【呪い】という言葉が九等警部の身を震わせた。
心配した部下に声をかけられるまで硬直。ハッとしたかと思えば青ざめた表情で電話を切ってしまった。
「け、九等警部!? 電話、切っちゃってよかったんですか!?」
「…………だ」
「え?」
部下が顔をのぞいてくる。すると彼は苛立ちをぶつけんばかりに部下の顔面を力いっぱい締めつけた。ミシミシと軋む音と、部下の悲鳴が屯所内に響いていく。
九等警部は部下の顔から手を離し、不機嫌を顕にした。
「今の電話の内容は信用できるかすらわからん。真面目な話をしていたかと思えば、突然呪いだの何だのとぬかしてきおって……!」
彼の奮闘をよそに、屯所内は一気にざわつく。
ふと、九等警部は他者が何に驚いているのかわからず、ただ不思議がった。
「な、何なんだ? お前たち!?」
情けない者を見る眼差しだけが九等を突き刺す。
いたたまれなくなった彼はたじろぎ、強く溜め息を吐いた。
「言いたい事があるなら、はっきり言え!」
部下の頬をつねって、苛立ちを顕にする。
「いだだだっ! き、九等警部! 痛いですよ!」
「俺にはこの無言の空気の方が刺さるわ!」
部下の必死の訴えも虚しく、彼は必要以上に頬をつねった。やがてそれすら飽き、手を離して近くにあった椅子へと腰かける。
「……冗談抜きで言え。呪いというのは何だ!? 何より、その言葉に異常なまでに反応するのはなぜだ!?」
自らの心を落ち着かせるために吐いた呼吸が、周囲に緊張感を走らせた。
左肘を机の上に置き、空いた手のひらに顎を乗せる。そんな何気ない行動ですら、今のこの場所では注目を集めてしまっていた。
九等警部は呪いをそこまで重要視する理由を知りたいと、再度口にする。
「──九等警部。この町の呪いというのは、噂では済まされないんです」
よくやく口を開いた部下が苦言した。
昔からある妖怪などの類い。それらは人間が作り出した空想とさえ言われている。
毎年、行方不明者や原因不明な死を遂げる者もおり、それすら呪いの頬と噂する者もいた。
「まさか貴様……羅卒でありながら噂や、ありもしないものを信じているのではあるまいな!?」
部下の言葉からすると、呪いを信じている風に聞こえる。
もちろん信じる信じないは人それぞれだが、彼らは法を守り現実を求める羅卒であった。けれど……
「呆れてものも言えんな」
まさか羅卒までもが、幻影に踊らされているとは思っていなかった。
彼はこれ以上話しても無駄だと悟り、さっさとこの場から離れようと腰をあげる。
「ま、待ってください! 我々だってあなたと同じで現実を見ています!」
部下は去ろうとする彼を引き留め、真剣な面持ちになっていった。
九等警部の前に立ち、半ば無理やり椅子に座らせる。
「九等警部がここに来る前……今から二年ほど前の事です。夜になった瞬間、嵐山全体が黒い霧に包まれました」
部下の喉仏が唾を飲み込むのを見て、九等警部は能面な表情で聞き入った。
「その霧は嵐山全体を包む。町の外から見た者たちによれば、薔薇の形をしていたそうです」
部下は、半べそをかきながらも必死に言葉を探す。
「そしてその霧は、嵐山の中から触れた者の精神を狂わせてしまいます。我々はこれをこう呼んでいます」
部下を見れば、両手は膝の上で丸められている。生まれたての小鹿としか思えぬほどに震えていた。
九等警部は不安になり、部下の表情に意識を持っていく。すると部下は必死に唇を噛み締めていた。
「──黒死病、と」
部下の顔色は悪く、今にも倒れてしまい兼ねないほどの冷や汗を流している。
見かねた九等警部はハンカチィフを部下に渡した。
「……何とも、信じがたい病名だな」
