「猫が行方不明になり、時間が経ってから戻ってくると、猫又になっているという言い伝えは本当だったと思ったよ。人間の間だけではなく猫の間でも有名な話だったからね」
萩がいなくなったことに気付いた飼い主は貼り紙などをして探した。そして数日後、萩はなに食わぬ顔をして戻ってくる。少し痩せてはいたが、毛艶も悪くなく、怪我もしていなかった。
「萩さんは、いったいどこに行っていたんでしょう」
乃里が問うと「それがね」と牡丹が頭を掻く。
「萩は、行方不明だったときの記憶が断片的でうまく思い出せないらしい。そしてね、俺もなんだ。俺も行方不明から帰還した猫。ふらふら出て行ったことは覚えているんだけれど……実際自分がなってみると不思議な感じだったよね」
「覚えてないなんて」
「そうなんだよ。どこへ行ったのか、どう過ごしたか、記憶は無いんだよ」
萩と牡丹は時を同じくして行方不明になり、飼い主の肝を冷やして、しばらくして家に戻った。すると不思議な力を持っていることに気付いたという。
「色というものが分かったのも楽しかったな」
「色? ですか」
「そう。猫は白黒でしか見えていないから。花の色、空の色。飼い主の瞳の色と髪の色。俺たちの毛色もわかったんだ」
妖怪猫叉になるという言い伝えは、体で実感していった。妖気を蓄え、使い、長命になる。色が理解できて、いままでよりも体が軽く、高く飛べる。早く走ることができる。
兄弟は、飼い主の元で再び平和に暮らした。飼い主が妻を迎えるのを見た。子供が生まれるところも見た。そして、老いて行く日々を共に過ごして、飼い主を看取った。
牡丹は下唇を噛む。思い出して苦しい気持ちを抱えているようだった。
「長生きするって大変だよね」
身に付いた不思議な力では飼い主の命が消えていくのを止めることが出来なかった。撫でる手、抱き上げる腕がもう動かない現実を受け止めねばならなかった。名前を呼ぶ声も聞こえない。頭を飼い主の顎の下に入れてみても、なにも反応しない。
悲しく辛い経験は、兄弟の食欲を無くした。
飼い主は料理人だったそうだ。元気がないときは、栄養のある食材を選び特別な猫の料理を作ってくれた。誕生日にはほぐし肉や魚を型で成形し、ケーキに見立ててお祝いをしてくれた。誕生日といっても、捨て猫だった拾われた日を誕生日にしていたらしい。
『ボタン、ハギ。食べなくちゃ弱るよ。お父さんが悲しむよ』
飼い主の息子や娘に言われても、気持ちを立て直すことは難しかった。憔悴しきった萩は痩せ衰え、飼い主を探して鳴いていた。思いは牡丹も同じだったが、萩の様子を見ていて、このままではいけないと感じた。
飼い主が作ってくれる料理を食べたかった。でも、もう、食べられない。
涙を零しながら牡丹はぐっと立ち上がった。
自分で作ればいい。作り方は見ていたし、味も覚えているもの。
いまならなんだって出来る気がした。飼い主みたいに、美味しい料理で相手を元気にしたい。そう思った。本気で、純粋に、心の底から。まず、萩を元気にしたかった。
あれが、初めて人間に化けたときだった。
家族、という言葉に胸がつかえる。本当は牡丹の気持ちが凄くよくわかるのに、いま自分は見ないふりをした。
心を揺さぶられるのは、苦手だ。
「萩に食べて貰いたかった。それが始まりかな。俺たちお互い、元の飼い主が料理人だったことの影響が強いかな」
家族に、料理人がいたから。同じ道を目指すことで、いまは亡き人を思うことができるのだ。
「乃里ちゃんは、どうして料理人になりたいの?」
「料理が、好きなので」
当然聞かれるだろうと思っていた乃里だった。
料理が好き。それは嘘ではないのだから。進路を決めるために、一番に思ったことだったのだから。
「ご家族、そうだな。お母さんが料理うまいでしょ。影響があるよね」
「そう、ですね。それはあると思います」
「履歴書の家族構成は覚えているよ。弟さんがひとりいるんだね。お姉ちゃんって感じだもんね。乃里ちゃん小さい頃からお母さんの手伝いをしていたとかかな」
適当に答えておけばいいものを、つい顔に出てしまったのだろう。牡丹は「どうしたの」と首を傾げた。
「どうしたの。乃里ちゃんなんか変だね。聞かれたくなかった?」
「あ、いいえ」
「ごめん、俺、人の空気を読めないって萩に言われるんだ。言いたくないことだったのなら言わなくていいよ」
猫なのに人の空気を読め、なんて難しい。乃里はそう思いながらへらっと笑った。
「いまの母親、父の再婚相手なんですよ」
乃里は言いながら全力で拒絶の空気を出してしまっている自覚があった。これ以上突っ込まないで欲しかった。
「弟は、再婚相手と父の子です。わたしと半分血の繋がりがある」
ここまで説明すれば、聞かれたくないこと、言いたくないこと、どちらも感じ取ってもらえないだろうか。
「すみません」
思わず乃里は謝る。いまはそれだけしか言いたくない。言わなくてもよかったかもしれない。でも、なぜだか言ってしまった。
