嵐山の中心街にある染め物屋の一人娘は恋多き女であった。
彼女を町で見かける度、違う男を連れて歩いていた。
好きか嫌いかよりも、ただたんに浮気性なだけ。そんな性質だったため、恋人の誰かが彼女を隠したのではないかという噂話が広まっていた。
十六夜は長い銀髪を耳にかけると、噂話の真意を婦人に問う。
けれど婦人は噂話としてしか知らない様子。首を振って「これ以上の事はわからへんなあ」と、表情に不安な色を浮かべた。
「なるほど。私が薔薇園に引きこもっていた数日間でそんな事があったんですね?」
「先生、薔薇に夢中になるんはええけど……そのまま閉じ籠っちゃうんは悪い癖やで? 美子ちゃんに苦労かけたらあかんよ?」
「……そう、ですね。善処します。それよりもここは本当に静かですね。心が落ち着きます」
嵐山で起きている事件に興味を持ちつつも、十六夜は自身が歩いた道を振り替える。
狸と仔猫が通ってきた細道とは違い、人力車が通れるほどの広さはあった。表の広い道のような活気はないが、情緒があり、穏やかで静かな景色である。
これを見た十六夜の頬は緩く綻びかけた。けれどそれは一瞬のことで、彼は人当たりのよい笑みを婦人に向けてその場を後にする。
田んぼのある地区を抜けると一転。静けさはなくなり、人々の話し声で溢れ返っていた。
整備されていない砂を敷き詰めた道路には、人力車や屋根のない車が通っている。
その道路の中央には、笹の葉が植えられている置物が等間隔で縦に並んでいた。
大きな道路を挟んだ両脇には、合掌造りの家屋が建ち並んでいた。
キョウトの名産である八つ橋をはじめ、茶葉専門店から砂糖菓子。呉服はもちろん、洋装までもを揃えた専門店が何軒も連なっていた。
専門店の屋根や柱には登戸が設置されている。けれどあまりにも数が多く、隣接する店に被ってしまっていた。
その土産屋に立ち寄る人々の姿は様々だ。
青や黒色の袴を着ている若き書生たち。花柄の模様が美しい銘仙着物に、【クロッシェ帽子】と呼ばれるツバのない帽子を被る女性たち。そして……
「私、大学卒業したら谷城様のところへ嫁ぎますの」
「まあ! それは本当!? いいわねー。私なんて土産屋の三男坊よ?」
おほほと、裏の笑顔を滲ませながら語らう矢絣袴姿の女学生たちが歩いていた。彼女らは互いの婚約者に対して愚痴を溢してはいるが、瞳には穏やかさすら感じられない。
十六夜は心の中で女の争いを恐れ、巻き込まれないようにと彼女たちから離れた場所に移動した。
人混みを抜けて到着したのは嵐山の大橋、渡月橋である。
橋の下には幾つのも丸太があり、それを組み立てている人々がいた。
その近くには、番傘作りをしている子供もいる。汚れた和服を腕まくりし、汗を流しながら作業を行っていた。
まるで己が子供であるということを忘れているかのような、そんな働きぶりである。
けれど十六夜は目に見える貧困の差に、さして興味を持つことはなかった。
今度は川へと視線を向け、時おり垣間見れる波紋に目をやった。川の表面は太陽の光を受け美しく輝いている。砂浜には多くの松の木が伸び、鳥たちが枝で体を休めていた。
反対側から橋を渡ってくる人々の中には、袴に編み上げ長靴を着た女性が数人いる。彼女たちは全員自転車を漕ぎ、どこかへと去っていった。
橋を渡る直前の道の横には人力車が並び、客待ちをしていた。その従業員たちは書生とは違い、ほどよい筋肉がついている。人を乗せた車を引くため、相応の筋力が必要であった。
「──おーい! 十六夜君~!」
十六夜が人力車を眺めていると、人混みの中から声をかけてきた者がいる。
黒髪は七三わけになっており、ぼさぼさとしていた。
切れ長の目に、ほっそりとした頬。あまり栄養を取っていないのか、どことなく顔色が悪く見える。
首には、太極図の模様がついた白い巻き布をしていた。袴の上から黒の外套で身を包んでおり、書生風ななりをしている。
靴の代わりに履いている高下駄は動く度に砂を蹴っていた。
そんな者の手には大きな旅行鞄がある。
「久しぶりさね。元気にしてただわさ?」
「──芥川さん。お久しぶりですね」
芥川と呼ばれた者に気さくに話しかけられると、十六夜は握手を求めた。芥川は表情を緩めながら握り返してくる。
「芥川さんこそ。どうしてキョウトに?」
「ふむ。新しい作品の取材旅行でさあ」
十六夜が握っている、芥川と名乗る人物の手はゴツゴツとしていた。
彼の骨太な声は思いの外よく通る。人混みの中であっても、不思議と耳に届いてきた。
「俺ゃ、芥川龍之介だわさ。期待に応えるのが仕事だわさ」
