あれは確か、一週間前の事だった。

 競りの仕事が片付き、露店の酒を引っかけた帰り道。

 仲間達と長話していた為、辺りはすっかり日が落ちていた。昨晩の強風による影響でこの地区には停電が起きており、商店街を抜けた頃には果てしない暗闇が広がっている。

 「暗え。懐中電灯でも、無いよりましだなあこりゃ」

 2月の凍てつく寒さに身を震わせながら、永松は不安げに周囲を見渡す。

 鈴虫の音もこの季節では聞こえない。用水路に流れる水だけが世界に音を与えていた。一寸先まで見通せぬ闇とはこの事か。

 「えれえ事に巻き込まれる前に、とっとと帰ろ」

 この所、経済格差の影響ですりや窃盗が横行している。何かに巻き込まれる前に早く帰ろうと早足で自分の家を目指した。その時だった。

 「・・・・・・・・・あ、ん?」

 永松の少し前方、完全な闇の中から、一つの光がぼうっと浮かんだのだ。

 最初は、誰か前方から来たのかと思った。永松は警戒を露わにしながらその場に立ち止まる。何せこんな夜だ、先程脳裏に過ぎった強盗かもしれない。おまけにこんな時代に灯りが提灯とは、明らかに普通ではない。

 一体どんな浮浪者だ。永松はそいつの顔を見ようとぐっと目をこらし、

 ぽとりと、土産の甘味の包みを落とした。

 
 ――――顔が、無かったのだ。

 
 「・・・・・・・・・・・・は」

 魂を抜かれたかのように、体中の血液が冷える。

 顔どころではない。首も、肩も、手も足も指も胸も肌も腹も臍も腰も肘も膝も関節も太股も骨も肉も血も、その人を成す何もかもが、無い。

 ただ何も無い空間に、提灯が浮いているだけだ。冗談のような光景だった。周囲の音がやけに清んで聞こえる。自分の目が可笑しくなってしまったのだろうか。

 ・・・・・・・・・・・・目。

 今度こそ永松は擦れた声を出し、その場に跪く。

 あろうことか目が、提灯に付いていた。

 薄汚れた和紙の上に、ぎょろりと血生臭い目玉が一つ、爛々と光っていたのだ。それはぱちぱちと人間のように瞬きをし、真っ直ぐ永松を見る。

 「・・・・・・あ」 

 沈黙と混乱は、一瞬だけだった。

 「あ、ああああああああああああああああっ!」

 静かな闇夜に、永松の悲鳴がこだました。

 永松はあらん限りの悲鳴を上げながらその場から転げ落ちるように逃げる。

 それは、永松が初めて遭遇した『妖怪』という類のものだった。

 「――――と、いう訳なんですが」

 話し終えた永松は、半眼で茜に目配せする。何故か先程から茜は笑いを堪えるように背中を丸め、クククと小さく背中を震わせていた。

 「ど、どうしたんです?」

 そんな笑えるような話をしたつもりはなかったが。おっかなびっくりの永松に、茜は「そりゃあ笑っちまうよっ」と瞳に涙を貯めながら机を叩く。

 「おどろおどろしく語るもんだから、どんなのが出てくるかと思って聞いてりゃ提灯お化けってっ、役者だねえ永松さんっ。一瞬寄席かと思っちまったよっ」

 「ぐっ」

 太陽のようにけたけたと笑う茜を余所に、永松は頬を紅潮させながら拳を握り辱めに耐えた。こちらの味方だろうと思っていた雑賀さえも口元に手を当てながら可愛らしく笑っている。その笑顔は大層可憐であったが、今は羞恥が上回っていた。

 「と、ともかくです」永松は咳払いする。「あれからおちおち外も出歩けないんです。先生なら何とかしてくれるって来たんですが、どうなんです?」

 縋るように尋ねた永松に、茜は先程とは違う、意味深な表情で笑った。

 「勿論、造作も無いことだよ。永松さんがそれを望むなら、ね」

 茜は戸棚から本を取り出すと、卓上におざなりに重ね、その一冊を読み始める。表紙や文字から舶来のものである事が窺えるが、彼は顔色一つ変えず頁を捲り始めた。

 「火、光、人魂、そういう『闇の怖さ』から生まれた怪異ってのは、いつの時代も、どの国でも、どんな場所でも在るもんだよ」

 よく見ると、本棚に並んでいる図や絵は全て妖怪や怪異に関わるものだ。

 「外海では『ウィルオウィスプ』という、日本の鬼火に似た怪異が存在する。地域によって呼び方は多少の差があれど、死後も未練を残しこの世を彷徨ったり、時には人に害をもたらしたり。様々ないわれがあるが、どれも一つ一つは厄災までとはいかない、些細な怪異といった書かれ方が多いみたいだよ。今回もそんなもんだと思ってくれれば」

