牡丹の顔を見ることができなかったが、畑にいる萩に「はぎー!」と手を振っている。
「ごめん、いまそっち戻ります!」
萩も気づいて手を振っている。吉野に続いて畑の作物を跨ぎながら歩いてくる萩の腕には、大根と枝豆が抱えられていた。
「なんだ、あれ。ちゃんと吉野さんから聞いたのかなぁ、神社のこと」
「ど、どうですかね」
吉野に畑の作物を貰ったのだろう。乃里と牡丹の元へ戻りながら、吉野は更に萩の腕に枝豆を乗せていく。いくらなんでも持ちきれるわけがない。
「わたし、折り畳みのバックを持っているんです。これに入れましょう」
乃里はリュックを探って折り畳みバッグを取り出した。ありがと、と言いながら牡丹は乃里の顔をじっと見た。
「な、なんですか」
牡丹の大きな目は、乃里が心でなにを思っているのか見透かすかのような光を宿していた。
「乃里ちゃん」
「はい?」
「とりあえずうまいもん食って寝れば、元気になるから」
乃里からバッグを受け取り、萩のほうへ歩く牡丹。乃里は彼の背中を追う。
元気がないわけじゃないんだけれどな。
乃里はふっと笑う。なにに対して笑ったのかわからなかったけれど。
乃里は夏休みのバイトをこれからの自分の糧になるように、一生懸命がんばろうと改めて気持ちを引き締めた。
「いやぁ、こんなにたくさんいただいてしまって、申し訳ありません」
乃里が口をあけたバッグに枝豆と大根を入れながら、萩はほくほくと嬉しそうだ。
「なんも。どうせもう今年は出荷しないからね。この先にある道の駅に出して、自分たちで食べて、あとは友達や親戚に送って終わりだな」
「おや、どうして今年は出荷しないのですか?」
「ダム建設のために、村ごと移転することになってる。このあたりはダムの底に沈むから」
吉野は畑をぐるりと見回して、少し寂しそうに笑う。全体で四百ほどの人口がある紅首村は廃村になるらしい。
「皆納得して出て行くよ。保障もあるからあまり不安はないんだけれどな。もう年寄りの家は農業もきつくなるし、子供たちも成人して出て行くことも多かった。おらも息子たち夫婦にずっと呼ばれていたし、いい機会だったのかもな。山を下ることに関して迷いはないよ」
「そう、なのですか」
「既に残っているのは十軒ほどだ。あとはもう行き先に出ていったから」
「そうだったんですか……」
それしか残っていないのだ。
カワオヌはひとりふたりといなくなる村を見守ってきたのだろう。乃里は長閑な風景に、寂しさを感じた。
「ここは、ずっと昔からカワオヌ様に守られた村だった」
「カワオヌ神社、ですね」
「んだ。ここらでしか知られないような言い伝えなのによく知っていたね、あんたら。水害に悩む村を助けてくれた鬼を祀っていてな。鬼人信仰とまではいかないが、守り神として大事にしてきたんだよ。今年もたくさん作物が採れました、とお供えをして。それぞれがお参りをして掃除をしたり。いまも守ってくれていると思っているし」
「こんな風に豊かな実りをもたらしてくれた存在でもあったのですね」
そうだよ、と吉野は頷く。
「ここを出て行くことで気がかりは、カワオヌ様だ。でも、おらたちはもういられない。だから、せめて村の皆が感謝をしていることをカワオヌ様に分かってもらいたいな」
「カワオヌ様をないがしろにして、工事中に事故が起こっては困りますからね」
「そうなんだよ」
萩の言葉にワハハと笑う吉野。廃村になるというのに、工事についても心配し心を馳せるとは、なんと心優しい村人たちなのだろうか。
村の人たちも感謝したい。カワオヌも同じ思いだったのだ。
「この大根も枝豆も、うまいものたくさん採れる田畑があるのも、今日まで紅首村があったのも、カワオヌ様のおかげだ」
しゃがんで土を握った吉野の手は、働く逞しい手をしていた。
うまいもの。たくさん採れる。感謝の思い。村とカワオヌ、神社。
「あ」
ぽかんと開けた乃里の口から声が出た。
「どうしたの、乃里ちゃん」
「吉野さん。この作物を使って料理をしてもいいですか」
「うん? ああ、いいよ。もっと持っていくといい。無駄にするのは勿体ないし」
「いま、吉野さんの話を聞いていて思いついたんですけれど……」
おずおずと視線を萩に向けると「なんですか?」と乃里を促す。牡丹も吉野も、どうしたのかと乃里を見た。
「村が無くなる前に、お祭りをしませんか?」
「お祭り?」
乃里以外の三人が口をそろえる。
「ええ。収穫祭みたいな。作物を使って料理するんですよ。それをお供えして、皆で食べるんです。お別れの意味も込めて」
吉野は乃里の提案を聞いて「ふむ」と顎を触る。
「……思えば、カワオヌ様のお祭りというものはやらないんだ。鬼のお社を建てて祀ってるっていうので、当時は偏見があったらしくてな」
「偏見……」
「余所から村に越してきた人たちとかには関係ないし、受け入れられなかったって聞いたな。だから静かにお参りしてるだけなんだよ」
たしかに、鬼というものは怖いイメージでしかない。村を救ったという言い伝えにより祀っているといっても、この村の中だけのこと。
「隣町の川祭りで花火大会があったりして盛大だし、皆そっちに行くんだ」
「じゃあ、最初で最後のお祭りですね。やりませんか? 皆でワイワイしていたら、カワオヌ様も嬉しいんじゃないかと思うんです」
作物で料理をして、皆で食べて感謝する。収穫に、カワオヌ様に。村はなくなるが、思い出が残る。
