの言葉。
普段なら分かってるよって返すのにためらってしまう。

「そういう蓮こそ紗南を大切にしてあげろよ」

言えない。
もう自信を持って幸せにするなんて。

「当たり前だろ。なったからには幸せにする」

反対に蓮は自信をもって宣言した。
心の中がすこしざわめきを纏った頃に、試着室の方から大きな声が聞こえてくる。

「わーっ!りー!可愛すぎ!めっちゃ似合ってるよ!」

声のする方に目を向けるとシンデレラのようなドレスを纏った瑠璃がいた。綺麗だ。

「ねぇねぇ、本屋さんどう?」

二人が近寄ってくる。

「もう恥ずかしいよー。紗南ちゃん」

綺麗だった。いや綺麗すぎた。まるでほんとに童話の中にでてくるような。いや、童話に出てくるシンデレラはこんな感じなのだろうと思わせるくらいに。真っ白なドレスを身に纏い、ガラスの靴を履いている。これがもし童話の世界なら僕がガラスの靴の持ち主を見つけたい。シンデレラが瑠璃ならなおさら。
でも僕はその靴の持ち主を見つけることができない。だって僕は...

「なーに見とれてんだよ」

蓮の言葉で現実世界に引き戻される。

「ねぇ、隼人。どう...かな?」

頬を真っ赤に染めて目線を斜め下に下げ、恥ずかしがりながらも僕に返答を求めてくる。

「とても似合ってるよ。物語に出てくるみたいに」

「よかったね。りー」

「うわー、惚気だ」

「蓮。お前には言われたくない」

「相変わらずつめたーい」

僕と蓮の言い合いには目もくれずに紗南と瑠璃が顔を合わせて喜んでいる。
ごめんね。瑠璃。僕は王子様にはなれないや。


その後はショッピングモール内を目一杯楽しんだ。
ゲームセンターに行って、僕と蓮で協力してぬいぐるみをゲットして紗南と瑠璃にあげたり、4人で一生無縁だろうなと思っていたプリクラを取ったり、バイキング形式のレストランで夜ご飯を食べたり、とても充実した時間が流れていった。

「最後にあれ乗ろうよ!」

紗南はモールのすぐ隣にある観覧車を指さして言った。
季節が季節ということもあり6時でもあたりはずいぶん暗くなっていた。観覧車のイルミネーションがきらきらと輝きを放っている。

「観覧車か。久しく乗ってないな」

「でしょでしょ。りーも乗りたいよね?」

「うん。せっかく来たんだし乗りたいかな」

3人の中ではもう意見が固まっていて、僕に聞くまでもなく決定事項になっていた。
確かに蓮の言う通り、観覧車なんて小学生以来乗っていない気がする。高校生になって乗るなんて思ってもみなかったな。
僕らはすぐに観覧車の麓まで行き、受付を済ませる。

「ねぇねぇ、せっかくだしペア同士で乗らない?りーは本屋さんと私は蓮と」

紗南にしては思い切った提案だった。カフェでは恥ずかしそうにしていた面もあったのに。
紗南と蓮のペアが先に箱に入り込む。その次に流れてきた箱に瑠璃と一緒に乗り込む。
二人きりの空間。4人でわいわいしてる空間も好きだけど、瑠璃と二人でいる空間も同じくらい好きだった。

「ねぇ見て。隼人。すごく綺麗だよ」

瑠璃の方に近づいて瑠璃が見つめる先を見る。
隣町ってこともあって僕らが住んでいる田舎では見れない色んなお店のライトが景色として一つのイルミネーションを作り上げていた。ほんとに綺麗だ。この空間のせいか今日の思い出に浸ってしまう。
とても楽しかった。大人になった時にそういえばこんなダブルデートしたなって言えるくらいに。濃い1日だった。永遠に残り続けてほしい思い出だった。でも、残らない。消えてしまう。どうしようもない現実が襲う。
考えないようにしていてもやっぱり考えてしまう。濃い時間を過ごせば過ごすほどこれは顕著に表れてしまう。
あの契約はほんとに結んでよかったのだろうか。ふと頭の中をよぎり瑠璃の方に目を向ける。

「隼人。この契約、クーリングオフはないからね」

瑠璃は夜景を見ながら口を開く。
クーリングオフ。契約を一方的に解除できること。昔、推理小説で読んだことがある言葉だ。

「どこでそんな言葉覚えたんだよ」

「隼人に貸してもらった本に書いてあったよ」

にやっと笑いながらこっちを向いて自慢気に応える。
瑠璃には僕の考えてることはなんでもわかるらしい。そんな僕って分かりやすいのかな。

「隼人。私ね今日とっても楽しかったよ。紗南ちゃんに翡翠君、そして隼人と4人で遊べて」

「うん、そうだね」

「隼人は楽しかった?」

「もちろん。楽しかったよ。ほんとに一生の思い出にしたいくらい」

悔しいくらいの本音を吐き出す。
もう瑠璃にはばれてることだし、なんのためらいもなく僕が本音を吐き出せるただ一人の存在となった。

「隼人。大丈夫だよ。私がずっと一緒にいてあげる。隼人の苦しみを一緒に感じてあげるから」

観覧車の箱がちょうどてっぺんに差し掛かり、静かな空気が包み込む中、瑠璃が僕の肩を引っ張ってくる。
そのまま、瑠璃が背伸びをする。瑠璃の顔がすっと近づいたと思ったら、唇が重なった。これが僕らのファーストキスだった。

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:1

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

公開作品はありません

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア