翌日、約束したのだから朝一にでも連絡があるものと思っていた私は、午後になっても連絡をよこさない宮部に完全に呆れ果て、肩透かしを食らった気分だった。
 まったく、昨夜はあんなに強引に話を進め、子供の事を心配していたのに、なんて薄情な男だと思いながら、私は仕事に出かける支度をした。
 でも、考えてみたら、仕事とはいえ、結局は赤の他人の子供だ。しかも、ただの失踪か誘拐かもわからない状態で、他にも沢山事件を抱えた警察官が一々気を配るには、些細すぎることなのかもしれない。でも、もしそうだとしたら、なぜ宮部はわざわざ私を訪ねてきたりしたんだろう。事件にばかり集中していて、宮部の真の気持ちを読み忘れていた私は、そんなことを考えながら、兄が喜ぶ少し乙女の入った可愛い服に袖を通した。
 私がこの仕事を始めて以来、兄とはすれ違いが多い。基本的に夕方の五時ごろに家を出て、仕事を始めるのが六時くらいの私と、朝の九時からの仕事に間に合うように家を出る兄とでは、なかなか一緒に過ごす時間もないのだけれど、兄は私が帰ってくるまで寝ずにまっていてくれるので、シンデレラよろしく午前零時まで休みなく働くと、帰りはタクシーを使うことにしている。もちろん、贅沢すぎるから、終電で帰れるようにしたいとは思っているのだけれど、締め切り時間前に並ばれてしまうと、()終わるまで仕事を終わりに出来ないのが辛いところで、全員の鑑定を終えると、タクシーで帰ることになる。それでも、気分が乗らない日はお休みだし、決して大変な仕事ではない。だから、私なりには頑張っているつもりでも、兄からは『まともじゃない仕事』と呼ばれている。たぶん、兄は私がスーツを着て朝九時から夕方六時までの会社勤めをしたら安心して喜んでくれるのだろう。でも、自分で自分がわからない私に、同じ人とずっとかかわり続ける仕事が務まるのか、自分でもわからない。
 いざ、家を出るぞと立ち上がろうとした瞬間、私の携帯電話が鳴り始めた。
 それは、宮部からだった。
『すいません、連絡が遅くなって。』
 宮部は名乗らずにいきなり謝った。
「昨日のお話なら、お断りします」
 私は不愉快さに流されて、断りを入れた。
『すいません、日中は忙しくて、ご連絡ができなかったんです。出来たら、これから最後に目撃されたデパート前までご一緒していただけないですか?』
 あまりにも勝手な物言いに、私はかなり気分を害していた。
「すいません、もう仕事に出る時間なんです」
 本当は、いつ休んでも文句は言われない仕事だ。事実、気分が乗らない日は休むことが多いし、ある程度の時間行かないと、お隣さんが親切に『お休み』の看板も出してくれる。でも、そんなことを宮部に教える気もなければ、義理もない。。
『お仕事前の忙しいところにすいません。ほんの少しの時間でいいんです。見ていただいたら、お送りしますし、帰りも仕事の後にお送りします。』
 タクシーに乗らずに帰れるのはありがたいが、二日も同じ男性に送って貰ったら、兄の反応の方が怖い。
『ほんの数分でもいいんです。お願いします。』
 ここまで下手にでられると、断る私の方が悪いことをしているように感じてしまう。
「わかりました。じゃあ・・・・・・」
『えっと、あと五分で迎えに行きます。』
 宮部の言葉に驚いた私は、仕方なく『わかりました』と答えた。


 宮部は、ぴったり五分後にアパートの前に車を停めた。遅れてきたら、仕事に出てしまおうかと思ったのに、仕事柄か、そういうところはしっかりしているらしい。
「お待たせしました」
 笑顔で迎えられ、その緊張感のなさに少しまた宮部という男に失望したものの、約束なので促されるまま助手席に乗り込んだ。
「今日は、お時間を作っていただきありがとうございます」
 私が車に乗り込むと、宮部の表情は一転した。
「では、最後に目撃された場所にご案内します」
 宮部は言うと、車を走らせた。
 都内の田舎的場所にある家から都心までは、そう遠くない。とはいえ、電車とは異なり、車となると、それなりの時間はかかる。
 特に話すこともないので、私はゆっくりと宮部の心と頭の中を眺めた。
 昨夜はなかったのに、生意気に隠し事をしまう金庫を心の中に作っている。確かに、誰だって人に知られたくないことはある。だから、私に読まれないように隠し事をしまえるようになったからと言って、それを責めるつもりはない。だって、隠し事をできるようにすること言うことは、私の力を疑っていないという証拠でもあるからだ。
 一応、朝から事件の情報は見直してきたらしく、昨夜は見えなかった情報が見えるようになっている。
 白い車に男の子は一人で乗った。目撃者は何人もいない。でも、その車は父親の車じゃないし、第一日本を走っている車のほとんどは白かグレー、シルバー、どれも夕暮れには同じような色に見える。これが赤や緑だったら話は違うけど。子供の父親の車は二番目に多い黒か。確かに、警察泣かせね。でも、子供に近い人に会わないと、子供の事がよく見えない。母親か、父親か、近所の人でもいいか。七才なら、小学校に行ってる。学校の友達や先生、誰でもいい。本人の事を知っている人のそばに行かれれば。

「車に酔われましたか?」
 宮部の声に、私の思考が止まる。
「大丈夫です。(たかし)君の事を考えていただけです」
 私が答えた瞬間、宮部の顔が驚愕に変わり、彼は躊躇しながらもコンビニの駐車場に車を停めた。
「飲み物、いかがですか?」
「じゃあ、温かいお茶をお願いします」
 宮部が態度を硬化させた理由はわかっている。まだ宮部は『七歳の男の子』としか言っていないのに、私がうっかり宮部の中から見つけた『(たかし)』という名前を口にしてしまったからだ。
 いつもはもっと警戒しているのに、なぜか宮部を相手にするとハードルが自然と下がってしまう。彼が絶対に私の力を信じているとわかっているからかもしれないけれど、それはとても危険なことだと私は知っている。やりすぎれば、人は恐怖から私の事を『化け物』呼ばわりし、虐げようと、貶めようとするものだと、私は知っている。そして、それは兄にも被害をもたらすのだと。
 良かれと思って参加したボランティアでの活動が原因で、私も兄も故郷を追われ、この人の坩堝、誰が何をしていようと誰も気にしない街まで流れてきたのだ。ここならば、私の力を疎むのではなく、お金を払って歓迎してくれる人がいるから。でも、それは、やりすぎなければの話だ。
 今私は、再び兄と私の生活を危険に曝そうとしているのかもしれない。あの時、軽い気持ちでボランティアに参加した結果が、今の生活となったように。

