【午前八時】

 今日という日は二度と来ない。
 明日でいいやと投げて後々後悔する結果なら、昨日を、今日を、数時間前を、一分一秒を大切に楽しく生きた方が絶対いいじゃん。
 僕の人生にとって一番大切で、特別な日は今日しかない。
 気合いをいれて、久しぶりに大きく口を開いて声を出してみる。声変わりをする前の少し高い声が思っていたより元気に出てきた。
 今度は両腕を上へあげて思いきり伸びをしてみる。これは想像していたより体が鈍っていたのか、肩やら背中がピキピキと鳴る。しっかり動いていたはずなのに、運動不足だったかなととぼけた。
 そして近くにあった姿鏡の前に立つ。黒パーカーにベージュのズボン、懐かしい履き慣れたスニーカー。一回転すれば、少しだけ大人びた格好の自分に思わず頬が緩む。
 思った以上に良いコンディションと自分の姿に満足していると、後ろから声をかけられた。
「時間は夕方の五時までだよ。わかっているね?」
「うん! いってきます!」
 声の主にそういうと、僕は姿鏡があった近くのドアを開いて外に出た。
 早く会いたい――そう願ってワクワクしている僕を、見守ってくれる神様はどう捉えただろう。少なくとも、僕が考えている優しい微笑みではないことは確かだ。
 そうして僕はある場所にたどり着いた。
 朝の八時だからか、いつも小さな子供で賑やかな公園は風で小さく揺れる遊具が鎮座していた。
 僕は公園の脇道にある草むらに身を潜めて息を殺して、先行く人々に目を向けた。足早に駅へ向かうサラリーマン、子供を幼稚園へ送り届けるために自転車を必死に漕ぐお母さん、横並びで和気あいあいと話しながら行く女子高生達。
 そしてようやく目当ての人物を見つけると、僕は草むらから飛び出し、その人物に向かって後ろから抱きついた。
雪路(ゆきじ)! 久しぶりーっ!」
「……うわあっ!? え、なになになに!?」
 彼の背後から飛び付いたこともあり、混乱している。仕方なく離れると、彼――雪路は目を丸くして固まってしまった。
「は……?」
「おーい? 雪路? 大丈夫?」
「……お前、誰……?」
「うわ。僕のこと忘れちゃったの?」
「忘れたっていうか……知り合いに、すごく似ているっていうか……」
「それって僕のことじゃないの?」
「そんなの知るかよ」
 そっけない彼の言葉に少し不安になる。僕の知っている雪路はこんな喋り方をしていただろうか。
 新しいブレザーの制服に、履き潰したボロボロのスニーカー。スクールバッグは左肩にかけて、ポケットから伸びるコードは首にかけていたヘッドフォンに繋がっている。僕の知っている頃よりも身長がかなり伸びたようで、少し男らしくなった顔つきで、疑うように眉を潜めた。姿は成長してがらりと変わったのに、雰囲気は僕の知っている彼と同じだった。
 それがなんだか悔しくて、思わず雪路の額を中指で突いた。身長差を縮めるために勢いがついた中指は真っ直ぐ額に命中し、一瞬で雪路の顔を歪めた。
「いって!? ……急に何すんだよ!」
「い、いやだってこれくらいしないと思い出せないんじゃないかなー……って。勢いよくやり過ぎたのは謝るけど!」
「だからってデコピンするなよ! 突き指になった、ら……? お前、まさか……」
 いや、でもだって。――そう言って雪路は一人で小さく呟く。額は既に突いた僕の指の痕が赤く残っていた。そして暫く考えると、じっと僕の目を見て問う。
「……お前、天馬(てんま)か?」
 名前を言い当てられると、僕は満面の笑みを浮かべた。
「大正解! よく思い出してくれた!」
「思い出したっていうか、正直信じられないというか……」
 困惑な表情を浮かべる雪路に、僕は背中を軽く叩く。
「無理もないよ。だって三年も経っているんだから」
 
 僕が保育園に入ってすぐ、遊戯室の隅で蹲っている奴がいた。人見知りが激しくて、話しかけただけですぐ泣き出してしまう、そんな奴がどんどん気になって、僕の方から毎日毎日話しかけていたら次第に心を開いてくれるようになった。それから一緒に遊んだり悪戯したりしていつの間にか隣にいた。――それが、雪路だった。
 同じ小学校に入学すると、僕らは事あるごとに注目されるようになった。クラスメイトの喧嘩の仲裁に入ったり、授業のサッカーで僕からのパスで雪路がゴールを決めたり。二人でいれば何も怖くなかった。
 僕の隣に雪路がいれば、なんだってできた。
 これからもずっと続くだろうと思っていた矢先、僕は中学進学を機に、遠くの県へ引っ越すことになった。

