みちのく猫の湯宿の思い出つづり

 次の日の金曜日。
「おはよう、乃里」
 着替えをしてリビングへ行くと、父がもう起きていて新聞を読みながらコーヒーを啜っている。里司は朝食のトーストを頬張っていた。
「おはよう。お父さん昨日遅かったんでしょ」
「ああ。会議が少し長引いてな」
「わたし疲れて寝ちゃった」
「お父さんもだ。帰って来てビール飲んですぐ寝ちゃったよ。乃里も初めてのバイトで疲れているだろうしな。食べて寝るのが一番だ」
 新聞を畳んで「今日もバイト行くのか」と聞くので乃里は頷いた。
 佐和子はキッチンに立っていたが乃里に気付くと挨拶を普段と変わらぬ雰囲気で、乃里は昨夜の出来事が重く胸にのしかかり、佐和子を真っ直ぐ見ることができなかった。
 父は「豆のおにぎりうまかったぞ」と機嫌が良さそうで、特別なにも言ってこなかった。
 佐和子が父に何も話さなかったのだろう。
 朝九時までにしろがねに到着するよう仕度したので、乃里はそのまま玄関へ向かった。
「乃里ちゃん」
 玄関に腰かけてスニーカーを履いていると、後ろから呼ばれた。佐和子だ。
「昨日は、ごめんなさいね。余計なことを言って」
「別に……気にしてない」
「乃里ちゃんを信用していないわけではないから。しっかりしているし、わたしなんかより」
「急ぐから」
 佐和子の言葉を遮った乃里は、勢いよく立ち上がる。
「その、わたしの言ったこといちいち気にしなくてもいいよ。余計な心配しなくていいから」
 佐和子は父と里司だけ心配していればいいのだ。乃里のことは余計なのだから。コツンと爪先を床に打ち乃里はドアノブに手をかける。
「バイト、頑張ってね」
「いってきます」
 重苦しい心と裏腹に、ドアの外はとてもよく晴れていた。
 しろがねに到着すると、帳場にシズがいて兄弟は厨房にいると言う。乃里は手早く割烹着を着て準備をして、厨房へ向かった。
「おはようございます!」
 調理台の上に、昨日紅首村から貰って来た材料を並べ、壁にかけてあるホワイトボードに牡丹がひとつひとつ書き出している。
「おはようございます。乃里さん」
「メニュー決めですか?」
「そうだよ。大体は村から帰る途中に決めてきたし。下ごしらえはそう時間もかからないから今日と明日でやって」
 明日の午後から料理を作り始め、日曜日の早朝から容器に詰める作業をするという。
「真冬じゃないので悪くなりやすいものは作らない。でも冷めて時間が経っても美味しいものを丁寧に作る」
 牡丹の話に頷きながら萩は茶豆の房をひとつ手に取った。
「昨日茹でて食べてみましたが、とても味の濃い美味しい茶豆でした。ほら、乃里さん、さやの中にある豆を覆う薄皮が茶色いから茶豆っていうのですか」
「本当だ。この握り飯、美味しかったですよねぇ」
「あ。そっか、いまの採用」
 牡丹がホワイトボードにペンで書き足していく。採用、と言われ乃里は意味がわからなかった。
「茶豆のご飯はメニューに入れていたけれど、弁当に詰めるんじゃなくて握り飯にしよう。そうすればご飯のスペースにもう一品入れることができる」
「ああ、そうですね。そうしましょう」
「絶対に容器にご飯が入っていないといけないってことはない。乃里ちゃんがいると考えが広がるね」
 牡丹がそう言うと萩が頷く。
「わたし、そんなに役立つことを言っていると思えないのですけれど……」
「ほら、猫って行動が習慣から外れるのが苦手なんだよ。猫又になっても人間の姿になっていても、やっぱり猫だからさ。性分だもんね」
「そうですね。僕は私物の置き場所が変わるのが苦手です」
 萩が眉間に皺を寄せている。

 そういうものなのか。そんなことでよくいままでここを経営してこれたな。
 乃里は兄弟があれが苦手、これが日課だと言っているのを聞きながら苦笑した。

茶豆ごはん
大根と鶏肉の煮物
茶豆と玉ねぎのさつま揚げ
茄子の素揚げトマト味噌
野菜ずんだあえ
ずんだプリン、ずんだ餅

 ホワイトボードには以上のメニューが。茶豆ご飯の横に「にぎりめし」と牡丹が書き足した。
 全部美味しそう。楽しみで仕方がない。
 食べるのもだが、作り方を覚えて家でも作ってみたい。乃里は兄弟の手際を見ながら味付けや調理法などを教わっていくつもりだった。ワクワクと心が躍る。
「さ、おしゃべりはこのへんにして。開店の準備をしましょう」
「はい!」
 料理屋しろがねの開店である。
 乃里は腕まくりをして「はい!」と返事をした。
 数人の日帰り温泉と食事の客を迎え、帳場をシズに任せて乃里は牡丹と萩と一緒に本日のメニューを提供し、収穫祭の弁当の下ごしらえ。その間に、日曜日は料理屋のほうは休業の案内を張り出し、日帰り温泉のほうはシズに任せることとなった。
 翌日の土曜日、午後からしろがねの味の基本となる出汁を取ることから準備を始めた。
 しろがねにアルバイトに来るようになってから初めて見るしろがねの出汁だ。和食の提供が中心なので、和の出汁となる。