 お茶を買った宮部は、戻ってくると丁寧にペットボトルのふたを開けてからボトルを私に手渡してくれた。しかし、その行動にも思考にも躊躇と恐怖がある。
 一口、また一口と、ペットボトルに口をつける。
「紗綾樺さんは、誰から崇君の名前を聞いたんですか?」
 訊くべきか、訊かずにおくか、しばらく悩んでから宮部は問いかけてきた。
「宮部さんの中に崇君という名前が見えたので、そう思ったんですけど、違いましたか?」
 私は今まで通りの話し方で答えた。
「聞いてください。これはマスコミにも何も発表していない。警察も誘拐か判断ができずにいるデリケートな事件です。もし紗綾樺さんが被害者の名前を知っているとしたら、この犯罪に関係していると疑われても仕方がない状況です。そのリスクをわかってください」
 宮部の動揺も困惑も、そして悩みも私には言葉にしなくてもわかっている。
「もし、悩んでいるのなら、ここで降ろしてください。私は、このまま仕事に行きます。そして、このことには一切かかわりません。でも、もし宮部さんが、崇君が白い車に乗るところを目撃された場所に私を連れていくなら、どんな形であれ、この事件が解決するまで私に手伝わせてください」
 五分以上、宮部は無言で考え続けた。それも器用なことに、すべての悩みは新しくあつらえたばかりの金庫の中でだ。つまり何か私には読まれたくないことを考えているという事だ。たぶん、本人は気づいていないけれど、彼の生き物としての本能が彼の中に私に読まれたくないことを考える金庫を作り出して、その中ですべてを考えようとしている。
 それを感じながら、さすがに宮部は警察官で、都会の人間なんだと私は思った。私たちの郷里では、みんなオープンで、だからこそ、私は耐えられなくなった。人々が私を奇異の目で見つめ、心の中で悪し様に『化け物』と呼ぶことに。そして、心を病んでいく私を心配した兄は、郷里を離れる決心をした。
 決心というとある意味大げさだ。私たちが去る時には、既に家も、家財も何もなく、それこそ、仕事も何もかも失った後だ。これ以上失うものなど、お互い以外に何もなかった。

「早くいかないと、お仕事に送れちゃいますね」
 宮部の言葉に、私は彼が私とチームを組むことを諦めたのだと思った。
「目撃された場所は、銀座のデパートの近くです。たまたま窓の汚れを見つけて拭いていた店員が、崇君が白いバンに乗り込むのを見たんです。店員曰く、窓を汚した男の子かと思って観ていたが、両親らしき大人が居なかったので、人違いだと気付いたと。それと同時に、なんとなく不自然に感じたので、記憶していたそうです」
「そのお店は、何のお店ですか?」
「高級アクセサリーです」
「じゃあ、宮部さん、私達、婚約しましょう」

☆☆☆

「じゃあ、宮部さん、私達、婚約しましょう」
 紗綾樺さんの言葉に、僕の心臓は飛び出しそうになった。
 もしかして、実は紗綾樺さんに再会してから、自分が事件の事をダシにして、紗綾樺さんに会えるなんて、邪なことを考えていたことを知られての当てつけなのか、考えても答えが出ないことだけど、ドキドキと高鳴る鼓動を抑えるのは難しく、口を開いたら声が震えそうだった。
「男女が二人で夕方宝石店を訪ねて怪しまれないのは、婚約指輪を買うというのが一番な気がします」
 続いた彼女の言葉に、僕は奈落に突き落とされた。
 これが、僕の心を読んだ彼女の作為的な罠だったのか、それとも、単に天然なのか、僕にはわからなかったが、それでも捜査のためとは言え、それも言葉の上だけとは言え、一時でも彼女と婚約できると思うと、僕の心は弾まずにはいられなかった。
 どうしよう、もし、本当に婚約指輪を買ってしまったら、彼女はどうするんだろうなんて考えながらも、僕は車を走らせた。


 ブランドショップのメッカとも言える銀座は、日が暮れてなお煌々とした明りに包まれ、昼にも増して人出も増えていた。
 隅々まで歩き尽くして見知った街でも、隣に彼女が乗っていると思うと、気持ちは捜査というよりもデートのように高揚してきてしまう。
 買い物をする予定がないので、デパートの駐車場ではなく、近くのコインパーキングに車を停めたが、公務員だと知っている彼女なら、貧乏人とは思わないだろうと、祈りながらの事だった。
「ここから歩いていきましょう」
 声をかけるまでもなく、彼女は降りる支度を整えていて、停車処理を終えた時には、彼女は身も軽く車のドアーを開けていた。
「夜になるのに、人が多いですね」
 彼女は周りを見つめて呟いた。
 彼女は、夜に一人で働いているとは思えないほど、驚いたように辺りを見回していた。
「じゃあ、行きましょうか」
 声をかけると、彼女はにこりと微笑んだ。
 婚約者のフリをするとは言え、まさかここから腕を組んで行く訳にもいかないので、先に立って僕は歩き始めた。
 裏通りから表通りに出ると、更に人出は多くなり、意識しての事ではないが、彼女との距離はどんどん縮まり、いつしか腕と腕が触れ合うほどの距離になっていた。
「あそこです」
 交差点を挟んだ反対側を指さすと、彼女はじっとデパートを見上げた。

☆☆☆


「じゃあ、宮部さん、私達、婚約しましょう」
 紗綾樺さんの言葉に、僕の心臓は飛び出しそうになった。
 もしかして、実は紗綾樺さんに再会してから、自分が事件の事をダシにして、紗綾樺さんに会えるなんて、邪なことを考えていたことを知られての当てつけなのか、考えても答えが出ないことだけど、ドキドキと高鳴る鼓動を抑えるのは難しく、口を開いたら声が震えそうだった。
「男女が二人で夕方宝石店を訪ねて怪しまれないのは、婚約指輪を買うというのが一番な気がします」
 続いた彼女の言葉に、僕は奈落に突き落とされた。
 これが、僕の心を読んだ彼女の作為的な罠だったのか、それとも、単に天然なのか、僕にはわからなかったが、それでも捜査のためとは言え、それも言葉の上だけとは言え、一時でも彼女と婚約できると思うと、僕の心は弾まずにはいられなかった。
 どうしよう、もし、本当に婚約指輪を買ってしまったら、彼女はどうするんだろうなんて考えながらも、僕は車を走らせた。


 ブランドショップのメッカとも言える銀座は、日が暮れてなお煌々とした明りに包まれ、昼にも増して人出も増えていた。
 隅々まで歩き尽くして見知った街でも、隣に彼女が乗っていると思うと、気持ちは捜査というよりもデートのように高揚してきてしまう。
 買い物をする予定がないので、デパートの駐車場ではなく、近くのコインパーキングに車を停めたが、公務員だと知っている彼女なら、貧乏人とは思わないだろうと、祈りながらの事だった。
「ここから歩いていきましょう」
 声をかけるまでもなく、彼女は降りる支度を整えていて、停車処理を終えた時には、彼女は身も軽く車のドアーを開けていた。
「夜になるのに、人が多いですね」
 彼女は周りを見つめて呟いた。
 彼女は、夜に一人で働いているとは思えないほど、驚いたように辺りを見回していた。
「じゃあ、行きましょうか」
 声をかけると、彼女はにこりと微笑んだ。
 婚約者のフリをするとは言え、まさかここから腕を組んで行く訳にもいかないので、先に立って僕は歩き始めた。
 裏通りから表通りに出ると、更に人出は多くなり、意識しての事ではないが、彼女との距離はどんどん縮まり、いつしか腕と腕が触れ合うほどの距離になっていた。
「あそこです」
 交差点を挟んだ反対側を指さすと、彼女はじっとデパートを見上げた。

