変わり果てた両親の姿に絶句しながらも、俺は妹に見せられない様な姿でなかったことにほっとしていた。弱いくせに、強がるあいつの事だ、どんな姿であっても、両親の最後の姿を見たいと言う事はわかっていた。だから、せめて妹に見せられない姿になっていないことだけを祈っていた。既に、警察で死亡が確認されている以上、それ以上に望めることは何もなかった。
俺達と別れた後、両親はしばらく旧交を温めたが、明日も仕事や学校があることを気に掛ける母に促され帰路についたらしい。警察の説明によれば、赤信号で停止していた父の車に違法薬物を使用した青年の運転する車がほぼ真横から突っ込み、両親の車は道路から押し出される形で河原に転落した。
ぶつかってきた青年の車は、猛烈なスビートで道路を逆送した上、カーブでハンドル操作を誤り、中央分離帯を飛び越えるようにして突っ込んだらしい。それでも、犯人は車を乗り捨てて笑いながら逃走を試みたが、すぐに駆け付けた警察官に身柄を確保された。両親は追突、転落の衝撃で頸椎、脊椎と内臓を激しく損傷し、駆けつけた救急隊が車の中から救出した時には心肺停止状態で、病院で死亡宣告を受けた。ほぼ即死だったらしい。苦しまなかったのが、せめてもの救いだった。
俺が帰宅すると、妹は捨てられた子猫のように体を丸めて布団の上に座っていた。
「置いて行って悪かった。さびしかっただろう。葬儀屋さんにも連絡してあるから、明日、お前もお別れを言えるから心配しなくていい」
俺が言うと、妹はしゃくりあげながら無言で頷いた。
「さっきも倒れたんだ。俺がそばにいるから、寝た方が良い」
俺の言葉に、妹は何度か頷いて見せ、そのまま布団に潜り込んだ。その肩が震え、妹が俺に心配をかけまいと、必死に涙を堪えながら泣いているのが分かった。
「声を出して泣いていいんだ。我慢なんて、する必要ない」
次の瞬間、妹は起き上がると俺の胸に飛び込んで声をあげて泣き始めた。そして、涙が枯れ、疲れて眠りに落ちてしまうまで、ずっと泣き続けた。俺はこの時、何があっても妹を守り続けると決心した。両親が居ないと妹が後ろ指を指されることがないように、両親の代わりに自分が妹を守りぬくのだと、心に誓った。
両親の葬儀は、完全に葬儀屋任せの葬儀屋主導で進められた。一人っ子同士の両親には兄弟がなく、祖父母も両方とも妹がまだ小さいころに他界したので、俺自身、葬儀というものがどうあるべきなのかよく分からなかった事もある。妹は憔悴していて、俺がついている必要があったから、葬儀の方は完全に任せるほかなかった。
事故の状況から、警察からは犯人の青年が刑事告訴されたことが知らされていた。向こうの弁護士からは何度となく連絡があり、青年の両親がお詫びに伺いたいと言われたが、俺は断り続けた。
子供のしでかした事に親が責任を感じるのは普通かもしれないが、両親を死に追いやった本人以外から謝罪を受けても何の意味もないとしか俺には思えなかった。
幸い、近所付き合いのよかった両親のおかげで、ご近所からの支援を受けられ、通夜も告別式も、まるで人ごとのように進んでいった。仰々しくない節度のあるお花がたくさん届けられ、しまいには両親の寝室は足の踏み場もないくらい花で埋め尽くされた。白とブルーを基調とした花々が、寂しさと悲しみのために整えられたことを無言で伝えていた。
相手の親からも当然花が届いたが、あまりに仰々しすぎて場にそぐわないからと、俺は妹の目に入る前にそれを花屋に持ち帰って貰った。
火葬場の煙突から天に昇っていく煙を見つめながら、俺はやつれた妹の肩をしっかりと抱きしめた。
こうして、俺たちは両親を失った。
「まだ、ここで鑑定されてたんですね」
片づけをしていた私は、聞き覚えのある声に手を止めて振り向いた。
「占って戴いたおかげで、仕事は順調です」
笑顔で言う男に、私は目を細めて『今日の営業は終了しました』という表情を浮かべて見せた。
「あれ、自分の事覚えていませんか?」
寂しげに言う男に、私は背を向けながら『私に嘘をつくような人は知りません』と答えた。
敢えて言うなら、この男は本当に理解不能だ。わざわざ私に鑑定を依頼して『昇進の話を受けるべきかアドバイスが欲しい』と言いながら、嘘の会社名と部署名を並べて占わせた。たぶん、私の能力が偽物だと思っているのだろう。
でも、私はこの男が務めているのが警察だという事も知っているし、昇進して移動が予定されている部署が営業戦略本部ではなく、強行犯係であることも知っている。そして、今言った『仕事も順調』というのも大嘘で、まだニュースになっていない誘拐事件の捜査で行き詰っていることも見えている。
「そんな、嘘だなんて・・・・・・」
男は傷ついたというような表情を浮かべて、頭を掻いた。
「夕飯、ご馳走してください」
私は向き直ると、男の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「給料日前だから、手ごろなお店でよければ」
男は微笑みながら言った。
まったく、この男は本当に嘘つきだ。本当は、給料日前なんじゃなく『公務員の給料は安いから』と言いたいくせに。
「お店はお任せします」
私は言うと、隣近所の同業者に挨拶を済ませた。
「じゃあ・・・・・・」
言いかけて口をつぐんだ男に、私は先に立って歩きながら答えた。
「大丈夫です。あなたの車に乗って、近くのファミレスに行っても問題はありません。それに、このあたりで開いているのはラーメン屋と飲み屋くらいで、夕飯にはなりません」
私はずんずんと男の車が停めてある場所まで歩いて行くと、男の車の助手席のドアーの前で立ち止まった。
さすがのことに、男は驚いて私の事を見つめた。
「これ、あなたの車でしょう? 私は運転できないから助手席。カギを開けてください。あなたにドアーを開けてくれることまでは期待していませんから」
にっこりと微笑む私に、男は慌てて車のドアロックを解除した。
男の頭の中をぐるぐると回る言葉と感情は、笑いだすのを堪えるのが大変なほど面白かった。
ファミレスに入ると、私は禁煙の窓側の席にしてくれるように頼んだ。
レストランのフロアーの真ん中は、意識の集中が難しくなることがあるので、出来るだけ壁か窓の近くを選ぶようにしていた。
メニューを広げながら、私は意地悪く『ファミレスでもメニューを全部制覇すると、すごい金額になるんですよ』と笑みを浮かべながら言った。
「まさか、メニュー制覇なんて、しますか?」
不安げな男の言葉と表情と考えが初めてすべて一致した。
「私と会ってから、初めて本当の事を言いましたね」
私が言うと、男は動揺をかくそうとしたが、パチパチと素早く繰り返される瞬きが、男の動揺を伝えていた。
「私は、オニオングラタンスープと、クラブハウスサンドイッチにします。あなたは、コーヒーだけでしょ」
