「家で飼っていた猫がいなくなってしまって、しばらくしてから帰ってきたという話を聞いたことありませんか? それ、帰ってきた子は普通の猫じゃなくなっているのです」
「ああ、動物番組とかで…そうなのかぁ」
たしか、再現VTRだったと記憶している。行方不明の猫を探す飼い主の心境はいかばかりかと胸が痛くなったが、ふらっと戻ってきた猫を泣きながら抱きしめていたシーンを覚えている。
猫又になろうがなにになろうが、ずっとそばにいてほしいと思うだろう。
猫と暮らしたことがなくても、想像できた。
「萩さんと牡丹さんも、ふらっといなくなって戻ってきたタイプの猫又なんですか?」
「そうですよ」
「牡丹さんも一緒に?」
「いいえ。あの時は牡丹に凄く心配をかけてしまいましたね」
萩は、言いたくないのかもしれない。
なんとなくそんな雰囲気を感じ取り、乃里はそこから突っ込んで聞けなくなってしまった。
「まぁ、僕たちにしかわからない思い出話です。乃里さんはいまの僕たちを好きでいてほしいです」
「あ、なんかその言い方とても猫っぽいです」
ふふふと上品に笑う萩。
乃里は座席の背もたれに体を戻す。膝の上の牡丹はピクリとも動かず、まるでビニールに入れた温かい液体のような感触だ。
今日は、しろがねの仕事というよりも、牡丹さんの寝具として使われているような気がする。
米とぎも、野菜の皮むきも、大根おろしもしない。
しかし、鬼火騒動から始まったカワオヌのこと、佐々野兄弟の正体と過去。乃里の心は許容量を超えていた。
不思議であるからこそ、身を任せたいとも思った。しろがねにいる間は、自分が家族にとって、家の中でどんな存在で、居場所がないと目を閉じることがない。
なんか、嬉しい。自分は、こんな場所を求めていたのかもしれない。
乃里は膝の上の温かさが安心感に変換され、体全体に広まる感じがして、瞼を開けていることができなくなった。
「乃里ちゃん、到着したよ」
静かな声で名前を呼ばれ、乃里の意識は浮上した。
「あれ、あれ?」
車は停車していて、運転席にいた萩の姿がない。
膝の上にいたはずの猫がいない。どこにいったのかと車内を見回した。
「寝心地よかったわぁ。ありがとねー」
車のドアは開いていて、牡丹はひらりと車外に出た。
「ああ、人間に戻ったのね……ああそう」
本体が猫なのだから、人間に変身したというほうが正解か。
寝るつもりはなかったのに。疲労と居心地の良さでつい眠ってしまったのだ。自分を囲む壁のように体を折り曲げて眠っていたカワオヌもいない。
物音に気付かず眠りこけてしまったのだろう。
乃里は割烹着姿にリュックを背負い、車を降りた。
天気が良く、青空が高い。
車道から脇道に少し入り、休憩所のようになっている場所に車を停車していた。片側が斜面、ガードレールの下には民家と田んぼがポツポツと見える。
青空に手を伸ばすようにして木々が生い茂り、蝉の鳴き声が近い。鳴き声というよりも大合唱だ。
「あれが、紅首村」
たしかに山深い。人間が住んでいると思えないような場所ではある。
県境の山なんて、雪深いだろう。
昔、戦いを逃れ流れ着いた人々が命を繋ぎ、山と共に暮らしてきた。歴史を見守る鬼がいた。鬼を祀り、伝え、時が流れるうちに電気やガスなどのライフラインが繋がれ、コンクリートの道路ができ、暮らしが便利になっていった。
ここだけではないだろうが、変化していく歴史と土地。
そして、紅首村はダムの底に沈む。
「このへんから入ると、カワオヌ神社の裏に行くんだ。おらは村に降りるわけにいかねぇし」
カワオヌは、やっと体を伸ばせるといった感じでストレッチをしていた。萩も着物の裾を直している。よく見たら、牡丹はパーカーにジーンズといった姿だった。旅館にいるときは着物だったはずなので、着替えてきたのだろう。
「じゃあ、カワオヌさんはお社に、わたしたちは村に行きましょうよ」
乃里が声をかけると、萩が「乃里さんの提案に乗りましょう」と同調してくれた。牡丹は頷きつつも、首を捻る。
「別行動だね。なんか考えがあるの? 乃里ちゃん」
「いいえ」
勝手にワクワクしている牡丹に、乃里が胸を張って言う。
「ノープランですけれど、カワオヌさんと一緒に山に行っても、村のことがなにもわからないし」
「聞き取り調査でもするつもり?」
「ああ、それいいですね。出会った村の人に話を聞くことにしましょうよ」
聞いてなにが得られるかは、乃里にもわからなかったが、ここでじっとしていてもなにも始まらない。
「目的は、カワオヌさんの気持ちが伝わるようなお礼を考えることなんです」
たしかに、と牡丹が頷く。萩も頷いた。
「カワオヌさんが山に入ったら、車を出しましょう」
「カワオヌさんにはお社に行くと会えるんですか?」
「ああ、いつもはいないけれど、今日はあんたたちが帰るまでカワオヌ神社にいることにするよ」
なにかわかったら、そのカワオヌ神社が待ち合わせ場所だ。
「ひとまず、カワオヌさんは神社へ。また会いましょう」
「帰る前に、必ず寄ってくれよな。場所はな……」
「村の人に聞きますよ。カワオヌ神社を会話の糸口にしますから」
「乃里ちゃん、頭いいなぁ」
牡丹が感心している。初対面の相手にも奇策に話しかけ人見知りをしなさそうなのは乃里より牡丹のほうだ。
バイトで採用になったばかりだし、人となりを深く知るわけではないけれど、牡丹みたいなタイプはお年寄りにも好かれそうだ。
紅首の村人がお年寄りばかりとは限らないが。
カワオヌは、三人に手を振ると、木の枝を物ともせず、生い茂る森にバリバリと音を立てて入っていった。帰った、と言うべきだろうか。