☆☆☆

 宮部に示された場所を見つめると、巨大なデパートが聳え立っていた。
 命のない石やコンクリートから記憶を引き出すのは困難だけれども、幸運にもデパートの正面には銀杏が定間隔で植えられていた。
 人は意識していないだろうが、意外と樹木は記憶力がよく、丁寧に訪ねれば教えてくれる。勝手に記憶の中を覗いて、目的のものを探さなくてはいけない石とは違う。もちろん、石にだって心が宿っている場合もある。それだと、会話が成立さえすれば、いろいろと細かいことも教えてもらえる。
 とりあえず、崇君のいなくなった場所を見つけようと、頭の中で宮部の記憶から取り出した崇君のイメージを思い浮かべる。


『ねえ、この子を見ていない? ちょっと前の事なの。』
 心の中で問いかけると、木々や石たちが反応する。共鳴するように意識が絡み合い、白いバンに崇君が乗ろうとしている姿が脳裏に映る。
 あそこだ、あの木の脇から車に乗ったんだ。
 私は確信すると、信号が変わったと同時に宮部を置いて木に走り寄った。
『これは、これは、珍しい。このような街中でそなたのようなものに出会うとは・・・・・・。』
 木と、足元の小さな草木も、人には見えない姿を現す。
 『訪ねたいことがあるの』と切り出そうとした途端、皆が一斉に口を閉ざした。


「紗綾樺さん!」
 私の耳に、宮部の声が届いた。
「どうして、ここがわかったんですか?」
 その問いかけが、『崇君が目撃された最後の場所』だと告げている。
「すいません、しばらく黙っていてください」
 私は宮部を顧みず、皆の事を見つめる。


『お願い、教えて。男の子が居なくなったの。』
 私は、もう一度問いかけた。
『それが、いったいどうしたというのだ? 人の人生は短い、生れ落ち、すぐに死んでいく。その子供も、もう死んだのではないのか?』
 長い年月を生きたであろう銀杏の木が答えた。
『そんなことはない。人は長生きだ。私たちの何十倍も生きる。』
 一年草の草木たちは口々に異を唱えた。
『お願い、教えて、その時の様子を見せて。』
 私は諦めずに、もう一度頼む。
『狐つきがこのようなところで、いったい何をしようというのだ? その子供は、お前の何なのだ? 贄か?』
 今まで、何度となく私は『狐つき』と呼ばれていたので、今更その事は気にならなかったが、さすがに『贄』と言われると抵抗があった。しかし、肯定する以外、この場で口の重い相手に話の先を促すことはできそうにないと感じた。
『そうよ。その子は私の贄、人間に横取りされたの。』
 私が語気を荒くして言うと、相手はしばらく考えてから、私の頭にその時の様子を流し込んでくれた。


「本当にディズニーランドに連れて行ってくれるの?」
 スライドドアーの中を覗き込みながら崇君が問いかけている。
「もちろん、お父さんから頼まれているからね。でも、お母さんには内緒だよ」
「お父さんも一緒に行かれるといいのに」
「お父さんはお仕事があるから、代わりにおじさんが頼まれたんだよ。さあ、崇君乗って」
「はい。ありがとうございます」
 崇君は、自らバンに乗り込むと、スライドドアーを閉め、シートベルトをした。