 ――それ以来、雪路とは連絡を取れていなかった。
 三年かかってようやく彼の前に現れた僕に、動揺を隠せない彼は何を思ったのだろう。暫く黙っていた雪路は、懐かしそうに目を細めた。
「もう……三年も経つのか」
「そうそう。久々だからビックリしたよ。自分のこと『僕』って言ってたのに『俺』に切り替わってるから」
「茶化すな。三年もあれば変わるだろ?……夢じゃ、ないよな?」
 恐る恐る聞いてくる彼に、僕は少し戸惑って躊躇いながらも笑顔を向ける。
「そうだよ。夢じゃない」
「……そっか」
 夢じゃないんだ。――そう小さく呟くとどこか嬉しそうに小さく笑った。
「でもどうして急に? 今日って平日だろ?」
 学校はどうしたと言わんばかりに聞かれると、僕は親指を立てて笑って答えた。
「サボってきた! 今日のためにさ!」
「は? 何かあるのか?」
「もちろん! しかもこれは、雪路も一緒じゃないとダメなんだよ」
「俺も?」
 首を傾げた雪路に、僕はポケットから星がモチーフになっている飾りと、小さな鍵がついたキーホルダーを掲げる。
「そう。――俺と一緒に、このキーホルダーの持ち主を探すんだよ!」
「はぁ? ……って、懐かしいな!」
 また眉をひそめて、キーホルダーを手にとってじっくり眺める雪路。これについて何も覚えていなかったら、僕はきっと怒っただろうな。
「これ、確か小学校入ってすぐの時のやつだよな? まだ持ってたのか」
「そりゃあね、いつか持ち主に返さなきゃってワクワクして待ってたんだから!」
「ワクワクって」
 雪路は笑ってキーホルダーを太陽にかざす。朝のすっきりした空気と青空に、太陽の光がより輝いていた。その光を通して、鍵の先と黄色の星形のビーズがキラキラと瞬いた。所々傷が入っているのは、僕がずっと持ち続けていたから。
「天馬らしい。……けど今日は平日だ。俺も学校あるし……持ち主を探すにしたって、同い年だったら……」
「頼むよ雪路! 今日じゃないとダメなんだ!」
「……心当たりは?」
「ない!」
 はっきり言う僕に、雪路は呆れて溜め息を吐く。
「……話にならない。なんで今日じゃないとダメなんだよ?」
「それは……その……」
 今日じゃないといけない理由。――「夕方の五時まで」と時間が決められた以上、僕には今日しか雪路と動くことができない。でもそれを彼に伝える訳にはいかなかった。
「僕のやりたいことは明日できないことなんだ。今日じゃないとダメなんだよ。力を貸して、雪路」
 両手を合わせて頭を下げる。すると雪路は下げた僕の頭を軽くはたく。
「いった?!」
「さっきのデコピンのお返し。……唐突に現れて、三年越しで天馬から頼まれ事されるなんて……本当、今日しかできないことかもな」
 雪路は僕にキーホルダーを返すと、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「とりあえず学校に行くか。小学校からの付き合いの奴に聞いてみよう」
「雪路……」
「今日しかないんだろ?」
 ニカッと白い歯を見せて、悪いことを思い付いた笑みを浮かべる。三年振りの僕の相棒は、相変わらず融通が利くようだ。
【午前八時四十五分】

 星のキーホルダーを見つけたのは本当に些細なことだった。
 小学生の頃、学校の校庭でクラスの何人かとかくれんぼをして遊んでいたら、物陰に隠れてこっちを見ていた女の子に気付いた。おかっぱに赤いワンピースなんて、七不思議に出てくる花子さんじゃないかって一度噂になったこともあるから、一緒に遊んでいた何人かは「不気味な奴」だと言って省いていた。
 その噂を知らなかった僕は、一緒に遊びたいんだろうと思って躊躇いもなく彼女に声をかけた。最初は首を振っていたから見ているだけでいいって言いたいのかなって思っていたんだけど、次第に周りからヤバイ奴だから近寄るなとか、不幸になる花子さんだから話しかけるなとか、酷い言葉が飛び交った。
 そんな空気の中、ボソッと呟いたのは意外にも雪路だった。
「……別によくね? 花子さんだって僕たちが楽しく遊んでいたら気になるんじゃない? それにあの子は単純に混ざりたいだけじゃん」
 雪路の一言で皆が狼狽えると、僕はすかさず彼女の手を取った。
「僕はてんま! こっちはゆきじ。君の名前は?」
「流石に花子さんじゃないでしょ? 教えてよ」
 僕らが笑って問うと、俯いていた彼女は顔を挙げて、涙をこぼしながら口を開いた。