カワオヌがもたらした思いと歴史は、村の人たちの心に残る。
カワオヌが村にお礼をしたいという思いは、彼が村人の前に姿を現すことでは叶わない。だから、気持ちを橋渡しする役目を、乃里たちがするしかない。
賛成してくれるといいのだけれど。
乃里は提案してみたものの、乗って来てくれるか心配だった。
「面白そうだなぁ。俺は賛成。このへんの家庭料理も見ることができるし、知らないこともあるかも」
「なるほど……家庭料理ですか」
まずは牡丹が賛同してくれる。料理オタクである萩も、このあたりの家庭料理という牡丹の意見に食いついたようだった。
「やろうよ。料理なら俺たちの得意分野じゃないか。カワオヌ神社の前に人が集まれるようなスペースがあるのか見てこないといけないけれど」
「ああ、それは心配ねぇな。広大な境内じゃないが、神社の前は広場になってる」
牡丹に対して吉野が返事をする。
シートを敷いて、座布団とテーブルを設置して。長期計画は無理だから、すぐにできることを始めるのがいい。難しさを重ねたらなにも決まらないし、進めないと思う。
乃里はどんな風に収穫祭を組み立てたら負担が少なくできるか思いめぐらせた
「勝手にはできないでしょう。そうですね、村長さんとかに聞いてみては……まだいらっしゃるのでしょうか」
勢いに任せてできることじゃないか。順序がある。
ここで締めてくれる萩がいることがありがたい。
乃里が思いつかない不十分な点を聞いて行かなければ。しかし、村長には許可を貰わねばならないだろう。
「それなら心配いらねぇよ。村長はうちの夫だからな」
「え!」
また吉野はワハハと笑った。
「大丈夫。言っておくよ。カワオヌ様を大事に思っているのはうちのお父ちゃんも一緒なんだよ。もうあまり村に人がいないし、娯楽もないから収穫祭はいいと思うな。おらも賛成する。収穫したものを行き場がないからってただあちこちに分けて、それで終わるのはつまらないし」
「吉野さん! ありがとうございます」
「枝豆はたくさんあるから好きに使ってけろ。あとは大根と茄子にトマト。夏野菜を作っている家に声かけてやっから、材料は集められるからね。うちと同じでここの畑はもう辞める人たちばかりだから」
吉野は、知り合いの農家を指折り数えている。先程少し寂しい目をしていたけれど、いまは楽しそうだ。
よかった。前向きに考えてくれるみたいだ。
「たとえ反対意見があったとしても、気にする必要もないだろ。来たい人だけで楽しくできればいいな。カワオヌ様も喜ぶ」
吉野夫婦が協力的なのがありがたかった。
萩が牡丹になにか耳打ちをして、ふたりで頷いている。どうしたのだろうか。
「吉野さん。収穫祭のお料理、僕たちで作らせていただけませんか?」
そう言うと萩が乃里に「ね」と微笑む。
「萩さん、牡丹さん」
ふたりがその気なら料理に関しては百人力だ。なにせプロなのだから。
吉野は「あれま」と驚いている。
「ちょっと。あんたら、いったい何者?」
「僕たち、料理を生業としています。彼女はまだ見習いなのですけれど」
吉野と会ったときに夏休みの歴史めぐりなどと適当なことを言ってしまったのだが、忘れてもらいたい。
「そうなんです。わたし、料理の勉強をしています! 畑の作物も興味深かったです」
「へぇ、三人とも料理人なのかい。凄いねぇ。作ってくれるのかい。それはありがたい。村の皆も喜ぶだろうよ」
感心しながら目を細める吉野は何度も頷いてとても嬉しそうだ。
「村でよく作られる料理があったら教えてもらいましょうよ」
「そうですね。僕もそう思っていました」
乃里の提案に萩が頷く。吉野が「村の料理って」と首をひねる。
「郷土料理ってことかい? それならやっぱり枝豆だよ。宮城はやっぱりずんだ。村の茶豆はうまいよ。農家の料理ならばなんぼでも畑のものを使うよ。ずんだ餅はなにかっつぅと作るね。餅ばかりでなく、ここらでは野菜にずんだをあえて食べるね」
「野菜のずんだあえですか? 甘いんですか?」
「甘くはしないのさ。ほら、豆腐の白和えってあっぺ。あんな感じさ」
「なるほど……しょっぱいずんだなのですね」
乃里は甘いずんだ餅ならば食べたことがあるし大好きだったが、野菜をあえる料理は味を想像できなかった。
でも、萩と牡丹が作るなら絶対に美味しいものができるはず。
乃里はワクワクして仕方がなかった。
「予定としましては、急ではありますが、どうでしょう。次の日曜日なんかは」
「ああ。いいんじゃないの。皆さ言っておくから」
「野菜は採れたてが一番です。少しでも新鮮なうちに料理したいです。日曜日のお昼にしましょうか。僕たちも準備がありますし、乃里さんが遅くならずに帰宅できます」
次の日曜は、三日後である。かなり強行開催だと思ったが、吉野がすぐに賛同したことで決定になった。たしかに、作物の鮮度をできるだけ落とさないように料理したいのは乃里にもわかる。
「日曜日、やりましょう。美味しい料理で皆さんが楽しめば、カワオヌ様も安心して見送ってくれるでしょう」
「ああ、お別れ会みたいなもんだな」
吉野が少し寂しそうに奥の山に視線を流しながら笑った。
「吉野さん。僕たちの連絡先はこちらです。なにか不都合がございましたら連絡をください」
「はい、たしかに。帰りにここに戻ってきな。野菜とか用意しておくから」
「ありがたい。すみません」
