場所を移した。
 時刻は午後の七時半を回り、辺りは天空の夕焼けをわずかに残し、そのほとんどが夕闇に沈んだ。僕らはまるで逃げるように、近所に住むというマンション管理人である岡本さんのご自宅へとお邪魔した。
 管理事務所を飛び出す際、文乃さんは岡本さんと、相談者である大家の長谷部さんにはついてこないよう言い残していた。後に聞いた話では、管理事務所の辺りからでは、少し離れた位置にいた僕らが感じた凄まじい悪臭や、その他一切の異変は全く感じられなかったそうだ。ごくごく限られた狭小範囲にしかその事象は起きないものと断定出来るが、その情報だけが、あれほどの恐怖を味わいながら知り得た唯一の手掛かりだった。
 岡本さんのご自宅は、『レジデンス=リベラメンテ』から徒歩十分程の場所にある集合住宅だった。
 またマンションか…。
 僕の隣で溜息をつく辺見先輩の口調はいつものような軽口ではなく、常人ならトラウマになってもおかしくない恐怖体験からくる本心であると推測できた。彼女は今年の夏にサークルで行った、大学構内での肝試しでは全くと言って良いほど無反応、無感動を貫いた。あの時も幽霊騒動が起きるには起きたが、彼女にしてみれば、正体不明の幻覚、幻聴などは無視してしまえばどうということもない、と断じてしまえる小事でしかなかったという。そんな辺見先輩でも、そしてこの僕も、今日自分の身に起きたことについては全く気持ちの整理がつかなかった。
「先に帰りますか?」
 小声で聞くと、
「君は帰らないんだろう。なら、私も付き合うよ」
 と答えて、辺見先輩は前を行く池脇さんの背中にトトトと駆け寄った。
 岡本さんの住む部屋は、敷地の奥まったところにある十四号棟の二階だった。玄関口に辿り着いた頃、丁度、音もなく雨が降り始めた。


 岡本さんは四年前に奥様を亡くし、今は一人暮らしだという。
 間取りは2LDKだが、ファミリー層向けというよりは社会人の一人ぐ暮らしに丁度いいサイズの部屋だった。
「息子が一人いるけどね、おかげさまで会社勤めで忙しくしとりまして、盆暮れ正月くらしか帰ってこないよ。今は気楽はセカンド独身貴族ってわけ」
 どこで覚えた知識か知らないが、初めて耳にする言い回しだった。
 例の現場からは、全員で移動してきた。僕たちはダイニングとリビングにばらけて腰を落ち着けたが、広い部屋ではないため、どこからでも全員の顔が見渡せる。今はその近い距離感がありがたいとさえ思えた。リビングでは文乃さんと岡本さん、そして相談者の長谷部さんがテーブルを囲み、床に座って話し始めた。三神さんも、同じ輪に参加している。池脇さんは少し離れて部屋の隅で壁に背を預け、僕と辺見先輩はダイニングで食卓についている。
「ちょっと、いいかね」
 そう言ったのは、長谷部さんだ。
「気になるんだがね、さっきはちらっとしか話せなんだが、そちらの二人はこうして改めて見るとやはり、相当若いね。いやいや、僕にしてみりゃあ文乃ちゃんだって十分若いんだが、彼らもその、君のお仲間というか、そういう関係のあれなのかい?」
 長谷部さんなりに言葉を選んだようだったが、僕たち(とくに僕)に向けられた目の奥には、はっきりと『頼りない』という感情が浮かんでいた。しかし、そりゃあそうだろうな、と僕は別段怒る気にもならなかった。事態を把握せぬままついてきた未熟者であるばかりか、ただ文乃さんにお願いされてのこのことやって来ただけだ。本当にそれだけなのだ。自分に何が出来ると、そもそも過信していたわけではない。
 しかし文乃さんは背筋を伸ばして胸をはり、
「現時点で、私がご用意出来る最高のチームであると信じ、今日お集りいただいた皆さんにお声掛けしました」
 ですが、と彼女は声を落とし、
「事態は思っていたよりもずっと深刻で、危険であることも身に沁みました。長谷部さんの仰る通り、未成年である新開さんや、まだお若い女性である辺見さんには、外れていただくのが最善かもしれません」
 そう言った。
 僕は声をあげようとした。しかし食卓の上で僕の手を握った辺見先輩の横顔が、それを許さなかった。
「私はそういう意味で言ったわけじゃないんだけど、まあ、そう言われてみればそうなのかなあ。しかし困ったもんだな、君がそこまで言うんじゃ、簡単にお祓いしてもらって終わりって話じゃないんだろうね。だけどあれだね、若いとはいえ、君、文乃ちゃんに見込まれるなんて相当腕が立つんだろうね?」
 そう言った長谷部さんの目が不意に僕を捉え、岡本さんや池脇さんの視線まで飛んできた。僕は気圧され、言葉を探した。腕が立つと言われても、そんな事実はない。ただ見える、ただ感じる、それだけの大学生なのだ。
「あー、えーっと、私が見初めたというよりは、どちらかと言えば三神さんからのご紹介といいますか」
 え?
 文乃さんの言葉に、三神さん以外の全員が驚いた。
 当然ながら僕も辺見先輩も、三神三歳などという変わった名前の人物とは知り合いではなかったし、そもそも今日お会いしたばかりである。三神さんはやや慌てた様子で片手を挙げ、
「いやー、ワシもな、ワシというか、ワシじゃないというか」
 と、しどろもどろに言葉を濁した。
「あ、もしかして?」
 と文乃さんが声を上げた。思い当たる節があるような彼女の口振りに、三神さんは「うむ」と頷き返し、こうこ語った。
「ワシの弟子と言っていいのか、いやはや、師匠と呼ぶべきか、まあ、そういう、親子のように共に暮らしている者がおりましてな。まだ十七歳の娘っ子なんだが、これがまあ、いわゆる神の子とでも言いますか。わかりやすく言えば、べらぼうに霊感が強い。霊能力と言い換えたほうが良いほどの、桁外れの器を持っておる。おそらく物理的に作用する力に関しても、この、西荻のお嬢に匹敵するだろうな。その子が、そこの二人を遠視(とおみ)で見たんだよ。この二人が良いと、その子が選んだんだ。名前は幻の子、ゲンコと書いて三神…」