「……それが、『しーちゃん』」
 雪路が通う学校まであと少し。その道中であの頃のことを思い出しながら口にしたのは、星のキーホルダーの持ち主である少女の名前だ。かくれんぼが終わった後、しーちゃんが落としていったキーホルダーを僕が拾った。既にしーちゃんはその場にいなくて、いつか返さなきゃと思っていたにも関わらず、随分時間がかかってしまったのだ。
「小学生って、一人称を『僕』とか『俺』じゃなくて自分の名前で言う奴いるよな。分かりやすいからいいけど」
「多分しーちゃんはそういう子だったんだよ。だから僕たちにも『しーちゃん』だって答えてくれた」
「結局クラスも違えばそのかくれんぼ以来会ってないんだよな……。つか、なんで今さらしーちゃんを探そうって思ったんだよ?」
「だから言っただろー? 今日だから、今日しかできないことをするんだ!」
「ふーん」
 僕の答えに疑問も持ちながら、納得しがたくも相づちを打つ。こういうときの雪路は流石だ。
「ところで雪路、学校に行ってどうするの?」
「今のクラスに大輔(だいすけ)がいるんだよ。もしかしたら覚えてるかもしれない」
「大ちゃん!? うわっ懐かしい!」
 大輔ーーもとい大ちゃんは、小学校では雪路の次によくつるんでいた奴だ。あの時のかくれんぼも一緒に混ざって遊んでいて、最初にしーちゃんを「花子さん」呼ばわりした張本人。結局、かくれんぼが終わった後にしーちゃんに謝っていた、見かけによらずいい奴だったなぁ。
「ん? でも僕、部外者扱いされて学校には入れないんじゃない?」
「まぁ……そこはなんとかなるでしょ」
 学校への道のりでは、雪路と同じ制服を着た生徒が同じ方向へ向かって歩いている。中には雪路に声をかける生徒もいた。
日下部(くさかべ)君、おはよー!」
「おはよ」
「日下部、今日の日直当番お前じゃねぇの?」
「あー……って、お前もじゃん。この間の時ほぼ俺がやったから今日お前なー」
「うっせ! わーったよ! 先行くぞ!」
 なんだ、雪路って人気者じゃん。
 あんなに人見知りが激しかった幼馴染みが、こんなにいろんな人と会話をして笑っている現状に嬉しい反面、どこか寂しさを感じた。
「天馬? どうかした?」
「いや……日直いいの?」
「前回アイツがやらなかったのを俺が全部やったからいいよ。それより、今は大輔に話を聞かなきゃ」
 急に足を早める雪路。僕が「今日だけだから」と頼み込んだのが効いているのか、どこか焦っているように思えた。
 怪しまれることなく校舎に入ることができた僕は、雪路の背中に隠れながら先を行く彼に問う。
「雪路、お前の学校ってこんなに大きかったんだな」
「大きかったっていうか……丁度去年くらいに改装工事が入ってきれいになったんだって。お前も引っ越さなければ、一緒に通ってたのかもな」
 少し寂しそうに雪路は言うと、一年三組の教室に入った。
 ガヤガヤと賑やかな教室には、いろんな生徒が談笑していた。雪路は鞄を背負ったまま、隅の方で話していた男子のグループに行くと、僕の見知った顔の男子生徒に声をかける。
「おはよ。大輔、借りるよ」
「おおっ!? なんだよ急に」
 そういって雪路は一人の男子生徒を連れて廊下に出た。雪路より瀬が高く、がっしりとした体格でキリッとした眉が特徴的な顔は、まさしく僕の知っている大ちゃんだった。
「珍しいな、なんだよ?」
「お前、小学校の時のしーちゃんって覚えてるか?」
「しーちゃん……? ああ、花子さんって俺が言った女子のこと?」
「そいつの名前ってわかる?」
「ええっ!? 急にどうした……告白でもすんの?」
「ちげぇよ。……天馬が、知りたいんだと」
 雪路はそう言って僕の方をちらりと見る。満面の笑みを浮かべて首を縦に振ると、大ちゃんは目を凝らして何度も僕を見た。
「天馬……? 天馬、マジか! 久々だな!」
「大ちゃん! 元気そうでよかった! 随分大きくなったね」
「大輔、ラグビー部で鍛えられてるもんな。小学校なんてガキ大将で有名だったのに」
「お前らの方が悪ガキだった癖に。あーあ、今となっては雪路はクラスの人気者、俺はラグビーでゴリゴリマッチョさ」
 わざとらしく右腕で力こぶを僕らに見せつける。触れるとしっかりとした筋肉がつけられているのがよくわかった。
「それにしても、しーちゃんか……。あー……覚えてねぇな。小学校入ってちょっと経った頃だろ? 天馬の奴、よく覚えてたな」
「天馬、興味があることしか覚えない奴だから。俺も顔まで覚えてないんだけど、名前だけでもわかれば探せるかなって」
「二人して僕のこと馬鹿にしてない? 酷いなぁ」
 一人で拗ねると、雪路がにやにやしながらごめんと笑う。絶対思ってないな、こいつ。するとなにか閃いたように、大ちゃんが声をあげた。
「じゃあさ、名前の最初に『し』が付く奴を探せば?」
「しが付く……あ」
 雪路が何か閃いたようで、目をぱちくりさせる。
「森川は? 確かアイツ、下の名前は静香じゃなかったっけ?」
「あー……そうだな、呼ばれてたかどうかは別だけど、静香ならさっき一組の教室に入っていくの見たぞ」
「雪路、行こう!」
 大ちゃんの目撃情報に、僕は雪路の腕を引っ張った。
「ちょっ……! 天馬、これから授業始まるからちょっと待てって……」
「行ってこいよ雪路。天馬のわがままは付き合うのがルールだって言ってたじゃねぇか」
「そうだそうだ! 早く行こうよ、雪路!」
「ルールじゃねぇよ! ああっもう……! 大輔、上手く誤魔化しといて!」
 僕に引っ張られるがまま、雪路は渋々と僕に着いてきてくれた。大輔が頑張れーと言って手を降ってくれるのを横目に、僕は彼に向かってありがとうと叫んだ。
 届いてくれたらいいなぁ。