「うちは、合わせ出汁を使っています。作り方は様々あるようですが、これはわたしがここの先代から教えて貰った作り方です」
 昆布は前日から水につけてあったという。混布のあとに削ることから自分でやる鰹節を使う。
「鰹出汁と混布出汁はそれぞれ向いている料理がありますが、合わせだと幅広く色々な料理に使えるから覚えておくといいですよ」
 真剣な顔で萩は昆布と鰹節で出汁を取った。良い香りが厨房を包む。
「鰹節は最後、絞ってはいけません。苦味が出てしまいますから。学校でも習うでしょうけれど、基本に忠実にやれば美味しい出汁が取れますよ」
「勉強になります!」
 乃里が真剣に言うと、萩がにっこりと笑った。
 出汁が準備出来ると、紅首の茶豆を料理しやすいようにひと粒ひと粒取り出す作業だ。
 茹でて火傷しない程度に冷ましたあとに、さやから茶豆を丁寧に取り出す。このとき、茶豆という名前の由来となった茶色の薄皮を取り除く。一品だけに使うのではないので、正直これが一番作業量がある。萩と牡丹は他の料理に取り掛からねばならず、乃里が茶豆の作業を担当することになる。
 これは大変だ。
 しかしこの緑色の豆たちが、美味しい握り飯になり、ずんだになる。みんなが食べて笑顔になる。そう考えるだけで嬉しくて、とにかく茶豆の取り出し作業に没頭した。
 牡丹は魚肉を磨り潰しにかかっていた。さつま揚げの材料である。
 出汁の香りに包まれながら、煮立つ鍋や包丁の音を聞く。それぞれに動く背中。乃里は心から楽しかった。
 料理を作る後ろ姿は真剣で優しい。誰かの為に作っている、優しい姿。自分のそうありたい。
 乃里は止めていた手元に視線と意識を戻し、再び動かした。
 日曜日、収穫祭当日。
 収穫祭用の弁当は不足を避けるために三十個用意されることになっており、準備は滞りなく整えてあるとはいっても、人手が多いことに越したことはない。
 乃里は夜明けとともにしろがねに来たいと言ったのだが、まだ高校生のアルバイトにそんな厳しいことはさせられないと萩が言う。しかし、それでも早い朝七時に来てほしいとのことで、乃里は六時にしろがねに行き、兄弟に驚かれた。
「こんなに早く来て、親御さんに心配されますよ。七時でいいと言いましたのに」
「大丈夫です。それに九時には出発ですよね。早くやりましょう!」
 こんなに早く行くなんて、と父と佐和子には心配されたのだが、弁当の大量発注があったことを話すと一応の納得を見せたので、乃里は朝食もとらずに朝五時に家を出た。
 弁当を出すような店じゃないのだが。
 乃里は嘘を言って家を出てきたのを少し心苦しいと思った。しかし、本当のことを言えばまた佐和子に不安な顔をされるのが嫌だった。
 苦笑している萩と牡丹だったが、弁当の容器を数えて並べるよう、乃里に指示した。
 さつま揚げ、大根と鶏肉の煮物など料理は完成しており、乃里が並べた容器に萩が素早く料理を盛りつけていく。早く並べなければ追いつかれてしまう。
「並べ終わったら、そこの冷蔵庫で冷やしているものを足元に保冷ボックスがありますから入れてくださいね。数は三十四」
「はい。分かりました」
 乃里は業務用冷蔵庫を開ける。すると、小さなプラスチックのカップに入ったものがずらりと並んで入っていた。
「あ! これプリンですね!」
 わぁと感嘆の声をあげる乃里を見て、萩が微笑む。
 プリンは、上に茶豆がひと粒乗っていて、薄い緑色をしている。ずんだプリンだ。下には琺瑯容器に入った緑色の餡。
「ああ、これずんだ! わたしが剥いたやつ! 磨り潰したやつ!」
 乃里がやったのは、長時間かけて取り出した大量の茶豆をすり鉢で磨り潰すところまで。味付けをしたのは萩か牡丹だろう。
「はいはい、乃里ちゃん騒いでないで、この白玉三つにその餡でずんだ餅を完成させて」
 牡丹は「プリン終わったらやってね」と大きなボウルを調理台に乗せる。見に行くと、中は大量の白玉団子。
「わ、わたしが!」
「美味しそうに盛り付けてね」
「はい!」
 元気よく返事をして、冷蔵庫に戻りプリンを保冷ボックスに入れる。終わったらずんだ餅だ。プリンと同じカップに白玉団子を三つ。上にずんだ餡を見栄えよく乗せていく。
 正直、料理がほとんど全部出来上がっているから乃里ができることはあまりないのだ。
 スキルも腕もまだないのだから、当たり前なのだが。
 しろがねでアルバイトをしている間に、できることは身につけて料理人としての勉強に役立てたい。
「ずんだ、味見してごらん」
「いいんですか!」
 乃里は少し指に取り口に運んだ。茶豆の濃厚な味が口に広がった。甘過ぎないずんだ餡に仕上がっている。
「乃里ちゃんが丁寧に薄皮を取って磨り潰してくれたからね。最高のずんだ餡ができたよ」
「美味しい……脳が痺れます。このバット全部食べられる……」
「あはは。このずんだ餅とプリンは三十四個分の材料がある。四個は乃里ちゃんのだからね」
 予想外のことを言われ、乃里は萩の顔を見る。
「うちの?」
「自分の分は取っておいてくださいね。全部持っていったら食べられてしまいます」