 まぼろし。

 僕と辺見先輩をこの事件に引っ張り込んだ張本人が、その十七歳の女の子であるという。




 ご本人の話によれば、三神さんは『天正堂』という名の拝み屋衆に所属しているという。
 『まぼろし』という名前の少女とは、彼女が幼い頃にそこで知り合った。その少女には物心がつく前から超常的な力が強く備わっており、あまりにも強烈な症状で周囲を混乱に陥らせる為、事態を重くみた両親により症状が落ち着くまでという一時的な名目で、天正堂へ預けられたという事だった。
 数ある症状の中で最も強力な力を発揮していたのが、三神さんの語った、遠視(とおみ)。遠隔透視と呼ばれ、離れた位置にある人物、物体を見る、察知するというものだった。一般的には広く『千里眼』という呼称で知られており、そこへ加えて彼女は、未来予知の能力までも備えているというのだ。
「ワシら拝み屋衆に属する者はそのほとんどが政治家や一般企業のトップなんぞを相手にして、まあ世俗的な事も含めて吉凶を占う生業なわけだ。そういう意味でもあの子は、精神の病と片付けられて狭い病院へ放り込まれるよりかは、力の使い道のあるワシらの所へ来る方が良い判断だったのだとは思う。これはワシ個人の話で痛み入りますが、古来より忌み云われのある土地に出向いて行ってまじない事を施すという、いわば地鎮祭における神主とか、そういった立場で裏仕事をこなすのがこのワシの専門でしてな。ここの、西荻のお嬢と知り合いになれたのも、そういった土地持ちとの縁があったからなんだ」
 だが、と三神さんは声を低くして言う。
「あの子の持つ力は、ちいとばかしキツすぎてな。本来の正業である拝みでは、まぁやらん領域にまでその力は及んでいくようになった」
 どういう意味だろう…?
 正業の拝み屋というものがどのような仕事なのか僕も詳しいわけではなかったが、先程三神さん自身が仰ったように、占いやお祈りが仕事ではないのか。そこ以外の、あるいはそれ以上の領域とは一体何を指すのだろうか。
「あの子は人を、呪えるんだ」
 一同が息を呑んだ。誰も、その言葉の意味を聞き返したりなどしなかった。
「親元を離れた幼い少女の寄る辺ない自我では、良い行いと悪い行いの線引が大人のそれとは食い違う場面もままあった。それは、仕方のないことだ。だがそれを利用する悪い人間もいて、例えば政敵、あるいは企業世襲の諍い相手、そういった特定の個人に対して攻撃させる目的としてあの子の力は使われ始めた。実際それを金に換えて実行に移すよう働きかけたワシら管理側にも責任はある。だからワシは、あの子の力を逆手にとって、組織に対して自立を約定させた。つまり屋号だけを借り受けた、いわば個人事業主となったわけだな」
「彼女の力は本物です」
 と文乃さんが言った。
「三神さんのいる組織では、誰もがそれを理解している。その彼女を怒らせたらお前らの命はないぞーって、そう脅しをかけたんですよね?」
 文乃さんはいたずらっぽい顔で、三神さんに微笑みかけた。三神さんは照れたように頭を掻き、
「脅しなんていうとまあ、聞こえは悪いんだがなあー」
 と、明言を避けた。だが否定はしなかった。
「おっさん、やるじゃねえか」
 と池脇さんが目を細めてそう言うと、三神さんはますます照れて赤くなった。


「先程、電話で話しておられたのは、その女の子ですか?」
 辺見先輩が聞いた。
 アレが僕たちの周囲で発現した時、辺見先輩の目の前に何かがポトリと落ちた。それが実は三神さんの携帯電話で、あの時既に誰かと通話中だったらしい。その相手が、幻子(まぼろし)という名の少女だったのだろうか。
「こらいかん、やばいと思うてな。短縮ダイアルを押してすぐにあの子とつないだんだ。あの子はどこにいてもワシの事なら即座に視ることができる。反射的に、助力を仰ごうとすがったんだがなぁ」
「何か、仰ってましたね」
 と、文乃さんが聞いた。
「うーむ。この人らがおる前で口にしてええものか分からんけども」
 三神さんは目の前に座る長谷部さんと岡本さんに気を配り、口ごもった。
「いや、や、や」
 と長谷部さんが慌てて腰を上げる。
「そんなにどえらい力を持った娘さんがこちらサイドに付いているんなら、百人力じゃないかね。何を気にすることがある?」
 それは確かに、長谷部さんの言う通りだ。少なくともここにただ座っているだけの僕や辺見先輩などより、何倍もこの件に関して力になってくれるだろう。しかし三神さんは困り果てた様子でテーブルに肘をつき、指で皺の寄った額を支えた。
「あの子は普段ワシを先生と呼ぶんだがね。あの時電話で、こう言ったんだよ」

『先生。…あれは、無理です』

「無理」
 文乃さんが繰り返した。
 ざわざわと絶望感が押し寄せて来るのを、僕は感じていた。


 

 文乃さんは言う。
「私は普段自分の力をひけらかすような真似はしませんが、自分に何が出来、何が出来ないかは分かっているつもりです。そんな私の目から見ても、まぼちゃんは…まぼろしさんは桁外れの能力者だと思っています。年齢的なことを考えて、彼女ではなく師匠である三神さんにご依頼したわけなのですが、正直私は今回のケースにおいては彼女を頼る他ないと考え始めていました。まぼちゃんは、実際には、なんと?」
 三神さんに詰め寄る勢いの文乃さんを前に、長谷部さんと岡本さんがこそこそと「桁外れ?」「能力?」と囁き合っている。実際にあの地獄を味わっていないともなると、当事者であり相談者であるにも関わらず呑気なものだなと僕の目には映る。文乃さんにも彼らの声は届いていたはずだが、彼女の表情がそれどころではないと物語っていた。
「実際にと言ってもなあ。無理は無理としか…」
 三神さんは困り顔でうんうんと唸りながら、
「とりあえずは、こちらに向かうと言ってくれはしたがね。正直、お嬢には悪いがワシ個人としては来てほしくなんかないね。危険すぎる」
 来るのか…。人を呪えるという十七歳の少女が、ここへ?
 だがそんな超常的な存在を持ってしても、地獄と言う名の釜の蓋が開いたようなあの「何か」には、太刀打ち出来ないのだろうか。
 そこへ、壁際で一同の話を黙って聞いていた池脇さんが割って入る。
「呪いだの能力だの、そんな与太話は一旦脇に置いといてよ。だからなんなんだよ。今あそこのマンションにゃあ、何が起きてるってんだ。それをまず俺やこのオッサンらに説明してみせろ。んーで文乃は、お前はそれをどうしようと思って俺たちをかき集めたんだ」
 彼氏?彼氏?またもや長谷部さんと岡本さんが顔を突き合わせている。その隣では、「与太…」はっきりとこき下ろされた三神さんがあんぐりと口を開けていた。
 池脇さんの口調は痛快そのもので、悪い方向へ流れっ放しだった場の空気を全て自分に向けさせる程の剛腕だった。見た目も、年齢も、住む世界の違い感じさせる人ではあったが、僕はこの池脇竜二という人間を好きになり始めていた。


