葵お婆ちゃんも私と同じく、思い出が残る家を守りたかったのかもしれない。介護士の派遣は、おそらく家族に経済的な負担をかけさせないようにするためだろう。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「すみません、長々と話してしまって。あの、しばらく、私が祖母の家に住むので、お店にも訪問させていただきますね」
「あ、そう、なのですね」
なんでも、お孫さんは最近離婚したようで、新居を探していたらしい。葵お婆ちゃんのことも心配なので、一緒に住もうかと考えていた矢先の事件だったようだ。
「祖母が帰ってきても、私が支えますので」
その言葉を聞いて、安堵する。よかった。葵お婆ちゃんとマリーちゃんの暮らしを、見守ってくれる人ができて。
お孫さんは会釈して帰っていく。その後ろ姿を、つごもりさんと見送った。
その瞬間、手のひらにある満月大神の紋章が光った。
「うわっ! な、何?」
「お婆ちゃんの願いが、叶ったから」
「そ、そうなのですね」
葵お婆ちゃんの願いは、“この町で、マリーと楽しく暮らすこと”。
元気になったら、お孫さんと共に仲良く過ごしてほしい。
空を見上げると、先ほどまで太陽を覆っていた雲がどこかへ流れていった。
気持ちがいい晴天だ。
残りの営業時間も頑張ろうと、気合いを入れ直したのだった。
◇◇◇
その日の夜――月に一度の新月の晩となった。
もちづき君が、姿を現せなくなる夜である。
四月の新月はなんとも思わなかったのに、五月の新月は少しだけソワソワする。
私は意識していないうちに、満月大神の存在を心の支えに思っていたのかもしれない。昼間は漫画を読みながらテレビを見るというぐうたらぶりを発揮し、狛犬カフェは一切手伝わないのに……。
本当に、不思議な存在だ。
夜間は月の満ち欠けによって、姿を変える。
月が細ければ細いほど、幼い姿となる。
新月の前日は、赤ちゃんになっていた。昼間のぐうたら美少年とは違い、精神はそのときの姿に引っ張られる。
つまり、赤ちゃんとなった満月大神は、夜泣きをする上に「だあだあ」と言いながら無邪気に笑う、愛らしい存在となってしまうのだ。
主に、良夜さんが面倒を見てくれる。赤ちゃんを抱き、上手にあやす姿は“おかん”そのものだ。
満月の晩は、お爺ちゃんの姿となる。まるで、浦島太郎みたいに、髪の毛が真っ白になり、性格も穏やかになるのだ。
ただ、若者の姿のときと同じように動きたがるので、つごもりさんが面倒を見ている。
と、このように、満月大神はさまざまな姿を見せてくれるのだ。
毎晩のように振り回されているからか、新月の晩はなんだか寂しさを感じてしまう。
ひんやりと、冷たい風を感じる。五月なのに、夜は冷える。
庭に繋がる、掃き出し窓が開いていた。
縁側に、白い犬の後ろ姿を発見する。良夜さんだ。
月のない空を、ぼんやり眺めていた。
「良夜さん、まだ、寝ないのですか?」
『ええ……』
振り返らずに、答える。後ろ姿は、なんだか寂しそうだ。
「明日は繊月なので、また赤ちゃんの姿ですね」
繊月というのは、繊維のように細い月が浮かぶ晩である。この前、良夜さんが教えてくれた。月にはそれぞれ、名前があるようだ。
「あの、満月大神の話を、聞かせていただけますか?」
夜は長い。月のない夜空を見上げるより、何かしていたほうがいいだろう。
『何を、話せばいいのですか?』
「では、良夜さんと満月大神の出会いを、聞かせてください」
『仕方がないですね』
そう言いながらも、嬉しそうに、生き生きと話し始める。
良夜さんは満月大神のことを、心から慕っているのだなと、思った日の話であった。
田植えのシーズンが終わったら、待っていましたとばかりに梅雨が訪れる。
じめじめとしていて、正直に言ったら過ごしにくい。
今日ももちづき君が、居間で叫ぶ。
「こらー! 良夜ー! ここに洗濯物を干すなー! 湿気ですじめじめになっているぞー!」
その苦情に、良夜さんは頭を下げて謝罪する。
「申し訳ありません、満月大神。エアコンがあるのは、お店とここの部屋だけゆえ」