「大輔? 雪路の奴どうしたんだ?」
「……どうもしないさ。ただ、懐かしい悪ガキコンビが揃ったってだけだよ」
【午前九時三十分】

 僕の知っている森川(もりかわ)静香(しずか)は、随分活発な女の子だった気がする。
 男子と混ざって対等に勝負したり、泥だらけになっても気にせず遊ぶ、ボーイッシュな子。そういえばあの時くらいから、そこら辺の男子と同じくらい髪を短くしていたっけ。
 三組から一組までの短い距離で、雪路は彼女が中学の時に女子バスケット部の部長を背負っていたことを教えてくれた。彼女とは小学一年生の時しかクラスが被っていないから僕のことなんてわからないだろうけど、雪路や大ちゃんと唯一クラスが離れた五年生の年は彼女と一緒だったらしい。
「大輔とは二年から四年までクラスが離れたけど……あれ、俺と天馬がクラス違ったのってその時だけだっけ?」
「うわぁ……気持ち悪っ!」
「俺の台詞だっつーの。腐れ縁ってヤバイな」
 雪路の言うとおり、幼馴染みの縁か腐れ縁なのかはわからないけど、これって結構すごいことじゃない? 何十、何百、何千何万……この広い世界で同じ学校で、同じ学年でクラスがほぼ一緒って考えたらすごいことだと思う。それが二人だけ、じゃなくて、何十人も同じ状況。
 世間って案外狭いモンなんだな。
 一組の教室に着いた時には、反対側から担任の先生らしき人が教室に向かってきていた。そろそろ朝のホームルームの時間らしい。
 雪路は教室の出入り口近くの男子生徒に声をかける。
「ごめん、森川いる?」
「いるよ。ちょっと待って。おーい、森川ぁ!」
「え? なにー? ……って、あれ?」
 男子生徒の呼び掛けに答えてくれたのは、ショートボブヘアの女子生徒だった。ぱっちりした目やちょっとだけ艶がある唇に圧倒されながらも、間違いなく静香ちゃんだ。
「……天馬、どうした?」
「いやぁ……三年で変わるもんなんだねぇって」
「ジジ臭いこと言うなよ。お前も同じ十五歳だろ」
 あ、そっか。
「静香ちゃん、なんか可愛くなった。……かわいい? いや、大人っぽくなったというか……」
「なにしてんの……?」
 腕を組んで考えていると、いつの間にか目の前に静香ちゃんが立っていた。身長も、僕とあまり変わらない。
「珍しいね、雪路がこっちくるなんて」
「ちょっとね。時間無さそうだから単刀直入に聞くけど、お前、小学校の頃『しーちゃん』って呼ばれてた?」
「……はい?」
 首を傾げる静香ちゃん。それはそうだろう。もう少しまともな言葉のチョイスはなかったのか、雪路。
「ちょっと待って、話が飛び過ぎてわからないんだけど」
「えーっと……ちょっと待って。俺も結構テンパってるからどこから話せばいいか……」
「俺が話そうか?」
「天馬はちょっと黙ってて。また唐突なこと話されても俺がついていけないから」
 雪路は後頭部を掻いて、話を掻い摘まみながら説明する。僕の名前が出ると、静香ちゃんは納得したかのように笑う。
「天馬君って……全然知らないんだけど、雪路の友達だよね。クラス被ったことあったっけ……?」
「あるよ! 一年の時だけ!」
「入学して早々、かくれんぼして遊んだ奴。一番はっちゃけてた……」
「あー……あ! 思い出した! でも『しーちゃん』は私じゃないよ。だって引っ込み思案のしーちゃんが私だとしたら、かなり違うでしょ?」
 小さく笑う静香ちゃん。確かに当時から元気な彼女としーちゃんが同一人物には思えない。
「盲点だった……静香ちゃんがあんな大人しい子じゃないって僕、わかってたのに……!」
「おい天馬、思っていても口に出すんじゃねぇよ」
「雪路だって思ってるじゃん!」
「それは……まぁ、少しは」
「失礼ね! ……でもしーちゃんって呼ばれてた子とは仲良かった方だよ」
「え!?」
 静香ちゃんの言葉に二人同時に顔を向ける。勢いがよかったのか、静香ちゃんが少し引いているのを察した。
「小学四年生の頃だったかな、県外に引っ越ししちゃったんだよね。その時くらいから電話してて、卒業間近ってところで途絶えちゃったんだけど」
「え、なんで電話?」
「その時の連絡手段は電話か手紙くらいだったでしょ。最近の子みたいに小学生からスマートフォンを持たされることなかったし。それにしーちゃんの家、転勤族っぽかったからすぐに住所変わったんだと思う。最後に電話したときに、隣の県にある中高一貫の学校に行くって聞いたよ」
「県外?」
「そう。学校の名前聞いて調べたらローカル線で行けるみたい。会おうよって言いたかったけど、私も部活があったから言えなくて。ここから電車で二時間くらいなんだけど」
「二時間……」
 時間を聞いて僕の頭によぎったのは、タイムリミットを告げる声だった。
 夕方の五時なんて行って帰ってきて終わるかももわからない。ましてやローカル線だ。時間がかかって当然なものに、雪路を巻き込んでしーちゃんを探したらかなりの負担になってしまう。
 俯いて手を強く握る。あと少し、時間が長ければいいのに。
 すると、頭に誰かの手が乗って軽く叩かれた。