私は男の答えを待たずに手元のボタンを押した。
すぐに姿を現した女性にオーダーを伝えると、開いてもいないメニューを男から奪って女性に返した。
「えっと。お名前はなんでしたっけ」
私の問いかけに、『田村です』と男は答えた。
「あの、私、嘘つかれるの嫌いなんです。だから、いい加減にしてもらえますか?」
ここまで言っても、男はとぼけてごまかそうとしていた。
「これ以上、嘘をつくなら、あなたとお話しすることはなにもありません。宮部巡査部長」
私の言葉に、男は驚いたようだったが、少し顔をひきつらせただけで、それ以上の動揺は見せなかった。さすがに、強行犯係の警察官だ。
「私の仕事をご存知ですよね? だから、嘘は嫌いです。あなたが営業戦略本部への移動じゃなく、強行犯係への移動に悩んでいたのは、女手一つであなたを育ててくれたお母さんを心配させたくないから。それと、さっきの仕事がうまくいっているというのも嘘で、あなたは捜査に行き詰っている」
とうとう観念したのか、宮部は懐から警察手帳を取り出すと私に見せてくれた。
「改めまして、宮部といいます」
「天から生まれた目と書いて天生目です」
「それって、えっと芸名じゃなくて、ペンネームみたいなものですよね?」
宮部は、さんざん私に嘘をついていたことを棚上げして、警察官だと名乗ったのをいいことに、人のプライバシーにズカズカと踏み込んできた。
「残念でした。私の仕事は本当の事を伝えることで、あなたみたいに嘘をつくのが仕事ではありません」
さすがに言葉がきつすぎたのか、宮部は少し傷ついた表情を浮かべた。
「ほんとうに、一度も嘘をついたことがないんですか?」
一々、宮部の言う事は癇に障る。
「わかりません。私は、その時に見えたことを伝えます。でも、その人の選択によって、未来が変わらないとは言えません。もし、私に見えない何か些細な選択がバタフライ効果を起こしてその人の未来を変えてしまったら、結果的には嘘をついたと思われるかもしれません。でも、私が見た時の本当の事しか、私は伝えられません」
澱むことなく、流れる水のように私は答えた。
「プライベートでも?」
そんな私に、宮部はさらに食い下がってきた。
「それなら、今晩、嘘をつくことになると思います。兄が、私がだれと一緒だったかと訊いた時に、宮部巡査部長と一緒だったとは伝えたくないので」
訊いてから、宮部も失礼なことを聞いたと思ったのだろう。素直に心の中で後悔し始めたので、私が取り繕うとしたところにコーヒーとスープが運ばれてきた。
「いただきます」
ひと声かけてから、私はスープに口をつけた。溶けたチーズがおいしくて、思わず笑顔になってしまう。その瞬間、宮部の心に『可愛い』という言葉が浮かんだ。気に入らない相手でも、褒められれば嫌な気はしないし、それに、本当に気に入らなかったら、私はここに座ってはいないはずだと思いながら、スープを制覇した。
「あの日、昇進を受けても、自分はそつなく仕事をこなしていけると天生目さんは言ってくれたでしょう。本当に、今回までは、なんとかやってこれたんです」
続いて運ばれてきたサンドイッチを齧りながら、私は宮部の言葉に耳を傾けた。
「それなのに、今回は、どうにもならないんです。でも、どうにかしたくて。でも、どうしていいかもわからなくて、そんなことを考えていたら、天生目さんの事を思い出して。もう一度、天生目さんに会ったら、自分に自信が持てるようになるんじゃないかって思って。すいません、こんな晩くに」
宮部の心の中にある葛藤、困惑、そして事件の事が私の頭に流れ込んでくる。
「確かに、七歳の子供が行方不明の上、手掛かりが全くなければ、宮部さんじゃなくてもそうなりますよ」
私の言葉に、宮部の表情が硬くなった。
「わかってます。事件の事は報道されてないし、私は犯人じゃない。でも、もしかしたら、その男の子がいなくなった場所か、最後に一緒だった人からなら、その子供の事がわかるかもしれないです」
「これは、遊びじゃないんです。それに、日本の警察は超能力者や占い師に捜査協力なんて頼みません」
宮部の声は、感情のつかめない冷たく静かなものだった。
「わかってます。私は、ただ、可能性を言ってみただけです。頼まれてもいない問題に首を突っ込むつもりはありません」
私は言うと、食べるペースを速めた。
その時、恐れていた兄から電話がかかってきた。だから、携帯電話は嫌いだ。
「失礼します」
一応、宮部に断ってから電話に出る。
『なんでファミレスなんかに居るんだ?』
兄の言葉に、『そうか、とうとうお兄ちゃんも見えるようになったんだ』と、私は妙に納得した。
「いま、ちょっと人と会ってて」
『あれほど言っただろう、業務時間以外の接待やプレゼント、食事の招待を受けちゃいけないって。』
「そんなんじゃないってば。ちょっと、世間話してるだけ」
『すぐ迎えに行く。』
今にも家を出そうな兄に、私は『ちょっとまって』というと、携帯を宮部に差し出した。
「すいません、兄が心配しているので、変な人じゃないことを自分で説明してもらえます?」
ハトが豆鉄砲を食らったような表情をした後、宮部はしぶしぶ携帯を受け取った。
「もしもし、お電話代わりました」
『やっぱり、男じゃないか!』
兄の怒りに満ちた声が漏れ聞こえる。
「ご心配をおかけしております」
宮部は謝ると、よりにもよって自分の素性を兄に告げてしまった。これで、帰宅後に兄から事情聴取されることは間違いない。
「では、ご自宅までお送りいたしますので、ご心配なく。では失礼いたします」
いつのまにか、宮部は兄から住所を聞き出し、自宅まで送ると約束を取り付けてしまった。私は観念すると、一気にサンドイッチを平らげた。
「送っていきます」
私が食べ終わると、宮部は言った。
「ありがとうございます」
私は答えると、差し出された携帯電話を受け取った。
会計を済ませ、再び宮部の車に乗ると、宮部は兄から聞いた住所をナビに入力していった。
「シートベルトしましたか?」
「はい」
何の会話もないまま、私と宮部を乗せた車は夜の街を制限速度で走りながら一路兄の待つアパートへと向かった。しかし、ナビが『もうすぐ目的地です』と告げた途端、宮部が車を路肩に寄せて止めた。
「教えてください。本当に、本当に最後に居た場所や、最後に一緒だった人に会ったら、何かわかりますか?」
宮部の知りたいことは、彼が沈黙を守っている間もずっと私には届いていた。
「必ずとは言えません。でも、震災の後、なかなか見つからないご家族を探すのには沢山協力しました。それが、亡くなった方だからわかるのか、生きている方でもわかるのか、私にはよくわかりません」
私の言葉に彼は明らかに驚いていた。それは、私がプロフィールを公開していないので、震災の後に依頼を受けて現地に入ったと勘違いしての事だった。
