【午前八時】

 今日という日は二度と来ない。
 明日でいいやと投げて後々後悔する結果なら、昨日を、今日を、数時間前を、一分一秒を大切に楽しく生きた方が絶対いいじゃん。
 僕の人生にとって一番大切で、特別な日は今日しかない。
 気合いをいれて、久しぶりに大きく口を開いて声を出してみる。声変わりをする前の少し高い声が思っていたより元気に出てきた。
 今度は両腕を上へあげて思いきり伸びをしてみる。これは想像していたより体が鈍っていたのか、肩やら背中がピキピキと鳴る。しっかり動いていたはずなのに、運動不足だったかなととぼけた。
 そして近くにあった姿鏡の前に立つ。黒パーカーにベージュのズボン、懐かしい履き慣れたスニーカー。一回転すれば、少しだけ大人びた格好の自分に思わず頬が緩む。
 思った以上に良いコンディションと自分の姿に満足していると、後ろから声をかけられた。
「時間は夕方の五時までだよ。わかっているね?」
「うん! いってきます!」
 声の主にそういうと、僕は姿鏡があった近くのドアを開いて外に出た。
 早く会いたい――そう願ってワクワクしている僕を、見守ってくれる神様はどう捉えただろう。少なくとも、僕が考えている優しい微笑みではないことは確かだ。
 そうして僕はある場所にたどり着いた。
 朝の八時だからか、いつも小さな子供で賑やかな公園は風で小さく揺れる遊具が鎮座していた。
 僕は公園の脇道にある草むらに身を潜めて息を殺して、先行く人々に目を向けた。足早に駅へ向かうサラリーマン、子供を幼稚園へ送り届けるために自転車を必死に漕ぐお母さん、横並びで和気あいあいと話しながら行く女子高生達。
 そしてようやく目当ての人物を見つけると、僕は草むらから飛び出し、その人物に向かって後ろから抱きついた。
雪路(ゆきじ)! 久しぶりーっ!」
「……うわあっ!? え、なになになに!?」
 彼の背後から飛び付いたこともあり、混乱している。仕方なく離れると、彼――雪路は目を丸くして固まってしまった。
「は……?」
「おーい? 雪路? 大丈夫?」
「……お前、誰……?」
「うわ。僕のこと忘れちゃったの?」
「忘れたっていうか……知り合いに、すごく似ているっていうか……」
「それって僕のことじゃないの?」
「そんなの知るかよ」
 そっけない彼の言葉に少し不安になる。僕の知っている雪路はこんな喋り方をしていただろうか。
 新しいブレザーの制服に、履き潰したボロボロのスニーカー。スクールバッグは左肩にかけて、ポケットから伸びるコードは首にかけていたヘッドフォンに繋がっている。僕の知っている頃よりも身長がかなり伸びたようで、少し男らしくなった顔つきで、疑うように眉を潜めた。姿は成長してがらりと変わったのに、雰囲気は僕の知っている彼と同じだった。
 それがなんだか悔しくて、思わず雪路の額を中指で突いた。身長差を縮めるために勢いがついた中指は真っ直ぐ額に命中し、一瞬で雪路の顔を歪めた。
「いって!? ……急に何すんだよ!」
「い、いやだってこれくらいしないと思い出せないんじゃないかなー……って。勢いよくやり過ぎたのは謝るけど!」
「だからってデコピンするなよ! 突き指になった、ら……? お前、まさか……」
 いや、でもだって。――そう言って雪路は一人で小さく呟く。額は既に突いた僕の指の痕が赤く残っていた。そして暫く考えると、じっと僕の目を見て問う。
「……お前、天馬(てんま)か?」
 名前を言い当てられると、僕は満面の笑みを浮かべた。
「大正解! よく思い出してくれた!」
「思い出したっていうか、正直信じられないというか……」
 困惑な表情を浮かべる雪路に、僕は背中を軽く叩く。
「無理もないよ。だって三年も経っているんだから」
 