そうなのだ。祖母の家に、エアコンは二個しかない。あとの部屋は、夏は扇風機、冬はストーブを使い、暑さや寒さを耐え忍んでいる。
洗濯物を干し終えた良夜さんは、エアコンの“除湿モード”にし、満足げな表情で部屋を去る。もちづき君が睨んでいたが、気にする様子はない。さすが、この家の“おかん”である。なんというか、強い。
もちづき君は、うんざりとした様子でぼやいていた。
「雨は、嫌い。じめじめするし、うるさい」
たまに降る雨と、雨音は好きだが、こう毎日毎日雨だとうんざりしてしまう気持ちは、私も大いに理解できる。
加えて、雨だとお客さんの足も遠退いてしまう。晴天の半分以下だろうか。お年寄りが多く暮らす町なので、仕方がない話であるが。
「花乃、今日のおやつを、作ってくれ」
「はい、かしこまりました」
その言葉をきっかけに、私の一日が始まる。
今日はじめっとしているので、ひんやりのど越しがいいお菓子を作ろう。
つごもりさんがやってきて、ぽそぽそと小さな声で話しかけてくる。
「お菓子、作る?」
「はい。今日は水ようかんを作ろうかと」
つごもりさんが、小首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「ようかんと、水ようかん、どう、違う?」
「簡単に言ったら、柔らかさ、ですかね」
「ああ……確かに、ようかんは固くて、水ようかんは柔らかい」
「そうなんです」
使う材料はまったく同じなのだが、ようかんと水ようかんは分量と作り方が異なる。
「まずようかんは、あんこを煮詰め、練りながら仕上げていくんです」
すると、どっしりしていて、濃厚な味わいに仕上がる。
「水ようかんは、寒天の量を減らす代わりに、水を増やしたものになります。すると、さっぱりとした仕上がりになるんです」
「なるほど」
寒い日はようかんと温かいお茶をまったり食べたいが、暑い日は冷えた麦茶と水ようかんをツルリと食べたい。そんなわけで、本日のお菓子は水ようかんに決定したのだ。
「では、作りましょうか!」
つごもりさんは、コクンと頷いてくれた。
まず、鍋に水を張り、粉寒天を加えてくるくる混ぜる。鍋に火をかけて、途中で砂糖を入れる。ゆっくりゆっくりと、溶かしていくのだ。
この作業は、つごもりさんに任せておく。
その間に、昨日仕込んでおいたこしあんを温め、塩を加えて混ぜる。これを、粉寒天の鍋に入れて、丁寧に溶かしていく。
こしあんが溶けたら火を止め、水を張った大きなボウルに鍋を入れて冷やす。
ここでしっかり冷やしておかないと、固めるときに分離してしまうのだ。カップにひとつひとつ流し込み、一時間程度冷やしたら完成だ。
十一時の開店に間に合いそうで、ホッと安堵の息をはく。
一時間後、もちづき君に持って行った。もちろん、氷が入った麦茶を添えて。
「あー、やっとできたんだ? ねえ、ここの部屋、むわっとしているでしょう?」
そんなもちづき君の近くでは、扇風機が最大風力で稼働していた。その状態で漫画が読めるのだろうか。気になるところである。
「水ようかんと、麦茶です」
「さすが花乃だ。こういう日のおやつを、よくわかっている」
すぐにもちづき君はスプーンを握り、水ようかんを食べた。
「あー、ひんやりしていて、ツルンとのど越しもよく、味わいはさっぱり。暑い日は、これだね!」
お口に合ったようで、何よりである。
「洋菓子は何を作ったの?」
「スモモのシャーベットです」
「ちょっと! そっちもすぐに持ってきてよ」
「は、はあ。気が利かずに」
いつもは和菓子のチェックしかしないが、今日は洋菓子も食べるようだ。
毎日、和菓子と洋菓子の両方を用意している。
人気なのは和菓子のほうだけれど、最近洋菓子も楽しみにしてくれるお客さんも多くなった。嬉しい悲鳴である。
スモモは都会のスーパーではあまり見かけない、ちょっぴり珍しい果物だ。
佐々木さんの果樹園で作っているものを、お菓子用に買わせてもらった。
甘酸っぱくて歯ごたえがある、初夏が旬のおいしい果物である。