乃里は、兄弟と一緒に車に戻る。牡丹が運転席、萩が助手席だ。乃里は先ほどまで座っていた後部座席に戻る。ゆっくりと車は発進した。乃里は寝ていたので気づかなかったが、「紅首村」という道路標識があった。
大きくカーブする道路を下っていくと、下のほうに民家がぽつりぽつりと見えてきた。
山々に囲まれた土地に田畑があり、小川が流れている。カワオヌが整備した川からわかれた流れなのかもしれない。
「第一村人を捜索しましょう」
乃里が窓の外を見ると、視界に入る限り、人は見えなかった。
絶対数が少ないんだろうけれど。ひとりもいないことはないと思う。
「なんかそういうテレビ番組あったよな」
牡丹がテンションを上げている。
「牡丹さんと萩さん、今日は一日人間の姿でいてくださいね」
「変なことを言いますね。当たり前ですよ。乃里さんひとりにしませんよ」
「いくら猫は気まぐれとはいえ、さすがにそれはねぇ。なぁ、萩」
兄弟は「ねー」と笑っている。仲良しか。
「お店とかあるといいんですけれどね……ないのかな」
「ここに来る途中、道の駅と大型スーパーあったからなぁ。雰囲気的に村の中には無さそうじゃないか?」
村の道路には車も走っていない。本当に村の人に会えるのだろうかと不安に思っていると、牡丹が「あれ」と声をあげた。
「軽トラが停まっている……運転席に人がいるぞ」
牡丹が指さすのは、乃里が見ていた反対側だった。
青々とした背の低い葉が茂る、なにかの野菜栽培の畑が広がり、道路に繋がるいくつかの畦道で区分けられている。そこに、路肩に寄せ過ぎて少し傾いている白い軽トラックが見えた。農作業で畑に出ている人なのだと思う。
「運転席にほっかむりの……おばあさんがいますね」
萩の声によく見れば、たしかに手ぬぐいのようなものでほっかむりをした女性らしき人物が見える。どのような容貌なのかはフロントガラスが反射して判断できない。
「おばあさんなの?」
「匂いがそうです」
匂いでわかるのか。さすが猫だ。
乃里は風を嗅いでみたがわかるわけがなかった。おばあさんの匂いというのもよく理解できなかった。
「あの人に聞いてみようぜ」
牡丹が徐行運転で軽トラに近づくと、萩が「お待ちなさい」とハンドルを握る牡丹の手を止めた。
「僕が行って神社のことを聞いて参りましょう。ふたりともここにいてください。大丈夫そうだったら合図しますから」
車が軽トラから数メートル離れた場所に停車すると、萩はひらりと降りた。いくらか移動したことにより、角度が変わって軽トラの運転席に座るのはシズさんと同じような年代の女性だった。萩が歩み寄り、運転席の窓をノックする様子が見える。
「教えてくれますかね。神社」
乃里が固唾を飲んでいると、牡丹は「大丈夫だろ」と暢気である。
「萩自身が神様みたいに見えるんだけど」
たしかに、白髪で着物だし。
牡丹は笑うが、乃里は、小さな村だと余所者相手に話を聞いてくれないのではと心配だった。萩の物腰柔らかな雰囲気でなんとか村人の心を掴んでもらいたいものだ。
「あ、なんか大丈夫そうだぞ」
視線を戻すと、萩がこちらへ手招きしている。
行こう、と牡丹が運転席から外へ出た。乃里も続く。軽トラの横には、運転席から降りてきた小柄な年輩女性と萩が並んでこちらを見ていた。近寄ると、年輩女性は乃里よりも頭ひとつぶん身長が低かった。
「こ、こんにちは」
笑顔を向けると、年輩女性は「やぁ、めんこい子だこど」とシワクチャの笑顔を見せてくれた。
よかった。雰囲気が悪かったらどうしようかと思った。
「こちら、吉野さんとおっしゃいます。このあたりの畑の持ち主だそうで」
ほっかむりともんぺという農作業の装いの吉野は、ニコニコと笑顔を絶やさない人だった。
「あんたらなに、カワオヌ様に来たのすか?」
「そうなんですよ。ちょっと俺たち、歴史に興味があって」
「夏休みを使って、歴史めぐりをしようかと」
んだかぁと、吉野は感心している。
「みんな高校生だべか。髪ばそいなぐ染めて……はいからだねぇ。おらいの孫も自由研究だっつって、昆虫採集に来たことあったなぁ」
訛りがきつい。しかし聞き取れないことはない。一応は同じ県内なのだから。
そして、自分はともかく、この兄弟を高校生に仕立てるには無理がある。乃里は咄嗟に吉野に言葉をかける。
「わたしは高校生ですが、ここふたりは、その、兄たちです」
ね、と言うと萩と牡丹が驚いた顔をしている。当たり前か。
「ちょっと乃里ちゃん」
「あ、だって、そのほうが話をしやすいと思って」
旅館の主人たちとアルバイトよりもややこしくないと思ったのだ。
「そうなんですよ。僕たち、妹の夏休みにつきあって……ところで。カワオヌ神社はこの道を真っ直ぐでしたよね?」
こそこそと話をする乃里と牡丹から吉野の気を逸らすべく、萩が助太刀した。
さすが萩。
「んだ、んだ。ここまーっすぐ行くと山さぶつかっから。そうすっと鳥居と長い石段があっから。それもずーっとあがっていくと、開けて境内にはいる。階段はけっこうきついから気をつけて」
「ありがとうございます。吉野さん。ところで、ここの畑はなにを作っているのですか?」
「ああ、このあたりは枝豆だよ。この村は茶豆が名産で一番多いかな」
「おお、茶豆を作ってらっしゃるのですか」
「あっちのほうは大根もあるよ。あとはちょこっと、ピーマンだの茄子だのあるんだよ」
「いろいろ作ってらっしゃるんですね。あ、僕は佐々野 萩といいます。吉野さん、ご迷惑でなければちょっと僕、あのへんを見たいのですが」