 萩も言うので、乃里は嬉しくて震えた。
「生きていて良かった……」
「大袈裟だねぇ」
 笑いながら牡丹は大きな土鍋の蓋を開けた。ふわりと湯気が立つ。
「それはなんですか!」
「ご飯。一升で大体握り飯が三十個、だから土鍋をふたつ分。これに、こうする」
 牡丹はまたボウルの中身をザラザラと土鍋のご飯に入れた。
「茶豆ご飯!」
「いいよねぇ。艶々ご飯に茶豆」
 真っ白でピカピカに光るご飯に緑色のコロコロした茶豆が眩しい。乃里は先日食べた茶豆の握り飯を思い出して思わず唾を飲み込んだ。
「こうして馴染ませておく。弁当に詰め終わったら、握り飯を作るよ。三人それぞれ握り飯を十個握れば完成」
 牡丹と乃里が茶豆のご飯で盛り上がっている間に、萩は黙々と作業をしており、三十個の弁当容器は埋まりつつあった。萩の集中力が凄い。
 料理を詳しく見るのはあとにしよう。早くずんだ餅の盛り付けを終わらせて、萩さんを手伝わなくてはいけない。
 全てのメニューに興味津々ではあったが、乃里は自分に与えられた作業に集中した。
 牡丹の言った通り、最後に一人十個、合計三十個の茶豆ご飯の握り飯が出来上がり、収穫祭用の弁当が完成した。
「さ。積み込みをして出発しますよ」
 そうだ。ゆっくりしている暇などない。
 弁当を数えて確認しながら運搬用の段ボールに入れる。
 乃里はずんだプリンが入った保冷ボックスとずんだ餅を詰めた段ボールを車に運んだ。どちらもずしりと重くて大変だったが、気合いでやりきる。
シズさんも手伝ってくれて、積み込みが完了した。
「出発だよ。忘れ物ないよね」
 弁当、握り飯、プリンにずんだ餅。割り箸。
「準備オッケーです!」
「では参りましょう」
 おー! と拳を振り上げた乃里。遠ざかる車を見送るシズさんはずっと手を振ってくれていた。
 先日と同じ行程で紅首村に向かう。この間は寝てしまっていた乃里だったが、今回は眠くならない。眠っている場合ではない。到着してからの準備の打ち合わせをし、シミュレーションに余念がない。それも終わると、萩や牡丹と他愛ない話をした。
 今日も晴れて、雨の確率も少なとの予報。絶好の収穫祭日和である。
「カワオヌ神社の収穫祭、か」
 カワオヌはきっと首を長くして待っているだろう。
 長い、長い、人間の乃里には辿るのが無理なほど長い時間、カワオヌは紅首村のために生きてきた。その村が無くなる。ダムの底に沈む。
 いままでいたものが、なくなるのだ。
 乃里は下唇を噛んだ。
 最期の、思い出を作ってほしい。あげたい、なんておこがましいから、手伝えたらそれでいい。思い出を胸に生きて行ってほしい。思い出と長い生を、ずっと。
 乃里は鼻をすすった。
 しんみりしてしまった。
 湿っぽくなっている場合ではない。今日は遊びに行くのではないのだ。仕事であり、任務だ。
「さ、忙しくなるぞう!」
「お、なんか乃里ちゃん張り切ってる」
「いいですねぇ。僕たちも頑張りましょう」
 三人の笑顔溢れる社内。今日のお祭りも、たくさんの笑顔が咲きますように。乃里は積んだ弁当を振り返り微笑んだ。
 先日見た景色と変わりない長閑な紅首村の景色。車は村に再び入り込む。
吉野宅に行く途中の畑に通りかかると、軽トラックが停まっていた。
「あ、この間と同じだから吉野さんのトラックですね、あれ」
 時間は十一時少し前。カワオヌ神社に行き準備をしたらちょうど昼食にいい時間だ。
 三人の乗った車が近付くと、軽トラックのうしろから人が出てきた。
「あ、吉野さん」
 吉野の姿を認めて車が停まると、乃里は降りて吉野のところへ駆けて行った。
「こんにちは!」
「はい、こんにちは。来たねぇ」
「はい! 今日はよろしくお願いします!」
「父ちゃんが昨日、神社に行ってみたんだと、したら誰かがテーブルと敷物を持って行ってくれていたみたいだ」
「そうなんですか」
 父ちゃんというのは村長である吉野の夫のことだ。
 机はともかく、ブルーシートは一応、しろがねにあったものを持って来たのだが。収穫祭のことを聞きつけ準備を手伝ってくれた人がいたのだ。ありがたい。
「誰か、気の利いた人がいたんだべ」
「ありがたいですね」
 またあとで、と吉野が軽トラックに乗り込む。吉野に手を振って、乃里は車に戻った。
 山へ向かって車を走らせ、神社へ上っていくあの階段へ。
「さぁ、ここからちょっと重労働ですね」
 萩が階段を見上げた。
 弁当十個ずつ持ち、握り飯もある。ここへ来る途中に仕入れたペットボトルのお茶、ブルーシート。もしかしたらもう一度往復をしないといけなくなるかもしれない。そう考えるとうんざりしてしまう。
しかし、ここでじっとしているわけにはいかない。文句を言っても仕方がない。
「がんばりましょう! 行きましょ……」
 ガサガサと近くの木々が揺れ、乃里は驚いて息を飲んだ。
「やぁ、よく来たな」
「カワオヌさん!」
 頭を木の葉まみれにしまるで森から生まれるようにしてカワオヌが姿を現した。大きな体は相変わらずで、急に目の前に来たらやはり驚いてしまう。