「――森川、その学校の住所わかる?」

「え?」
 顔をあげると、雪路が真剣な表情で静香ちゃんに言う。
「わかったら俺のスマートフォンに送って。大輔経由でもいいから。できればすぐ。天馬、行くぞ!」
「え、ちょっ――」
 雪路に手を引かれ、僕らは廊下を走って階段を一気に駆け降りる。後ろから先生らしき大人から制止の声が聞こえてくるが、一切聞こえないフリをして走った。学校の敷地から出ても、手を離すことなく駅がある方向へ走る。
「雪路っ無理しなくても……!」
「お前の!」
 彼を止めようと声をかけると、遮るように叫ぶ。
「お前の自分勝手に巻き込まれた俺の身にもなってみろ! 天馬に今日しかないように、俺にも今日しかねぇんだよ! 手ぇ貸してやるから、最後まで付き合えよバーカ!」
 ――ああ、なんて。
 なんて僕の相棒はこんなにもかっこいいんだろう。
 叫ぶ雪路の隣に立ちたくて、僕もめいいっぱい足を動かして並走する。
「……バカは余計だ、バーカ!」
 僕がそう叫ぶと、満足そうに雪路も笑った。
【午前十時】

 僕らが駅に着いたのと同時に、雪路のスマートフォンに大ちゃんから連絡が入った。どうやら雪路の学校脱走劇が話題になっているようで、文面だけでも大ちゃんが腹を抱えて笑っている姿が目に浮かぶ。
「雪路、暫く有名人だね」
「誰のせいだよ……お」
 立て続けに送られてきたのは、ある学校の住所。おそらく雪路の連絡先を知らない静香ちゃんが、大ちゃんを経由して送ってくれたのだろう。
 早速雪路がネットで検索すると、静香ちゃんが言った通り片道二時間かけて電車に乗るらしい。駅から中学校までは近い距離のは好都合だ。僕らはひとまず電車に乗ることにした。
 平日ということもあってか、電車の中は空席が目立っていた。僕らはひとまず隣同士で座ると、雪路はボーッとどこか遠くを見つめた。
「雪路、もしかして眠い?」
「朝早いし学校着いたらすぐ走ったし……疲れた」
「二時間も乗らないといけないから寝たら?」
「……天馬は?」
「僕? 僕は全然元気だから大丈夫。寝過ごす前に起こすよ」
「……いい、起きてる」
 雪路はそう言って、眠い目を擦って背筋を伸ばす。無理しなくてもいいのに。
「寝てていいよ?」
「嫌だ。……久々に天馬とあったのに、起きたら全部夢でしたなんてあってたまるか」
 ふん、と鼻をならす。雪路らしくて思わず僕の頬も緩む。
「雪路、中学校生活はどうだったの?」
「中学? 急にどうした」
「いやぁ……僕ら、小学校はずっと一緒にいたけど中学入ってからは連絡取れなかったじゃん? 元気かなーってずっと思ってたんだよ」
「ずっとって……ははっ。そうだなぁ」
 首にかけたヘッドフォンのコードをいじりながら、雪路は少しずつ話してくれた。
「俺、中学ではサッカー部に入ってたんだ。運動ならなんでもよかったんだけど、一番大会があって、練習試合も多そうだったからやりがいあるかなって思ってさ。三年間頑張っていろんなポジションやったよ。でもやっぱり楽しかったのはフォワードだったな。仲間がくれたパスの勢いを活かしてシュートして、決まった時はすっげー嬉しい。皆も喜んでくれた」
「雪路、シュートは上手かったもんな」
「天馬のパスを何度も受けてたから、上手くなったんだよ」
「授業は? 難しい?」
「比べるとやっぱり難しいよ。でも解けたら楽しいい。あんなに嫌いだった縦書きの本も読むようになったんだ。最近はサスペンスにもハマってる」
「え、怖い話じゃないよね?」
「全然怖くない。でも描写がリアルで、いつの間にか引き込まれて、気がついたら時間があっという間に過ぎているってことがよくあるんだ」
「漫画しか読めなかった雪路がねぇ……僕も読めるかな」
「俺に読めたんだから天馬も読めるよ。おすすめ教えてやろうか?」