「マンション全体を現場とする大規模な霊障、悪臭、激臭を伴う霊害。それが何を意味するのかを考えた時に、私はまず、こちらの長谷部さんにご自身が所有する土地の歴史を調べていただくよう、お願いしました」
 居住いを正し、文乃さんは全員に向かってそう話を始めた。
「それはまあ、簡単だったよ」
 そう、長谷部さんは言う。
 長谷部さんは文乃さんから話を聞いてすぐ、街へ降りて図書館へ向かったそうだ。そこで閲覧できる古地図で土地の履歴を調査した所、すぐに答えが出た。ほんの四十年ほど前まであの場所には何もなく、ただの小さな山だったという。
 つまり、山を切り開いて平らな土地に整備し、その場所に今あるリベラメンテの前身とある賃貸マンションが建てられた。それが今から四十年前。やがてオーナーが長谷部さんへと代わり、フルリフォームされて今のマンションへと様変わりしたのが十年前だ。当然名前も変わっている。が、あの土地の歴史は、わずかにそれだけであるという。
「よくある忌み地ではない、ということですな」と三神さんが言う。「そのー、山を切り崩して出来た土地というのはあのマンションだけはなく、あの土地一帯全部がそうなんですか? いわゆる新興住宅地というか」
「そうです」
 三神さんの問いに、長谷部さんは頷く。
「ここいら一帯、いや、この岡本さんの住んでいる団地がどうだったかまでは調べちゃおりませんが、少なくともリベラメンテの建つ山裾からバス通りと呼ばれる大通り、そこから街へ降りる坂の中腹あたりまではみな、全て山だったようですね」
「四十年ほど前と言えば、歴史は浅いがまだバブル経済の前だ。景気は確かに良かったように思うが、結構大規模な開発があったんですなあ」
 そのようですね、としか長谷部さんも答えようがなかった。文乃さんに言われて土地の歴史を調べようと意気込んだまでは良いが、いともあっさりと答えに辿り着いてしまったのだ。そこから先の事は、長谷部さんも知らないようだった。
 僕は何かが気になったが、それが何かは分からなかった。
「ずっと、こちらにお住まいですか?」
 と続けて三神さんが聞く。いえ、と長谷部さんは首を横に振った。
「何故です?」
「あなたは先程、古地図を閲覧して初めてこの辺りが以前山だった事に気づいたと仰った。ざっと顔ぶれを見渡した限りでは、四十年前から生きていそうなのは私と、長谷部さん、そしてこちらの岡本さんだけだ。もしこの辺りがお二人の地元であるならば、古地図なんぞに頼らなくても原風景を覚えていらっしゃったんじゃあないかと、そう思いましてな」
 それだ。僕が気になったのも、そこである。
 長谷部さんはまるで他人事のように、「全て山だったようですね」と答えている。


 なんの前触れもなく、文乃さんが玄関を向いた。
 視界の中で突如振り向いた彼女の動きに驚き、その視線を追った。辺見先輩が立ち上がり、僕の座っている方へ足早に回り込んで来た。
「な」
「静かに」
 岡本さんの不安げな声を押しとどめ、文乃さんが中腰になった。





 

 いくつもの視線が玄関に注がれる。そして誰もが微動だにしないまま三十秒が経過し、やがてしびれを切らした池脇さんが立ち上がって玄関へと向かった。
「竜二くん、まだ」
 文乃さんの制止の声にも池脇さんの歩みは止まらず、ほんの数歩で鉄製の玄関扉に手をかけた。辺見先輩が僕の背後に回ってしゃがみ込む。僕は扉をじっと睨んで、目を凝らした。
 肌色に塗られた鉄製の玄関扉の向こうに、おそらく子供のような背格好の何かが立っている。
「池脇さんいけない」
 僕が声を上げると、彼はドアノブを握ったまま動きを止めた。しかし逡巡した後、ぐっと顎に力を込めて扉を外側に開いた。突風が舞い込み、悪臭がそれに乗って侵入してくる。
「誰だ!」
 池脇さんが物凄い声で叫んだ、と同時に風が止み、匂いも消えた。
 僕は見た。今まさにもろ手を挙げて駆け込んで来ようとする男の子の霊が、池脇さんが叫んだ瞬間背後に飛んで、消えた。ゆっくりと、文乃さんを見やる。彼女は鎖骨の間にある何か(ブローチかペンダント)を服の上から握り締め、玄関に向かって目を閉じていた。
「なんだよ、何を見たってんだ?」
 池脇さんは鼻腔に残る悪臭を手で拭い落としながら、玄関から一歩外に出て辺りを見回している。おそらく周囲には誰もいないだろう。そもそも人間ではなかったのだ。何も痕跡は見つからないはずである。
 池脇さんが扉を閉めた所で、
「男の子でした」
 と僕は答えた。池脇さんはぎょっとして文乃さんを見やる。文乃さんは唇を真一文字に結び、否定も肯定もしない。
「まじかよ…」
 なんか、ちょっと臭くありませんか? 掃除が行き届いてないのかな。
 岡本さんが鼻の下を指で押さえながらぼやき、心配そうな顔をした長谷部さんはおどおどと辺りを伺っている。だがリベラメンテで味わった臭気はこの程度の残り香とは比べ物にならない。それでもやはり、恐怖はあとから追いかけて来た。
「新開さん。はっきりと見えましたか?」
 と、文乃さんが僕を見つめる。
「扉の向こうに立っていた段階で、シルエットのようなものが見えていました。池脇さんが扉を開けた時、部屋の中へ侵入してこようとする状態でしたが…」
 岡本さんの喉が、ヒ、と鳴る。
「顔や、服装まで?」
「服装は分かりませんでしたが…こう」
 僕は両手を上にあげて、片方ずつ前後に振る。
「手を頭上で振っていました。小さな子供が逃げ惑うような、そんな風に見えました」
 やめてくれ…。祈るような声を出し、岡本さんが頭を抱えた。
 管理人として業務するリベラメンテでは、不可解な出来事に直面しようと仕事と割り切り正気を保っていられた。しかしプライベートなくつろぎの空間を怪異に侵されたとあって、恐怖が段違いに増しているのだろう。
「すまん」
 扉を開けた事を後悔し、池脇さんが素直に頭を下げた。