天井を仰ぎ見た後に部下の顔を横目に確認。
顔色の悪さは健在だが、それでも言葉はハッキリとしている。意識だけは何としても保っていようという現れなのか。
九等警部は彼に対してあっぱれと思う反面、呪い等に流されるのは羅卒としては失格だと感じていた。
羅卒という仕事をしている以上、夜とて外に出向かなければならない。呪いという言葉を信じ、救える命を見捨てるなどということはあってはならなかった。
まさかそれすらも忘れ、くだらない噂話を鵜呑みにしろとでも言うのか。
九等警部は口には出さずとも、眉に苦言を浮かべた。
それに対して部下の者も、他の羅卒たちは沈黙を続けている。
「九等警部の言いたい事は、何となくですがわかります。でも我々が言いたいのは……」
「九等警部!」
──その時、他の羅卒が慌てて彼を呼びに現れた。
「何事だ!?」
「あ、あの。それが、お客様が来てまして……」
声をかけてきた羅卒が九等警部に何かを伝える。耳元で囁いては、ちらり。またちらりと、屯所の玄関口を斜め見していた。
九等警部は落ち着きのない羅卒を叱咤。ぶつくさと愚痴ごちりながら玄関口へと向かう。
「まったく! 屯所なのだから一般人ぐらい来るだろ……う……に……」
玄関口まで進んだ瞬間、彼は硬直してしまった。
九等警部の目には、この場には相応しくない者たちが映っていたらからだ。
それは銀と金。二種の髪を持つ、美しい男女であった──
突如、屯所に現れた見慣れぬ二人組。
一人は銀の髪。黒の上衣に身を包んだ長身の秀麗な外見をした者。
九等警部が現場で目撃した、不思議な雰囲気に包まれた怪しき存在。
そしてもう一人。
彼の隣に張りつきながら幼い少女が居座っていた。
金糸雀色の髪は肩にも届かぬほどに短い。頭の上には深緋色の大きな飾紐を乗せている。
右目は海に染まった蒼。左目は甘い蜂蜜という、十六夜とは左右逆の色合いをしていた。
白絹の肌をした頬に太陽の光が当たり、よりいっそう色を失って見える。
服は女学生の着る袴にも似てはいるが上は濃い桃色。下は青色の袴にも見えるが足が露出していてるなど、少しだけ変わった格好をしていた。
どちらも人形めいた見目をし、そこに立っているだけで空気が変わる。
日の國の民とは髪色はもちろん、顔だちなどからしても九等警部たちとは明らかに異なっていた。
二人に注目している九等警部が「貴殿、どこかで……」と呟きを入れても、十六夜は我関せずに話を始める。
「お話、宜しいでしょうか?」
十六夜が彼の戸惑いを無視し、隣にいる少女の頭に触れた。すると少女は頬を赤らめる。
兄妹の微笑ましいやり取りが少しだけ続くと、十六夜は少女から離れて九等警部の前まで進む。
九等警部よりも頭一つ分ほど高い身長の十六夜は、爽やかな笑みで彼を見下ろした。
「な、何だね、君たちは!?」
「通りすがりの異國人ですよ。それよりもお話がありますので、聞いて頂けないでしょうか?」
自由人な十六夜は彼を無視。隣にいる少女の背中を軽く押しては頷くだけだった。
少女が不安な眼差しで見上げてくる。無言で訴えかけられるが、彼は少女の背中を押すばかり。
「兄様、厳しい……」
少女の表情筋は仕事をしておらず、無表情のままだった。
それでも十六夜が後押しをし続けると、少女は少しだけ前に出る。
九等警部の前まで歩き、大きな瞳で黙視した。
「な、何だ……?」
さしもの九等警部も幼き少女相手では強く出れずにいる。たじろいでは、おずおずとしていた。
「……せっかく、手がかり教えてあげてたのに。切るなんて酷い」
言うほど怒ってはいないのか、少女の表情は変わってはいない。
