疲れてしまいました。
昨日は、ちょっと都内まで行ったりしたせいか、今日は疲れてしまいました。疲れると、やっぱり症状が出てしまいます。心が病むというのはそういうことです。つまり、周りの認識したり、承認したりするところがやむのです。
始まりは、母と会話がうまくできないことでした。多分普通にしていれば、なんてことはないのでしょう。母に口の聞き方を注意されたとき、私は土下座して謝りました。そうしなければいけないと思ったからです。別にごめんなさいと、一言言えばそれで良いはずなのに、そう見えてしまうんですよね。遜って話すということは、単にそれだけすれば良いことなのに、そのときは身分がひくい、土下座しなければならない、と思ってしまう。一言でいえば、頭がおかしいということなんでしょうが、本当に世界がそういうように見えてしまうのが、心を病んだと言う事なのです。
とりあえず、その後は薬を飲ませてもらい、やっと休みました。
ひどいときには、休もうという気持ちすらなくなってしまいます。最悪の場合はリストカットや、オーバードーズに及んでしまうので、怠けているように見えても、休まなければなりません。明日に、症状を持ち越さないためにも、休むことが必要です。
心が病むというのは、世界が変わることです。こうしなければいけないと世界が変わることです。世界が、全て自分が悪いと考えなければ、解決できなくなるのです。
とりあえず、一休みさせてもらって、無理して家事をすることも避け、今日は収まりました。母にも、しっかりと謝罪して、わかってもらいました。あのときは疲れていて、世界が変わってしまっていた、明らかに景色が変わっていた、頭の中が、おかしくなっていた、と、弁明しました。それしかないからです。それしか理由がないからです。
あとは明日に持ち越さないように、無理をしない事だと思います。こう書くと、自分本意なようですが、他人にめいわくをかけないために、障害者は、ひっそりと生きるしか方法がないのです。だからいつも一人なのです。寂しいと思ってはいけません。基本ができないのですから。
とにかく無理をせず、今日は休みます。
明日は、ピアノの、練習がしっかりできるといいなあ。
明日にちょっとだけ期待しておわります。
インターネットでよかった
さいきん仕事がうまく行っていません。アンケートに答えても承認されないのです。理由はよくわかりません。別に誤字があったわけでもないし。ただ、がっかりするばかりです。
こういうとき、インターネットでよかったと思います。人と顔を合わせるわけでもないので、自分をあわせなくてよいし、相手の顔を見ないで済むからです。相手に、もしだめだと言われたら、もう二度とその会社に行けないのが、精神障害者です。だから、インターネットで、相手の顔を、見ないで仕事ができるというのは、こういうときに良いなと思いました。相手の顔が見えなければ、自分だけの感情で処理できますから。自分の感情すら、コントロールできないのに、ましてや相手がいたらもっとおかしな事態になってしまうことでしょう。良かったです。結果だけが報道されてくれれば。
とりあえず、クラウドソーシングからしばらく離れて静養し、また、挑戦してみることにします。
障害者にとって仕事は憧れですが、非常に難しいことでもあります。
ある本に、試しにやってみる、だめでもともと、位に考えておくのが、仕事が続くコツだと書いてありました。
はじめの頃は意味がよくわかりませんでしたが、多分こういうことなんだと思います。
障害者は、感情のコントロールができないため、そのことで多大なめいわくをかけてしまいます。そうならないためには、やたらに責任感や、使命感を持ってしまわない方が、社会が楽に進むのです。
悲しいことだけど、障害者はいないほうがいい、存在であるのは、間違いありません。だからこそ、相模原事件のような事件が起きても仕方なかったと思います。私は、こうして成文化できるだけで、まだ幸せなんだと思うことにしなければなりません。
責任感や使命感を、持てないで、常に他人から笑われ続けて生きていくというのは、悲しいし、寂しいことです。
早く死にたいです。長生きなんかしたくない。そんな時間なんていらない。
それを常に思いながら生きていくしかない。
そういうことも表現できるのも、インターネットがあってよかったと思います。
急にやってくる
自分でもよくわからない症状ではありますが、急に不安になったりとか、急に落ち込んだりとか、そう言うことがあるのです。
昨日は、不安が強くねむることができなくなりました。睡眠剤を飲んでやっと寝ましたが、数時間程度しか眠れませんでした。
