「家で飼っていた猫がいなくなってしまって、しばらくしてから帰ってきたという話を聞いたことありませんか? それ、帰ってきた子は普通の猫じゃなくなっているのです」
「ああ、動物番組とかで…そうなのかぁ」
たしか、再現VTRだったと記憶している。行方不明の猫を探す飼い主の心境はいかばかりかと胸が痛くなったが、ふらっと戻ってきた猫を泣きながら抱きしめていたシーンを覚えている。
猫又になろうがなにになろうが、ずっとそばにいてほしいと思うだろう。
猫と暮らしたことがなくても、想像できた。
「萩さんと牡丹さんも、ふらっといなくなって戻ってきたタイプの猫又なんですか?」
「そうですよ」
「牡丹さんも一緒に?」
「いいえ。あの時は牡丹に凄く心配をかけてしまいましたね」
萩は、言いたくないのかもしれない。
なんとなくそんな雰囲気を感じ取り、乃里はそこから突っ込んで聞けなくなってしまった。
「まぁ、僕たちにしかわからない思い出話です。乃里さんはいまの僕たちを好きでいてほしいです」
「あ、なんかその言い方とても猫っぽいです」
ふふふと上品に笑う萩。
乃里は座席の背もたれに体を戻す。膝の上の牡丹はピクリとも動かず、まるでビニールに入れた温かい液体のような感触だ。
今日は、しろがねの仕事というよりも、牡丹さんの寝具として使われているような気がする。
米とぎも、野菜の皮むきも、大根おろしもしない。
しかし、鬼火騒動から始まったカワオヌのこと、佐々野兄弟の正体と過去。乃里の心は許容量を超えていた。
不思議であるからこそ、身を任せたいとも思った。しろがねにいる間は、自分が家族にとって、家の中でどんな存在で、居場所がないと目を閉じることがない。
なんか、嬉しい。自分は、こんな場所を求めていたのかもしれない。
乃里は膝の上の温かさが安心感に変換され、体全体に広まる感じがして、瞼を開けていることができなくなった。
「乃里ちゃん、到着したよ」
静かな声で名前を呼ばれ、乃里の意識は浮上した。
「あれ、あれ?」
車は停車していて、運転席にいた萩の姿がない。
膝の上にいたはずの猫がいない。どこにいったのかと車内を見回した。
「寝心地よかったわぁ。ありがとねー」
車のドアは開いていて、牡丹はひらりと車外に出た。
「ああ、人間に戻ったのね……ああそう」
本体が猫なのだから、人間に変身したというほうが正解か。
寝るつもりはなかったのに。疲労と居心地の良さでつい眠ってしまったのだ。自分を囲む壁のように体を折り曲げて眠っていたカワオヌもいない。
物音に気付かず眠りこけてしまったのだろう。
乃里は割烹着姿にリュックを背負い、車を降りた。
天気が良く、青空が高い。
車道から脇道に少し入り、休憩所のようになっている場所に車を停車していた。片側が斜面、ガードレールの下には民家と田んぼがポツポツと見える。
青空に手を伸ばすようにして木々が生い茂り、蝉の鳴き声が近い。鳴き声というよりも大合唱だ。
「あれが、紅首村」
たしかに山深い。人間が住んでいると思えないような場所ではある。
県境の山なんて、雪深いだろう。
昔、戦いを逃れ流れ着いた人々が命を繋ぎ、山と共に暮らしてきた。歴史を見守る鬼がいた。鬼を祀り、伝え、時が流れるうちに電気やガスなどのライフラインが繋がれ、コンクリートの道路ができ、暮らしが便利になっていった。
ここだけではないだろうが、変化していく歴史と土地。
そして、紅首村はダムの底に沈む。
「このへんから入ると、カワオヌ神社の裏に行くんだ。おらは村に降りるわけにいかねぇし」
カワオヌは、やっと体を伸ばせるといった感じでストレッチをしていた。萩も着物の裾を直している。よく見たら、牡丹はパーカーにジーンズといった姿だった。旅館にいるときは着物だったはずなので、着替えてきたのだろう。
「じゃあ、カワオヌさんはお社に、わたしたちは村に行きましょうよ」
乃里が声をかけると、萩が「乃里さんの提案に乗りましょう」と同調してくれた。牡丹は頷きつつも、首を捻る。
「別行動だね。なんか考えがあるの? 乃里ちゃん」
「いいえ」
勝手にワクワクしている牡丹に、乃里が胸を張って言う。
「ノープランですけれど、カワオヌさんと一緒に山に行っても、村のことがなにもわからないし」
「聞き取り調査でもするつもり?」
「ああ、それいいですね。出会った村の人に話を聞くことにしましょうよ」
聞いてなにが得られるかは、乃里にもわからなかったが、ここでじっとしていてもなにも始まらない。
「目的は、カワオヌさんの気持ちが伝わるようなお礼を考えることなんです」
たしかに、と牡丹が頷く。萩も頷いた。
「カワオヌさんが山に入ったら、車を出しましょう」
「カワオヌさんにはお社に行くと会えるんですか?」
「ああ、いつもはいないけれど、今日はあんたたちが帰るまでカワオヌ神社にいることにするよ」
