鬼の花嫁~運命の出逢い~



「お前達は柚子にとって害悪にしかならない。とっととサインしろ」


 父親を威圧する玲夜に、ようやく冷静さを取り戻してきた瑶太が声を掛ける。


「どういう事ですか。どうしてあなた様があの女の味方をするのです?」

「言ったはずだ、花嫁だと」

「は、花嫁?あの女が、そんなはず……」


 次の瞬間、瑶太は青い炎に包まれた。


「うあぁぁ!」


 ゴロゴロと床を転がる瑶太に花梨が駆け寄る。


「瑶太!」

「柚子の痛みを知れ」


 瑶太を見下ろす目は凍るように冷たい。その目を次に、ガクガクと怯える父親に向ける。
 次は自分の番かもしれないと怯えているのだろう。



「俺を本気で怒らせる前にサインした方が身のためだぞ」


 玲夜が父親を脅している間に、高道が祖父に書類を渡して必要な場所にサインをさせている。


「玲夜様。こちらは終わりました。後はそれだけです」


 それ、と言われた父親は、玲夜に睨まれて顔色が悪い。

 玲夜は父親の胸倉を掴むと、強引に書類の前に座らせる。

 高道がペンを差し出す。

 父親はペンを取るのを躊躇っていたが、チラリと見上げた玲夜の冷たい眼差しに、恐る恐るペンを取った。

 言う通りにしなければどうなるか。
 先程の瑶太の姿を思い出せば、反抗する気も起きなかった。


「こちらにサインを」


 父親は震える手でペンを走らせる。

 柚子はそれを色々な感情がない交ぜになった気持ちで見ていた。



 高道がサインの終わった書類に目を通して、不備がないか確認していく。


「ふむ、問題ないようです」


 玲夜は一つ頷くと、柚子に視線を向ける。


「柚子、もうこの家には戻らない。必要最低限の物だけ持ってくるんだ」

「う、うん」

「行きましょう。柚子」


 柚子は祖母と共に自分の部屋に向かった。


 本当に必要最低限の物だけを詰めたバッグ。
 ここから出て行くというのに、自分が持ち出したいと思えるほど思い入れのある物はこんな小さな鞄一つなのだと思うと、少し寂しい気がした。


 何せ、土日は祖父母の家に泊まり、平日は学校とバイト三昧で寝に帰るだけの部屋。
 大事な物なんてほとんど置いていないことに、手にした荷物の量を見て気付かされた。

 長年過ごした自分の部屋。
 この家であの家族と顔を合わせずにすむ逃げ場でもあった。


「ありがとう」


 そう言い残して、扉を閉めた。






 リビングへ行くと、所々服が焼け焦げた瑶太を囲む花梨と母親。

 父親も玲夜を警戒しながら、瑶太の様子を見ている。

 当の玲夜はどこ吹く風。
 もう父親など眼中にないという様子で、祖父と高道と何やら話をしている。


 柚子が入ってくると、その手の鞄に視線を移す。


「それだけか?」

「うん。……ねえ、あの人は大丈夫なの?」


 全身を火で包まれていた瑶太は、床に転がって身動き一つしない。
 柚子の手を焼いた人だ。
 ざまあみろと思わなくもないが、少しやり過ぎな気もしなくもない。
 というか、生きているのか心配になる。


「問題ない。少し霊力をぶつけたから気絶してるだけだ。
 火傷もあの程度、狐ほどのあやかしならすぐに回復する。
 俺の柚子に怪我をさせたから、ちょっとした仕置きだ」


 お仕置きなんて可愛らしいものですんでいるように見えないのだが、人間とあやかしはやはり体の作りが違う生き物なのだろう。


「準備が出来たなら行くぞ」


 柚子から鞄を奪うと、肩を引き寄せて歩き出す。

 しかし、柚子は玲夜の手から離れ振り返る。


「これまで育ててくれたことには感謝してます。お世話になりました」


 三対の目が憎々しげに柚子に突き刺さる。

 しかし、柚子はそんな眼差しには負けず、一度だけ深く頭を下げると、玲夜と共に長年暮らした生家を後にした。


 
 鬼龍院家へ行く前に、祖父母を家まで送った。


 柚子が荷造りをしていた間に、祖父と玲夜の間で柚子について話がされていたようだ。

 祖父母の養子となったが、これから柚子は鬼龍院の家で生活する。
 柚子の身の回りのことは全て玲夜が用意する。
 けれど、祖父母との付き合いについて玲夜が強制するようなことは何もなく、会いたい時に会えば良いという事だ。