「こらこら美子。彼らは信憑性の薄い言葉を鵜呑みにできないんだ。そこは察してあげなさい」
「むー! 兄様が言うなら……」
十六夜は言葉足らずな少女を美子と呼び、彼女を背に隠す。
すると今度は十六夜と九等警部が立ち合いを始めた。十六夜の方が背が高いため、どうしても見下す形になってしまう。
十六夜は申し訳ないといった様子で苦笑いした。
「……妹が失礼を致しました。私は【十六夜】。この子は美子と言います」
その釈は丁寧。
むしろ、お手本となりうる会釈になっている。
彼の外見も相まって、この場にいる羅卒たちは魅入ってしまった。誰もが十六夜の神秘的な空気に頬を赤らめてしまう。
けれど九等警部だけは慌てて首を振って自我を取り戻した。両頬を強く叩き、強く咳払い。
「……君らはもしや、外国の貴族かね?」
「少し違いますが、そう思ってくれても構いません」
十六夜の含みがある物言いに、九等警部はしかめ面だ。
それでも十六夜は会話を続ける。
「話を戻しましょう。先ほど妹が口にした事は、電話を途中で切られたのが原因です」
「電話? はて? 俺は幼子から電話など受けてはおら……っ!? まさか……!?」
九等警部に熱い視線を送られた十六夜は無言で微笑んだ。
九等警部は引きつった笑みをし、脱力しながら二人を奥の休憩室へと案内する。
「──で? 君たちは何を知っているんだね?」
三人は机を挟んだ長椅子に腰掛け、互いに見合っていた。
十六夜と美子の二人。彼らと向かい合うのは九等警部だ。
「そう、ですね。初めに申し上げておきますが、私と妹では分野が違います」
「分野?」
細かなことを語らず、十六夜は要点だけを伝えた。
もちろん九等警部は納得いくわけもなく、意味がわからんと言って足を組む。
「ええ。私も、そして妹も、どちらも欠けてはならない存在。それが故に、不完全な欠陥品なんです」
十六夜は寂しげに口を開く。すると隣に座っている美子が彼の右手をギュッと握ってきた。
美子は下を向いているので表情まではわからない。けれど不安な気持ちになっているのは間違いなく、少しだけ手が震えていた。
十六夜は空いている左手を彼女の頭まで伸ばし、優しく撫でる。
「私と妹では、見えている物が違うんです」
美子の頭から手を離し、己の心臓の元へと腕を伸ばす。普段と変わらぬ鼓動が聞こえていた。
「──自ら呪いを撒き、そして自ら呪いを食らう。それが私たちなんです」
人の心を見通しかねない眼差しを持って、九等警部へと発話した。
九等警部は、彼らの物語を黙って聞く術しか持ち合わせていなかった。
権力の中にいたとて、普通の人間には変わりないからだ。
机の上に置かれた湯呑み茶碗から湯気がたつ。そして九等警部が、その湯呑み茶碗に手を伸ばした──
「私と妹は、それぞれ相手にできる存在が異なります」
──刹那、九等警部の意識は十六夜へと向かう。
十六夜は美子に黙視だけで何かを伝えた。それを受け取った彼女は無表情で頷く。
「私は生者を。そしてこの子は死者の声を聞く。それが私たち兄妹なんです」
十六夜が真剣な面持ちで語った。
けれど九等警部には意味が通じていないのか、彼は眉間を摘まんでは唸っている。
「……あー。すまん。もっと簡潔に頼む。よくわからんのでね」
お茶を飲み終えた九等警部は、ふうっと肩で一息ついている。
十六夜は「ですよね」とだけ言うと、顎に手を当てて天井を仰ぐ。
「……では、こうしましょう。妹の話を聞いてからにしませんか?」
「何?」
椅子の背もたれにふんぞり返りながら、十六夜は自信ありげな態度をとった。
向かい側にいる九等警部に目線を送る。けれど九等警部はそっぽを向いてしまうだけだった。
