「この道を行くのね……」
 住所が表示された携帯画面を見ながら歩く。
 六月下旬の日曜日。まるで夏がフライングしたような気温が続き、今年も暑さが厳しいでしょう、と気象予報士が言っていたのを覚えている。たしかに乃里が家を出るときは暑くて、これが夏本番となればどれだけ気温が上がるのだろうと思った。
 しかし、いま乃里が歩く道は両側が竹林で涼しい風が吹き抜ける。葉がこすれる音が心地よく、バス停から歩いて汗をかいた肌を程良く冷やしてくれる。
駅前は人通りが多いのに、ちょっと一本別な道に入っただけなのに別世界みたいだ。
 高校の調理科に通う乃里は、実習も兼ねて夏休みのバイト先を探した。学校から紹介して貰えるものもあったのだが、なんとなくアルバイト募集冊子を見ていた。そこで目に留まったのが、温泉旅館「しろがね」のアルバイト募集。温泉と和食中心の料理が評判の全客室が八室という隠れ家的旅館なのだが、乃里にとって決め手となったのは、まかない付き、温泉入り放題の記載だった。希望者は住み込みもできるとのこと。
 乃里は帰る家があるので住み込みについては当てはまらないのだが、たとえば高校卒業してそのまま旅館に住み込みで働くことも可能ではないのか、という考えもある。安易な考えなのかもしれなかったが。
まだアルバイト採用が決まっていないというのに。
 自宅最寄りの停留所からバスに乗り、仙台駅前を通過していくつかバス停を進むと広瀬川が見えてくる。長い階段をのぼっていく愛宕神社があるあたりは交通量が激しい大通り。ひとつ道を外れて坂道をのぼると交通量がぐっと減る。坂道をえっちらおっちらバスが走り、のぼりきったところのバス停で降車して、乃里は旅館を目指し歩いているのだった。
 竹林を進んだ先に姿を現した日本家屋は本当にここだけ時流が止まったような佇まいだった。
 凄い。電気は通っているのかな……。
 雰囲気は抜群だ。一目見て乃里は気に入った。
 玄関には、大木を輪切りにした看板が立てかけてあり、しろがねと書かれていることがかろうじて読めて、営業中の札が出ている。募集雑誌を見なければ、旅館しろがねの存在を知らずにいただろう。道に看板も案内もない。
 ガラス戸を開けるとカラカラ、と軽やかな音がする。
「こんにちは……」
 上がり框に並べられたスリッパ、入って右側には休憩できるよう革張りのソファが内装に違和感なくセットされている。
「いらっしゃいませ」
 帳場から男性の声が聞こえたので視線を向けると、紺色の着物姿の見目麗しい長身の男性がこちらへ来る。
 わぁ、と思わず口を開く。凄く綺麗な人だ。
 男性に向かって綺麗というのも不思議な気持ちだけれど、まるで昔話の絵本から抜け出てきたかのような雰囲気を纏っていた。長い髪の毛をひとつに結んでいたのだが、驚いたのは白髪であったことだ。年齢はおそらく二十代後半だと思われるので、老いての白髪ではないのだろう。
「あ、あの、すみません。本日伺う予定にしていました井藤乃里と申します」
「ああ、アルバイトの……お待ちしておりました」
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。僕は、佐々野 萩と申します」
 経営者欄に記載のあった名前と同じだ。ということは彼がここの主である。乃里は緊張で体を固くした。
「可愛いらしいお嬢さんですこと」
 にっこりと微笑む彼の瞳は黒とも青とも取れるような不思議な色をしていた。
「ご案内します。どうぞ、こちらへ」
 萩が促すのであとを付いていく。約束の時間は十四時。ホテルなどのチェックイン十五時頃が一般的だとすると、その間の準備時間に面接を設けてくれたのだと思う。
 丸形に刈り込んだ植木のある正方形の庭を囲むように廊下が渡り、音もなく萩が進んでいく。椿、野菊、躑躅など部屋名が書かれた札を見ながら、廊下の突き当たりにあるドアを開け更に進む。関係者以外立ち入り禁止と張り紙があった。
「申し訳ありませんが、僕たち兄弟の居住区画にひとつ従業員用の部屋をご用意していますので、そちらをお使いください」
「は、はい」
「今日は玄関からでしたが、関係者通用口もお教えしますからね。次回からはそちらからお入りください」
 廊下を進みながら言われたので返事をしておく。