加波子は新宿に来ていた。入ったことのないデパート。目当ての店はそのデパートの一角。高級感溢れる店内は茶色で統一されていた。

 目当てのものはネックレス。亮の誕生日プレゼントだ。ネックレス、それしか思い浮かばなかった。

 亮らしいもの、ふたりらしいもの。そしてそれを加波子は事前に探した。欲しいデザインは決まっていた。それを探し、店内を歩く加波子。

「あった…。」

 店員が加波子に声をかける。

「何かお出ししましょうか?」
「はい、これを…。」

 加波子の欲しいデザインのネックレスは、トップの大きさが二種類あった。加波子は悩み、男性店員に試着してもらったり、店員と話し合ったり。結果、大きいほうを選んだ。箱に入れ、紙袋に入れ、リボンを結んでくれた。箱も袋もリボンも茶色。とても上品だった。

 亮が喜んでくれるかどうか不安だったが、受け取ってさえくれたらそれでいい。加波子はそう思っていた。

 翌日。出社するなり早々。

「今日、古都。付き合って。」

 友江に何か動きがあったのだと、加波子はすぐにわかった。終業、古都。友江はレモンサワーと枝豆。加波子はコーラと塩キャベツ。加波子からではなく、友江はすぐに話し出した。

「今度、また野田さんと会ってくる。」
「え?」
「あれから、私から連絡したの。なんとなく。次は浅草行きましょうって。地元だから案内しますって。」
「え…なんかいい雰囲気…。」
「やっぱりどきどきもときめきもないけど、楽しみだな、とは思う。どう思う?」
「え?私ですか?」
「あんた以外に誰がいるのよ。」
「んー…。」

 加波子は右手にレモンサワー、左手にコーラ、それぞれのジョッキを持って言う。

「先輩が何を求めてるのか、じゃないですか?先輩、前も言ってたじゃないですか、ときめき、も、安心、も。天秤にかけるというよりは、先輩はどっちが欲しいのか。あるいは他の何かが欲しいのか…。」
「求めているものねぇ…考えたこともなかったわ。貸して。」

 加波子はジョッキを友江に返す。友江はレモンサワーを飲む。

「先輩はもうそういう段階に来てるってことですよ。」

 加波子はコーラを飲む。

「あんた賢いわね。」
「一度だけ言われたことあります。そんなことより野田さんと会うこと、楽しみだなって思うんですよね?」
「うーん、なんとなくねー。彼の前だと、気取らなくていいのよ、飾らなくていい。浅草なんて人が多くて賑わう場所でしょ?そんな場所で気取ってなんかいたら疲れるだけじゃない。でも彼ならそれもなく、楽しめるんじゃないかなーって。」
「野田さんだと一緒にいて楽しめる。そう思えることって、すごいことじゃないですか?そういうの、私は大事だと思います。」
「そうかしら?」
「そうですよ。そう簡単に思えることじゃないです。それに私が先輩を知る限り、そんな男性、初めてじゃないですか?」
「そういえば確かに…。で、どうしてあんたが知ってるの?」
「どれだけ先輩と一緒にいると思ってるんですか!」

 暑くもなく寒くもない日々が続く。その日はとてもいい天気だった。

 加波子は亮を部屋に呼ぶ。先日買った亮への誕生日プレゼントを渡すためだ。亮は少し笑みを浮かべながら、そして素直に受け取ってくれた。

「ありがとう。」

 加波子は安心する。加波子にも笑みが。

「開けてみて。」

 きれいなラッピングをゆっくりほどく亮。箱を開けた亮の目が変わる。まるで宝箱を開け、きれいな宝石を見たような目。

 シルバーのネックレス。トップはコインのように丸い。時計のような文字盤、中央には太陽のような柄。

「これね、太陽と希望がモチーフなんだって。私は月と星、亮は太陽。なんかよくない?…ねぇ亮、聞いてる?」

 ずっと見惚れている亮を、加波子は微笑ましく見ていた。贈ってよかったと。

「お前…、こっち来い。」

 どうしたのかと少し不安になりながら近づく加波子。亮は加波子を抱きしめる。何も言わずきつく抱きしめた。

 加波子は気づく。亮が泣いていることに。それはそれは静かに。ほんの少しだけ震え、ほんの少しだけ声が漏れる。

 加波子は驚かなかった。ただ嬉しくて、ただ愛おしくて。

 加波子も亮をきつく抱きしめる。そして改めて加波子は言う。涙目の加波子。
 
「亮、お誕生日おめでとう。」

 亮の胸に太陽が輝き始めた日。
 だんだん寒さが迫る。

 亮の部屋。テーブルの上にはふたつのマグカップ。加波子はコーヒーを冷ます。

「お前も温泉とか興味あるのか?」
「温泉?どうして?」
「そういう季節なんだろ?後輩が今度女と行くって張り切ってた。」

 加波子はコーヒーを冷ますのを止め、考える。

「温泉なんて、考えたこともなかった。ひとりで行くってイメージないし、私友達少ないし。縁がなかった。」

 加波子はコーヒーを飲み始める。それを聞いた亮は考える。

「決めた。温泉にする。」
「何が?」
「お前の誕生日プレゼントだよ。」

 ふたりは羽を伸ばす。東京より、はるかに寒い。しかし湯畑からの湯気は暖かかった。写真を撮る人、足湯に浸かる人、お土産を買う人。沢山の人で賑わっていた。迷子にならぬよう、ふたりはしっかり手をつなぐ。