 記憶から離れる瞬間、眩暈がした私を宮部が支えてくれた。
「大丈夫ですか?」
 宮部の顔は心配げだ。きっと、顔色も蒼くなっているのだろう。
「大丈夫です。・・・・・・お店に行きましょう」
 私は宮部に支えてもらいながらも、宮部を促した。
 一瞬、ためらいを見せたものの、宮部は私の腕を取ってデパートの玄関をくぐった。
 有名ブランドのショップは、もっときらびやかな照明で光があふれているのかと思ったが、意外にも落ち着いた光で、まぶしさも感じなかった。明るすぎるデパートの中で、薄暗く感じるくらいだ。
「どちらの方ですか?」
 私は宮部にだけ聞こえるように問いかけた。
「一番奥の女性です」
 宮部は囁き返した。
 最後の目撃者だという女性は、幸運にもエンゲージリングのコーナーに立っていた。
「作戦通りです。良いですね」
 私が言うと、宮部は少し困ったように頭を掻いた。
 いまさら怖気づいたのかと、私が視線を尖らせると、宮部は慌てて頭を横に振った。
「違います。彼女は、自分が警察官だと知っているので、とてもこのお店の婚約指輪なんて買えないって知っています」
 宮部の説明に、私は『馬鹿じゃないの!』と言いたくなったが、何とか言葉を取り繕った。
「私が見たいと言ったと言えばいいんです。それに、今日見て今日買うお客は普通いません」
 私の言葉に、宮部は心の中で『そういわれてみれば、そうだよな・・・・・・』などと、考えていた。
「さあ、行きましょう」
 私がもう一度声をかけると、宮部はごくりと唾を飲み込んでから、気合を入れて歩き始めた。
 ゆったりとした足取りでエンゲージリングのコーナーに歩み寄ると、何気ない様子で私は値札が見えないように並べられた指輪を眺めた。
 宮部の想像通り、周りに居る店員達が心の中で宮部のことを値踏みしている。
 『着古したスーツに磨り減った靴。安物のバックル。量販品のワイシャツに、お世辞にもお洒落とは言えないストライプのネクタイ。どれ一つとっても、この店には似つかわしくない。実は、お金持ちのご両親が居るなら別だけど、そうでなければ、一番小さい石が限界よね』
 宮部が商魂たくましいブランド店の店員の接客意欲を沸き立たせるようなお客ではないのは言うまでもない。それに、私自身、兄好みの可愛い服を着ているとはいえ、決してお金持ちに見える服装ではない。
 散々宮部と私の値踏みをした後、それぞれの店員が今度は私たちの容姿の値踏みを始めた。
 私にはよくわからないが、宮部はそれなりに顔立ちが整っているらしく、女性の店員からの評価はかなり良い。それに対して、私は子供っぽく見えているらしく、彼女たちの目には婚約する年には見えていないようだ。
 ガラスケースを眺めることしばらく、やっと男性店員が声をかけてくれた。
「婚約指輪でいらっしゃいますか?」
 不自然でない返事を期待していたのに、なぜか宮部は言葉がスムーズに出ないらしい。
「あの指輪が見たいって、私が彼にお願いしたんです」
 私の答えに、どうやらあまり乗り気でないように見える宮部の態度の意味を勝手に理解してくれたようで、このお店にしては驚くらい手頃な値段の指輪を幾つか取り出して見せてくれた。
 それは、宮部が値段で怖気づかないようにという配慮と、宮部に払えるのは、この程度の金額だろうという店員の独断によるものだ。
 それでも、指輪一つで三十万円。決して安い買い物ではない。
 それなのに、値札を見た宮部は以外にも『へえ、このお店にこんな安いのもあるんだ。これなら、自分にも買えるかもしれない』などと、呑気なことを考えている。
 まったく、どういう金銭感覚なんだろう。指輪一つにこんな大金。
 そんなことを考えている私に、店員が問いかけてきた。
「サイズはお分かりですか?」
 男の問いに、私は飾りっけのない自分の手を見つめた。
「実は、生まれて初めての指輪なんです。だから、サイズもわからなくて。でも、こちらのお店の広告を拝見して、デザインが素晴らしいと思ったんです」
 同じようにショーケースを見つめている近くの女性が考えていることをまるで自分の考えのように私が説明すると、男は採寸用のリングの束を取り出してから、私に左手を広げて見せるように言った。
 言われたとおりにすると、男は『失礼します』というと、束の中からリングを取り出して私の指にはめようとした。その瞬間、男の指が私の手に触れ、男の欲望が怒涛の如く頭の中に流れ込んで来た。
『こんなダサい男じゃ、まともな指輪も買えないだろうに。なんだって、こんな男とこんないい女が・・・・・・。』
 一流店だからと言って、働いているスタッフの人間性が一流というわけではない。流れ込んでくる不愉快な妄想に私は弾かれたように手を引っ込めた。
「紗綾樺さん?」
 驚いたような宮部の腕に私は顔を寄せて『この男の人に触られたくない』と囁いた。
「すいません。やはり男の方に触れられるのは抵抗があるようで、失礼します」
 宮部は言うと、男からリングの束を受け取り、私に手渡してくれた。
 事実、宮部の言葉は嘘ではない。私は兄以外の男性に触れられる事をとても不快に感じる。
 もしかしたら、相手が男性ならば仕方がない事なのかもしれないが、妄想の中とは言え、自分が辱められているのを目の当たりにするのは不愉快極まりない。
 そういう点、警察官だからなのか、宮部からはそういったいやらしい妄想を感じたことは一度もないし、洋服越しに触れても不愉快さを感じない。
「ちょうどいいのを探してください」
 優しく言われても、私にはサイズの検討もつかなかったので、とりあえず片っ端から指を入れてみることにした。その様子に男は呆れたように一歩後退すると、若い女性店員に対応を代わるように言った。
「申し訳ありません。私の方がお客様にもご不快な思いをさせないかと思いますので、交代させていただきます」
 笑みを浮かべて言った女性は、宮部の顔を見るなり驚いたような表情を浮かべた。
「刑事さん」
 漏れ出た言葉をかき消すように、宮部が『今日は結婚指輪を見に来ました』と言った。
 私は思わず『この馬鹿』と、心の中で呟いた。
 婚約指輪を見に来たはずの客が、いきなり結婚指輪に変わったら、絶対に疑われるに決まっているのに、まったくこの男、本当に警察官なのかしらと、私は聞こえないのを良いことに心の中で愚痴った。
「婚約指輪ではなく、結婚指輪ですか?」
 店員の戸惑いも当たり前だ。婚約指輪にふさわしいダイヤのソリティアリングの並んだショーケースの前で、結婚指輪といわれて困惑しない人のほうが少ないだろう。
 次の瞬間、彼女の考えがなだれ込んできた。
『この刑事さん、まさか私が誘拐犯とか疑ってるの? 勇気を出して協力したのに・・・・・・。』
 このままでは、彼女に逃げられてしまう。
「婚約指輪です・・・・・・」
 私は言いながら、そっと彼女のほうに頭を近づける。
「私、男の方が怖くて・・・・・・」
 彼女の顔が『可哀想に』という暗さを持った。
 たぶん、彼女のような普通の女性の場合、異性が怖くて交際をスムーズに進めて行かれないような私みたいな女性は、可哀相な女性の部類に入るのだろう。別に、兄がいてくれるから、他に男が必要な理由を私は感じていないのだけれど。
 私は少しきつめの指輪がはまった左手を彼女のほうに突き出した。
「ごめんなさい、初めての指輪なので、サイズがわからなくて。その、抜けなくなってしまったんです」
 正直に言えば、宮部が結婚指輪なんて言い出したせいで、びっくりした瞬間、思わず小さいサイズをはめてしまったのだ。
「失礼致します」
 彼女は言うと、まるでこわれものに触れるように私の手に触れた。
 本当は、誰とも肌を触れ合わせたくはない。でも、古くなった記憶をごっそりまとめて手に入れるには、これしかない。
 彼女が一生懸命、指輪を抜いてくれる間に、私は彼女の中の記憶を読み込んだ。


 『男の子は、まっすぐにデパートの中を抜けて出て行った。
 停まっている白いバンに向かって、引き寄せられるかのように、そうしたら、ドアーが開いた。スライドドアーだ。
 言葉を交わしている。でも、あの子はさっきお店の前を父親と通っていったはずなのに、入ったばかりで一人で出て行くのはおかしい。
 あの子の着ているTシャツ、おかしいと思ったら、女性モノの着古しだわ。子供用じゃなくて、大人用のが縮んだんだわ。
 え、乗ってしまうの、あの車はあの子がお店に来る前から停まってる。だとしたら、誰の車? どうして一人なの?

 警察が来て、あの子を探してる? 白いバンに乗ったまま、行方不明? でも、これ以上、面倒に巻き込まれたくない。へんな事言って、疑われたくない。偶然、見たことにしよう。そうじゃないと、疑われる。昔、傘を盗んだと疑われたときみたいに。
 もう、あんな思いしたくない。』


「痛くありませんか? お顔の色が優れませんが?」
 彼女の手が離れると同時に、思考からも切り離された。
「大丈夫?」
 宮部の顔が明らかに心配そうになっている。
 ああ、相当顔色が悪いんだ。酷く体も重い。
「ごめんなさい、気分が悪くなって。今日は、もう帰りたいです」
 嘘でも仮病でもなく、本音だった。
 これから、占いの館に出向いて、延々長蛇の列の人々を鑑定するのは、出来たら遠慮したい。
「すいません、今日は失礼します」
 宮部は丁寧に謝ると、指輪のサイズも訊かないまま、私の体を支えて店を後にした。
「どこかで休みますか?」
 宮部が気遣うように問いかけてきた。
「顔色がすごく悪いです。どこか座れるところを探しましょうか?」
 段々に宮部の声が遠くなっていく。
 足がもつれそうになりながらも、私は宮部に支えられて駐車場へと歩を進めるが、思うように進んでいないことは明白だ。それでも、私は一生懸命に駐車場を目指した。
「無理しないでください」
 宮部の心配げな声にも、応える余裕もない。そして、目の前がどんどん暗くなっていった瞬間、『コーン』という甲高い獣の鳴き声を聞いた気がした。 