吉野は萩の名刺を見て確かめてから、懐に入れた。
「じゃあ、僕たちはカワオヌ神社に行って来ましょう」
萩の言葉に牡丹と乃里は頷く。
「吉野さん、ありがとうございました」
また日曜日に、と吉野に手を振り三人は車に戻った。
車が離れていくのをいつまでも見ている吉野の姿がどんどん小さくなり見えなくなった頃には、山が迫っていた。
「神社のことを聞くだけのつもりがまさかこんなことになるなんて想像もしていませんでしたね」
「そうですね。作物は興味深かったですし、このあたりで食べられている料理も教えていただけました」
「俺、いくつかメニューを考えたよ。あとで萩の考えと擦り合わせしような」
「わたしも全力でお手伝いします!」
味付けなどはできないにしても、萩と牡丹が作り出す料理を間近で見ることができるのは楽しみだった。
「到着したようですね。この階段です」
二車線なのかもよくわからない道路、それでも通行の邪魔にならないように車を森の方へ寄せて駐車した。窓から見上げた裏山は遠くから見るよりずっと大きくて木々が深く生い茂っていた。木々の間に鳥居が見えて、視線を上に向ければ階段が続いている。昼なお暗いせいで階段の先が真っ暗で見えなくて、まるで森に吸い込まれているように見えた。
異世界への入口みたい。
萩と牡丹は早くも車から降りている。乃里もリュックを背負いあとに続いた。
階段の始まりには一メートル程の高さの石碑に「川鬼神社」と彫ってある。
「これはまた長い階段ですねぇ」
「しんどそう。猫の姿で行った方が楽かなぁ」
「牡丹は乃里さんのリュックにでも入るつもりでしょう」
「それはやめてください。牡丹さん。自力で行きましょう」
ちぇっと言っているところを見ると、牡丹は本当に乃里のリュックに入るつもりだったらしい。
「上でカワオヌさんが待っているでしょう」
萩は草履で階段を踏みしめた。乃里と牡丹はスニーカーだから動きやすいけれど、どう見ても萩は長い階段を上るような装いではない。しかし、軽やかに階段を移動していく。
萩と牡丹が並んで前を行き、続いて乃里。すぐに息が上がるけれど、前の二人はなんともなさそうだ。
「茶豆ご飯」
急に牡丹がそう言った。
「いいですね。僕もそれは考えていました。じゃあ……大根と煮物」
料理のことか。収穫祭のメニューを考えていたのだ。
多くは語らず、牡丹の言葉にすぐ萩が反応して、本当に仲のいい兄弟だんだな。いいな。心から思う。
長い年月を共に生きてきた、血の繋がりがある唯一の家族なのだから、当然だろうか。
「大根の煮物は肉を入れよう。鶏肉がいいかな。ずんだあえの野菜はなににするかな」
「お出汁での味付けを考えましょう」
「いいね。塩コショウじゃないよな」
味の好みも一緒。考えも理解できて、行動も共に。互いに思いあい、一番に考える。
乃里は、萩と牡丹の関係性がとても眩しく思えた。
家に自分の居場所がないと思うわたしとは大違いだ、と。
ふっとため息をついたとき、牡丹が後ろを振り向いて「乃里ちゃんは」と声をかけた。
「なにが食べたい?」
「わたしですか? いいんですか、わたしが意見しても」
「いいだろ。だって一緒に作るんだし、収穫祭やるんだし」
乃里がぱっと表情を変えたのが面白かったのか、牡丹も笑ってくれる。
「じゃ、じゃあ! プリンがいいです!」
「プリン?」
「はい。先日いただいたプリン、とっても美味しかったですし。弟も喜んでいました」
「そっか。ご家族に気に入っていただけたんだね」
心がピクリと震える。家族というワードに過剰反応してしまう自分が嫌だった。たしかにプリンは父も佐和子も美味しいといって食べていた。しかし、佐和子に至っては、乃里が持ち帰ったから好きでもないのに食べていたのかもしれない。
思 えば、父と里司の好物は知っていても、佐和子の好物は知らない。
「ずんだのプリンにしましょうか」
「いいね。絶対美味しいじゃん」
少し気分が沈んだところにずんだプリンと言われたのでまた乃里のテンションは上がる。
「ず、ずんだ餅も食べたいです!」
挙手をしながら乃里が提案する。甘いものばかりじゃないかと笑われそうだと思ったが、伝えずにはいられない。
「いいね。作ろう」
「乃里さんの甘味趣味はとてもいいですね」
「そ、そうですか……えへへ。楽しみ」
兄弟が受け入れてくれたのが乃里には嬉しかった。
なにが好物か、夕飯はなにがいいか。作ったものは美味しいか、次はなにが食べたいか、作ってほしいのか。
食卓でそんな話をしたことがあっただろうか。
母が生きていたときは、自分は幼過ぎた。記憶が朧げだ。それが口惜しい。もっと色濃く母の記憶が残っていたのなら、また違ったのかもしれなかった。
食事は大事だ。食べないと生命を維持できないことが根本ではあるけれど、美味しい食事は心も満たされる。
ひとりで生きる術を手に入れること以外にも、母の姿を追い求める気持ちから、乃里は料理人を目指すようになったのだ。
こんな風に心を見つめる機会があるのも、兄弟に出会えてよかったんだな。
ふたりが猫又であって、人智を超えた存在であることも忘れてしまいそうだった。
主に乃里だけが息を切らしながら階段を上がり切ると、視界が開けた。
境内に広場があると吉野が言っていたが、ここのことだろう。
「わりと広いですね」
萩は境内を見渡した。
奥に木造の小さな社がある。手前には手水舎があり、水がちょろちょろと流れている。