 湯畑を見る。上から下にゆっくり湯が流れる。湯が落ち溜まった底は、白みがかったエメラルドグリーン。幻想的な色だった。

 宿に向かう。どんな所だろうと加波子はドキドキしながら亮について行く。茶褐色の建物。そこは旅館。落ち着いていて、洒落たモダンな旅館だった。ぎらぎらした余計な装飾がなく、シンプルな内装。

 亮はチェックインをする。部屋に案内される。部屋も無駄のないシンプルな部屋だった。白い壁、茶褐色の柱、新しい畳、活けてある花も花瓶も洒落ていた。そして窓からは、さっき見ていた湯畑が見える。窓際に立つ亮が加波子を呼ぶ。

「見てみろ。」

 加波子は窓に近づく。

「あ、湯畑…。上から見るとこんな感じなんだ…。」

 景色を見ながら加波子はしみじみ思う。自分のために亮が考え、亮が選び、亮が決めた一泊二日のこの旅行。加波子は嬉しくなる。言葉の代わりに亮に抱きついた。

「気に入ったか?」

 加波子は亮の腕の中で頷く。そのまましばらくふたりは抱き合っていた。窓から見える湯畑を見ながら。

 それぞれ温泉に入るふたり。つるつるになる肌に加波子は興奮していた。ふたりは浴衣を着る。そして夕食の時間。ふたりは季節の料理を好きなだけ食べる。おいしい嬉しい時間。

 部屋に戻ると布団が敷いてあった。窓から見えたのはライトアップされた湯畑。昼間とは全く違う別の顔。見事な景色だった。加波子はぼーっと見惚れた後、しっかり目に焼き付けるように見ていた。突然亮が言う。

「風呂入るぞ。用意しろ。」
「え?さっき入ったじゃない。」
「いいから来い。」

 加波子は不思議に思いつつ亮に近づく。亮が戸を開く。

「うわぁ…。」

 そこには小さな露天風呂があった。明るい色の木製の露天風呂。加波子は感激した。

「亮?」
「なんだ?」

 加波子は亮を見る。こぼれるような笑みで。

「ありがとう、亮。」

 亮も微笑みながら加波子の頭をやさしくなでた。

 湯に浸かる亮。亮の胸には太陽が輝いていた。後から加波子が来る。

「遅いぞ。」
「やだ!こっち見ないで!」
「何だよ?」
「恥ずかしいから見ないで!」
「何だよ、今さら。」

 笑う亮。加波子はやっと湯に浸かる。

「あったかーい…。」
「…たまにはいいな、こういうの。」

 亮は言った。加波子は嬉しくなる。加波子も同じことを思っていた。

「うん…。」
「星がきれいだ。」
「ほんとだぁ…。こんな空があるなんて…。」
 加波子は満天の星空を見ていた。体を温めながら。嬉しさに浸りながら。その時、小さな星が流れた。加波子は興奮する。

「ねえ、見た?今の流れ星だよね?ねえ!」

 加波子が亮を見ると、亮も加波子を見ていた。

「ねえ、今見た?流れ星!」
「見てねぇ。お前のこと見てた。」

 どきっとする加波子。亮の顔が近づいてくる。

「待って。」

 亮は加波子をじっと見る。

「ねえ、亮…。」

 加波子は呼び掛けておいて黙り込む。

「なんだ?のぼせたか?」

 加波子は考えていた。ずっと心に秘めていた、本当の自分の気持ち。言うか言わざるべきか。言うなら今か。この街、この状況、湯の熱さが、加波子を後押しした。

「私、亮のこと知りたい。」
「何言ってんだよ、知ってるだろ。お前のぼせたんじゃないか?」
「そうじゃなくて、もっと亮のこと知りたいの。」

 亮は少し考える。

「俺は何も隠してねぇよ。…ただそういう話にならなかっただけだ。」

 その時、亮は気づいた。まさかと。

「…そういう話にならにように、お前がしむけてたのか…?」

 困惑した表情で何も言わない加波子。

「そうなのか?答えろよ!」

 加波子は動かない。亮は加波子の両肩を掴む。

「答えろって言ってるだろ!」

 やっと加波子は動く。ゆっくり頷いた。亮はさらに聞く。

「ずっとか?今までずっとか?!」

 加波子はまたゆっくり頷く。亮は加波子の肩を掴んだままうなだれる。

「お前…。」

 亮は思いっ切り加波子を抱きしめた。湯が飛び、波が立つ。

 加波子は自分の本当の気持ちを伝えられたことに満足していた。心のしこりがなくなっていくように感じる加波子。たとえ亮に何をどう言われても、それを全て受け止めようと思った。

 亮は加波子に今までずっと気を遣わせていたことにショックを受けた。気づかなかった自分を責め、嘆かわしく胸が張り裂けそうになる。そしてそんな加波子が今以上に愛おしくなった。