「この子の話を聞いていく過程で、必ず先程の疑問にぶつかります。それと一緒にお話して行こうかと思います。宜しいですね?」
発言からは、九等警部の意見は受け付けないと言わんばかりな傲慢さが垣間見れる。
九等警部の目が丸くなっていくのがわかった。
けれど彼の返事を待たずして美子に耳打ち。彼女は表情筋を動かすことなく、袖の中から紙を取り出した。
それを机の上に広げていく。
九等警部は何だと首を傾げながら紙を凝視していた。
「これは?」
九等警部が尋ねれば、十六夜は紙を軽く叩く。
「先程、妹が電話で伝えた事です。図におこしておきました」
十六夜に言われ、九等警部の意識は紙へと向けられた。
そこに描かれていたのは、犯人らしき人物が楽し気に犯行している現場そのものである。それが三枠に分かれており、描かれている一つ一つの行動が違っていた。
なかにはがに股になって、カニ歩きしているものもある。それらには若干茶目っ気があった。
「一つ一つ、説明していきましょう。まずはこれです」
彼の長い指が示したのは、紙の一番上にある絵だ。
犯人とおぼしき人物は黒く塗り潰されている。右手には鎌を。左手には紐らしき物を持っていた。
その隣には首のない着物姿の人間がいる。
「ここで問題になるのが死亡推定時刻。遺体の腐敗が始まっていたと聞きます。殺されてから一日から二日はたっている筈です」
「た、確かにそうだが……しかしそれは羅卒関係者しか知らぬ事! なぜ貴殿がそ……」
九等警部による怒涛の質問を、十六夜は左手を出すことで制止。九等警部がグッと言葉を飲みこんだのを確認すると、説明を再開させた。
「これはあなたの為でもあるんです」
紙に描かれている犯人を指差し、今度は自身の下唇を触る。
けれどこの仕草自体、彼にとっては演術の一つでしかなかった。
頭の固い……ある意味では羅卒らしさの塊である九等警部。彼の心を意のままに操ること。それさえできれば今後もやりやすくなると考えた。
「ここで手柄をたてれば、あなたはもっと上へ登れる。その為にも、私たちの話を聞いておいた方がいい」
「な、何!?」
十六夜の言葉を聞いたとたん、九等警部の目は輝いていく。身を乗り出し、首を長くして十六夜の話に興味を示した。
「あなたの目標とする三等警部……安倍さんの鼻をへし折ってやろうではありませんか」
眉唾物な話ではあるが、今の九等警部には効く。
十六夜にはそんな確信があった。案の定、九等警部はまんまと彼の術中にはまり、手柄を取ることに執着し始めていく。
十六夜の隣でそれを目撃していた美子からは「兄様、相変わらずやり口が酷い」という、呟きが聞こえてきた。しかし彼は、誉めなのか貶しなのかわからないそれを聞いて微笑するだけである。
「日頃お高く止まっている彼の鼻を明かす! そしてあなたは優越感に浸れる! 私たちの話を聞けば、それだけの利益が出るんです」
三等警部である安倍という人物を知っている口振りではあった。けれど九等警部がそれすらも聞き流してしまうほど、彼の提案は理想そのものと化す。
「……いいだろう。ふはは! あの若造が膝をつく日を夢見て、早三年。鼻っ先を折ってやるわ!」
玩具を前にして喜ぶ子供のごとき目の輝きを垣間見せた。
彼が警戒心を忘れて欲に走り出しているのを確認した十六夜は、心の中でほくそ笑む。
「交渉成立ですね。それでは事件を始めから準えていきましょう」
「え? あ、ああ。そうだったな。しかし始めからと言うのは……」
「簡単に伝えます。あの遺体は、首を切断される前には死んでいたんです」
九等警部が口を挟む暇すら与えず、十六夜は淡々と結果だけを伝えていく。
