365日、君にキセキの弥生桜を

第一章 私には、自分がない

八畳ほどの四角い白い部屋、三人の面接官と向かい合って、リクルートスーツにひっつめ髪の私はパイプ椅子に座っている。


 隣室で順番を待っていた時から心臓はバクバクで、頭の中はグルグル沸騰している。夕べお母さんと最終面接の練習をさんざんしたけれど、いざ時が来るとそんなのまるで役に立たない。

深呼吸して自分を落ち着けさせようとするものの、肺すらも上手く機能してくれない。「いつもの唯でいいのよ、大丈夫」ってお母さんは今朝送り出してくれたけれど、いつもの私なんてどこか遠い場所に置いてけぼりだ。


 さんざん書類でふるい落とされて、ようやく漕ぎつけた最終面接。都内でアメリカを中心に英語圏から輸入雑貨を買い付けている会社。どうしても、この面接に受かりたい! いい加減、就職活動、終わりにしたい! 

いつまでも内定が取れない就活生というのは常に不安に付き纏(まと)われている。起きている時は就活のことばかり延々と考えて、寝ている時は就職先が決まらないまま春になってしまった夢を見る。ニートになった寒い春。このままじゃ私、おかしくなっちゃいそう。だからこの面接は絶対に失敗しちゃいけないのに。なのに。


 三人の面接官は、左が三十歳くらいの白人の男の人、真ん中の人は日本人でこちらも三十代後半くらい、右の日本人の女の人はいちばん若くて二十代後半ってところ。みんな悪い人じゃなさそうなのに、私にとっては地獄の閻魔(えんま)様みたいに見えてしまう。地獄で閻魔様の裁きを受ける時って、こんな気分なのかなぁ。


「猪原(いはら)唯(ゆい)、泉丘(いずみがおか)女子大学四年生、文学部英文科です。今日はよろしくお願いいたします」


 ちなみに私の自己紹介も、これからの会話も、すべて本当は英語。社内での公用語が英語だから、面接も英語で行われる。四歳から英会話教室に通わされていた私は、これぐらいの英語ならすらすら出てくる。


「猪原さんは英検一級なんですね」


 真ん中の男の人が言った。ひと言ひと言に私を丸裸にさせる力が宿っていそうで、心の糸がぴんと伸びる。


「はい、三年生の時に取りました」

「TOEICも九二〇点、なかなかのものですね。それだけ英語に精通していながら、留学の経験はない、と」


 左の白人の男の人が言う。いきなりなかなか厳しいところを突かれてしまって、私はしばらく言葉に詰まってしまった。


「ええと、それは……私は留学したかったんですけれど、母に反対されて」

「お母さんに?」


 今度は右の女の人が言う。四角いフレームの向こうの目に、厳しく問い詰められている気がした。


「母が、お嫁に行くまでは実家にいなさいって考えの人なので。短い期間でも若い女の子が海外で暮らすのは危ないし、やめなさいと」

「それで、あなたは自分の希望をあっさり諦めたんですね?」


 あっさり、なんて言われてしまうと言葉が出ない。たしかに留学したかったのは事実で、お母さんに止められたから諦めたのも事実。こんなことになるならお母さんを説得して留学しておけばよかったと、今さら後悔しても遅い。