「ん? んで、一緒に見に行くかい」
吉野は萩の話に耳を傾けて、ふたりは畑のほうへ歩き出した。
「え、萩さん、ちょっと……」
「始まった。萩の料理オタク」
牡丹が苦笑している。
「料理オタク、ですか」
「食材を見ると気になるんだろうね。畑とかスーパーとか行くとああなる。どんな料理にしていこうとか想像して止まらなくなるみたい。食に対して貪欲なんだな」
いつものことだと牡丹は言った。
「料理人として素晴らしいことじゃないですか。ちょっとびっくりしましたけれど」
「好きにさせるよ。萩も楽しそうだし」
流れるように吉野を畑に誘い出すあたりはコミュニケーション能力抜群ではないか。
興味のあることにあんなに没頭できるのは、凄いし、うらやましくもある。
視界に広がる田畑をぐるりと眺めた。乃里は、なぜ料理人になりたいのかと聞かれたら、料理が好きだからと答える。なぜ料理が好きなのかと聞かれたら、答えがない。
好きだという気持ちに嘘はない。きちんとした答えがあるような、ないような。
いや、答えがないわけではない。あるのに、胸に押し込んでいるだけだ。
隣で「お、バッタだ」としゃがみ込んだ牡丹。
彼も料理人だ。経営もしながら大変だろうけれど。
「牡丹さんは、なぜ旅館を継ごうと思ったんですか? 料理も手掛けて」
乃里が話しかけると、目線が下の牡丹は太陽の眩しさに瞳孔が縦に細くなった。
「調理師免許もお持ちですよね? どうして料理人になろうと思ったんですか?」
「おいおい、いっぺんに質問しないでよ」
「すみません……」
頭を下げると、萩が立ち上がる。
「旅館を継いだことに関しては、居場所が欲しかったから。ふたりで暮らしていく場所。どうしても必要だからね」
「ここへ来る途中、萩さんにおふたりのことを少し聞きました。あの旅館を継いだときのこと、猫又になったこととか」
「ふうん。そっか。萩がそんなこと話すなんて珍しいね」
「あの頃は牡丹さんに心配をかけましたと言っていました」
「心配ね、そうだね。まぁ、旅館を継いだのは本当に居場所の確保。奪ったわけでなく、騙したわけでもない。自分たちで旅館しろがねを住処にしたの。体と魂の在処として、ね」
牡丹は萩の姿を目で追いながら。「ずっと昔のことだよ」と話し始めた。
「俺たち、ちゃんと母猫から生まれたんだよ。色は違うけれどね。生まれてすぐに箱ごと捨てられたみたいで」
両手で物をぽいっと投げ捨てる動作をした萩。
「ああ、最低ですね。人間って」
「本当。人間って。でもね、捨てる神あれば拾う神ありとでもいうのかな。とある人間に拾われたんだ。そしてその一緒に生活するようになった。とても楽しい日々だったよ」
拾ってくれた人間は、男性だったそうだ。その飼い主の男性との日々が愛おしく愛情を抱いていたことは、牡丹の表情を見ればわかった。
「何年一緒にいただろうね。俺たちの猫としての寿命は後半のほうだったのだと思う。若いころのように追いかけっこで走り回ることが少なくなった。飼い主に見せたくて、花を摘みにいったり、ねずみや鳥を捕まえに行ったりすることも減った。俺と萩は、庭が見える場所で、一日中くっついて寝ることが多くなっていた」
牡丹の瞳に影が落ちる。
ある日、牡丹がふと目を覚ますと、萩の姿が見当たらなかった。当時住んでいた家の中を見て回ったが、いない。飼い主は仕事に出かけており不在だった。いつも玄関や窓を閉めていくので外には出られないはずだ。ということは、萩は家の中にいるに違いないのだが。
台所、寝室。ソファの上と下。牡丹は重く感じる体を動かして探した。萩の名を呼んだけれど、返事がない。そのうち牡丹は探すのを諦めて、クッションの上に体を横たえた。
「猫が行方不明になり、時間が経ってから戻ってくると、猫又になっているという言い伝えは本当だったと思ったよ。人間の間だけではなく猫の間でも有名な話だったからね」
萩がいなくなったことに気付いた飼い主は貼り紙などをして探した。そして数日後、萩はなに食わぬ顔をして戻ってくる。少し痩せてはいたが、毛艶も悪くなく、怪我もしていなかった。
「萩さんは、いったいどこに行っていたんでしょう」
乃里が問うと「それがね」と牡丹が頭を掻く。
「萩は、行方不明だったときの記憶が断片的でうまく思い出せないらしい。そしてね、俺もなんだ。俺も行方不明から帰還した猫。ふらふら出て行ったことは覚えているんだけれど……実際自分がなってみると不思議な感じだったよね」
「覚えてないなんて」
「そうなんだよ。どこへ行ったのか、どう過ごしたか、記憶は無いんだよ」
萩と牡丹は時を同じくして行方不明になり、飼い主の肝を冷やして、しばらくして家に戻った。すると不思議な力を持っていることに気付いたという。
「色というものが分かったのも楽しかったな」
「色? ですか」
「そう。猫は白黒でしか見えていないから。花の色、空の色。飼い主の瞳の色と髪の色。俺たちの毛色もわかったんだ」
妖怪猫叉になるという言い伝えは、体で実感していった。妖気を蓄え、使い、長命になる。色が理解できて、いままでよりも体が軽く、高く飛べる。早く走ることができる。
兄弟は、飼い主の元で再び平和に暮らした。飼い主が妻を迎えるのを見た。子供が生まれるところも見た。そして、老いて行く日々を共に過ごして、飼い主を看取った。
牡丹は下唇を噛む。思い出して苦しい気持ちを抱えているようだった。
「長生きするって大変だよね」
身に付いた不思議な力では飼い主の命が消えていくのを止めることが出来なかった。撫でる手、抱き上げる腕がもう動かない現実を受け止めねばならなかった。名前を呼ぶ声も聞こえない。頭を飼い主の顎の下に入れてみても、なにも反応しない。