「柚子、鬼龍院さんと仲良くね」

「またいつでも遊びにおいで」

「うん、またね」


 祖父母と一時の別れをし、柚子は玲夜と共に鬼龍院の家へ。


 厳かな門構えが柚子を迎え入れる。

 一日で大きく変わってしまった柚子の生活。
 期待と不安で心が落ち着かない。
 そんな柚子に玲夜が優しい笑顔で手を差し出す。


「ようこそ柚子。俺の花嫁」

「これから、よろしくお願いします!」

「あい」

「あいあい」


 子鬼達も柚子を歓迎するように、ぴょんぴょん跳びはねた。


 玲夜に手を引かれ、柚子は門をくぐった。




***


「……うっ」

「瑶太!?」


 それまでピクリとも動かず気絶していた瑶太が目を覚まして、花梨は声を上げる。


「くっ」


 呻き声を上げつつも、ゆっくりと体を起こした瑶太に、花梨もそして両親もほっとした表情をする。

 先程までの悪夢のような時間は、本当に夢だったのではないかと三人に思わせたが、目の前で倒れた瑶太がいる以上、夢だと現実逃避することも許されない。


「瑶太、大丈夫?」


 今にも泣きそうな顔で花梨が問い掛ける。


「大丈夫、心配しなくていい」


 とても大丈夫そうには見えない。何せ火達磨になったのだ。
 けれど、服は焼け焦げているものの、瑶太自身の肌が焼けている所は見られない。
 とても火に包まれたとは思えない綺麗な肌。

 玲夜は霊力をぶつけたと言った。
 それはその通りで、鬼の大きすぎる霊力をぶつけられ、その衝撃により気絶したに過ぎなかった。
 
 鬼の、しかも次期当主たる玲夜が本気で霊力をぶつけていたら、気絶などではすまなかっただろうが。

 そう考えれば、ある程度手加減をされていた事が分かる。

 瑶太は妖狐の一族の中では上位の家の息子。
 瑶太は憎いが妖狐一族との諍いは望んでいないという事なのだろう。

 もし、花嫁のためとは言え、一族でも力のある家の瑶太をどうにかしていたら、さすがの妖狐の一族も黙ってはいない。

 玲夜もそれは望んでいないから、お仕置きで済まされた。


 けれど、瑶太がもし柚子にした事があれ以上のものだったら、玲夜は容赦しなかっただろう。
 たとえ妖狐一族と全面戦争になろうとも。


「花嫁……。花梨の姉があの方の?」


 瑶太の呟きを拾った花梨はムッとした顔をする。


「そんなはずないじゃない。あのお姉ちゃんが花嫁に選ばれるなんて」


 花梨には矜持がある。
 花嫁とは選ばれた特別な存在。
 そう言われ大切にされてきた花梨は、姉が自分と同じ花嫁だということを享受出来なかった。


「瑶太君、先程の男はどういう者なんだい?鬼龍院と言っていたが、本当なのか?」


 おずおずと問い掛ける父親に、その答えを返す。


「ええ、本当です。あの方は鬼龍院玲夜様。あやかしをまとめる鬼龍院家の次期当主。あやかしの頂点に立つ鬼のあやかしです」

「そんな方が、柚子を花嫁に!?」


 口を押さえて驚く母親は、驚きの中にも喜色が見えた。
 柚子にあれだけの我慢をしいていながら、自分の娘が選ばれたことが嬉しいのか。
 そんな母親に花梨は。


「お母さん!そんな人がお姉ちゃんを花嫁に選ぶわけないじゃない。きっと何かお姉ちゃんがあることないこと言って同情をかって、その人に助けてもらっただけじゃないの!?」

「あの方はそんな甘い方じゃない。花嫁でもない限り、目の前で人が行き倒れていても道端の石ころのように通り過ぎる様な方だ」


 瑶太は知っている。
 普段の玲夜の無情さを。


「けど、あり得ない。お姉ちゃんが花嫁なんておかしい。しかも鬼の花嫁だなんて……」


 花嫁を選ぶのはあやかしだ。
 花梨がどう思おうと関係はない。
 けれど、花梨は自分より上位のあやかしに姉が選ばれたことが信じられない。
 これまで下に見ていた姉が。


「あなた、柚子をどうにか家に戻せないの?養子縁組だなんて、あの子は私達の娘なのに」

「だが、すでにサインをしてしまった」

「今まであの子を育ててきたのは私達よ。あの子だって今は意地を張ってるだけで、育ててもらった恩をちゃんと分かっているはずよ。ちょっと花梨に嫉妬してるだけなのよ、きっと」