 そこまで来て、茜は本を捲る手を止めた。

 その猫のような瞳を爛々と輝かせながら、頁を捲る手を進める。

 「・・・・・・へえ、『ジャックオーランタン』。これは面白いねえ。愛蘭の伝承のようだけれど、先程のウィルオウィスプが憑依したという説があるみたいだ。米国ではカブではなく、かぼちゃを使っているのもお国事情が出て興味深いねえ。形骸化しちまってる辺りうちの提灯お化けに近いもんかも知れないね。なになに・・・・・・」

 「・・・・・・」

 何だろう、どんどん話が脱線していっているような気がする。

 複雑な表情を浮かべる永松を余所に、茜は次々と本を取り出して読みふける。

 「・・・・・・ふむ、今世界ではハロウィーンという祭りでこのジャックオーランタンを家の玄関や店に飾っているのか。米国ではもう宗教的な意味合いも殆ど持たないみたいだねえ。となるともうこれらはあっちの人にとっては怪異でも何でもなくなっちまってるって事か。こりゃあまいった」

 まいったと言っている割には、その表情は嬉しそうであったが。

 「あ、あの、先生?」

 「ほお、これがジャックオーランタンかい? 想像と違って随分可愛いじゃないか。三越とかで売り出せば子供達は喜びそうだねえ。何なら祭りにしても――――」

 「茜さん、茜さん」

 たまりかねたのか、隣の雑賀が小さく咳払いした。

 「『お勉強』はほどほどに。永松さんが困ってますよ」

 雑賀の声に、茜はようやく我に返ったように「おっと」と苦笑しながら本を閉じた。雑賀の制止が無ければ一晩中放置されそうな勢いだった。

 「すまないねえ、いつもの良い癖が出ちまった。お前さんの怪異の話だったね」

 茜は再び椅子に座ると、学生帽を深く被り直した。

 「先も言った通り、提灯お化けは具体的な伝承も強い念も持たない程度の低い怪異だよ。一説には付喪神の一種ともされてるが、それさえも定かじゃ無い曖昧な存在さ。今日にでも全て終わるだろうよ。ただそれだけだと少し詰まらないから――――」

 茜は襟元を正しながら、にこりと気っ風の良い表情で笑った。

 「永松さん。お前さん、お酒は強いかい?」

 「へ?」

 呆気にとられる永松を余所に、茜は人なつっこい笑みを見せた。 


 指定された待ち合わせ場所に着くと、既に空は薄暗くなっていた。

 先程まで面子や馬とびで寒さを紛らせていた子供達も、今はその姿を見ない。きっと各々の家に戻ったのだろう。永松がそれを実感していると、ちらほらと周囲の建物に光が灯り出す。路面の藍錆色の電灯にも、ぽつりぽつりと暖かな明かりが浮かんだ。

