一瞬で燃え尽きる激しさで

「麻里さん。水取ってください」
「はいはい」
「ありがとうございます」
 昨日は水族館の後に寿司屋へ行き、電車でまた一時間ほどかけて帰宅した。
 私は一日の疲れに今にもベッドに倒れたかったのだが、先に倒れたのは莉緒だった。
「ほんと、大丈夫?」
「大丈夫ですって」
「やっぱり魚のアレルギーとか……」
「アレルギーだったら体中すごいことになってるか、昨日のうちに死んでます。ちょっとここ数日寝不足だっただけ」
「一昨日の朝なんて、寝すぎて目が冴えちゃって、とか言ってたじゃん」
「えっと……」
 布団に寝転がる莉緒はゆっくりと私から視線を逸らす。
「どっちが嘘?」
「……えっと。最近眠れないのが本当です」
 私はいつも彼女がしているようにわざとらしく溜息をついてみる。
「寝不足で体調悪くて、疲れと相まって翌日寝込むって……」
「ごめんなさい」
「謝らなくてもいいけど……。自分の体は自分が一番わかるって言ってたよね?」
 薄いタオルケットを口元まで引き上げて、さらに上目遣いを加えたような表情で私を見上げる莉緒の頭をポンポン叩く。
「……分かってますよ」
「分かってないじゃん」
「分かってるからっ――。やっぱ……何でもないです」
 言葉を飲み込む莉緒に呆れて、私は布団の傍を離れる。
「寝れるんなら今寝ちゃいな。どうせやることなんてないんだし」
「……はい」
 
 私は莉緒から離れ、家事やら何やらを片付ける。
 午前中は雨がしとしと降っていたから洗濯物を回すのを諦めていたけど、午後からは一変して晴れ間が広がった。明日には私も莉緒もここを離れる。数日間の帰省だけど、洗濯物を溜めとくのはなんかちょっぴり嫌だ。こう思うようになったのも私が変わったせい。そもそも変わらなければ帰省なんてしなかったけど。
 気が付けば莉緒は眠りに落ちていて、私は起こさないように一日を過ごした。
 莉緒が目を覚ます頃にはもう時計の単身は垂直に垂れ下がっていて、空は久しぶりの夕日に染まっていた。
 今日の夕日はなんだか綺麗だななんて思いながら、半日で乾いてしまった洗濯物をベランダから取り込んでいると、寝たままの莉緒が目を擦りながら声を掛けてくる。
「おはよ……」
「もう夕方だけどね」
「部屋が真赤だからわかる」
 私はぐちゃぐちゃの洗濯物をそのままベッドの近くに放り投げ、莉緒の布団の方へ移動する。
「水とかいる?」
「ううん。大丈夫」
「そ」
 莉緒は何度かゆっくりと瞬きをした後、半分だけ瞼を持ち上げて静かに天井を見つめた。
 そんな彼女をソファに座って見下ろす気分にもなれず、私は床に腰を下ろし、肘を立てて彼女の横に寝転がった。
「夕日、綺麗ですね」
「そうだね」
「今日の夕日はこの夏でもトップレベルかも。すごく濃い」
「うん。濃い赤」
「麻里さんと初めて会った時みたい」
「言われてみれば」
 莉緒の瞼は細く割れている。上を見上げているのが眩しいのか、それともこの美しい夕日に浸っているのかは分からない。
「麻里さん、初めて会った時、すごくかっこ悪かったよね」
「言わないでよ。誰だって自殺現場を見たらパニックになるって」
「私、あの時は本当に飛び降りる気なかったんですよ?」
「傍から見たらそんなの分からないって」
 誰よりも死ぬことを恐れる人間が死の淵に立つ。私にはその瞬間の感情なんて分かりっこない。
 万が一、手が滑ったら。万が一、バランスを崩したら。そう考えるだけで悍ましいのに、彼女はそれを能動的に行っている。
 莉緒のことは徐々に理解してきたつもりだけど、私はまだこの子のことを何も分かっていない。だって抱える問題すらも知らないままだ。彼女との関係を深めれば、抱えたものも打ち明けてくれると信じてここまでやってきたけど、どうもそうはいかないらしい。
「私、夕日に物足りなさを感じてたんです」
「物足りなさ?」
「夕日は大好きで。死ぬなら夕日をバックになんて昔から考えてたんですけど。なんだか空虚っていうか。自分でもよく理解はできていないんです」
 ずっと一人で考えていた莉緒は自分の中にあるものを人に伝える手段を持っていない。多分言葉なんて簡単な物では表すことが出来ないんだろう。もっと抽象的な、例えば感覚をそのまま表現できるすべを彼女が持っていたら、彼女は自分の中身を上手くアウトプットすることが出来るのだろうか。
「でも、今は違う」
「え?」
「夕日を見ると、麻里さんの顔が浮かぶんです。この夏の思い出が色々と浮かぶんです」
「なんかそれ恥ずかしい」
「それが凄く幸せで。胸が一杯になって」
 莉緒は薄く開いた眼を閉じると、ゆっくり息を吸った。
「夕日を見ると、あぁ、こんな日なら死んでもいいな。って思えるようになった」
「……やめてよ」
 彼女が死について話題を出したのは久しぶりだった。
 なぜか私の中で、もう彼女は死ぬことは無いと考えてしまっていた。問題を打ち明けてはくれなくても、ふと消えるように死んでしまうことは無くなったと、勝手に考えていた。
「あーあ……。こんな日に、このまま、麻里さんに看取って貰えたらいいのに」
 目を瞑って布団に寝る彼女が遠く感じる。手を伸ばしてもどこかへ消えてしまいそうで、私は衝動的に隣に寝る彼女を捕まえるようにして抱きしめた。
「わっ。……びっくりしたぁ」
「そういうこと……言わないでよ」
「……ごめん」
「どこにもいかないでよ」
「……」
 私の頬と彼女の頬が触れる。そこに温かく濡れるものを感じてもう一度強く抱きしめた。
 どちらの涙かなんて関係ない。ただ私は彼女を繋ぎとめようと、優しく、強く、夕日が沈むまで抱きしめ続けた。

「麻里さん。苦しい」
「ごめん」
 莉緒が口を開いたのは夕日が沈む直前。部屋の中には闇が入り込み、電気をつけないと世界の輪郭がぼやけてしまう時間帯。
 私はそっと莉緒から離れて、彼女と反対側に体が向くまで転がって離れる。
 恥ずかしくて彼女の顔が見れなかった。
 自分の行動を自覚した今の瞬間から心拍数が跳ね上がったのが分かる。
 何やってんの。私。
「ねぇ、麻里さん」
「ん?」
「一つ、お願いしていい?」
「難しいこと?」
「ううん。簡単」
「じゃあいいけど」
 私が彼女に背を向けたまま寝転がっていると、徐に彼女は布団から起き上がる。
 気配を感じて顔を天井に向けると、四つん這いになった彼女の顔がそこにあって、思わずまた顔を背ける。
「私、麻里さんが煙草吸ってるところ見たい」
「は?」
 そんなこと? と口から漏れそうになる。
「だって麻里さん。私がここに来てから煙草吸ってないでしょ? 花火大会の時に言ったじゃないですか。あとで吸ってるところ見せてって」
「見たって何も面白くないよ」
「麻里さんのかっこいい姿見たいじゃん」
「煙草を吸ってる姿がかっこいいと感じる年なのが羨ましいよ」
「いいじゃん。吸ってる所見せてよ。もうちょっとで夕日も沈んじゃう。折角空綺麗だからさ。ベランダで」
「人前で吸いたくないんだけどなぁ」
「いいからいいから」
 私の意見なんて聞かずに、莉緒は本棚から煙草とライターを手に取ってベランダに向かう。
 彼女が鍵を開けてベランダへの戸を開けると、暑苦しい空気がむわっと室内に流れ込んだ。
「仕方ないなぁ」
 私は立ち上がり、キッチンに片付けてしまっていたガラスの灰皿を片手にとって、ふらふらと彼女の後を追う。
 ベランダのサンダルは一つしかない。だから彼女は裸足だった。
「足汚れるよ」
「洗えばいいだけじゃん」
 莉緒が裸足で高い場所に立っている。それだけで少し胸の仲がざわついた。
「はい。麻里さん」
 莉緒が煙草を手渡してくるので、無意識に受け取る。
「かっこいいもんじゃないよ?」
「そうですか? 女の人が煙草吸ってるのってかっこよく見えません? 自分は絶対に吸わないと思いますけど」
「そうじゃなくて……。多分。私のはかっこよくないと思う」
「どういうことですか?」
「見ればわかるよ」
 パッケージを見て小さな溜息をつく。煙草を吸い始めてから今まで、一度も銘柄を変えたことは無い。
「煙草、好きじゃないんだけどなぁ」
「だったら辞めればいいのに」
「私だって辞めたいよ」
 小さな箱から一本を抜き取り、左手の人差し指と中指で挟む。ライターを探してきょろきょろと見回すと、莉緒が自分の手の中にあるライターを主張する。