悲しく辛い経験は、兄弟の食欲を無くした。
飼い主は料理人だったそうだ。元気がないときは、栄養のある食材を選び特別な猫の料理を作ってくれた。誕生日にはほぐし肉や魚を型で成形し、ケーキに見立ててお祝いをしてくれた。誕生日といっても、捨て猫だった拾われた日を誕生日にしていたらしい。
『ボタン、ハギ。食べなくちゃ弱るよ。お父さんが悲しむよ』
飼い主の息子や娘に言われても、気持ちを立て直すことは難しかった。憔悴しきった萩は痩せ衰え、飼い主を探して鳴いていた。思いは牡丹も同じだったが、萩の様子を見ていて、このままではいけないと感じた。
飼い主が作ってくれる料理を食べたかった。でも、もう、食べられない。
涙を零しながら牡丹はぐっと立ち上がった。
自分で作ればいい。作り方は見ていたし、味も覚えているもの。
いまならなんだって出来る気がした。飼い主みたいに、美味しい料理で相手を元気にしたい。そう思った。本気で、純粋に、心の底から。まず、萩を元気にしたかった。
あれが、初めて人間に化けたときだった。
家族、という言葉に胸がつかえる。本当は牡丹の気持ちが凄くよくわかるのに、いま自分は見ないふりをした。
心を揺さぶられるのは、苦手だ。
「萩に食べて貰いたかった。それが始まりかな。俺たちお互い、元の飼い主が料理人だったことの影響が強いかな」
家族に、料理人がいたから。同じ道を目指すことで、いまは亡き人を思うことができるのだ。
「乃里ちゃんは、どうして料理人になりたいの?」
「料理が、好きなので」
当然聞かれるだろうと思っていた乃里だった。
料理が好き。それは嘘ではないのだから。進路を決めるために、一番に思ったことだったのだから。
「ご家族、そうだな。お母さんが料理うまいでしょ。影響があるよね」
「そう、ですね。それはあると思います」
「履歴書の家族構成は覚えているよ。弟さんがひとりいるんだね。お姉ちゃんって感じだもんね。乃里ちゃん小さい頃からお母さんの手伝いをしていたとかかな」
適当に答えておけばいいものを、つい顔に出てしまったのだろう。牡丹は「どうしたの」と首を傾げた。
「どうしたの。乃里ちゃんなんか変だね。聞かれたくなかった?」
「あ、いいえ」
「ごめん、俺、人の空気を読めないって萩に言われるんだ。言いたくないことだったのなら言わなくていいよ」
猫なのに人の空気を読め、なんて難しい。乃里はそう思いながらへらっと笑った。
「いまの母親、父の再婚相手なんですよ」
乃里は言いながら全力で拒絶の空気を出してしまっている自覚があった。これ以上突っ込まないで欲しかった。
「弟は、再婚相手と父の子です。わたしと半分血の繋がりがある」
ここまで説明すれば、聞かれたくないこと、言いたくないこと、どちらも感じ取ってもらえないだろうか。
「すみません」
思わず乃里は謝る。いまはそれだけしか言いたくない。言わなくてもよかったかもしれない。でも、なぜだか言ってしまった。
わたしは、ずるい。
「そっか。謝らなくてもいいよ」
牡丹の顔を見ることができなかったが、畑にいる萩に「はぎー!」と手を振っている。
「ごめん、いまそっち戻ります!」
萩も気づいて手を振っている。吉野に続いて畑の作物を跨ぎながら歩いてくる萩の腕には、大根と枝豆が抱えられていた。
「なんだ、あれ。ちゃんと吉野さんから聞いたのかなぁ、神社のこと」
「ど、どうですかね」
吉野に畑の作物を貰ったのだろう。乃里と牡丹の元へ戻りながら、吉野は更に萩の腕に枝豆を乗せていく。いくらなんでも持ちきれるわけがない。
「わたし、折り畳みのバックを持っているんです。これに入れましょう」
乃里はリュックを探って折り畳みバッグを取り出した。ありがと、と言いながら牡丹は乃里の顔をじっと見た。
「な、なんですか」
牡丹の大きな目は、乃里が心でなにを思っているのか見透かすかのような光を宿していた。
「乃里ちゃん」
「はい?」
「とりあえずうまいもん食って寝れば、元気になるから」
乃里からバッグを受け取り、萩のほうへ歩く牡丹。乃里は彼の背中を追う。
元気がないわけじゃないんだけれどな。
乃里はふっと笑う。なにに対して笑ったのかわからなかったけれど。
乃里は夏休みのバイトをこれからの自分の糧になるように、一生懸命がんばろうと改めて気持ちを引き締めた。
「いやぁ、こんなにたくさんいただいてしまって、申し訳ありません」
乃里が口をあけたバッグに枝豆と大根を入れながら、萩はほくほくと嬉しそうだ。
「なんも。どうせもう今年は出荷しないからね。この先にある道の駅に出して、自分たちで食べて、あとは友達や親戚に送って終わりだな」
「おや、どうして今年は出荷しないのですか?」
「ダム建設のために、村ごと移転することになってる。このあたりはダムの底に沈むから」
吉野は畑をぐるりと見回して、少し寂しそうに笑う。全体で四百ほどの人口がある紅首村は廃村になるらしい。
「皆納得して出て行くよ。保障もあるからあまり不安はないんだけれどな。もう年寄りの家は農業もきつくなるし、子供たちも成人して出て行くことも多かった。おらも息子たち夫婦にずっと呼ばれていたし、いい機会だったのかもな。山を下ることに関して迷いはないよ」
「そう、なのですか」
「既に残っているのは十軒ほどだ。あとはもう行き先に出ていったから」
「そうだったんですか……」
それしか残っていないのだ。
カワオヌはひとりふたりといなくなる村を見守ってきたのだろう。乃里は長閑な風景に、寂しさを感じた。