今日は図書館に行きましたが、帰ってきたあと酷い鬱になってしまい、ついに発狂してしまいました。特に理由があるわけでもないのです。特にテレビで悪い話があったわけでもないし。大きな災害があったわけでもないのに、テレビを壊したくなりました。
生活に変化があったわけでもありません。したことといえば、クラウドソーシングしたり、楽譜を書く仕事を請け負ったりしただけです。こうしなきゃ、生きていかれないことくらい知っているのに、体のほうがこうして、おかしくさせてできなくさせるのです。
なんだか、社会参加しようとすればするほど、こういうふうになって、できなくなっていきます。
甘えるなと言う人もいるかもしれませんが、こうなってしまうのもまた事実。自分でも、理由はわからないけど急に落ち込んで、なんにもできなくなってしまうんです。多分、なんでも自分でできるとか、できなきゃいけないと、自負している人は、こういう気持ちはわからないのではないかな、と思います。
本当にその日のストレスはその日のうちに、というのができれば理想なんですけど。
相談する人もいません。こうしてかくほかないのです。
時々ね、おもうんですよ。なんで、食べるだけで何もしない私が生きているんだろうって。
何かしようと思っても、こういうことがあるからできやしない。ただ、本当にいるだけです。以前、生きるに値しない命、という言葉がありましたが、本当にこういう人間のことを言うのだと思います。
まあ、医者に言わせれば免疫の異常とか、なんだとか言うんだと思いますが、そのあたりはよく私にはわかりません。というか、詳しく説明してもわからない、とでも考えているのかな。
こんな人間ですもの、生きている価値ないですよ。
あとでやれる
よく今しかできないとか、やらなくてもなんとかなると思ってはいけないとか?そういう戒めの言葉をききます。私も、若い頃はそう思っていました。とにかくなんでも今日中にしなければ、と思い続けて来ましたが、それもどうかな、と今では思っています。
というのは、計画通りやれるなんてことは、やれた試しがないからです。それより、計画通りに行かない事のストレスが大きすぎて、疲れてしまったら意味がありません。計画は、あまり鮮明には立てない方が良いのです。それよりも、なにかトラブルがあったときに、どう対処するか、のほうがよほど大切ですし、より能力は高いのではないかとおもいます。
だからこそ、計画は、あまり細かく立てない方が良いのです。後でやればいいは行けないというのは、単に学校の教師が生徒を牽制するために言っている言葉でしょう。そうではなく、後でやれることがあるのは、実は素晴らしい事だなと思うのです。自分がそれだけ、世の中にやることがあるんですから。だから、明日できることは今日しない。それで十分なのです。
最近になって、学校の教師が言うことは、実生活でほとんど役に立たないこともわかってきました。教師が言っていることは一見すると素晴らしいことのようですが、ほとんど実現不可能なことばかり。つまり、教師が言うことは、自分の方を向かせるための、一つの道具に過ぎないのでしょう。学校の言うことは、本当に意味のないことばかりです。
以前、佐々木正美先生が、真の成長には無駄が必要、と、おっしゃっていたことがありました。
つまり、無駄な時間というものは、意外になにかに役に立つのかもしれないのです。一生懸命働いていられることだけが人生ではありません。いまは、することは後回しにして休みたい、と思うことはいくらでもあるでしょう。そういうときは、それに従う方が、後になってより後悔することは少ないです。そういうときは無理しないほうが良いですよ。後でやればいいや、というのはそういうふうに考えると、悪いことではないのです。
いい一日だった。
今日は、ある女性の方とお会いすることができました。その人も着物が好きな人で、黒色の紬の着物を着て、会いに来てくださいました。本当に、着物で来てくださるとこちらもうれしくなります。
勿論、洋服でも構わないのですが、同じように、着物が好きな方だと、同じ趣味を持っていらっしゃるんだな、なんて考えて、一寸距離が縮まるのでした。その方は、紬が好きなようで、正絹ばかり着ている私とは、趣向が少し違いました。でも、同じ着物なんですから、うれしいことは確かです。
着物の雑談をちょっとして、面白可笑しくではないのですが、お話することができました。たぶん、一期一会で終わってしまうと思いますが、私は、お話することができてよかったと思います。とりあえず、ラインは交換することはできたので、連絡手段は残っていますが、関係が続くかどうか、は、本当に自分だけでは無理な話なので。何か、有るんでしょうね。続くための理由というか、そういう
雰囲気が。
まあ、長く続く人は長く続いて、続かない人は続かないで終わってしまいますが、一期一会、出会いを大切にしたいと思います。