「私、震災に遭って、兄と東京に出てきたんです」
私は先回りして、宮部の問いに答えた。
「これは、警察からの正式な依頼じゃありません。鑑定料は僕がお支払いします。それと、もし子供が見つかったとしても、天生目さんの名前は表に出ません。それでも依頼を受けてもらえますか?」
「お代はさっき戴いたので、お受けします。それから、何があっても、私の名前は出さないでください。私の素性も誰にも言わないでください」
私の言葉に、宮部はとても驚いていた。彼からすると、人は誰でも注目を集めたがり、私みたいな仕事をしている人間は、少しでも名を売りたいと思っているようだ。
「私は直接言葉を交わさなくても、距離が近ければ見えます。だから、ご家族にご紹介いただく必要はありません。でも、近くに寄れるチャンスを作ってください」
「わかりました」
「それから、私の名前、珍しい名前なので、名前で呼ばないでください」
「じゃあ、なんてお呼びしたらいいですか?」
「適当に考えてください。ニックネームとか」
「下の名前は教えてもらえないんですか?」
「紗綾樺です。糸偏に少ないという字、糸偏の綾という字、それに白樺の樺と書いて三文字で紗綾樺です」
「紗綾樺さんと呼んでもいいですか?」
「適当な呼び方が決まるまでは良いですよ。決まったら、名前で呼ぶのもやめてください」
「あの、携帯電話の番号を教えてもらえますか?」
『これじゃ、合コンだな』という彼の考えが頭に流れ込み、私は思わず笑ってしまった。
「その前に、宮部さんの下の名前教えてくださいって言いたいところですけど、さっき警察手帳にかいてあった、宮部尚生さんであってますか?」
「はい。自分の携帯電話は、ここに書いてあります」
宮部は言うと、自分の名刺を差し出した。
私は、その番号を見ながら電話をかけた。宮部のポケットの中で携帯が振動しているのがわかる。
「その番号が私の番号です」
「ありがとうございます。じゃあ、明日にでも連絡します」
そう言って再び車を走らせようとする宮部の腕を私は意識的につかんだ。瞬間、近くにいるだけでは見えなかった事件の情報が流れ込んでくる」
「あ、あの、紗綾樺さん・・・・」
明らかに、照れて困惑している宮部の声が聞こえる。
「兄には、事件に関しての依頼をしたことは黙っていてください」
私が改めて言うと、宮部は『わかりました』と言って頷いた。
宮部が再び車を走らせ、アパートの前につくまで、私は宮部から取り込んだ事件の内容を何度も反芻した。
車が止まる音が聞こえたのか、部屋から兄が飛び出してきた。
「さや!」
近所迷惑もかまわず、兄は金属製の階段をガンガンと音を響かせながら走り降りてくる。
「お兄ちゃん、近所迷惑!」
私は声を潜めながらも注意する。
何年住んでも、この住宅の密集感には慣れない。
「すいません、以前、転職の相談を親身になって聞いていただいて、本当にうまくいって、そのお礼に伺ったら、まだ夕飯を召し上がっていらっしゃらないとおっしゃったので、お誘いしてしまいました」
宮部は正確とはいいがたいが、それでも丁寧に、経緯を兄に説明した。
「刑事さんだから正直にお話ししますけど、妹には、こんな仕事はやめさせたいと思ってるんです。だから、そっとしておいてやってください」
兄は冷たく言うと、私を宮部のそばから引き寄せた。
「ご心配をおかけしました。あ、それから、GPSで居場所を調べるのは、ご本人の承諾をとってからされた方が良いですよ。兄妹とはいえ、重大なプライバシーの侵害ですから」
宮部の言葉に、兄は気まずそうに頭を掻いた。
「どういうこと? お兄ちゃんにも見えるようになったんじゃないの?」
「違うよ、スマホのGPSでさやの居場所がわかるんだよ」
この世で私が心も考えもまったく読むことができない唯一の例外である兄は、何事もなかったように言った。
「では、失礼いたします」
宮部は折り目正しく挨拶をすると、何事もなかったように帰って行った。
「大丈夫か?」
何かを察したような兄の問いに、私は極上の笑みを浮かべて見せた。
「オニオングラタンスープご馳走になっちゃった!」
「もう遅いから、寝るぞ」
あきれたような兄に促され、私は部屋に戻った。
一通り兄からの事情聴取を終え自分の布団に横になった私は、宮部から強引に入手した情報を何度も見直した。
いなくなったのは、七歳の男の子。その日は、父親と一緒に遊びに出掛け、おもちゃ売り場を見ていたはずなのに、待ち合わせ時間になっても姿が見えず、デパートの外で白っぽいワゴン車に乗ったらしい。
父親は、みつからなくなった息子を探すため、車を飛ばして帰宅。夜になり、捜索願を出す。誘拐と思われるが身代金等の要求が来ない。
確かに、これを誘拐事件として扱うには、身代金の要求がないから難しいのだろう。でも、既に数日経過して、犯人からは一切連絡がない。だとすると、誘拐ではなく、単なる失踪、いや本人が目当てであれば、犯人から身代金の請求がなくてもおかしくない。
あれこれ考えながら、私は絶対的に宮部からもらった情報だけでは足りないと確信した。そう、子供に一番近い存在、母親か父親。できれば、両方に接触したい。そうすれば、見えるはずだ、何が起こったのか。
考えているうちに、再現される記憶が揺らめき、段々に意識が遠くなっていくのを感じた。『ああ、眠りに落ちるんだ』と私は思うと同時に、いつも見る金色の狐が軽やかに野をかけていく姿を見た。
☆☆☆
帰りの道すがら、彼女に助けを求めたことが本当に正しかったのか、僕は何度も自問自答していた。たぶん、同僚に知れたら僕の頭がおかしくなったのではないかと心配されるだろう。そして、きっと刑事の激務に耐えられなかったから、地道な捜査ではなく占いなんて言う神頼み的なものに逃げたと思われるに違いない。でも、僕にはわかる、彼女は本物だ。嘘つきでも、メンタリストと呼ばれる人の行動や思考を自分の望む方向へと操るのでもない。
誰にも話、僕には刑事であることよりも、人の役に立てることが何よりも重要だった。だから、交通課であろうと、生活安全課であろうと、それこそどこでもよかった。地道に仕事を続け、日々、少しでも誰かの役に立てたらそれでいいと、そう思って仕事をしていた。その努力が認められ、強行犯係への移動を進められた時、正直これこそ悪を打ち砕く警察の本領を発揮できる部署だと思ったし、まさか自分にそんなチャンスが巡ってくるとは思っていなかったから、耳を疑って聞き返してしまったくらいだ。それでも、母一人、子一人の自分の境遇を考えると、今までよりも数十倍危険を伴う部署に異動することが母の負担になるのではないかと、不安でたまらなくなった。だから、どんな一言でも、どんな結果に終わったとしても、この一発勝負の博打のような占いが自分の背中を押してくれればいいと思って、あの列に並んだ。