「ここは、ずっと昔からカワオヌ様に守られた村だった」
「カワオヌ神社、ですね」
「んだ。ここらでしか知られないような言い伝えなのによく知っていたね、あんたら。水害に悩む村を助けてくれた鬼を祀っていてな。鬼人信仰とまではいかないが、守り神として大事にしてきたんだよ。今年もたくさん作物が採れました、とお供えをして。それぞれがお参りをして掃除をしたり。いまも守ってくれていると思っているし」
「こんな風に豊かな実りをもたらしてくれた存在でもあったのですね」
そうだよ、と吉野は頷く。
「ここを出て行くことで気がかりは、カワオヌ様だ。でも、おらたちはもういられない。だから、せめて村の皆が感謝をしていることをカワオヌ様に分かってもらいたいな」
「カワオヌ様をないがしろにして、工事中に事故が起こっては困りますからね」
「そうなんだよ」
萩の言葉にワハハと笑う吉野。廃村になるというのに、工事についても心配し心を馳せるとは、なんと心優しい村人たちなのだろうか。
村の人たちも感謝したい。カワオヌも同じ思いだったのだ。
「この大根も枝豆も、うまいものたくさん採れる田畑があるのも、今日まで紅首村があったのも、カワオヌ様のおかげだ」
しゃがんで土を握った吉野の手は、働く逞しい手をしていた。
うまいもの。たくさん採れる。感謝の思い。村とカワオヌ、神社。
「あ」
ぽかんと開けた乃里の口から声が出た。
「どうしたの、乃里ちゃん」
「吉野さん。この作物を使って料理をしてもいいですか」
「うん? ああ、いいよ。もっと持っていくといい。無駄にするのは勿体ないし」
「いま、吉野さんの話を聞いていて思いついたんですけれど……」
おずおずと視線を萩に向けると「なんですか?」と乃里を促す。牡丹も吉野も、どうしたのかと乃里を見た。
「村が無くなる前に、お祭りをしませんか?」
「お祭り?」
乃里以外の三人が口をそろえる。
「ええ。収穫祭みたいな。作物を使って料理するんですよ。それをお供えして、皆で食べるんです。お別れの意味も込めて」
吉野は乃里の提案を聞いて「ふむ」と顎を触る。
「……思えば、カワオヌ様のお祭りというものはやらないんだ。鬼のお社を建てて祀ってるっていうので、当時は偏見があったらしくてな」
「偏見……」
「余所から村に越してきた人たちとかには関係ないし、受け入れられなかったって聞いたな。だから静かにお参りしてるだけなんだよ」
たしかに、鬼というものは怖いイメージでしかない。村を救ったという言い伝えにより祀っているといっても、この村の中だけのこと。
「隣町の川祭りで花火大会があったりして盛大だし、皆そっちに行くんだ」
「じゃあ、最初で最後のお祭りですね。やりませんか? 皆でワイワイしていたら、カワオヌ様も嬉しいんじゃないかと思うんです」
作物で料理をして、皆で食べて感謝する。収穫に、カワオヌ様に。村はなくなるが、思い出が残る。
カワオヌがもたらした思いと歴史は、村の人たちの心に残る。
カワオヌが村にお礼をしたいという思いは、彼が村人の前に姿を現すことでは叶わない。だから、気持ちを橋渡しする役目を、乃里たちがするしかない。
賛成してくれるといいのだけれど。
乃里は提案してみたものの、乗って来てくれるか心配だった。
「面白そうだなぁ。俺は賛成。このへんの家庭料理も見ることができるし、知らないこともあるかも」
「なるほど……家庭料理ですか」
まずは牡丹が賛同してくれる。料理オタクである萩も、このあたりの家庭料理という牡丹の意見に食いついたようだった。
「やろうよ。料理なら俺たちの得意分野じゃないか。カワオヌ神社の前に人が集まれるようなスペースがあるのか見てこないといけないけれど」
「ああ、それは心配ねぇな。広大な境内じゃないが、神社の前は広場になってる」
牡丹に対して吉野が返事をする。
シートを敷いて、座布団とテーブルを設置して。長期計画は無理だから、すぐにできることを始めるのがいい。難しさを重ねたらなにも決まらないし、進めないと思う。
乃里はどんな風に収穫祭を組み立てたら負担が少なくできるか思いめぐらせた
「勝手にはできないでしょう。そうですね、村長さんとかに聞いてみては……まだいらっしゃるのでしょうか」
勢いに任せてできることじゃないか。順序がある。
ここで締めてくれる萩がいることがありがたい。
乃里が思いつかない不十分な点を聞いて行かなければ。しかし、村長には許可を貰わねばならないだろう。
「それなら心配いらねぇよ。村長はうちの夫だからな」
「え!」
また吉野はワハハと笑った。
「大丈夫。言っておくよ。カワオヌ様を大事に思っているのはうちのお父ちゃんも一緒なんだよ。もうあまり村に人がいないし、娯楽もないから収穫祭はいいと思うな。おらも賛成する。収穫したものを行き場がないからってただあちこちに分けて、それで終わるのはつまらないし」
「吉野さん! ありがとうございます」
「枝豆はたくさんあるから好きに使ってけろ。あとは大根と茄子にトマト。夏野菜を作っている家に声かけてやっから、材料は集められるからね。うちと同じでここの畑はもう辞める人たちばかりだから」
吉野は、知り合いの農家を指折り数えている。先程少し寂しい目をしていたけれど、いまは楽しそうだ。
よかった。前向きに考えてくれるみたいだ。
「たとえ反対意見があったとしても、気にする必要もないだろ。来たい人だけで楽しくできればいいな。カワオヌ様も喜ぶ」
吉野夫婦が協力的なのがありがたかった。
萩が牡丹になにか耳打ちをして、ふたりで頷いている。どうしたのだろうか。
