「これ、今日は無理させてしまいましたから。次からはきちんとバイト代を計算しますからね」
萩は手提げ紙袋を乃里に渡す。ちょっぴり重量感のあるものだった。
「なんでしょうか。これ」
「自家製プリンです。よかったらご家族で召し上がってください」
「うわぁ! いいんですか、嬉しい~」
「あ、萩のプリンはうまいよ。俺も好き」
牡丹の好き、の言い方がやたらキラキラと煌めいていたので乃里はまた苦笑する。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ふたりに手を振り、旅館をあとにした。
来た道を戻っているだけなのに、景色がまるで違って見えた。少しだけ働いたからだろうか。対価は自家製プリン四個。大満足だ。
紙袋を抱きしめて、竹林の道を行く。あたりは少し薄暗くなっていて、夕焼けが竹林の間からオレンジ色の光を煌めかせる。
うまい具合にバスがあるといいな。夕飯のデザートにプリンを食べたいし。
家族もみんな喜ぶだろうから。
なんとなく振り向くと銀色の猫がこっちを見ていた。
そういえば、旅館で猫の鳴き声を聞いたが、あの猫だろうか。乃里はそばに行こうとして、驚かせないようにそっと足を動かし道を戻ると、等間隔で猫が遠ざかっていく。
飼い猫じゃないのかも。このあたりに住み着く子なんだろうな。
警戒心が強い。乃里は追うのを止め、銀色猫に手を振った。
「仲良くしよう。また来るね」
声をかけてまた道を行く。
背中になんとなく感じる視線はきっとあの銀色猫のものだろう。
懸念されたバスもあまり待たずに乗ることができ、乃里が帰宅すると十八時を過ぎていた。
いい匂いがしていて、今夜のメニューはカレーなのだと思う。
父が仕事から帰ってきており、五歳になる弟の里司とプロレスごっこをして絨毯を転がっていた。キャハハという里司の楽しそうな笑い声が響く。
「ただいま」
「あ、姉ちゃんおかえりー!」
「ただいま。お父さんも帰ってたの。おかえり」
「遅かったな。おかえり」
「今日ね、ちょっとだけ厨房を手伝ってきたの」
今日アルバイトの面接で出かけていたことは家族みんなが知っていることだった。
乃里は、リビングに置かれた写真立てに手を合わせる。
ただいま、お母さん。
キッチンに立ち鍋の火を止めた母の佐和子が乃里のところへ来る。
「乃里ちゃん、お帰りなさい。どうだったの? バイトの面接」
「うん、採用」
「そうなのね、おめでとう! じゃあお祝いしなきゃね」
「いいよ、しなくても。そんなの……」
「だって、乃里ちゃんのことだもの。わたしも嬉しいから」
乃里は母から目を反らし、萩に貰った紙袋をテーブルに置いた。
乃里は、佐和子の反応が鬱陶しいと思ってしまう、この瞬間の自分が一番嫌いだった。
佐和子は、父の再婚相手で乃里の継母である。
弟の里司は再婚後に生まれた父と佐和子の子であり、佐和子と乃里に血の繋がりはない。
再婚を反対しなかったのは父のためだった。
乃里を抱き、毎晩涙に目を腫らしていた父を思い出すと、胸が締め付けられる。自分の悲しみより、家族が悲しむほうが数倍嫌だった。
けれど、実際ひとつ屋根の下に暮らすと、突然入ってきた他人であることに慣れず、そのうちに佐和子のお腹に弟ができて、嬉しいのと寂しいのとごちゃ混ぜの感情が渦巻いた。
そして里司が産まれ、赤子を抱いた佐和子、父の三人を見たときの疎外感は言いようもない苦しさが乃里の心に充満した。
いまでもそれは続いている。
乃里の顔色を見て取った父が里司を膝の上に乗せながら、声をかけてくる。
「よかったじゃないか。夏休みのバイトが決まって」
「それなんだけど、旅館で前のバイトが辞めちゃって大変そうだから、明日学校に申請出して、今週末からでも行けるようにしたくて。放課後に飲食店でバイトをしている調理科の子もいるし」
父は少し眉間に皺を寄せた。あまりいい反応ではない。
「まだ一年生だ。平日のアルバイトを入れるならせめて来年からにしなさい。だめだ」
「学校の申請は心配いらないと思う。それに、あと一カ月もすれば夏休みになるし。あとは、わたしがんばるもん。やりたいの。いいでしょう、お父さん。」