大規模な神社とは違い、小さいが静かで、木々の間から太陽光が降り注ぎ程よい明るさだった。
ここを、村の人たちは大事にしてきたことが伺える。
乃里は深呼吸する。木々に囲まれてはいても風通しがよく、空気が澄んでいて気持ちが良かった。
「ここで収穫祭をするのはいいとして、階段がこれだけあると、大皿や鍋ものとか運ぶのはしんどいぞ」
「そうですねぇ……」
たしかにそうだ。ここで調理をするのも難しいだろう。コンロを使うとなればガスボンベなども必要となり、そんなに重装備を運ぶことはできない。食器などの割れ物も。
兄弟が思案していると、奥の木々がガサガサと揺れた。咄嗟に三人は身構えたけれど、顔を出した大きな姿に警戒を解く。顔に続いて、木の枝をバキバキと折りながら、葉っぱまみれのカワオヌが姿を現した。
「カワオヌさん!」
乃里が駆け寄る。
「おいおい、突然出てきて……俺たちのほかに誰かいたらどうするんだよ」
「気配で分かるから大丈夫っす。人間は乃里ちゃんだけだ」
頭を掻きながら、カワオヌ目を細めて皆を見る。
「どうだった? 村の人に会ったか?」
カワオヌが言うと、牡丹が返事をする。
「会ったよ。吉野さんというおばあさんに会った」
「ああ、村長さんとこの。もうだいぶ移動が始まっていて、残すところ村長さんの家はじめ数軒なんだ」
「そうみたいだね。農業を廃業する家がほとんどだって、紅首村の名産の茶豆ももう食べられなくなるんだな」
カワオヌが遠くを見る。生い茂る木々の向こうに広がる村の風景を見ているのだろう。
乃里はカワオヌに声をかける。
「吉野さんたちと話していて、村全体がカワオヌさんに感謝をしていて、大事に思っていることが分かりましたよ。カワオヌさんが村の人たちに感謝しているように、皆さんも同じ気持ちでした」
「そう、なのか」
「そうです。でね、楽しいんですよ。楽しいお知らせです! なんと、ここで村の収穫祭をすることになりました!」
乃里が両手を広げて「やったー! 重大告知!」とひとり飛び跳ねるが、カワオヌは首を傾げている。
「しゅうかくさい……?」
言葉の意味がわからなかったのだろうか。
「あの、収穫を、実りを感謝するお祭りです……ここカワオヌ神社でなにか祭りをしたことはあるのかと聞いたところ、伝説はたしかにあるのだけれど、村が拡張するにあたり鬼人信仰が受け入れられなかった歴史があるとの話で、祭りはしたことがないと聞きまして」
「たしかに、そうだな。ここはずっと静かなものだ」
「そこで乃里さんが、お祭りをしましょうよと提案してくれたんです。吉野さんも賛成してくれて、次の日曜に、ここでやります」
「お祭りか。楽しそうだな。みんなくるのか?」
カワオヌは大きな体を揺さぶって、とても嬉しそうだ。
自分が参加するわけにはいかないだろうが、料理を食べて、皆が楽しむ姿を見ることはできる。一緒に実りを喜ぶことができる。
「村の人たちと、束の間一緒に過ごせますよ。同じ空間で。萩さんと牡丹さんがね、村の作物で料理を作って振舞うんです。素敵でしょう!」
「なんと、まぁ」
「吉野さんが言っていました。紅首村で農業ができて村の人たちが生活できるのも、カワオヌ様のお陰なんだって。カワオヌさんが実りの始まりです。収穫を祝うお祭りは、カワオヌさんへの感謝の気持ちなんですよ」
「お、おらがお礼をしたかったのに」
そう呟いたカワオヌの目に光るものがあった。鼻をすすって誤魔化すカワオヌの顔を見ていた萩が、カワオヌの腕を取る。
「収穫祭で、村の皆さんに笑顔が溢れれば、それが村へのお礼になるじゃないですか。それにね。大丈夫、ひとりじゃないですよ」
「萩さん……おら」
「村の歴史を、そしていなくなる人間たちを見送りましょう。僕たち、一緒にいますから」
牡丹も頷いている。
いなくなる人間たち。そうだ。人間と人間でない者たちは一緒に存在できない。ずっとそばで一緒に暮らしたいと思うのは人間のほうだ。
一緒にいられないことをわかっているのは、きっと彼らだけなのだ。
人間の命が限られているからかもしれない。病気になるから。すぐに死んでしまうから。
亡くなった母を思い出して、ぎゅっと胸が苦しくなる乃里だったが、唇を噛んでカワオヌに微笑んだ。
「わ、わたしも一緒だよ、カワオヌさんと一緒にいるから。わたし人間だけど!」
「うん。ありがと、乃里ちゃん」
カワオヌの大きな手が乃里の頭を撫でた。
「それにしてもここ、気持ちが良いですね。風通しもよく絶妙に光が入って、意外と明るいし。カワオヌさんの住処。いいですよね。いまここにシート広げてお弁当でも食べたい気分です」
お腹も空いている。言ってから、乃里は収穫祭に使うレジャーシートはどのくらいの大きさで何枚必要なのかを考えた。すると、牡丹が「それだ」と乃里を指さす。
「収穫祭の料理、お弁当にしよう。お弁当を作ろう」
「お弁当ですか?」
乃里は牡丹と萩を交互に見た。
「たぶん俺たち、お祭りだからって大皿料理を想像している」
「そうですね……なにも皿や鍋でなくてもいいんですよね」
なるほど。弁当か。乃里は様々な紅首村の作物が使われた弁当を想像した。
「ほら、前に仕出し弁当の注文を受けた時に取り過ぎた容器があるじゃないか」
「ああ、牡丹が間違えて発注したやつですね」
その情報はいらないだろうと、牡丹はむくれるがすぐに気を取り直す。