 「この辺りも、ずいぶん明るくなったもんだねえ」

 永松が寒さに震えながら佇んでいると、背後から霞がかった声が響く。

 「先生」

 茜宗氏だ。学生帽の下の瞳が爛々と輝いている。そしてその横には雑賀も居た。ぺこりと小さくこちらにお辞儀する。仕草一つ一つとっても可愛らしい人だ。

 「確か明治の16、いや15年だったかな」

 茜は眩く輝く街灯を、初めて見たかのように好奇心を孕んだ瞳で見上げる。

 「銀座に国内初のアーク灯が出来てさ、当時はその輝きに大層驚かされたもんだよ。今じゃこんな所まで普及してるんだからね」

 「へ、へえ・・・・・・」

 曖昧に相槌を打つ。

 というよりこの男、40年ほど前の事をしれっと述べたが、一体何歳なのだろうか。見かけは年端もいかない少年に見えるが。。

 「でも、そうですな、あっしも洟垂れの時は、夜道(やみ)がとても怖かったです」

 そう、40年。改めて振り返るとかなりの時間が流れたものだ。

 思えば永松の人生は、光の発達と共に在った。

 洋灯に、ガス灯、そしてアーク灯。点灯時間に難はあるが懐中電灯なども世に生まれ、あれほど怖かった闇という闇が帝都から消えた。ここ40年の光の発展は凄まじい。

 「あっしの実家は、東京でもかなり外れにありまして」

 昔を懐かしむように、小さく息を吐く。

 「家に電気なんざ当然流れて無くて洋灯(らんぷ)でさ。夜に厠に行くのが怖うて怖うて仕方ありませんでした。家までの帰り道もそれはそれは暗くて――――」

 暗かったんですけど、と永松は言い淀む。

 記憶の片隅に浮かんだのは、泣きながら夜道を走る童の自分だった。草木が生い茂るあぜ道を、鼻水を垂らしながら泣いている。まだ何も知らない、弱い弱い自分。

 「でも、何でですかね、あの道だけは、不思議と不便も不安もなかったなあ」

 そんな思い出した光景とは裏腹に、口からはそのような言葉が自然と出ていた。

 案外子供のころの自分は図太かったのかも知れない。腕組みしながら首を傾げている永松に、茜は「そうかい」と暖かく微笑んだ。

 「さて、着いたよ永松さん。どんな馳走が出るのか楽しみだ」

 永松も立ち止まり、彼と同じ所作で顔を上げる。

 二人の視線の先の店ののれんには、右から左に『伊勢崎食堂』と書かれていた。

 『どうせ怪異が出現するのは深夜だ。それまで酒屋で時間つぶしをしようじゃないか。ただぼうっと待っているより、酒でも飲んでいた方が粋だろう?』

 というのが、茜が出した提案だった。

 確かに永松も一人で家に帰るなど恐ろしくて出来ないし、丁度良いと思っていたが、

 「ここはオムレツライスが旨いらしいよ。うちのとどっちが上等か、見ものだねえ」

 「意外と卵と程良く絡めるの難しいんですよね。厨房覗けるといいんですけど」

 二人の話を傍から聞いている限りでは、ただの敵情視察としか思えなかった。

 (本当に、想像したのと随分違うことで)

 この感情になるのは、今日で何度目だろう。

 偉大なる土御門家の末裔にして、帝都最後の陰陽師、茜宗氏。

 彼と会うまではきっと高貴な空気を身に纏った、近寄りがたい人物だと思っていた。

 しかしこうして蓋を開けてみれば、自由奔放を絵に書いたような少年だった。まるで今まで一切の邪気に触れてこなかったかのように、爛漫に。

 一体どのような人生を送れば、そんな風に生きられるのだろう。一緒に居れば居る程不思議になる。その宝石のような衒い無い瞳には、いったい何が映っている?

 「さあ、いこういこう。こんな所でずっと立ってると風邪引いちまうよ」

 そんなこちらの気も知らないで、陽気な陰陽師は軽い足取りで店へと入っていく。


 それから十五分ほどして出てきた『おむれつらいす』は、控えめに言って至高だった。

 「へいよ、オムレツライスお待ち」

 店主の声で出てきたソレに、思わず永松達は感嘆の声を上げる。

 まず目を引くのは、眩いばかりの黄色の層だ。スプーンで触れるとふわりと弾んでしまうほど弾力性がある。ワインを下味に使っているのだろうか、コクのある深い匂いが鼻孔を満たした。目と鼻が喜んでいるのが自分でも解る。

 そして何より素晴らしいのは、艶やかな黄色と対照的な赤色のケチャップだ。まるで黄色のキャンパスに塗られた絵の具のように輝いている。ケチャップが帝都に普及し始めたのは明治の後半から。永松が子供の頃には存在さえもしなかった食材だ。生きていると色々と良い事があるものだと実感する。

 ごくりと生唾を呑み込み茜に目を向けると、彼も同じような表情をしていた。ならばもう何も言う必要はあるまい。三人は何も言う事無く、ぱちんと手を合わせて頭を下げる。

 「「「いただきます」」」

 賑やかな食堂に、三人の弾んだような声が混じった。永松がソレにスプーンを刺すと、卵の層がすっと裂ける。

 すると中からケチャップと共に炒められたであろうライスがどうだとばかりに姿を見せる。湯気に乗せられトマトの香りが一層強く鼻をくすぐってきた。本当に罪な香りだ。

 ごくりと生唾を呑み込みながら、永松はスプーンで掬ったソレを口に頬張った。

 「んー、上手ええっ!」

 口に入れた瞬間に広がった旨味に、思わず地団駄を踏んで悶絶する。向かい側の茜も機嫌良く目を細めながら「上手いねえ」と笑っていた。

 「銀座の煉瓦亭のも好きだけど、ここは卵の層を作って閉じ込める造りで斬新だねえ。山椒も和のエッセンスもほんのりと感じる事ができる。良い一品だよ」

 「卵もバターと一緒に混ぜられているみたいです。上手いなあ」

 最早何の集まりかさえ解らなくなってきたが、やはり『美味しいもの』を食べた時のこの充足感、幸福感は誰であろうといつの時代であろうと変わらないらしい。気を良くした永松は店主へ「大将ーっ! ビール一つ!」と大声を投げかけた。