乃里がきちんとしなければ、がんばらなければ、父に心配をかける。乃里が真剣な態度であることを汲み取り、腕組みで難しそうな顔をする父が佐和子を見る。
「あなたと乃里ちゃんがいいなら、わたしからはなにも」
「なぁ乃里。そんなに急がなくてもいいだろう。夏休みからにしなさい」
父は小さく溜息をつく。娘の真っ直ぐな性格は自分に似たと思っているはずだ。
父の許可が貰えないなら、引くしかない。仕方ない。
乃里は小さく溜息をついた。なんでもかんでもだめだと反対する父親ではないが、さすがに今回は乃里が強引だったか。
「すぐに夏休みになるんだから。バイトに夢中になって学校を疎かにしないこと。あまり母さんに心配かけないようにな」
「佐和子さんには……迷惑かけないよ」
乃里は佐和子を母とは呼ばない。だって、自分を生んでくれた母は、乃里が十歳の時に病死した母だけなのだから。
「乃里ちゃんのことが心配だから。夏休みのバイトも、帰りが遅くなるようなときには迎えに行きますから、わたし」
佐和子の言葉に苛立ちを覚え、ふっと顔を反らす。
「姉ちゃんなにこれー」
絶妙なタイミングで入ってくる弟だ。乃里は佐和子に返事を返さずに里司の頭を撫でる。
「里司にお土産。旅館しろがねの自家製プリン。今日のお姉ちゃんのバイト代だよ」
「やったぁ。食べていい?」
「よかったな、里司。夕食のあとにみんなで食べような」
夕食後のデザートがプリンであることにテンションの揚がった里司は乃里に抱き付いてきた。
「なんだ里司~! 姉ちゃんとプロレスするか!」
「しないよ! 女にはそういうことしちゃだめって、父さんに言われた!」
「なにその正しさ! 国で保護すべき」
「ホゴってなぁに?」
「なんでもない。真っ直ぐ育て」
里司はとても可愛い弟だ。
まだ、乃里と母親が違うことを知らない。成長と共に教えるのか、または教えないままでもいいのだろうとも思うが、父たちがどう考えているのかは分からないので乃里も黙っている。
プリンの紙袋を冷蔵庫に入れる佐和子の姿が視界の隅に入る。
自分がいままだ里司くらいの歳であったなら、素直に佐和子を「お母さん」と呼び、そして抱き付いていただろうか。
少し里司の無邪気さが羨ましいと思った。
萩は手提げ紙袋を乃里に渡す。ちょっぴり重量感のあるものだった。
「なんでしょうか。これ」
「自家製プリンです。よかったらご家族で召し上がってください」
「うわぁ! いいんですか、嬉しい~」
「あ、萩のプリンはうまいよ。俺も好き」
牡丹の好き、の言い方がやたらキラキラと煌めいていたので乃里はまた苦笑する。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ふたりに手を振り、旅館をあとにした。
来た道を戻っているだけなのに、景色がまるで違って見えた。少しだけ働いたからだろうか。対価は自家製プリン四個。大満足だ。
紙袋を抱きしめて、竹林の道を行く。あたりは少し薄暗くなっていて、夕焼けが竹林の間からオレンジ色の光を煌めかせる。
うまい具合にバスがあるといいな。夕飯のデザートにプリンを食べたいし。
家族もみんな喜ぶだろうから。
なんとなく振り向くと銀色の猫がこっちを見ていた。
そういえば、旅館で猫の鳴き声を聞いたが、あの猫だろうか。乃里はそばに行こうとして、驚かせないようにそっと足を動かし道を戻ると、等間隔で猫が遠ざかっていく。
飼い猫じゃないのかも。このあたりに住み着く子なんだろうな。
警戒心が強い。乃里は追うのを止め、銀色猫に手を振った。
「仲良くしよう。また来るね」
声をかけてまた道を行く。
背中になんとなく感じる視線はきっとあの銀色猫のものだろう。
懸念されたバスもあまり待たずに乗ることができ、乃里が帰宅すると十八時を過ぎていた。
いい匂いがしていて、今夜のメニューはカレーなのだと思う。
父が仕事から帰ってきており、五歳になる弟の里司とプロレスごっこをして絨毯を転がっていた。キャハハという里司の楽しそうな笑い声が響く。
「ただいま」
「あ、姉ちゃんおかえりー!」
「ただいま。お父さんも帰ってたの。おかえり」
「遅かったな。おかえり」
「今日ね、ちょっとだけ厨房を手伝ってきたの」
今日アルバイトの面接で出かけていたことは家族みんなが知っていることだった。