「直接の死因は、首の切断によるものではないという事だけは伝えておきます」
「何!? どういう事だ!?」
十六夜は羅卒ですら知り得ない事柄を放ち、九等警部を驚かせた。
「遺体を直接見たあなたならお分かりになると思いますが、体のどこかに鮮赤色になっていた死斑がありませんでしたか?」
「……確かに首の辺りにはそんな色の死斑があったが」
十六夜に問われ、九等警部はその通りだと返す。
「あの色は、一酸化炭素中毒を表しています。おそらく、中毒死させた後に首を切断したのでしょう」
論陣を張る様は、さながら軍師そのもの。
まるで見てきたかのごとき言葉を放ち、淡々と答えていく。
十六夜は次から次へと、九等警部の質問に間を置くことなく述べていった。
「本当なら、死斑よりも目で判断したいところですが……なにぶん、首から上がありませんでしたからね」
判断基準には入れることができないのだと、出されたお茶を飲みながら愚痴を垂らす。
その意見には九等警部も同一の様子。静かに頷いていた。
「角膜の混濁だな?」
「ええ、その通りです。あれは死亡して十二時間以上たつと発生する、目の異常とも言えます」
死亡すると栄養が体に通らなくなり、乾燥が始まる。その乾燥具合で死亡時刻を割り出すのが【角膜混濁】と言われていた。
透き通っていた状態から、徐々に不透明へと変化。
目の開閉具合によって乾く時間はかなり変わる。天候などの自然の力の影響も受けやすく、絶対というものではなかった。
「四八時間以上たつと角膜の濁りが酷くなり、見えなくなります。それがわかるようでしたら、もっと明確な推定時刻を割り出せた筈です」
「……そこは仕方あるまいて。貴殿も知っての通り、首なしなのだから」
「ええ。ですから、今回は角膜ではなく、死斑の方で当たりをつけました」
十六夜は机の上に置いてある紙を何度か叩く。
「……さて。無い物ねだりはこのぐらいで良いでしょう」
紙から視線を離し、今度は隣に座る妹へと手を伸ばした。
美子のふわふわとした髪を撫でる。彼女は頬を赤らめ、目元を緩ませた。
「死因は一酸化炭素中毒。これについては、先程申し上げた通りです」
十六夜は垂れていた銀の髪を耳にかけ、九等警部の表情をのぞき見る。
九等警部は両腕と足を組み、椅子に深く座っていた。その表情は険しいけれど、黙々と話を聞く姿勢に見える。
十六夜は彼が話の続きを聞くつもりがあると確信し、紙へと指を走らせた。
「美子。ここから先はお前が言いなさい」
全ての説明を自分が言うのではなく、美子がやる。
それこそ意味があるのだからと、美子を軽く説得した。すると美子は戸惑った様子で目を泳がせてしまう。
「私とお前では分野が違う。それの説明も兼ねているからね。ここからはお前がやる方が説得力あると思うよ?」
「……うっ!」
美子は痛いところを突かれ、絶句してしまった。それでも十六夜は厳しい態度で彼女を机に向かせる。
「美子。このままだと彼は納得してくれないよ? それに……」
美子から九等警部へと目線を移す。突然凝視された九等警部は「何だ?」と、疑問を投げつけてきた。
「いえ。特に深い意味はありません。ただ……」
「ただ、何だ?」
九等警部から発せられる声は、不信感を乗せてしまっている。
彼の心情に気づいた十六夜は苦々しく笑った。
「このままでは私だけでなく、妹も前に進めませんので……」
意味深な発言だけを残し、嘘で塗り固めた笑みだけを浮かべる。
「……ま、まあ、何だ。話を続けたまえ」
話が何度も脱線をしていることに気づいたのか、九等警部は苦く笑っている。
十六夜は彼の広い心根に感謝し、のっぺりとした顔で語った。
「さあ、美子」
「……うん」