他の占い師と違う長い行列に、思わず前に並んでいる女性に『当たるんですか?』と訊いてしまったくらい、僕には彼女に対する情報も信頼も先入観も何もなかった。
軽く六十歳を超えているであろう女性は、親切に『神の声』のように的確になんでも言い当てる占い師だと教えてくれた。
並んでからも、自分がバカなことをしようとしているという認識は少なからずあったので、逆に女性の言葉は『へえ、うまく商売をしているんだな』という思いを沸き立たされ、列を離れようかと何度も考えたが、列は長くなる一方で、待っても待っても順番はなかなか来なかった。そんな時、確か十時半頃だったか、小柄な女性が列の最後尾に歩み寄り『受付終了』と書かれた札を手渡していた。そんな簡単なことで本当に穏便に行くのだろうかと心配していたが、最後尾の男性が札を見せると、後からやってきた客たちはおとなしくあきらめて帰って行った。
怒りもせず、『明日は早く来よう』と言って帰っていく客たちに、僕は正直、『しつけがいいなぁ』と感心してしまったほどだ。そんな僕に、さっきの女性が『列に並べなかったからと、問題を起こしたら、二度と観てもらえないんですよ』と教えてくれた。
建物の外まで続いていた列は、次第に建物の中へと導かれ、階段をのぼり、二階にある占いエリアの隅にあるブースに端を発していた。
これでもかというほど待たされた挙句、やっと僕の順番が回ってきた。
椅子から立ち上がった女性は、何度も何度も丁寧に頭を下げてから席を離れると、僕にも『お待たせしてごめんなさいね』と一礼してから帰って行った。
「どうぞ、次の男性の方」
よく澄んだ声に呼ばれ、僕はさっきまで女性が座っていた椅子に座った。
周りの占い師の方がよっぽど占い師らしいと思えるくらい、素朴なスペースには占いに使うと思われるようなスピリチュアルなものは何一つ置いてなかった。そして、目の前に座っていたのは、さっき最終受付の札を渡しに来た若い女の子だった。
「いろいろと悩まれているようですけど、ご相談はお仕事でいいですか?」
彼女は、僕が何も言う前に訊いてきた。
ここまで来たら、もう引き下がれないと、僕は並んでいる間に考えた普通の会社にありそうな部署の名前を並べて彼女のアドバイスを求めた。
「目を閉じて、仕事の事だけを考えてください」
彼女の言葉に、僕は頭の中で『仕事、仕事、仕事、仕事・・・・・・』と繰り返した。そのとたん、彼女がクスリと笑った。
「そういう意味じゃないです。悩んでいる二つのお仕事の事を考えてくださいってことです。仕事という言葉を繰り返す必要はありません」
そう、彼女には、僕の心の声が聴こえていたとしか思えない。そして、ほんの数十秒、僕は目を閉じて強行犯係の仕事の事を考えた。
「新しいお仕事は、順調に行くでしょう。誰も悲しませるようなことにはなりません。お母様は喜んでくださるでしょう。でも、もし心配になったら、また来てください」
『たったそれだけか?』と思ったが、彼女の顔は鑑定が終わったことを物語っていた。渋々、高い鑑定料だなと思いながら支払いを済ませて帰ろうとした時、彼女が僕を呼び止めた。
「これからは、沢山靴を買う必要が出てきます。靴底ってへるもんなんですよ。だから、今日のお代はあなたには高すぎるようです」
彼女は言うと、二千円だけ取り、残りの千円札をすべて僕に返してよこした。
「次の方が待っていらっしゃるので、失礼します」
彼女は言うと、僕に出ていくように促した。
母に異動の事を話すと、母は心配するどころか、今までの努力が認められたのだと、彼女の言った通り喜んでくれた。彼女と母に背中を押され、僕は強行犯係に異動した、それから今日まで、母を悲しませるような事もなく、同僚が怪我をしても僕は無傷で今までやってきた。そう、彼女が言ったとおり、仕事は順調で、誰も悲しませることはなかった。
今回の事件はまさに、僕にとって初めての難事件だった。しかも、これを事件と言っていいかどうかもわからないくらい難問だ。どれほど調べても、七歳の男の子が一人、忽然と姿を消したのに、誘拐なのか失踪なのかもわからない。
マスコミにも緘口令を敷いているから、一般人である彼女が事件を知るはずはない。当事者家族にも、他言しないように口止めをしてある。
なのに、彼女は僕が何も話さないうちに事件の詳細を言い当てた。僕の中の彼女の能力に対する信頼は、あの一言で確信に変わった。ほんの数時間前までは『天生目』なんて妖しい名前の得体の知れない占い師だと思っていたが、それが本名で天生目 紗綾樺という名前だとわかって以来、彼女に対する興味はどんどん増してくる。
仕事のためだとはわかっているけれど、ほんの数分程度の鑑定時間ではなく、お茶をしたり、事件の話をしたりする間、彼女と一緒に過ごせると思うと、不謹慎にも鼓動が早くなっていった。
『いけない、いけない。これは仕事だ』と、自分の気持ちを正しながら、どうやって彼女を家族と引き合わせるかを考えると、どうにもいいアイデアが浮かばなかった。それに、もし自分が勝手に占い師に相談したなどという事が上に知れたら、懲戒処分になるかもしれない。それだけじゃなく、ご家族も不快に思われるかもしれない。そう思うと、自分の行動が少し軽率だったようにも思えた。
僕は車を駐車場に止めると、部屋への道々紗綾樺さんを引き合わせる方法を考えあぐねた。
しかし、どんなに考えても良い方法は浮かばず、僕は仕方がないので明日の夕方、ちょうど被害者が姿を消した場所と、車に乗り込んだという目撃証言のある場所に紗綾樺さんを案内しようと心に決めた。
翌日、約束したのだから朝一にでも連絡があるものと思っていた私は、午後になっても連絡をよこさない宮部に完全に呆れ果て、肩透かしを食らった気分だった。
まったく、昨夜はあんなに強引に話を進め、子供の事を心配していたのに、なんて薄情な男だと思いながら、私は仕事に出かける支度をした。
でも、考えてみたら、仕事とはいえ、結局は赤の他人の子供だ。しかも、ただの失踪か誘拐かもわからない状態で、他にも沢山事件を抱えた警察官が一々気を配るには、些細すぎることなのかもしれない。でも、もしそうだとしたら、なぜ宮部はわざわざ私を訪ねてきたりしたんだろう。事件にばかり集中していて、宮部の真の気持ちを読み忘れていた私は、そんなことを考えながら、兄が喜ぶ少し乙女の入った可愛い服に袖を通した。