「吉野さん。収穫祭のお料理、僕たちで作らせていただけませんか?」
そう言うと萩が乃里に「ね」と微笑む。
「萩さん、牡丹さん」
ふたりがその気なら料理に関しては百人力だ。なにせプロなのだから。
吉野は「あれま」と驚いている。
「ちょっと。あんたら、いったい何者?」
「僕たち、料理を生業としています。彼女はまだ見習いなのですけれど」
吉野と会ったときに夏休みの歴史めぐりなどと適当なことを言ってしまったのだが、忘れてもらいたい。
「そうなんです。わたし、料理の勉強をしています! 畑の作物も興味深かったです」
「へぇ、三人とも料理人なのかい。凄いねぇ。作ってくれるのかい。それはありがたい。村の皆も喜ぶだろうよ」
感心しながら目を細める吉野は何度も頷いてとても嬉しそうだ。
「村でよく作られる料理があったら教えてもらいましょうよ」
「そうですね。僕もそう思っていました」
乃里の提案に萩が頷く。吉野が「村の料理って」と首をひねる。
「郷土料理ってことかい? それならやっぱり枝豆だよ。宮城はやっぱりずんだ。村の茶豆はうまいよ。農家の料理ならばなんぼでも畑のものを使うよ。ずんだ餅はなにかっつぅと作るね。餅ばかりでなく、ここらでは野菜にずんだをあえて食べるね」
「野菜のずんだあえですか? 甘いんですか?」
「甘くはしないのさ。ほら、豆腐の白和えってあっぺ。あんな感じさ」
「なるほど……しょっぱいずんだなのですね」
乃里は甘いずんだ餅ならば食べたことがあるし大好きだったが、野菜をあえる料理は味を想像できなかった。
でも、萩と牡丹が作るなら絶対に美味しいものができるはず。
乃里はワクワクして仕方がなかった。
「予定としましては、急ではありますが、どうでしょう。次の日曜日なんかは」
「ああ。いいんじゃないの。皆さ言っておくから」
「野菜は採れたてが一番です。少しでも新鮮なうちに料理したいです。日曜日のお昼にしましょうか。僕たちも準備がありますし、乃里さんが遅くならずに帰宅できます」
次の日曜は、三日後である。かなり強行開催だと思ったが、吉野がすぐに賛同したことで決定になった。たしかに、作物の鮮度をできるだけ落とさないように料理したいのは乃里にもわかる。
「日曜日、やりましょう。美味しい料理で皆さんが楽しめば、カワオヌ様も安心して見送ってくれるでしょう」
「ああ、お別れ会みたいなもんだな」
吉野が少し寂しそうに奥の山に視線を流しながら笑った。
「吉野さん。僕たちの連絡先はこちらです。なにか不都合がございましたら連絡をください」
「はい、たしかに。帰りにここに戻ってきな。野菜とか用意しておくから」
「ありがたい。すみません」
吉野は萩の名刺を見て確かめてから、懐に入れた。
「じゃあ、僕たちはカワオヌ神社に行って来ましょう」
萩の言葉に牡丹と乃里は頷く。
「吉野さん、ありがとうございました」
また日曜日に、と吉野に手を振り三人は車に戻った。
車が離れていくのをいつまでも見ている吉野の姿がどんどん小さくなり見えなくなった頃には、山が迫っていた。
「神社のことを聞くだけのつもりがまさかこんなことになるなんて想像もしていませんでしたね」
「そうですね。作物は興味深かったですし、このあたりで食べられている料理も教えていただけました」
「俺、いくつかメニューを考えたよ。あとで萩の考えと擦り合わせしような」
「わたしも全力でお手伝いします!」
味付けなどはできないにしても、萩と牡丹が作り出す料理を間近で見ることができるのは楽しみだった。
「到着したようですね。この階段です」
二車線なのかもよくわからない道路、それでも通行の邪魔にならないように車を森の方へ寄せて駐車した。窓から見上げた裏山は遠くから見るよりずっと大きくて木々が深く生い茂っていた。木々の間に鳥居が見えて、視線を上に向ければ階段が続いている。昼なお暗いせいで階段の先が真っ暗で見えなくて、まるで森に吸い込まれているように見えた。
異世界への入口みたい。
萩と牡丹は早くも車から降りている。乃里もリュックを背負いあとに続いた。
階段の始まりには一メートル程の高さの石碑に「川鬼神社」と彫ってある。
「これはまた長い階段ですねぇ」
「しんどそう。猫の姿で行った方が楽かなぁ」
「牡丹は乃里さんのリュックにでも入るつもりでしょう」
「それはやめてください。牡丹さん。自力で行きましょう」
ちぇっと言っているところを見ると、牡丹は本当に乃里のリュックに入るつもりだったらしい。
「上でカワオヌさんが待っているでしょう」
萩は草履で階段を踏みしめた。乃里と牡丹はスニーカーだから動きやすいけれど、どう見ても萩は長い階段を上るような装いではない。しかし、軽やかに階段を移動していく。
萩と牡丹が並んで前を行き、続いて乃里。すぐに息が上がるけれど、前の二人はなんともなさそうだ。
「茶豆ご飯」
急に牡丹がそう言った。
「いいですね。僕もそれは考えていました。じゃあ……大根と煮物」
料理のことか。収穫祭のメニューを考えていたのだ。
多くは語らず、牡丹の言葉にすぐ萩が反応して、本当に仲のいい兄弟だんだな。いいな。心から思う。
長い年月を共に生きてきた、血の繋がりがある唯一の家族なのだから、当然だろうか。
「大根の煮物は肉を入れよう。鶏肉がいいかな。ずんだあえの野菜はなににするかな」
「お出汁での味付けを考えましょう」
「いいね。塩コショウじゃないよな」
味の好みも一緒。考えも理解できて、行動も共に。互いに思いあい、一番に考える。
