「たまたまなんだろうけれどな。外には人がたくさん歩いている」
橋をひとつ隔てたからか、この島は静かで、なにか薄い膜がかかるように感じる。
遊歩道が整備され、歩行するには問題ない。ただアップダウンがあるのでけっこう体力を使う。暑さもしんどい。
「暑い……それに四足歩行のみんなと違うのよ」
ぶつぶつ言っていると、軽く息が弾み始めた。
「景色は最高なんだけど。疲れた。暑い」
「乃里、文句ばっかりだな」
タキに言われて、たしかにそうだとぐっと黙る。
青い空、静かな海。絶景に気を紛らわせてみてもやっぱり辛いものは辛い。
「あ、ほら。乃里さん、タキさん、見てごらんなさい。売店もあるんですね」
萩が指さすと、タキと同じく牡丹も反応する。
「本当だ。お腹空いたよなー」
「せっかくですから、帰りになにか食べて帰りましょうか」
「そうだよな。牡蠣の時期は冬だけど、うなぎ屋もあるし」
兄弟は暢気にそんなことを話している。
松の木々が作る日影が、日差しを遮ってくれるが、しかし熱い。汗を拭って前を見たとき、古くて小さな瓦屋根の建物が見えた。
「弁財天堂……」
正面に掲げた木彫りの文字を追うと、福浦島弁財天と読める。木々の間にひっそりと佇む弁財天堂というお堂らしい。
「なかなか歴史を感じるお堂ですね」
「あれなに、なんか壁に赤いポツポツが……」
乃里の言葉を聞いて「どれ?」と牡丹がお堂に近付く。
「おお。こりゃ圧巻だね。小さい達磨がずらっと」
お堂の壁は格子になっており、そのマスひとつひとつに小さな赤い達磨がずらりと並べてあるのだ。タキと共にお堂の階段を上り、壁に近付いてみる。
「しかもひとつひとつ表情が違うんですね」
どうしてこんなものがあるのかわからないが。少しだけ怖い気がする。
触っても大丈夫なのだろうか。乃里は手を伸ばして小さな達磨に触れようとした。その時。ふっと風が吹いて、指先の達磨が壁からひとつころりと落ちた。
固定されてないのか。拾おうと屈んだ時、タキが乃里の手を離した。
「父ちゃん!」
「え?」
タキの声が弁財天堂敷地内にこだまする。
ざざざ、と風が強く松の木を揺らす。まるで旋風に乗ってきたかのように姿を現したのは、大きな黒い塊だった。乃里は自分の体が強張りいうことを聞かないことに気づく。
手が、動かない。
「あ、あぶな」
「父ちゃん!」
「……タキ」
太く低く、体の奥底に響くような声がタキを呼んだ。
「タキの、お父さん……?」
真っ黒な塊はゆっくりと盛り上がり、四つん這いにから二本足で立つ。人型になっていく。白いシャツを着てデニムズボンを履いている。立ち上がった身長は萩や牡丹と同じような高さなので、成人男性の身長といったところだろうか。タキの下半身が狼のそれなので、同じような狼男を想像していたが、タキの父親は顔が狼だ。タキのように黒い毛、狼の耳と顔、鼻。赤く裂けたような口に牙が見える。
乃里は肌が泡立った。怖い。喰われるのではないだろうか。でも、萩と牡丹がいるのだからここは全力で守ってもらおう。
「タキさんのお父様ですか?」
恐れることなく萩が訪ねた。グルルと狼男の口から獣の音がする。
「そうだ」
人語を離す狼か。そんなことを言ったら、タキだって狼男なのだけれど。
駆け寄って足に抱き着くタキの頭を撫でて目を細める。猫がやるみたいに。
「探したんだぞ、父ちゃん!」
「そりゃこっちの台詞だ。お前が鳥を追いかけるのに夢中になって遠くに行くからだろう」
「すぐ戻ったもん。もう父ちゃんの匂いが追いかけられなくなってたんだもん」
口を尖らせるタキの頭をくちゃりと撫で、タキの父親はこちらに視線を向けた。
「……あんたらは」
「僕たちは、タキさんを保護しましてね。少し怪我をしていたので」
「怪我?」
「彼女が、タキさんが倒れていたのを見つけて。ああ、擦り傷程度でしたので心配いりませんよ。たくさん食べるし、元気です」
タキのように男の子の顔ならば表情が読み取れるけれど、狼の顔から気持ちを読み取るのは至難の業だ。怒っているのか悲しんでいるのか、なにもわからない。
「で、親父さん探しの手伝いをしてたわけ」
「手伝ってくれたんだよ! 乃里も」
「のり?」
あの子! とタキが指さす先にいた乃里は、びくりと肩を震わせた。
「美味しいご飯も食べさせてもらった!」
「そうか。礼を言わねばならない。タキを助けてくれてありがとう」
首を垂れる狼男。紛れもなく父親の姿であり、こちらを攻撃するようなことはなさそうだと乃里はほっとする。