十六夜に誘われ、美子はおずおずと口を開く。
机の上にある紙。そこに描かれたものを見つめ、ぼそぼそと言問うた。
『突然後ろから抱きつかれて、抵抗すらできなかったって言ってる。そのままどこかの小屋に運ばれて、窓とかを全部閉じられた』
美子が両目を閉じる。すると彼女の髪の毛は風も吹いていないのに、ふわふわと動き出したではないか。
口から漏れる吐息は存外冷たいのか、唇は紫に変色していく。
それでも瞑想し、しばらくしてから目を開けた。
『──苦しくて寒い。痛い、止めて!』
ふと、放たれる声は美子のそれではなかった。
彼女の声音よりも高くはあるが艶はない。雅は感じられぬが、憂いはあった。
『どうしてこんな事をするの!? 恋を一人占めしないで欲しいだけなのに……! ああ……もう、息が……』
次の瞬間、美子はうっと小さな悲鳴を吐く。青ざめた顔色で隣にいる十六夜へと凭れかかり、苦し気に呼吸をしていた。
十六夜は「ご苦労様」と、彼女の頭を撫でる。
「……え?」
不思議な光景を見た九等警部は、開いた口が塞がらない状態だ。放心しながら、金魚のごとく口をパクパクさせている。
十六夜はそんな彼に向かって、悔語しながら述べていった。
「この子は神子の血を濃く受け継いでいます。そのせいなのか、さ迷っている魂の声が聞こえたりもします」
どこからが真実で嘘なのか。それすらわからなくさせてしまうほどの光景を見せた。
けれど十六夜はそれでもまだ足りぬと、妖艶な笑みを浮上させて欲を出す。
「私と美子が不完全である理由の一つはこれです」
混乱してしまっている九等警部を、言葉巧みに自身の内側へと引き釣りこんでいく。
案の定、九等警部は興味深く二人を観察していた。
これも全て十六夜の手の内。
知らぬ間に術中に収まっていく九等警部を哀れに思う反面、操りやすくもあるが、とても危険な存在として十六夜の脳に刻みこまれた。
犯人は女を背後から襲った。そして抵抗できぬ女を密閉した部屋に連れ込み、一酸化炭素中毒死させてしまう。
なぜ、こんなことをするのか。誰がやったのか。
残念ながら美子にはそこから先は見えず、これ以上は無理とだけ呟いてお茶を一気飲みした。
「ぼくが見えるのは、その人が亡くなるまで。その人が見ていない……見えなかった事はわからない」
自身をぼくと呼ぶ風変わりな美子は、額に流れる汗を袖で拭う。
十六夜が彼女のその行動を止めてハンカチィフを渡した。
「美子。何度も言っているだろう? 君は女の子なんだから、ぼくではなく私と言いなさ……」
「兄様に言われても説得力ない」
「うっ!」
十六夜は自身の人称を【私】としている。
中性的な外見が相まって、私と言っても違和感すらない。持たれることすらなく、そのまま自然に受け入れられてしまうだけだった。
痛いところを突かれた十六夜は人称について黙認する。
軽く咳払いをし、真正面へ向き直った。
「九等警部さん。この子の能力は、ここでは余り強く発揮できないようです」
机の上にある紙を手に取り、綺麗に折り畳む。そのまま上衣の内ポケットにしまい、ゆっくりと立ち上がった。
隣に座る美子を見下ろし、彼女に手を差し伸べる。
「ここでは死者の魂の声は聞こえにくい。雑音が多すぎますから」
どこにでもない場所へ瞳を走らせた。
九等警部が「雑音?」とだけ聞き返すと、十六夜は部屋の出入り口に向かって歩み出す。
木製の引き戸に手を伸ばし、頷きながら扉を開いた。
「……人の声、吐息。車の音など。自然とは違う音は、死者にとって邪魔でしかありません。この屯所自体、人は寄り付くのを嫌う場所だと思うのですが?」
凍り付く笑みで遠回しな物言いをする。