「そんな無造作に出てこないでよ。驚くじゃないの」
「すまねぇ」
 萩も乃里と同じく驚いていた様子だ。カワオヌは頭を掻いている。
「誰かいたらどうするのってば」
「あんたらのにおいがしたから。分かったんだ」
 分厚い胸板を叩いてカワオヌは笑った。
「どれ、この荷物を持っていけばいいのか? おらがやるよ」
 カワオヌは弁当の入った段ボールと握り飯、ブルーシートとペットボトルを全部抱えて、階段を上り始めた。
「凄い。重くないですか、カワオヌさん!」
「たいしたことねぇよ。このくらい。ここらの畑に埋まっていた岩に比べたら」
「流石、怪力の鬼ですね」
 萩と牡丹と乃里は、収穫祭の弁当などを全部カワオヌに任せることにして、あとを追いかけた。
「誰も来ないといいけれど。まだ時間じゃないけれど、気が早い人は来るかもしれませんね」
「大丈夫。雰囲気で分かるんで」
 階段はまだ序盤なのに息切れが始まった乃里は、兄弟とカワオヌの後ろを必死についていく。
「どなたか分かりませんが、テーブルとか運ぶのは大変だったでしょうね」
「そうですねぇ。ありがたいです」
 乃里が言うと萩が頷く。
「ああ、おらが運んでおいたんだ。使うと思って」
 そう言ったのはカワオヌだ。三人は驚いてカワオヌを見る。
「村の人が、畑で話していたのを聞いたんだ。机を持っていくだの、シートが うちにあるだのって。軽トラで階段の下まで置きに来たから、夜のうちに運んでおいたんだ」
 吉野は誰かが運んでくれたらしいと言っていたが、村の中では誰も名乗りをあげないだろうから、とんだ不思議現象である。
「ありがとうございます。助かりました。今日のお弁当も」
「いい匂いがしてる。腹ペコだ」
「多めに持ってきましたから、カワオヌさんも食べてくださいね」
 萩の言葉に嬉しそうに笑うカワオヌだった。
 長い階段をクリアして境内まで行くと、確かに座って使うタイプの背の低い長テーブル数台とブルーシートが置いてあった。これをカワオヌひとりで運んだというのだから鬼というのは凄い力の持ち主だ。
 額の汗を拭いていると、牡丹が階段のほうを見たまま動きを止める。

「カワオヌさん、隠れて」
「誰か来たようです」
 兄弟が揃って言うが、乃里の耳には何も聞こえない。
さすが猫だ。
 カワオヌは体に似合わぬ速さで身をひるがえすと、社の後ろに移動していった。それから数分して、階段を上ってきたのは吉野夫妻と、数人の老人だった。
「吉野さん!」
「どうもね~。準備手伝おうと思って。もうちょっとしたら皆来ると思うから」
「ありがとうございます」
 聞けば村長と重役の人達だという。
 村の最後の日まで、見守るのはカワオヌさんだけじゃないんだ。
 その土地に根付き生活してきた、生きてきた人たちの思いは、どこへいくのだろう。カワオヌも。乃里にはわからなかった。
 砂利を避け、芝生の上にブルーシートを敷く。長机をこの字に並べ、ペットボトルのお茶も準備する。来るのは二十人ほどだという話なので、これぐらいのスペースがあればじゅうぶんだろう。
 乃里が立ち上がったとき、どこからか音楽が聞こえてくる。
「おや、演歌ですね」
 萩も音がする方向を見る。誰かが音楽プレイヤーを持ってきているらしい。
「CDあっからよ。無音だと寂しいべ」
 いいぞいいぞと声が上がる。お祭りにはお囃子だと思うのだが、村の人が演歌でいいならいいのだろう。
 音楽が流れる中、準備を続ける。そして気付けば人も多くなっている。しろがねで準備したのはお茶だが、ビールを持ち込んでいる人もいて、すでに飲み始めていた。
「村長さん。そろそろ、始めましょうか。皆さまお腹も空いていらっしゃるみたいですし」
「そうですな……」
 こほん、とひとつ咳ばらいをした吉野の夫である吉野村長が「皆さん」と声をかけた。マイクもないし演壇もない、アットホームで手作りの収穫祭だ。
「今日は、縁がありましてしろがねという料亭の料理人さんたちが協力してくださいまして、紅首村の食材を使った収穫祭を開催することになりました!」
 集まった人たちは、テーブルについたり立ったままビールを飲んだりしながら、村長の話を聞いている。しろがねは料亭ではないのだけれど、乃里は思ったけれど笑顔で拍手をした。
「料理の説明など兼ねて、料理人の佐々野さんから少しお話を」
「あ、僕ですか?」
 吉野村長に視線を向けられた萩。料理の説明はしろがねメンバーの中で一番適任である。萩は簡単な自己紹介のあと、話し始めた。
「ダム建設計画で村がなくなると聞きまして、この収穫祭を思いつきました。ここはカワオヌという鬼の伝承も残り、カワオヌ神社のお祭りとして開催したらどうかと、吉野村長に相談しました」
 強行開催にも関わらず、人が集まってくれてよかったと思う。弁当も間に合って、天気もいい。最高だ。
「ひとつの、いい思い出として皆様の心に残れば、幸いです」
 萩はそう締めくくった。