「もう十二月ですね。就職活動もさんざんなされたことでしょう。この時期になっても就職が決まらない原因は、何だと考えますか?」


 真ん中の男の人から、再び厳しい質問。私はまるで蛇に睨まれたカエルだ。


「そもそも私、公務員を目指していたんです。でも、公務員試験に落ちてしまって。慌てて就職活動を始めました」

「もともとは公務員志望だったということですか? 公務員になって、何がしたかったのですか?」


 白人の男の人が問いかける。白い部屋に数秒、きんと空気が硬直したかのような沈黙が漂う。


「公務員になってほしいっていうのは、母の希望だったんです」


 どうしても、嘘が上手く出てこない。正直に答えると、三人の面接官がいっせいに怪訝な顔になった。


「安定した仕事に就いて、安定した人生を歩んでほしいっていうのが母の希望で。私もその希望を叶えたくて、公務員を目指していました」

「ではあなた自身は、特に公務員になりたいわけではなかったということですか」


 メガネの女の人の鋭い言葉に打ちひしがれたように、私ははい、と言った。


「質問を変えましょう。この会社で、何をしたいとお考えですか? 猪原さんは、どんな形でうちに貢献してくれるのですか?」


 真ん中の男の人が聞く。これは予想されていた質問で、夕べお母さんとも練習していた。頭の中のカンニングペーパーを必死で取り出す。


「英語は四歳から習っていたので、自分の英語力を生かしたいと考えています。貴社の製品はとても好きですから、売り上げに貢献出来るよう頑張りたいと思います」

「その心意気は、大変素晴らしいですね」


 メガネの女の人が言った。面接が始まってようやく、私の気持ちが少し届いた気がした。でも、とメガネの女の人は続ける。


「でも、あなたはうちの会社には向いていませんね」


 その一言でわたしの心は、穴が開いた風船のようにたちまちぷしゅうとしぼんでいった。


「うちの会社では、外国人を相手に仕事をすることが少なくありません。日本人とは違い、外国人はあなたはどういう考えなのか、どういう意思なのか、そういうことをすごく聞いてきます。でもあなたは見たところ、お母さんの意向で留学をやめ、お母さんの意向で公務員を目指し、その夢が絶たれると慌てて就職活動に走った。どの就活本にも書いてあるような自己PR文で。どうもあなたには、自分というものがない。そういう人に、うちの会社での仕事は務まらないと思いますよ」


 メガネの女の人は淡々と、小川を水が流れるように言った。しぼんでぺちゃんこになった心に、さらにぐさりと太い針を刺された気がした。

 ありがとうございました、と挨拶をして、私は敗北感と共に部屋を後にし
た。
心を落ち着かせるため、駅ナカのカフェで一杯カフェオレを飲んだ。暖かい液体が身体に満ちていくと、少しだけ気分が冷静になった。ミルクの白とコーヒーの茶色に、敗北感でガチガチになっていた心が自然とほぐれていく。


 たしかに私はずっと、お母さんの言葉に従って生きてきた。結婚十年目でやっと生まれた一人娘を可愛がることは、お母さんにとって趣味や生き甲斐のようなものだった。お母さんに言われるがまま小さい頃から英会話とピアノと習字とスイミングを習い、お母さんが入りなさいと言った中学校に受験して入った。お母さんが選んできた予備校に通い、大学もお母さんの母校の女子大学。お母さんの意向で留学を諦め、お母さんの意向で公務員を目指した。


 公務員試験に落ちた時は、お母さんの期待を裏切ってしまった自分を心底責めた。これまで献身的と言ってもいいほど私に尽くし、育ててくれたお母さんの努力を無にしてしまったようで。お母さんも相当、落ち込んだ。ふたりで落ち込んで、落ち込んで落ち込んで、落ちるところまで行った時、「じゃあこれからは、唯の好きなように生きなさい」と言われた。


 好きなように生きるって、何だろう? 私には自分の意志で好きになったものがない。こんなもの読んでたら馬鹿になる、と小学校の頃に読んでいた漫画は取り上げられ、こんなもの聴いていたらろくな大人にならない、と中学生の頃聴いていた音楽は禁止された。私が好きなものは、すべてお母さんの好きなもの。お母さんが作ってくれた手作りのケーキに、お母さんが自分でブレンドしたハーブティー。お母さんの好きなクラシック音楽に、お母さんの好きな名作と名高い海外の小説たち。


 それで、いいと思っていた。これからもお母さんの言葉に従って真面目に会社員をやって、お母さんが認める男の人と結婚して、子どもを作って。そういう人生が、私にはぴったりだって思ってた。


 その結果、自分がない、って言われてしまうなんて。


 とぼとぼとした足取りで、山手線のホームを目指す。神奈川の郊外にある自宅から東京に出るまでは一時間半かかり、大学は毎日朝六時に起きて通学した。一人暮らしなんて絶対ダメ、というお母さんの意向だ。


