「俺は死なないよ。父ちゃんに絶対会えるって思ってたから」
「どうして?」
「ひとりじゃ無理だもん。萩と牡丹と乃里が一緒に探してくれたから!」
 ここでも縁が命を救ったのだろうか。
 皆に守られたタキという命は、ここで笑っている。
「なくていい命はないというが、生きるのも消えるのも命には理由があるだろ。こいつがいなくていい命だったら、俺がこいつを拾った時も、きみがタキを見つけたときも、生き延びることができなかったただろう」
 イナバの黒い毛にオレンジ色の光が当たって、金色に見えた。不思議だ。
「もう、そんな時間なのか」
 隣にいた牡丹の目が光を受けてきゅっと細くなる。
 福浦島に到着したときはまだ昼頃だったはずなのに、もう空には夕方の太陽の光が広がる。長時間過ごしたわけではないはずなのに。あやかしたちと共にする時間軸は、歪むのだろうか。
「イナバさん」
 萩が静かに口を開く。
「いままで秋保の山にいたのに、どうして海のそばに住もうと思ったのですか?」
「山の食べ物に飽きて、魚が食べたくなっただけだよ。景色もいいし。ここに飽きたらまたどこかへいくさ。秋保は秋保で楽しかったよ」
 イナバはハハッと軽く笑う。深刻な理由ではなかったからほっとしたのだろうか、萩もつられて歯を見せた。
「あそこは僕も好きです。いつか、うちの店にもいらしてください。山の幸も海の幸もお口に合うよう、料理いたしましょう」
「それは楽しみだ。必ず行くよ」
 萩が差し出した手をイナバは握った。
「行くか、タキ」
「うん」
 どこに行くの。言いそうになったけれど、ここから先は関係してはいけない気がして、乃里は黙って見ていた。イナバとタキの親子は手を繋ぎ、乃里たち三人を振り返る。
「じゃあな、乃里。元気でな」
「タキもね、もう迷子にならないように。お父さんの言うことちゃんと聞いて」
「迷子じゃねぇ! はぐれただけだってば!」
 タキの反応を見て皆で笑う。
 イナバとタキは歩き出した。
 どこへ向かうのだろう。どこでもいいか。元気でいるならば。
 弁財天堂の敷地を出て行く大小の背中を見送る。いつかまた、どこかで会えるといいな。会いたいなと願いながら。
 次に会った時は、タキはきっといまよりも大きくなっているだろう。
 見えなくなるまで、見送っていた。
 タキの小さな背中は、父と里司が手を繋ぐ姿と重なって、胸がぎゅっと締め付けられた。
「僕たちも、帰りましょうか」
 萩が言い出さなければ、ずっと弁財天堂の前に立ち尽くしていたかもしれない。
「そうですね」
 萩が先に歩き出す。少し離れて牡丹、牡丹のうしろを乃里は歩いた。
 ここへ来たときはタキがいて騒がしくて、一人減ってしまったのでやはり少し寂しい気がする。
「乃里ちゃん、随分と思いつめているんだね」
 牡丹が、乃里を振り返った。
「思いつめて、いますかね」
 自分の家族のことを言いたいのだろう。慮るのが得意そうな萩ではなく、ストレートな物言いをする牡丹のほうがいいのかもしれない。継母で、弟がいることは以前話した。家族の話題に関しては、乃里の反応があまりよくないことは牡丹が萩にもきっと言っただろう。
「佐和子さんて、いうんです」
 うん? と聞き返す牡丹。「いまの母親の名前」というと、頷いた。
「そう呼んでるんだ? お母さんのこと」
「書類上は母親です。でも、わたしは呼べません。タキを見習わないとだめですかね。あんなに素直に、お父さんのこと」
「乃里ちゃんは、乃里ちゃんでしょ。タキの真似する必要ないんじゃない?」
 ザクザクと地面を踏みしめる音がする。牡丹と自分の四つの足音は不規則に、心に響く。少し前を歩く萩がこの会話にいないことがよかったのかもしれない。三人で並んで歩いていたなら、牡丹はきっと乃里に声をかけなかっただろう。

 父が紹介した佐和子はほどなくして結婚し、一緒に暮らすようになる。それは自然だった。
トラブルなく、佐和子は乃里の生活に入ってきた。
死んだ母がいた場所だ、と乃里は思っていた。役割だとも、空席だとも思った。
「本当の親子になることは無理でも、だからこそ、ずっと一緒にいよう」
 って、言ったんです。乃里は牡丹に、ぽつりと言った。
 佐和子は、生まれたばかりの里司を抱いて、乃里にそう言ったのだ。
 本当の親子ってなに? わからなかった。心の底から一点の曇りもなく可愛いと思える自分の子供を抱きしめて、自分が産んだのではない子供に向かって、どういう気持ちで言ったのか、理解できなかった。
 まるで返事のように、あばぁ、と笑った赤ん坊の里司の顔を覚えている。