「大丈夫だよ、ありゃ」
 と三神さんが言った。岡本さんが顔を上げ、三神さんににじり寄った。その背中に取り付くように、長谷部さんも同じく移動した。
「もともとここいらに漂ってるだけの可哀想な魂だ。害はない。それより」
 三神さんは僕を見て、ニッコリと笑みを浮かべた。
「ワシよりはっきり見えるんだなあ。いや、たまげた。見直したよ、若者」
「はあ」
 ありがとうございます、そう頭を下げるべき場面なのだろうが、特にありがたいとは思わなかった。
「ただよ…」
 三神さんは目を細めて宙を見据え、
「なーんでここへ来たかなぁ」
 と、言った。
 どういう意味です? 尋ねる岡本さんを見ずに、三神さんはまた僕に視線を向けた。
「ありゃあ、子供のナリをしとったが中身はそうじゃない。あれはなんというか、追い立られた末に変化した、あるいはそう、あんたが言ったように逃げまどっているうちに子供の姿になったんじゃないかと、ワシにはそういう具合に感じられたなぁ。お前さんはどう思うね?」
「僕は単純に見えるだけですから、その実態がなんなのかはわかりません。だけど、逃げるというのは、何からでしょう。既に亡くなっている幽体が今また、何から逃げるというんです?」
「それは分からん。おそらくここにおる、ワシか、お嬢か、はっきりと認識できるお前さんらに頼りたかったのじゃなかろうかねえ。いや、分からんよ。こればっかりは、死んだ人間とお話出来る程、ワシも万能じゃないもんでな」
 引き寄せた、ということだろうか。
 昔からよく怪談話のオチに使われるアレだろう。
 怖い話をすると、怖いものが寄って来る。
 ほら、こうしている間にも、君の後ろに…。
 そういう事だろうか。
 果たして、本当にそうなのだろうか…。


 

 辺見先輩がそわそわと時計を見上げ、時間を気にし始めた。
 岡本さんのご自宅からであれば、早くも帰りのバスの最終時刻が迫っているとの事だった。気が付けば既に午後九時時を回っている。来る時は勢いでタクシーを使ったがすぐに後悔し、帰りにはバスを使おうと事前に取り決めをしていた。万年金欠学生の身分で、タクシー利用はやはり贅沢なのだ。
 この時点で事件の概要を掴み切れていないことや、解決に導く確固たる対処法を用意出来なかったことを、文乃さんは改まって詫びた。それは相談者である長谷部さんや岡本さんのみならず、説明を求めていた池脇さんや、応援のために駆け付けてくれた三神さん、そして僕と辺見先輩にまで彼女の謝罪は及んだ。
 文乃さんは決して、自分の能力を過信していたわけではないと思う。その証拠にプロの拝み屋である三神さんや、昔ながらの友人であり、ひたすら強い陽の気を放つ池脇さんを側に置き、あまつさえ学生である僕や辺見先輩にまで助力を求めたのだ。彼女の言葉通り、文乃さんなりに人脈を駆使して集めたチームだったはずなのだ。本来どのような役割がそれぞれに与えられていたのか、今となっては定かではない。しかし言える事は、ただひたすらに、直面した事態が異常すぎたのだ。
 僕はいたたまれない気持ちになり、頭を下げる彼女の側までいって、
「こちらこそ、なんのお役にも立てず、申し訳ありませんでした」
 と謝罪した。自分でも何をしに来たのは分からないほど、何も出来なかったと痛感している。僕はただこの日、三神さんいわく害のない子供の霊を見ただけである。
 しかし文乃さんは強い表情で、この埋め合わせは必ずすると僕に約束した。そして長谷部さんと岡本さんに対しては、事件が解決するまで責任を持って調査を続けますと再三にわたって頭を下げ、その日はあえなく解散となった。


 帰りのバスの中で、僕と辺見先輩は一言も口をきかなかった。
 きっと辺見先輩は後悔しているだろう。いつもの軽いノリで文乃さんの頼みを引き受けた事もそうだし、結果として僕を引き摺り込んだのは自分であると、そう悔んでいるであろうことも察せられた。
 一つしか年の違わない辺見先輩は、サークル内だけに留まらず、とても交遊関係が広いと聞いている。人付き合いが上手く、誰からも気さくに声を掛けられ、それに応じる場面を実際に何度も目にしてきた。本来であれば今日一日を共にした行動も、傍から見ればデートのように受け取られる可能性もあるわけで、根暗な僕にとってはひょっとすると大学生活で一番楽しい日になっていたかもしれなかった。
 だが僕は今日、この世と隣り合わせに確かに存在する幽闇の淵に呑み込まれ、いつも明るく朗らかな辺見先輩の口から、喉がひしゃげたような悲鳴を聞いた。
 呼吸の音すら聞こえない程弱く疲弊しきった辺見先輩に、もし、「後悔しているか」と聞かれたら、僕はなんと答えていただろう。もちろん、もう二度とあんな恐怖を味わいたくはない。だがどこかで、後悔はしていないという気持ちもあった。
 それは、やはり…。
 バスが停車し、僕の降りる停留所に到着した。大学からなら辺見先輩の実家の方が近いのに、リベラメンテからでは彼女の方が遠い。その事が何だか、今は皮肉に思えた。立ち上がろうとする僕の背中に、辺見先輩が手を当てた。
 動きを止める。
「…よし。元気出していこうか」
 元気のない声で、辺見先輩はそう言った。
「はい」
 と僕が答えると、彼女は周りが振り向くほどの勢いで、僕の背中をバシッと叩いた。