今日は、お話してくれてありがとうございました。
着物の日
昨日の事になりますが、着物を買いに呉服屋さんに行ってきました。理由は、今まで持っていた着物ですと、お端折りが足りないなどサイズが小さいのをごまかして着ていたからです。きちんとした寸法の着物が必要な用事ができたからでした。
そういう訳で呉服屋さんに行き、大量に弦下がっている着物の中から、一寸大きめなものを出し、試着もさせてもらって、色無地の着物を一枚入手できました。それは、ちゃんとした正絹の着物ですが、需要がないからか、1500円しかしませんでした。なので、お稽古用の着物と、アンティーク着物と呼ばれるおしゃれ着を一枚買っていき、合計で三着入手できました。それでも、合計3500円という安さ。洋服なら、一枚買える程度の値段だと思いますが、着物だとそれくらい買えてしまうのです。それだけ需要がないという事でしょうね。
でも、こういう呉服屋さんに行くと、すごくうれしい気持ちになります。なぜか着物はこうやって手に入れることができますし、それに対する知識も得る事が出来ました。なので着物はこれからの人生に大きなターニングポイントになっていくと思います。人生で必要なものは、どんどん情報が入ってくると、いつか治療院の先生から言われたことがありました。そのとおりに考えると、着物は必要なのでしょう。だから、家に来てくれるのです。
だから私も、頑張って、着物に負けてしまわないような、人生を送っていけたらなと思いました。
着物を着ると気持ちが前向きになれます。
とはいえ、着物に感謝!
最近不安がひどい
最近、慢性的な不安にさいなまされます。よくある日常的な不安とはまた違うのでしょうか、テレビを見ると、とにかく不安になるのです。天気予報すら見る気にならなくなってしまいました。どうしてなのかは不詳ですが、不眠になるときもあり、いつまでも起きていて、疲れが取れないままなので、一寸困っております。
テレビは、災害の事とか、色々報道してくれますが、必要のないところまで報道してしまうのはちょっと考えものです。新型コロナウイルスの事が話題になっていますが、感染者がどうのよりも、治す方を報道してもらいたいものです。例えば、こういう薬を開発中だとか。感染者の行動なんてどうでもいいですから。そういうほうには目が向かないのでしょうか。
もう、今年は、オリンピックなんて、やるべきではないですね。こんなにひどい状況なら、やるべきではありません。ロンドンに早く譲り渡してほしいなと思います。
それにしても、テレビは、不安をあおってしまうので、余り好きではありません。情報を得るなら、新聞で十分です。テレビが役に立つというのは、天気予報くらいだと私は思っています。
不安で仕事ができない
昨日と同じことを書いてしまいますが、不安で仕事ができません。不安がとにかくひどく、薬を飲めば何とか対処できますが、切れるとすぐ不安になってしまう。その代わり便秘がひどく、今日は下剤を12錠飲みました。それくらい不安が続いています。
最近は、新型コロナウイルスの事が話題になっていますが、報道のし過ぎなのではないかという気がいたします。まあ確かに、報道するのは大切なんでしょうけど、そればかり報道して、恐怖のあまり日常生活に支障が出てしまうようでは、一寸困りますよね。
不安や不眠などで、もう、疲れてしまいました。自殺も考えます。
今日はテレビを消しました。もう報道は正直嫌です。どうせ、ろくでもない政府と、しつこいほど報道するアナウンサーや、自分の事は棚に上げて偉そうなことばかり言っている評論家の人しか、いないでしょうから。
同じことでスマートフォンを止めてしまいました。もうこれ以上、情報が入ってくるのは嫌だから。情報機関としたら、新聞で十分です。
落ち着いて生活しよう
昨日まで不安がひどく、かなり苦労した一週間になってしまいました。まあ、新型コロナウイルスというモノは恐ろしいものですから、なかなか、不安でたまらなくなってしまうものです。
そういう訳で、テレビを見るのは完璧にやめました。やっぱりこういう時は映像をみるのはだめですね。あと、スマートフォンも、必要がなければメールを送らないでくださいとお願いしました。
それを実行してみると少し落ち着いて生活できるようになりました。今は、パソコンと、新聞だけしか情報を入れるモノはありません。それでは不便ではないかと思われますが、意外にそうでもないのです。天気予報は新聞に書いてあるし、そのほかの情報も入れる必要もないのですから。
本当に、完璧に必要な情報だけで十分です。
不必要な情報はただ、パニックを助長してしまうような気がします。同時に、テレビ番組を作る方には、こういう風になってしまう人もいるのだという事をもう少し意識してほしいものです。