「一回、人の煙草に火つけて見たかったんだぁ」
「はいはい」
 左手で顔を覆うようにして、煙草の端に口をつけ、まるでキスをするように彼女に顔を近づける。
 満足そうに莉緒は口角を上げ、風を避けるように左手で煙草を覆いながら、もう片方の手で火を灯した。
 ジジジと紙が焼ける感覚と共に、その害ある煙を吸う。
 あぁ、久しぶりだ。この味だ。
 苦くて、辛くて。美味しくない。
 過去を想いだす味。
 一杯に不幸を吸い込んで、溜息のように不幸を吐き出す。
 そしてさらに込み上げてきた物を体から外に追い出すように、美しい夕焼けに向かって咽る。
 何度も何度も咽て息が出来なくなる。ベランダの手すりを掴んで体を上下に揺らす。
 驚いた莉緒が固まっているのが面白くて、呼吸を落ち着けてから彼女に向かって自嘲的な笑顔を向けてやった。
「ほら、かっこよくないでしょ?」
「まともに吸えてすらないじゃないですか」
「だって嫌いだもん」
「じゃあなんで家に置いてあるんですか」
「……忘れない為、かな」
 私にとって煙草は自傷行為。
 気取ってこれを始めて買った時には隣に佳晴がいて。
 それから何度も挑戦して咽る度に、佳晴に呆れた目で見られて。
 そんな彼を忘れないように。何度でもすぐに地獄を思い出せるお守り。
 苦しくて、苦くて。最悪な時間を吸うことで。彼を思い出す。思い出すことで彼への贖罪の気持ちになれる。
 そんな簡単な自傷行為。
「思ってたのと違いました」
「でしょ?」
「かっこよくはないですね」
 喉に残る違和感を何度も咳で誤魔化し、目頭に溜まる涙を拭いた。
「麻里さんにとって、煙草は大切なものなんですね」
「……なんで?」
「そんな顔、してました」
 やっぱり莉緒は鋭い。それとも私が昔を懐かしむような顔をしていたのだろうか。
 一度しか吸わなかった煙草を灰皿の上に置き、大きく深呼吸をする。煙草の後の深呼吸はより空気が美味しく感じる、なんて言ったら笑われるだろうか。
「煙草の煙とかふーってして欲しかったのに」
「なにそれ」
「あの、あるじゃん。煙を頭にかけるやつ」
「浅草寺のやつ?」
「多分そうかな。悪い場所に煙かけると治りますよ、みたいな。ほら、私頭悪いから」
「煙草の煙じゃ、もっと頭悪くなるよ」
「そう? 逆に麻里さんパワーで奇跡とか起こったりして。全身に浴びたら不老不死とかになれるかも」
「なに馬鹿なこと言ってんの」
「……馬鹿だからさぁ。奇跡なんかに縋っちゃうのかもね」
 私は煙草の煙の代わりに、大きな溜息を彼女に振りかける。
「勉強しなさい」
「勉強なんて意味ないもん。朝起きたら天才になってるなら話は別だけど」
「中身スッカスカの天才になっても仕方ないでしょ?」
「私にはどうしようもない血と肉が沢山詰まってるからそれでいいの」
「よくわかんないよ」
 やれやれ、と大袈裟に身振りを加えて呆れて見せる。その手が灰皿に当たって動いたので、慌ててその手で灰皿を掴む。
「麻里さん、それ下手したら人が死にますよ」
「あっぶなかったあぁ……」
「アパートの上層階からガラスの灰皿が降ってくるなんて笑えないですからね」
「一気に変な汗かいちゃった」
「もう、ドジですね」
 莉緒は私の方をトントンと小馬鹿にするように叩いて、ベランダから顔を覗かせる。
「まぁ、人はいませんでしたし。落ちても最悪セーフでしたよ」
「色々問題にはなるでしょ」
 莉緒がさらにベランダから身を乗り出す。瞬間、心臓の下部をぎゅっと掴まれたような痛みが走り、咄嗟に彼女の服を掴む。
「なに?」
「やめて。……怖い」
「あぁ……。ごめん」
 手すりに体重を掛けて浮かせていた裸足をペタと地面につけて、数歩ベランダから遠ざかる。もう一度ごめんと付け加えて、恐らく不安そうな表情をしているであろう私の頬に手を添える。
「ねぇ、麻里さん。……私が今、ここから飛び降りたらどうする?」
「……どうするって」
「追いかけて飛び降りたり、してくれる?」
「……しないかな。……しない」
「そっか。よかった」
「……なにも、よくないよ」
 そのまま莉緒は黙ってしまう。
 蝉とカラスの声を聴きながら、肌に寄ってくる夏の虫を払う。
 腕に留まった蚊を叩くと、小さく血が広がった。
「私さ、死ぬときは麻里さんの視界の中で死にたいな」
「……嫌だよそんなの」
「そう?」
「死ぬときが来るにしても。これからずっと長生きして。私が莉緒の事を忘れて。そして、私の知らないところで私が知らないまま死んでよ」
「死んでよなんて、酷いなぁ」
「馬鹿」
 莉緒は私の隣を擦り抜け、室内への戸を開く。ひんやりと冷たい室温が私の肌をなぞり、生理的に体が大きく震える。
「大丈夫だよ。麻里さんは私が救うから」
「……?」
「ううん。なんでもない。中入ろ?」
 莉緒が室内から手を伸ばす。ただ私はそっちがとても寒そうで、彼女の手を取ることが出来なかった。
「……ごめん。先は入ってて」
 私は自分の中に震える何かから目を逸らすように、灰皿から煙草を持ち上げ咥えてみる。
 少し吸って、先端が少し明るくなる。そして私はその煙に喉を焦がす。
 控えめに咳き込んで、煙草を灰皿に捨てた。
 煙草の先に灯った炎は今にも消えそうに弱く弱く光っていて。私はそれを見るのが、どうしようもなく辛かった。
 
「さっきの煙草、なんか思ってたのと違ったから、もう一つお願いしてもいいですか?」
「なにその制度」
「いいからいいから」
 風呂から上がり明日の帰省の準備をする私に、寝間着姿の彼女が唐突に話しかけてくる。
「で、そのお願いって?」
「えっと……。なんて言うか」
「自分で持ちかけてきて、言い淀まないでよ」
「だって恥ずかしいじゃん! 最近夜、まともに寝れないの!」
「だから?」
「鈍感すぎる」
「ごめんわざと」
 莉緒はぺちんと私の肩を叩く。最近手を上げられることが多くなってきたように感じる。
「色々と、考えることがあって……」
「だから?」
「もう! 一緒に寝たいの! ほら、早くベッドに行って!」
 タックルするようにして私を無理やり立たせ、ベッドの方に押していく。絶対照れ隠しだ。
「ちょっと、せめて歯磨かせてよ」
 莉緒はむくれると私を放って自分だけベッドに寝転がる。一度その場を離れて寝る準備を済ませ、ベッドに戻っても同じ体制で私を待っていたので笑ってしまう。
「何笑ってるの?」
「かわいいなって」
「うるさい」
 部屋の電気を消し、エアコンのタイマーをセットする。私がベッドに近づくと更に莉緒が端によってスペースを空けるので、そこに横たわった。
「狭い」
「文句言わないでくださいよ」
「言う権利くらいあるんじゃない?」
「……えっと、ごめんなさい?」
「別にいいけど」
 隣に並んで寝ると温泉旅行の夜を思い出す。あの日はベッドが今日の倍くらい広かったけど、隣の莉緒が血塗れではない分、今日の方が遥かに精神が楽だ。
「寝れそう?」
「うん」
「なんで最近寝れないの?」
「秘密」
「そっか」
「……ちょっと不安になっちゃって」
「……そっか」
 二人で天井を見上げて会話をする。私達の体の上には一枚の薄いタオルケットが掛かっていて、どちらが動くたびにもう片方にそれが伝わる。それに不思議な感覚を覚えながら、沈黙の中をお互い少しずつ身動ぎながら過ごす。
「ねぇ、麻里さん」
「あ、そいえば」
「なんです?」
「ごめんね、遮っちゃって」
「べつに」
 彼女に話したかった話題を思い出し、首を九十度曲げると、彼女も同じように同じタイミングで首を回す。動きがシンクロしてしまったことに笑いながら、私はここ数週間ずっと彼女に言いたかったどうでもいい話をする。
「莉緒ってさ、何か話し始める時に、毎回私の名前呼ぶよね」
「え?」
「しかも毎回、ねぇ、ってつけてさ。口癖?」
「そんなこと言ってました?」
「言ってるよ。ねぇ、麻里さん。って。さっきも言ってた」
「……なんか恥ずかしいです」
「気づいてなかったんだ」
「はい」
 莉緒は目を瞑り、タオルを引っ張って顔を隠す。
 彼女の可愛らしい仕草と引き換えに、私の背中がエアコンの風に当たる。
 私はくすくすと笑いながら、彼女の名前をあからさまに揶揄って呼んでみる。