まず、もちづき君に持って行き、それからお店の掃除をしていたつごもりさんに持って行く。
最後に、お風呂洗いをしていた良夜さんにスモモのシャーベットを持っていった。
「これ、なんですか? 鬼の血肉の氷菓?」
「違います。そんな物騒なものではありません。スモモのシャーベットです」
スモモの皮ごと作るので、見事な赤に染まるのだ。確かに、赤鬼を彷彿する鮮やか過ぎる色合いだ。
作り方は実にシンプル。スモモを半分に割って種を抜き、砂糖水と一緒に煮込む。煮汁が真っ赤になったらレモンを搾り、ミキサーに移してなめらかになるまで混ぜるのだ。
それを食品保存容器に入れ、混ぜては凍らせを繰り返したのちに完成となる。
良夜さんはスモモのシャーベットを受け取り、立ったままパクリと食べる。
「冷たくて、甘酸っぱい、ですね」
「ええ。私、シャーベットの中で、一番スモモが好きなんです」
祖母が作ってくれた、思い出の味でもある。私がアイスクリームを食べたいと言ったので、近所の若奥様に相談して作ってくれたのだ。
「そこで、お店に買いに行かないところが、幸代らしいですね」
「そうですね。私のために、なんでも作ってあげたかったみたいです」
なんだか、自慢のようになってしまう。
案の定、ジロリと睨まれてしまった。
「幸代は本当に、あなたのことを可愛がっていましたね」
「ええ……」
母親がいなかったので、気の毒に思っていたのもあるのだろう。けれど、自分で言うのもなんだが祖母自身、私が大好きだったのだろう。
「可愛い、孫娘だったので」
「それ、自分で言います?」
「言っちゃいます」
そう返すと、良夜さんは笑った。バカバカしく思ったのかもしれない。
しかし、初めて見せる笑顔である。
最近柔らかい表情を見せてくれるなと思っていたけれど、まさか笑いかけてくれるなんて。
なかなか可愛らしい笑顔であった。
感動しているうちに、真顔に戻ってしまった。
「今、変なことを考えていませんでした?」
「気のせいかと」
そういうことにしておく。
十一時となり、狛犬カフェは開店となった。最近は私も、着物で接客している。
着物の着付けはできないので、通販で上下別の二部式着物を買った。
二部式の着物とは、着付けを知らなくても、驚くほど簡単に着られる着物なのだ。
まずは海苔巻きみたいにスカート部分を体に巻き付け、そのあと上着を羽織る。最後に、ワンタッチ帯という、巻くだけの帯を着けたら着付けは完成。
帯を巻かなくても、前掛けを掛けるだけでも問題ない。パッと見、普通の着物に見える優れものだ。
ポリエステル製なので、洗濯機でジャブジャブ洗えるのもポイントが高い。ありがとうございますと、手と手を合わせて拝んでしまったくらいだ。
つごもりさんと良夜さんも着物なので、三人和装で揃えると“和カフェ”の雰囲気が深まる。常連となったお客様にも、「似合うよ」と好評だ。
着物を着て前掛けをかけて、気合い十分にお店にやってきたが、外からザーザーと雨音が聞こえる。大雨が降っているのだろう。
「あー、これは……」
「お客さん、こない」
つごもりさんがぽつりと言葉を返してくれる。さっきまで雨が止んでいたのに、
ピカッと外が光ったあと、どーん!と大きな雷が鳴る。
「ひゃっ、大きな雷でしたね」
「雷神が、やってきた」
「雷の神様、ですか?」
つごもりさんは、コクリと頷いた。
「雷神は、日本各地にいる。隣町にも、奉られている」
「そうなのですね」
雷は“神鳴り”とも書くらしい。
「雷は、雷から守ってくれたり、雷を鳴らしたりする」
「同一の雷神が、雷から守ったり、鳴らしたりする、ということですか?」
「そう。神様には、さまざまな一面が存在する」
荒々しい一面を荒魂といい、穏やかな一面を和魂、幸せをもたらす一面を幸魂、願望を成就させる一面を奇魂という。
「神様も、人と同じなんですね」
つごもりさんはそうだとばかりに、コクリと頷いた。
「それにしても、すごい雨ですね。こんな日に、お客さんなんて――」