「えー……今はいいよ。あ、好きな人は? いるの?」
「急に話を曲げたな……いねぇよ。好きとかわかんないし」
「えっ!? あの時静香ちゃんのこと好きって言ってたじゃん!」
「それは小学生の時だろ。本気にすんなって。それに森川には彼氏いるよ」
「マジで!?」
「なかなかいいカップルだと思う。尻に敷かれている感じが滲み出ているっていう」
「ええー……僕が知ってる人?」
「知ってるよ。さっき会ったし。」
「……まさか?」
「そう、そのまさか」
 三年の月日は僕が思っていた以上に長くて、あんなに一緒にいた雪路の新しい面も見ることができた。
「あーあ……いいな、僕も同じ中学に行きたかったなぁ」
 僕がそういうと、雪路は一瞬目を見開いて、でもまたすぐ伏せて下を向いた。
「……俺も、一緒に行きたかったよ」
 小さく呟いた彼の声に、僕はただ彼の背中を軽く叩いてやることだけしかできなかった。
【午前十二時】

 二時間ほど電車に揺られてようやく目的の駅に着くと、スマートフォンのマップを開きながら学校へ向かった。
 立派な門構えの校門には私立とかかれている。敷地内には少し大人びた制服姿の男女が楽しそうに談笑していた。さすが中高一貫、と言うべきだろうか。
「うわー……入りづらいんだけど」
「入る以前の問題な気がする」
「どういうこと?」
「だって俺たち、しーちゃんの顔を覚えてないし、フルネームもわからないのにどうやって探すんだよ?」
 それもそうか。勢いできたはいいものの、探す手段を考えるのを忘れていた。
「手当たり次第、近くを歩いてきた人に聞き込みするか……」
「でも初っぱなから『しーちゃんですか?』はダメだからね?」
「それはー……わかんない」
 雪路は頭の中でキャパオーバーすると混乱して文章がおかしくなる。小さい頃の人見知りも、これが原因らしいって自分で言っていたな。
 すると雪路のスマートフォンにまた大ちゃんから連絡が入った。これも静香ちゃんからのメッセージらしい。
『しーちゃんの名前は、はるかだよ』
 文面をみて二人して驚く。静香ちゃん――大ちゃんからかもしれない――の言葉が正しければ、しーちゃんの由来はどこにある?
「しーちゃんって、名前からもじったものじゃなかったの?」
「知るか。……でも厄介だな」
「え? なんで?」
「『し』で始まる名前なら絞れるかもしれないけど、『はるか』なんて名前の付く女子が何人いると思ってるんだ?」
 言われてみればそうか。特に僕らが小学生の時、クラスに似たような名前が何人もいたし、その中にも漢字は違えど「はるか」の名前は少なくとも三人はいた。
「こんなことになるなら小学校の卒業アルバムから探せばよかったな」
「卒業アルバム? そんなのあったっけ?」
 雪路の言葉に首を傾げる。
 確か卒業式に賞状は渡されたけど、アルバムに関しては印刷会社のトラブルの関係で間に合わなかったはずだ。必ず届けますと言われて以来、僕の手元には届いていない。
「中学に入学した最初の夏休み中に立派なのが届いたよ。全員に送れたって、担任だった先生から電話がかかってきたけど」
「……あー……そう、だっけ?」
「…………まぁ、どのみち四年生の時に引っ越ししてたなら名前が載っている確率は低いな」
 小さく溜め息を吐いてそっぽを向く。その横顔はどこか寂しそうだった。
「とはいえ、ここで立ち往生している暇はない。どうしたら探し出せる……?」
 僕は学校の方を向いた。この学校には何があるんだろう。雪路が通っていた学校と何が違うんだろう。中に入ったら何が待っているんだろう。――そう思うだけで、ワクワクしてきた。
 しーちゃんは本当にこの中にいるのかな?
 また前みたいに物陰に隠れて……。
「……あ」
「天馬?」
「思い出した」