「ねぇ、莉緒ー? ……痛っ」
 タオルケットの下で私の足が蹴られる。売られた喧嘩は買う主義だと、私も莉緒の足を蹴ってみる。
「いったーい」
「そんな強く蹴ってないでしょ」
「痣できちゃうじゃん」
「寝ながら蹴って痣を作れるほど私は怪力じゃない」
「私はか弱い少女なんです。そもそも生徒に暴行を加えてる時点で教師失格だよ?」
「私を教師だなんて思ったことないくせに」
「麻里さんには先生らしさが微塵もないからね」
「ひどいなぁ。夏休み開けたら、私の事学校で先生って呼ぶんだよ?」
「……そうですね~。でも元々学校で会ったことなんて殆どなかったじゃないですか。校舎広いし、担当学年違うし、私は半分学校に行ってないし」
「ちゃんと来なさい」
「麻里さんが学校にいるなら行ってもいいかなぁ。会いに来てくれる?」
「絶対行かない」
「じゃあやっぱり、麻里さんを先生って呼ぶ機会ないじゃん」
 学校で会ったらどんな顔をしていいのか分からない。絶対に莉緒には笑われるし、私も教師っぽく振る舞えなくなるし、会わないに越したことは無いでしょ。
 生徒と一カ月を過ごしていたなんてバレたらそれこそ問題になるし。
「まともに会話したこともないのに、莉緒よく私の事覚えてたよね」
「まぁ、先生の顔くらい全員一回は見たことあるもんですよ。そっち側と違って見る母数も多くないですし」
「それにしては私の名前まで覚えてたよね。学校の先生の名前覚えるタイプ?」
「いや、全然」
「じゃあなんで」
「なんででしょうね。ボケッとしてる先生だったから記憶に残ってたのかも」
「もう一回蹴るよ?」
「体罰反対」
 会話に終止符が打たれると、世界は突然静かになる。
 エアコンの駆動音。外で車が走る音。時計の秒針のリズム。
 会話に紛れていた音たちが主張を始めると、段々と眠気が私を包んでいく。
「私、もう寝ちゃいそうなんだけどいいかな?」
「別に確認取ることじゃないでしょ」
「莉緒は?」
「私はまだいいや。麻里さんの寝顔見てる」
「……そんなこと言われたら寝れないんだけど」
「嘘、嘘。大丈夫。私もすぐに寝るって」
「んじゃ。おやすみ」
「おやすみ」
 ふぅと一度息を吐いて、体の力を抜くと、すぐに眠りはやってきた。
 朝、いつも以上の暑苦しさと蝉の声で目を覚ますと、私の体は動かなくなっていた。金縛りかも、なんて少し考えたが、徐々に体が覚醒していくにつれ、原因は明白になっていく。
「おーい。莉緒さーん」
 莉緒は私の身体をがっしりと手足でホールドし、まるで抱き枕のようにして眠っている。
 暑くて苦しい。声を掛けても起きる気配がないので、その拘束を無理やり剥がそうと、私の体から彼女の体を引っぺがしていく。
「もうっ」
 道理で暑いはずだ。莉緒の体温は元気な小学生かと思わんばかりに高く、タオルケットの中はサウナの様に蒸されている。
 腕、足、タオルケット、と順番に投げ捨て、最後に私の肩に乗る莉緒の顔をベッドに押し付ける。寝言のような呻きと共に寝返りを打つ彼女の顔を見てみると、目から流れるようにして涙の跡が残っていた。
「……」
 胸が締まった。
 彼女は強い。弱さを表に出すことは無く、一人で生きていけるとばかりに気を張っている。そんな彼女の無防備さを見て、彼女の歳を思い出す。
「そんなに強がらなくてもいいのに」
 その言葉は彼女に放ったはずなのに、どこかそれに昔の自分を重ねているような気がした。
 いや、昔の私は彼女のように強くはなかったかも。
 私はベッドから降り、昨日途中まで進めた規制の準備と、朝食の用意をする。
 莉緒よりも早く起きることなんて今まであっただろうか。莉緒に朝ご飯を作ることに我ながら達成感を感て、彼女に教わった通りフライパンに油を引く。
 フライパンに卵が落ちる音を聞いても莉緒は目を覚まさなかった。
 ここ最近眠れていないと言っていたし、疲れがたまっていたんだろう。私と一緒に寝ることで彼女が深い場所まで眠ることが出来ていることが嬉しい。
 二人分が乗ったフライパンから半分だけを皿に移し、熱いそれを今度は口へ運ぶ。
 一分やそこらでそれを食べ終え、シャワーを浴び、軽く化粧をする。
 時計を見ると既に十二時を過ぎていた。
 安心して深い眠りに落ちていたのは彼女だけではなかったらしい。
 予約していた新幹線の時間を考えると、そろそろ家を出ても良い時間。莉緒に目をやると未だに体を丸めて眠っていた。
「莉緒~。私そろそろ出るよ? そろそろ電車の時間」
「ん~……。あー」
 莉緒は目を開けて朧げな眼差しを私に向けると、もう一度ぱたりとベッドに倒れる。
 絶対見送る、なんて言っていたのに、なんとも呑気なものだ。
 折角よく眠っている莉緒に強く出るわけにもいかず、これで最後にしようと彼女のほっぺたを人差し指で突いてみる。
「おーい。朝だよー。私もう行くからねー」
「んー」
 さっきよりは幾分かクリアな返事が聞こえたが目が開く気配はない。
 これはもう駄目だなと思いながらベッドから離れると、背後でもぞもぞと籠った声がした。
「起きる……」
「いいよ。寝てな」
「起きるー」
「じゃあ起きなよ」
「起きれないー」
「なにそれ……」
 溜息をついてみると莉緒はぼそっと口を開く。
「キスしてくれたら目が覚めるかも」
「馬鹿じゃん」
 それだけ言うと何事もなかったかのようにまた静かになる。
「じゃあ、行くね」
「ちゅーして、ほら、ちゅー」
「絶対起きてるでしょ」
 寝起きながら揶揄ってくる彼女にもう一度溜息を零す。
 会話ができるなら丁度いい。メモを残さなくて済むからちゃっちゃと要件を伝えておこう。
「今日何時ごろここ出るの?」
「んー。ちょっと今は動けないかも。もう少ししたら出る」
「私もう時間なんだけど出ちゃって大丈夫?」
「大丈夫。鍵どうすればいい?」
「ポストにでも入れといて」
「了解です」
 もう結構覚醒してるじゃんと内心思いながらも、伝えることは伝えた。何か忘れていてもここを空けるのはせいぜい三日だ。何とかなるだろう。
「じゃ、私行くからね」
「あー。起きますー。待って」
「もう……」
 莉緒は目を瞑ったまま天井に向けて両手を伸ばす。
「引っ張ってください」
「えー」
「それくらいいいじゃないですか。スキンシップです」
 めんどくさがる私にぶんぶんと腕を振る。もちろんまだ目は瞑ったまま。
「わかったわかった。埃立つからやめて」
「分かればいいんです」
 彼女に近づき掲げられた手を取る。なぜかその手は震えていた。
「なんで震えてんの」
「朝だからじゃないですか」
 私は彼女の両手を自分に向けてゆっくりと引っ張り上げた。
 しかし、ゆっくりと私に持ち上げられる筈だった彼女は途中で腕を曲げるようにして加速し、気付けば私の唇に彼女の唇が触れていた。
「――っ」
 私は勿論驚く。目を大きく見開いた私の顔は我ながら良いリアクションだったと思うが、当の悪戯を仕掛けてきた本人は気まずそうな表情を浮かべていた。
「……ごめんなさい」
「謝るならやらなきゃいいのに」
「いや、違くて……」
 莉緒は視線を逸らすようにそっぽを向くと、ベッドにうつ伏せに倒れ込む。
「ちょっと。起きるんじゃないの?」
「…………ごめんなさい。……ほら、電車もうギリギリじゃない?」
 情緒が不安定な莉緒を心配するが、彼女に時間の話題を出されて、そうはいかなくなる。
「あっ! 馬鹿に構ってたらもうこんな時間じゃん!」
 ふふっと笑うような声が枕に押しつぶされて聞こえる。
「じゃあ、私、18日の午後に帰ってくると思うから」
「うん」
「莉緒もそのくらいに帰ってくるんでしょ?」
「……うん。ほら、私はいいから早く行きなよ」
 どう考えても莉緒の様子はおかしかったが、今の私にはタイムリミットがある。
 きっと実家に帰ることでナイーブになっているんだろう。
 じゃあねと一言付け加えて彼女の頭を撫でる。
「うん。じゃあね。麻里さん」
 莉緒の言葉を聞いてからキャリーバッグを手にし玄関に走る。
 靴を履いて、鍵を開けて、熱い外気に肌を晒しながら室内に行ってきますの声を投げる。
 そうして私は莉緒の顔も見ずに家を飛び出した。