私がこの仕事を始めて以来、兄とはすれ違いが多い。基本的に夕方の五時ごろに家を出て、仕事を始めるのが六時くらいの私と、朝の九時からの仕事に間に合うように家を出る兄とでは、なかなか一緒に過ごす時間もないのだけれど、兄は私が帰ってくるまで寝ずにまっていてくれるので、シンデレラよろしく午前零時まで休みなく働くと、帰りはタクシーを使うことにしている。もちろん、贅沢すぎるから、終電で帰れるようにしたいとは思っているのだけれど、締め切り時間前に並ばれてしまうと、視終わるまで仕事を終わりに出来ないのが辛いところで、全員の鑑定を終えると、タクシーで帰ることになる。それでも、気分が乗らない日はお休みだし、決して大変な仕事ではない。だから、私なりには頑張っているつもりでも、兄からは『まともじゃない仕事』と呼ばれている。たぶん、兄は私がスーツを着て朝九時から夕方六時までの会社勤めをしたら安心して喜んでくれるのだろう。でも、自分で自分がわからない私に、同じ人とずっとかかわり続ける仕事が務まるのか、自分でもわからない。
いざ、家を出るぞと立ち上がろうとした瞬間、私の携帯電話が鳴り始めた。
それは、宮部からだった。
『すいません、連絡が遅くなって。』
宮部は名乗らずにいきなり謝った。
「昨日のお話なら、お断りします」
私は不愉快さに流されて、断りを入れた。
『すいません、日中は忙しくて、ご連絡ができなかったんです。出来たら、これから最後に目撃されたデパート前までご一緒していただけないですか?』
あまりにも勝手な物言いに、私はかなり気分を害していた。
「すいません、もう仕事に出る時間なんです」
本当は、いつ休んでも文句は言われない仕事だ。事実、気分が乗らない日は休むことが多いし、ある程度の時間行かないと、お隣さんが親切に『お休み』の看板も出してくれる。でも、そんなことを宮部に教える気もなければ、義理もない。。
『お仕事前の忙しいところにすいません。ほんの少しの時間でいいんです。見ていただいたら、お送りしますし、帰りも仕事の後にお送りします。』
タクシーに乗らずに帰れるのはありがたいが、二日も同じ男性に送って貰ったら、兄の反応の方が怖い。
『ほんの数分でもいいんです。お願いします。』
ここまで下手にでられると、断る私の方が悪いことをしているように感じてしまう。
「わかりました。じゃあ・・・・・・」
『えっと、あと五分で迎えに行きます。』
宮部の言葉に驚いた私は、仕方なく『わかりました』と答えた。
宮部は、ぴったり五分後にアパートの前に車を停めた。遅れてきたら、仕事に出てしまおうかと思ったのに、仕事柄か、そういうところはしっかりしているらしい。
「お待たせしました」
笑顔で迎えられ、その緊張感のなさに少しまた宮部という男に失望したものの、約束なので促されるまま助手席に乗り込んだ。
「今日は、お時間を作っていただきありがとうございます」
私が車に乗り込むと、宮部の表情は一転した。
「では、最後に目撃された場所にご案内します」
宮部は言うと、車を走らせた。
都内の田舎的場所にある家から都心までは、そう遠くない。とはいえ、電車とは異なり、車となると、それなりの時間はかかる。
特に話すこともないので、私はゆっくりと宮部の心と頭の中を眺めた。
昨夜はなかったのに、生意気に隠し事をしまう金庫を心の中に作っている。確かに、誰だって人に知られたくないことはある。だから、私に読まれないように隠し事をしまえるようになったからと言って、それを責めるつもりはない。だって、隠し事をできるようにすること言うことは、私の力を疑っていないという証拠でもあるからだ。
一応、朝から事件の情報は見直してきたらしく、昨夜は見えなかった情報が見えるようになっている。
白い車に男の子は一人で乗った。目撃者は何人もいない。でも、その車は父親の車じゃないし、第一日本を走っている車のほとんどは白かグレー、シルバー、どれも夕暮れには同じような色に見える。これが赤や緑だったら話は違うけど。子供の父親の車は二番目に多い黒か。確かに、警察泣かせね。でも、子供に近い人に会わないと、子供の事がよく見えない。母親か、父親か、近所の人でもいいか。七才なら、小学校に行ってる。学校の友達や先生、誰でもいい。本人の事を知っている人のそばに行かれれば。
「車に酔われましたか?」
宮部の声に、私の思考が止まる。
「大丈夫です。崇君の事を考えていただけです」
私が答えた瞬間、宮部の顔が驚愕に変わり、彼は躊躇しながらもコンビニの駐車場に車を停めた。
「飲み物、いかがですか?」
「じゃあ、温かいお茶をお願いします」
宮部が態度を硬化させた理由はわかっている。まだ宮部は『七歳の男の子』としか言っていないのに、私がうっかり宮部の中から見つけた『崇』という名前を口にしてしまったからだ。
いつもはもっと警戒しているのに、なぜか宮部を相手にするとハードルが自然と下がってしまう。彼が絶対に私の力を信じているとわかっているからかもしれないけれど、それはとても危険なことだと私は知っている。やりすぎれば、人は恐怖から私の事を『化け物』呼ばわりし、虐げようと、貶めようとするものだと、私は知っている。そして、それは兄にも被害をもたらすのだと。
良かれと思って参加したボランティアでの活動が原因で、私も兄も故郷を追われ、この人の坩堝、誰が何をしていようと誰も気にしない街まで流れてきたのだ。ここならば、私の力を疎むのではなく、お金を払って歓迎してくれる人がいるから。でも、それは、やりすぎなければの話だ。
今私は、再び兄と私の生活を危険に曝そうとしているのかもしれない。あの時、軽い気持ちでボランティアに参加した結果が、今の生活となったように。
お茶を買った宮部は、戻ってくると丁寧にペットボトルのふたを開けてからボトルを私に手渡してくれた。しかし、その行動にも思考にも躊躇と恐怖がある。
一口、また一口と、ペットボトルに口をつける。
「紗綾樺さんは、誰から崇君の名前を聞いたんですか?」
訊くべきか、訊かずにおくか、しばらく悩んでから宮部は問いかけてきた。
「宮部さんの中に崇君という名前が見えたので、そう思ったんですけど、違いましたか?」
私は今まで通りの話し方で答えた。
「聞いてください。これはマスコミにも何も発表していない。警察も誘拐か判断ができずにいるデリケートな事件です。もし紗綾樺さんが被害者の名前を知っているとしたら、この犯罪に関係していると疑われても仕方がない状況です。そのリスクをわかってください」
宮部の動揺も困惑も、そして悩みも私には言葉にしなくてもわかっている。
「もし、悩んでいるのなら、ここで降ろしてください。私は、このまま仕事に行きます。そして、このことには一切かかわりません。でも、もし宮部さんが、崇君が白い車に乗るところを目撃された場所に私を連れていくなら、どんな形であれ、この事件が解決するまで私に手伝わせてください」
五分以上、宮部は無言で考え続けた。それも器用なことに、すべての悩みは新しくあつらえたばかりの金庫の中でだ。つまり何か私には読まれたくないことを考えているという事だ。たぶん、本人は気づいていないけれど、彼の生き物としての本能が彼の中に私に読まれたくないことを考える金庫を作り出して、その中ですべてを考えようとしている。