 母親の目に浮かぶのは欲望。

 すでに花梨を花嫁に選んだ瑶太の家から援助してもらっているが、鬼龍院ともなればそれ以上の見返りがあるはず。
 そう考えているのだ。

 それに、自分の産んだ娘二人共が花嫁に選ばれたという優越感。

 これまでしてきたことなど忘れ、何とかして柚子を手元に戻せないかと考え始めた。


「だがな……」


 父親は躊躇うように考え込んだ後、自分ではどうにも出来ないと悟り、瑶太にその眼差しを向ける。


「瑶太君、何とかならないか?」

「瑶太、何とかして」


 相手は鬼龍院。リスクが高すぎる。
 父親の願いを叶える道理はない。
 けれど、愛しい花嫁である花梨の懇願。
 出来れば叶えてやりたい。


「分かった……。花梨が望むなら」


 花嫁を得たあやかしの悲しい性。
 花梨はただただ姉が自分より優位だということが許せないだけであり、瑶太もそれを何となく理解していても、花嫁の願いなら叶えてやりたくなるのだ。

 それが、玲夜の逆鱗に触れると分かっていても。




***

 柚子が玲夜に連れてこられた屋敷。

 ここは鬼龍院の本家ではなく、玲夜個人の自宅である。
 それ故、鬼龍院当主である玲夜の父親、そして母親はここではない本宅の方で暮らしており、ここには玲夜とその使用人達しかいない。

 とても個人の自宅とは思えない大きな屋敷にあんぐりしながら、本家の屋敷はここの何倍もあると教えられ、鬼龍院の財力に怯えすら感じる。

 本当に自分がこんな人の花嫁なのだろうか。

 間違っていないかと疑いたくなるのは仕方ない。
 人にはあやかしのように花嫁と感じる感覚はないのだから。

 信じて良いのだろうか……。


 この期に及んでそんなことを考えてしまう柚子は嫌になるが、いきなり別れを告げた元カレのように、花梨を優先してきた数多くの人達のように、玲夜もいつか柚子をいらないと言うのではないかと恐れている。

 その心内を玲夜が知れば、真実鬼のように怒っただろうが、あいにく柚子の内心の迷いは、新しい環境への戸惑いと勘違いされたようだ。


「柚子は何も心配しなくて良い。お前は俺の花嫁。今日からお前がこの家の女主人だ。用があれば近くにいる者に何でも聞けば良いから」

「う、うん……」


 女主人だ。などと急に言われてもはいそうですかと、簡単に受け入れるのは難しい。

 けれど、柚子達が屋敷の中に入って出迎えたくれた使用人達の顔を見る限りでは、柚子は歓迎されているのを感じて少し安堵する。

 朝食を食べた座敷に通されると、座敷の上座に玲夜がどかりと座る。
 そして、柚子はその隣に目を丸くしながら座る。

 柚子が驚いていたのは、広い座敷を埋めるように、たくさんの人が正座し頭を下げた状態で柚子達を迎えたからだ。

 まさかこんなにも人がいると思わなかった柚子は驚いた。


 その中で一番前に座っていた老年の男性が声を上げる。


「この度は花嫁様をお迎えすることが出来、使用人一同心よりお喜び申し上げます」

「頭を上げろ」


 玲夜の一言で頭を上げた全員の視線が柚子に集まっている気がして居心地が悪くなる。


「今日からここで暮らすことになる俺の花嫁の柚子だ」

「よ、よろしくお願いします」


 最初の挨拶は必要だと、柚子も手を突いて頭を下げようとしたが、それを玲夜に制された。

 不思議に思っていると、老年の男性が苦笑を浮かべる。


「花嫁様は我らの主人の花嫁、私どもに頭を下げる必要はございません」


 柚子には分からないがそういうもののようだ。
 けれど、偉ぶるのは慣れなく、時間が掛かりそうだ。


「花嫁様にご挨拶と紹介をしたいと思いますが、よろしいですか?」

「えっはい、どうぞ……」
 
「ありがとうございます。まず、私使用人頭をしております道空と申します。そして……」


 使用人頭という老年の男性、道空が視線を後ろに向けると、一人の女性が前に進み出てきた。


「こちら、今日より花嫁様専属のお世話をさせていただくことになります、雪乃と申します」

「雪乃でございます。誠心誠意お仕えさせていただきます」


 頬を上気させてやる気をみなぎらせている女性には見覚えがあった。


「あっ、最初にお世話してくれた人」


 昨日初めてこの家に来た時に、部屋まで案内してくれた女性だった。


「覚えていて下さって光栄です!」


 喜色を浮かべる雪乃。
 しかし柚子は、その時、他の女性達が悔しげに歯をぎりぎりさせていたのには気が付かなかった。

 花嫁の専属世話係の座を巡って、朝から壮絶な死闘があったことも。

 それを勝ち上がった雪乃は、分家のそのまた分家の家の出だが、花嫁の世話係を勝ち取る程度には強いということも。


「柚子の部屋は整えてあるな?」

「はい、旦那様。鬼龍院の威信をかけて最高級の物を取りそろえました」


 普通で良いんですけど……。と思った柚子は、部屋を用意してくれるのは嬉しいが、見るのが怖くなった。
 部屋一つに鬼龍院の威信などかけなくていいが、玲夜は満足そうだ。