 電車が揺れる。止まっては進み、止まっては進みを繰り返し、次第に体は重くなり、尾骶骨が軋み始める。そのたびに思い出したように腰を浮かせて体勢を変えてみたり、乗り換えの駅に着けば大きく伸びをしてみたり。
 在来線を乗り継ぎ、予定通りの新幹線に乗り。そしてまた在来線のシートに座る。
 初めはパンパンに詰まっていた電車の中身も、時間の経過とともに漏れ出すように減っていった。少し前には隣の席の人間の腕がぴったりと私の肌に触れ、こみあがる不快感と格闘していたのに、今では車両の中を見回してもちらほらと疎らに見えるだけ。その誰もが私と長旅を一緒にしているようだ。一様に疲労を顔に浮かべ揺られている。
 乗り換えを繰り返すうち、いつしか座席は向かい合いのボックス席になり、扉は勝手に開かなくなった。時たまカチっとボタンが押される音と共に扉が左右に割れ、生暖かい空気がなだれ込み、乗客が眉を顰める。
 そんな不快感と倦怠感をぐっと胸に抑え込んで、聞きたくもない地名が聞こえるのをひたすらに待った。



 昼過ぎに家を出たのだから当然と言えば当然なのだが、実家の最寄り駅につく頃にはもう時計の短針は力無く垂れ下がり、蝉の鳴き声は昼間にも増して強くなっていた。
 ここにつく数駅前から連絡を取り合っていた母親はすでに駅についているのだろう。駅舎を出て眼前に広がる駐車場の中に見知った車を探す。少し古い形をしたシルバーの車体を探すがどこにも見つからず、もう一度連絡しようかと携帯電話を取り出す。
「麻里!」
 寂れた駅前には人は多くない。だから遠くから呼ばれる声も蝉しぐれ交じりに耳に入った。
 振り返ると、知らない車に乗った母親が運転席から手を上げている。
 恥ずかしさを覚えながら、コンパクトな赤の車体に近づく。エアコンが掛かった車内に外気が入り込むのを防ぎたかったのか、すぐに窓は閉められる。だから私はトランクに回り荷物を車の後ろに積んだ後、助手席の扉を開けた。
「麻里、遅い」
「なにが」
「帰ってくるのがに決まってるでしょ。もう送り盆終えちゃったよ?」
 座席に座りシートベルトを締める。隣を見ると記憶よりも老けた母親が呆れた顔でこちらを見ていた。
 なんで私は他人に呆れ顔を向けられることが多いんだろう。莉緒にはまだしもこの人にこんな顔を向けられる覚えはないんだけど。
「いいよ。墓なら明日行くし」
「せっかくなんだから一緒にやってくれた方があの人も喜ぶでしょ」
「わかんないよ。死んだ人の気持ちなんて。誰にも」
 私の言葉をきっかけに車内に悪い空気が蔓延する。母親と話すといつもこうだ。何度か会話をキャッチボールすると必ずどちらかがボールを放棄する。
 自分の父親を「あの人」なんて言われたら腹が立つでしょ。ましてやその妻だった人間に言われているんだから。
 初めて乗る車はゆっくりと駅前を進んでいく。商店街は大半がシャッターを下ろし、通行人は見当たらない。高い建物もなければ綺麗なコンビニもない。あるのは壁に亀裂が入るような古い住居と、夜には閉まる個人営業の店。
 暫く道を進むと国道に差し掛かり、駅前と比べれば妥協点と言えるほどの賑わいを見せる。ポツポツと飲食店が並び、新しい住居がまばらに散らばる道を、駆動音が静かな車が走る。
「車、変えたんだ」
「一昨年の夏にね。あんた全然帰ってこないから始めて見るでしょ」
「軽自動車?」
「乗る人間も二人しかいないしね」
 ほどなくして車のエンジンが止まる。住宅街の中にある安めの戸建て住宅。何のこだわりもないテンプレートのような建売の住宅。
 車を降りると何かが焦げたような匂いがする。玄関の前のコンクリートに燃えカスが黒く残っていて、先ほどまでここで送り火が焚かれていたことを物語っていた。
「麻里。お父さん中にいるから、顔見せなさいよ?」
「……ん」
 お父さんという言葉を聞いただけで胃がキリキリと痛む。胃薬を飲んで来ればよかった。こうなることなんて経験上分かっていた筈なのに。
 車のトランクから荷物を降ろして玄関へ向かう。誰にも聞こえないように深呼吸をして扉を開けると、お迎えと言わんばかりに玄関に大きな男が立っていた。
「おかえり、麻里ちゃん」
「……ただいま。和男さん」
「久しぶり、だな」
 長身で筋肉質。大柄で優しい目つき。
 未だに父親だと認めることが出来ない男の人。こんな私にもめげずに優しく接してくれる男の人。
「そうだね。大学を卒業した時ぶりかな……」
 目線が合わせられず、靴を脱ぎながら言葉を交わす。
 この野太い声にはまだ慣れない。そして今私に向けられているのであろう優しい目つきも、まだ受け入れることが出来ない。
「麻里ちゃんが帰ってくるって言ってたから母さん張りきっちゃって。もうすぐ夕飯もできると思うぞ」
「……うん。ごめん。ちょっと荷物置いてくる」
「あ、あぁ。すまん」
 私は脱いだ靴を整えると、荷物をもって階段を上がる。
 溺れた人間が息継ぎをするように、自分の部屋に逃げ込み乱れた心拍を整える。
 別に和男さんが嫌いな訳じゃない。
 昔はそれこそ反抗もしていたが、もう私も大人。再婚は仕方ないし、和男さんが優しい人間だってことも分かっている。ただ、父親だとは思えない。
 私にとって父親は一人だけで、その父親は死んだ。あの時に私の中の家族は壊れたんだ。後から補欠要員のように人員を追加されたって元に戻るわけじゃない。
 ただ、それだけ。
 大きな体と大きな声が幼い私には怖かったってのも苦手な印象付けの理由にあるかもしれない。だってパパは病弱で細くて、それこそ和男さんとは正反対で。私の周りには大きな男の人なんていなかった。だから和男さんの立派な筋肉が、昔の私には抗いようのない力に見えたんだろう。
 和男さんと初めて会った時の事を覚えている。
 私は柄にもなく綺麗な服を着せられて、母親はお金もないのに外食に私を連れて行って。嫌な予感が的中して、案内されたテーブルには知らない男の人が座っていて。
 第一声に「君が麻里ちゃんか」と快活な声が響き、肩に手を置かれた。その手の力強さが私には初めてで。そこで私は「母親は今度は死ななそうな人を選んだんだな」って強く感じた。それが、母親が父親を忘れようとしているように感じてすごく嫌な気持ちだった。
「もっと和男さんがパパに似てたら、納得してたのかな」
 考えるだけ無駄なことに脳のリソースを割きながら、私は荷物を広げていく。
 その中から箱根の美術館で買った手土産のワインを取り出す。
 買った時のまま袋に入れっぱなしだったので、買い物袋を開け、ボトルの入った包装を取り出す。
 ボトルを取り出した袋の中にまだ重みを感じて首を傾げながら手を入れてみる。
「あ、忘れてた……」
 そこには莉緒にと買ったイヤリング。あの日の夜にでも渡そうと思ったまま袋の中に眠っていた。
「まぁ、色々あったしね……。帰ったら渡そ」
 独り言が増えたなぁ、なんて感じながらワインボトルを手に部屋を出る。一階からは夕飯の匂いが昇ってきて、自分が空腹なのだと自覚する。
 莉緒も今頃実家に帰っているんだろう。私みたいに胃を痛めていないといいけど。
 そしたら私も頑張らなきゃ。
 まずは父親との和解。
 まぁ、そもそも喧嘩なんてしてないんだけど、私の中で折り合いをつける。
 そろそろ大人になる頃合いだ。



 階段を降り、洗面所へ向かう。適当に手を洗い、キッチンを覗くと母親が鍋を見つめている。
「もうちょっとかかるからお父さんと話でもしてて」
「……うん」
 私の気配を察したのか背中越しに言葉を放たれる。
 母親がキッチンにいるのはありがたい。話すなら二人きりの方がやりやすい。
 ダイニングルームに入ると和男さんは一人で缶ビール片手に座っていた。テレビに映るのは夕方のニュース番組。どこかの芸能人の不倫報道を、興味の無さそうな目で見ている和男さんに近づき隣から声をかけると、まるで幽霊でも見たかのようなリアクションで驚く。
「びっくりしたぁ」
「ごめん」
「……なんだ?」
「あぁ、えっと、これ。手土産。こないだ箱根に行ったんだけどそこで。和男さんワイン飲めるか分かんなかったけど」
 張り付く喉から必死に声をひねり出す。人と話すのにこんなに緊張したのなんていつぶりだろう。
「ワインか。もう何年も飲んでないな」
「飲めないならいいけど」
「いや、貰うよ。せっかく麻里ちゃんが買ってきてくれたんだし」