「皆さまのところにございます、お弁当、どうぞ、召し上がってください。食べながらいただけると嬉しいです。右上から説明しますと」
 すっと入ってきた牡丹がよく通る声で続けた。人懐こい笑顔は老人たちも笑顔にするようだ。
「これ、うちの茶豆だか」
「そうです。混ぜご飯にし、握り飯としました」
「このさつま揚げ、まずうめぇな! ビールに合うぞ」
「この大根、うちのだ」
「ずんだあえの味付け教えてけろな」
 次々に声が上がる。美味しい、これはいい、作り方を教えてほしいと、あちこちから萩と牡丹に声がかかる。
 美味しいという声を笑い声。境内に響く演歌。笑顔があちこちにポンポンと咲いていく。
「お姉ちゃん、このずんだ餅、美味しいわねぇ」
 乃里がお茶を注ぎに行くと、白髪の婦人に声をかけられた。吉野と同じくらいの歳だろうか。ふくよかで細い目の笑顔がとても優しそう。
「よかったです! 味が濃くてとても美味しい茶豆ですよね」
「プリンも美味しい。こんなに美味しいもの、おら食べたの初めてだよ」
「お口に合って良かったです」
「カワオヌ様のお陰で、こんなうまいもん食べられるんだからな」
 そうだなと同意の声が隣や向かいからあがる。
「こんな風に、笑顔が溢れていたらカワオヌ様も楽しいでしょうね」
 カワオヌには、聞こえているかな。みんなの笑顔、見えているかな。
「村は無くなるけど、カワオヌ様に感謝しながら生きていくよ、みんな」
 ずんだ餅を食べ終わると、白髪の婦人は弁当を開けて感嘆の声を上げた。甘いものを先に食べるタイプだったらしい。
 乃里は、お茶を持って吉野のところへいった。
「吉野さん、お疲れ様でした」
 隣の吉野村長はビールを飲んで男性陣でワイワイと話している。
「乃里ちゃん。本当に美味しいわぁ。皆も喜んでるし」
「ほっとしました。わたしが言い出しっぺだったので。準備も萩さんと牡丹さん大変だったと思います」
「乃里ちゃんが言ってくれなかったから、このお祭りはなかったんだから。ありがとうね」
 ありがとうね、の言葉が嬉しい。吉野の笑顔を見ていて、本当にこのお祭りをやって良かったなと思えた。


「皆が、カワオヌ様に感謝してるよ。長閑でいい村で、作物もたくさん採れたし。今日もこんなに美味しいものが食べられた」
 感謝の言葉は、大きいことにも小さいことにも乗せる。こんな気質の村の人たちがいるのも、紅首村をずっと守ってきたカワオヌのおかげなのかもしれない。
「カワオヌ様も、お祭り楽しんでいると思います」
「だといいな」
「……吉野さん。もし、カワオヌ様が村の皆さんにお礼がしたいといっていたら、なにをしてもらいたいですか?」
 なんとなく、聞いてみたくなった。
 カワオヌがしろがねに来て、浴場で「村の人たちにお礼がしたい」と言ったことが始まりなのだから。
 カワオヌのお礼が、村の人の感謝が、このお祭り。
 吉野は目を細めた。
「おらたちはここを去る。カワオヌ様からはなにもいらないよ。いままでたくさんもらってきた。あとは、おらたちがいなくなったこの景色を、守ってくださいって」
 景色を守る。いままで村を見守ってきたように、ここをずっと守る。紅首村がなくなっても、変わりゆく景色の中で、カワオヌは生きる。
「もとはといえば、ここはなにもなかった。カワオヌ様がいたところに、戦から逃れてきた人たちが住み着いて、村になった。勝手に入ってきたのは人間たちなのに、水害から救ってくれたり、畑を耕すのを手伝ってくれたり。そんな鬼がこの村には、いるんだ」
「カワオヌ様、ずっとここにいますかね」
「いてほしいな。おらたちの息子や孫が、懐かしくて来るかもしれねぇ。カワオヌ様を目指して。ここはこのままだから。長くて高い階段が嫌われるけれど、こうして高くして置いてよかったっていうもんだよ」
 はははと笑う吉野。乃里も微笑んだとき、びょうと風が吹き抜けた。
「突風かしら」
 ブルーシートやゴミが飛ばないか心配になったので、乃里はあたりを見回す。
「ああ、ほら、聞こえるだろ」
「なに、ですか?」
 吉野は耳を澄ませるよう、「ほら」と目を閉じる。びょう、びょうと二度、風が境内を吹き抜け階段のほうへ。乃里の髪の毛も乱れた。
「カワオヌ様の、村を守る声だよ」
 びょう、びょう。鳴き声か、遠吠えか。階段をおりていく風は村をめぐって山に帰ってくるようだった。カワオヌの声が山に響く
 すぐそこにいるのに。見守っているカワオヌは、姿を隠して近くにずっといる。
「カワオヌ様は……」
 乃里は、吉野を振り返る。瞬きをすると、テーブルの向こうにいる萩と牡丹と目が合った。
「萩さん、牡丹さん……」
 萩と牡丹しか、いなかった。
「え。ど、どう、し……」
 村の人たちが、弁当を食べ、美味しいと口々に言って、笑顔が溢れていた。カワオヌ神社収穫祭は盛り上がっていた。
「はず、だけど」
 振り返ると、境内には誰もいなかった。
 萩と牡丹だけが、立っている。
「やっぱりな。こういうことだった」
「ここにいるのは僕たちだけ、ですね」