 山手線で新宿に出て、新宿から小田急線。海老名(えびな)で相模(さがみ)線に乗り換えた時は、今まで混雑していた電車の中は少し空いていた。時間を考えれば、空いているのは珍しい。今まで一時間以上立ちっぱなしだったから、空席を見つけてすぐ腰掛けた。思い出して、カバンからスマホを取り出す。お母さんからメッセが来ている。『最終面接、どうだった? 唯ならきっと受かるから大丈夫よ』


『ごめん。ダメだったみたい』――短い返信を打ちこんで、スマホをカバンに仕舞う。窓の外は冬の短い日が既に暮れかけていて、青黒い闇の中に街灯がぽちぽちと光っていた。両側の人に遠慮しながら、小さく伸びをする。家に帰るの、嫌だなぁ。ようやく漕ぎつけた最終面接がダメだとわかったら、お母さんはまたがっかりするだろう。私はこれ以上、お母さんを失望させたくない。手塩にかけて育てた一人娘なんだから、それ相応の結果を残さなきゃいけない。お母さんのために。


 電車が加速していくにつれて、とろとろとぬるま湯に浸かるような眠気がやってきた。夕べは緊張してろくに寝れなかったから、眠くなってしまうのは当たり前だ。大丈夫、今海老名を出たばかりだから、最寄り駅まではあと二十分もある。少しだけまどろみに身を任せてしまっても、起きられるだろう。

 現実から逃げるように、私は眠りの世界に身を投じた。


 何のきっかけで目覚めたのかわからない。電車は停まっていて、周りには人っ子一人いなかった。空っぽの電車の中に、リクルートスーツ姿の私が一人だけ座っていた。


 窓の外は真っ暗で、明かりらしきものは見えない。二両編成の小さな電車が停まっているホームには、飾り気のない時計がひとつ。十二時五十分を指している。て、十二時五十分!? とっくに終電、過ぎてるじゃない!! 私、そんなに長く眠り込んじゃってたの!?


 慌てて電車から飛び降りると、ホームにはやはり人っ子一人いなかった。駅員さんの姿も見当たらず、無人改札らしきものがひとつ佇んでいるだけ。私の最寄り駅もたしかに小さい駅だけれど、こんなところじゃない。さては終着駅まで来てしまったのかと、半ばパニックになりながら駅名を確かめる。


 小さなホームに白い看板が立っており、「やよいざくら」と文字が躍っていた。隣の駅名は書かれていない。相模線にこんな駅はなかったはずだ。もしかしたら眠ってるうちに電車が終着駅を過ぎて、もっと遠い場所へ行ってしまったのかもしれない。慌ててスマホで検索をかける。「やよいざくら」と。


 でも、「やよいざくら」という名前の駅は相模線にはおろか、日本のどこにも存在していなかった。不気味さがひたりと背中をかき上がる。存在していない駅に電車が停まるって、どういうこと? 不安でたまらない私が助けを求めたのは、ネット上の匿名掲示板だった。


『相模線で眠り込んでしまったところ、気が付いたら「やよいざくら」という駅に来ていました。見たところ無人駅。私の他にお客さんはおろか、駅員さんもいません。調べてみたところ日本にはない駅なのですが、知ってる人はいますか?』


 藁(わら)にもすがる思いで書き込んだ質問に、思いの他早くレスがついた。


『「やよいざくら」という駅はたしかに日本にはありませんね。他の駅と間違えているんじゃないですか?』

『そんな駅は日本には存在しません。いたずらですか、釣りですか?』

『これってもしかして、異世界に迷い込んじゃったってやつじゃないの? 「やよいざくら」って名前の異世界』


 不安を拭いたくて書いた質問なのに、回答を見てさらに不安が増幅されていく。


 どうやら「やよいざくら」という駅は本当に存在しないらしい。存在しないはずの駅に電車が停まるって、いったいどう説明をつけたらいいんだろう。まさか答えにあったように、異世界に迷いこんじゃったとか? 異世界なんてまるでマンガやアニメの話。実際に異世界に行っちゃうなんてことはありえない。ありえないけれど、「やよいざくら」という存在しない駅にいること自体がありえないわけで。