 「ご主人、あたしにはワインを。赤とかあるかい? ・・・・・・ええ、売ってないって?調理用だけ? そいつは困ったねえ・・・・・・」

 「私はオレンヂジュースでっ」

 茜と雑賀も各々が好き勝手に飲み物を頼み、小一時間も過ぎた頃には永松はすっかり出来上がっていた。

 「――――ほんっとに、成金共が今の日本を腐らせてんだよっ!」

 顔を紅潮させながら、永松はグラスを机にドンと置く。

 「信用は二の次。どいつもこいつも目先の利益だけ考えて、粗悪品をとにかく売って売って売って売ってさあ! 今や日本製品とくりゃあ粗悪で安い扱い。恥ずかしいよっ」

 酔いが入っては居るが、全て永松の本心だった。

 自分が童の頃は『江戸っ子』い相応しい気概在る商売人が沢山居たが、最近目にするのはいかに自分が設けるかを第一にする奴らばかりだ。

 「ったく、いつから日本人は、商売人の心ってのを忘れちまったんでえ!」

 荒れ狂う永松とは裏腹に、茜は涼しい表情で「確かにねえ」と困ったように笑った。永松と同じ量を飲んでいるにも関わらず、その白い肌を僅かに赤くしただけだ。どうやら相当酒が強いようだ。

 「ここ数年、貧富の差は目を覆いたくなるものがあるよ。国は潤っただろうが、そこに住まうあたしらには色んな確執が生まれちまった。でもね、いつの時代も栄枯衰退。陰と陽。1918年(にねんまえ)の米騒動然り、その反動はいつか裏返るのだろうさ」

 「あれはいい様でえっ! 強欲な商人どもめ、ばちが当たったんだ。少しはあれであいつらも懲りただろうよっ」

 「はは、永松さんの気持ちもわかるけど、一概に善だ悪だとはあたしはいえないねえ」

 赤い顔で笑う永松に、茜は困ったような表情で笑った。

 「何でえ、先生は、あいつらの味方かい?」

 ぐいと永松が詰め寄ると、茜は珍しく殊勝に首を振る。

 「あたしは誰の味方でもないよ。でも今は永松さん達の味方かな」

 そう茜は気前よく笑った。この男、随分と人ったらしな事を言ってくるものだ。

 「ったあ先生、会った人間全員にそんな事言ってんですかい?」

 と言いつつも、その言葉は存外に嬉しかった。自分が今日会ったばかりの相手とこう気分良く飲めているのも、きっと彼だからなのだろう。

 言葉にするのは憚られたので、代わりに永松はビールを豪快に煽る。

 やはり大勢の人飲む酒は美味い。大勢で囲む食事は美味い。

 それから一時間ほど、楽しい声は途切れる事は無かった。


 店の外に出ると、2月の凍てつくような寒さが永松の酔いを僅かに覚ました。

 吐く息は瞬く間に白く濁り、上空の星空は電灯の影響で殆ど見えなくなっている。

 ひっくと横隔膜を震わせる永松の傍らで、茜は静かに帝都の空を眺めていた。

 「――――時代が、どういった風に進んでいくかは解らないけど」

 酒の余韻に浸るように、彼は唐突に囁いた。

 「同時に、どんどんとあたし達は忘れていくのだろうね。例えば永松さん」

 そう言って彼が指差したのは、伊勢崎食堂の向かいの家だ。新築のようで木材にも殆ど劣化が無い。ここ数ヶ月ほどの建築物のようだ。

 「この建物。建つ前には何があったか覚えているかい?」

 「へえ・・・・・・?」

 いきなり何を言い出すのかと思いつつも、聞かれたからには考えてみる。
 永松もこの辺りは何度も足を運んでいた。記憶を辿ればすぐに答えが浮かぶかと思ったが、どうしてかもやがかかったかのように霞んでいる。

