正午を知らせる午砲(ドン)の音が、乾いた帝都の寒空に響き渡った。

 昼間の丸の内は、背広姿の若者や職業婦人達で賑わっている。洋服を着た女性は勿論、一着数十円はしそうな舶来の羅紗を纏う腰弁共も居た。その金でどれほど米が買えるのだろうか。羨みはするも、永松には縁のない世界の住人だった。

 東京駅だ。斜に構えて見ていたが、悔しい事に赤と白のコントラストの対比が美しい。勿論永松は西洋など行った事はないが、色濃く外国の匂いを感じる。

 「・・・・・・本当、子供(ガキ)の自分に見せてやりてえぜ」

 今に限った事でも丸の内に限った事でも無いが、やはり自分はこういった所は性に合わない。どこか自分の居場所でない感じがする。レンガよりも木造の我が家が一番だ。

 ・・・・・・それでも

 「うおっ」

 よそ見をしながら歩いていると、ふいに足に湿った感触が伝わった。下を向いて思わず舌打ちする。泥溜まりに下駄を踏み込んでしまったようだ。

 「ったく、とんだ災難だあ」

 苦い表情で悪態を吐く。

 見渡してみると、周囲の路面には所々歪な穴が空いていた。近頃数を増やし続ける自動車の影響だろうが、路面がそれに追いついていないようだ。雨が降っていないだけましではあるが、自動車よりも先にそっちを何とかしてくれと切実に思った。

 気を取り直して再び歩き出すと、鮮やかな色のレンガ駅舎が飛び込んできた。まるで壁のように視界の先まで伸びている。

 それでも永松がここに居るのは、とある人物に会う為だった。

 今でもその人物に関する情報は半信半疑であったが、何もしないよりは建設的だ。そう自分に無理矢理言い聞かせ、足早に東京駅を後にする。

 そこから歩くこと十数分。ようやく永松は目当ての地に辿り着いた。騒がしい丸の内から隔絶されたかのように、或いは忘れ去られたかのように、それはひっそりと佇んでいる。

 「ここ、か・・・・・・?」

 白い息を吐き、顔を上げる。

 語尾が僅かに跳ねたのは、そこが想像した『陰陽師』とは無縁の場所だったからだ。

 淡い黄、鮮やかな赤、ぼやけた青。そして緑。

 様々な色の層が混ざるステンドグラスがまず目を引く。東京駅と同様、レンガ造りの建物であったが、色合いが木に近く、不思議と安心できた。

 そんな建物の入り口には、『純喫茶・アリス』と書かれた看板が吊されている。

 「喫茶店、だよな、どう見ても」

 渡された地図は間違いなくここを指している。僅かに躊躇うが、ここまで来てもう後戻りは出来ない。永松は覚悟を決め喫茶店の扉を開いた。

 「し、失礼しやす・・・・・・」

 ちりん、と風鈴の音が室内に響く。

 しかしそれはすぐに、蓄音機から流れていた音楽によってかき消された。

 珈琲の深い匂いが鼻孔をくすぐり、艶のある焦色(こがれいろ)の机や手すりが頭上のシャンデリアの光を艶やかに反射している。とても洗練された内装と雰囲気だ。

 本当にここなのか。ますます怪しくなってきた。

 やはり噂だったのだろうか。そもそもこんなものに頼ろうとするなど、自分でもどうかしていると思う。冷静になった永松が引き返そうとした所で、

 後方から、「いらっしゃいませ」と鈴のような心地よい声が届いた。

 「おひとりさまですか? ご自由な席にどうぞ」

 そうにこりと微笑んだのは、矢絣の着物に海老茶袴を纏った、ハイカラな少女だった。

 その絹のような黒髪を白のリボンで結い、重そうな黒のブーツを履いている。顔立ちは職人が計ったかのように整っており、肌は雪のように白かった。その肌にせよリボンにせよ手袋にせよ、純白を体現したかのような存在だ。

 あまりに幻想的な美貌に、永松は顔を背けてしまう。

 「あ、あの、あっしは・・・・・・」

 しどろもどろに頭を掻くと、その給仕は得心したように「ああ」と微笑んだ。

 「もしかして永松さんですか? そちらのお客様でしたらどうぞ、茜(あかね)がお待ちです」

 彼女は白手袋で覆われた自身の掌を部屋の奥へと向ける。

 「申し遅れました。私は茜の助手の雑(さい)賀(か)倫(りん)です。以後お見知りおきを」

 雑賀は両手を合わせて可憐に微笑んだ。洗練された見かけとは裏腹に、朝顔のように無邪気に笑う人だ。まるで警戒する事が馬鹿らしくなってくる。

 「何分茜はものぐさでありまして、私みたいなのが居ませんと大変なのですよ。ああ、御心配なさらず、性根はともかく、腕の方は確かですから」

 そう言いながら雑賀はコンコンと叩く。すると中から「どうぞ」と声が聞こえた。

 開いた扉の向こうの先は、こちら側とは一線を画していた。

 両脇の木造の本棚には、英語、仏語、様々な言語の書物がこれでもかとばかりに積み込まれている。本棚に入りきらなかった書物は机におざなりに並べられ、今にも崩れそうなほどだ。日比谷の図書館でもこれほどの品揃えにはならないだろう。

 永松が呆気にとられていると、部屋の中心にあった回転椅子がキイと回る。

 「待ってたよ、永松さん」

 
 古今東西様々な書物に囲まれて、その人物は微笑んでいた。

 
 十代前半ほどの、優しい笑顔をする少年だった。

 書生を思わせる立て襟の洋シャツに、木綿の絣の着物。そして漆塗りの上質な下駄を履いている。学生帽の下の二つの瞳は猫のように大きく深く、好奇心で煌めいていた。その目は彼の耳に付けられた翡翠の耳飾りと同じ輝きを放っている。

 市井で見かければ親しみを覚える美少年といった所だが、彼があの茜宗氏なのか。

 ――――茜宗氏。

 かつて朝廷の公家として仕えた土御門家の末裔にして、帝都中の怪異を識る陰陽師。土御門自体は明治時代に政府の方針によって衰退したが、彼の名だけは今も帝都に響き渡っている。

 人呼んで『帝都最後の陰陽師』。

 最早、伝説に近い存在だった。

 まさか、本当にこうして実在しているとは、だ。正直な所自分もこういう状況になるまでは全く信じていなかった。今でも夢を見ている気さえする。

 「改めまして、あたしは茜宗氏。陰陽師を生業としているものさ」

 まだ幼さの残る見た目とは裏腹に、茜は落ち着いた声色で顔を上げる。

 「最近はこういうお客さんも減ってきてねえ、いつまにか喫茶店(あっち)の売り上げのが高くなってしまって困ってるよ。これも時代ってやつかねえ。うん、いいねえ」

 茜はそう陽気に笑った。雑賀と同様、彼も陽気な笑顔がよく似合う。

 「さてと、与太話はあまりするつもりはないよ」

 その独特な空気に当てられていると、茜は居住まいを正して自分と目を合わせた。

 「お前さんも別に世間話をしにきた訳じゃあないだろう? ここに来るのはみいんなそうさ。みいんな何かしら抱えて、藻掻いてる」

 黙り込む永松を余所に、茜は「だからさ」と気っ風良く笑う。

 「まずは語っておくれ。お前さんの怪談を。全てはそれからだよ」

 「・・・・・・へえ」

 そうだ、何にせよ、まずは話を聞いて貰わないと。

 永松は先程までの躊躇いを捨て、意を決して話し始めた。