 その日の晩遅く、机の上で僕の携帯電話が光った。もともと誰からも連絡が来ることはない為、着信音も鳴らさずバイブの設定も切っている。手のひらサイズの黒い箱は、先端の一部分を激しく明滅させて、奇跡のような着信を全力で僕に教えてくれた。
 僕は勉強机に向かい、窓の外をただ眺めていた。いつの間にか雨は上がり、星が見える程には夜空が澄んでいる。着信の入った携帯に気が付き、壁掛け時計に目をやると、深夜一時半を過ぎていた。
「もしもし」
 僕はそう答えたが、相手から反応があるまでに、ほんのわずかなノイズが聞こえた。
「新開さん、ですか?」
「…ああっ」
 文乃さんだった。
「そうです、新開です。今日は、お疲れさまでした。今、どちらですか?」
「…今ですか? 今、ええーっと」
 女性に尋ねてはいけない質問だっただろうか。僕はヒヤリとして背筋を伸ばし、
「いえいえ、仰らなくていいんです、すみません」
 と一人で頭を下げた。
「…新開さんは、今ご自宅ですか?」
「そうです。部屋で、夜空を見ていました」
「ロマンチックなんですね」
 彼女のあたたかな微笑みがすぐそばに感じられ、僕は顔を真っ赤にしながら、
「いや、あの、今日体験した事に対する恐怖を紛らわせるための現実逃避というか、なんというか」
 と意味不明な言い訳を口にする。それはあながち間違いではなかったが、相手に理解を得られる話でもなかった。
「今日は、本当にすみませんでした」
「文乃さん、もう謝るのはやめにしませんか。僕は本当言えば、もっとあなたのお役に立ちたかったです」
「何を仰いますか。来て下さっただけでも、どれほど心強かったことか」
「いやいやいやいや」
「ですが、…新開さん?」
「…はい」
「お気持ちは、嬉しいのですが」
 そこで、文乃さんは言葉を切った。
 僕は一瞬何を言われたのか分からなかったが、突然ぽーんと体を小突かれ、階段を転げ落ちるような錯覚に陥った。


「もう、そのお気持ちは封印してくださった方が、よろしいのかと」





 池脇さんですか?
 自分でも驚くほど冷ややかな声が出た。早口で、突き放すような声だったと思う。
 僕の問いに文乃さんは慌てた様子で、
「え?」
 とだけ発した。
「彼と話をしました。あなたにはすでに、心に決めた人がいると」
「…ああ」
 それは、ああ、ではなく、溜息に似た吐息の音だった。
「僕は彼に、文乃さんの事が好きなんですかと、尋ねました。すると彼は、自分にも決めた女がいると答えました。しかし、それが文乃さんではないと、そういう風には仰いませんでした」
 訪れた沈黙は僕を責める空気ではなかった。しかし悲しいぐらいに、自分の幼さを自覚した瞬間だった。
「…新開さん?」
「…」
「新開さん?」
「はい」
「竜二君は、…彼はそういう恋愛の駆け引きをするような人ではありません。タネ明かしをすれば、あの時私は皆さんの体に触れて、内側から力を解き放つ、なにかそのようなイメージで、波動を流しました」
「…はい」
「その時、ほんの一瞬ですが、皆さんの心が少しだけ私の中に逆流してくるんです。意図するわけではありませんし、コントロール出来る事でもないのですが」
「つまり、心を読んだのだと…?」
「結果的にはそうなります。ごめんなさい」
「いえ、さぞかし気持ち悪かったでしょうね。すみません」
「いいえ。やはりそこは、私もひとりの女ですから」
 しかし、文乃さんが嬉しいという言葉を使うことはなかった。そこには単なる、大人の女性らしい優しさがあるだけで、それがかえって悲しく感じられた。
「それに、竜二君には本当に、彼が中学時代に知り合ったという年下の恋人がいます。そして私にも、確かに心に決めた恋人がいました」
「…は」
 僕は恥ずかしさのあまり、急激に息が詰まるのを感じた。これは照れではない。恥を、感じたのだ。
「…いま、した?」
「亡くなりました」
 聞いてはいけないと感じながらも、ためらいを装いながら発せられた愚かな質問。そして、最悪の答え。
 僕は震える拳を握り締め、思い切り勉強机をぶっ叩いた。
「大丈夫ですか!?」
「…なんでもありません。すみません、馬鹿な事を聞いてしまって」
「いえ。…新開さんは、大学では何を勉強されていますか?」
 突然の質問に、思考が停止する。
 どういう意味だろうか。お前は一体、大学で何を学んでいるんだ、この出来損ないが。そういう意味だろうか。
「何学部なんですか?」
「あ、え、えーと、文芸、いえ、文学部です」
「文学部。というと、もしかして小説をお書きになられたりとか?」
「お恥ずかしいですが、そのような時もあります。ですが主には日本文学と英文学を専攻にとっています。物語の背景や、その歴史を学ぶ事が好きなので」
「素晴らしいですね。あ、竜二君と言えば今日、やはり新開さんの事をオカルト研究会だと思っていたそうです。あいつ面白いなーって、変な風に褒めてましたよ」
 文乃さんの口から池脇さんの名前を聞くだけで、胸がチクりと傷んだ。むろん嫉妬ではない。浅はかな自分の愚かさに腹が立つだけである。
「そうなんですね。オカ研といえばうちの辺見先輩も、僕の体質を利用して時たま勝手にオカ研を名乗ったりしますね」
「先日も、そうでしたね」
「ええ」
「たくさん、好きな事を学ぶべきだと思います」
 文乃さんのその言葉に、僕はボロボロと涙をこぼした。
 それは僕が振られてしまった現実や、淡い恋心の終わりなんかよりもずっと、消えてしまった命の大切さを思わせる、心のこもったエールだったからだ。
 僕は今、好きだと思いを寄せた女性から、自分の人生を応援されている。こんな経験は生まれて初めてだった。電話で話をしていなければきっと、嗚咽してしまいそうなほど切なく、そして胸が張り裂けそうなほど嬉しかった。
「はい。…ありがとうございます。頑張ります」
「短い間でしたが、良い人たちに巡り会えたと、感謝しています」
「はい。僕もです」
「ありがとうございました。無意味な恐怖を植え付けただけで終わってしまい、本当にごめんなさい」
「いえ」
「どうか一日も早く、忘れてください」
 それは恐怖ですか? あなたのことですか?
「それではどうぞ、お元気で」
「文乃さん」
「お身体に気をつけて…」
「文乃…」

 その時、僕の鼻を何かがかすめた。
 実体のある何か、しかしそこにはない何か…。

「…くさい」
 と僕は無意識に呟いていた。
「文乃さん。…文乃さん!」
「…かいさん?…新開さん?」
「文乃さん!そこはどこですか!? あなたは今どこにいるんですか!」
「…かいさん?…かいさん?」


 …かいさん? …かいさん?…かいさん? …かいさん?…かいさん? …かいさん?…かいさん? …かいさん?…かいさん? …かいさん?…かいさん? …かいさん?


 臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い…


 突然通話の音声が途切れ、僕の耳に再びノイズが入り込んで来た。
 僕は立ち上がって部屋の中を歩きまわり、ひたすら文乃さんの名前を叫び続けた。
 と、声が聞こえた。
「…れ。…れ。…く、で…れ」
 それは明らかに、文乃さんの声ではなかった。
 僕は歩くのをやめ、携帯電話を握りしめた。
「…く、…け。…いけ」
「なんですか!? なんて、あなたは! 誰なんだお前は!」
 僕はその声を聞いた事があると思った。確かに聞いた事のある人間の声だ。しかしいつどこで聞いた声なのか、それが誰の声なのか、全く思い出す事が出来なかった。
「文乃さん!」
 ほとんど泣いているに近い声で、僕は叫んだ。
 突然、誰かが僕の耳元で絶叫した。

「早く行け!」
「全速力で走れ!!」

 僕は携帯電話だけを握り締め、そのほかは何も持たずに家を飛び出した。







 財布も持たず、タクシーに飛び乗った。
 そして気持ちばかりがはやる車内で、ついに僕は電話口で叫んだ声の主、その正体に思いあたっていた。
 文乃さんと初めて会ったあの日、大学の食堂にて辺見先輩を交えて三人で話をした時だ。突然僕らの背後から話しかける声があった。

 …面白くなんかありませんよ。

 あの時そう囁いた声の主に違いない。
 それは今日三神三歳さんが教えてくれた、千里眼にて僕と辺見先輩を遠視したという、三神幻子(まぼろし)と言う名の17歳の少女ではあるまいか。
 その少女が僕と文乃さんの通話する携帯の電波に強制干渉し、文乃さんの危機を知らせてくれたのではあるまいか。
 とするならば、文乃さんの今いる場所は明白だ。タクシーの時計に目をやる。午前二時を回っている。
 何故彼女はこんな時間に、おそらくはたった一人で、「レジデンス=リベラメンテ」にいるというのだろう。


 ここでいいですか。
 運転手に言われて車が停車したのは、やはりマンションのエントランス前ではなくバス通りと呼ばれる手前の道路だった。僕は適当なウソを交えて説明し、今から人を呼んで来てお金を支払うから、少しの間だけ待っていて欲しいと懇願した。
「いりません」
 運転手は前を向いたままそう答えた。
 いらない、とは?
「お代はいりません、結構です。ですから早く降りてください。帰らせてください」
 何を言ってるんだこの運転手は?
「いや、すぐそこのマンションの管理人と知り合いですから」
「早く降りろったら!」
 運転手は勝手にドア開け、サイドブレーキを下ろした。アクセルを踏めば発進できる状態で、僕の下車を待っているのだ。僕は何度も確認し、車の外へ出た。その瞬間タクシーは物凄い勢いでぶっ飛んで走り去った。マンションへと続く道路を見やり、そしてすでに消え去ったタクシーの背中を見つめるように、視線を戻す。
「はあ…」
 僕は運転手の非常識な態度に怒る事もできなかった。認めたくはないが、彼の気持ちは分かるのだ。おそらくあの運転手には霊感があるか、この近辺で心霊体験をしたことがあるのだろう。焦点を合わせないようにあえて視線を戻したが、それでも僕が降り立った大通りからマンションへと続く道路は異常であるとしか言えなかった。
 道路の両脇に、民家の外壁を向いて立つ人影が何十体も立っている。午前二時だ。彼らがマンションの住人であるとは考えられない。しかし以前にも述べたように、動かなれば僕にはそれが生きている人間とほとんど区別がつかないのだ。しかも壁際を向いているせいで彼ら特有の無表情さを見て取ることもできない。この状況はかつてない程に恐ろしかった。
 僕は携帯電話の着信履歴を呼び出し、文乃さんに掛けなおした。受話口を耳に当て、神経をそこへ集中させながらマンションへの道を歩き始める。
 僕が一歩一歩マンションへ近づくたび、道路の両側に立つ人影が、音もなく僕と同じ方向を向いて歩き始めた。その人影は音もなく残像を引きずり、この世ならざる者であるとはっきり認識出来た。僕の奥歯がカタカタと震え、何度も文乃さんの名を叫びそうになった。だが声を発することが心底怖かった。
 これまで経験したどの怪異よりも恐ろしく、そして不可思議だった。『彼ら』は明らかに僕の存在に気が付いている。しかしその僕に近づいてくるわけでもなく、ただ僕と同じ速度で隣をついてくるだけなのだ。
 怖い…、怖い…。文乃さん…、文乃さん…。
 何度コールしても、文乃さんは出ない。
 マンションのどこかにいる事だけは間違いないだろう。しかし件の事象が発現する場所は、岡本さんに言わせれば常に同じではないらしい。文乃さんがたった一人で問題解決に動き出したのだとしても、現場がどこなのか僕にはさっぱり分からないのだ。
 遠く離れていれば、もしかしたら僕の目にも例の事象が視認出来るかもしれない。だが相性の悪い事に、僕が今日体験した「物凄く臭い何か」はなんの前触れもなく超至近距離で突発して現れる。一度巻き込まれてしまえば精神力で対抗出来るものではない。臭くて痛くて、到底眼を開けていることなど出来ないのだから。
 そうこうするうち、なんとかマンションエントランスへと辿り着いた。
 あれだけ恐ろしかった道路脇の無数の影は、いつの間にか僕の目にも映らなくなっている。しかし相変わらず辺り一面には、とろりとした濃密な冷気が漂い続けていた。姿を見せないだけて、この場に辿り着いたあの世の者たちがまるで吹き溜まりのように集結し、渦巻いているのが分かった。
 とても長居出来る場所じゃない、頭がおかしくなりそうだ。一刻も早く文乃さんを探さないと…。
 もし文乃さんが歩き回っていないとすれば、岡本さんが勤務する管理事務所に陣取っているのではないかとあたりをつけた。確か一階の、一番奥の…。
 再び歩き始めた僕の足が、すぐにまた立ち止まってしまった。まるで足の甲を地面に打ち付けられたみたいに。


 …扉が一枚、開いているのだ。
 
 


 


 僕は立ち止まったまま、開いているその扉をじっと見つめた。
 記憶違いでなければ、今扉の開いている部屋が、管理事務所に使用されている一室だ。
 僕の耳もとで無機質な音が断続的に聞こえている。電話の発信が強制終了されて不通音に切り替わっていた。僕はその場に立ったまま、一階奥のその部屋を見つめて再コールする。
 