 僕が保育園に入ってすぐ、遊戯室の隅で蹲っている奴がいた。人見知りが激しくて、話しかけただけですぐ泣き出してしまう、そんな奴がどんどん気になって、僕の方から毎日毎日話しかけていたら次第に心を開いてくれるようになった。それから一緒に遊んだり悪戯したりしていつの間にか隣にいた。――それが、雪路だった。
 同じ小学校に入学すると、僕らは事あるごとに注目されるようになった。クラスメイトの喧嘩の仲裁に入ったり、授業のサッカーで僕からのパスで雪路がゴールを決めたり。二人でいれば何も怖くなかった。
 僕の隣に雪路がいれば、なんだってできた。
 これからもずっと続くだろうと思っていた矢先、僕は中学進学を機に、遠くの県へ引っ越すことになった。

 ――それ以来、雪路とは連絡を取れていなかった。
 三年かかってようやく彼の前に現れた僕に、動揺を隠せない彼は何を思ったのだろう。暫く黙っていた雪路は、懐かしそうに目を細めた。
「もう……三年も経つのか」
「そうそう。久々だからビックリしたよ。自分のこと『僕』って言ってたのに『俺』に切り替わってるから」
「茶化すな。三年もあれば変わるだろ?……夢じゃ、ないよな?」
 恐る恐る聞いてくる彼に、僕は少し戸惑って躊躇いながらも笑顔を向ける。
「そうだよ。夢じゃない」
「……そっか」
 夢じゃないんだ。――そう小さく呟くとどこか嬉しそうに小さく笑った。
「でもどうして急に? 今日って平日だろ?」
 学校はどうしたと言わんばかりに聞かれると、僕は親指を立てて笑って答えた。
「サボってきた! 今日のためにさ!」
「は? 何かあるのか?」
「もちろん! しかもこれは、雪路も一緒じゃないとダメなんだよ」
「俺も?」
 首を傾げた雪路に、僕はポケットから星がモチーフになっている飾りと、小さな鍵がついたキーホルダーを掲げる。
「そう。――俺と一緒に、このキーホルダーの持ち主を探すんだよ!」
「はぁ? ……って、懐かしいな!」
 また眉をひそめて、キーホルダーを手にとってじっくり眺める雪路。これについて何も覚えていなかったら、僕はきっと怒っただろうな。
「これ、確か小学校入ってすぐの時のやつだよな? まだ持ってたのか」
「そりゃあね、いつか持ち主に返さなきゃってワクワクして待ってたんだから!」
「ワクワクって」
 雪路は笑ってキーホルダーを太陽にかざす。朝のすっきりした空気と青空に、太陽の光がより輝いていた。その光を通して、鍵の先と黄色の星形のビーズがキラキラと瞬いた。所々傷が入っているのは、僕がずっと持ち続けていたから。
「天馬らしい。……けど今日は平日だ。俺も学校あるし……持ち主を探すにしたって、同い年だったら……」
「頼むよ雪路! 今日じゃないとダメなんだ!」
「……心当たりは?」
「ない!」
 はっきり言う僕に、雪路は呆れて溜め息を吐く。
「……話にならない。なんで今日じゃないとダメなんだよ?」
「それは……その……」
 今日じゃないといけない理由。――「夕方の五時まで」と時間が決められた以上、僕には今日しか雪路と動くことができない。でもそれを彼に伝える訳にはいかなかった。
「僕のやりたいことは明日できないことなんだ。今日じゃないとダメなんだよ。力を貸して、雪路」
 両手を合わせて頭を下げる。すると雪路は下げた僕の頭を軽くはたく。
「いった?!」
「さっきのデコピンのお返し。……唐突に現れて、三年越しで天馬から頼まれ事されるなんて……本当、今日しかできないことかもな」
 雪路は僕にキーホルダーを返すと、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「とりあえず学校に行くか。小学校からの付き合いの奴に聞いてみよう」
「雪路……」
「今日しかないんだろ?」
 ニカッと白い歯を見せて、悪いことを思い付いた笑みを浮かべる。三年振りの僕の相棒は、相変わらず融通が利くようだ。