「ええ! どういうことなの? どうしてそんなに冷静なんですか!」
 落ち着いて、と萩は言うけれど、どうしたらこの状況で落ち着いていられるのだろうか。分からない。
「紅首村、少し前に完全廃村になっているようです。実際ある村だったのでたいして疑問にも思わずにいたのですが、昨夜調べて分かりました。ダムの計画は進んでいます。そこらへんは話の通りです。ただ、村はもうとっく廃村になっているんです」
 そんなことがあるだろうか。さっきまで、ここに村の人がいて、皆で弁当を食べて笑っていたのに。
「それなのに、なぜ、僕たちには村人と触れ合うことができたのでしょうね」
萩は首を傾げたが、そんなこと誰にも分らない。
「カ、カワオヌさん!」
 乃里は社に向かって叫んだ。あそこにまだ隠れてこちらを見ているだろうから。カワオヌ祭りを、見ていたはず、なのだから。
「彼、もういませんよ。山へ行ったようです」
「そんな……」
 最後に会いたかったのに。
 乃里は、持っていたペットボトルを地面に置く。
 コの字に置いたテーブルも、食べかけの弁当もあるのに、村の人たちが忽然と姿を消していた。風の行方を見て、音を聞いて、視線を戻したら消えていた。
「カワオヌの思いが見せたものだったんだろう。村の為になにかしたいといった彼の気持ちは本当だったのだから」
「僕たちは化かされていたようですね」
 兄弟の笑顔。笑っている場合だろうか。
 びょう、びょうと、吹く風の音が、カワオヌの声。
 人が住み着き、村が生まれてそして消えていくのを、じっと見ている。
 お礼をしたかった。追い出すことをせず自分を受け入れ、社まで建立し祭ってくれた村の人たちに、喜んでほしかった。
「だから、カワオヌさん……」
 なにもいらないと言った吉野。ずっとここを見守ってと。
「あれも、カワオヌさんの思いが見せたものなのかな……」
 気の遠くなる長い命を、ずっとここで生きて、人の戻らない村の跡を見守って。
「乃里ちゃん、帰ろうか」
 茫然としていた乃里だったが、牡丹の声に頷く。
 帰り道。吉野の軽トラックが傾いて停まっていた。よく見ればナンバープレートがない。どうして気付かなかったのだろう。
 あちこち錆びだらけで、右の前輪がパンクしている。
 その斜めの車体は夕日に染まってオレンジ色になっていた。まるで空の色を取ってきて、車体に塗ったようだった。
 彼らの暮らした証は、静かに、風の音と共に、水に沈む。

「なんとも腹の減る匂いだなぁ」
 朝、父が欠伸をしながらリビングに来た。
「乃里ちゃんが、お味噌汁を作ってくれているんです」
「今朝は乃里が朝食担当かい」
 食事の準備が担当制になったことはない。乃里は父に「おはよー」と声をかけて、火加減を見ている。
「しろがねでの合わせ出汁を習ったから、作ってみたいの」
 乃里のレシピに「しろがね合わせ出汁」のページがひとつ加わった。
「鰹節は絞ってはいけない……」
 その通りに作り、味噌を溶き、豆腐を賽の目に切る。今日はわかめと豆腐の味噌汁だ。父が味噌汁の中で一番好きだという具材だ。
「できました」
 かしこまった様子で乃里はお椀によそった味噌汁を三つ、食卓のターブルに運ぶ。
 里司も嬉しそうに駆け寄ってきた。
「里司、熱いから気を付けて飲みなね」
「はあい。姉ちゃん、これ美味しい!」
「まだ食べてないのに?」
「匂いが美味しいよ」
 ニコニコと嬉しそうな里司。匂いが美味しいとは、里司の完成に驚かされる。いまの乃里にとって最高の誉め言葉だ。
「はい、お待たせしました。召し上がれ」
「こりゃ。うまそうだ」
「お父さんの好きなわかめと豆腐の味噌汁ですね。乃里ちゃん本当に料理が上手」
 佐和子が笑顔で褒めてくれるのも、乃里は顔に出さないが内心はやはり嬉しい。
「親譲りだな」
 父の言葉に、敏感に反応してしまう自分が嫌になる。父を嫌いなわけじゃない。けれどこういう発言をするときは黙っていてほしいと思う。
 乃里にとって地雷でも、父には関係ないか。
 親譲り、とは、父からしてみればきっと佐和子のことなのだ。
 台所に立つ母の後ろ姿を見て、その思い出を胸に料理人になりたいと思う乃里の気持ちなど、父は想像もしていないのだろう。
 話したことがないからだ。
 父は味噌汁を飲みながら、里司の好きな恐竜図鑑を出した。里司の日曜日お父さん独占タイムが始まる。
 乃里は今日もしろがねに行くので、これから身支度をして家を出る。鍋の中身をどうしようかとキッチンに戻ると、佐和子が来て「残りは夕飯に食べましょう」と言った。
「お昼と、わたし帰り遅くなるし、全部食べちゃっていいよ」
「そう? ふたり喜ぶわ。ありがとうね」
 このくらいの味噌汁ならいつでも作れる。里司と父が喜ぶなら出汁を取るのも面倒ではない。
「しろがねに行くようになって、乃里ちゃん楽しそう」
 そうだろうか。自分では意識をしていなくても、佐和子にはそう見えるのか。