乃里は、萩と牡丹の関係性がとても眩しく思えた。
家に自分の居場所がないと思うわたしとは大違いだ、と。
ふっとため息をついたとき、牡丹が後ろを振り向いて「乃里ちゃんは」と声をかけた。
「なにが食べたい?」
「わたしですか? いいんですか、わたしが意見しても」
「いいだろ。だって一緒に作るんだし、収穫祭やるんだし」
乃里がぱっと表情を変えたのが面白かったのか、牡丹も笑ってくれる。
「じゃ、じゃあ! プリンがいいです!」
「プリン?」
「はい。先日いただいたプリン、とっても美味しかったですし。弟も喜んでいました」
「そっか。ご家族に気に入っていただけたんだね」
心がピクリと震える。家族というワードに過剰反応してしまう自分が嫌だった。たしかにプリンは父も佐和子も美味しいといって食べていた。しかし、佐和子に至っては、乃里が持ち帰ったから好きでもないのに食べていたのかもしれない。
思 えば、父と里司の好物は知っていても、佐和子の好物は知らない。
「ずんだのプリンにしましょうか」
「いいね。絶対美味しいじゃん」
少し気分が沈んだところにずんだプリンと言われたのでまた乃里のテンションは上がる。
「ず、ずんだ餅も食べたいです!」
挙手をしながら乃里が提案する。甘いものばかりじゃないかと笑われそうだと思ったが、伝えずにはいられない。
「いいね。作ろう」
「乃里さんの甘味趣味はとてもいいですね」
「そ、そうですか……えへへ。楽しみ」
兄弟が受け入れてくれたのが乃里には嬉しかった。
なにが好物か、夕飯はなにがいいか。作ったものは美味しいか、次はなにが食べたいか、作ってほしいのか。
食卓でそんな話をしたことがあっただろうか。
母が生きていたときは、自分は幼過ぎた。記憶が朧げだ。それが口惜しい。もっと色濃く母の記憶が残っていたのなら、また違ったのかもしれなかった。
食事は大事だ。食べないと生命を維持できないことが根本ではあるけれど、美味しい食事は心も満たされる。
ひとりで生きる術を手に入れること以外にも、母の姿を追い求める気持ちから、乃里は料理人を目指すようになったのだ。
こんな風に心を見つめる機会があるのも、兄弟に出会えてよかったんだな。
ふたりが猫又であって、人智を超えた存在であることも忘れてしまいそうだった。
主に乃里だけが息を切らしながら階段を上がり切ると、視界が開けた。
境内に広場があると吉野が言っていたが、ここのことだろう。
「わりと広いですね」
萩は境内を見渡した。
奥に木造の小さな社がある。手前には手水舎があり、水がちょろちょろと流れている。
大規模な神社とは違い、小さいが静かで、木々の間から太陽光が降り注ぎ程よい明るさだった。
ここを、村の人たちは大事にしてきたことが伺える。
乃里は深呼吸する。木々に囲まれてはいても風通しがよく、空気が澄んでいて気持ちが良かった。
「ここで収穫祭をするのはいいとして、階段がこれだけあると、大皿や鍋ものとか運ぶのはしんどいぞ」
「そうですねぇ……」
たしかにそうだ。ここで調理をするのも難しいだろう。コンロを使うとなればガスボンベなども必要となり、そんなに重装備を運ぶことはできない。食器などの割れ物も。
兄弟が思案していると、奥の木々がガサガサと揺れた。咄嗟に三人は身構えたけれど、顔を出した大きな姿に警戒を解く。顔に続いて、木の枝をバキバキと折りながら、葉っぱまみれのカワオヌが姿を現した。
「カワオヌさん!」
乃里が駆け寄る。
「おいおい、突然出てきて……俺たちのほかに誰かいたらどうするんだよ」
「気配で分かるから大丈夫っす。人間は乃里ちゃんだけだ」
頭を掻きながら、カワオヌ目を細めて皆を見る。
「どうだった? 村の人に会ったか?」
カワオヌが言うと、牡丹が返事をする。
「会ったよ。吉野さんというおばあさんに会った」
「ああ、村長さんとこの。もうだいぶ移動が始まっていて、残すところ村長さんの家はじめ数軒なんだ」
「そうみたいだね。農業を廃業する家がほとんどだって、紅首村の名産の茶豆ももう食べられなくなるんだな」
カワオヌが遠くを見る。生い茂る木々の向こうに広がる村の風景を見ているのだろう。
乃里はカワオヌに声をかける。
「吉野さんたちと話していて、村全体がカワオヌさんに感謝をしていて、大事に思っていることが分かりましたよ。カワオヌさんが村の人たちに感謝しているように、皆さんも同じ気持ちでした」
「そう、なのか」
「そうです。でね、楽しいんですよ。楽しいお知らせです! なんと、ここで村の収穫祭をすることになりました!」
乃里が両手を広げて「やったー! 重大告知!」とひとり飛び跳ねるが、カワオヌは首を傾げている。
「しゅうかくさい……?」
言葉の意味がわからなかったのだろうか。
「あの、収穫を、実りを感謝するお祭りです……ここカワオヌ神社でなにか祭りをしたことはあるのかと聞いたところ、伝説はたしかにあるのだけれど、村が拡張するにあたり鬼人信仰が受け入れられなかった歴史があるとの話で、祭りはしたことがないと聞きまして」
「たしかに、そうだな。ここはずっと静かなものだ」
「そこで乃里さんが、お祭りをしましょうよと提案してくれたんです。吉野さんも賛成してくれて、次の日曜に、ここでやります」
「お祭りか。楽しそうだな。みんなくるのか?」
カワオヌは大きな体を揺さぶって、とても嬉しそうだ。
自分が参加するわけにはいかないだろうが、料理を食べて、皆が楽しむ姿を見ることはできる。一緒に実りを喜ぶことができる。
「村の人たちと、束の間一緒に過ごせますよ。同じ空間で。萩さんと牡丹さんがね、村の作物で料理を作って振舞うんです。素敵でしょう!」