 細々と玲夜と使用人頭が話を合わせていると、玲夜の秘書の高道が入ってきて玲夜にひそひそと話す。

 チッと舌打ちした玲夜は、次の瞬間には柚子へそれは優しい顔を向ける。


「すまない、柚子。本当は一緒にいてやりたかったが、本家から呼び出された」

「本家?」

「ああ。恐らく花嫁に関して報告に来いということだろう。だから少し出てくるが、柚子はゆっくりしていると良い」

「うん」


 急に知らない中に放り出されたような気になってしまい、柚子の顔が曇る。

 そんな柚子の頭を優しく撫でる玲夜。


「良い子にしているんだぞ」

「子供じゃないのに」


 玲夜はふっと笑って、今度は優しさの欠片もない眼差しを使用人一同へ向ける。


「これからは柚子の言葉は俺の言葉と思って接しろ。」


 使用人達は御意というように揃って頭を下げた。







 出掛ける玲夜を見送った柚子は、雪乃に案内されて柚子のために用意された部屋へ。

 そこは初日に案内された、玲夜の隣の部屋だった。
 まるで高級ホテルの一室のような高級感漂う部屋だったそこは、なんともガーリーな部屋へと一新していた。

 あまりの変わりように、別の部屋かと勘違いするほど。


「お気に召しませんでしたか?」


 無言でいた柚子の様子に不安げにする雪乃。
 柚子は慌てて首を横に振った。


「いえ、そんなことありません。とっても可愛いです」


 可愛すぎて、本当にこの部屋を使って良いのか戸惑いを感じるほどだ。


「お気に召していただけたなら良かったです。使用人一同で部屋を整えたかいがあります」


 ふんわりと笑う雪乃は、さすが鬼のあやかしと納得してしまうほど美しい。

 まあ、美しさで言えば玲夜が飛び抜けているが、他にいた使用人達も皆容姿が整っていて、その中に混じっている柚子の場違い感が半端ない。

 今後、幾度となく容姿に対する劣等感に苛まれそうである。


 とりあえずそれは今のところ置いておいて、部屋の中を見て回る。

 テーブルとベッドにソファー、その上にあるクッションやラグに至るまで可愛らしい色合いで合わせられていて、勉強机にはノートや筆記用具といった物まで準備されていた。

 そして、部屋には専用のシャワー室まで完備。洗面所には高校生の柚子にはとても手が出せない高級化粧品。


「………」


 さらに別の扉があったので開けると、そこはウォークインクローゼットになっており、今まで暮らしていた家の柚子の部屋ぐらいありそうな広さの中に、所狭しと服や鞄、靴といった物が並べられていた。


 これらを見ていく度に、柚子は自分の顔が引き攣っていくのが分かる。


 念のため聞いてみる。


「あの、ここにある物って……」

「勿論、花嫁様のためにご用意いたした物です。お好きにお使い下さい」

「そ、そうですか……」


 にこにこと微笑む雪乃に、それ以上のことを言えず、柚子はそっと扉を閉めた。

 鬼龍院。
 知ってはいたが、半端ない。
 朝、この家を出て帰ってくるまでにこれだけの物を用意するのだから。
 しかもこんな小娘に、過ぎるほどの物を与えるなんて。
 

「何かご用がありましたらお呼び下さい」


 そう言って部屋を出て行く雪乃。
 一人になってようやく一息吐くことが出来た。

 いや、一人ではなかった。

 肩に乗っていた子鬼の二人が、柚子の方から下りてベッドの上でぴょんぴょん跳びはねて遊び始めた。

 柚子はソファーに座ってそれを微笑ましく見ている。


 ふと、視線を彷徨わせると、壁に掛けられたカレンダーが目に入った。

 今日の日付を何気なく見ていた柚子は、一拍の後……。


「………あぁぁぁ!」


 カレンダーで今日の日にちを思い出した柚子は大きな声を上げた。

 何だかんだで忘れていたが、今日は平日。
 そう、普通に学校がある日だ。

 家から持ってきた鞄をひっくり返すと出てきたスマホ。
 充電の切れたスマホの画面は真っ暗で、慌てて充電器を刺して充電を始め電源を入れると、何件もの通知が来ている。
 着信も何件も。