 ふたり、色んな感情が頭の中で熱くなる。

「…お前に…そんなこと…。」

 亮は何も言えなかった。どんな言葉もいい訳でしかないと思った。加波子は亮の腕をそっとほどく。亮の目を見る。亮を想う、心の深い目で。

「全部だなんて言わない!そんなこと言わない!…ただ、少しずつでいいから、亮…平野亮って人のこと、もっと知っていきたいって…。」

 亮はまた、加波子の両肩を強く掴む。さっきより強く。湯が波立つほど加波子を揺らす。

「それならそう早く言えよ!なんでもっと早く言わねぇんだよ!」

 亮の頬をつたうのは、汗なのか、涙なのか。

「亮…ごめんなさ…。」
「バカ!謝るんじぇねぇよ!」

 ふたりはのぼせる寸前。しかし感情は抑えられない。亮は加波子を激しく抱く。そうすることでしか感情は抑えられなかった。加波子は亮の感情を全て吸収した。狭くて小さな露天風呂の中。ぶつかり合った感情は、弾けることなくひとつになり、ゆっくり湯へと溶けていった。

 ふたりはのぼせながら部屋に入る。浴衣を着る。加波子は電気を消し、布団に入る。亮も同じ布団に入る。ふたりは向き合う。手を顔の前で握り合う。

「…さっきは…悪かった…。」
「ううん、嬉しかった。」
「もう俺に言いたいことはないか?」
「ある。」
「何だ、何でも言え。もう隠すな。」
「亮、ありがとう。最高の誕生日プレゼント。」
「気に入ってくれたか?」
「うん。すごく。」

 加波子は微笑む。暗い部屋の中。微笑んだ加波子の目が涙で潤んでいるのがわかった。

「ありがとう、亮…。」

 亮は加波子をやさしく包む。狭い布団の中、しばらく亮は加波子の頭をなでていた。加波子は目を閉じ、そのやさしさを感じていた。

 そしてふたりは目を合わせ、キスをした。亮が加波子の浴衣を肩の下まで降ろすと、その肩は冷たかった。

「お前、寒いのか?」
「すぐ冷えちゃうの、ちゃんと暖まってもすぐ…。」

 亮は思い出していた。これまでの加波子の冷えた体を。亮は慌ててエアコンの温度を上げようとしたが、加波子は止める。

「いいの、このままで。」
「何でだよ、お前…。」
「亮の…熱だけでいい…。」

 亮は加波子に応える。

「寒くなったらすぐに言え。すぐあっためてやる…。」

 そう言った後、亮は加波子から少し目をそらす。そして改めて加波子を見つめる。

「亮…?」
「加波子…。」
「なに…?」
「もう俺に、何も隠すな…。」

 露天風呂の時とは違う、しなやかなやさしい愛で包み包まれる。加波子の体に、亮の熱が伝わる。

 亮の熱が、加波子にとって一番の誕生日プレゼント。
 年の瀬。街は賑わって大騒ぎしている。

 終業、古都。友江から。今日はどんな話だろうと加波子は思っていた。

「カナ。」
「なんですか?」
「私、結婚する。野田さんと。」

 加波子は気が動転する。あれから友江は、何度か野田とデートを重ねていた話は聞いていたが、結婚の話題は出ていなかった。

「え?!結婚?!ほんとですか??」

 冷静な友江。

「この前、正式にプロポーズされた。」
「プロポーズって、いつの間にそんな関係に??」

 友江は淡々と話す。

「んーいつかしら。会う毎にって感じかしらねー。自然と…そう彼とはいつも自然だった。デートの日時や場所を決めるのも、デート中の会話、料理の注文、移動、次のデートへの約束も…全部自然だった。ラインや電話なんかのタイミングや内容もそう。だから結婚の話も自然とね。」

 加波子からも自然と笑みが出る。

「そうだったんですか!」
「一度言ったことがあるの、野田さんに。」
「何をですか?」
「彼、私にいちいち優しいのよ。だから、そんなに私に気を遣わないでって言ったの。そしたら彼、『友江さんを想うとつい…』だなんて言うのよ?」

 ビールを飲む友江。野田の気持ちがなんとなくわかる加波子。

「…そういうのは、素直に受け取ってほしいものだと思いますよ?」
「そうかしら?」
「そうですよ。それで先輩が甘えてくれたりしたら、野田さんすごく嬉しいんじゃないですかね。」

 友江は加波子をじっと見る。

「あんた、なんでそんなに野田さんの気持ちがわかるの?」
「なんとなくですよ!なんとなく!」

 慌ててジンジャエールを飲む加波子。

「…今思うと、その言葉が決め手だったかもしれないわね…。それと、彼の持つ安心感。今までそんな人いなかったわ。」
「先輩。今、すごくいい顔してますよ?…やっと出会えたんですね、先輩の魅力がわかる人…。嬉しいな…。」