 「・・・・・・思い、出せませんね」

 赤らめた顔で考えていると、茜が「確か、八百屋だったはずだよ」と囁いた。

 「ああ、そうだった!」

 言葉と同時、すっと記憶のもやが晴れた。そうだ、確かに団子屋だった。

 「忘れてた。どうして思い出せなかったんだろう」

 「時間というのはそういうもんさ。別に永松さんがどうじゃない」

 口元に笑みの余韻を残しながら、茜は下駄を鳴らしながら歩き出す。

 「栄華を誇ったあたし達陰陽師も、今じゃ時代の忘れ形見さ。きっと100年後には存在さえ認知されないだろう。でもあたしはそれでいいと思ってるんだ。それがいいと思ってるんだ」

 「・・・・・・」

 「願わくば、その忘却が良い方向に向かってほしいもんだねえ」

 彼は、そう呑気に言った。まるで他人事のように、あっけらかんと。

 永松はその言葉の意味を理解出来ず、酔いも忘れて黙り込む。

 ただ一つ解った事は、彼はその終わりを受け入れているという事だけだった。



 なんて感傷に浸っていたのも、十五分ほど前までだった。

 「・・・・・・っ」

 永松は体を震わせながら、何度も左右に目を彷徨わせる。奥歯がガタガタ音を立てた。勿論その震えは寒さから来るものではなく、恐怖から来るものだ。

 縋るように茜の小さな背中に隠れる。酒もすっかり抜けてしまった。なぜならそこは永松があの怪異と出会った場所だったからだ。

 今はすっかり停電が回復し明るくはなっていたが、それでもあの時の恐怖はおいおいとぬぐい去れない。先ほどの酔いが尿意へと変わっているのが実感した。

 「・・・・・・来ない、ですね」

 びくびくと怯えていたが、一向にソレが現れる素振りは無い。永松は僅かに警戒を解いて周囲を見渡した。やはり何の気配も感じられない。

 (・・・・・・おいおい、実は酔って見た幻でした、っつう落ちは止めてくれよ)

 だとしたら彼らに申し訳ない。内心でヒヤヒヤしていると、正面の茜が「やはりね」と心得たように頷いた。

 「全て理解したよ。だとすると再現が必要って事かい」

 雑賀、と茜は彼女の名を呼ぶ。すると雑賀は「はい」と小さく頷いた。

 一体彼女に何の用なのか。永松も雑賀へと振り向いて、そしてぴたりと固まった。

 彼女の腰に、日本刀が収まっていたからだ。

 「・・・・・・は?」

 思わず間抜けな声が漏れる。しかし何度見てもそれは間違いなく日本刀だった。桜色の鍔に、身の丈はありそうな純白の鞘。10人は10人とも日本刀と答えるだろう。

 色は合えど、その存在は白を彷彿とさせる彼女の雰囲気からまるで逸脱していた。

 何故、と愕然とする。先程までこんな物騒なもの、彼女は持っていなかった。それはあまりにも時代錯誤で、彼女に相応しくない。

 「さ、雑賀さん・・・・・・?」

 彼女は呆然とする永松の呼びかけに答える代わりに、刀の柄に手を添えて、

 
 チン! という音と共に空間が爆ぜた。

 
 突如周囲の空気が悲鳴を上げるようにうおおんと轟き、遅れて凄まじい突風が永松を後方へと吹き飛ばした。その動作と同時、周囲の電柱が飴細工のように破砕する。

 「ひっひゃああああああっ!?」

 一瞬にして辺り一面が闇に染まった。かつて電柱だったものがガランガランと地面に転がる。もう何が何だか解らない。自分は夢でも見ているのだろうか。

 地面に尻餅をつきながら慟哭する永松の傍らで、雑賀は涼しい顔で刀から手を離した。

 恐らく、彼女が斬ったのだろう。理屈も道理も理解出来ないが、あの日本刀を使って。今改めて周囲を見ると、転がる電柱の欠片は全て鋭利な刃物で切断されたようになっていた。つまりはそういう事なのだ。