 それら全て学校の友人達。
 特に多いのは透子からだ。

 皆柚子を心配するもので、全然連絡を返さない柚子に段々心配度が増していくのが文面で分かる。

 慌てて全員に無事なことを返信して、時間を確認すると、すでに学校は終わった時間になっていた。

 そうなると今度は別の問題が。


「バイト!」


 そう、今日はバイトを入れている日でもあった。
 学校はもう間に合わないが、バイトならまだ間に合う。

 急いで準備をした柚子は鞄を持って部屋を飛び出した。


 迷いそうになる広い玲夜の屋敷をドタバタと走る柚子に、誰もが目を丸くする。

 一目散に玄関に向かい、大急ぎで靴を履いた柚子に、焦りの色を隠せない雪乃と使用人頭がやって来た。


「花嫁様、どうなさいました!?」

「ちょっと、出てきます」

「えっ、どちらに!?」


 その問いに丁寧に答える時間も惜しい柚子は、「ちょっとそこまで!」とだけ言い捨てて、屋敷を飛び出していった。


 ポカンとその様子を見ていた使用人頭は、はっと我に返り。


「だれか、花嫁様を追え!いや、旦那様にもご連絡を……」

「花嫁様ー!」


 突然飛び出していった柚子に、使用人達はパニックになることとなった。







 バイト先であるカフェに到着した柚子は、時計を見てギリギリセーフと安堵する。
 何とか時間に間に合った。

 しかし、そこで柚子は店長から驚愕の話を聞かせられる。


「えっ?もう一度お願いします」

「だからさ、君辞めたことになってるけど?」

「どういうことですか!?」

「それはこっちが聞きたいよ。今日突然君の保護者から連絡があって、バイトは辞めさせるって言われたんだよ。困るんだよね、シフトも組んであるのにさ」

「そんなはず……」


 そんなはずないとは言い切れなかった。

 あの両親が何かの嫌がらせかでそんなことを言い出したのかも。柚子はそう思った。


「多分何かの手違いだと思います。だから働かせて下さい」

「もう別の子にシフト入ってもらったんだよね。それに、君未成年でしょう。雇うには保護者の同意がいるんだけど、その保護者が辞めさせるって言うならこっちとしては雇えないよ」


 ド正論を言われて柚子はあたふたする。

 これまでの保護者は両親だ。
 けれど、養子縁組したから、これからの保護者は祖父母になるのか。
 ならば、祖父母の同意が必要になる。


「すぐ、保護者の同意書持ってきます。そしたら雇ってもらえますか!?」


 しかし、どうも店長の反応は良くない。


「うーん、今まで真面目にやってくれてたし雇ってあげたいけど、君が辞めるっていうんで求人の張り紙出したら直ぐに働きたいって子が見つかってね。もう雇うことになったから悪いんだけど」

「そんな……」


 ここは仕事内容のわりに時給が良いバイトだった。学校からも近くて通いやすかった。
 条件も良く、なにより制服がめちゃくちゃ可愛いことで柚子の学校の生徒にも働きたいと人気の店だった。なので直ぐに働きたいという人が見つかるのも頷ける。
 頷けるだけに、ここを辞めなくてはならないのはかなり痛い。