☆☆☆

 突然、ガクリと膝をついた紗綾樺さんに、僕は驚いて彼女の顔を覗き込んだ。
 さっきまで蒼かった顔は、まるで土色のようで血の気がない。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
 声をかけても反応がないので、僕は仕方なく彼女の事を抱き上げた。
 救助訓練で抱いた人形よりも恐ろしく軽い。まるで空気のようだと思うと、訓練用の人形が取れだけ重く作られていたのだろうかなんて、つまらない考えまで次から次へと湧いてくる。
「紗綾樺さん!」
 名前を呼んでも反応しない彼女を抱いたまま、僕は人込みを走り抜けて愛車に急いだ。


 助手席に彼女を座らせ、シートを限界まで倒してみたが、気休めにしかならない。これがワンボックスなら、後部の座席でゆったりと横になれるのだろうが、そう都合よくはいかない。
 ポケットからハンカチを取り出し、車の中に常備している水のボトルを開け、三分の一ほどの水を捨ててからボトルを紗綾樺さんの口にあてた。
 こぼれないように注意しながら、ボトルを傾けて水を口の中に流し込む。
 コクリと小さな音がして、紗綾樺さんが水を飲んでくれているのが分かり、少しだけ僕は安心した。
 貧血だろうか、それとも、彼女のような特殊な力を持った人がこんな人込みの中に連れてきたのが間違いだったのだろうかと、僕は自問自答を繰り返したりした。
「紗綾樺さん」
 何度目かの呼びかけに彼女の瞼がかすかに動き、僕は心から安心した。

☆☆☆

『なんだ、狐憑(きつねつき)かと思ったら、そなた半妖(はんよう)か・・・・・・。』
 頭の中に響く声に、私はあたりを見回すが、真っ暗で何も見えない。
『狐憑きを街中で見るのも幾歳ぶりかと思うたが、半妖とはまた珍しい。』
 どういうこと、私が半妖って、どういうこと?
『人には関わらぬことだ。所詮、人と(あやかし)とは相いれない。』
 どういう意味?
『妖が戯れに人との間に成した子、哀れな半妖。妖の力を封じて人として生きるか、人から離れ、妖として生きるか、早く決めるのだな。』
 待って、何を言っているの?
 私は必死に声の主を探そうとした。


「紗綾樺さん!」
 闇を祓うように聞き覚えのある声が耳に届いた。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
 再び声が聞こえ、私はその声が宮部のものだと気付いた。それと同時に、視界に明かりが戻ってくる。
「紗綾樺さん、気が付きましたか?」
 宮部の顔が視界に入り、私は目を開けている事に気付いた。
「貧血を起こされたみたいで、途中で動けなくなったの覚えてますか?」
 そうだ、私は気分の悪さに耐えられず、途中で意識を手放したんだ。でも、車にいるってことは、宮部が私を車まで運んでくれたってこと?
「意識が戻ってよかったです。もし、しばらく待ってもだめなら、救急車を呼ぶしかないなって。でも、脈もしっかりしていたし、水も飲めたので、大丈夫かなって、思って回復するのを待っていました」
 宮部は言うと、嬉しそうにペットボトルを手渡してくれた。
「よかったら、飲んでください。僕は口をつけていませんから」
「ありがとうございます」
「お疲れだったんですよね。毎日、あんなに沢山の人の鑑定をして、それなのに、昨夜は食事に付き合わせたり、今日も、こうしてお仕事前に引っ張りまわしたりして、本当にすいません」
 宮部は申し訳ないという表情を浮かべて頭を深々と下げた。
「ご心配かけてすいません。もう、大丈夫ですから」
 さらに言葉を継ごうとしたところで、私の携帯が鳴り始めた。いつもなら、この時間電話をかけてこないはずの兄だった。
 私は、宮部に携帯を見せてから、電話に出た。
「もしもし?」
『さや、どこにいるんだ仕事も休んで!』
「えっ!?」
『昨日の事が心配で、いま占いの館まで来たら、お休みだって言われたんだ。今日、休むなんて聞いてないぞ。』
 兄の声は、心配というより、怒りを含んでいる。
『まさか、あの警察官に頼まれて、何か厄介事に巻き込まれているんじゃないだろうな?』
 うーん、我が兄ながら鋭い。
「そんなことないよ」
『今日は、何時に帰ってくる?』
 立て続けに、答えられない質問ばかりだ。困ったな。
「そんなに遅くならないようにする」
『わかった。じゃあ、家で待ってる。・・・・・・頼む、さや。これ以上、お前が傷つくのを見たくないんだ。だから、もう、力は使うな。』
 電話の向こうの兄が泣きそうになっているのが、手に取るように分かった。
「お兄ちゃん」
『じゃあ、家で待ってる。』
 兄は言うと、私の返事を待たずに電話を切った。
「お兄さん、お怒りのようですね」
 宮部の声は心配げだ。
「兄は、心配性なんです」
 私が答えると、宮部は心の中で私の家族構成を思い描いている。
 本当なら、話す必要もない間柄だけれど、これからこの事件の解決まで、ある程度の時間を一緒に過ごすとなると、宮部の事も知る必要があるし、宮部にも私の特殊な状況を知っておいてもらう必要があるのかもしれないと思った。
「今日、仕事はお休みにしますから、崇君の家と学校まで連れて行ってもらえますか? それから、静かに事件のお話ができる場所に連れて行って下さい」
 私が言うと、宮部は少し考えてから、『わかりました』と答え、一度車から降りて行った。宮部が車から降りた理由がわからず、キョトンとしていた私は、彼が駐車料金の支払いに精算機のところに行ったのだと、『百円玉、百円玉・・・・・・』と、繰り返している彼の考えを聞いて理解した。
「お待たせしました。じゃあ、車を出しますね」
 宮部は丁寧に声をかけてから車を出した。

☆☆☆

 僕は隣で静かに目を閉じている紗綾樺さんに声をかけることもできず、ただひたすら目的地を目指して車を走らせた。
 僕のために今日の仕事をお休みにさせてしまったが、生活は大丈夫なんだろうか?
 見た目で判断するのはよくないことだとはわかっているけれど、お兄さんと二人で暮らすには、プライバシーもないような小さなアパートだったし、姿を現したお兄さんも、バリバリのビジネスマンという雰囲気ではなかった。
 紗綾樺さんはスマホを持ってはいるが、同じ年代の女性のように使いこなしている風ではない。お兄さんがGPSで居場所を特定していると知っても怒りもしないところを見ると、兄妹の関係はとてもよく、紗綾樺さんはとてもお兄さんを信頼しているみたいだ。でも、昨夜のお兄さんの態度は、ちょっと過保護な気がする。あれじゃ、まるで女子高生に対するような態度だ。
 どう見ても、紗綾樺さんは成人に達しているし、姉じゃなく、お兄さんと住んでいるということの方が不思議な感じがする。
 震災で被災したというから、家族で離れ離れに暮らしているのだとしたら、仕方ないか。