 ちょっと待ってろと和男さんが席を立つので私はなんとなく向かいに座る。
 ワインボトルをクルクルとまわし、ガラス細工が施された表面を眺めていると、ふとワインが常温なことを思い出す。
 ワインって冷やした方が良かったかな。冷蔵庫にしまって明日とかにすればよかったかも。
 そう遅すぎる後悔をしていると和男さんがワイングラスを二つ手に持って戻ってくる。
「そんなグラスあったんだ」
「あぁ、これ母さんとの結婚式で引き出物にしたんだ。滅多に出さないから知らなかったか」
「……うん」
 そもそも酒が飲めるようになってからこの家に帰ってきたのなんて片手で数えられる回数しかない。知らないのも当然だ。
「ごめん。これ、常温なんだけど」
「別に構わないよ。そんなに俺も飲む方じゃないし。残りは冷蔵庫に入れておけばいい」
 せめてこれくらいはと和男さんのグラスにワインを注ぐ。自分のグラスにも手酌しようとすると、ボトルを奪われて注がれてしまった。
 食うかと手元にあったミックスナッツの皿を私の前に出され、何も考えられない頭でカシューナッツを口に放り込む。
 和男さんがグラスを手に取るので、私も真似をし、二つのグラスがぶつかり甲高い音が響いた。
「……老けたね」
「そうか?」
 ワインを一口飲み、ナッツを一粒口に入れる。その動きを四回ほど繰り返したところでようやく私が口を開く。なんの気も効いていない話題だけど無いよりはマシ。
「白髪とか。増えた」
「もう麻里ちゃんが出て行ってから七年は立つもんな」
「そんな経ったんだ」
 時間の流れは自分からの距離によって変わる。身近な存在ではゆっくりと、離れた存在ではきっと時間は早く動く。もうこの人を知って十年は経つことを思えば、私がいかにこの家から離れていたかがよくわかる。
「でも体の大きさは変わらない」
「縮んでたまるか」
「歳取ると人間、小さくなるじゃん」
「毎日仕事で無理にでも動くからな」
 私はこの人の仕事さえも知らない。大工みたいなことをしているのは薄らと知っているけど、どんな仕事をしているのかも、何を作っているのかも知らない。もしかしたら大工なのは私のイメージなだけで、実際は違ったかもしれない。
 本当に私はこの人を知ろうとしてこなかったんだ。
 ワインを一口含むと口の中に渋みが広がる。喉をさらっと撫でられる感触ような後味が広がり、大きく鼻から息をする。
「仕事は、どうなんだ」
「もう三年目。いい加減慣れたよ」
「そうか」
「今年も資格取り損ねたけどね」
 自虐を交えて笑ってみると和男さんは驚いたように私の顔を見た。
「麻里ちゃんほど頭良くても取れないんか。そりゃあ難しい」
「ううん。私が面接でしくじっただけ。筆記は多分大丈夫」
「あぁ、確かに麻里ちゃん人と話すのは得意そうじゃないもんな。俺は頭からっきしだから人のこと言えないけどな」
 和男さんは私の自虐に負けじと自分を貶める。
 その言葉が私にはとても優しく感じて、私の過去を知っている和男さんについつい愚痴をこぼしてしまう。
「ディスカッションで問題提示されてさ。これの解決策がどうのとかって聞かれて。それのお題が児童虐待で――」
 勿論彼は佳晴のことも知っている。実際の面識はなくて、その名前を知ったのも佳晴の死後だとは思うけれど、義理の娘が壊れてしまった原因として深く記憶には残っているだろう。
「あぁ……。そういう事か。なんだ、その。すまん」
「ううん。謝んないで。私が出した話題だし」
 優しい彼は傷つくと分かっていて、この話題を出してしまった。
 でもどうしようもない。
「墓参りには行くのか?」
「明日行くよ。お盆には間に合わなかったけど」
「いや、きっと来てくれるだけで嬉しいと思う。お父さんも喜ぶよ」
 体がぴくんと反応した。和男さんも私の反応に気が付き、慌てて言葉を戻そうとする。
「あぁ……すまん。またやっちゃったな。俺はこの話題に触れるべきじゃなかった」
 彼は私と話すときに絶対にパパの話をしない。パパの話になることが嫌なことも知っているし、きっと彼自信もその会話には混ざりたくないんだろう。
 私の前で頭を激しく掻き、落ち込んだ目でワインの水面を見つめる和男さんを見る。
 やっぱりこの人は優しい。
 そろそろ終わりにしよう。
「ううん。いいよ別に」
「……なにがいいんだ?」
「そろそろさ。私も大人にならなきゃなって」
 私は残りのワインを一気に煽って無理やり笑ってみる。百点満点中ニ十点も貰えない様なみすぼらしい作り笑いで、距離を詰めようとする。
「そりゃ、色々と私の中で折り合いがつかないこともあるけど。それでも、これからはもう少しマシな娘になるように頑張るからさ」
 和男さんは驚いて目を開けている。
「今までごめんね」
 驚き開かれた目が一気に濡れる。
「え、ちょっと、泣かないでよ」
 驚いた表情のままボロボロと涙を流し始める和男さんに私も驚き、慌ててティッシュ箱を渡す。何枚かを豪快に取り、これまた豪快に鼻をかむ。こういうところが慣れないんだ。なんて言えずに引き攣った笑いを浮かべてみる。
「すまん。……母さんとは、なんだ、その、折り合いってやつはついたのか?」
「ううん。あっちはまだ冷戦中。多分距離が近かった分、難しい」
「そうか」
 和男さんは涙を腕で擦ると、まだグラスにたくさん残っているワインを一気に喉に流し込み、そして盛大に咽始める。
「何やってんの……」
 私は年寄りを介護するように背中を摩る。あ、私もこの家で呆れた顔ができるんだ。
「ワイン、あんまり得意じゃねぇんだよぉ」
「苦手なら最初からそう言ってよ」
 ゲホゲホと何度か咳き込んだ後、深く息を吸い、手に持ったままだったグラスをテーブルに置く。
「美味かった」
「はいはい」
 私はもう一度呆れた顔をしながら、彼の広い背中を撫でる。
 近づいてみるとこんなに大きい背中が、今じゃ小さく感じる。これは私の中で和男さんが恐怖の対象ではなくなったからだろうか。
「……でも、すごいな、麻里ちゃんは」
「なにが」
「……俺は何年もここにいるのに、俺の方から歩み寄ってやれなかった」
「十分歩み寄ってくれてた。私が悪かっただけ」
「麻里ちゃんは優しいな」
 大きく小さい背中が弱音を吐いている。撫でれば撫でる程、この人が弱く見えるのが不思議で面白い。
 だから私は今日三年ぶりに顔を見せて、ぞっとしたことの訂正を求めて見たり。
「ねぇ、和男さん」
「なんだ?」
「その、私の事、ちゃんづけは流石にやめて欲しいなぁって」
「え、あ、あぁ。嫌か」
「まぁ、そんな歳じゃないし」
「すまん。気が利かなくて。えっと、そうだな。……麻里」
 彼があまりにも恥ずかしそうに言うもんだから、こっちまで恥ずかしくなってくる。そして呼び名が変わることにむず痒さと小さな喜びを感じた。
 そういえば莉緒と最初に会った時の私がこんな感じだったっけ。
 恥ずかしがりながら「莉緒ちゃん」と呼んだ私を見てどう思ったんだろう。いつの間にか変わっていた「莉緒」の呼び方にどう感じたんだろう。
 莉緒のことを考えると、すぐにでも莉緒に話したくなって。帰ったらこんな話をしよう、あんな話をしようと頭の中にどんどんとメモ書きが増えていく。
「コップ下げちゃうよ。多分そろそろ夕飯もできるでしょ」
「あぁ」
 二つのグラスとワインボトルを持ってダイニングルームを後にしようとし、立ち止まる。
「そうだ、和男さん。一つお願いしていい?」
「お願い?」
「お願いって言うか、約束かな?」
「なんだ?」
 和男さんはぽかんと私の顔を見る。
「和男さんはすぐに死なないでね」
 その言葉に和男さんは緊張が解けたように豪快に笑った。
「任せとけ。それだけが取り柄だ」
「そう。良かった」
 ダイニングルームから出ると、優しい醤油の匂いが鼻孔をくすぐる。
 普段料理をしないからこの匂いが何の料理なのかは分からなかった。
 あたしが10の時。パパは死んだ。
 優しくて弱い人だった。細い腕で頭を撫でられる感触と、儚く消えてしまいそうな笑顔を覚えている。
 あたしの記憶の中にいるパパは、いつでも真っ白い部屋の真っ白いベッドの上。
 直視すると白に反射した光で目が眩みそうで、まっすぐに見ることが出来なかった。