わたしは、ずるい。
「そっか。謝らなくてもいいよ」
萩がいなくなったことに気付いた飼い主は貼り紙などをして探した。そして数日後、萩はなに食わぬ顔をして戻ってくる。少し痩せてはいたが、毛艶も悪くなく、怪我もしていなかった。
「萩さんは、いったいどこに行っていたんでしょう」
乃里が問うと「それがね」と牡丹が頭を掻く。
「萩は、行方不明だったときの記憶が断片的でうまく思い出せないらしい。そしてね、俺もなんだ。俺も行方不明から帰還した猫。ふらふら出て行ったことは覚えているんだけれど……実際自分がなってみると不思議な感じだったよね」
「覚えてないなんて」
「そうなんだよ。どこへ行ったのか、どう過ごしたか、記憶は無いんだよ」
萩と牡丹は時を同じくして行方不明になり、飼い主の肝を冷やして、しばらくして家に戻った。すると不思議な力を持っていることに気付いたという。
「色というものが分かったのも楽しかったな」
「色? ですか」
「そう。猫は白黒でしか見えていないから。花の色、空の色。飼い主の瞳の色と髪の色。俺たちの毛色もわかったんだ」
妖怪猫叉になるという言い伝えは、体で実感していった。妖気を蓄え、使い、長命になる。色が理解できて、いままでよりも体が軽く、高く飛べる。早く走ることができる。
兄弟は、飼い主の元で再び平和に暮らした。飼い主が妻を迎えるのを見た。子供が生まれるところも見た。そして、老いて行く日々を共に過ごして、飼い主を看取った。
牡丹は下唇を噛む。思い出して苦しい気持ちを抱えているようだった。
「長生きするって大変だよね」
身に付いた不思議な力では飼い主の命が消えていくのを止めることが出来なかった。撫でる手、抱き上げる腕がもう動かない現実を受け止めねばならなかった。名前を呼ぶ声も聞こえない。頭を飼い主の顎の下に入れてみても、なにも反応しない。
悲しく辛い経験は、兄弟の食欲を無くした。
飼い主は料理人だったそうだ。元気がないときは、栄養のある食材を選び特別な猫の料理を作ってくれた。誕生日にはほぐし肉や魚を型で成形し、ケーキに見立ててお祝いをしてくれた。誕生日といっても、捨て猫だった拾われた日を誕生日にしていたらしい。
『ボタン、ハギ。食べなくちゃ弱るよ。お父さんが悲しむよ』
飼い主の息子や娘に言われても、気持ちを立て直すことは難しかった。憔悴しきった萩は痩せ衰え、飼い主を探して鳴いていた。思いは牡丹も同じだったが、萩の様子を見ていて、このままではいけないと感じた。
飼い主が作ってくれる料理を食べたかった。でも、もう、食べられない。
涙を零しながら牡丹はぐっと立ち上がった。
自分で作ればいい。作り方は見ていたし、味も覚えているもの。
いまならなんだって出来る気がした。飼い主みたいに、美味しい料理で相手を元気にしたい。そう思った。本気で、純粋に、心の底から。まず、萩を元気にしたかった。
あれが、初めて人間に化けたときだった。
家族、という言葉に胸がつかえる。本当は牡丹の気持ちが凄くよくわかるのに、いま自分は見ないふりをした。
心を揺さぶられるのは、苦手だ。
「萩に食べて貰いたかった。それが始まりかな。俺たちお互い、元の飼い主が料理人だったことの影響が強いかな」
家族に、料理人がいたから。同じ道を目指すことで、いまは亡き人を思うことができるのだ。
「乃里ちゃんは、どうして料理人になりたいの?」
「料理が、好きなので」
当然聞かれるだろうと思っていた乃里だった。
料理が好き。それは嘘ではないのだから。進路を決めるために、一番に思ったことだったのだから。
「ご家族、そうだな。お母さんが料理うまいでしょ。影響があるよね」
「そう、ですね。それはあると思います」
「履歴書の家族構成は覚えているよ。弟さんがひとりいるんだね。お姉ちゃんって感じだもんね。乃里ちゃん小さい頃からお母さんの手伝いをしていたとかかな」
適当に答えておけばいいものを、つい顔に出てしまったのだろう。牡丹は「どうしたの」と首を傾げた。
「どうしたの。乃里ちゃんなんか変だね。聞かれたくなかった?」
「あ、いいえ」
「ごめん、俺、人の空気を読めないって萩に言われるんだ。言いたくないことだったのなら言わなくていいよ」
猫なのに人の空気を読め、なんて難しい。乃里はそう思いながらへらっと笑った。
「いまの母親、父の再婚相手なんですよ」
乃里は言いながら全力で拒絶の空気を出してしまっている自覚があった。これ以上突っ込まないで欲しかった。
「弟は、再婚相手と父の子です。わたしと半分血の繋がりがある」
ここまで説明すれば、聞かれたくないこと、言いたくないこと、どちらも感じ取ってもらえないだろうか。
「すみません」
思わず乃里は謝る。いまはそれだけしか言いたくない。言わなくてもよかったかもしれない。でも、なぜだか言ってしまった。
わたしは、ずるい。
「そっか。謝らなくてもいいよ」