 ルルルル…ルルルル。

 僕の心臓が狂おしく早鐘を打つ。
 僕は耳元から携帯電話を遠ざけた。
 そして迷わず走り出し、どうでもいい、何が現れてもいいと覚悟を決めて、その部屋へと駆けた。
 扉に手を掛けて中を覗く。玄関が目に入る。
 廊下に無造作に転がった携帯電話が、着信音を響かせたまま震えてうごめいていた。そしてその手前、靴置き場と廊下の丁度境目あたりでうつ伏せに横たわる、文乃さんの姿があった。
 僕は咄嗟に彼女を抱き起こし、膝の上で仰向けに寝返らせた。意識を失っていると思われた文乃さんは眉間にぐっと力をこめ、何かに耐えているような苦悶の表情を浮かべていた。
「文乃さん!僕です!新開です!文乃さん!」
 やがて痙攣する瞼がゆっくりと開き、文乃さんと目があった。
「…新開さん。来てくださったのですね」
「来ました。間に合って良かった」
 何に間に合ったのか。何に間に合わないと思ったのか。僕はそれを考えるのをやめた。今目の前にいる文乃さんは確かに呼吸し、微笑んでいる。それだけで良かった。


 部屋の奥へと移動し、岡本さんが使用している薄手の毛布を拝借した。
 壁際に並んで腰かけ、文乃さんの肩にその毛布をかけた。僕は、まるで寒くなどなかった。
「何があったんです?」
 と僕が聞くと、
「ありがとうございます」
 と伏し目がちに微笑んで、文乃さんは答えた。
「まさか、来ていただけるとは思いませんでした。あれだけのことをご経験されて、今またこんな時間に、こうしてここまで。…夢を見ているようです」
「いえ」
 僕のした質問に対する解答としてはズレているかもしれない。だがそんな事はどうでも良いと思える程僕は舞い上がった。来て良かった。しかし、それはやはり言えないのだ。
「震えていらっしゃいますね。岡本さんにお借りして、コーヒーか何かいれましょう」
 照れ隠しにそう言って僕は立ち上がり、小振りなキッチンに向かった。
「では、日本茶を」
 と文乃さんが言った。
 僕は小さく笑って周辺を探したが、見当たらなかった。
「すみません。そこにある私のカバンの中に、あるんです」
「ああ、これですか。僕が触っても?」
「ろくなものは入ってませんから」
 カバンの中には緑茶の粉末が入ったパックが数袋と、ウイダーンゼリーが二つ入っていた。遠足気分なのか、この人は。僕は思わず吹き出し、背後で僕の様子を観察していたらしい文乃さんに、
「でしょ?」
 と言われた。
 湯呑に入れた緑茶とゼリーのパックを彼女に手渡し、隣に腰を下ろした。
「聞いてもいいですか?」
 僕の問いに、
「どうぞ、なんなりと」
 文乃さんは優しく頷く。
「今日、昨日ですかね、あの時、文乃さん、何かお経のような、祝詞のようなものを読んでいらっしゃいませんでしたか?」
「皆さんが霧状の黒い何かに、覆われてしまった時ですね。あれは、お経でも祝詞でもありません。私にはそういった方面の知識は全くないんですよ」
「そうなんですか?」
「専門的な知識が必要な時はすぐに、三神さんに電話しちゃいます」
「なるほど」
「私がそこそこ大きな力を使う時は、どうしても集中力が必要になってきます。そういう時、自分に暗示をかけるように、強制的に自分の内面に焦点を当て、目の前の事象から意識をそらす目的で、あの詩を諳んじるわけです。あれは、『白き蟷螂』という名前の、昔の詩なんですよ」
「詩。ポエムですか?」
「そうです。ポエムです。…笑いますか?」
「まったく!…とても力強く、素敵でした」
「あはは、それは私ではなく、詩のおかげですね」
「どちらもです。今度大学で調べて読んでみます」
「是非。…あ、調べモノと言えば、あの後長谷部さんの仰っていたお話が、私ずっと気になっていたんです」
「岡本のさんのご自宅でお伺いした?」
「はい。図書館でこの土地の歴史を調べて下さったという、結果報告のお話です。だけど何が、どこが気にかかったのかが今一つぼやけた感じがして。お話に続きがあるような、あるいはもっと別な何かが気になっているような。遅い時間に申し訳ないとは思ったのですが、どうしてもお話をお伺いしたくて、皆さんとお別れした後でまた戻って来たんです」
「それからずっと、ここに?」
 驚いて尋ねる僕の言葉に、文乃さんは頭を振った。
「ここへ来たかったわけじゃないんです」
 彼女の言葉に、僕の背筋が伸びた。こうして文乃さんと並んで座っているせいで忘れそうになる。
 ここは、敵陣のど真ん中だ。
「今晩は岡本さんのご自宅でお二人ともご一緒されると聞いていたので、そちらへお伺いするつもりでした。ですが、気が付いたらマンションの下に立っていました」
「呼び寄せられた、ということでしょうか」
「分かりません」
 文乃さんは湯呑に口を付け、あち、と小さな声を出した。
「混同されてしまいがちなのですが、私にはいわゆる霊感のようなものは、備わっていないのだと思います」
 と、文乃さんは言う。
「いや」
 僕が否定しかけると、
「私が感じるのは、例えば生き物が発する熱とか、分かりやすく言えばオーラ的なものや、そういった波動なんです。三神さんも仰っていました。ワシらが反応する部分には見向きもせんくせに、ワシらには全く反応できんものが見えるんだねーって」
 と、あまり上手くない物まねを交えて説明してくれた。
「熱をもたないものには、無反応なんですか?」
「周辺の空気と温度差があれば、それが熱くても冷たくてもわかります」
「なるほど。今日僕たちを取り囲んだ何かは、やはりその周辺の空気とは違ったわけですね」
「はい。それをよく霊感だと勘違いされるようなんですけど、私本当に、幽霊とか見たことなくて」
「羨ましいですよ、それは。存在を認知することは出来るけど、見なくて済むんですから」
「なるほど。そうかもしれませんね」
 文乃さんは目を細くして笑い、また湯呑に口を付けて、あち、と肩をすくめた。
「聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
 即答する文乃さんの横顔を見つめて、僕は言った。
「なんなり…」
「何故…亡くなられたんですか?」