「何か、音楽でもかけましょうか?」
 何とか沈黙を破りたくて声をかけてみたが、紗綾樺さんは眠ってしまったようで、答えなかった。
 警察官なら、襲われる心配はないか。
 完全な安全パイとして扱われていることに、僕は寂しさを感じた。
 いけない、いけない。『惚れっぽいのが、あなたの欠点なのよね』という母の言葉が思い出される。確かに、過去何度となく道ですれ違う女性に恋い焦がれたこともある。そんな僕にとって紗綾樺さんは一目で恋に落ちてもおかしくないくらい素敵な女性だ。
 ストレートの黒髪、卵型の顔、理知的な額を隠す揃えられた前髪。白い肌に鮮やかな紅の唇は蠱惑的といえる。それなのに、なぜか僕は紗綾樺さんに恋をしなかった。
 あの出会った日、普通なら最初にすれ違ったときに恋をしていてもおかしくないのに、僕は紗綾樺さんに恋しなかったとハッキリ言いきれる。そして今も。それが、仕事に関係しているからなのか、それとも、何か特別な理由があるのか、それは僕にもわからない。
 もちろん、好意はもっているし、信頼もしている。紗綾樺さんなら、この行き詰った捜査に何らかの光を与えてくれると、僕は確信している。これが超能力者とか、霊能力者と呼ばれる人たちに捜査を依頼するのと同じだという事はわかっている。そして、これがとても軽率な行動と人に言われることも分かっている。でも、一つだけ僕には確信がある。紗綾樺さんは僕が事件の話をする前から、事件の事を知っていた。僕の心を読んだにしろ、他の何かから情報を得たにしろ、警察しか知らないことを知っていた。
 普通、捜査協力というものは、こちらの手の内を明かして、相手に協力を求めるもの、でも、今回は違う。紗綾樺さんは犯人でもなく、関係者でもなく、事件について知り得る能力を持っている人だ。だから、紗綾樺さんになら、行方不明の崇君を見つける突破口を開くことができると、僕は信じている。
 たとえ誰も信じてくれなかったとしても、僕は信じているし、これからも紗綾樺さんの能力を信じられる。


 夕方の渋滞も、隣で紗綾樺さんが体を休めていると思うと、苦ではなかった。
 逆に、目的地の学校が近づくにつれ、また紗綾樺さんに無理をさせることになるという不安な気持ちになっていった。


 警察車両ではなく、個人の車なので、迷惑にならないように学校近くのコインパーキングに再び車を停めた。
 崇君の家から学校までは近く、学校からの帰りに少し足を延ばせば、崇君の家の近所を歩くこともできる場所を選んだ。
 本当は、紗綾樺さんに負担をかけたくないのだが、住宅街にある崇君の家の近くには駐車できる場所が少なく、現在も誘拐の線を含めて捜査が進められていることもあり、路上駐車をしていれば、顔見知りに職務質問を受ける事になるのは間違いなかった。


「紗綾樺さん」
 僕が声をかけると、彼女の切れ長の目がパチリと開き、黒曜石のような瞳が現れた。
「ここから学校まで、五分ほどの距離です。それから・・・・・・」
「崇君の家も、この近くなんですね」
 僕が説明する前に、紗綾樺さんが口を開いた。
「少し、一人にしてください」
 紗綾樺さんの言葉に、僕は慌てて頭を横に振った。
「ダメです。今日は、何度も具合が悪くなったじゃないですか。一人だったら、倒れてしまうかもしれません。少し距離を置いて、自分もご一緒します」
 今にも車を降りそうな紗綾樺さんに言うと、僕は車のエンジンを切ってシートベルトを外した。
「じゃあ、少し離れてついてきてください」
 紗綾樺さんは言うと、僕を待たずに車を降りてしまった。
 急いで車を降りると、僕は紗綾樺さんの後に続いた。


 紗綾樺さんの歩みはゆっくりとしていたが、確かに学校の場所を知っている人の歩き方だった。それは、普通の人が通る大通りを通らず、子供たちが良く使うであろう通学路を少し逸れた近道となる細い道を迷うことなく学校へと向かっていたからだ。
 たぶん、他の人から見たら、彼女が初めてこの場所を訪れたとは信じられないくらい確かな歩調だった。
 紗綾樺さんは時々立ち止まり、壁や木に手をついて瞑想しているように見えた。
 時にはすぐに歩き出し、時には苦痛に耐えるように顔をゆがめながら、しばらくその場に立ち尽くしたりもした。
 『そうか、紗綾樺さんの顔色が悪くなるのは、苦痛のせいなんだ』と、少しずつ顔色が蒼くなっていく紗綾樺さんを見つめて僕は思った。それでも、距離を置いてくれと言われているので、僕には紗綾樺さんの事を離れて見つめる事しかできなかった。