なにかわかったら、そのカワオヌ神社が待ち合わせ場所だ。
「ああ、動物番組とかで…そうなのかぁ」
たしか、再現VTRだったと記憶している。行方不明の猫を探す飼い主の心境はいかばかりかと胸が痛くなったが、ふらっと戻ってきた猫を泣きながら抱きしめていたシーンを覚えている。
猫又になろうがなにになろうが、ずっとそばにいてほしいと思うだろう。
猫と暮らしたことがなくても、想像できた。
「萩さんと牡丹さんも、ふらっといなくなって戻ってきたタイプの猫又なんですか?」
「そうですよ」
「牡丹さんも一緒に?」
「いいえ。あの時は牡丹に凄く心配をかけてしまいましたね」
萩は、言いたくないのかもしれない。
なんとなくそんな雰囲気を感じ取り、乃里はそこから突っ込んで聞けなくなってしまった。
「まぁ、僕たちにしかわからない思い出話です。乃里さんはいまの僕たちを好きでいてほしいです」
「あ、なんかその言い方とても猫っぽいです」
ふふふと上品に笑う萩。
乃里は座席の背もたれに体を戻す。膝の上の牡丹はピクリとも動かず、まるでビニールに入れた温かい液体のような感触だ。
今日は、しろがねの仕事というよりも、牡丹さんの寝具として使われているような気がする。
米とぎも、野菜の皮むきも、大根おろしもしない。
しかし、鬼火騒動から始まったカワオヌのこと、佐々野兄弟の正体と過去。乃里の心は許容量を超えていた。
不思議であるからこそ、身を任せたいとも思った。しろがねにいる間は、自分が家族にとって、家の中でどんな存在で、居場所がないと目を閉じることがない。
なんか、嬉しい。自分は、こんな場所を求めていたのかもしれない。
乃里は膝の上の温かさが安心感に変換され、体全体に広まる感じがして、瞼を開けていることができなくなった。
「乃里ちゃん、到着したよ」
静かな声で名前を呼ばれ、乃里の意識は浮上した。
「あれ、あれ?」
車は停車していて、運転席にいた萩の姿がない。
膝の上にいたはずの猫がいない。どこにいったのかと車内を見回した。
「寝心地よかったわぁ。ありがとねー」
車のドアは開いていて、牡丹はひらりと車外に出た。
「ああ、人間に戻ったのね……ああそう」
本体が猫なのだから、人間に変身したというほうが正解か。
寝るつもりはなかったのに。疲労と居心地の良さでつい眠ってしまったのだ。自分を囲む壁のように体を折り曲げて眠っていたカワオヌもいない。
物音に気付かず眠りこけてしまったのだろう。
乃里は割烹着姿にリュックを背負い、車を降りた。
天気が良く、青空が高い。
車道から脇道に少し入り、休憩所のようになっている場所に車を停車していた。片側が斜面、ガードレールの下には民家と田んぼがポツポツと見える。
青空に手を伸ばすようにして木々が生い茂り、蝉の鳴き声が近い。鳴き声というよりも大合唱だ。
「あれが、紅首村」
たしかに山深い。人間が住んでいると思えないような場所ではある。
県境の山なんて、雪深いだろう。
昔、戦いを逃れ流れ着いた人々が命を繋ぎ、山と共に暮らしてきた。歴史を見守る鬼がいた。鬼を祀り、伝え、時が流れるうちに電気やガスなどのライフラインが繋がれ、コンクリートの道路ができ、暮らしが便利になっていった。
ここだけではないだろうが、変化していく歴史と土地。
そして、紅首村はダムの底に沈む。
「このへんから入ると、カワオヌ神社の裏に行くんだ。おらは村に降りるわけにいかねぇし」
カワオヌは、やっと体を伸ばせるといった感じでストレッチをしていた。萩も着物の裾を直している。よく見たら、牡丹はパーカーにジーンズといった姿だった。旅館にいるときは着物だったはずなので、着替えてきたのだろう。
「じゃあ、カワオヌさんはお社に、わたしたちは村に行きましょうよ」
乃里が声をかけると、萩が「乃里さんの提案に乗りましょう」と同調してくれた。牡丹は頷きつつも、首を捻る。
「別行動だね。なんか考えがあるの? 乃里ちゃん」
「いいえ」
勝手にワクワクしている牡丹に、乃里が胸を張って言う。
「ノープランですけれど、カワオヌさんと一緒に山に行っても、村のことがなにもわからないし」
「聞き取り調査でもするつもり?」
「ああ、それいいですね。出会った村の人に話を聞くことにしましょうよ」
聞いてなにが得られるかは、乃里にもわからなかったが、ここでじっとしていてもなにも始まらない。
「目的は、カワオヌさんの気持ちが伝わるようなお礼を考えることなんです」
たしかに、と牡丹が頷く。萩も頷いた。
「カワオヌさんが山に入ったら、車を出しましょう」
「カワオヌさんにはお社に行くと会えるんですか?」
「ああ、いつもはいないけれど、今日はあんたたちが帰るまでカワオヌ神社にいることにするよ」
なにかわかったら、そのカワオヌ神社が待ち合わせ場所だ。