美子を手招きし、九等警部には冷めた瞳だけを送った。
「寺や神社といった場所もそうですが、死者は魂の姿であっても、本能的に嫌がる場所というものがあります」
「それが、この屯所である。そう、言いたいのかね?」
彼の言葉を聞くと十六夜は秀麗で、かつ、薄氷の表情を浮かべる。
九等警部がそれに反発せんと、ひと睨みしてきた。けれど十六夜の前では彼の抵抗は赤子そのもの。
微笑み続ける十六夜には効果すらない。
さしもの九等警部は臍を噛むしかなく、肩を大きく上下させて負けを認めてしまった。
「ふふ。それでは、ここよりももっと声が聞こえる場所へ行きましょうか」
九等警部の心を意のままに操作しながらの会話は、茶番としか言いようがなかった。
表向きは普通に語っている。けれど内では九等警部を言葉巧みに先導。
九等警部は羅卒といえど、所詮は人間。心理的な部分は他の者となんら変わらなかった。
事件の解決は羅卒としては当たり前。されど、手詰まりな上に、手がかりとなりうる物が飛び込んできた。
嘘か本当か。それすらも九等警部にはわかり兼ねる状態ではあった。それでもここまで話が進んでいったのはなぜか──
──十六夜自身が、九等警部の好む言葉を選んだ結果であった。
十六夜は深層で彼を哀れに思いながら、感情を殺した笑みだけを九等警部に向けていく。
「まずは渡月橋の向こう側……橋の南側へと向かいましょう」
表面上だけ取り繕った残笑は、更に九等警部へ水を向けていった。
十六夜の術中にはまった九等警部が腰を上げれば、美しい兄妹は部屋の外へと一歩前進する。
「あちら側は土産物店が並んでいて、観光客が多い北側とは違います」
廊下に出ると、地図を頭の中に思い浮かべながら淡々と語った。
「南側にも土産物屋はありますが、北側ほど賑わってはおりません」
「確かに北と南では異なってはいるが……対して変わらんのではないか?」
十六夜が南側に固執する理由が知りたいと、九等警部に迫られる。
「そうですね。ですがご存知の通り、ここは幾つもの村が合併してできた場所です。噂では、十年後ぐらいにはキョウトに吸収されてしまうとも言われています」
開発地区でもある嵐山は、手付かずな場所が多く残っていた。南側もその一つで、そちらには誰も住んでいない家がいくつもあった。
「また妹の力が必要にはなりますが、とりあえずは……」
屯所の外に出ると、そこは細々とした住宅街だ。
道は車一台通れるかどうかの狭さ。人はあまり歩いてはおらず、土産物店はない。
あるのは古くから建てられている蕎麦屋と茶屋だけだった。
「あの茶屋で休みましょう。そこでいろいろと情報交換と行きましょうか?」
「──は?」
まさかの休憩に、九等警部の目はひっくり返ってしまう。
けれど十六夜は自由人のまま、茶屋へと足を運んでいった。
屯所から出てすぐ近くにある茶屋で一休みしよう。
そう提案した本人である十六夜は、茶屋に着くなり早々に姿を消してしまった。
残ったのは彼の妹と、羅卒の九等警部だけである。
「……」
中心となって会話をしていた十六夜が消えた途端、美子は黙々と団子を食した。
団子の甘さに頬を緩めたかと思えば、今度は抹茶の苦さに眉を曲げる。
「……あー。美味いかね?」
九等警部が困った様子で尋ねれば、美子は甘味を頬張りながら頷いた。
「君のお兄さんはどこに行ったんだね?」
「……多分、電話しに行ったんだと思う」
美子がもぐもぐと口を動かす様は、さながら小動物。その見目め相まって、周囲からの視線を浴びてしまっていた。
それでも彼女は黙々と甘味を平らげていく。
「……ねえ」
静かに食器を置き、九等警部と目を合わせた。