 学校の壁に手をついてしばらく瞑想した紗綾樺さんは、糸の切れた操り人形のように、その場に再び膝をついて座り込んだ。
「紗綾樺さん!」
 僕は慌てて走りよると、紗綾樺さんの体を抱き寄せた。
「すいません。・・・・・・この地の気が荒くて」
 紗綾樺さんは、僕の事を気遣うように言った。
 実際、説明されても『地の気が荒い』とどうなるのか、自分には全く理解できなかったが、少なくとも力を使う度に紗綾樺さんに激しい苦痛が伴うのだという事を僕は痛いほど理解した。
 そう、あんなに紗綾樺さんのお兄さんが心配したのは、僕のような何も知らない他人が、紗綾樺さんの力を頼みにして、どれ程の負担が紗綾樺さんの体や精神にかかるかも顧みず、無責任な頼みごとをして紗綾樺さんに力を使うことを強要することだったのだと、僕は痛いほど思い知らされた。
 あの占いの館で、何もないようにして占いを行っていた姿から、紗綾樺さんが難なく力を使うことができるのだと勘違いした愚かな自分に、僕は自分で腹さえ立ってきた。
「大丈夫です。すぐに立てるようになります」
 紗綾樺さんの言葉は、このような症状がいつものことだと教えてくれた。
 紗綾樺さんには、縁もゆかりもない崇君の非公式な捜査依頼を受けるという事が、眩暈や、貧血、痛みと言った色々な苦しみを自分にもたらすことだと知りながら、協力してくれたのだと、僕は気付くとともに、更に激しく後悔した。
「申し訳ありませんでした」
 僕は腕の中で力なく体を預けている紗綾樺さんに謝罪した。
「僕は、もっと簡単に考えていたんです。あの占いの時みたいに、ほんの数分で、何もかもわかるんじゃないかって。こんな風に、あなたが苦しむのだと分かっていたら、お願いしたりしませんでした」
 血の気の引いた蒼い顔を見れば、全てが苦痛以外の何物でもないことは、誰の目にも明白だった。
「大丈夫です。・・・・・・崇君の家のそばに連れて行ってください」
「紗綾樺さん、自分には、これ以上あなたの苦しむ姿を見て居られません」
 僕は自分の気持ちを偽ることなく伝えた。
 すると、紗綾樺さんは僕の腕に手をかけて僕の顔をまっすぐに見上げた。
「探させてください、私に・・・・・・。私に、死体ではなく、生きている崇君を私に見つけさせてください」
 その瞳には強い意志が込められていた。
 細く華奢な体からは想像もできないくらい強い意志が・・・・・・。
「車で近くを走ります。それで良いですか?」
 僕がダメだと言っても、駐車場から学校までの道が分かった紗綾樺さんなら、自力で崇君の家にたどり着くことができる。ここで言い争うよりも、紗綾樺さんが自力で目的を達成するのではなく、体力を温存できるように、そして今みたいに外で倒れそうになることを防ぐことができるように、車で移動するという妥協案を承諾してもらえるように祈るほかなかった。
「そうですね。今日は、家の前を通ってもらえれば、それでいいです。お家を訪ねたり、ご家族や知り合いに会う必要はありません」
 なんとか紗綾樺さんの合意を得ると、僕は再び紗綾樺さんを抱き上げた。
「あの、恥ずかしいです」
 街中で抱き上げた時は、ほとんど意識がなかったので抵抗がなかったのだろうが、紗綾樺さんはお姫様抱っこされたことに顔を赤らめていた。
「今日、二回目です。今更、恥ずかしがらないでください」
 僕が言うと、紗綾樺さんの顔はさらに赤くなり、両手で顔を覆ってしまった。
「できたら、手を僕の首の後ろに回してつかまってください。落ちて怪我しないように」
 紗綾樺さんは、おっかなびっくりといった感じで、僕の首に手を回した。
「走りますから、口は閉じていてください」
 僕は言うと、紗綾樺さんを抱いて駐車場まで走り続けた。幸運にも、誰ともすれ違うことなく、僕たちは車まで戻ることができた。
 車のロックを解除するのももどかしく、僕は紗綾樺さんを助手席に座らせた。
 それでも、苦しそうな紗綾樺さんの顔色は少しも良くならなかった。
「大丈夫です」
 心配する僕の心を読んだのだろう紗綾樺が尋ねもしないのに答えた。
「近くに車を止めると、職質をかけられる可能性があります。走り抜けますが、それで良いですか?」
 念のため、僕は紗綾樺さんの確認を取る。
「はい。大丈夫です」
 紗綾樺さんの答えを聞いた僕は、住宅街の制限速度をかなり下回るゆっくりとしたスピードで崇君の家へと向かった。
「この道で崇君は通学していたと思われます」
 尋ねられていなかったが、少しでも紗綾樺さんの役に立てばと、説明を続けた。
「ここを右に曲がって・・・・・・」
「大丈夫です。見えます。崇君が歩いているのが」
 紗綾樺さんの声は、僕の言葉が邪魔になっていることを伝えていた。
 半ば閉じかけた瞳で紗綾樺さんは僕には見えない崇君を見ているのだと、僕も気付いた。

☆☆☆

 普段ならば絶対にしないことだったけど、私は思い切って心の扉を全開にした。
 一気に隣の宮部の心だけでなく、周辺の住宅の住民、近くの道路を歩いている通行人、路地に車を止めて不審者を警戒している警察官達の意識、そして普通の人には見えないし聞こえないモノたちが私の中に流れ込んできた。
 厄介なのは、事件のことを知っている警察官の記憶だ。思い込みによってゆがめられた記憶が私の判断を鈍らせる事がよくある。だから、人の記憶は当てにならない。でも、それ以外のモノたちの記憶は役に立つ。
 私は崇君の情報を求めて意識の中を彷徨った。
 大量の意識と記憶を相手にしているせいで、自分自身が体から離れてしまいそうになる。でも、これ以上体からかはなれるのは危険だ。それこそ、意識を失って病院にでも運ばれたら大事になる。
 注意深く、体に自分を繋ぎ止めながら崇君に関する記憶を探す。
 大きな光がはじけるように、あふれる光の中に崇君の姿が浮かび上がった。
 ああ、母さんの想い出だ。愛にあふれて、崇君のことを探している。覗いている私の胸が温かくなるくらい、お母さんの愛は深い。
 崇君の記憶を探している私に語りかける意識があった。
『さがして、はやく。』
 目の前に赤い花びらが舞う。
『あの子をさがして、早く。』
 椿の木だ。
 次の瞬間、ねっとりとした闇の固まりに飛び込んだ私は、恐怖で心を一気に閉ざした。
 体の感覚は戻ってきていないものの、全身が嫌な汗でべたついているのがわかる。
 瞼は重く、開こうとしても持ち上がらない。全身の感覚が戻ってくると、全身が軋むような痛みに襲われた。
 これだから、力は全開にするものじゃない。
 見たくなかったものも、聞きたくなかったことも、今は全て私の中に記録されてしまった。記憶なら改竄できても、記録は改竄できない。どんな醜いものも、汚いものも、記録されてしまったら、私はそれと共に生きていくしかない。
 悔やんでも、いまさらなかったことには出来ない。
 痛みに慣れ、諦めがつくと、やっと瞼が持ち上がった。
 目の前の風景は動いておらず、コンビニのまぶしいほど明るい看板が目に痛い。たぶん、私のことが心配で宮部が車を止められる場所を探してここに来たに違いない。
 シートは限界まで倒されているので、他に見えるのは人口の光にかき消された星空くらいだ。
 その時になって、隣に宮部が座っていないことに私は気付いた。
『お前、差し入れのためにわざわざこんなとこまで来たのか?』
『ちょっと用があって、近くまで来ただけです。』
『本当か?』
『本当ですよ。』
『差し入れなら歓迎だったのに。』
『すいません、連れの気分が悪くなって寄っただけです。』
『なんだよ、デートか?』
『ノーコメントです。』
『ったく、いいよな、相手がいる奴は。しっかり励めよ。』
 私の知らない警察官の頭の中に、露骨に卑猥なイメージが浮かび上がった。
 いけない、閉じたはずが、閉じきっていなかったのか・・・・・・。いや、それとも、私の中の力が閉じ込められなくなっているのかもしれない。
 そんなことを考えていると、車のドアーが開き、宮部がペットボトルに入ったお茶と紅茶を持って戻ってきた。そして、私が目を開いているのを見ると、一気に気まずそうな表情を浮かべた。
「すいません。あの人、悪気はないんです」
 宮部の言葉の意味がわからなかった私に、彼は更に言葉を継いだ。
「すぐに、励めとか卑猥な事言う人なんですけど、悪い人じゃないんです」
 その言葉から、さっき会話していた相手がいやらしい妄想をしていたことに対してのフォローだと理解した。
「大丈夫です。慣れてますから」
 私は良く考えもせずに答えたが、宮部の顔はすごく申し分けそうなままだった。
「あの、温かい飲み物が良いかとおもって、お茶と紅茶を買ってきました」
 二本のペットボトルを差し出され、私は紅茶のボトルを受け取った。
 普通ならお茶がいいのだが、ここまで力を使うと、エネルギーが足りなくなって甘いものが欲しいと体と脳が訴えてくる。
「もし、甘すぎたら言ってください。こっちのボトルは開けずに置きますから」
 紅茶を飲み下す私の姿に、宮部は少し安心したようだった。
「ミルクもお砂糖も入っているし、少しは紗綾樺さんが元気になるかと思ってミルクティーにしたんですけど、甘すぎるかなって心配になって、それでお茶も買ってみました」
 宮部の優しさはうわべだけでなく、本当に心根の優しい人間なんだと、私は改めて思った。
「お家まで送りますね」
 少し寂しげに言う宮部の心は、既にがっちりとガードされていて、彼が何を考えているかを読むことは出来なかった。
「家に帰る前に、どこかゆっくりとお話の出来る場所に連れて行ってください」
「でも、お兄さんが心配されるでしょう?」
 宮部の言う事は最もだ。私は、兄の電話に遅くならないと返事をした記憶がある。それでも、今日見たり聞いたりしたことを宮部に話す必要がある。
「いえ、手遅れになる前に、きちんと話しておきたいんです」
「わかりました。じゃあ、着くまで紗綾樺さんは休んでいてください」
 宮部は言うと、残ったお茶のボトルを私に手渡し、自分はろくに休憩もしないまま車を走らせ始めた。