それを感じながら、さすがに宮部は警察官で、都会の人間なんだと私は思った。私たちの郷里では、みんなオープンで、だからこそ、私は耐えられなくなった。人々が私を奇異の目で見つめ、心の中で悪し様に『化け物』と呼ぶことに。そして、心を病んでいく私を心配した兄は、郷里を離れる決心をした。
決心というとある意味大げさだ。私たちが去る時には、既に家も、家財も何もなく、それこそ、仕事も何もかも失った後だ。これ以上失うものなど、お互い以外に何もなかった。
「早くいかないと、お仕事に送れちゃいますね」
宮部の言葉に、私は彼が私とチームを組むことを諦めたのだと思った。
「目撃された場所は、銀座のデパートの近くです。たまたま窓の汚れを見つけて拭いていた店員が、崇君が白いバンに乗り込むのを見たんです。店員曰く、窓を汚した男の子かと思って観ていたが、両親らしき大人が居なかったので、人違いだと気付いたと。それと同時に、なんとなく不自然に感じたので、記憶していたそうです」
「そのお店は、何のお店ですか?」
「高級アクセサリーです」
「じゃあ、宮部さん、私達、婚約しましょう」
☆☆☆
「じゃあ、宮部さん、私達、婚約しましょう」
紗綾樺さんの言葉に、僕の心臓は飛び出しそうになった。
もしかして、実は紗綾樺さんに再会してから、自分が事件の事をダシにして、紗綾樺さんに会えるなんて、邪なことを考えていたことを知られての当てつけなのか、考えても答えが出ないことだけど、ドキドキと高鳴る鼓動を抑えるのは難しく、口を開いたら声が震えそうだった。
「男女が二人で夕方宝石店を訪ねて怪しまれないのは、婚約指輪を買うというのが一番な気がします」
続いた彼女の言葉に、僕は奈落に突き落とされた。
これが、僕の心を読んだ彼女の作為的な罠だったのか、それとも、単に天然なのか、僕にはわからなかったが、それでも捜査のためとは言え、それも言葉の上だけとは言え、一時でも彼女と婚約できると思うと、僕の心は弾まずにはいられなかった。
どうしよう、もし、本当に婚約指輪を買ってしまったら、彼女はどうするんだろうなんて考えながらも、僕は車を走らせた。
ブランドショップのメッカとも言える銀座は、日が暮れてなお煌々とした明りに包まれ、昼にも増して人出も増えていた。
隅々まで歩き尽くして見知った街でも、隣に彼女が乗っていると思うと、気持ちは捜査というよりもデートのように高揚してきてしまう。
買い物をする予定がないので、デパートの駐車場ではなく、近くのコインパーキングに車を停めたが、公務員だと知っている彼女なら、貧乏人とは思わないだろうと、祈りながらの事だった。
「ここから歩いていきましょう」
声をかけるまでもなく、彼女は降りる支度を整えていて、停車処理を終えた時には、彼女は身も軽く車のドアーを開けていた。
「夜になるのに、人が多いですね」
彼女は周りを見つめて呟いた。
彼女は、夜に一人で働いているとは思えないほど、驚いたように辺りを見回していた。
「じゃあ、行きましょうか」
声をかけると、彼女はにこりと微笑んだ。
婚約者のフリをするとは言え、まさかここから腕を組んで行く訳にもいかないので、先に立って僕は歩き始めた。
裏通りから表通りに出ると、更に人出は多くなり、意識しての事ではないが、彼女との距離はどんどん縮まり、いつしか腕と腕が触れ合うほどの距離になっていた。
「あそこです」
交差点を挟んだ反対側を指さすと、彼女はじっとデパートを見上げた。
☆☆☆
「じゃあ、宮部さん、私達、婚約しましょう」
紗綾樺さんの言葉に、僕の心臓は飛び出しそうになった。
もしかして、実は紗綾樺さんに再会してから、自分が事件の事をダシにして、紗綾樺さんに会えるなんて、邪なことを考えていたことを知られての当てつけなのか、考えても答えが出ないことだけど、ドキドキと高鳴る鼓動を抑えるのは難しく、口を開いたら声が震えそうだった。
「男女が二人で夕方宝石店を訪ねて怪しまれないのは、婚約指輪を買うというのが一番な気がします」
続いた彼女の言葉に、僕は奈落に突き落とされた。
これが、僕の心を読んだ彼女の作為的な罠だったのか、それとも、単に天然なのか、僕にはわからなかったが、それでも捜査のためとは言え、それも言葉の上だけとは言え、一時でも彼女と婚約できると思うと、僕の心は弾まずにはいられなかった。
どうしよう、もし、本当に婚約指輪を買ってしまったら、彼女はどうするんだろうなんて考えながらも、僕は車を走らせた。
ブランドショップのメッカとも言える銀座は、日が暮れてなお煌々とした明りに包まれ、昼にも増して人出も増えていた。
隅々まで歩き尽くして見知った街でも、隣に彼女が乗っていると思うと、気持ちは捜査というよりもデートのように高揚してきてしまう。
買い物をする予定がないので、デパートの駐車場ではなく、近くのコインパーキングに車を停めたが、公務員だと知っている彼女なら、貧乏人とは思わないだろうと、祈りながらの事だった。
「ここから歩いていきましょう」
声をかけるまでもなく、彼女は降りる支度を整えていて、停車処理を終えた時には、彼女は身も軽く車のドアーを開けていた。
「夜になるのに、人が多いですね」
彼女は周りを見つめて呟いた。
彼女は、夜に一人で働いているとは思えないほど、驚いたように辺りを見回していた。
「じゃあ、行きましょうか」
声をかけると、彼女はにこりと微笑んだ。
婚約者のフリをするとは言え、まさかここから腕を組んで行く訳にもいかないので、先に立って僕は歩き始めた。
裏通りから表通りに出ると、更に人出は多くなり、意識しての事ではないが、彼女との距離はどんどん縮まり、いつしか腕と腕が触れ合うほどの距離になっていた。
「あそこです」
交差点を挟んだ反対側を指さすと、彼女はじっとデパートを見上げた。
☆☆☆
宮部に示された場所を見つめると、巨大なデパートが聳え立っていた。
命のない石やコンクリートから記憶を引き出すのは困難だけれども、幸運にもデパートの正面には銀杏が定間隔で植えられていた。
人は意識していないだろうが、意外と樹木は記憶力がよく、丁寧に訪ねれば教えてくれる。勝手に記憶の中を覗いて、目的のものを探さなくてはいけない石とは違う。もちろん、石にだって心が宿っている場合もある。それだと、会話が成立さえすれば、いろいろと細かいことも教えてもらえる。
とりあえず、崇君のいなくなった場所を見つけようと、頭の中で宮部の記憶から取り出した崇君のイメージを思い浮かべる。
『ねえ、この子を見ていない? ちょっと前の事なの。』
心の中で問いかけると、木々や石たちが反応する。共鳴するように意識が絡み合い、白いバンに崇君が乗ろうとしている姿が脳裏に映る。