「あたし大きくなったら、お医者さんになってパパを治してあげるからね」
 そんな言葉を吐いたことがあったっけ。
「麻里が大きくなるまでに生きてられるかなぁ」
 へなへなと笑うパパの顔を見て、あたしは涙を流したんだと思う。
 ごめんねというパパの顔が頭から離れない。
 パパは肺がんの発覚から五年、苦しい闘病生活を送り、死んだ。

 あたしが15の時。父親ができた。
 優しくて強い人だった。太い腕で頭を撫でられる感触と、豪快で快活な印象がとても苦手だった。
 パパが死んでから、あたしは母親と二人で生きてきたあたしにとって、母親を守ることがあたしの使命のように感じていた。女手一つであたしを育てる母親を、今度はあたしが救う。そう信じていた。
「私の夢は、公務員になって母親を楽させてあげることです」
 そんな言葉を作文で書いたことがあったっけ。
「麻里の好きなように生きていいんだよ」
 母親は当時のあたしにそういったけれど、その時のあたしにはそれがあたしの全てだった。
 だから母親があたしの助けを必要としなくなった時、全てが失われた。
 勉強も評定も進路も目標も。全てが一瞬で無意味な物になってしまって。あたしは高校受験への勉強を辞めた。
 すまんと申し訳なさそうにあたしに接する父親も、あたしを裏切った母親も大嫌いだった。
 あたしは高校に上がるのと同時に、煙草を吸い始めた。



『まーちゃん、やっぱり煙草は辞めた方がいいよ』
『なんで』
『なんでって、いいこと一つもないじゃない』
『ストレス解消』
『そのストレスの原因の何割かはニコチン切れでしょ? 悪質なマッチポンプ。それに煙草で肺でも――』
『それ以上は言わないで』
『……言われたくなければ辞めればいいのに』
 あたしが高校二年生になり、人生で最も華々しいとされる時期を迎えた時。佳晴は人生で最も忌々しいとされる受験期に突入した。
 受験期という事もあり、佳晴の母親は今まで以上に気合を入れ始め、圧はエスカレートしていった。ただ等の佳晴も流石に受験期となればモチベーションは上がるのか、いつもの熟すような勉強とは違い、明確に相手を意識した勉強に変わっていった。
 もちろん彼が目指すのは日本の頂点。東大に入らなければ生きている価値が無いと言われんばかりに、母親からは東大の情報が次々と送られてきた。
『今日も気合入ってますねぇ』
『まーちゃんこそ。ゲームしてないで宿題でもやったら』
『宿題なんて簡単すぎてすぐ終わったよ』
『じゃあ受験勉強でもしたら? 一年早く始めとくと楽だよ?』
『中学校の頃から東大を目指してる人間が言うと、重みが違いますねー』
 スタートダッシュが肝心とはよくいった物だ。小中と優等生で通ってきたあたしは基礎がしっかりしていたのか、勉強に対する抵抗感が少なかったのも相まって高校教育で躓くことは無かった。と言っても高一の範囲での話で、彼が手にする数Ⅲの参考書なんかを捲ってみてもなんのこっちゃ分からない。まぁ、このままいけば多分分かるようになる。
 学校でつるむ騒がしい奴らは案の定脳みそはすっからかんで、よくこの高校に入れたもんだと考えさせられる。そんな人間の中であたしは一種のヒーローで、ちやほやされることも実は楽しかったりする。
 将来の目標なんて全然分からないけど、とりあえず目の前の事だけはやっている。グレても結局は根が真面目なんだ。
『東大に行くの?』
『行ければね』
「行けるでしょ?」
『どうかな』
『春の模試の判定見たよ? 合格確定じゃん』
『この世界に確定なんて言葉は無いんだよ。残念ながらね』
『じゃああたしが東大に入るのも絶対無理だとは限らないね』
『今から猛勉強すれば行けるんじゃない? 東大行きたいの?』
『絶対行かない。うちの学校で東大なんて言った日には教師からも疑われるよ』
『後輩になったら楽しそうなのに』
『楽しいなんて感情ないくせに。あたしは嫌だよ。お前の後輩なんて』
『酷い言いようだ』
 今じゃ学校にいる時以外は殆どこいつと一緒にいるんだ。大学まで一緒になってたまるか。
 去年までは週三のペースで家に来ていた佳晴の悪魔も、今じゃ日曜日に来るだけだ。佳晴が悪魔に対して「集中したいから」と言えばそれまでだった。まぁ実際それで彼も今まで以上に勉強するようになったんだから母親としても満足なんだろう。
『佳晴、パソコン使っていい?』
『スマホあるじゃん』
『データ制限』
『使いすぎなんだよ』
『最近じゃ佳晴だってそこそこパソコン使うじゃん』
『まーちゃん程じゃないよ』
 その会話を合意と取ってあたしはパソコンの前に座る。
 アカウントを選択することを決して間違わぬように慎重に行い、彼のパスワードを入力してログインした。
 このパソコンは佳晴が一人暮らしを始める時に母親から買い与えられたものだ。アカウントは実家の物と共有で、検索履歴や使用頻度まで監視されている。ネットを全面的に禁止されていたらしい過去から比べれば飛躍的な進歩なのかもしれないが、傍から見ればきちんとした地獄だ。
 ただ生憎彼の母親は機械には詳しくなったようで、基本は全てを佳晴に任せていた。アカウントこそ共有で監視できているが、そのアカウントを増やす権限を佳晴が持っていることなんて知らないらしい。
 数日に一回、彼の実家と同期したアカウントで、大学の情報や入試の出題傾向をまとめたサイトを覗く。それだけで彼の母親は信じ切っていた。自分の洗脳が完璧だと思い込んでいるのだろう。だってあの母親にとって佳晴は自分の分身で。自分には向かうことのない存在なんだから。
『絶対なんてないんだよ』
『なにが?』
『なんでもない』
 まさか息子の部屋にこんな悪が住み着いているなんて思いもしないだろう。
『変なこと調べないでよ?』
『佳晴より変なこと調べないって』
『僕なんか変なこと調べてる?』
『変な掲示板にいるじゃん』
『あれは、まぁ』
 お気に入りのタブからとある掲示板を開く。
 誰にも言えない悩みがある人間が集まる匿名掲示板だ。ここで佳晴は特に何かを書き込むわけでもなく、様々な感情に任せた愚痴を読んでいる。
『こんな掲示板に書き込むわけでもなく、読むだけって。相当気持ち悪いよ?』
『そうかもね』
『そうかもって』
『僕さ。前まで自分がおかしいって気が付かなかったんだ。居心地の悪さは感じていたけど、誰しもこんな感じなんだと思ってたんだよ。ここに一人暮らしを始めたのだって勇気が必要だった。親から逃げ出すなんて僕はなんて弱いんだろうって思って。それでも前の生活は窮屈で必死に逃げ出した』
『で、自分の立ち位置がわかったと?』
『情報なんて手を伸ばそうとすれば幾らでも手に入るからね。びっくりしたよ。僕がいる場所が周囲からみたらそんなに不幸だったなんて思わなかった。それに去年まーちゃんと出会って、まーちゃんはインターネットを教えてくれた。でも、掲示板を見てると落ち着くんだ。自分がずいぶんとマシに見える』
『悪趣味』
『人は自分より下がいないと安心できないんだよ』
『ずっと思ってたんだけど、ネットって学校でもやるじゃん? 今までどうして触らなかったの?』
『なんだろう。分からないんだけど、インターネットで他人の情報とかに踏み込めると思っていなかったのかも。公式の情報を扱っているだけのものだと思っていたし』
『それも親の洗脳ってこと?』
『僕が無知だっただけだよ。インターネットは凄いね。この中にすべての知識が詰まっている。そりゃ僕に触れさせたくない訳だよ。向こうにしたら僕にリンゴを食べられちゃ困るからね』
『あたしが蛇ってか?』
『そうかも』
『否定はできないけど』
 溜息交じりにあたしはネットサーフィンを続ける。
 マウスのクリック音と彼のシャーペンの音がやけに大きく聞こえる。
 この静寂が心地いい。家に帰れば、過干渉の男がいると思うだけで嫌気がさす。最近ではここで寝泊まりすることも増えてしまったし。ここでの生活の方が心が休まる。
『そういえば、さっき自分より下がいないとって言ってたじゃん?』
『え? うん』
『それってつまり、あたしのことを下に見てるってこと?』
 佳晴はあたしの言葉にいつもの感情が籠っていない笑みを浮かべる。
『そんなことない。まーちゃんは僕の光。上も下もないよ』
『わけわかんない』
『そう?』
