心を落ち着かせるため、駅ナカのカフェで一杯カフェオレを飲んだ。暖かい液体が身体に満ちていくと、少しだけ気分が冷静になった。ミルクの白とコーヒーの茶色に、敗北感でガチガチになっていた心が自然とほぐれていく。
たしかに私はずっと、お母さんの言葉に従って生きてきた。結婚十年目でやっと生まれた一人娘を可愛がることは、お母さんにとって趣味や生き甲斐のようなものだった。お母さんに言われるがまま小さい頃から英会話とピアノと習字とスイミングを習い、お母さんが入りなさいと言った中学校に受験して入った。お母さんが選んできた予備校に通い、大学もお母さんの母校の女子大学。お母さんの意向で留学を諦め、お母さんの意向で公務員を目指した。
公務員試験に落ちた時は、お母さんの期待を裏切ってしまった自分を心底責めた。これまで献身的と言ってもいいほど私に尽くし、育ててくれたお母さんの努力を無にしてしまったようで。お母さんも相当、落ち込んだ。ふたりで落ち込んで、落ち込んで落ち込んで、落ちるところまで行った時、「じゃあこれからは、唯の好きなように生きなさい」と言われた。
好きなように生きるって、何だろう? 私には自分の意志で好きになったものがない。こんなもの読んでたら馬鹿になる、と小学校の頃に読んでいた漫画は取り上げられ、こんなもの聴いていたらろくな大人にならない、と中学生の頃聴いていた音楽は禁止された。私が好きなものは、すべてお母さんの好きなもの。お母さんが作ってくれた手作りのケーキに、お母さんが自分でブレンドしたハーブティー。お母さんの好きなクラシック音楽に、お母さんの好きな名作と名高い海外の小説たち。
それで、いいと思っていた。これからもお母さんの言葉に従って真面目に会社員をやって、お母さんが認める男の人と結婚して、子どもを作って。そういう人生が、私にはぴったりだって思ってた。
その結果、自分がない、って言われてしまうなんて。
とぼとぼとした足取りで、山手線のホームを目指す。神奈川の郊外にある自宅から東京に出るまでは一時間半かかり、大学は毎日朝六時に起きて通学した。一人暮らしなんて絶対ダメ、というお母さんの意向だ。
山手線で新宿に出て、新宿から小田急線。海老名(えびな)で相模(さがみ)線に乗り換えた時は、今まで混雑していた電車の中は少し空いていた。時間を考えれば、空いているのは珍しい。今まで一時間以上立ちっぱなしだったから、空席を見つけてすぐ腰掛けた。思い出して、カバンからスマホを取り出す。お母さんからメッセが来ている。『最終面接、どうだった? 唯ならきっと受かるから大丈夫よ』
『ごめん。ダメだったみたい』――短い返信を打ちこんで、スマホをカバンに仕舞う。窓の外は冬の短い日が既に暮れかけていて、青黒い闇の中に街灯がぽちぽちと光っていた。両側の人に遠慮しながら、小さく伸びをする。家に帰るの、嫌だなぁ。ようやく漕ぎつけた最終面接がダメだとわかったら、お母さんはまたがっかりするだろう。私はこれ以上、お母さんを失望させたくない。手塩にかけて育てた一人娘なんだから、それ相応の結果を残さなきゃいけない。お母さんのために。
電車が加速していくにつれて、とろとろとぬるま湯に浸かるような眠気がやってきた。夕べは緊張してろくに寝れなかったから、眠くなってしまうのは当たり前だ。大丈夫、今海老名を出たばかりだから、最寄り駅まではあと二十分もある。少しだけまどろみに身を任せてしまっても、起きられるだろう。
たしかに私はずっと、お母さんの言葉に従って生きてきた。結婚十年目でやっと生まれた一人娘を可愛がることは、お母さんにとって趣味や生き甲斐のようなものだった。お母さんに言われるがまま小さい頃から英会話とピアノと習字とスイミングを習い、お母さんが入りなさいと言った中学校に受験して入った。お母さんが選んできた予備校に通い、大学もお母さんの母校の女子大学。お母さんの意向で留学を諦め、お母さんの意向で公務員を目指した。
公務員試験に落ちた時は、お母さんの期待を裏切ってしまった自分を心底責めた。これまで献身的と言ってもいいほど私に尽くし、育ててくれたお母さんの努力を無にしてしまったようで。お母さんも相当、落ち込んだ。ふたりで落ち込んで、落ち込んで落ち込んで、落ちるところまで行った時、「じゃあこれからは、唯の好きなように生きなさい」と言われた。
好きなように生きるって、何だろう? 私には自分の意志で好きになったものがない。こんなもの読んでたら馬鹿になる、と小学校の頃に読んでいた漫画は取り上げられ、こんなもの聴いていたらろくな大人にならない、と中学生の頃聴いていた音楽は禁止された。私が好きなものは、すべてお母さんの好きなもの。お母さんが作ってくれた手作りのケーキに、お母さんが自分でブレンドしたハーブティー。お母さんの好きなクラシック音楽に、お母さんの好きな名作と名高い海外の小説たち。
それで、いいと思っていた。これからもお母さんの言葉に従って真面目に会社員をやって、お母さんが認める男の人と結婚して、子どもを作って。そういう人生が、私にはぴったりだって思ってた。
その結果、自分がない、って言われてしまうなんて。
とぼとぼとした足取りで、山手線のホームを目指す。神奈川の郊外にある自宅から東京に出るまでは一時間半かかり、大学は毎日朝六時に起きて通学した。一人暮らしなんて絶対ダメ、というお母さんの意向だ。
山手線で新宿に出て、新宿から小田急線。海老名(えびな)で相模(さがみ)線に乗り換えた時は、今まで混雑していた電車の中は少し空いていた。時間を考えれば、空いているのは珍しい。今まで一時間以上立ちっぱなしだったから、空席を見つけてすぐ腰掛けた。思い出して、カバンからスマホを取り出す。お母さんからメッセが来ている。『最終面接、どうだった? 唯ならきっと受かるから大丈夫よ』
『ごめん。ダメだったみたい』――短い返信を打ちこんで、スマホをカバンに仕舞う。窓の外は冬の短い日が既に暮れかけていて、青黒い闇の中に街灯がぽちぽちと光っていた。両側の人に遠慮しながら、小さく伸びをする。家に帰るの、嫌だなぁ。ようやく漕ぎつけた最終面接がダメだとわかったら、お母さんはまたがっかりするだろう。私はこれ以上、お母さんを失望させたくない。手塩にかけて育てた一人娘なんだから、それ相応の結果を残さなきゃいけない。お母さんのために。
電車が加速していくにつれて、とろとろとぬるま湯に浸かるような眠気がやってきた。夕べは緊張してろくに寝れなかったから、眠くなってしまうのは当たり前だ。大丈夫、今海老名を出たばかりだから、最寄り駅まではあと二十分もある。少しだけまどろみに身を任せてしまっても、起きられるだろう。