 ――あの時遊んでいたのはかくれんぼだった。
 何回かやった後、雪路が鬼になった時に僕としーちゃんは一緒に昇降口の下駄箱の影に隠れたことがあった。校庭と指定された中で校舎内に入るのはルール違反だったが、僕は無視してしーちゃんの手をひいた。雪路が近くでうろうろしているのを遠目で見ながら、二人してクスクスと笑ったっけ。
 その時に確か、僕は彼女に問いかけていた。
『なんでしーちゃんなの?』
 薄らぼんやりとしか覚えていないが、彼女はしーちゃんは自分の口許に人差し指を立てると、笑って教えてくれた。
『上のお名前がしーななの。それにしぃーってするのが得意だからしーちゃんって、友達がつけてくれたんだ』

「……しいな」
「へ?」
 僕がとぼけた顔をして呟いたからか、雪路は眉をひそめると僕の方へ向き合った。
「しーってするのが得意だからしーちゃんだって、言ってた」
「言ってたって……いつ?」
「かくれんぼの時。雪路が鬼で皆を探してたとき」
「俺が鬼……? ちょっと待って、そこまで思い出せないんだけど」
「思い出してよ! 僕としーちゃんが一緒に下駄箱の影に隠れてるところに、息切れしながら捜しにきたじゃん!」
「じゃんって言われても……」
「とにかく! その時に僕が聞いたんだよ、しーちゃんの由来!」
 この際雪路が思い出せなくてもいい。今重要なのはしーちゃんの本当の名前だ。焦る僕に、雪路は落ち着けと促すように背中を叩く。
「まぁ、お前の言うとおり名前がわかればこっちのもんだけど……どうやって会う?」
「……正面突破?」
「天馬はできても俺ができないだろ」
「え? なんで僕?」
「そんなの……!」
 首を傾げて問うと、雪路は言葉を詰まらせた。
「雪路?」
「……ほ、ほら、俺って制服じゃん? さすがに他校の奴が学校サボって何やってんだってなるだろ?」
「まぁ、そりゃそうだろうけど……」
 ズボンは似ているから、ブレザーをスクールバッグに詰めれば隠し通せなくはないと思うけど。
「……あの、どうかしましたか?」
 僕らが二人で考え込んでいると、不思議そうにリュックを背負った女の子が声をかけてきた。風で黒髪がなびくと、擽ったそうに目を細め、顔にかかった髪を手で押さえる。その仕草がとても綺麗に見えた。
「あ……えっと、すみません。えーっと……」
「なにかお困りですか?」
 雪路が返答に困っていると、彼女が問う。これはチャンスかもしれない。
「僕たち、友達に会いに来たんだ!」
「ちょ、バカかお前!」
 代わりに僕が答えると、雪路が反射的に僕の頭をはたく。パチンとはたいた音が響くと、彼女は何度も瞬きをする。
「いった! え、なんで僕叩かれたの!?」
「ちょっと黙ってて!」
「えーっと……?」
「っと……ごめんなさい! この学校の生徒さんですか?」
「そうですけど……」
「実は小学校の友人を探していて……『しいなはるか』さんって人、知りません?」
 雪路にしては丁寧な口調で的確に用件を話すと、彼女は驚いた表情のまま口を開いた。
「知っているもなにも……私が、椎名春佳です」