『きもっちわるい』
 あたしの言葉にまた佳晴は笑った。

 佳晴がおかしくなりだしたのはその年の六月あたりだった。
『まーちゃん。ここの掲示板に書き込んでる人達って、どんな思いをして生きてるんだと思う』
『は?』
『辛いって口に出来て、自分がなぜ生きてるのか分からなくなって。それでもなんで生きているんだろうって』
『何言ってんの?』
『僕は思うんだ。だったら死んだ方がマシじゃないかって』
 梅雨の季節特有の陰鬱に頭が腐ってしまったのかと思った。
『そんなの死ねないから生きてるんでしょ』
『どうして? 人間なんて中層のマンションから飛び降りるだけで死ぬことができるのに』
 壊れ始めた佳晴の目はやはりいつも通り死んでいる。あたしはここに来てようやく、彼を蝕む黒い何かを見た。今までは無知ゆえに体の中で留まっていたそれが、光を見て溢れ出してしまったんだと気づいた時にはもう彼にはあたしの言葉なんて響かなくなっていた。
『なにか、あったの?』
『ううん。なにもない。大丈夫だよ。大丈夫』
 そして彼はまた勉強机に向かう。
 まるでバグを起こしたロボットだった。
 勉強していたと思えば突然震えだし、また勉強に戻る。暫く経つとまた発作のように何かを喋り出し、それが落ち着くと取りつかれたように机に向かう。
 そんな状態が一週間は続いた。
『僕は、教師になるんだ』
 そう呟くのが彼の口癖になった。
『医者になんてなりたくない』
 次にそれが彼の口癖になった。
 あたしは彼のいない隙に彼の机を漁り、原因を探した。
 きっと志望校の模試判定が下がってしまったんだろうと決め打ちして、彼の母親が綺麗にファイリングして机に並べたそれを手あたり次第捲っていった。
 しかしそこにあるのはあたしが見たこともない教科ごとの偏差値と全国順位。志望校の欄にはどれも十分な評価が並んでいる。
『怖い』
 それがあたしの第一声だった。
 頭は良いのは知っていたし、何度か模試の結果も見たことはある。しかしこう並べられると恐怖を感じてしまう。いうなればバグを使って無理やり上げたステータスのような。そんな一目見て分かる異常性がそこにはあった。
 それが彼の母親の創り出した勉強の鬼の実力。彼の地獄のような日々の賜物。
 努力は報われる。そんな言葉を吐くにふさわしい結果があたしの目の前には広がっていた。
『でもなにも問題ない……』
 ただそこに彼が壊れ始めた原因は見つからない。
 そんな時、ふと四月の初めに行われた模試の結果を見た。最近返却されたのだろう。ファイリングされた中でも後ろの方にある。しかし、目を引いたのはそれが原因ではない。その結果用紙だけが、まるでランドセルの底でぐちゃぐちゃになったプリントのように皺だらけだった。一度丸められたそれを伸ばしてファイリングしたのだろう。
 目を通してみると内容は一見他のものと区別がつかない。
 高い点数と偏差値。同じアルファベットが並ぶ志望校判定。
『あ……』
 ただ一つだけ他の模試と違う箇所を見つける。
『第一志望……』
 そこには「文科三類」の文字が書かれていた。
 あたしは慌てて、ファイリングされた他のページを見る。どれもこれも第一志望には「理科三類」の文字が書かれていて、そもそも文科の文字すら見えない。
『まーちゃん?』
『――!』
 佳晴の言葉に驚きあたしはファイルを背中に隠して振り返る。
『あぁ、模試の結果か。いいよ。別に見たって』
『えっと』
 佳晴は笑っている。その張り付いた笑顔の奥には何が隠れているのか。到底想像もつかない。
『あ、もしかしてこの間の模試の結果かな。おかしいよね。先生にも母親にも怒られちゃった』
『怒られた……? こんなにいい点数なのに?』
『違うよ。あの人たちが怒っているのは僕が理科三類以外を第一志望に書いたから』
『……なんで』
 佳晴はなんとも思っていないような顔で冷蔵庫を開け、キンキンに冷えた缶珈琲を手に取る。カシュとプルタブが開けられる音が静寂に響いて、彼は続けた。
『最初は先生。模試の後で職員室に呼び出されたと思ったら「第一志望の欄、間違ってるぞ」って。おっちょこちょいだななんて言われたからきっと僕が理科と文科を間違えたとでも思ったんだろうね。だからちゃんと、これであってます。って言ったら不思議な顔をされたんだ』
 珈琲を喉に流し込み、一息をつく。
『どうして理科三類に行けるのにって。このままいけば安泰なのにどうしてこの時期に文転なんかするんだって。だから僕はそこで初めて他人に夢を話したんだ。教師になりたいんですって。……そうしたらなんて返されたと思う? 東大に行って地方の教師に落ち着くのはもったいない。だってさ』
 きっと今まで母親に理科三類を書かされていたんだろう。きっと佳晴を自分の夫と同じように医者の道に進めたいんだ。佳晴自身も受験シーズンになって勇気を振り絞ったんだろう。でもそれを一蹴された。
『結局は文科三類のまま押し通したよ。先生は不服そうだったけどさ。……けどまだそれは良い方。問題はあの人』
『あの母親』
『模試の結果を見た瞬間、殴られたよ。何を考えてるのって。それが先週』
 佳晴が壊れ始めたきっかけか。本人はきっと自分がおかしくなったことに気が付いてないんだろうけど。
『だから意を決して伝えたんだ。教師になりたいって。今までずっと押さえていた自分のことを話した。そしたらさ。殴られもしなかったんだ』
『え?』
『鼻で笑われただけだった。呆れたように溜息をついて「次からはまた理科三類って書きなさい」って』
 佳晴は缶に残った液体をすべて飲み干して、その缶を力なく床に落とした。
『おかしいよねぇ……』
 彼の手は震えている。震えた両手を見つめて、ゆっくりと自分の顔を触る。その行動は自分の存在が消えていないことを自ら確かめるようだった。
『僕は本当に馬鹿だった……。なぜか自分の夢を語ればあの母親も許してくれると思ってたんだ。東大だったら許してくれると思ってたんだ』
 彼は光の無い目であたしを見つめながら、透明な涙を流した。
 その涙は悲しみから出た物なのか、怒りから出た物なのか分からない。それどころか、そんな行動を取る彼の姿が、人間の感情を模倣しようとする機械か何かに見えてしまった。
『僕には最初から、僕が許されていなかったんだ』
 佳晴はふらふらとあたしに近づく。その姿が怖くて後ずさると、彼はあたしに目もくれずに勉強机に座った。
「もういいんだ。……なんか、糸が切れた」
 彼が最初にあたしに言ったことを思い出した。
 じゃあ、僕と同じだ。
 今の佳晴はあの日のあたしと同じだった。母親に裏切られた気がして全てがどうでもよくなったあたしと同じ。あの時あたしを救ってくれたのは紛れもなく佳晴だった。不器用な間の詰め方と何を考えているか分からないその顔の奥が不気味だったけれど、佳晴があたしを助けた。
 だったらあたしがすべきことは今の彼を救うこと。
 なにをすべきかは分からないけれど、手を差し伸べなくちゃ。
『ねぇ……。佳晴』
『……ごめん。まーちゃん。今はちょっと。……邪魔だ』
『――』
 怖かった。
 すべてを諦めてしまった人間の顔を始めて見た。
 パパが死んだときの母親も。父親ができた時のあたしの顔も。まだどこかに光を求める何かがあった。
 そして前までの佳晴も。あたしを光と呼んだ時に見せた表情は、何かに縋りつく物だった。
 でも、今は違う。
 そこにあったのは人間ではなく。恐らく死。
 自己を放棄し、人間としての尊厳を失った操り人形だった。
『……ごめん』
 そうしてあたしは彼から逃げた。
 これがあたしの罪。
 消えることのない罪の最初の一歩。



 私が目を覚ましたのは昼を過ぎたあたりだった。
 いつもと違うカーテンが日射を遮り、目覚めの悪い朝だった。慣れない天井で焦点を合わせる為にぱちぱちと瞬きをする。
「莉緒、いまなん……あ」
 時計を見ることを横着しようとして読んだ名前が空に溶ける。
 そうだ。今日は莉緒がいないんだった。
 カーテンを開けてみると厚い雲が半分に割れて太陽が差し込んでいる。アスファルトは濡れていて、明け方に少しだけ降ったのだろうかと推測してみる。
「墓参りの時に降らなきゃいいけど」