 目に涙をじんわりさせる加波子。加波子は友江の隣の席に座り、友江に抱きつく。

「先輩!おめでとうございます!」
「やだ、ちょっと、恥ずかしいからやめてよ!」
「やめません!嬉しいからやめません!あ、先輩!乾杯しましょ!」

 友江の結婚報告を受けた後、街はクリスマスムードに包まれていた。

 その年の加波子のクリスマスは暖かかった。加波子の初めての暖かいクリスマス。

 クリスマス・イヴ。加波子は亮を部屋に招き、ふたりきりのクリスマスパーティを開いた。

 加波子は、亮の誕生日には作れなかったケーキを作った。デコレーションがキラキラしている。

「なんだか、やたら派手なケーキだな。」
「豪華って言ってよ!」

 加波子はシャンメリーと事前に用意しておいたシャンパングラスをふたつ持ってきて、ふたりで乾杯をした。

 そしてキラキラしたケーキをふたりで食べる。

「おいしい?」
「うん、うまい。」
「よかった!」
「見た目が派手だったから味が心配だったけど、うまい。」
「亮ひどい!」

 ふたりきりのパーティは続く。

「亮にね、プレゼントがあるの。」
「プレゼント?」
「うん。亮のネックレスを買いに行った時、同じデパートの違うお店で買ったの。亮に似合うかなーって。」

 加波子はクローゼットから、フェイクだがレザーの袋を持ってきた。

「ネックレスって、随分前じゃねぇか。」
「誕生日にはネックレスだけ渡したかったから、これは別の機会にって思ってたら、今になっちゃった。はい、受け取って。」

 亮はゆっくり受け取る。その時もまた、少し笑みを浮かべながら。

「ありがとう。」
「いいえ。」
「…中、見てもいいか?」
「うん。どうぞ。」

 中にはニットが入っていた。亮は広げる。表はボーダー、裏は無地。上質なニットだった。加波子はそのニットを亮に当ててみる。

「サイズ、大丈夫そうだね。よかった。」
「工場に着ていくにはもったいねぇな…。」
「やだ!いっぱい着て!」
「お前と会う時に着るよ。」

 加波子はドキッとする。その言葉が嬉しかった。亮のおもいやり、亮のらしさ。大切にする、そう思ってくれたのだとわかったからだ。

「俺は…プレゼントなんて用意してねぇよ。」
「私がそんなもの必要だと思ってるの?」

 きょとんとする加波子に、亮は加波子の頭をポンポンとたたいた。ふたりは笑う。

 パーティは続く。ふたりで笑い、その笑顔が部屋を明るくし、暖かくしていた。

「そういえば俺、手作りのケーキなんて食うの初めてかも。」
「そうなの?」
「ああ。」
「…嬉しい?」
「嬉しくなきゃ食わねぇよ。」
「…じゃあ、また作るね。」
「次は地味なケーキでいいからな。」
「今日はクリスマスケーキだったからちょっと派手にしただけ!豪華だって言ってよね!」

 日付が変わり、25日。クリスマスになった。

「亮、12時になった。クリスマスだよ。」
「あー、そっか。」
「亮?」
「ん?」
「メリークリスマス。」

 亮は『メリークリスマス』という言葉を口にするのは恥ずかしく、その代わり加波子のおでこにキスをした。加波子は嬉しそうに笑う。

 加波子は亮の、亮は加波子の、それぞれのネックレスに触れ、目を見つめ、愛し合ったクリスマス。

 そんなふたりのクリスマス。
 珍しく風が強く寒い日。

 加波子の部屋に来た亮の手の甲に、切り傷があるのを加波子は見た。傷は小さいが切れ目が太い。まだかさぶたになっておらず、血の赤が濃かった。

「どうしたの?この傷。」
「工場でできた。」
「どうして放っておくの?痛いでしょ?バイ菌も入るかもしれないし…。」
「なんともねぇよ。」

 加波子は亮を布団に座らせ、いつかの日のように、クローゼットから救急箱を出そうとした。

「あれ?どこ置いたっけ。」

 救急箱が見当たらない。手前の荷物を少しクローゼットの外に出す。

 その時、大きな紙袋を加波子は出してしまった。そして加波子の腕に当たり、中身が少し出てしまう。それは全国の刑務所に出し、返ってきた手紙だった。

「あ!」

 それはもちろん亮にも見覚えのあるもの。加波子は慌ててしまおうとする。

「何だよ、それ。」
「何でもない。」

 加波子の言動に亮は不快に思った。

「何でもなくないだろ。」

 亮は加波子に近づき、紙袋の中を見る。同じ封筒の手紙がぎっしり入っていた。亮はいくつか封筒を手に取る。宛名はどれも『平野 亮』だった。加波子は捨てることなくとっておいたのだ。良くも悪くも、今となっては想い出のもの。

「何だよ、これ…。」
「何でもないってば!返して…。」

 加波子の言うことなど聞かず、亮は勢いよく紙袋を持ち上げ逆さにする。手紙がどさっと落ち散乱した。手紙が床に広がる。住所はばらばらだが、全て亮宛ての手紙だった。

「どういうことだよ。」

 もう随分前のこと。話すことなんてないだろうと思っていた昔話。だけど加波子は正直に説明する。亮に隠し事はもうしない。

「亮がいなくなった時、亮の居場所が知りたくて、全ヶ所の刑務所に手紙を出したの。宛先不明ってどんどん返ってきた。それがこの封筒。でも一ヶ所だけ返ってこない所があった。」
「お前それで俺の場所がわかったのか?」