「プラ容器のお弁当に料理を乗せれば、重い食器を持ち運ばなくていい。村は いまは人数も少ないのだから、コンパクトに越したことはない。ゴミもひとつにまとめることができるし境内を汚さなくて済む。火も使わないから安全だし」
「食べきれないひとは持ち帰ってもらえばいいですしね。お弁当が余れば食卓で食べていただいて」
境内で料理をするとなるとそれ相応の設備が必要になると思っていたが、弁当ならは気軽でやりやすい。
「いいですね。ナイスアイディア」
「乃里ちゃんのおかげだよ。いまここでお弁当を食べたいときみが言わなかったらすぐに思いつかなかったかもね」
牡丹に褒められ、乃里は照れ臭かったが、役に立ってよかったと思う。
「よし。じゃあカワオヌさん。次の日曜にまた僕たちは紅首に来ます。ここで収穫祭をしますよ。あなたが守ってきた紅首村の恵みを使って、お弁当を作ります。皆で食べましょう。お祭りです」
「カワオヌ神社祭りだよ」
兄弟が、大きなカワオヌの背中を叩く。
「吉野さんのところに寄って帰りましょう」
萩さんが促し、牡丹と乃里が続く。
「みんな、ありがとう」
カワオヌは体に似合わない小さく優しい声で、ひとつ呟いた。
「じゃあ。またね」
乃里はカワオヌに手を振った。彼も大きな手をひらひらと振る。
静かな境内。村が無くなってもここは残るのだろうか。高い位置にあるから、ダムに水没しないのだろうか。
これからどうするのだろう。カワオヌは、ひとりここに残るのか、それとも別な場所に行くのか。
なにがあっても、生きて行かなくちゃいけない。それは人間も妖怪も一緒だ。
長いか、短いかだけなんだ。
上りは辛かった長い階段も、帰りは回りを見る余裕もあった。
とにかく、そして収穫祭を成功させることだ。村の人たちに喜んでもらうこと。それがカワオヌの願いを叶えることにもなる。
乃里は、まだ料理の修業途中だ。萩と牡丹のようにプロの料理人には程遠いけれど、少しでも役に立てるようがんばろうと、拳をぎゅっと握った。
車に戻った一行は、道すがら吉野の畑に寄る。そこには、痩せて白髪頭の男性が並んでいた。村長だといっていた吉野の夫だった。軍手をして一緒に食材運びをしてくれたらしい。
「すみません、吉野さん」
「近所の人も野菜持って来たから、これどうぞ。持っていって」
「こんなにたくさん。凄いですね」
茶豆、茄子や大根、トマト。ピーマンにじゃがいももある。そして、それぞれの量が多い。収穫量が多いのは、土地が肥沃であり村の人たちの作り方も秀でていることが伺える。
吉野村長が頭を下げた。
「この度はまず、なんだか楽しい企画をしてくれるって聞いて。祭りをするなら、本来なら村議会にかけたりするところですが、もう人もいないでね。ワシの一存で、村に残る五家族みんなに声をかけたから、当日全員来るとして二十人くらい集まると思うよ」
吉野の夫、吉野村長がニコニコとしながらそう伝えてくれる。
「そうですか。じゃあ特製弁当ご準備しますね」
「弁当にするのかい?」
「はい。運搬の都合や、境内で火を扱う危険性などを考えまして」
はぁ、たいしたもんだなと感心した様子で吉野村長が言った。反対されずによかったと乃里は胸を撫で下ろした。
「皆が喜びますよ。村長として礼を言います。お茶とか飲み物はこっちで用意すっから心配いらねぇ。ビールもちょっと出すかね」
飲み過ぎんでないよ、と吉野に小突かれた吉野村長はガハハハッと笑った。
「野菜、これで足りるべか」
吉野が段ボールや袋の中身を確認しながら言う。
「じゅうぶん過ぎるくらいです」
車に積み込むのはいいとして、降ろすのも一苦労しそうだ。シズさんにも手伝って貰わなければ。
「茶豆の握り飯も入ってっから。昼も過ぎてるから腹減ったでしょう。帰りに食べてけ」
「ええ! 茶豆のおにぎり!」
「それはありがたい。俺たち腹ペコなんです」
乃里は牡丹と顔を合わせて喜んだ。
「野菜は余ったらほら、あんたらの店で使ってよ。そのほうが野菜も嬉しいべ」
「ありがとうございます」
吉野夫妻に立つだってもらい、車に食材を積み込んだ。カワオヌが寝ていたフラットシート部分全部が段ボールと麻袋などで埋まった。
「それでは、日曜日に。よろしくお願いいたします」
エンジンをかけて、窓から萩が吉野夫妻に挨拶をした。
「こちらこそ。待ってっから。楽しみだ」
車を発進させると、また吉野夫妻は姿が小さく見えなくなるまで立ってこちらを見ていた。
持たせてくれた茶豆の握り飯を開封する。十個も入っていてラップでくるんであり、手に取るとまだ温かい。
「いつの間に作ってくれたんでしょうね」
真っ白に光る白米の間に見える緑色の枝豆。空腹だったので乃里は握り飯にかぶりつく。
「うわぁ、おいひぃ~!」
頬っぺたが落ちそうとはこのことだろう。働いたあとに食べる食事はなによりも美味である。
「炊き込みご飯ではなくて、混ぜご飯だな。塩味だけなのかな。うん、うまい」
牡丹もぱくついている。運転する萩も牡丹に食べさせてもらっていて「ああ、これはいいですね」と嬉しそうだ。
道路のデコボコに反応して、積まれた段ボールがガサゴソと音を立てる。乃里は握り飯を食べ終わって、ふたつめに手を伸ばした。握り飯はまだたくさんある。
「野菜、凄い量ですよね。採れたて新鮮だし」
ここからどんな料理に変身していくのか、想像すると乃里の心は躍った。