 学校と家の往復の日々に、しろがねでアルバイトをする時間が加わり、忙しいが充実している。楽しいし、勉強になる。自分の居場所を作っていると実感できる。
「新しい自分の居場所があるって、嬉しいから」
「……そう」
 佐和子はまだなにか言いたそうだった。そんな佐和子を背にして、乃里は「バイト行くね」とリビングを出た。
 乃里はなにか佐和子に訴えようと意識して言ったことではなかったし、いままで言ったことはない。
 思っても言わない。口に出すようになった小さな変化は、しろがねの佐々野兄弟との日々のおかげなのかもしれない。
 訴えたことなどない。わたしに構わなくていい、里司だけ見ていていい。里司とお父さんのことだけ気にしていればいい。
 わたしを見なくていい。
 態度に出すだけ。
 この気持ちを言ったら、壊れるのは分かっているから。なにも言わない。
 態度だけでも父と佐和子は感じ取るのだから。呼吸ができなくなる。
 家とは別な場所に自分の居場所を作ることで、乃里の心は解れて安心する。息ができる。だからもう大丈夫なのだ。

 身支度を終えて、家を出る。
 いつものようにしろがねへ向かう道すがら、段々と自分から家の気配が薄れて、裏腹にリビングの父と里司と佐和子が並んだ姿が色濃く心に広がった。
「おはようございます!」
 しろがねに到着すると急いで割烹着を着けて帳場へ。すると真っ白な猫が丸くなっていた。
「……寝てるのかな」
 乃里は白猫に顔を近づけて様子をうかがう。すると、白猫は片方の目を薄っすら開けて乃里を見た。乃里は人差し指をそっと白猫の頭へ持っていき、そっと撫でた。頭をもたげた白猫は、乃里の指を気持ちよさそうに受けている。
「萩さぁん。寝不足なんですか?」
 白猫は口だけ開けるサイレントにゃあといわれる仕草をした。信頼する相手にしか出さないらしい。
「ここじゃなくてお布団に行ったらどうです?」
 なんなら抱き上げて運んでしまおうか。
 でも萩は、抱かれるのが嫌い。牡丹と真逆である。牡丹は自ら膝に乗ってくる。
 この白猫は萩である。
 姿が見えないと思うと、大体こうして帳場や重ねてある座布団の上、廊下の日当たりがいい場所で眠っている。行儀よく揃えた前足の上に顔を乗せている。
「夜行性なのは普通の猫でも猫又でも同じなんですね」
 そうですよ、とでも言いたそうにまた片目だけ開けて、再び丸まった体に顔をうずめた。
 帳場の萩をそのままにして、乃里は厨房へ向かった。しろがねに到着してから既に出汁のいい香りがしていたので、牡丹が仕込みをしているのだろう。案の定、厨房には包丁を持つ牡丹がいた。今日は鶯色の着物だ。銀髪の牡丹にとてもよく似合う。
「おはようございます。牡丹さん」
「あ、おはよー。ねぇ、萩を見なかった?」
「帳場で丸くなっていましたよ。昨夜は遅かったみたいで」
「そうなの? まぁいいか。寝せてあげてよ。お客様が見えたら起きるだろうから」
「撫でちゃいました。可愛かったです」
 ふふ、と笑うと牡丹は「そりゃよかった」と再び包丁を動かした。
 猫の姿のときはふたりのことを撫でくりまわすことができる。乃里はここぞとばかりに触るのだった。
 イケメン大好きな梓のことをミーハーだと言えない。
 人間の姿をしているときは触ったりできない。ただ猫に触れたいだけではない感情があって、乃里はひとりで笑ってしまう。
「……ああ、ちょっと乃里ちゃん、ここ見ていてくれるかな」
「どうしました?」
 まだ火の入らない鍋を覗くと、大根や蓮根の根菜が入っている。
「昆布が切れたから、倉庫に行ってくる」
「あ、じゃあわたしが取ってきます」
「そう、じゃあお願いしようかな。結び昆布を作るから」
 乃里は厨房から外に出た。出てすぐ隣にまたドアがあり、倉庫と呼んでいる収納スペースがあるのだ。
 厨房を出ると、しろがねの裏側になる。客を通さない場所なので、洗濯物が干してあったり、兄弟が世話をする畑があったりする。裏側といっても、乱雑な感じではなく、よく手入れされていて小さな花壇には花が咲いていた。
 畑の向こうは山で、道が続いているらしく、山菜取りに行ったりするらしい。
 自分も山菜取りに行きたい。
 未経験だし、山菜料理を学ぶことができる。天ぷらにおひたし、炊き込みご飯など。
 里司、苦みのある山菜は苦手かな。
 苦い野菜は苦手な里司のことを考えながら、苦みのある山菜はビールに合うと言っていた父を思い出して、乃里は苦笑した。
 親子だから味覚もきっと似てくるはず。いまが苦手だったとしても。
 ガタン。
 なにかが倒れる音がして、乃里は振り返った。誰かいるのだろうか。
「牡丹さん?」
 それとも萩が戻ってきたのだろうか。見回すと、ゴミ箱が倒れて野菜くずが散らばっているのが目に入った。これがいまの音か。
「……て、え?」
 倒れたゴミ箱の近くに、小さな男の子が倒れている。Tシャツから出る腕にはあちこち擦り傷が。乃里は血の気が引くのを感じながらも、男の子に駆け寄った。
「しっかりして! 牡丹さん、ぼたんさぁん!」