橋をひとつ隔てたからか、この島は静かで、なにか薄い膜がかかるように感じる。
遊歩道が整備され、歩行するには問題ない。ただアップダウンがあるのでけっこう体力を使う。暑さもしんどい。
「暑い……それに四足歩行のみんなと違うのよ」
ぶつぶつ言っていると、軽く息が弾み始めた。
「景色は最高なんだけど。疲れた。暑い」
「乃里、文句ばっかりだな」
タキに言われて、たしかにそうだとぐっと黙る。
青い空、静かな海。絶景に気を紛らわせてみてもやっぱり辛いものは辛い。
「あ、ほら。乃里さん、タキさん、見てごらんなさい。売店もあるんですね」
萩が指さすと、タキと同じく牡丹も反応する。
「本当だ。お腹空いたよなー」
「せっかくですから、帰りになにか食べて帰りましょうか」
「そうだよな。牡蠣の時期は冬だけど、うなぎ屋もあるし」
兄弟は暢気にそんなことを話している。
松の木々が作る日影が、日差しを遮ってくれるが、しかし熱い。汗を拭って前を見たとき、古くて小さな瓦屋根の建物が見えた。
「弁財天堂……」
正面に掲げた木彫りの文字を追うと、福浦島弁財天と読める。木々の間にひっそりと佇む弁財天堂というお堂らしい。
「なかなか歴史を感じるお堂ですね」
「あれなに、なんか壁に赤いポツポツが……」
乃里の言葉を聞いて「どれ?」と牡丹がお堂に近付く。
「おお。こりゃ圧巻だね。小さい達磨がずらっと」
お堂の壁は格子になっており、そのマスひとつひとつに小さな赤い達磨がずらりと並べてあるのだ。タキと共にお堂の階段を上り、壁に近付いてみる。
「しかもひとつひとつ表情が違うんですね」
どうしてこんなものがあるのかわからないが。少しだけ怖い気がする。
触っても大丈夫なのだろうか。乃里は手を伸ばして小さな達磨に触れようとした。その時。ふっと風が吹いて、指先の達磨が壁からひとつころりと落ちた。
固定されてないのか。拾おうと屈んだ時、タキが乃里の手を離した。
「父ちゃん!」
「え?」
タキの声が弁財天堂敷地内にこだまする。
ざざざ、と風が強く松の木を揺らす。まるで旋風に乗ってきたかのように姿を現したのは、大きな黒い塊だった。乃里は自分の体が強張りいうことを聞かないことに気づく。
手が、動かない。
「あ、あぶな」
「父ちゃん!」
「……タキ」
太く低く、体の奥底に響くような声がタキを呼んだ。
「タキの、お父さん……?」
真っ黒な塊はゆっくりと盛り上がり、四つん這いにから二本足で立つ。人型になっていく。白いシャツを着てデニムズボンを履いている。立ち上がった身長は萩や牡丹と同じような高さなので、成人男性の身長といったところだろうか。タキの下半身が狼のそれなので、同じような狼男を想像していたが、タキの父親は顔が狼だ。タキのように黒い毛、狼の耳と顔、鼻。赤く裂けたような口に牙が見える。
乃里は肌が泡立った。怖い。喰われるのではないだろうか。でも、萩と牡丹がいるのだからここは全力で守ってもらおう。
「タキさんのお父様ですか?」
恐れることなく萩が訪ねた。グルルと狼男の口から獣の音がする。
「そうだ」
人語を離す狼か。そんなことを言ったら、タキだって狼男なのだけれど。
駆け寄って足に抱き着くタキの頭を撫でて目を細める。猫がやるみたいに。
「探したんだぞ、父ちゃん!」
「そりゃこっちの台詞だ。お前が鳥を追いかけるのに夢中になって遠くに行くからだろう」
「すぐ戻ったもん。もう父ちゃんの匂いが追いかけられなくなってたんだもん」
口を尖らせるタキの頭をくちゃりと撫で、タキの父親はこちらに視線を向けた。
「……あんたらは」
「僕たちは、タキさんを保護しましてね。少し怪我をしていたので」
「怪我?」
「彼女が、タキさんが倒れていたのを見つけて。ああ、擦り傷程度でしたので心配いりませんよ。たくさん食べるし、元気です」
タキのように男の子の顔ならば表情が読み取れるけれど、狼の顔から気持ちを読み取るのは至難の業だ。怒っているのか悲しんでいるのか、なにもわからない。
「で、親父さん探しの手伝いをしてたわけ」
「手伝ってくれたんだよ! 乃里も」
「のり?」
あの子! とタキが指さす先にいた乃里は、びくりと肩を震わせた。
「美味しいご飯も食べさせてもらった!」
「そうか。礼を言わねばならない。タキを助けてくれてありがとう」
首を垂れる狼男。紛れもなく父親の姿であり、こちらを攻撃するようなことはなさそうだと乃里はほっとする。