「なんと、まぁ」
「吉野さんが言っていました。紅首村で農業ができて村の人たちが生活できるのも、カワオヌ様のお陰なんだって。カワオヌさんが実りの始まりです。収穫を祝うお祭りは、カワオヌさんへの感謝の気持ちなんですよ」
「お、おらがお礼をしたかったのに」
そう呟いたカワオヌの目に光るものがあった。鼻をすすって誤魔化すカワオヌの顔を見ていた萩が、カワオヌの腕を取る。
「収穫祭で、村の皆さんに笑顔が溢れれば、それが村へのお礼になるじゃないですか。それにね。大丈夫、ひとりじゃないですよ」
「萩さん……おら」
「村の歴史を、そしていなくなる人間たちを見送りましょう。僕たち、一緒にいますから」
牡丹も頷いている。
いなくなる人間たち。そうだ。人間と人間でない者たちは一緒に存在できない。ずっとそばで一緒に暮らしたいと思うのは人間のほうだ。
一緒にいられないことをわかっているのは、きっと彼らだけなのだ。
人間の命が限られているからかもしれない。病気になるから。すぐに死んでしまうから。
亡くなった母を思い出して、ぎゅっと胸が苦しくなる乃里だったが、唇を噛んでカワオヌに微笑んだ。
「わ、わたしも一緒だよ、カワオヌさんと一緒にいるから。わたし人間だけど!」
「うん。ありがと、乃里ちゃん」
カワオヌの大きな手が乃里の頭を撫でた。
「それにしてもここ、気持ちが良いですね。風通しもよく絶妙に光が入って、意外と明るいし。カワオヌさんの住処。いいですよね。いまここにシート広げてお弁当でも食べたい気分です」
お腹も空いている。言ってから、乃里は収穫祭に使うレジャーシートはどのくらいの大きさで何枚必要なのかを考えた。すると、牡丹が「それだ」と乃里を指さす。
「収穫祭の料理、お弁当にしよう。お弁当を作ろう」
「お弁当ですか?」
乃里は牡丹と萩を交互に見た。
「たぶん俺たち、お祭りだからって大皿料理を想像している」
「そうですね……なにも皿や鍋でなくてもいいんですよね」
なるほど。弁当か。乃里は様々な紅首村の作物が使われた弁当を想像した。
「ほら、前に仕出し弁当の注文を受けた時に取り過ぎた容器があるじゃないか」
「ああ、牡丹が間違えて発注したやつですね」
その情報はいらないだろうと、牡丹はむくれるがすぐに気を取り直す。
「プラ容器のお弁当に料理を乗せれば、重い食器を持ち運ばなくていい。村は いまは人数も少ないのだから、コンパクトに越したことはない。ゴミもひとつにまとめることができるし境内を汚さなくて済む。火も使わないから安全だし」
「食べきれないひとは持ち帰ってもらえばいいですしね。お弁当が余れば食卓で食べていただいて」
境内で料理をするとなるとそれ相応の設備が必要になると思っていたが、弁当ならは気軽でやりやすい。
「いいですね。ナイスアイディア」
「乃里ちゃんのおかげだよ。いまここでお弁当を食べたいときみが言わなかったらすぐに思いつかなかったかもね」
牡丹に褒められ、乃里は照れ臭かったが、役に立ってよかったと思う。
「よし。じゃあカワオヌさん。次の日曜にまた僕たちは紅首に来ます。ここで収穫祭をしますよ。あなたが守ってきた紅首村の恵みを使って、お弁当を作ります。皆で食べましょう。お祭りです」
「カワオヌ神社祭りだよ」
兄弟が、大きなカワオヌの背中を叩く。
「吉野さんのところに寄って帰りましょう」
萩さんが促し、牡丹と乃里が続く。
「みんな、ありがとう」
カワオヌは体に似合わない小さく優しい声で、ひとつ呟いた。
「じゃあ。またね」
乃里はカワオヌに手を振った。彼も大きな手をひらひらと振る。
静かな境内。村が無くなってもここは残るのだろうか。高い位置にあるから、ダムに水没しないのだろうか。
これからどうするのだろう。カワオヌは、ひとりここに残るのか、それとも別な場所に行くのか。
なにがあっても、生きて行かなくちゃいけない。それは人間も妖怪も一緒だ。
長いか、短いかだけなんだ。
上りは辛かった長い階段も、帰りは回りを見る余裕もあった。
とにかく、そして収穫祭を成功させることだ。村の人たちに喜んでもらうこと。それがカワオヌの願いを叶えることにもなる。
乃里は、まだ料理の修業途中だ。萩と牡丹のようにプロの料理人には程遠いけれど、少しでも役に立てるようがんばろうと、拳をぎゅっと握った。
車に戻った一行は、道すがら吉野の畑に寄る。そこには、痩せて白髪頭の男性が並んでいた。村長だといっていた吉野の夫だった。軍手をして一緒に食材運びをしてくれたらしい。
「すみません、吉野さん」
「近所の人も野菜持って来たから、これどうぞ。持っていって」
「こんなにたくさん。凄いですね」
茶豆、茄子や大根、トマト。ピーマンにじゃがいももある。そして、それぞれの量が多い。収穫量が多いのは、土地が肥沃であり村の人たちの作り方も秀でていることが伺える。
吉野村長が頭を下げた。
「この度はまず、なんだか楽しい企画をしてくれるって聞いて。祭りをするなら、本来なら村議会にかけたりするところですが、もう人もいないでね。ワシの一存で、村に残る五家族みんなに声をかけたから、当日全員来るとして二十人くらい集まると思うよ」
吉野の夫、吉野村長がニコニコとしながらそう伝えてくれる。
「そうですか。じゃあ特製弁当ご準備しますね」
「弁当にするのかい?」
「はい。運搬の都合や、境内で火を扱う危険性などを考えまして」
はぁ、たいしたもんだなと感心した様子で吉野村長が言った。反対されずによかったと乃里は胸を撫で下ろした。