 しばらく粘ったがどうにもならず、肩を落としてその場を後にした。


 あてもなく、うろうろ歩き回る。


「どうしよう……」


 職を失ってしまった。
 また探せば良いのだろうが、これまでのバイトほど条件と時給の良い所は中々ない。

 スマホで検索してみたが、良いのは見つからない。
 とうとう頭を抱えだした柚子は、それ以上の問題があることに気付く。


 そもそも学校には通い続けられるのかということだ。


 これまで学費は両親が払っていた。
 ノートや筆記用具など、必要な物は柚子が自分で働いたバイト代から出していたが、学費は両親だ。

 けれど、両親と縁を切った以上両親は頼れない。
 かといって、年金暮らしの祖父母にも頼れない。

 学校に通いながら学費を稼げるのか。

 バイトもクビになってしまったし、もしかしたら学校は辞めなければならないかもしれない。


「どうしよう……」


 次から次へと問題が起きて、柚子はもう半泣きだ。

 そんな時にタイミング良く電話が鳴る。
 見ると透子からだった。
 直ぐに電話に出た柚子からは情けない声が出る。


「透子~」

「何、どうしたのよ。っていうか、今日なんで休んだの?風邪?でも昨日までピンピンしてたじゃない」

「私も何が何だか。急に花嫁とか言われるし、玲夜は綺麗だし、子鬼は可愛いし、お祖父ちゃん達の子供になっちゃうし、学校は辞めなきゃいけないかもだし」

「ちょちょ、ちょい待ち!」


 息も吐かせぬ柚子の弾丸トークに、透子の制止が入る。


「いや、全っ然言ってる意味分かんないわよ」

「話せば長いのよ」

「柚子今どこにいるの?」

「バイト先近くの公園。でもそのお店も首になっちゃうし、もう泣きそう、っいうか泣く」

「分かった分かった。そこからなら私の家も近いでしょう。こっち来て説明して。ちゃんと話聞いてあげるから」

「直ぐ行きます!」


 柚子は電話を切って目的地に向かった。




 透子が暮らしている家は、実際には透子の家ではない。

 透子が東吉の花嫁となってから、透子は東吉の家である猫田家で暮らしている。

 基本花嫁は大事にされるし、あやかしは花嫁が目の届かない所に行くのを嫌うので、花嫁に選ばれるとあやかしの家で暮らすことになる場合が多いようだ。

 花梨の場合は両親と離れたくないとだだをこねた結果、瑶太が折れたようで、家族と共に暮らしていたが、時間があれば花梨の様子を見に来ていた。

 そんな例外がありつつも、多くの花嫁と同じようにあやかしの家で囲われている透子は、その家では女帝のように君臨している。

 東吉が尻に敷かれているとも言うが……。
 

 両親とも頻繁に会ってもいるようで、そこはうまいこと両立させているようだ。
 

 猫田家も例に漏れず資産家の家柄で、その家は屋敷と言って相違ない大きさである。

 初めてこの家に遊びに来た時には、その大きさに圧倒されたのだが、玲夜の屋敷を見た後では小さく感じてしまうから不思議だ。

 鬼龍院次期当主の家と比べること自体かわいそうなのかもしれないが、猫田家は一般から考えれば十分大きい成功者の家だ。

 そんな家の前に立った柚子はインターホンを鳴らす。
 すると、自動で門が開き柚子を招き入れる。

 何度か来たことのある柚子は、特に驚くこともなく中に入っていくのだが、玄関前まで来ると何やら中が騒がしい。
 ドタバタと人が走り回っている音が聞こえる。

 頭に疑問符を浮かべ、玄関の戸を開けると、東吉が走り込んできた。

 その顔は焦りと僅かな怯えで強張っていた。

 しかし、柚子の顔を見るとほっとした表情を浮かべたが、それも一瞬のこと。
 柚子をじっと見つめたまま、目を見開き再び怯えを見せた。


「お、おま、お前……」

「こんにちは、にゃん吉君」

「お前、なんちゅうもんくっつけてんだぁぁ!!」

「はい?」


 東吉に指をさされた柚子は首を傾げた。
 自分の体を確認してみるが何もくっついてはいない。
 子鬼達も家においてきたので、肩にもどこにも何も乗ってはいない。


「何言ってるの?」

「何じゃないだろうが、そんなに鬼の気配体中からさせておいて!どこで付けてきた!?その気配のせいで鬼が来たかと屋敷中大騒ぎだぞ。俺達猫又はそんな強いあやかしじゃないんだ。そんな強い鬼の気配なんかしたら恐慌状態になるに決まってるだろ」