「下ごしらえは明日の朝から。乃里さん、日曜まで三日間、店を開けている間は通常通り、プラスして収穫祭のお弁当の準備で忙しくなりますよ」
「はい!」
後ろを振り向くと、山が緑に輝き、畑が広がり、長閑な風景はそのままだった。ここが無くなると思うとやはりカワオヌの気持ちを思うと切なくなる。
「どこの誰かもわからないわたしたちが、村人でもないのにお祭りをしたいっていって、快く受け入れてくれるなんて」
人が好過ぎではないのか。そんな風に思う乃里だった。
「人間も捨てたもんじゃないですよ。僕たちがいうのもなんですが」
「そうだよなー。見えても見えなくても、形あってもなくても。ね」
「そうですね」
ふたりの言っていることがよくわからなかったが、二つ目の握り飯を完食、お腹がいっぱいになった乃里は座席に体を預けた。そして心地よい睡魔に襲われていった。
それからしろがねに到着するまでに爆睡していた乃里は、牡丹が声をかけるまで起きなかった。
「移動も長かったですし、疲れたのでしょう」
萩は笑っていた。
シズを加えてたくさんの食材を調理場に運び、状態を確認してから収穫祭用弁当に使うものとして保存は別にしておく。
作業が終わったときは夜の七時を過ぎていた。
「よし。あとは明日またよろしくお願いします。乃里さん、お疲れ様でした。今日はもう上がっていいですよ」
「え、夜のお客様はまだこれから……」
「今日はもうお食事なしの日帰り温泉のみの営業にします。気まぐれですから」
「そうそう、遠征で俺も疲れたし。明日から忙しいから今日はもう帰っていいよ」
ふわぁと欠伸をする牡丹。
本当に気まぐれだ。
日帰り温泉で食事を楽しみに来る客もあるだろうに。乃里が腑に落ちなそうに「お疲れ様でした……」と言うと、牡丹がビニール袋を乃里に渡す。
「乃里ちゃん、これまだあるし、おうちに持って帰りなよ」
紅首村から帰るときに食べた、茶豆の握り飯だった。乃里と兄弟で食べたのだけれど、まだ数個残っている。
「いいんですか!」
嬉しいので遠慮なくいただいて帰ることにする。
里司も喜ぶだろうなぁと考えると、ふんわり胸が温かくなる。
「じゃあ、お疲れ様でした」
「はい、また明日」
乃里は帰り支度をして、しろがねをあとにした。
「ああ、疲れた」
帰りのバスに揺られながらポツリと独り言。
本当に疲れた。しろがねでバイトを始めたばかりだというのに中身の濃い一日だった。
一気に色々なことがあったし、他言無用の秘密も抱えてしまった。猫又兄弟の秘密を。誰にも言ってはいけない。乃里は思わず口をおさえた。口が軽いわけではないと思うけれど、こればかりは本当に言ってはいけない。
彼らが妖怪であることを誰かに話したいわけじゃないからいいけれど。
忘れるくらい、兄弟が普通の人間と変わりなく過ごしている様子だから。
今日は木曜日。次の日曜日まで金曜日と土曜日の二日間か。
佐々野兄弟は収穫祭弁当のメニューを考えて味付けと調理法を決めるのだろう。そこに是非参加したかったのだが、乃里がいても邪魔になる。見習いは指示に従うだけだ。
バスから見える町は、夜に包まれ店や街灯の明かりがあたりを照らしている。人間の営みを表している。
紅首村も、こんな風に夜の明かりが灯る頃なんだろうな。カワオヌさんはあの山のどこからか村を見下ろしているんだろう。
ただ、もう見えなくなる。寂しいけれど、避けられない未来。
ひとり思いを抱えるカワオヌに、日曜日は精一杯のことをしようと、乃里は思う。
帰宅して玄関で靴を脱いでいると「お帰りなさい」と佐和子がエプロン姿で出迎えた。
「ただいま」
佐和子の前を通り過ぎてリビングに入ると、里司がテレビでアニメを見ていた。
「姉ちゃんお帰り!」
「ただいま。里司なに見てたの?」
「めいたんていココン」
ソファに座る里司の隣に腰を下ろす。着替えて風呂に入らないと。それにお腹も空いた。
「お父さん、今夜ちょっと遅いんですって」
今日のメニューは、この匂いは、ナポリタンだ。
「ナポリタンにしたの。お腹空いたでしょう」
思ったことと佐和子の言葉が重なったので、思わず眉間に皺を寄せてしまう。
父親が残業で遅くなると、間に誰もいないので一気に乃里の居心地が悪くなる。里司は無邪気だし、なにもわからない。それは仕方がない。
居心地の悪さを感じているのは佐和子も一緒だろう。それぐらいはで感じることができる。
「これ、茶豆の握り飯。貰ったの」
佐和子にも里司にも聞こえるように、誰に向けてというわけでなく言って、乃里はリュックからビニール袋を出してテーブルに置いた。
佐和子は皿にナポリタンを盛り付け、サラダを添えて乃里の前に出してくれた。ナポリタンは、ベーコンではなくウインナーを入れたやつが乃里の好物。
「ありがとうございます」
「姉ちゃん、にぎりめしってなに?」
「おにぎりのことだよ。里司はナポ食べたんでしょ? 明日にするか」
「ナポ美味しかったけど、おにぎりも食べたい!」
仕方ないわねと言いながら、佐和子は袋から握り飯を出して「わぁ、美味しそう……」と言いながら里司に小さく割って渡した。
出されたナポリタンを口に運ぶ。酸っぱさが強くて、乃里の好みの味だった。茶豆の握り飯はとっくに消化し吸収されていたし、いまは空腹で仕方がなかった。
佐和子の作るナポリタンは、美味しい。
「これ、しろがねのおにぎりなの?」