 とりあえずお母さんが心配しているだろうと思い、電話をかけることにした。しかし『この電話にはお繋ぎできません』という無機質な音声メッセージが返ってくる始末。何度試みても、同じだった。ネットは繋(つな)がるのに、電話は通じない。いったいどうなっちゃってるんだろう。


 しかしこのままホームにいても埒(らち)が明かないと思い、駅を出てみることにした。無人改札はパスケースをタッチするとぽん、と普通に開いた。どうやら、電気は通じているらしい。


「やよいざくら」のひとつしかない改札を出ると、そこはすっからかんのがらんどうだった。いくつか商店らしきものは見えるけれどどれも閉まっているし、コンビニやファミレスなどといった建物もない。ターミナルには街灯がひとつだけ点いていて、足元の白いバンを照らしている。バンのナンバーに目をやると「弥生(やよい)桜(ざくら) の 12―58」の表示。「弥生桜」なんて駅が存在していない以上、「弥生桜」というナンバーも存在するかどうか疑わしい。いかにも怪しいバンだから無視して通り過ぎようとする。


「今夜泊まるところをお探しかな?」


 不意打ちで声をかけられて、びっくりして、ひ、と悲鳴を漏らしかけた。
 闇に紛れるようにして、五十代始めくらいの恰幅のいい男の人が立っていた。背が高くて、横幅も大きい。男の人が身体を動かすと、街灯の中にほんわりと顔が浮かび上がる。眉毛が濃くて目がぱっちりとした、柔和な面立ちの人だった。


 もしかして、悪い人ではない、のかな……?


「あの、私、相模線に乗ってたはずなんですけれど。気が付いたらこの駅に電車が停まっちゃって。電車は動かないし、こんな時間だし、どうすればいいのかわからなくて……」


 ようやく人に会えた嬉しさから、思わず早口でまくし立てていた。きんと静かな夜のターミナルに、私の声が響く。男の人はそうか、と首を縦に振った。


「今日はもう遅い。これ以上ここで待っていても、電車が来ることはない。よかったら私の家で休んでいかないか?」

「いいんですか? 私、ホテルかなんか探そうと思ってたんですけれど……」

「この町にホテルはないよ」


 男の人がバンの運転席に乗り込み、エンジンをかける。どうしよう。これって、すっごく怪しくない? この人、一見怖い人ではないけれど、もし物盗りとか変質者だったりしたら……

 運転席側の窓が開き、男の人が声をかける。


「早く乗りなさい。駅にはもう戻れないよ」


 その言葉にハッとして駅を振り返って、心臓が危うく止まりかけた。たった今出て来たばかりの駅が、文字通り消えかかっていた。陽炎(かげろう)のように建物の輪郭(りんかく)が歪み、夜の闇へと溶けかけている。

 慌てて目をこすってみても、やはり駅は闇に紛れて消えようとしていた。これ、いったいどうなっちゃってるの?


「乗ります」


 不可解な出来事から逃れたい一心で、バンの後部座席に乗り込んだ。この車は、消えてはいない。消えてしまうものの中に戻るよりは、消えていないものの中に戻るほうが安全だと、パニックになった頭の隅っこが決定したから。バンの中は野菜と土と卵の匂いがした。この人はきっと農家かなんかで、仕事にこの車を使っているんだろうと勝手に見当をつける。
「家までは十五分ほどだ。すぐにつく」

「あの、ありがとうございます……!」

「困っている人を助けるのは、当たり前のことだよ」


 真っ暗闇の夜の底を、バンは勢いよく滑り出す。


 後部座席の窓から、私は過ぎ去っていく街並みを見ていた。しばらく何年も前から営業していないような古びた商店が続き、それを過ぎると人の息吹が感じられない明かりのない住宅街が見える。その先は田んぼと畑。どの田畑にも何も植えられておらず、荒涼とした風景が広がっていた。田んぼと畑の向こうは、今度は山道。相変わらず街灯のない真っ暗な中を、バンは器用にカーブを攻略しながら進んでいく。


 また不安が心の隅で蠢(うごめ)いた。駅を出てからこの人にしか会っていないし、他の車とすれ違ってもいない。いくら真夜中だって、そんなことありえるだろうか? まさか本当に私、異世界に来ちゃったの? バンのナンバーだって「弥生桜」だし。