 加波子は何も言わず頷く。そして手紙を紙袋に入れ戻す。救急箱が見つかった。

「亮、手出して。」

 加波子は傷の消毒をし、ばんそうこうを張った。亮は布団に戻り、救急箱と紙袋をクローゼットにしまう加波子を見ていた。

「来い。」

 加波子は少しうつむきながら亮の左側に座る。亮は話し出した。その時のことを。

「このアパートからの帰り道、同じ組だった男に偶然会ったんだ。本当に偶然のことだった。俺はそのまま拉致られたんだ。」
「…だから連絡が取れなかったの?」
「そうだ。ちょうどその頃、組では何か事件を起こしてたらしい。どうしても騒ぎ立てられたくないような何かを。だから、誰か逮捕させて別の事件を起こしてやるから、この件はなかったことにしてくれとでも、組とマル暴は口約束でもしたんだろう。」
「まるぼう?」
「暴力団専門の刑事だ。」

 加波子は理解を急いだ。

「それで俺は逮捕された。適当にでっち上げた事件で。逮捕させるのも組にとっては誰でもよかったんだ。ただそれが俺だった。それだけだ。…今の説明で、わかったか?」

 理解を急いでいた加波子は考えた。

「…えっと、隠したい事件を隠すために、他の事件を代わりに…。それが亮の事件…。でも…どうして刑事の人間と約束なんかできるの?」
「調子のいいマル暴もいるんだよ。金と情報を交換したり。時にはマル暴が組を使う。」

 加波子にわかったこと。

「じゃあ亮は…、ただ使われたの…?」
「そうだ。そんなの腐るほどある話だ。」

 亮の左手を強く握る加波子。

 工場の事務員が説明してくれた話を思い出す。亮が逮捕されてから、刑務所に入ってから、それぞれの場所でどんなことが行われ、どんな生活を送っていたのか。加波子はわかる範囲で得た情報を思い出していた。怖くなった加波子。目をぎゅっと閉じ下を向く。

「…大丈夫か?」
「大丈夫…。ただ、亮の気持ちを考えたら、ちょっと怖くなって…。」
「…仕方ねぇよ…。」

 加波子は亮の左手を両手で包む。

「ほら。」
「なんだ?」
「やっぱり亮の手は汚れてなかった。」

 自分が戻ってきた時のことを、亮は思い出した。

「ああ…そんなこと言ってくれたな…。」
「ありがとう、亮。話してくれて。」
「今、言いたいと思ったんだ。」
「今、まだ言いたいことない?」
「ある。」
「何?何でも言って。」
「ありがとう、加波子。」
 年末。街は年を明ける準備をしている。そんな時。突然と。

「カナ!今週末、空けといて!」

 休日。加波子は友江と会った。

 長年同じ職場にいたが、平日以外、会うのは初めてだった。少し緊張し、少し照れくさい加波子と、いつも通りの友江。そんな友江は、左手の薬指に一際輝く指輪をしていた。

 向かったのは銀座。寒かったこともあり、ほぼデパート巡りだった。友江は店に入り、物色するだけ物色し、結局何も買わずに店を出る。それに付き合う加波子。ずっと笑い、とても楽しかった。そして二人は話す、今まで行った友江の合コンの話、会社の愚痴、野田の話。話は尽きなかった。

 そして二人はビヤレストランに行く。ビールが好きな友江らしいチョイスだ。天井が高く、柱にぶらさがる丸い電球が印象的だった。

「歩いたししゃべったし、ビールが美味しいわー!」
「歩きましたねー。で、決まったんですか?入籍日。」
「4月の私の誕生日にしようかって。時期的にもちょうどいいだろうし、彼の希望でもあってね。」
「うわー!いいですねー!素敵じゃないですか!」

 興奮する加波子。そんな加波子を、親友のように姉のように見る友江。

「あんたはどうなの?」
「え?何がですか?」
「あんたのほうはどうなってるのかって聞いてるの。」
「私は何もないですよー。」

 いつものように軽く流す加波子。

「嘘。」

 友江はいつもと違った。隙がない。ドキッとする加波子。

「嘘じゃないですよ?」
「カナ、今までそうやって私に何度嘘ついた?」
「だから嘘なんてついてませんってば。」

 いつものように流してほしいと思う加波子。その時ばかりは流さない友江。

「カナ、嘘をつくのはもう止めなさい。あんたが今までついてきた嘘、全部嘘だってわかってたから。」
「先輩…。」
「あんたがそれでいいなら、それでいいもんなんだって思ってきたの、今までずっと。でもねカナ。あんた、楽しそうだった、手つないで。」
「え…?」

 動きが止まる加波子。耳を疑った。まさか友江が知っていたとは。

「あんたんちの近くに用があった時。暗いし遠いし後ろからしか見えなかったけど。でもあんたの笑顔ははっきり見えた。楽しそうだった、すっごく楽しそうだった。」
「先輩、いつから知ってたんですか…。」
「えっと…暑くて半袖着てた覚えがあるから、夏くらいかしら。」
「そんな前から…。」

 そんな前から友江は加波子を見守り続けていたのだ。嘘も聞き流し、冗談も言ってきた。

「どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか?」
「言ったら、あんた何か変わった?」

 また加波子の動きが止まる。ひどく痛く突き刺さる言葉。

「…あんたのことだから、きっと白を切ってたはずよ。それにねぇ、人に嘘をつくってことは自分にも嘘をついてるってことよ。」
「じゃあ…なんで今になって言うんですか?」
「私、会社辞めることにしたのよ。今年度末で。」
「…え…?」
「だから今日、こうやって会ったの。でもまさか、本当に自分が寿退社するなんて思ってなかったわー。」
「そんな…。」
「初めは辞めるつもりなんてなかったんだけど、結婚を機に、一度家庭に入ろうかなってね。」