「は?」


 鬼の気配。
 そう言われても柚子は何も感じない。
 けれど、鬼に心当たりがないわけではない。
 きっとあやかしにしか分からない何かがあるのだろう。


「何騒いでるのよ、にゃん吉!」


 どう説明したものかと悩んでいると、横から透子の声が。


「柚子が来たなら私の部屋に連れてきてよ」

「いや、今それどころじゃねえんだよ。こいつから鬼の気配がしててだな……」

「鬼?」


 透子は怪訝な表情をした後、柚子に視線を向けた。


「何かあったの?」

「話せば長いことながら……」

「なら、部屋で話しましょう。にゃん吉、お茶持ってきて」


 当然のように東吉を顎で使う透子。
 下僕な東吉は文句も言わず粛々と従う。


「……分かった」


 キッチンへと向かっただろう東吉は、歩きながらすれ違った家の者達に大丈夫だと伝えて回り、ようやく猫田家は落ち着きを取り戻した。








 透子の部屋に行くと、テーブルを挟んで向かい同士に座る。


「そう言えば柚子、今日はバイトだったんじゃないの?学校も休んだし、休んだの?」

「それが……クビになりました……」


 柚子が言いづらそうに言うと、透子は、はぁぁ!?と声を上げた。


「何で!?」

「保護者から辞めさせるって電話があったらしくって」

「それって柚子の両親が?」

「分かんないけど、多分そうじゃないかな」

「何でそんなことするのよ、意味分かんない」

「それが、私お祖父ちゃん達と養子縁組して、あの家出ることになったの。だから、その嫌がらせかも」

「養子縁組?何で急に。昨日までそんなこと一言も言ってなかったじゃない」

「……ほんとだよねえ。急すぎて私もついていけてない」


 昨日から今日を振り返ってしみじみとする柚子。
 
 全くどうしてこうなったのか、展開が早すぎてまだ夢の中のようだ。
 もしかしたら自分の希望が生み出した夢の中ではないかと勘違いしてしまいそうになる。

 けれど、玲夜抱き締められたあの温もりは確かに現実だった。


 部屋の扉がノックされ、東吉が三人分のお茶とお菓子を持って入ってきた。
 テーブルに置くと、透子の隣に腰を下ろした。
 東吉も揃ったところで、改めて透子が聞く。

 
「何があったか、一から説明してよ」

「うん。それが、花梨と大喧嘩しちゃって」

「珍しいわね。っていうか初めてじゃない?」


 あの家でのことを透子は知っていた。
 まだ諦めを覚える前の柚子から相談されたことや、悲しむ柚子を慰めたこともあり、ある程度のことは聞かされていた。

 けれど、所詮他人でしかない透子は柚子の話を聞いてあげることしか出来ず、段々と諦めの色をしていく柚子に何もしてあげられないことを悔やんでいた。

 家族の話をする時、どこか暗い色を見せる柚子が、今は吹っ切れたように自然な顔をしていることに透子は気付き内心かなり驚いた。

 たった一日で何があったのか。
 これほどまでに柚子を変えてしまう何かがあったのは確かだった。


「お祖父ちゃんからもらった誕プレの服を取られそうになって思わず叩いちゃったのね」

「おっ、とうとうやったか」


 東吉が口角を上げて茶化す。
 東吉も事情を知る一人。
 花嫁である透子ほど柚子に関心はないが、友人の一人程度には好意を持たれていると柚子は思っているので、柚子の家での扱いには思うところがあったのかもしれない。
 花梨を叩いたと聞いてちょっと嬉しそうだ。


「そしたら花梨至上主義のあの彼氏に燃やされちゃって」

「はあ!?」


 軽く言ったつもりだったが、燃やされたという言葉に透子の目が吊り上がる。


「にゃん吉、今すぐあのクソ狐殺ってこい」

「無茶言うなよ、猫又が妖狐に勝てるわけないだろ。瞬殺されるぞ」


 あやかしのことは柚子には分からなかったが、猫又はあやかしの中ではあまり強いあやかしではないようだ。 


「けど、燃やされた割にはお前から狐の霊力感じないな。というか、鬼の気配が強すぎ」

「そんなのどうでも良いわよ。燃やされたなんて、怪我してないの?」

「手を火傷したんだけどね、玲夜が治してくれて、この通り」


 心から心配してくれる透子の気遣いに心を温かくしながら、火傷していた手を見せる。


「玲夜?」


 知らない名前に透子が首を傾げる。


「うん、玲夜。その喧嘩の後に家飛び出しちゃって、途方に暮れてたらその玲夜と出会って。そしたらその玲夜が私のことを花嫁だって」

「えー、嘘本当!?柚子も花嫁だったの?ってことはその人もあやかしってことよね」

「うん、そう。玲夜は……」


 玲夜の説明をしようとしたところで、東吉が口を挟む。


「……ちょっと待て。さっきから玲夜玲夜と言っているが、まさか鬼龍院の玲夜様じゃないだろうな……?」


 東吉の顔色は悪く。違うと言ってくれとその顔が告げていた。


「そうだけど?」

「まじかぁぁぁ!」

「にゃん吉うるさい!」


 絶叫する東吉は透子に怒られるが、そんなことを気にしていられる状態ではないようだ。


「おおおお、お前が鬼龍院の若様の花嫁だとぉ!」

「にゃん吉君、動揺しすぎ」

「これが動揺せずにいられるか!鬼龍院だぞ!次期当主だぞ!あやかしの中で二番目に偉い方なんだぞ!」


 ちなみに一番は当主である玲夜の父親だ。







「鬼龍院なら私でも知ってるわ。そんな人が柚子を花嫁にねぇ」

「まだ実感はないんだけどね」


 苦笑を浮かべる柚子。


「何言ってるのよ、そんな人に花嫁に選ばれるなんて光栄なことじゃない。もっとふんぞり返ったら良いわよ。そして、あの親や小娘にざまあみろと高笑いしてやったら良いわ。ついでにクソ狐にもね」