 どこに行くのかわからないドライブだったが、宮部が私をいかがわしいところに連れて行く心配もなかったし、安心感からか、宮部の流れるような運転技術のせいか、気付けば私は再び眠りに落ちていた。


「紗綾樺さん、つきましたよ」
 ちょっと困ったような声で私を呼ぶ宮部に、私は驚いてパチリと目を開けた。
「すいません、ぐっすり眠ってしまって」
 私が謝ると、宮部は安心したのか、少し笑みをもらしたが、すぐに不安げな表情になった。
「誰にも邪魔されず、話ができるところって、ここしか思いつかなかったんです」
 宮部の言葉に、私は眼前に迫る怪しい建物に目を細めた。
 私は行ったことがないが、あれは話に聞く、ラブホテルと言われる建物に違いない。
 確か、お役所への届出は、宿泊施設。公安に風俗施設の届出をしていない場合、おおっぴらに看板を出せない宿泊施設。普通は、恋人同士など、男女が合意の上で肉体関係を持つためにお金を払って部屋を借りる場所。
 確かに防音なんだろうし、誰にも邪魔されないだろうし、ゆっくり二人で話は出来るだろうが、目的にあっているからといってモラルをなくして良いということにはならない。前言撤回だ。こいつのどこが心根の優しい良い男だ。ちょっと油断したら、ホテルに女を連れ込もうとするろくでなしと大して変わらないじゃない。警察官のくせに、この男、いったい、何をどう考えたらこういう結果になるのよ!
 今にも私の怒りが爆発しそうなのを察したのか、宮部は慌てて頭を横に振った。
「違います。あそこじゃありません。周りの道路が一方通行なもので、駐車場の出入り口が風紀の悪い側にあるんですが、ここはカラオケです」
 宮部の言葉に私の暴走しかけた怒りはすぐにおさまった。
「こっちが入り口です」
 先に立って歩く宮部に続き、私は駐車場の奥にある自動ドアーをくぐった。
 確かに、そこはカラオケ店だった。
 自動ドアー一枚で、ここまで防音効果があるのかと思うくらい、店内は音で溢れていた。敢えて音と称するのは、鳥を絞めたような叫び声から、野獣の雄叫びのような声まで、ありとあらゆる声が音楽と一緒にあふれかえっているからだ。
 宮部は受付を済ませると、私を連れて上階の個室へと向かった。
「まだ、お客さんの入ってないフロアーを開けてもらいました」
 どうやら、以前勤務していた署の管轄内にあるお店らしい。
「前に、何度か非公式にというか、個人的にといいましょうか、店でのもめごとで呼び出されたことがあって、ほんのちょっとなんですけど顔がきくんです」
 自慢するというでもなく、どちらかといえば、ちょっと照れたように説明すると、宮部は部屋番号を確かめながら、人気のないフロアー奥の個室の扉を開けた。


 個室の中は、照明も一番暗く設定されていて、機械の電源も入っておらず、とても静かだった。
 入り口でエアコンのスイッチをオンにした宮部は、部屋の照明を一気に目一杯明るくした。
「飲み物は、とりあえずアイスのウーロン茶を頼んでありますけど、他にご希望があれば、すぐに注文しますので、遠慮なく言ってください」
 促されるまま、奥のソファ席に腰を下ろした私に、まるで店員のように宮部はメニューを広げて見せた。
「大丈夫です」
 私が答えると、宮部は私の向かいにキャスター付きの椅子を動かして座った。
「詳しい話は、お茶が来てからにしましょう」
 さっきまでとは違い、宮部の顔は警察官の顔になっていた。
 そう、さっきまでの宮部は、警察官ではなく、宮部尚生という一個人として私と接していたんだ。
 警察官に戻った宮部の心はがっちりとガードされていた。これは、彼が持って生まれた才能だ。兄と同じ、放射能すら通さない鉛の箱のようなもので心を覆い、私に読まれないようにする。大抵の人は、丸見えかよくても襖越し程度で、頑張ってもベニヤ板程度だ。その程度のガードであれば、私が本気になれば、叩き壊して踏み込むことができる。でも、兄と宮部の才能は特別だ。
 別に心が読めなければ、一緒に居ても苦痛ではない。相手が何を考えているか、ぼんやり必要なことだけがわかる生活は、言わば熟年夫婦のあうんの呼吸のような関係だ。でも、心の中まで丸見えになる相手と長く過ごすことは苦痛だ。知りたくないことまで知ってしまうし、相手のプライバシーを知らない間に侵害し続けているという罪悪感も私の中に生まれてしまう。だから、兄の才能を喜んでも疎んだことはない。

 ノックの音が部屋に響き、店員が飲み物を運んできた。
「機械の電源は入れなくてよろしいですか?」
 店員の疑問は当然だ。
 カラオケ店に来て、機械の電源が入ってない部屋で、しかも誰も居ないフロアーで私たちが何をしようとしているのか、疑問に思うのは当たり前のことだろう。
「用があれは、こちらからフロントに連絡します」
 宮部は言うと、さりげなく警察手帳を見せた。
 これは、怪しい客が来ていますと、店長に相談もせず、スタッフが警察に通報するのを防ぐためらしい。
「飲み物ばかりですいません。ここの食べ物はあまりお勧めできないので」
 宮部は言うと、グラスを私の前に押して寄越した。
「戴きます」
 私は宮部を安心させるため、グラスを手に取るとアイスウーロン茶を一口飲んだ。

☆☆☆