 ショックが重なり、目を閉じうつむく加波子。その加波子の腕を、友江は掴む。指輪の光る手で。加波子は友江を見る。

「私は、あんたのおかげで幸せになれたの!幸せ掴めたの!いつもあんたに励まされて、救われてきたのよ!だからあんたにも幸せになって欲しいの!あんたには本当に感謝してるわ!必ず幸せになるのよ!わかったわね?!」

 加波子は涙をこらえていた。そして小さく返事をする。

「…はい。」
「はい、は大きく!」
「はい…!」
「よろしい!」

 料理が運ばれてくる。再び会話が弾み出す。しかし友江は、加波子と手をつないでいた相手、亮のことは一切何も聞いてこなかった。きっと友江は心配していたはずだ。聞きたいことは山程あったに違いない。しかし、友江の思いやり。加波子はありがたいと思った。

「あんたとこうして話していられるのも、どんどん少なくなるわねぇ。」
「そうですね…。でも大丈夫です、先輩。私は一人には慣れてますし、お局もしっかり引き継ぎますし。だから先輩は安心して幸せになってください。」
「あんたのそういうところも心配なのよ。」
「え?」
「あんたは何でも一人で抱え込む。でも…もう、大丈夫よね?」

 加波子は下を向く。そして声を少し震わす。

「…なんか先輩、私より私のことわかってるみたい…。」
「当たり前じゃない。どれだけ一緒にいたと思ってるのよ。それに私だってそんなにバカじゃないわ。」
「…そんな人、今までいませんでした…。絶対…幸せになってくださいね…。」

 下を向く加波子から涙が一粒落ちた。それを見た友江も涙腺が緩む。

「あんたに、いいとこ教えてあげる。」

 店を出た後少し歩き、歩道の途中で友江が止まる。

「?どうしたんですか?」
「見て。」

 友江は指をさす。歩道にひっそりと、神社の名前が彫られた石の柱がある。

「神社?どこにですか??」
「ここを進めばわかる。あんたもお願いしてきなさい。」

 そう友江が言うと、加波子の背中を押した。そこはただのビルとビルの隙間。薄暗く、少し怖いくらいだった。加波子は意味のわからないまま友江の言われた通り、その細い道を進む。まるで迷路のようだった。そこで目にしたのは、それはそれは小さな神社だった。

「ほんとにあった…。」

 加波子は関心と驚き。

 しかし今その時の加波子に願い事などなかった。昨日でも明日でもない、今、亮と一緒にいることができれば、それだけでいいと思っていた。亮の笑顔が浮かぶ。だから加波子は何も願うことなく、感謝だけをし、友江のもとに戻った。

「行ってきました!」
「よくできました!」

 加波子と友江のデートは続く。
 そして大晦日を迎える。

 加波子の部屋。ふたりは年越しそばを食べた後の布団の中。息がまだ落ち着いていないにもかかわらず加波子は言う。

「亮!テレビつけて!」
「何だよ、急に…。」

 亮は加波子に従い、めんどくさそうにテレビをつける。まだ年は越していなかった。それがわかった加波子は安心する。

「よかった、間に合った…。」
「なに安心してんだよ。その割には…。」
「なに?」

 何もわかっていない加波子。呆れながら亮は笑う。

「何でもねぇよ。」

 そして年が明ける。新しい年になった。

 ふたりは同じ布団の中、一緒に年を越した。

「亮?」
「ん?」
「亮、明けましておめでとう。」
「おめでとう。」
「今年もよろしく…って、言っていいかな…。」

 控え目に言う加波子。そんな加波子がとても愛らしく思った亮。亮は加波子の頭をポンポンとやさしくたたいた。笑顔になる加波子。次の瞬間。

「亮!初詣行こ!」
「は?!」
「近くに小さいけど神社があるの!行こ!」
「明日でいーだろ…。」
「もう明日になった!早く服着て!」

 亮は加波子のなすがままだった。加波子の言う通り、近くに小さな神社があった。人も何人かいる。

 ふたりはお参りをする。加波子は心を静める。そして願う。願い事は決まっていた。亮のことだった。

 『亮が無事で、怖がらせるものが何もなくて、平穏に過ごせますように』

 加波子の願い事が終わり、振り返ると亮は既に待っていた。

「寒いから帰るぞ。」

 お参りからふたり手をつないで帰る帰り道。

「お前、何お願いしてたんだ?随分長かったな。」
「内緒。でも…亮が教えてくれたら教えてあげる。」
「じゃあ俺も内緒。」
「けち!教えてよ!」
「教えねぇよ。それより早く帰ろうぜ。」