食事を出したらキッチンに戻ってほしいのに、佐和子は里司を挟むかたちでそのままソファに座る。
「今日はちょっと、遠くに行く用事があって。紅首村に行ってきたの」
「紅首? 山形と県境の地域だね。随分と遠くに、なにで?」
「しろがねの御主人の運転する車で」
「……車だなんて」
佐和子の表情が一気に硬くなった。
車で出かけるのがなにか悪いことなのだろうか。わからない。
「そんなところに女の子を連れていくのね。なにをしてきたの?」
別に悪いことをしてきたわけではない。それなのにどうしてあからさまにそんな硬い態度になるのか。
わたしは信用されていない。
信用されているなら、なにをしてもきっと佐和子はなにも言わないのだろうと思う。父は佐和子を信用しているから平日のバイトも許してくれたのだ。それなのに、佐和子は。
「別にいいでしょう。わたしのバイト先のことだもの」
「心配するでしょう。お父さんもきっと」
乃里は一気にナポリタンをたいらげた。早くリビングを出たかった。ここにいたくない。佐和子と一緒にいたくなかった。
わたしだけが、家族じゃない。
里司は口の回りにご飯粒をたくさんつけて握り飯を食べている。無邪気で、乃里と半分血の繋がった弟。無条件に自分を姉と呼ぶ。里司は父と佐和子の子供。
乃里は父の子供だけれど、佐和子の子供ではない。
気持ちが落ちそうになるのを堪える。大人になる途中なのだ。庇護されなくても生きていける。もう少しだ。
「お父さんが心配することと、佐和子さんがわたしを信用しないことと、一緒にしないで」
「乃里ちゃん?」
乃里は食べ終わった皿を乱暴に持って、流しに行った。水を出して、黙って食器を洗う。終わると佐和子と里司になにも言わずにリビングを出た。
「乃里ちゃん」
追ってくるのは声だけで、部屋まで佐和子が来ることはなかった。
乃里は自室のベッドにうつ伏せで倒れ込むと、胸をかきむしりたくなるような感覚に襲われる。
また佐和子との間に不穏な空気ができた。自分が悪いのだろうか。佐和子が乃里を信用していないからではないか。
どうして、なんだろう。続きの気持ちはいったいなんだろう。
自分も、佐和子を信用していないから。だから佐和子も乃里をわからないのだ。
この子の気持ちがわからない。手に負えない。そんな感じの表情をするのが腹立たしい。読み取れてしまう自分にも腹が立つ。
父が帰宅するまで起きていようと思ったけれど、もう疲れてなにもしたくなかった。
乃里はおもむろに起き上がった。風呂に入り、着替えをして、父が帰宅する前にふて寝をしたのだった。
次の日の金曜日。
「おはよう、乃里」
着替えをしてリビングへ行くと、父がもう起きていて新聞を読みながらコーヒーを啜っている。里司は朝食のトーストを頬張っていた。
「おはよう。お父さん昨日遅かったんでしょ」
「ああ。会議が少し長引いてな」
「わたし疲れて寝ちゃった」
「お父さんもだ。帰って来てビール飲んですぐ寝ちゃったよ。乃里も初めてのバイトで疲れているだろうしな。食べて寝るのが一番だ」
新聞を畳んで「今日もバイト行くのか」と聞くので乃里は頷いた。
佐和子はキッチンに立っていたが乃里に気付くと挨拶を普段と変わらぬ雰囲気で、乃里は昨夜の出来事が重く胸にのしかかり、佐和子を真っ直ぐ見ることができなかった。
父は「豆のおにぎりうまかったぞ」と機嫌が良さそうで、特別なにも言ってこなかった。
佐和子が父に何も話さなかったのだろう。
朝九時までにしろがねに到着するよう仕度したので、乃里はそのまま玄関へ向かった。
「乃里ちゃん」
玄関に腰かけてスニーカーを履いていると、後ろから呼ばれた。佐和子だ。
「昨日は、ごめんなさいね。余計なことを言って」
「別に……気にしてない」
「乃里ちゃんを信用していないわけではないから。しっかりしているし、わたしなんかより」
「急ぐから」
佐和子の言葉を遮った乃里は、勢いよく立ち上がる。
「その、わたしの言ったこといちいち気にしなくてもいいよ。余計な心配しなくていいから」
佐和子は父と里司だけ心配していればいいのだ。乃里のことは余計なのだから。コツンと爪先を床に打ち乃里はドアノブに手をかける。
「バイト、頑張ってね」
「いってきます」
重苦しい心と裏腹に、ドアの外はとてもよく晴れていた。
しろがねに到着すると、帳場にシズがいて兄弟は厨房にいると言う。乃里は手早く割烹着を着て準備をして、厨房へ向かった。
「おはようございます!」
調理台の上に、昨日紅首村から貰って来た材料を並べ、壁にかけてあるホワイトボードに牡丹がひとつひとつ書き出している。
「おはようございます。乃里さん」
「メニュー決めですか?」
「そうだよ。大体は村から帰る途中に決めてきたし。下ごしらえはそう時間もかからないから今日と明日でやって」
明日の午後から料理を作り始め、日曜日の早朝から容器に詰める作業をするという。
「真冬じゃないので悪くなりやすいものは作らない。でも冷めて時間が経っても美味しいものを丁寧に作る」
牡丹の話に頷きながら萩は茶豆の房をひとつ手に取った。
「昨日茹でて食べてみましたが、とても味の濃い美味しい茶豆でした。ほら、乃里さん、さやの中にある豆を覆う薄皮が茶色いから茶豆っていうのですか」
「本当だ。この握り飯、美味しかったですよねぇ」
「あ。そっか、いまの採用」
牡丹がホワイトボードにペンで書き足していく。採用、と言われ乃里は意味がわからなかった。