 人間業じゃ無い、と震えるが、よくよく考えてみれば彼女はあの茜宗氏の付き添い人。それがただのカフェーの給仕であるはずがなかった。

 「雑賀さん・・・・・・あんた、何者でえ」

 思わず零れた声に、雑賀はにこりと笑って白手袋の手と手を重ねた。

 「ただの助手ですよ。茜の助手の仕事は多岐に渡りますので、フライパンを振る時も刀を振るう時もあるだけです」

 雑賀は世間話をするように、可愛らしく微笑みながら首を傾げる。茜も底が見えないが彼女も同等だ。自分はどうやら恐ろしい連中と酒を飲んでいたようだ。

 「こりゃあ、とんでもない『助手』が居たもんで・・・・・・」

 引きつった笑みを浮かべていると、ふいに茜の持つ柔和な気配が変わる。

 「ご託はそこまでだよ。ここからが本番さ」

 先程雑賀が放った斬撃により、周囲は局地的に停電が発生していた。

 あの時と同じ。ここ数年眠る時以外で見かけなくなった、完全な『闇』だ。

 懐かしい闇だった。

 「・・・・・・あ」

 永松がそれを実感していると、ふいに正面の空気が揺らめく。

 「あ・・・・・・あ」

 やがてそれはどんどん形を持ち、ぼうっと黄土色の炎を灯す。

 「ああ、あああああああ」

 めらめらと燃えさかる炎の中には、古ぼけた提灯が。

 
 そしてその中央には、ぎょろりと光る生々しい目玉が在った。

 
 「ああっ、ああっ、ああああああああっ!」

 ついに震声は絶叫へと昇華した。永松は縋るように茜を見る。

 「で、でたあっ! 出やがったあっ! せ、先生っ!」

 激しく動揺する永松とは裏腹に、茜は静かな瞳でその提灯の化け物を眺めていた。

 「ど、どうしたんですかっ!? 先生っ! 早くあいつを何とかしてくれっ!」

 数秒してようやく彼が放った言葉は「雑賀」の二言だけだった。しかし先程の一撃をこの目で見届けた永松にとっては、それが天皇からの勅語かのように思えた。

 「さ、雑賀さんっ! 頼んますっ! どうか先程の一撃を――――」

 「・・・・・・はい」

 雑賀が静かに上体を落とし、刀を撫でるように触れる。

 ひゅん、と刃の舞う音がする。

 瞬間、再び空間がブレた。彼女の神速の剣が空間を伝い、目にも止まらぬ速度で前方の怪物へ届く。一瞬の決着かと思ったが流石に相手は異界の存在、後方に激しく吹き飛んだが、まだかろうじて息はあるようだった。

 「ははっ! 流石は雑賀さんだっ!」

 永松は乾いた笑みを浮かべる。提灯は表の和紙が剥げ、瞳が弱々しく瞬いた。永松の目からもソレがかなりの傷を負っているのは明らかだった。

 たまりかねたのか提灯お化けは震えながら起き上がると、きびすを返そうと面を反転させる。しかし突如地面から出現した青色の鎖に体をガチャリと固定された。

 茜だ。いつの間にか彼の手には小さな鎖の束が握られている。原理は全く解らないが茜が操る鎖がソレの体をがっしりと固定していた。

 その隙に、雑賀が容赦なく二撃目を放つ。瞬く間に提灯お化けの体が大きく跳ねた。鎖に縛られている為に、その攻撃が全てソレの体にのし掛かる。提灯お化けは悲鳴にならないような悲鳴を上げて悶えた。

 「よし、いいぞ、いいぞ・・・・・・」

 現実かと見紛う光景だが、夢だとしても冷める時は間近に迫っている。

 この悪夢ともお別れだと、そう思っていたが。

 「いい、ぞ・・・・・・」

 しかし出た声は、どうしてか弱々しかった。

 「・・・・・・」

 ついに言葉が出なくなった。永松は自身の感情に困惑するように頭を押さえる。

 「待てよ、俺は、どこかで・・・・・・」

 唐突に浮かんだ記憶には、幼い頃の自分が居た。不安げに周囲を見渡しながら怯える、弱くて小さかった自分の姿が。

 「俺は・・・・・・」

 「永松さん」

 動揺する永松を、落ち着いた茜の声が戻す。

 「本当に、これでいいのかい?」

 「・・・・・・いや。俺は、俺は」

 声は、喘ぐように出る。

 おぼろげだった記憶は今、明確に形を取り戻した。


 ――――子供の頃は、ただただ怖かった。

 命さえも呑み込みそうな、暗い暗い闇。

 今ほど街灯などというものは無く、少しでも遊びすぎてしまえば、すぐに闇(それ)はやって来た。遠くに浮かぶ山々が不気味に黒く聳え、昼間はあれほど穏やかだった草木も今は永松をどこかに誘うように囁いている。