 アパートに帰る。部屋は暖かいが、体はすぐには温まらない。

「お前、シャワーは?」
「もう少し体が温まったら浴びる。亮、先いいよ。」

 亮はシャワーを浴びながら、さっき願った自分の願い事を噛みしめていた。

 亮が部屋に戻ると、加波子は床に横になっていた。寝てしまったようだ。亮はしゃがみ、そっと声をかける。

「おい、起きろ。」

 亮は加波子の肩を少し揺する。

「起きろ、風邪ひくぞ。」

 加波子は反応しない。

「はしゃぎすぎだ、バカ。」

 亮は加波子の前に座る。そして呟く。

「…さっき願ったんだ…お前を守り抜けますようにって。」

 亮は加波子の髪に触れる。誓うように囁く。

「守るよ、お前のこと。必ず。だから加波子…。」

 亮は加波子が起きないよう、そっと頭にキスをする。

「今年もよろしく…。」

 加波子はすやすや眠っている。
 2月。1年で一番寒い時期。

 ある平日の夜、亮は寝ていたが途中で起きてしまい、それから眠れなくなってしまった。加波子は寝ている時間。電話はしなかった。気分転換にと、寒かったが亮はコンビニへ行った。

 その帰り道。広く開けた道路。さすがに寒く、早く帰ろうと亮は歩いていた。

 その先、遠くに真っ黒に輝く車が2台止まっているのが見えた。周りには人1人、何も1台も通っていなかった。そこには亮しかいなかった。

 そのたったその一人の亮も、奴等には疎ましかったのだろう。亮と車の距離は遠かった。しかし車を通り越した亮に後ろから男が2人近づく。

 そして亮は腕を掴まれる。1人が左腕を、もう1人が右腕を。亮の手からコンビニの袋が地面に落ちる。これは奴等だと亮はすぐわかった。

 亮は車に連れていかれる。2台あるうちの前の車の窓が半分開く。暗い上、顔をはっきりとは見せない。しかし立派な黒いスーツだけは見えた。亮は話し掛けられる。

「ちょうどよかった。君ちょっと手伝ってくれないか?」

 亮は腕を掴まれたまま。後ろの車のトランクが開いた。青いビニールシートに包まれ、紐とガムテープで頑丈に縛られた何かが窮屈そうに入っていた。人の死体だ。亮は見てしまった。それを川に捨てようとしていたところに、亮は出くわしてしまったのだ。

 突然スーツの男が亮を呼ぶ。

「君はどこの組かな?」

 さすが闇の人間。スーツの男は亮の左手の指の繋ぎ目をすぐ見つけた。亮は答えるはずもない。

「まぁいい。それなら話が早い。」

 スーツの男は丸山と名乗った。丸山はこの辺では一番大きな組のトップの側近だと言う。そのトップが最近殺され、犯人がわからないと。おそらくトップを殺ったのは丸山だと、亮にもそれくらいは簡単にわかった。

「よかったらうちに来ないか?」

 亮は答えない。何も言わない。

「…返事がないということは、どういうことかわかるだろう?」

 亮は脅された。

 その時そのまま亮は帰されたが、奴等に弱味を握られてしまった。そしてそんな人間がどうなることか、亮は知っている。

 翌日。昼の休憩時間。加波子のスマホが鳴る。亮からの着信だった。休憩時間に電話があったのは初めてだった。加波子は動揺する。向かったのは誰もいない会議室。

「亮?どうしたの?」
「あぁ、お疲れ。」
「あ、お疲れ様…。ねぇどうしたの?何かあったの?」
「お前、何食ってんのかなーって。」
「それだけ?」
「それだけ。」
「ほんとに?」
「ほんとに。」

 亮は加波子の声を聞き、安心を感じ平常心を取り戻したかった。亮の声の後ろからは工場の音がする。

「それならいいけど…。」
「何だよ、迷惑だったか?」
「そんな訳ないでしょ?ただびっくりして…。」
「お前の声聞けたから午後も頑張れる。」
「工場で何かあったの?」
「ちょっとしたトラブルだ。」
「それで電話を?」
「まぁな。」

 加波子は安堵する。しかし初めての休憩時間の電話。素直じゃない亮に腹が立った。

「もう!たまには素直になってよね!心配するでしょ?」
「だから電話した。」

 さらに安堵する加波子。そして嬉しくなった。素直じゃない、ぶっきらぼう、そんな亮が恋しくなった。誰もいない会議室で加波子は囁く。

「亮?」
「なんだ?文句か?」
「早く会いたい。」
「すぐ会える。」
「今すぐ会いたい。」
「バカ。お前は相変わらず子供だな。どんどんわがままになってないか?」

 ふたりはやっと笑った。

「早く…会いに来てね。」
「行くから待ってろ。」

 電話を切った亮は、やり場のない悲しい目をしていた。亮は初めて加波子に嘘をついた。おぞましい罪悪感がした上、それでもなお恐怖心のほうがはるかに上回っていた。
 あの日から奴等が頻繁に亮に会いに来るようになった。組の下っ端の適当な奴等が。

 亮を消すことくらい奴等にとっては簡単なこと。しかし奴等は亮を脅すことを楽しむため、そして亮が逃げないよう見張るため、亮に会いに来た。

 金曜の夜。その日は亮が加波子のアパートに来る予定だった。しかし亮は来ない。いくら待っても来ない。電話もつながらない。ラインも既読にならない。もちろん、亮からの連絡はない。