 あなたはの恋人は…。

 文乃さんの表情は変わらなかった。しかし、彼女は答えようとはしなかった。





「すみません。やっぱり僕は、…子供だな」
 文乃さんは前を向いたまま息を吸い込み、
「今は、やめておきましょう」
 と言った。
「はい。すみませんでした」
「謝っていただくようなことではありません」
「はい。…そうだ、お体は平気なんですか?」
 今更思い出したように僕が尋ねると、三角座りをしていた文乃さんが両足を前に伸ばした。
「実を言えばずっと足が震えていましたが、大分落ち着きました。お茶、ありがとうございます」
「そうだったんですね。…やはり、例の?」
 物凄く臭いなにか。そのなにかに襲われたということなのだろうか。
「自分が倒れていたという認識すらありませんでした。私は気が付けばこのマンションの前にいて、そして気が付けばこの部屋の真ん中に立っていました」
「…」
「これはだめだ、翻弄されちゃいけない。そう思い、新開さんに電話しました。きちんと自分の心に集中し、あなたの声に耳を傾け、気持ちを落ち着かせようと努めました。この部屋から出ようとした、その時でした。玄関の扉を開けた瞬間体中が臭くなり、そこから先は…」
 文乃さんの体温をすぐ側に感じていながら尚、全身が粟立つ程に恐ろしい話だった。僕は途中から想像することをやめ、ただ彼女の横顔を見つめた。
「おそろしい。本当にそう思います」
 文乃さんは目を細めて、独り言のようにそう口にした。
 僕は先程、見えないことが羨ましいと言った。僕とて幽霊は怖い。心霊現象や怪談話も同様に、得意ではない。それでも僕は自分の『視える』特異な体質を自覚しているし、その分心のどこかには覚悟も用意されていて、失望や諦めに似た感情で恐怖の逃げ道を作っていると言える。僕には霊感がある。だから幽霊が見えても仕方がない…という具合にだ。
 だが文乃さんにはおそらくそれがない。彼女の言葉を借りるなら、『感じとれはするが見えない』以上、僕とは似て非なる恐怖に突然心臓を鷲掴まれるはずなのだ。僕はその事に思い当たり、想像力の欠けていた先程の発言を後悔した。そんな馬鹿な僕をよそに、それでも尚、彼女は気丈にもこう言う。
「早く、なんとかして原因を特定しないと」
 僕は一瞬、もう関わるのをやめたらどうかと、口にしてしまいそうになった。だがそれは、文乃さんの人生においては余計な干渉になる。今僕は、彼女を手助けできる存在でありたいと思い始めていた。彼女の選択を尊重したその上で、全てを受け入れたいのだ。
「…やはり土地でしょうか」
 と彼女は小声で言った。誰か(あるいは何か)に聞かれる事を恐れるかのように、小さな声だった。
「そうかもしれません。実を言えば先程この場所に来るまでに、多くのこの世ならざる者を見ました」
「やはり、そうなんですね。私も薄々は、感じていました」
「ええ。その全てがこの建物、あるいはこの土地に向かって、まるで行進しているかのようで。今も、どんどん集まってきています」
 僕が玄関を指さしながら言うと、文乃さんはじっとその方向を見据えた。そしてゆっくりと、湯飲みに口をつけた。
「…あっち」
 僕は緊張感のないその声に思わず吹き出し、
「そんなに沸騰させたつもりはないですが」
 と言った。猫舌ですか?
「いえ」
 と文乃さんは答え、熱い物は大好物です、と答えた。
「私の危機管理が足りないせいで、予防線を張るより早く得体の知れないものに体を絡めとられてしまったようです。新開さん。今この部屋に、この世ならざる者はいますか?」
「え?いや、部屋の中にはいません」
「何故だと思いますか?」
「何故、でしょうかね。…これから来るのかも」
「あの時玄関で倒れ伏せ、そして新開さんに助け起こされてから今までずっと、私が気を張っているせいだと思います」
「え。…どういう意味ですか?」
「このお茶が熱いのも、そうです」
 そう言って文乃さんが僕の手の甲に湯飲みを押し当てた。
「あっつい!…え、なんですか、これ」
 普段あまり声を張り上げる事のない僕でさえ、よく素手で持ってるな、そうたまげる程湯飲みは熱かった。必然的に中のお茶はそれ以上の温度ということである。
「空気を振動させると摩擦が生じ、温度が上がりますよね。…多分」
「はい。…え?」
「そこらへんの知識を使ってうまく説明できませんかね。新開さん、頭良さそうだし」
「え、なんですか?」
「私高卒なんで、上手にあなたを納得させる原理を説明できませんが、緊張していたり怖かったりするとよく『気を張る』っていうじゃないですか。自分の身体の内側から外側に受かって空気を膨張させたり、押し退けたり、狭い範囲で振動させたり、私、そういう事ができるみたいです。…なんとなく、わかりますか?」
「そういう事ができるって、…それはつまり、空気を操作してるんですか?」
「操作しているという実感はありません。水中で手を動かすと、波が出来るでしょう。あれです。だからきっといわゆるエスパーのように、イメージ通りに物体が動くとかそういう事ではない気がします。やはり、空気なんでしょうかね」
「空気を、振動させて…」
 続きを言い淀みながら僕は湯飲みに目をやる。
「いや、それってそのー」
 空気を振動させるだけじゃなく、水分を発熱させた。それはつまり、人間電子レンジだ。しかしそう言いかけて僕はやめた。文乃さんにはあまり、似つかわしくないネーミングだと思ったのだ。
「やっぱり分かりません、すみません。格好つけるのはやめておきます」
「いえいえ、馬鹿ですみません。話は戻りますが、もし今回の現象を起こしているのが例えばたった一人の、たったひとつの、たった一体のナニカだと考えた時、私はとんでもないものを相手にしている気がして途方にくれそうになります」
「それは…」
 それは僕も考えていた。この土地は明らかにおかしい。これまでも様々な場所で霊体を見て来たが、いわゆる心霊体験や心霊現象とは一線を画す怪異と言わざるをえない。オカルトに耐性があると思っていた辺見先輩が味わった恐怖も、精神的のみならず肉体的に負うダメージも、このマンション周辺を訪れたから初めて体験する事ばかりだ。その裏側に、「地獄さながらの悪臭をまき散らす何かが存在する」のであれば、もはやそれは幽霊や霊魂といった概念ですらないだろう。そんなものが存在するとすれば、それはもうすでに…。
「妖怪」
「…妖怪?」
 思わず口をついて出た僕の突拍子もない言葉に、文乃さんの声も裏返った。
「すみません、そんなものいるわけないですよね」
「いますよ、妖怪」
「そ、そうなんですか?」
「ここに」
 ぽつりとそう呟いて、文乃さんは湯飲みに口をつけた。
 …あっち。


文乃

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