牡丹の顔を見ることができなかったが、畑にいる萩に「はぎー!」と手を振っている。
「ごめん、いまそっち戻ります!」
萩も気づいて手を振っている。吉野に続いて畑の作物を跨ぎながら歩いてくる萩の腕には、大根と枝豆が抱えられていた。
「なんだ、あれ。ちゃんと吉野さんから聞いたのかなぁ、神社のこと」
「ど、どうですかね」
吉野に畑の作物を貰ったのだろう。乃里と牡丹の元へ戻りながら、吉野は更に萩の腕に枝豆を乗せていく。いくらなんでも持ちきれるわけがない。
「わたし、折り畳みのバックを持っているんです。これに入れましょう」
乃里はリュックを探って折り畳みバッグを取り出した。ありがと、と言いながら牡丹は乃里の顔をじっと見た。
「な、なんですか」
牡丹の大きな目は、乃里が心でなにを思っているのか見透かすかのような光を宿していた。
「乃里ちゃん」
「はい?」
「とりあえずうまいもん食って寝れば、元気になるから」
乃里からバッグを受け取り、萩のほうへ歩く牡丹。乃里は彼の背中を追う。
元気がないわけじゃないんだけれどな。
乃里はふっと笑う。なにに対して笑ったのかわからなかったけれど。
乃里は夏休みのバイトをこれからの自分の糧になるように、一生懸命がんばろうと改めて気持ちを引き締めた。
「いやぁ、こんなにたくさんいただいてしまって、申し訳ありません」
乃里が口をあけたバッグに枝豆と大根を入れながら、萩はほくほくと嬉しそうだ。
「なんも。どうせもう今年は出荷しないからね。この先にある道の駅に出して、自分たちで食べて、あとは友達や親戚に送って終わりだな」
「おや、どうして今年は出荷しないのですか?」
「ダム建設のために、村ごと移転することになってる。このあたりはダムの底に沈むから」
吉野は畑をぐるりと見回して、少し寂しそうに笑う。全体で四百ほどの人口がある紅首村は廃村になるらしい。
「皆納得して出て行くよ。保障もあるからあまり不安はないんだけれどな。もう年寄りの家は農業もきつくなるし、子供たちも成人して出て行くことも多かった。おらも息子たち夫婦にずっと呼ばれていたし、いい機会だったのかもな。山を下ることに関して迷いはないよ」
「そう、なのですか」
「既に残っているのは十軒ほどだ。あとはもう行き先に出ていったから」
「そうだったんですか……」
それしか残っていないのだ。
カワオヌはひとりふたりといなくなる村を見守ってきたのだろう。乃里は長閑な風景に、寂しさを感じた。
「ここは、ずっと昔からカワオヌ様に守られた村だった」
「カワオヌ神社、ですね」
「んだ。ここらでしか知られないような言い伝えなのによく知っていたね、あんたら。水害に悩む村を助けてくれた鬼を祀っていてな。鬼人信仰とまではいかないが、守り神として大事にしてきたんだよ。今年もたくさん作物が採れました、とお供えをして。それぞれがお参りをして掃除をしたり。いまも守ってくれていると思っているし」
「こんな風に豊かな実りをもたらしてくれた存在でもあったのですね」
そうだよ、と吉野は頷く。
「ここを出て行くことで気がかりは、カワオヌ様だ。でも、おらたちはもういられない。だから、せめて村の皆が感謝をしていることをカワオヌ様に分かってもらいたいな」
「カワオヌ様をないがしろにして、工事中に事故が起こっては困りますからね」
「そうなんだよ」
萩の言葉にワハハと笑う吉野。廃村になるというのに、工事についても心配し心を馳せるとは、なんと心優しい村人たちなのだろうか。
村の人たちも感謝したい。カワオヌも同じ思いだったのだ。
「この大根も枝豆も、うまいものたくさん採れる田畑があるのも、今日まで紅首村があったのも、カワオヌ様のおかげだ」
しゃがんで土を握った吉野の手は、働く逞しい手をしていた。
うまいもの。たくさん採れる。感謝の思い。村とカワオヌ、神社。
「あ」
ぽかんと開けた乃里の口から声が出た。
「どうしたの、乃里ちゃん」
「吉野さん。この作物を使って料理をしてもいいですか」
「うん? ああ、いいよ。もっと持っていくといい。無駄にするのは勿体ないし」
「いま、吉野さんの話を聞いていて思いついたんですけれど……」
おずおずと視線を萩に向けると「なんですか?」と乃里を促す。牡丹も吉野も、どうしたのかと乃里を見た。
「村が無くなる前に、お祭りをしませんか?」
「お祭り?」
乃里以外の三人が口をそろえる。
「ええ。収穫祭みたいな。作物を使って料理するんですよ。それをお供えして、皆で食べるんです。お別れの意味も込めて」
吉野は乃里の提案を聞いて「ふむ」と顎を触る。
「……思えば、カワオヌ様のお祭りというものはやらないんだ。鬼のお社を建てて祀ってるっていうので、当時は偏見があったらしくてな」
「偏見……」
「余所から村に越してきた人たちとかには関係ないし、受け入れられなかったって聞いたな。だから静かにお参りしてるだけなんだよ」
たしかに、鬼というものは怖いイメージでしかない。村を救ったという言い伝えにより祀っているといっても、この村の中だけのこと。