「ん? 何だね?」
「多分後で兄様からも質問があると思うけど、容疑者って浮上してるの?」
感情の見えぬ瞳で九等警部を射抜く。子供でありながら他者を追い詰める視線は、兄である十六夜とそっくりであった。
美子はそれすらも当たり前とした態度で、彼を瞳に捉える。
「──ああ、いる」
九等警部は観念したのか、嘆息だけを吐き捨てた。
それを聞いた美子はピクリと眉を動かす。
水の入っていない洋杯に目をやり、給仕の娘を捕まえて水を足せと要求。そしてお品書きにある甘味を、余すことなく注文していった。
「死体の身元すらわかっていないのに?」
美子が鋭い指摘をすれば、九等警部は無言で頷く。
洋杯の中にある氷がカラン。
他の客たちのお喋りすらも、今の二人には空気ですらなかった。それほどまでに纏う空間が平穏とは程遠いものの証しでもあった。
美子は茶屋の出入口に、ふっと視線を流す。けれどそこには最愛の兄の姿はなく、ただ、嵐山の日常だけが映し出されていた。
「……確かに、身元不明のままだ。部下たちが懸命に捜索してくれてはいるが、何分顔がない。だがな?」
張り詰めた空気が一転。九等警部がしたり顔になる。
「我々羅卒を甘く見ないでいただこうか。人間関係等の、目に見える物を探すのはお手の物だ」
覚えておきたまえと、鼻高らかにふんぞり帰っていた。
美子は彼の態度に業を煮やさすことなく、無表情のまま水を飲む。
若干、眉がひくついてはいる。けれど兄のためと言い聞かせ、黙って彼の話を聞くことにした。
「おっと。話が反れてしまったな。すまん、すまん」
九等警部が謝罪するのを確認すると、美子はそっぽを向く。
「遺体については鋭意捜索中だが、容疑者については三人浮上している」
右手の指を三にし、美子に見せた。
美子は彼の説明を静かに聞くことを選び、じっと指を目で追う。
「一人は渡し船の従業員。名は【結城 佐之助】。この男は客からの評判が悪く、素行にも問題がある」
それと殺人を犯すまでの経緯まではまだ掴めてはいない。ただ問題のある人物だけという理由で浮上したのだと、愚痴ごちる。
「二人目は人力車の従業員。名は【牧村 修三】この男は一人目とは正反対の性格でな。品行方正というのか……悪い噂すらない」
それでも容疑者として浮上するからにはそれなりの理由があるのだと、自信なさげに説明をした。
曖昧な感じになってしまっている答えに、美子は口を尖らせていく。
けれど好奇心の方が勝っているのか、彼女は最後の容疑者の情報を要求した。
「三人目はトウキョウから来たと言っている中年の男。名は【久川 雄助】。俺はこの三人目が怪しいと思っている」
「……? 何で?」
今までの彼は、自分の勘を優先しなかった。それなのに突然三人目では勘を頼るなど、美子からすれば違和感にしかなっていない。
彼女は小首を傾げ「どうしてそう思うの?」と、口を開きかけた──
「二人共。お待たせしてしまったようで……申し訳ありません」
──その直後、どこかへと行っていた十六夜が戻ってきた。
彼は重たい空気を放つ二人のいる席へ平然と近づき、美子の隣へと座る。
美子がどこへ行っていたのかと尋ねれば、彼は……
「九等警部。遺体の身元が判明しました」
美子の質問には答えず、己が取得した情報だけを提示していった。
九等警部は驚きながら立ち上がる。
「予想していた通り、遺体は──」
垂れてくる髪を耳にかけ、細長い指を唇に添えた。その一つ一つの仕草が様になっていて、給仕の娘や他の客までもが魅入ってしまう。
けれど十六夜はその視線に馴れたら様子で淡々と答えを出していった。
「──行方不明になっていた、染め物屋の娘でしたよ」