仕事に戻った尚生は、予想していたよりも大量の業務と事件に振り回されたが、毎日のように紗綾樺にメールで連絡を入れるようにしていた。
最初のうち、返事が来ないことに尚生は落胆していたが、一週間を過ぎたころから短い返事が紗綾樺から届くようになった。
職務上、仕事の内容を説明できないこともあり、尚生から送るメール自体『今日も仕事で遅くなり、逢いにいかれそうもありません』というような定型文なのだから、紗綾樺から帰ってくるメールが『お仕事頑張ってください』という定型文であることに文句を言える筋合いではない。
だいたい、一方的に告白を押し付け、会う約束を取り付けておきながら、一週間経っても仕事が落ち着かず、虐めのように他県との合同捜査に送り出され、週末も昼も夜もない勤務のせいで、やっとの休日も体力の限界で布団に倒れこんで起きたら休みが終わっていたという、笑えない生活を送った後、ようやく尚生が紗綾樺と会う休みを取れたのは、事件が解決して一ヶ月経った土曜日の事だった。
さんざん、事後報告を連発した尚生だったが、今回は念には念を入れて、宗嗣にデートの事前申請、許可をとりつけての久々のデートだった。
ただ、これはあくまでも尚生の感覚であり、紗綾樺にとってこれが久々のデートになるのかどうか、尚生は不安でたまらなかった。
メールのやり取り、短い電話での会話で、一度でも紗綾樺から逢いたいという言葉も、寂しいという言葉も聞いたことはなく、常に『逢いたい』と『寂しい』を連呼するのは尚生の方だった。
約束の時間に紗綾樺を迎えに行くと、紗綾樺は既に階段の下に降りて尚生の事を待っていてくれた。
短い秋が駆け足で通り過ぎ、冬の気配で街が満たされていた。
「風邪をひいたらどうするんですか!」
驚いた尚生が言うと、紗綾樺は鉛色の空から視線を尚生の方に下ろした。
「この辺は、雪が降らないんですよね」
一向に車に乗ろうとしない紗綾樺に、尚生は車から降りて助手席のドアーを開けた。
「どうぞ」
尚生に促され、紗綾樺は助手席に乗り込んだ。
「今日は、ドライブして、映画を見て、食事をする予定です」
事前に宗嗣に申請した通りのデート予定を説明すると、紗綾樺はくすぐったそうに微笑んだ。
「お兄ちゃんから、そう聞いてます」
「そういえば、紗綾樺さん、占いの館、続けてるって宗嗣さんに聞きました」
車を走らせながら、尚生は紗綾樺が自分では教えてくれない近況を宗嗣から聞いていたので、その事を話題にした。
「てっきり、占いの館は閉めてしまうのかと思っていました」
実際、宮部が捜査協力の依頼をしてから、紗綾樺は数週間にわたり仕事を休んでいたので、仕事にもどるとは宗嗣も思っていなかったようだった。
「毎日じゃないんです。沢山の人に会うのは疲れるので、何日かだけ、鑑る人も並んだ順じゃなくて、私が選んでみるようにしたんです」
「それって、つまり・・・・・・」
「本当に助けが必要な人だけってことです。ただ、誰かに話を聞いてもらいたい人は、他の占いの人に割引で占いしてもらえるようにしたので、他の占い師さんにも好評なんです」
「考えたのは、宗嗣さんですね?」
「はい」
そこで会話が途絶え、尚生は窓の外を見つめる紗綾樺を気遣いながら車を進めた。
「どこか、行きたいところがありますか?」
尚生の問いに、紗綾樺が振り向いた。
「海が見たいです」
紗綾樺の言葉に、尚生はドキリとした。
海は紗綾樺にとって、恐怖の対象でしかないと思っていたし、宗嗣に言われている過去の記憶にも結び付きそうな危険な場所に当たる。
「ずっと続く海が見たいです」
紗綾樺の言葉に、尚生は仕方なく行き先を鎌倉に変更した。
週末ではなく平日なので、激しい渋滞はないだろうと祈りながら、首都高を乗り継ぎ横浜横須賀道路を朝比奈で降り、鎌倉の山を越えて由比ヶ浜を目指した。
もともと、ランチはドライブしながら行き当たりばったりの予定だったので、由比ヶ浜近くのハワイアンのバーガーチェーン店で分厚いパテとアボガドにチーズの入ったバーガーを二人で頬張り、タピオカ入りの甘さ控えめのアイスティーを飲んだ。
食後、どうしても海に行きたいという紗綾樺の願いを断り切れず、尚生は由比ヶ浜地下駐車場に車を停め、二人で海岸を散策した。