あそこだ、あの木の脇から車に乗ったんだ。
私は確信すると、信号が変わったと同時に宮部を置いて木に走り寄った。
『これは、これは、珍しい。このような街中でそなたのようなものに出会うとは・・・・・・。』
木と、足元の小さな草木も、人には見えない姿を現す。
『訪ねたいことがあるの』と切り出そうとした途端、皆が一斉に口を閉ざした。
「紗綾樺さん!」
私の耳に、宮部の声が届いた。
「どうして、ここがわかったんですか?」
その問いかけが、『崇君が目撃された最後の場所』だと告げている。
「すいません、しばらく黙っていてください」
私は宮部を顧みず、皆の事を見つめる。
『お願い、教えて。男の子が居なくなったの。』
私は、もう一度問いかけた。
『それが、いったいどうしたというのだ? 人の人生は短い、生れ落ち、すぐに死んでいく。その子供も、もう死んだのではないのか?』
長い年月を生きたであろう銀杏の木が答えた。
『そんなことはない。人は長生きだ。私たちの何十倍も生きる。』
一年草の草木たちは口々に異を唱えた。
『お願い、教えて、その時の様子を見せて。』
私は諦めずに、もう一度頼む。
『狐つきがこのようなところで、いったい何をしようというのだ? その子供は、お前の何なのだ? 贄か?』
今まで、何度となく私は『狐つき』と呼ばれていたので、今更その事は気にならなかったが、さすがに『贄』と言われると抵抗があった。しかし、肯定する以外、この場で口の重い相手に話の先を促すことはできそうにないと感じた。
『そうよ。その子は私の贄、人間に横取りされたの。』
私が語気を荒くして言うと、相手はしばらく考えてから、私の頭にその時の様子を流し込んでくれた。
「本当にディズニーランドに連れて行ってくれるの?」
スライドドアーの中を覗き込みながら崇君が問いかけている。
「もちろん、お父さんから頼まれているからね。でも、お母さんには内緒だよ」
「お父さんも一緒に行かれるといいのに」
「お父さんはお仕事があるから、代わりにおじさんが頼まれたんだよ。さあ、崇君乗って」
「はい。ありがとうございます」
崇君は、自らバンに乗り込むと、スライドドアーを閉め、シートベルトをした。
記憶から離れる瞬間、眩暈がした私を宮部が支えてくれた。
「大丈夫ですか?」
宮部の顔は心配げだ。きっと、顔色も蒼くなっているのだろう。
「大丈夫です。・・・・・・お店に行きましょう」
私は宮部に支えてもらいながらも、宮部を促した。
一瞬、ためらいを見せたものの、宮部は私の腕を取ってデパートの玄関をくぐった。
有名ブランドのショップは、もっときらびやかな照明で光があふれているのかと思ったが、意外にも落ち着いた光で、まぶしさも感じなかった。明るすぎるデパートの中で、薄暗く感じるくらいだ。
「どちらの方ですか?」
私は宮部にだけ聞こえるように問いかけた。
「一番奥の女性です」
宮部は囁き返した。
最後の目撃者だという女性は、幸運にもエンゲージリングのコーナーに立っていた。
「作戦通りです。良いですね」
私が言うと、宮部は少し困ったように頭を掻いた。
いまさら怖気づいたのかと、私が視線を尖らせると、宮部は慌てて頭を横に振った。
「違います。彼女は、自分が警察官だと知っているので、とてもこのお店の婚約指輪なんて買えないって知っています」
宮部の説明に、私は『馬鹿じゃないの!』と言いたくなったが、何とか言葉を取り繕った。
「私が見たいと言ったと言えばいいんです。それに、今日見て今日買うお客は普通いません」
私の言葉に、宮部は心の中で『そういわれてみれば、そうだよな・・・・・・』などと、考えていた。
「さあ、行きましょう」
私がもう一度声をかけると、宮部はごくりと唾を飲み込んでから、気合を入れて歩き始めた。
ゆったりとした足取りでエンゲージリングのコーナーに歩み寄ると、何気ない様子で私は値札が見えないように並べられた指輪を眺めた。
宮部の想像通り、周りに居る店員達が心の中で宮部のことを値踏みしている。
『着古したスーツに磨り減った靴。安物のバックル。量販品のワイシャツに、お世辞にもお洒落とは言えないストライプのネクタイ。どれ一つとっても、この店には似つかわしくない。実は、お金持ちのご両親が居るなら別だけど、そうでなければ、一番小さい石が限界よね』
宮部が商魂たくましいブランド店の店員の接客意欲を沸き立たせるようなお客ではないのは言うまでもない。それに、私自身、兄好みの可愛い服を着ているとはいえ、決してお金持ちに見える服装ではない。
散々宮部と私の値踏みをした後、それぞれの店員が今度は私たちの容姿の値踏みを始めた。
私にはよくわからないが、宮部はそれなりに顔立ちが整っているらしく、女性の店員からの評価はかなり良い。それに対して、私は子供っぽく見えているらしく、彼女たちの目には婚約する年には見えていないようだ。
ガラスケースを眺めることしばらく、やっと男性店員が声をかけてくれた。
「婚約指輪でいらっしゃいますか?」
不自然でない返事を期待していたのに、なぜか宮部は言葉がスムーズに出ないらしい。
「あの指輪が見たいって、私が彼にお願いしたんです」
私の答えに、どうやらあまり乗り気でないように見える宮部の態度の意味を勝手に理解してくれたようで、このお店にしては驚くらい手頃な値段の指輪を幾つか取り出して見せてくれた。
それは、宮部が値段で怖気づかないようにという配慮と、宮部に払えるのは、この程度の金額だろうという店員の独断によるものだ。
それでも、指輪一つで三十万円。決して安い買い物ではない。
それなのに、値札を見た宮部は以外にも『へえ、このお店にこんな安いのもあるんだ。これなら、自分にも買えるかもしれない』などと、呑気なことを考えている。
まったく、どういう金銭感覚なんだろう。指輪一つにこんな大金。
そんなことを考えている私に、店員が問いかけてきた。
「サイズはお分かりですか?」
男の問いに、私は飾りっけのない自分の手を見つめた。
「実は、生まれて初めての指輪なんです。だから、サイズもわからなくて。でも、こちらのお店の広告を拝見して、デザインが素晴らしいと思ったんです」
同じようにショーケースを見つめている近くの女性が考えていることをまるで自分の考えのように私が説明すると、男は採寸用のリングの束を取り出してから、私に左手を広げて見せるように言った。
言われたとおりにすると、男は『失礼します』というと、束の中からリングを取り出して私の指にはめようとした。その瞬間、男の指が私の手に触れ、男の欲望が怒涛の如く頭の中に流れ込んで来た。
『こんなダサい男じゃ、まともな指輪も買えないだろうに。なんだって、こんな男とこんないい女が・・・・・・。』