乃里は、リビングに置かれた写真立てに手を合わせる。
ただいま、お母さん。
キッチンに立ち鍋の火を止めた母の佐和子が乃里のところへ来る。
「乃里ちゃん、お帰りなさい。どうだったの? バイトの面接」
「うん、採用」
「そうなのね、おめでとう! じゃあお祝いしなきゃね」
「いいよ、しなくても。そんなの……」
「だって、乃里ちゃんのことだもの。わたしも嬉しいから」
乃里は母から目を反らし、萩に貰った紙袋をテーブルに置いた。
乃里は、佐和子の反応が鬱陶しいと思ってしまう、この瞬間の自分が一番嫌いだった。
佐和子は、父の再婚相手で乃里の継母である。
弟の里司は再婚後に生まれた父と佐和子の子であり、佐和子と乃里に血の繋がりはない。
再婚を反対しなかったのは父のためだった。
乃里を抱き、毎晩涙に目を腫らしていた父を思い出すと、胸が締め付けられる。自分の悲しみより、家族が悲しむほうが数倍嫌だった。
けれど、実際ひとつ屋根の下に暮らすと、突然入ってきた他人であることに慣れず、そのうちに佐和子のお腹に弟ができて、嬉しいのと寂しいのとごちゃ混ぜの感情が渦巻いた。
そして里司が産まれ、赤子を抱いた佐和子、父の三人を見たときの疎外感は言いようもない苦しさが乃里の心に充満した。
いまでもそれは続いている。
乃里の顔色を見て取った父が里司を膝の上に乗せながら、声をかけてくる。
「よかったじゃないか。夏休みのバイトが決まって」
「それなんだけど、旅館で前のバイトが辞めちゃって大変そうだから、明日学校に申請出して、今週末からでも行けるようにしたくて。放課後に飲食店でバイトをしている調理科の子もいるし」
父は少し眉間に皺を寄せた。あまりいい反応ではない。
「まだ一年生だ。平日のアルバイトを入れるならせめて来年からにしなさい。だめだ」
「学校の申請は心配いらないと思う。それに、あと一カ月もすれば夏休みになるし。あとは、わたしがんばるもん。やりたいの。いいでしょう、お父さん。」
乃里がきちんとしなければ、がんばらなければ、父に心配をかける。乃里が真剣な態度であることを汲み取り、腕組みで難しそうな顔をする父が佐和子を見る。
「あなたと乃里ちゃんがいいなら、わたしからはなにも」
「なぁ乃里。そんなに急がなくてもいいだろう。夏休みからにしなさい」
父は小さく溜息をつく。娘の真っ直ぐな性格は自分に似たと思っているはずだ。
父の許可が貰えないなら、引くしかない。仕方ない。
乃里は小さく溜息をついた。なんでもかんでもだめだと反対する父親ではないが、さすがに今回は乃里が強引だったか。
「すぐに夏休みになるんだから。バイトに夢中になって学校を疎かにしないこと。あまり母さんに心配かけないようにな」
「佐和子さんには……迷惑かけないよ」
乃里は佐和子を母とは呼ばない。だって、自分を生んでくれた母は、乃里が十歳の時に病死した母だけなのだから。
「乃里ちゃんのことが心配だから。夏休みのバイトも、帰りが遅くなるようなときには迎えに行きますから、わたし」
佐和子の言葉に苛立ちを覚え、ふっと顔を反らす。
「姉ちゃんなにこれー」
絶妙なタイミングで入ってくる弟だ。乃里は佐和子に返事を返さずに里司の頭を撫でる。
「里司にお土産。旅館しろがねの自家製プリン。今日のお姉ちゃんのバイト代だよ」
「やったぁ。食べていい?」
「よかったな、里司。夕食のあとにみんなで食べような」
夕食後のデザートがプリンであることにテンションの揚がった里司は乃里に抱き付いてきた。
「なんだ里司~! 姉ちゃんとプロレスするか!」
「しないよ! 女にはそういうことしちゃだめって、父さんに言われた!」
「なにその正しさ! 国で保護すべき」
「ホゴってなぁに?」
「なんでもない。真っ直ぐ育て」
里司はとても可愛い弟だ。
まだ、乃里と母親が違うことを知らない。成長と共に教えるのか、または教えないままでもいいのだろうとも思うが、父たちがどう考えているのかは分からないので乃里も黙っている。
プリンの紙袋を冷蔵庫に入れる佐和子の姿が視界の隅に入る。
自分がいままだ里司くらいの歳であったなら、素直に佐和子を「お母さん」と呼び、そして抱き付いていただろうか。
少し里司の無邪気さが羨ましいと思った。