「かわいそう・・・・・・」
砂を踏みしめ、歩いていた紗綾樺が呟いた。
「ここの砂浜は、夏の疲れが癒えていなくて、疲れたままなんだわ」
紗綾樺は言うと、遠く広がる水平線を見つめた。
寄せては引く、規則的な波の音、砂の上に水の通った後が濃いグレーで曲線が描かれては薄まり、新たに描かれていく。
「怖くないですか?」
紗綾樺の体が震えているようで、尚生は心配になって距離を縮めた。
一ヶ月ぶりの再会と、前回の別れ際の会話のせいで、紗綾樺を抱きしめられるほどの距離まで尚生が近づくのは今日初めての事だった。
手を伸ばして抱きしめようとした瞬間に紗綾樺に逃げられるのではないかという不安が尚生の心を重くする。
「やっぱり、海は風がつよいですね。少し寒いです」
紗綾樺の言葉に、尚生は紗綾樺の後ろに立つと、自分の着ているトレンチコートの中に紗綾樺をすっぽりと包み込んだ。
コートで風が遮られ、尚生のぬくもりが紗綾樺の体を包む。
「尚生さんって、呼んでも良いですか?」
「もちろんです。ここで、宮部さんって呼ばれたら、がっくり膝をついちゃいますよ」
尚生は冗談めかして答えた。
「尚生さんのいない生活は、つまらなかったです」
紗綾樺らしい表現に、尚生は声もなく笑った。
きっと、普通の女の子ならば、『寂しい』とか『逢いたかった』という表現をする感情が紗綾樺の中に芽生えているのだろうが、まだ今の紗綾樺に表現できるのは、本来居るはずの尚生がいないことによって、自分の生活のメリハリがなくなったという、直接的な表現が『つまらない』なのだと、尚生には理解することができた。
「僕は、紗綾樺さんの声が聴けなくて寂しくて、逢いたくて逢いたくて、逢えなくて悲しかったですよ」
尚生は、何度も文字にした言葉を伝えた。
「私、これからも尚生さんの傍に居ても良いんですか?」
「僕は、紗綾樺さんに傍に居てもらいたいんです」
尚生の言葉に、紗綾樺は答えなかった。
「紗綾樺さん、心から愛しています」
尚生の言葉を聞いた紗綾樺がゆっくりと尚生の方を振り向いた。
ほんの少し腕に力を入れるだけで、尚生には紗綾樺を抱きしめることができる。
紗綾樺の大きな瞳が尚生の瞳を見つめ、尚生は腕に力を込めて紗綾樺を抱きしめた。
待ちわびたこの瞬間に、尚生には紗綾樺の唇を塞ぐ決心はできている。あと一押し、紗綾樺が尚生への気持ちを告白してさえくれれば。二人がどんな形で会っても、相思相愛であることが確かめられれば、尚生の独りよがりではないという確信かが持てたなら、それはとても自然な行為になる。
情熱の籠った紗綾樺の視線を受け、尚生の男の本能が紗綾樺と次のステップに進むことを切望している。だが、紗綾樺からの承諾を意味する言葉がない限り、それは単なる暴力に終わってしまう事を尚生は良く知っている。
「尚生さん」
紗綾樺に名前を呼ばれ、尚生はゴクリ息を飲みこむ。
「私、分かったんです。私にとって、尚生さんは特別な存在だって」
紗綾樺は言いながら、コートの下で尚生の体に自分の腕を回した。
『紗綾樺さんは、僕にとって、もうずっと特別な存在です』と、ダメ押しで想いを伝えるべきか悩んだが、尚生は敢えて黙って紗綾樺の言葉を待つことにした。
「尚生さんが好きです。だから・・・・・・。だから、これからも私のお友達でいてください」
ドラム缶で殴られたような衝撃が尚生の頭を襲い、尚生は一瞬、眩暈に襲われた。
「お兄ちゃんに言われたんです。自分の気持ちは、ちゃんと尚生さんに伝えないといけないって。私、尚生さんが好きです。だから、これからも、ずっとずっとお友達でいてください」
まっすぐな紗綾樺の瞳に嘘はなかった。今の紗綾樺には、宗嗣が言っていたように、『恋』や『愛』という感情の区別はなく、『好き』であることが全てなのだと尚生は理解した。そして、それが『好き』である限り、成熟した大人の女性の体の中に入っている紗綾樺の心は、たぶん記憶を失くした当時の高校生か、それよりも幼いままなのだと。
いつか、紗綾樺が『愛』を理解できる時まで待とうと、尚生はぎゅっと紗綾樺を抱きしめながら決心した。
「僕は、ずっと紗綾樺さんの友達です。だから、ずっと僕の傍に居てください。紗綾樺さんが傍に居てくれれば、僕はそれで幸せですから」