「それは玲夜がやってくれた。さすがに高笑いはしてないけど、両親と縁を切るように、お祖父ちゃん達と養子縁組するように手続きしてくれて」

「そりゃまた思い切ったわね。柚子の性格からして、何だかんだで切れないでいると思ってた」

「思い切れたのは玲夜のおかげかも。結果的にはなんかスッキリしてる」

「そう。柚子がそれで良いって言うなら良かったわ。私は何もしてあげられなかったから、ちゃんと柚子を守ってくれる人が出来て良かった」

「透子は私の愚痴も聞いてくれたじゃない。それがどんなに救われたか」

「柚子……」


 がしっと抱き合った柚子と透子。
 お互いの友情を確かめ合っていると、横から腕が伸びてきて透子がさらわれた。

 簡単に透子を奪い返した東吉は不機嫌そうな顔。
 あやかしというものは、それがいくら女同士の友情だとしても花嫁を取られるのは我慢がならないらしい。

 透子はやれやれという顔をしているが、文句は言わず大人しく東吉の腕の中におさまっている。

 それを羨ましい思いで見る柚子。

 重いほどに深く愛される透子と、そんな透子を必要としている東吉。
 そんな二人の関係を羨ましく思っていた。
 いや、妬ましいと思ったことすらある。そしてそう感じる自分を嫌になったこともある。


 けれど、柚子にも玲夜という存在が表れた。
 透子を必要とする東吉のように、柚子を必要とする玲夜がいる。

 あの時、「あなたは私を愛してくれる?」その問いに頷いた玲夜は、その答えを違えることなく柚子を深く愛してくれるのだろう。

 玲夜の存在は柚子の心を強くしたと同時に、透子と東吉の二人を微笑ましく見ること出来る心の余裕も与えた。


 透子を取り返して満足した東吉から解放された透子から素朴な疑問が。


「お祖父さん達と養子縁組したならあの家は出たの?」

「うん。あの家は出て、これからは玲夜の家でお世話になることになった」

「まあ、それが妥当だろ」


 東吉は当然という顔をしているが、柚子はあの家でお世話になることにはまだ気が引けている。
 けれど、祖父母からも快く送り出されてしまっては嫌だとは言い出せなかった。
 玲夜も押しが強いので、なおさらだ。


「っていうか、お前一人で来たみたいだけど、ちゃんとここに来ること言ってきたんだろうな?」

「言ってないけど?」


 そう言うと、「アホか!」という怒声を浴びせられた。


「そんな怒らなくても」

「あのなぁ、きっと今頃鬼龍院の家は大騒ぎになってるぞ」

「なんで?」


 分かっていない様子の柚子に、東吉は深い溜息を吐いた。


「……まだ花嫁になりたてだから分からないのも仕方ないか」


 頭をポリポリと掻いて、東吉は少し怒りを静めた。


「あのなぁ、あやかしと言っても一枚岩じゃないんだよ。家同士敵対してるところもあれば、どうにかして足をすくってやろうと野心を持ってる家もある。だけど、基本力が上の一族には手を出したりしない。特に鬼なんか返り討ちされるのが目に見えてるからな。でもそんな鬼に一矢報いる方法がある」

「何?」

「花嫁を奪うことだ」

「……」

「右に出る者がいないほど強い霊力を持つ鬼だが、花嫁は力のないただの人間。花嫁は一族に繁栄をもたらす希望であると同時に、唯一の弱みにもなるんだ。そんな花嫁がほいほいその辺を一人で歩いてたらどうする?」

「かなりまずい?」

「まずいなんてもんじゃすまない。あやかしの中じゃ下位にある俺の花嫁である透子にだって、常時護衛を付けてるんだ。鬼龍院の花嫁なんて弱点、野心がある奴らが狙わないはずないだろう。まあ、まだ周知されてなかったから大丈夫だったんだろうが、これからは気を付けろ。お前は鬼龍院の唯一の弱みになったんだ」

「……」


 そんなつもりはなかった。
 ただ、必要とされたくて。
 必要としてくれたことが嬉しくて。
 ただそれだけだったのに、柚子を置いて物事が大きくなっていたことに、柚子はようやく知った。


「だから、弱みになってしまったお前を迎えることを嫌がる一族の奴もいると思う。そこは覚悟しておいた方が良いぞ。花嫁は喜ばれるだけじゃないんだ。強いあやかしてあればあるほどな」

「……うん」


 柚子は自分が浮かれすぎていたことを反省した。
 花嫁なら幸せになれると、そう単純に思っていたのだが、そんな単純なものではなかったのだ。