一流店だからと言って、働いているスタッフの人間性が一流というわけではない。流れ込んでくる不愉快な妄想に私は弾かれたように手を引っ込めた。
「紗綾樺さん?」
驚いたような宮部の腕に私は顔を寄せて『この男の人に触られたくない』と囁いた。
「すいません。やはり男の方に触れられるのは抵抗があるようで、失礼します」
宮部は言うと、男からリングの束を受け取り、私に手渡してくれた。
事実、宮部の言葉は嘘ではない。私は兄以外の男性に触れられる事をとても不快に感じる。
もしかしたら、相手が男性ならば仕方がない事なのかもしれないが、妄想の中とは言え、自分が辱められているのを目の当たりにするのは不愉快極まりない。
そういう点、警察官だからなのか、宮部からはそういったいやらしい妄想を感じたことは一度もないし、洋服越しに触れても不愉快さを感じない。
「ちょうどいいのを探してください」
優しく言われても、私にはサイズの検討もつかなかったので、とりあえず片っ端から指を入れてみることにした。その様子に男は呆れたように一歩後退すると、若い女性店員に対応を代わるように言った。
「申し訳ありません。私の方がお客様にもご不快な思いをさせないかと思いますので、交代させていただきます」
笑みを浮かべて言った女性は、宮部の顔を見るなり驚いたような表情を浮かべた。
「刑事さん」
漏れ出た言葉をかき消すように、宮部が『今日は結婚指輪を見に来ました』と言った。
私は思わず『この馬鹿』と、心の中で呟いた。
婚約指輪を見に来たはずの客が、いきなり結婚指輪に変わったら、絶対に疑われるに決まっているのに、まったくこの男、本当に警察官なのかしらと、私は聞こえないのを良いことに心の中で愚痴った。
「婚約指輪ではなく、結婚指輪ですか?」
店員の戸惑いも当たり前だ。婚約指輪にふさわしいダイヤのソリティアリングの並んだショーケースの前で、結婚指輪といわれて困惑しない人のほうが少ないだろう。
次の瞬間、彼女の考えがなだれ込んできた。
『この刑事さん、まさか私が誘拐犯とか疑ってるの? 勇気を出して協力したのに・・・・・・。』
このままでは、彼女に逃げられてしまう。
「婚約指輪です・・・・・・」
私は言いながら、そっと彼女のほうに頭を近づける。
「私、男の方が怖くて・・・・・・」
彼女の顔が『可哀想に』という暗さを持った。
たぶん、彼女のような普通の女性の場合、異性が怖くて交際をスムーズに進めて行かれないような私みたいな女性は、可哀相な女性の部類に入るのだろう。別に、兄がいてくれるから、他に男が必要な理由を私は感じていないのだけれど。
私は少しきつめの指輪がはまった左手を彼女のほうに突き出した。
「ごめんなさい、初めての指輪なので、サイズがわからなくて。その、抜けなくなってしまったんです」
正直に言えば、宮部が結婚指輪なんて言い出したせいで、びっくりした瞬間、思わず小さいサイズをはめてしまったのだ。
「失礼致します」
彼女は言うと、まるでこわれものに触れるように私の手に触れた。
本当は、誰とも肌を触れ合わせたくはない。でも、古くなった記憶をごっそりまとめて手に入れるには、これしかない。
彼女が一生懸命、指輪を抜いてくれる間に、私は彼女の中の記憶を読み込んだ。
『男の子は、まっすぐにデパートの中を抜けて出て行った。
停まっている白いバンに向かって、引き寄せられるかのように、そうしたら、ドアーが開いた。スライドドアーだ。
言葉を交わしている。でも、あの子はさっきお店の前を父親と通っていったはずなのに、入ったばかりで一人で出て行くのはおかしい。
あの子の着ているTシャツ、おかしいと思ったら、女性モノの着古しだわ。子供用じゃなくて、大人用のが縮んだんだわ。
え、乗ってしまうの、あの車はあの子がお店に来る前から停まってる。だとしたら、誰の車? どうして一人なの?
警察が来て、あの子を探してる? 白いバンに乗ったまま、行方不明? でも、これ以上、面倒に巻き込まれたくない。へんな事言って、疑われたくない。偶然、見たことにしよう。そうじゃないと、疑われる。昔、傘を盗んだと疑われたときみたいに。
もう、あんな思いしたくない。』
「痛くありませんか? お顔の色が優れませんが?」
彼女の手が離れると同時に、思考からも切り離された。
「大丈夫?」
宮部の顔が明らかに心配そうになっている。
ああ、相当顔色が悪いんだ。酷く体も重い。
「ごめんなさい、気分が悪くなって。今日は、もう帰りたいです」
嘘でも仮病でもなく、本音だった。
これから、占いの館に出向いて、延々長蛇の列の人々を鑑定するのは、出来たら遠慮したい。
「すいません、今日は失礼します」
宮部は丁寧に謝ると、指輪のサイズも訊かないまま、私の体を支えて店を後にした。
「どこかで休みますか?」
宮部が気遣うように問いかけてきた。
「顔色がすごく悪いです。どこか座れるところを探しましょうか?」
段々に宮部の声が遠くなっていく。
足がもつれそうになりながらも、私は宮部に支えられて駐車場へと歩を進めるが、思うように進んでいないことは明白だ。それでも、私は一生懸命に駐車場を目指した。
「無理しないでください」
宮部の心配げな声にも、応える余裕もない。そして、目の前がどんどん暗くなっていった瞬間、『コーン』という甲高い獣の鳴き声を聞いた気がした。
☆☆☆
突然、ガクリと膝をついた紗綾樺さんに、僕は驚いて彼女の顔を覗き込んだ。
さっきまで蒼かった顔は、まるで土色のようで血の気がない。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
声をかけても反応がないので、僕は仕方なく彼女の事を抱き上げた。
救助訓練で抱いた人形よりも恐ろしく軽い。まるで空気のようだと思うと、訓練用の人形が取れだけ重く作られていたのだろうかなんて、つまらない考えまで次から次へと湧いてくる。
「紗綾樺さん!」
名前を呼んでも反応しない彼女を抱いたまま、僕は人込みを走り抜けて愛車に急いだ。
助手席に彼女を座らせ、シートを限界まで倒してみたが、気休めにしかならない。これがワンボックスなら、後部の座席でゆったりと横になれるのだろうが、そう都合よくはいかない。
ポケットからハンカチを取り出し、車の中に常備している水のボトルを開け、三分の一ほどの水を捨ててからボトルを紗綾樺さんの口にあてた。
こぼれないように注意しながら、ボトルを傾けて水を口の中に流し込む。
コクリと小さな音がして、紗綾樺さんが水を飲んでくれているのが分かり、少しだけ僕は安心した。
貧血だろうか、それとも、彼女のような特殊な力を持った人がこんな人込みの中に連れてきたのが間違いだったのだろうかと、僕は自問自答を繰り返したりした。
「紗綾樺さん」
何度目かの呼びかけに彼女の瞼がかすかに動き、僕は心から安心した。
☆☆☆