尚生の言葉に、紗綾樺は『はい』と短く答えた。
最初のうち、返事が来ないことに尚生は落胆していたが、一週間を過ぎたころから短い返事が紗綾樺から届くようになった。
職務上、仕事の内容を説明できないこともあり、尚生から送るメール自体『今日も仕事で遅くなり、逢いにいかれそうもありません』というような定型文なのだから、紗綾樺から帰ってくるメールが『お仕事頑張ってください』という定型文であることに文句を言える筋合いではない。
だいたい、一方的に告白を押し付け、会う約束を取り付けておきながら、一週間経っても仕事が落ち着かず、虐めのように他県との合同捜査に送り出され、週末も昼も夜もない勤務のせいで、やっとの休日も体力の限界で布団に倒れこんで起きたら休みが終わっていたという、笑えない生活を送った後、ようやく尚生が紗綾樺と会う休みを取れたのは、事件が解決して一ヶ月経った土曜日の事だった。
さんざん、事後報告を連発した尚生だったが、今回は念には念を入れて、宗嗣にデートの事前申請、許可をとりつけての久々のデートだった。
ただ、これはあくまでも尚生の感覚であり、紗綾樺にとってこれが久々のデートになるのかどうか、尚生は不安でたまらなかった。
メールのやり取り、短い電話での会話で、一度でも紗綾樺から逢いたいという言葉も、寂しいという言葉も聞いたことはなく、常に『逢いたい』と『寂しい』を連呼するのは尚生の方だった。
約束の時間に紗綾樺を迎えに行くと、紗綾樺は既に階段の下に降りて尚生の事を待っていてくれた。
短い秋が駆け足で通り過ぎ、冬の気配で街が満たされていた。
「風邪をひいたらどうするんですか!」
驚いた尚生が言うと、紗綾樺は鉛色の空から視線を尚生の方に下ろした。
「この辺は、雪が降らないんですよね」
一向に車に乗ろうとしない紗綾樺に、尚生は車から降りて助手席のドアーを開けた。
「どうぞ」
尚生に促され、紗綾樺は助手席に乗り込んだ。
「今日は、ドライブして、映画を見て、食事をする予定です」
事前に宗嗣に申請した通りのデート予定を説明すると、紗綾樺はくすぐったそうに微笑んだ。
「お兄ちゃんから、そう聞いてます」
「そういえば、紗綾樺さん、占いの館、続けてるって宗嗣さんに聞きました」
車を走らせながら、尚生は紗綾樺が自分では教えてくれない近況を宗嗣から聞いていたので、その事を話題にした。
「てっきり、占いの館は閉めてしまうのかと思っていました」
実際、宮部が捜査協力の依頼をしてから、紗綾樺は数週間にわたり仕事を休んでいたので、仕事にもどるとは宗嗣も思っていなかったようだった。
「毎日じゃないんです。沢山の人に会うのは疲れるので、何日かだけ、鑑る人も並んだ順じゃなくて、私が選んでみるようにしたんです」
「それって、つまり・・・・・・」
「本当に助けが必要な人だけってことです。ただ、誰かに話を聞いてもらいたい人は、他の占いの人に割引で占いしてもらえるようにしたので、他の占い師さんにも好評なんです」
「考えたのは、宗嗣さんですね?」
「はい」
そこで会話が途絶え、尚生は窓の外を見つめる紗綾樺を気遣いながら車を進めた。
「どこか、行きたいところがありますか?」
尚生の問いに、紗綾樺が振り向いた。
「海が見たいです」
紗綾樺の言葉に、尚生はドキリとした。
海は紗綾樺にとって、恐怖の対象でしかないと思っていたし、宗嗣に言われている過去の記憶にも結び付きそうな危険な場所に当たる。
「ずっと続く海が見たいです」
紗綾樺の言葉に、尚生は仕方なく行き先を鎌倉に変更した。
週末ではなく平日なので、激しい渋滞はないだろうと祈りながら、首都高を乗り継ぎ横浜横須賀道路を朝比奈で降り、鎌倉の山を越えて由比ヶ浜を目指した。
もともと、ランチはドライブしながら行き当たりばったりの予定だったので、由比ヶ浜近くのハワイアンのバーガーチェーン店で分厚いパテとアボガドにチーズの入ったバーガーを二人で頬張り、タピオカ入りの甘さ控えめのアイスティーを飲んだ。
食後、どうしても海に行きたいという紗綾樺の願いを断り切れず、尚生は由比ヶ浜地下駐車場に車を停め、二人で海岸を散策した。
「かわいそう・・・・・・」
砂を踏みしめ、歩いていた紗綾樺が呟いた。