 幼い頃の永松はそんな帰り道を、殆ど半泣きになりながら走っていた。

 「はあっ。はあっ・・・・・・っ!」

 薄い草鞋に、尖った小石がぐさりと食い込む。がその傷みよりも今は恐怖が上回っていた。この世界に自分が一人きりのような感覚。本当に死んでしまうかとさえ思った。

 だがそんな永松の幼い孤独は、目の前の光によって霧散する。

 「あ、ああ・・・・・・」

 それを見て、思わず永松はくしゃりと顔を歪めた。

 暖かな黄土色の光。どこか懐かしさを感じられる古ぼけた提灯。そしてぎょろりとこちらを覗く一つ目玉。間違いなく、先程自分が虐げた提灯お化けだった。

 子供の自分はそれを見た瞬間、ぐっと涙をこぼして彼に抱きついた。

 「ほんっと、良く来てくれたなあ。よく来てくれたあ・・・・・・」

 どこまでも続きそうな闇の中、その光は永松に安堵と優しさを与えてくれた。

 永松は彼の温度を感じながら、わんわんと涙を流した。


 
 「・・・・・・ありがとなあ。いっつもこうして来てくれて」

 暫くして、衝動が収まった後。

 「でも、不思議だなあ」

 涙の余韻を残しながら、彼は自分の少し前に浮かぶ彼に呼びかけた。

 「さっきまであれだけ怖かったのに、お前とこうしていると、夜が少し好きになる」

 永松は涙を拭きながら、ゆっくりと顔を上げる。

 ふっと、心地よい風が吹く。

 黄土色の光が、周囲の世界に色を与えていた。先程まで全く見えなかったあぜ道も、今ははっきりと見える。ただただ不気味だった草木も、こうして見ると蒲公英に菖蒲と、様々な種が生きている事が解った。

 ただ見えていなかっただけだった。見ようとしていないだけだった。

 暖かな光に囲まれながら、少年はそんな夏の夜をじっくり味わっていた。

 記憶の中の少年は、次いで目を輝かせながら笑みを零す。

 「わあ・・・・・・」

 蛍だ。

 彼の光に充てられてか、ぽつり、ぽつり、と蛍の光が四方八方から浮かび上がった。控えめな黄色の光は、強弱と点滅を繰り返しながら世界を優しく照らす。

 とても、とても幻想的な空間だった。

 「――――本当に、いい夜だあ。ありがとうなあ」

 正面に、ぼうっと淡い光が見えてきた。蛍でも妖のものでもない、我が家の明かりだ。両親が心配したように玄関の前で立っている。

 「なあ、シロ」

 大丈夫。もう自分は何も、怖くない。彼と居れば、どんな闇も進んでいける。

 「例え俺が大人になろうと、お前がどうなろうと」

 無数の光に囲まれながら、永松は彼に笑いかけた。

 「俺達は、ずっと一緒だよ。これからもよろしくな」

 言葉は、すっと自然に出ていた。

 記憶の中の彼も、笑い返してくれた気がした。


 「――――止めろっ、止めてくれえええええ!」

 思い出した。全て思い出した。

 一目散に駆け走り、提灯お化けの前で両手を広げる。声は殆ど悲鳴になっていた。

 「違う! 違うんだ! 俺達は友達だ、友達なんだよおお!」

 そうだ、自分達は友達だった。彼はただ自分を心配して出てきてくれただけなのだ。真っ暗な中で、怯えていないかと。あの日のように光を灯してくれた。

 それなのに、自分はなんて酷い事を言ってしまったのだ。

 どうして忘れてしまっていたのだろう。今まで覚えていなかったのだろう。
 永松は溢れんばかりの涙を流しながら、深い深い後悔に溺れた。

 「・・・・・・ダイ、ジョウブ」

 そんな後悔の渦の中、ふとそのような声が届く。

 はっと、永松は顔を上げる。

 声の主は、シロからだった。今にも崩れ落ちそうな体でも、それでも彼は陽気に舌をべろっと伸ばす。自分を不安がらせないように、にこっと笑みを浮かべ、

 「ダイ、ジョウブ? タロウ?」

 確かに、そう言った。

 「・・・・・・っ!」

 今度こそ、永松はこみ上げてくるものを抑えられなくなった。

 「馬鹿、野郎っ!」

 目を真っ赤に充血させながら、永松はシロの体にがしっと手を触れる。

 数十年ぶりに触れたその体は、母親のように温かかった。

 「何でこの後に及んで、俺の心配なんだよっ!」

 声は殆ど悲鳴になる。

 本当に馬鹿な奴だ。こんな薄情な奴の為に、数十年も待っててくれているだなんて。そしてそれほど思われていたのに、呑気にこうして忘れていたなんて。

 「ごめんなシロ、本当に、ごめん・・・・・・」

 瞳からぽろぽろ涙を零し、彼の名前を呼ぶ。

 いくら後悔してもしきれない。だから今の自分に出来る事は、彼の名前を呼び続けてその名を忘れない事だけだ。最後の時になるまで、彼をずっと忘れない事だけだ。

 永松は触れた手を震わせながら、何度も何度も彼の名を呼んだ。

 