「……そう、ですか。頑張っているんですね?」
「まあね。おっと! 時間がないだわさ。それじゃあ、まただわさー!」
芥川は大きく手を振って、十六夜の視界から姿を消していく。
十六夜は何とない会話を済ませ、渡月橋を渡り始めた。
渡月橋を渡り終える直前に保津川を眺めれば、海岸沿いにはいくつもの大木が転がっている。浜一面を覆うほどの大木だ。
そしてそれは働く男たちの手によって一纏めにされていく。やがて肩に担がれてどこかへと運ばれていった。
なかには大木を筏へと作り替え、向こう側に渡って行く者もいる。
浜には水浴びをする子供たちもいて、彼らの無邪気な笑い声が聞こえてきた。
十六夜は微笑ましさを感じながら橋の南側へと歩いていく。
彼が橋を半分ほど渡り終えた直後、前方から二人組の書生が慌てた様子で走っていった。彼らの向かっている場所は十六夜の後ろ……土産店などが建ち並ぶ橋の北側である。
「人が橋の北側で倒れてるらしいで!」
「誰や!?」
彼らの会話を耳にした人々は、ざわつきながら後を追っていった。
けれど十六夜は橋の中心で立ち止まり、興味本意で現場に群がる者たちを眺めているだけである。
顎に手を当てて「ふむ」と、呟いた。
「……いやはや。久々に外に出てみれば」
薔薇園に隠っていた彼からすれば事件という事件に遭遇すること自体、珍しさすら覚えてしまう。それでも興味というものがなかなか持てず、ただその場で北側を眺めていた。
ふと、見覚えのある若い男性二人がこちらへと歩いてくる。
よく見れば、先ほどの書生たちだった。けれど一人は顔を青ざめてしまっている。
「うう……まさか死体やったなんて。気持ち悪う……」
今にも倒れてしまうほどの顔色の悪さをし、連れたって歩く書生に支えられていた。
よろめきながら歩いてくる者を支えるは彼に「大丈夫か!?」と、心配の声をかけている。
二人はそのまま十六夜の横を通りすぎ、橋の南側へと消えていった。
「おやおや、これは……」
書生二人の背中が見えなくなると、十六夜の表情は豹変。端麗な姿は妖しき艶を放つ。
「Diddorol iawn──」
騒がしくなる橋の北側を眺めた。
──美事が始まる。
十六夜はこれこそが求めていたものであり、もっとも恐れていたことだなのだと胸踊らせた。
彼女を町で見かける度、違う男を連れて歩いていた。
好きか嫌いかよりも、ただたんに浮気性なだけ。そんな性質だったため、恋人の誰かが彼女を隠したのではないかという噂話が広まっていた。
十六夜は長い銀髪を耳にかけると、噂話の真意を婦人に問う。
けれど婦人は噂話としてしか知らない様子。首を振って「これ以上の事はわからへんなあ」と、表情に不安な色を浮かべた。
「なるほど。私が薔薇園に引きこもっていた数日間でそんな事があったんですね?」
「先生、薔薇に夢中になるんはええけど……そのまま閉じ籠っちゃうんは悪い癖やで? 美子ちゃんに苦労かけたらあかんよ?」
「……そう、ですね。善処します。それよりもここは本当に静かですね。心が落ち着きます」
嵐山で起きている事件に興味を持ちつつも、十六夜は自身が歩いた道を振り替える。
狸と仔猫が通ってきた細道とは違い、人力車が通れるほどの広さはあった。表の広い道のような活気はないが、情緒があり、穏やかで静かな景色である。
これを見た十六夜の頬は緩く綻びかけた。けれどそれは一瞬のことで、彼は人当たりのよい笑みを婦人に向けてその場を後にする。
田んぼのある地区を抜けると一転。静けさはなくなり、人々の話し声で溢れ返っていた。
整備されていない砂を敷き詰めた道路には、人力車や屋根のない車が通っている。
その道路の中央には、笹の葉が植えられている置物が等間隔で縦に並んでいた。
大きな道路を挟んだ両脇には、合掌造りの家屋が建ち並んでいた。
キョウトの名産である八つ橋をはじめ、茶葉専門店から砂糖菓子。呉服はもちろん、洋装までもを揃えた専門店が何軒も連なっていた。
専門店の屋根や柱には登戸が設置されている。けれどあまりにも数が多く、隣接する店に被ってしまっていた。
その土産屋に立ち寄る人々の姿は様々だ。
青や黒色の袴を着ている若き書生たち。花柄の模様が美しい銘仙着物に、【クロッシェ帽子】と呼ばれるツバのない帽子を被る女性たち。そして……
「私、大学卒業したら谷城様のところへ嫁ぎますの」
「まあ! それは本当!? いいわねー。私なんて土産屋の三男坊よ?」
おほほと、裏の笑顔を滲ませながら語らう矢絣袴姿の女学生たちが歩いていた。彼女らは互いの婚約者に対して愚痴を溢してはいるが、瞳には穏やかさすら感じられない。