 硬そうな黒髪はツンツンと立ち上がり、あちこちに葉っぱが付いてる。取ってやりながら「ねぇ、ちょっと!」と声をかけた。
 里司よりも少し大きいくらいだろうか。小学校低学年か。
「どうしたの、乃里ちゃん?」
 牡丹が厨房のドアから出てきた。
「大変です、怪我人が……て、牡丹さん!」
 牡丹は、歩いてきながら猫の姿になったので乃里は息を飲む。牡丹は毛を逆立て威嚇し始めた。
「だ、牡丹さん、どう、どうし……」
「乃里ちゃん、手を離して。こいつ、人間じゃないから」
 シャーという威嚇の声を、体全部から出している牡丹。
「だって、怪我をしています!」
「いいから、きみが手を汚す必要はないよ」
「だ、だって、このままじゃこの子」
 腕の傷から流血をしている。手当てをしなければだめだと思う。


「足、足は大丈夫でしょうか……わ!」
 男の子のズボンを捲り上げた乃里は思わず手を引く。男の子の足が毛むくじゃらだったからだ。しかも、人間の足ではない。これは、獣のそれだ。
 なにこれ、やめてほしい。
「狼男の子供だな」
「お、おおかみ、おとこ……の、こども……?」
 ちょっともう考えが追いつかない。
「うう……ん」
 男の子、牡丹が言う狼男の子供は、呻きながら首を動かし薄っすらと目を開けた。汚れてはいるが可愛らしい顔をしている。
「わ、わかる? 気が付いた?」
 足さえ見なければ、普通の男の子なのに。
 半身が狼の狼男。子供の姿をした狼男。
 乃里は恐怖を抑えようと頭を振った。恐怖よりも目の前の命優先だ。
「乃里ちゃん、そんなに心配しなくても大丈夫だよ、たぶん。傷だらけだけど瀕死である可能性はとても低い」
「どうしてそんなことがわかるんですか」
「妖力は弱まっていない。命の強さにも通じるものだから、わかるんだ」
 乃里が振り向くと、いつの間にか牡丹は人間の姿になっている。説得力のある牡丹の言葉に少し安堵した乃里だった。
「おなか……」
 男の子がなにやら言葉を発する。
「え? なに?」
「おなか、すいた」
 乃里は更に体の力が抜けた。ゴミ箱を倒したのは彼で、空腹だったからなのか。
「ね。言ったでしょう」
「はい……」
「外傷もたいしたことないと思います。空腹なだけ。まぁ、人間なら死んでいるかもしれないですが」
 中に運ぼうか、牡丹はそう言って、男の子を抱きかかえしろがねに戻っていく。
「猫又が狼男をお姫様抱っこ」
 彼らの後ろ姿を見ながらついそんなことを口にする。
 どうかしている。このあいだの鬼といい。けれど、もうなにも驚かない。
 乃里は溜息をついた。
「乃里ちゃん、ドアあけてー」
「あ、はいはい!」
 牡丹を追いかけ、乃里もしろがねに戻って行った。
 これからなにが起きるのだろうと、不安が募った。そして乃里の予想は的中する。
「これはまた厄介なのを拾いましたね」
 萩が溜息をついている。
 顔のあちこちと腕に絆創膏を貼った狼男の子供は、山盛りの玉子かけご飯を美味しそうに食べている。
 彼はタキと名乗った。七歳。
 タキははじめ、牡丹に抱えられたまま浴場へ運ばれた。泥と血で汚れていたので、シズさんに洗われることとなる。けっこう乱暴にゴシゴシとこすっていたシズさんだったが、タキは暴れることもせずされるがままだった。そのあとシズさんはテキパキとタキの傷の手当をして、自分の仕事に戻って行った。
汚れと血のわりには傷は浅く、ほとんどが擦り傷で深い傷は見当たらなかった。萩の言う通りである。本人の様子からも、傷よりも空腹の方が耐えかねる様子だった。
 とりあえず空いている部屋にタキを運び、貸出の浴衣に着替えさせた。
下半身が狼のそれで、硬くボサボサの髪から毛の生えた耳が出ている。黒目がちで大きな目は相手をじっと見つめる。威嚇しているようにも、怯えているようにも見える。
 食事を用意したら、よほどの空腹だったらしく一心不乱に食べている。
 萩が、タキを見て厄介だといったのだ。
「厄介だろ? 俺もそう思ったんだけど」
 萩から乃里に視線を移した牡丹は溜息をついた。
「牡丹さんが言うように山に捨ててくるなんて、わたしはできません。こんな小さな子……可哀そう」
「ちょっと待って、俺そんなこと言ってないぞ」
「そうでしたっけ」
 威嚇をしていた牡丹を思い出せば、自分の縄張りであるしろがねに入れたくなかったことは理解できる。
「俺、猫以外の四足歩行毛むくじゃらは認めない」
「牡丹。猫が一番美しく崇高なのは分かっていますが、狼さんを無暗に嫌ってはいけません」
「おふたりとも……」
「どうしましたか、乃里さん」
 なんでもありません、と首を振る。
 なるほど。猫は自分が一番だというけれど、本当にそうなのだ。
 納得しつつ乃里は湯呑に茶を注いでタキに出した。
「タキさん。あまり急いで食べるとお腹を壊しますよ」
「うちの父ちゃんと同じこと言うんだな。萩は」
 タキは萩に人懐っこい笑顔を向ける。
「は、萩さんと言いなさいっ。タキくん」
「タキでいいよ、乃里」
 小さな子で可哀そうと思った気持ちを返せ。