「ここの砂浜は、夏の疲れが癒えていなくて、疲れたままなんだわ」
紗綾樺は言うと、遠く広がる水平線を見つめた。
寄せては引く、規則的な波の音、砂の上に水の通った後が濃いグレーで曲線が描かれては薄まり、新たに描かれていく。
「怖くないですか?」
紗綾樺の体が震えているようで、尚生は心配になって距離を縮めた。
一ヶ月ぶりの再会と、前回の別れ際の会話のせいで、紗綾樺を抱きしめられるほどの距離まで尚生が近づくのは今日初めての事だった。
手を伸ばして抱きしめようとした瞬間に紗綾樺に逃げられるのではないかという不安が尚生の心を重くする。
「やっぱり、海は風がつよいですね。少し寒いです」
紗綾樺の言葉に、尚生は紗綾樺の後ろに立つと、自分の着ているトレンチコートの中に紗綾樺をすっぽりと包み込んだ。
コートで風が遮られ、尚生のぬくもりが紗綾樺の体を包む。
「尚生さんって、呼んでも良いですか?」
「もちろんです。ここで、宮部さんって呼ばれたら、がっくり膝をついちゃいますよ」
尚生は冗談めかして答えた。
「尚生さんのいない生活は、つまらなかったです」
紗綾樺らしい表現に、尚生は声もなく笑った。
きっと、普通の女の子ならば、『寂しい』とか『逢いたかった』という表現をする感情が紗綾樺の中に芽生えているのだろうが、まだ今の紗綾樺に表現できるのは、本来居るはずの尚生がいないことによって、自分の生活のメリハリがなくなったという、直接的な表現が『つまらない』なのだと、尚生には理解することができた。
「僕は、紗綾樺さんの声が聴けなくて寂しくて、逢いたくて逢いたくて、逢えなくて悲しかったですよ」
尚生は、何度も文字にした言葉を伝えた。
「私、これからも尚生さんの傍に居ても良いんですか?」
「僕は、紗綾樺さんに傍に居てもらいたいんです」
尚生の言葉に、紗綾樺は答えなかった。
「紗綾樺さん、心から愛しています」
尚生の言葉を聞いた紗綾樺がゆっくりと尚生の方を振り向いた。
ほんの少し腕に力を入れるだけで、尚生には紗綾樺を抱きしめることができる。
紗綾樺の大きな瞳が尚生の瞳を見つめ、尚生は腕に力を込めて紗綾樺を抱きしめた。
待ちわびたこの瞬間に、尚生には紗綾樺の唇を塞ぐ決心はできている。あと一押し、紗綾樺が尚生への気持ちを告白してさえくれれば。二人がどんな形で会っても、相思相愛であることが確かめられれば、尚生の独りよがりではないという確信かが持てたなら、それはとても自然な行為になる。
情熱の籠った紗綾樺の視線を受け、尚生の男の本能が紗綾樺と次のステップに進むことを切望している。だが、紗綾樺からの承諾を意味する言葉がない限り、それは単なる暴力に終わってしまう事を尚生は良く知っている。
「尚生さん」
紗綾樺に名前を呼ばれ、尚生はゴクリ息を飲みこむ。
「私、分かったんです。私にとって、尚生さんは特別な存在だって」
紗綾樺は言いながら、コートの下で尚生の体に自分の腕を回した。
『紗綾樺さんは、僕にとって、もうずっと特別な存在です』と、ダメ押しで想いを伝えるべきか悩んだが、尚生は敢えて黙って紗綾樺の言葉を待つことにした。
「尚生さんが好きです。だから・・・・・・。だから、これからも私のお友達でいてください」
ドラム缶で殴られたような衝撃が尚生の頭を襲い、尚生は一瞬、眩暈に襲われた。
「お兄ちゃんに言われたんです。自分の気持ちは、ちゃんと尚生さんに伝えないといけないって。私、尚生さんが好きです。だから、これからも、ずっとずっとお友達でいてください」
まっすぐな紗綾樺の瞳に嘘はなかった。今の紗綾樺には、宗嗣が言っていたように、『恋』や『愛』という感情の区別はなく、『好き』であることが全てなのだと尚生は理解した。そして、それが『好き』である限り、成熟した大人の女性の体の中に入っている紗綾樺の心は、たぶん記憶を失くした当時の高校生か、それよりも幼いままなのだと。
いつか、紗綾樺が『愛』を理解できる時まで待とうと、尚生はぎゅっと紗綾樺を抱きしめながら決心した。
「僕は、ずっと紗綾樺さんの友達です。だから、ずっと僕の傍に居てください。紗綾樺さんが傍に居てくれれば、僕はそれで幸せですから」
尚生の言葉に、紗綾樺は『はい』と短く答えた。