十六夜は心の中で女の争いを恐れ、巻き込まれないようにと彼女たちから離れた場所に移動した。
人混みを抜けて到着したのは嵐山の大橋、渡月橋である。
橋の下には幾つのも丸太があり、それを組み立てている人々がいた。
その近くには、番傘作りをしている子供もいる。汚れた和服を腕まくりし、汗を流しながら作業を行っていた。
まるで己が子供であるということを忘れているかのような、そんな働きぶりである。
けれど十六夜は目に見える貧困の差に、さして興味を持つことはなかった。
今度は川へと視線を向け、時おり垣間見れる波紋に目をやった。川の表面は太陽の光を受け美しく輝いている。砂浜には多くの松の木が伸び、鳥たちが枝で体を休めていた。
反対側から橋を渡ってくる人々の中には、袴に編み上げ長靴を着た女性が数人いる。彼女たちは全員自転車を漕ぎ、どこかへと去っていった。
橋を渡る直前の道の横には人力車が並び、客待ちをしていた。その従業員たちは書生とは違い、ほどよい筋肉がついている。人を乗せた車を引くため、相応の筋力が必要であった。
「──おーい! 十六夜君~!」
十六夜が人力車を眺めていると、人混みの中から声をかけてきた者がいる。
黒髪は七三わけになっており、ぼさぼさとしていた。
切れ長の目に、ほっそりとした頬。あまり栄養を取っていないのか、どことなく顔色が悪く見える。
首には、太極図の模様がついた白い巻き布をしていた。袴の上から黒の外套で身を包んでおり、書生風ななりをしている。
靴の代わりに履いている高下駄は動く度に砂を蹴っていた。
そんな者の手には大きな旅行鞄がある。
「久しぶりさね。元気にしてただわさ?」
「──芥川さん。お久しぶりですね」
芥川と呼ばれた者に気さくに話しかけられると、十六夜は握手を求めた。芥川は表情を緩めながら握り返してくる。
「芥川さんこそ。どうしてキョウトに?」
「ふむ。新しい作品の取材旅行でさあ」
十六夜が握っている、芥川と名乗る人物の手はゴツゴツとしていた。
彼の骨太な声は思いの外よく通る。人混みの中であっても、不思議と耳に届いてきた。
「俺ゃ、芥川龍之介だわさ。期待に応えるのが仕事だわさ」
「……そう、ですか。頑張っているんですね?」
「まあね。おっと! 時間がないだわさ。それじゃあ、まただわさー!」
芥川は大きく手を振って、十六夜の視界から姿を消していく。
十六夜は何とない会話を済ませ、渡月橋を渡り始めた。
渡月橋を渡り終える直前に保津川を眺めれば、海岸沿いにはいくつもの大木が転がっている。浜一面を覆うほどの大木だ。
そしてそれは働く男たちの手によって一纏めにされていく。やがて肩に担がれてどこかへと運ばれていった。
なかには大木を筏へと作り替え、向こう側に渡って行く者もいる。
浜には水浴びをする子供たちもいて、彼らの無邪気な笑い声が聞こえてきた。
十六夜は微笑ましさを感じながら橋の南側へと歩いていく。
彼が橋を半分ほど渡り終えた直後、前方から二人組の書生が慌てた様子で走っていった。彼らの向かっている場所は十六夜の後ろ……土産店などが建ち並ぶ橋の北側である。
「人が橋の北側で倒れてるらしいで!」
「誰や!?」
彼らの会話を耳にした人々は、ざわつきながら後を追っていった。
けれど十六夜は橋の中心で立ち止まり、興味本意で現場に群がる者たちを眺めているだけである。
顎に手を当てて「ふむ」と、呟いた。
「……いやはや。久々に外に出てみれば」
薔薇園に隠っていた彼からすれば事件という事件に遭遇すること自体、珍しさすら覚えてしまう。それでも興味というものがなかなか持てず、ただその場で北側を眺めていた。
ふと、見覚えのある若い男性二人がこちらへと歩いてくる。
よく見れば、先ほどの書生たちだった。けれど一人は顔を青ざめてしまっている。
「うう……まさか死体やったなんて。気持ち悪う……」
今にも倒れてしまうほどの顔色の悪さをし、連れたって歩く書生に支えられていた。
よろめきながら歩いてくる者を支えるは彼に「大丈夫か!?」と、心配の声をかけている。
二人はそのまま十六夜の横を通りすぎ、橋の南側へと消えていった。
「おやおや、これは……」
書生二人の背中が見えなくなると、十六夜の表情は豹変。端麗な姿は妖しき艶を放つ。
「Diddorol iawn──」
騒がしくなる橋の北側を眺めた。
──美事が始まる。
十六夜はこれこそが求めていたものであり、もっとも恐れていたことだなのだと胸踊らせた。