 必死の思いでまた掲示板に書き込む。スマホを叩く指が震えていた。


『駅を出て男の人が運転する車に乗りました。なんでも今夜、泊めてくれるとのことで。でも町には人っ子一人いないし、他の車とすれ違うこともなく、気が付いたら山道に入っていました。車のナンバーは「弥生桜」。このナンバーも、もしかして存在しないナンバーなんでしょうか?』


 レスはすぐについた。SOSを求める気持ちで立てたスレだけど、気が付けば顔の知らない人たちで大盛り上がりだ。


『「やよいざくら」という駅も「弥生桜」というナンバーも日本には存在しません。あなたはいったい何を言っているのですか?』

『知らない男の車に乗っちゃう時点でヤバいでしょ。今すぐ降りたほうがいい!』

『これ何なの? 釣り? にしてはずいぶん話作り込んでねーか?』

『「やよいざくら」ってきっと異世界ですよ! このままじゃ異世界に引き込まれちゃうから、なんとかして車を降りたほうがいいです』


 やがて山道がいっそう険しくなり、電波も届かなくなって、見知らぬ人たちとの交流も絶たれてしまった。


 自分に起こっていることの説明がつかない不安さに、ドクドクと心臓が不穏な駆け足を始める。どうやら本当に「やよいざくら」という駅も「弥生桜」というナンバーも存在しないらしい。この男の人の正体だってわからない。異世界に迷い込んでしまった、という説もあながち、ありえないとは言い切れない。マンガやアニメで異世界に行った主人公はこういう時、何をするんだっけ? 冷静に考えようとしても頭が真っ白で、冷静な思考が働いてくれない。


「あの、すみません。トイレに行きたくなってきたんですけれど……」


 とりあえず掲示板の人に言われた通り、車を降りよう。必死についた嘘だった。


「もうすぐうちだ。あと少しなので、我慢してもらえるかな」


 男の人に一蹴されてしまう。どうしよう。もう、車を降りることすらできない。


 私いったい、どうなっちゃうの!?


 ミミズがのたうちまわったようなカーブの連続の後、ぽっかりと大きな穴が目の前に飛び出す。すべてを飲み込むブラックホールのような、大きな穴。よく見ればただのトンネルなんだけど、この場合、ただのトンネルじゃない気がしてならない。ここをくぐってしまえば、本当に異世界に行っちゃうんじゃないか。元の世界に戻れないんじゃないか。


 助けて、お母さん……!!


 目を瞑(つむ)り、バンのスピードに身を任せる。バンはトンネルの中をごおおぉぉ、と唸りながら駆けていく。地底の奥底に吸い込まれていくような真っ暗闇の中、恐怖が膨れ上がる。やがてくぐもった空気をかき回す轟音(ごうおん)がやみ、トンネルから出たことを察して、私は固く瞑っていた目をおそるおそる開けて――息を呑んだ。


 窓の外に、いっぱいの桜が咲いていた。バンの明かりに照らされ、淡いピンクの花びらが夢のように浮かび上がる。どこを見ても桜、桜、桜。百本、いや千本はありそうな、桜の海。いっぺんにこんなにたくさんの桜を、私は目にしたことがない。尊いと形容してもいい見事な風景は、一度も見たことのないはずなのにどこか懐かしさが込み上げる。かつて見た夢の中に、こんな風景が出てきたんじゃないだろうか。そんな、デジャ・ビュに近いものを私は感じていた。


 桜の海の中に白く浮かび上がるアスファルトを、バンは時速五十キロで走っていく。


「どういうことなんですか」


 かろうじて言葉が声になった。


「今、十二月ですよね? 桜なんて咲いているわけないのに」

「驚かせてしまったね。すまない。『外』の人にはトンネルを抜けるまでは、この町のことを言ってはいけない掟なんだ」


 ハンドルを握りながら、静かに男の人が告げる。


「ここは弥生桜という町で、『外』とは違う次元に存在している。この町では春でも夏でも秋でも冬でも、一年じゅう弥生。つまり、三月のこと。だから、桜が常に咲いているんだ」


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