そう口にした瞬間、ガラリとお店の扉が開かれる。突然のお客さんは、ずぶ濡れスーツ姿の若い男性だった。
「なんだ、この雨と雷は!?」
聞かれても困る、という言葉を呑み込んだ。
はきはきとした大きな声で、自分に自信があるのがありありと分かる雰囲気であった。
「いらっしゃいませ」
「私は客ではない」
冷たく言い放ちながら私の前をどんどん素通りし、椅子にどっかりと腰掛ける。濡れた前髪を、かき上げた。ここで、容貌が明らかとなる。
ココアブラウンの髪に、榛色の瞳を持っていた。目元はキリリと涼しげで、スッと通った鼻筋と唇は日本人離れした美貌だろう。
年頃は二十代後半くらいか。前髪をかき上げる動作が、妙にサマになっていた。水も滴るいい男と言えばいいものか。
見とれてしまうほど顔が整っていたが、「ぶえっくしょい!」と盛大で残念なくしゃみをしたので顔が歪む。
どこからともなく現れた良夜さんが、お客さんに渡すようにとバスタオルを差し出してくれた。
「あの、どうぞ」
差し出されたタオルに、お客さんはびっくりした顔を返す。
「うわっ、君、どこから現れたんだよ!?」
大きな声に、私のほうが驚いてしまう。ただ立っていただけなのに、驚かれるのは日常茶飯事である。
「私は、ずっとここにいましたが」
「笑えない冗談はよしてくれ」
私の影の薄さはさておいて。このままでは風邪を引いてしまうだろう。
「温かいお茶か、コーヒーをご用意いたしましょうか?」
「いい。すぐに帰るから。それよりも、この前不在だった、ここの家主はいるのか?」
「家主、ですか?」
「そうだ――は、はっくっしょーい!」
残念なくしゃみをするこの男性は、いったい何者なのか。態度や、祖母の死を知らない点から推測して、祖母の親しい人物ではないだろう。
「家主とは、山田幸代のことですか?」
「ああ。彼女以外の家主がいたら、紹介してほしいが――」
「祖母は亡くなりました」
「は?」
「祖母幸代は、三月下旬に、亡くなったんです」
「嘘だろう? 契約解除をしたくないから、そんな言い訳をしているのではないか?」
「言い訳に、身内の死を使うわけがないでしょう」
初対面相手なのに、言葉尻がきつくなってしまった。
祖母の死が嘘であればいいと今でも思うが、紛うかたなき現実だ。それを信じないなんて、あんまりだろう。
「わかった。信じる、信じるから……」
ドン!と、勢いよくテーブルにお冷やが置かれる。良夜さんが、持ってきてくれたようだ。
なぜか、氷がたくさん入っていて、いつも以上に冷え冷えである。
「ぶぶ漬け食べて、一回死んでください」
「お、おい! それ、ぶぶ漬け食べて今すぐ帰れって京都人のネタだろう? 死ねって初めて聞いたぞ!? な、なんなんだ、この店は……!? 存在感がない店員がいたり、毒舌の店員がいたり、まったく喋らない店員がいたり……!」
短時間の滞在でこれだけ突っ込みができるのは、ある意味才能があるのかもしれない。心の中で、拍手してしまった。
「あの、すみません。どちら様でしょうか?」
「この私を、知らないだと?」
ヤレヤレと呆れたように言い、もったいぶっている。
この町出身の、売れない俳優とか? それとも、テレビ出演している投資家とか?
育ちのよさは、なんとなく感じていた。
「私は――」
「新しい地主ですよ」
良夜さんが言ってしまったので、男性はガクリと肩透かししたようなリアクションを採っている。
「な、なぜ、先に言う? この私が、直接言おうと思っていたのに!」
「もったいぶるような情報でもないでしょう」
良夜さんに向かってグルグルと唸っていたが、素早く立ち直る。テーブルに名刺を置いて、「こういう者だ」と胸を張っていた。
「経営コンサルティングマスター……?」
よくわからない職業の下に、名前が書かれている。鷹司颯太、と。
どうやら、日本人らしい。身内に外国の方がいらっしゃるのだろう。
「今、この家の権利は誰が持っているのだ?」
「私の父です」
「ということは、君は山田幸代の孫娘、というわけか」
「はい」
「不思議だな……」
「何が、不思議なのでしょうか?」