 「――――ようやく、思い出したかい」

 そうして、そんな夜の最後。その様子を見て、茜は安心したように体の力を抜く。

 「少し荒療治になって、申し訳ないねえ。でも良かったよ」

 本当に良かった、と。茜は噛み締めるように安堵の表情を浮かべた。

 手元の鎖を胸元に仕舞うと、提灯お化けにかかっていた青色の鎖も解けた。彼が足を進める際に鳴る下駄の音が心地よく聞こえる。

 「そう。お前さん達は友達だった。いや今より昔、怪異と人は友達だった。お互い支え助けられ、交わって、響き合って生きてきた」

 でも、と茜は寂しげな表情で帝都の空を見上げる。

 「文明の発展によって、人々は彼らを忘れてしまった。光の発達によってお前さんが彼を忘れてしまったようにね。でもそれは仕方の無い事なんだ」

 1920年。大正9年、帝都。

 妖の時代は既に終わり、文明が一気に顔を出すこんな時代。怪異と人が手を取り合う時代はとっくに過ぎ去り、人々の記憶から消え去ろうとしている、そんな時代。

 それでも人と妖が手を取り合うこの光景は、何時の時代だって美しい。

 「――――きっと人はまた彼らを忘れてしまう。それが自然の事だから」

 永松は目を真っ赤に充血させながら、提灯お化けをぎゅっと抱きしめる。

 「でも、それでも彼らは貴方達を忘れないから」

 そんな二人に、茜は永久の友情を願う。例えそれが叶わぬ事であっても。

 「だからお前さんが忘れるまで、忘れないでいて下さい」

  今だけはそんな未来を願った。

 静かな夜に、茜の祈りが心地よく響いた。

 

 「・・・・・・なんでお前さんが泣いているんだい、雑賀」

 全てが決着した。寒空の下。

 彼らの姿を慈しむように見ながら、茜は隣で号泣する雑賀へと苦笑した。

 雑賀は目から大粒の涙を流しながら、ひっくひっくと背中を震わせている。相変わらず泣き虫な子だ。それは出会った頃から変わっていない。

 「・・・・・・茜さんは、意地悪です・・・・・・」

 涙を拭きながら、雑賀は半眼で茜を睨む。どうやら相当怒っているようだ。

 「最初からこうなる事を解っていたなら、ここまであの子を傷つける必要はなかったはずです。茜さんは意地悪です」

 そういう事かい、と茜は再び苦笑する。

 彼女はどこまでも優しい。本当はこんな事はしたくなかったはずだ。

 「でもね、それは違うんだよ。あたしは本気で滅するつもりだったんだ」

 だからこそ、茜はそれを否定する。

 「あの子は永松さんの為に居たような怪異だ。彼がその存在を認識しない限り、その存在は永遠に闇に囚われたまま。それこそ可愛そうじゃないか。楽にしてあげないと」

 「・・・・・・」

 「でも」そこで茜は表情を緩め、雑賀の頭をぽんと振れる。

 「今は、本当に良い夜だと思うよ」

 「ああ先生っ! 不味いっすよっ! 不味い!」

 その余韻に浸っていると、正面にいた永松の声が裏返る。

 よく周囲を見てみると、周囲には騒ぎを聞きつけてやってきた野次馬が集まってきていた。周囲の長屋からも住民が何事かと窓から顔を覗かせている。

 随分と大げさな状況になってしまったものだ。呑気に状況を伺う茜に対し、永松の顔は血の気が引いたように真っ青になっていた。

 「ど、どうするんですかっ!? これもう誤魔化せませんよっ!?」

 「――――誤魔化す?」

 永松の焦った声とは裏腹に、茜はどこまでも落ち着いた声色で囁く。

 「見くびってもらっちゃあ困るねえ永松さん。あたしが何者か知っているだろう?」