「茶豆のご飯はメニューに入れていたけれど、弁当に詰めるんじゃなくて握り飯にしよう。そうすればご飯のスペースにもう一品入れることができる」
「ああ、そうですね。そうしましょう」
「絶対に容器にご飯が入っていないといけないってことはない。乃里ちゃんがいると考えが広がるね」
牡丹がそう言うと萩が頷く。
「わたし、そんなに役立つことを言っていると思えないのですけれど……」
「ほら、猫って行動が習慣から外れるのが苦手なんだよ。猫又になっても人間の姿になっていても、やっぱり猫だからさ。性分だもんね」
「そうですね。僕は私物の置き場所が変わるのが苦手です」
萩が眉間に皺を寄せている。
そういうものなのか。そんなことでよくいままでここを経営してこれたな。
乃里は兄弟があれが苦手、これが日課だと言っているのを聞きながら苦笑した。
茶豆ごはん
大根と鶏肉の煮物
茶豆と玉ねぎのさつま揚げ
茄子の素揚げトマト味噌
野菜ずんだあえ
ずんだプリン、ずんだ餅
ホワイトボードには以上のメニューが。茶豆ご飯の横に「にぎりめし」と牡丹が書き足した。
全部美味しそう。楽しみで仕方がない。
食べるのもだが、作り方を覚えて家でも作ってみたい。乃里は兄弟の手際を見ながら味付けや調理法などを教わっていくつもりだった。ワクワクと心が躍る。
「さ、おしゃべりはこのへんにして。開店の準備をしましょう」
「はい!」
料理屋しろがねの開店である。
乃里は腕まくりをして「はい!」と返事をした。
数人の日帰り温泉と食事の客を迎え、帳場をシズに任せて乃里は牡丹と萩と一緒に本日のメニューを提供し、収穫祭の弁当の下ごしらえ。その間に、日曜日は料理屋のほうは休業の案内を張り出し、日帰り温泉のほうはシズに任せることとなった。
翌日の土曜日、午後からしろがねの味の基本となる出汁を取ることから準備を始めた。
しろがねにアルバイトに来るようになってから初めて見るしろがねの出汁だ。和食の提供が中心なので、和の出汁となる。
「うちは、合わせ出汁を使っています。作り方は様々あるようですが、これはわたしがここの先代から教えて貰った作り方です」
昆布は前日から水につけてあったという。混布のあとに削ることから自分でやる鰹節を使う。
「鰹出汁と混布出汁はそれぞれ向いている料理がありますが、合わせだと幅広く色々な料理に使えるから覚えておくといいですよ」
真剣な顔で萩は昆布と鰹節で出汁を取った。良い香りが厨房を包む。
「鰹節は最後、絞ってはいけません。苦味が出てしまいますから。学校でも習うでしょうけれど、基本に忠実にやれば美味しい出汁が取れますよ」
「勉強になります!」
乃里が真剣に言うと、萩がにっこりと笑った。
出汁が準備出来ると、紅首の茶豆を料理しやすいようにひと粒ひと粒取り出す作業だ。
茹でて火傷しない程度に冷ましたあとに、さやから茶豆を丁寧に取り出す。このとき、茶豆という名前の由来となった茶色の薄皮を取り除く。一品だけに使うのではないので、正直これが一番作業量がある。萩と牡丹は他の料理に取り掛からねばならず、乃里が茶豆の作業を担当することになる。
これは大変だ。
しかしこの緑色の豆たちが、美味しい握り飯になり、ずんだになる。みんなが食べて笑顔になる。そう考えるだけで嬉しくて、とにかく茶豆の取り出し作業に没頭した。
牡丹は魚肉を磨り潰しにかかっていた。さつま揚げの材料である。
出汁の香りに包まれながら、煮立つ鍋や包丁の音を聞く。それぞれに動く背中。乃里は心から楽しかった。
料理を作る後ろ姿は真剣で優しい。誰かの為に作っている、優しい姿。自分のそうありたい。
乃里は止めていた手元に視線と意識を戻し、再び動かした。
日曜日、収穫祭当日。
収穫祭用の弁当は不足を避けるために三十個用意されることになっており、準備は滞りなく整えてあるとはいっても、人手が多いことに越したことはない。
乃里は夜明けとともにしろがねに来たいと言ったのだが、まだ高校生のアルバイトにそんな厳しいことはさせられないと萩が言う。しかし、それでも早い朝七時に来てほしいとのことで、乃里は六時にしろがねに行き、兄弟に驚かれた。
「こんなに早く来て、親御さんに心配されますよ。七時でいいと言いましたのに」
「大丈夫です。それに九時には出発ですよね。早くやりましょう!」
こんなに早く行くなんて、と父と佐和子には心配されたのだが、弁当の大量発注があったことを話すと一応の納得を見せたので、乃里は朝食もとらずに朝五時に家を出た。
弁当を出すような店じゃないのだが。
乃里は嘘を言って家を出てきたのを少し心苦しいと思った。しかし、本当のことを言えばまた佐和子に不安な顔をされるのが嫌だった。
苦笑している萩と牡丹だったが、弁当の容器を数えて並べるよう、乃里に指示した。
さつま揚げ、大根と鶏肉の煮物など料理は完成しており、乃里が並べた容器に萩が素早く料理を盛りつけていく。早く並べなければ追いつかれてしまう。
「並べ終わったら、そこの冷蔵庫で冷やしているものを足元に保冷ボックスがありますから入れてくださいね。数は三十四」
「はい。分かりました」
乃里は業務用冷蔵庫を開ける。すると、小さなプラスチックのカップに入ったものがずらりと並んで入っていた。
「あ! これプリンですね!」
わぁと感嘆の声をあげる乃里を見て、萩が微笑む。