 さすがに加波子は不安になる。加波子は待つ。寝ない。眠れない。加波子はベッドの上、ひとりうずくまる。

 それは夜明け前。ドスン、ドスン、と、重い音がアパートに響く。亮の階段を上る音だと加波子はすぐにわかる。急いで玄関のドアを開ける。

「亮?」

 加波子は今まで見たことのない亮の目を見た。暗いうつろな目。ふたりは部屋に入り、亮は加波子に抱きつく。そしてあることに加波子はすぐに気づく。

「亮、お酒飲んだ…?」

 亮からはアルコールのにおいがした。亮は加波子に持たれかかっている。

「…少し…。」
「少しじゃないでしょ?…誰と飲んでたの?」
「…工場の連中…。」
「こんな時間まで?」

 亮は何も答えず布団に加波子を押し倒す。

「亮、聞いてる?」

 亮は暗いうつろの目のままだ。次の瞬間、亮は加波子に抱きつき、加波子の耳元で言う。

「加波子…会いたかった…。会いたかった…加波子…。」

 亮は普段、加波子の名を軽々しく呼ばない。会いたいなどとも亮は言う人ではない。加波子は怖くなった。

「亮、しっかりして…。」

 亮は服を脱ぎだす。そしてまた加波子に抱きつく。

「…加波子…寒い…加波子…。」

 加波子は耳を塞ぎたくなる。亮は加波子の体を触り始める。加波子は抵抗するが亮の手は止まらない。加波子の抵抗は無駄だった。

 亮はぐったり眠る。加波子は初めて亮の愛のない愛を感じた。亮の恐怖を感じた。同じ布団の中で。

 週が明けた。加波子は心待ちにしていた。昼休み、誰もいない会議室。加波子は航に電話をする。事実を確かめるため。

「もしもし、加波子です。」
「おーなんだよ、亮なら今…」
「違うんです。航さんに聞きたいことがあるんです。」
「なんだよ、急に。どうしたんだよ。」
「先週の金曜日、工場のみなさんで飲みに行きましたか?」
「金曜?金曜なんていつもみんなさっさと帰るよ。あいつだって帰ってたぞ。それにうちの工場の連中で飲みに行くなんてことも、まずねぇな。それがどうした。」
「その日、亮がお酒を飲んで帰ってきたんです、夜明け前に。少しだけ、工場の人達とって…。」
「…あいつが酒を?」
「はい…。」

 航も驚いていた。

「人が変わったかのようで、すごく怖くて…。航さん、何か知りませんか?」
「いや、俺は何も…。」

 航は亮を見る。その亮はいつもと変わらない。

「何も変わったように見えねぇけどな…。あんた…あいつのこと見張っといたほうがいいんじゃねぇか?」

 加波子は航の顔が曇ったのがわかった。

「何か気づいたことがあれば連絡する。」
「はい、ありがとうございます…。」

 それからの亮はいつも通りの亮だった。亮の部屋では、亮がコーヒーを入れ、ふたりで温まる。加波子の部屋では、ご飯を食べ、笑い合い、愛し合う。愛のある愛を。亮の笑顔、亮のらしさ。変わったことはひとつもなかった。

 平日、夜。加波子はベッドの上。加波子の電話が鳴る。航からだ。怖くなる加波子。でも出ない訳にはいかない。

「もしもし。」
「おい、あんた昨日、亮と会ったか?」
「いえ、会ってないです。何かあったんですか?」
「あいつ今朝、ひどい二日酔いのまま出勤してきて、さすがに社長もキレてすぐに帰らされてたよ。」
「じゃあ、昨日も…。」

 悪い報告の電話だった。不安と恐怖が加波子を襲う。

「あいつが一人で飲んでるとは思えない。何かあって誰かと会って…。」
「何って、誰かって、何なんですか…?」
「いや、わかんねぇけど…。最近あいつに変わったことはなかったか?」
「…いえ、何も…。」
「…あんたのことだから、無茶はするなよ。それから警戒しろ。」
「警戒って、大袈裟じゃないですか?」
「用心しろってことだよ。今のこの状態で、いつ何が起きるかなんてわかんねぇだろ。」

 その言葉に加波子は胸を打たれた。今のこの生活が、当たり前ではないことに気がつく。平和ボケにどっぷり浸かり過ぎていた。自己嫌悪。浅はかだった。

「何かあってからじゃ遅い。あんたは自分の身の安全を第一に考えるんだ。余計なことはするな。いいな。また何かあったら連絡する。」

 加波子はベッドに倒れこみ、うずくまる。恐怖が襲ってくる。誰にもどうにもできない恐怖。加波子は恐怖と戦う。

 翌日、加波子はスマホのショップに来ていた。なるべく小さく目立たないスマホであれば何でもよかった。選び、契約し、購入した。アパートに帰り、初期設定、その他諸々の設定を完璧にし、クローゼットにしまう。

 週末、亮が加波子の部屋に来る。いつもの亮だ。安心も心配もする加波子。亮の笑顔が加波子の胸を苦しくさせた。

 亮がシャワーを浴びている間、加波子はクローゼットにしまってあったスマホを、亮のダウンジャケットの内ポケットにしまった。何事もありませんようにと願う加波子。何かあったらどうしようと懸念する加波子。加波子は自分自身とも戦っていた。

 亮がシャワーから戻ってくる。床に座っている加波子は亮を見上げ、とろんとした目で見つめる。

「どうした?」

 加波子の前にしゃがむ亮。何も言わず加波子は亮に抱きつく。

「どうしたんだよ。」
「なんでもない。ちょっとこうしてたい。」
「世話の焼ける子供だな、お前は。」

 そう言い亮は加波子の前に座り込み、亮はやさしく加波子を包んだ。