 椎名(しいな)春佳(はるか)の家庭はいろんな地方に飛んでは移住し、一定の期間が終わればまた別の場所へ移るという、転勤族だった。
 僕らと出会った頃は丁度住み始めた時期だったけど、四年間という過去最長な年月での入学だったらしい。
 学校から離れた公園に僕らは移動すると、椎名春佳――改め、しーちゃんはベンチに座って懐かしそうに話してくれた。
「保育園の時にお父さんが買ってくれた赤いワンピースが嬉しくて、着てたら『花子さん』って呼ばれちゃって。ちゃんと否定してくれたのは天馬君と雪路君だったね。嬉しかったよ」
「……四年生で別の学校に行ったって、森川から聞いた」
「森川……ああ、静香ちゃん? 私に唯一電話をかけてくれたの、静香ちゃんだけだったな。今も元気?」
「元気だよ。また連絡してやってよ」
「そうだね……うん。今日あたりにしてみるね」
 柔らかく笑った彼女はどこか嬉しそうだった。
「そういえば、なんでこの時間から登校してるの? 普通に平日だろ?」
「この間の休日に授業があって、その振り返りで午後からなの。学校が少し賑やかだったでしょう? 授業が始まるまで遊んでる人が多いみたい」
「……確かに、どっかの誰かさんみたいに授業サボって来る奴よりかはマシか」
 雪路はそう言ってちらりと僕の方を見る。しーちゃんは僕の方を見て小さく首をかしげた。
「天馬、君?」
「そう。『しーちゃんに渡したいものがある』んだって」
 僕は彼女の前に立つと、ポケットから鍵と星が付いたキーホルダーを取り出す。光に反射した星が揺れると、しーちゃんは思わず両手で口許を押さえた。
「えっ……? これ、なんで……?」
「ずっと持っててごめんね」
 僕がそう言うと、しーちゃんは恐る恐る手を伸ばしてキーホルダーに触れる。無事に本来の持ち主のもとへ戻ると、星は嬉しそうにまた輝いた気がした。
「……どうして、これを?」
「あの時のかくれんぼで落としたんだよ。すぐ返したかったけど、いつの間にかしーちゃんは消えていて、それからずっと持ってたんだ。いつか返そうなんて、絶対叶うはずないのにね」
「……無くしたと思って諦めてたの。まさか見つかるなんて思ってなかった」
 しーちゃんはとても大切そうにキーホルダーを両手で包み込むと抱き締めるように胸に当てた。
「……その鍵は、なんの鍵なの? 家の鍵や南京錠にしては、随分安っぽいけど」
 雪路の問いかけに、しーちゃんは嬉しそうに答えた。
「日記の鍵。転校するたびにいろんな人と出会ったから、小学生の頃からずっと書いてたの。鍵はスペアがあったから大丈夫だったけど、キーホルダーはお気に入りだったから、無くしたときショックだったんだ。でも……そっか。天馬君がずっと守ってくれてたんだね」
 ベンチから立ち上がり、しーちゃんは僕らに頭を下げると、震えながらもはっきりとした口調で言う。
「キーホルダーを、あの時の私を助けてくれて、ありがとう」
「ちょっ……! しーちゃん、顔を上げて! 別に僕らはなにも……」
 しーちゃんの肩をそっと添えて顔をあげさせると、しゃくりをあげながら呟いた。
「わたし……ちゃんと天馬君に会ってお礼言いたかったな」
 あまりにも唐突で、でも想定していた結末で。
 隣で見ている雪路にはどう捉えていただろうなんてふざけたことを考えながら、僕は受け止めるべき現実を目の当たりにした。
【午後二時三十分】

 あの後、しーちゃんは静香ちゃんと連絡をとることを約束して、赤い目を擦りながらも学校の校舎へ消えていった。
 僕と雪路は何も口にすることなく、ただ黙って電車に乗った。行きよりも少しだけ増えた人混みが、夕方に差し掛かっていることを教えてくれる。
「……なぁ、天馬」
 地元の駅まであと半分くらいになると、今まで黙っていた雪路が口を開いた。
「お前、進路どうすんの?」
「え?」
「ほら、今のうちに将来なりたいものに向かって勉強しないとなーって」
 僕を見て小さく笑いながら問う。笑っているのにどこか寂しそうなのは、きっと本当に聞きたいことじゃないからだろう。
「そうだなー……」
 電車の窓の外を眺めながら少し考える。今の僕に、将来なんてあるのだろうか。
「思い付かないけど……でも空には行きたかったな」
「空?」
「うん。しーちゃんのキーホルダーみたいにキラキラ光る星を、いつか自分の目で見たいなとは思ったよ」
 今はもう叶うことない壮大な夢を口にしてみても、結果は変わらない。誰もが呆れてしまうだろう。それでも僕の隣にいる彼は笑わなかった。泣きそうになるのを堪えるかのように細めた両目、鼻と口をきゅっと絞ったその顔は、今まで見たなかで一番ひどかった。
「すごい顔だね。笑えばいいのに」
「……笑わない、笑えるかよ」
 そう言ってまた目を伏せてしまう雪路。ああ、なんだ。
「……雪路、ちゃんと泣けるじゃん」
 人見知りの激しくて、すぐパニックになってしまう雪路。三年前に比べて外見は変わっても、やっぱり雪路は雪路だった。
「雪路は? なにかやりたいことがあるの?」
「俺?」
 小さく鼻をすすってまた沈黙が続く。言葉にしようとして文章を組み立てているのだろうか。それとも、口にしたくないのか。
「……僕は、雪路がしたいことをすればいいって思う。誰に何を言われても構わない、間違っていることをはっきり物申す雪路は、ちゃんと前を向けるよ」
「天馬……」
 オレンジの光が雪路の頬を照らす。目元に涙の跡が残っていたのは見なかったことにしよう。
 僕の幼馴染みで、親友で、相棒がもう一度、前を向けるように。