 私は寝ぼけながら階段を降り、母親にそっけない挨拶をする。和男さんはもう出てしまったらしい。世の社会人は夏休みが短くて可愛そうだ。
「お父さんなんか元気だったけど、何かあったの?」
「知らない」
「そう」
 単純な人。そんなに嬉しかったんだ。
 口角が上がりそうになるのを我慢して台所に立ち、冷蔵庫を開けてみる。流石実家。ぎっしりと物が詰まっている。
 きゅるきゅるとお腹が鳴き始めたので、卵とベーコンを取り出しフライパンに火を点ける。大きな欠伸をしていると、台所に立つ私の元に母親が飛んできた。
「なにしてるの?」
「なにって。朝ご飯でも作ろうかなって」
「……は?」
「は?」
「あんた料理なんてできるの? 卵割れるの?」
「割れるよそんくらい」
 卵を割るのは得意だ。莉緒が来る前にもカップ麺によく卵を落としていたし。
「あんた料理するようになったの?」
「まぁ……。最近ね」
 母親の口が大きく開かれたまま動かなくなる。卵の一つくらい余裕で入りそう。
 娘三年会わざれば刮目して見よ。なんちゃって。



 アスファルトの上に広がる水溜りが日差しに照らされて蒸発し、周囲の湿度をグンと引き上げる。それでもまだ向こうの日中よりはマシな田舎の昼過ぎ。
 私は散歩感覚で墓地までの熱帯路を歩く。
 文句の一つや二つ出したいくらいだが、こっちには移動手段がないんだから仕方ない。
 まずはパパの墓参り。こっちはまだ家から近いからいい。問題はその後、佳晴の墓参り。
 静かな住宅街を歩いていると、自分の知らない新しい家がポツポツと建ち始めている。この町も変わっていくんだ。そんなことに少しだけ喜びを感じる。こんな街にひっこしてくる変わり者もいるんだ。
 新規住宅の庭には見覚えのある青のプラスチックでできたプランターが置かれている。プランターの上部には細い黄色の支柱が伸び、そこにアサガオが巻き付いている。ここの家には小学生の子供がいるんだろう。夏休みにひぃひぃ言いながら持って帰った記憶がある。
 そういえば今年はアサガオを見ていなかったななんて思いながら、もう花を閉じてしまった夏の風物詩を見る。
 一日で一瞬だけ花を開いて、殆どの時間は恥ずかしがりのように隠れてしまう。どうしてそんな生態をしているのか分からないが、不思議な物だ。
 気が付けば八月も折り返しを迎えた。
 夏が終わればアサガオの季節は終わってしまう。しばらく経てばこのプランターもただ玄関先に忘れられるのだろう。
「なんか、寂しな」
 今朝見た夢のせいか、どうも感傷的になっている。いや、どちらかというと、お盆のせいなのかな。
 しばらく歩くとパパが眠る墓地が見えてくる。
 お盆開けだって言うのにちらほらと人がいて、お盆に合わせて帰ってこれない人もいるよね。なんて親近感を覚えてみたり。
 今朝の雨で墓石は濡れていたが、せめてもの親孝行として手桶とひしゃくを借りて水を入れて行く。砂利の敷き詰められた歩道を歩きながら様々な墓石の前を通り過ぎていく。
「パパ。ただいま」
 そしてお目当ての場所に辿り着く。私が長瀬になる前の苗字が書かれた墓。パパは一人っ子だからきっとパパが最後に入ることになったお墓。
「ごめんね。お盆に帰ってこれなくて」
 墓の前にはまだ綺麗な花が刺してあって、なんとなくこれは和男さんの物だろうななんて考える。それを水に濡れないように一旦どけて、墓石にひしゃくで水を掛ける。
「暑いよね。墓石も溶けちゃいそう」
 掃除を終えたら花を戻し、持ってきた線香を取り出す。ライターを取り出して火を点けると、白い煙が細く伸びた。
「ライターで驚かないでね。これでもあたし二十五なんだから。煙草だって吸っていい年齢なんだよ?」
 線香を置き、手を合わせる。
「……ごめんね。中々帰ってこなくてさ。パパなら分かってくれると思うんだ。ちょっと帰りにくくて」
 パパの顔を思い出す。
 優しい笑顔で、痩せこけていて、抗がん剤で肌色が多い顔。
「煙草はたまにしか吸わないから安心して。パパみたいに肺がんになったら笑えないもんね」
 前に墓参りに来たのは何年ぶりだろう。仕事を始めてからは来ていないことは確かだった。
「まずは、どこから話せばいいのかな。大学を卒業して、教師になって、それで今は三年目。毎日楽しいって訳じゃないけど、何とか生きてる」
 墓参りはまるで自分と話しているかのようだ。誰もいない場所で故人に向かって言葉を投げる。それは見ようによっては自問自答。
「っと、まぁ、こんな感じで色々あったよ。あとは……。あ、そうだ。昨日ね、和男さんと少しだけ和解したんだ。パパはあの人のことをどう思ってるのか分からないけど。これからは少しくらいまともな娘になるつもり。お母さんとはまだ難しいけど、頑張るよ」
 他に何を話せばいいだろう。
「ねぇ、パパ」
 あ、莉緒の口癖がうつったかも。
「なに? って返してくれたら、いいんだけどな。……いや、それはそれで怖いかも」
 ひとりでくすくすと笑って続ける。
「来年からは極力毎年帰ってくるね。お盆に帰ってくるかは約束できないけど」
 頭を撫でるような風が吹く。
 私は墓標に笑顔を向け、パパに手を振った。
「じゃあね。また今度」
 案外心は穏やかで、自分の中にパパの死を受け入れている自分がいるのが分かった。
 時間は人を変えていく。
 悲しいけれど、これは大切なこと。
「この夏ね。ちょっとだけ前を向いて歩けるようになったんだ」
 自転車に乗れるようになった事を自慢する子供みたいに、得意げに語って見せる。
「だからずっと、見守っていてね。パパ」
 私は手桶を持ち上げ、墓に背を向けた。
 パパとの再会を果たし、残るは佳晴。彼の実家は隣駅だから電車に乗らなきゃ。
 手桶を返し左腕の時計を見ると、もう三時を過ぎていた。どうやらずいぶんと長い間パパと話し込んでしまったらしい。田舎の電車は本数が少ない。何時に向こうにつけるか分からない。
 急いで駅へと向かって歩き始める。歩いていくにはちょっと応える距離。でも、一カ月前の私だったらすぐにへばっていたけれど、ここ最近の私は一味違う。生活習慣と食生活の改善に毎日の運動。驚くほどにサクサクと足が運べる。これも全部彼女のお陰。
 結局駅に着くころには四時近くになってしまい、そこから三十分は電車を待った。電車に乗り込むと程良い冷房と西日が差し込んでいて、私は隣駅までの十分間だけ、目を閉じた。



 あたしが17の時。友人が死んだ。
 それはとても簡単で、いとも呆気ない結末。
 あたしは弱かった。後を追って死ぬこともできずに、ただただ現実を見ていた。
 そしてあたしは壊れてしまった。
 すべてを失って、全てに嫌気がさして。自分を失くしたあたしは贖罪の為に勉強した。
 彼が目指した教師になろうと必死にもがいた。
 だから人間としてのあたしも。きっと。
 あたしが17の時。死んだんだ。



 あたしは梅雨明けから彼の家に行く回数が減った。
 受験勉強の邪魔をしたくないなんて見え透いた嘘を、佳晴は簡単に受け入れ、週に一回から二週に一回。そして夏が終わる頃には月に一回行けばいい程度まで減っていた。
 その分家に帰る頻度は多くなり、両親は喜んだが、あたしにとってはストレスになるばかり。
 彼の家に行かない代わりに彼とのメールを始め、そこが唯一あたしの愚痴の吐きどころとなっていった。
 佳晴といると安心する。それは本当だ。似た者同士、何か通じるものがあったのだろう。ただ実際に会うことに恐怖していたあたしもいた。偶に会う彼はいつも通りの彼で、へらへらと笑い、あたしの言葉に適当に言葉を返す。しかし、一度見てしまったあの顔がどうしても脳裏にチラついた。
 人間関係という物は結ぶのは難しくても、解けるのは簡単で。彼との距離は開く一方だった。
 秋になれば本格的に顔を合わせることは無くなり、冬が来れば彼は最後のスパートに掛かった。
 一日一回のメールで知った情報では、結局母親は佳晴の意見を聞き入れずに東大の理科三類として出願を提出させたらしい。
 そのことに関して彼からの言葉は一切付け加えられておらず、まるで業務連絡だけがつらつらと並べられる文面に、彼の自意識が死んでいることが手に取るように分かった。
 メールの文面もやがて短くなり、終いにはテンプレートのような文が毎日届くようになり。あたしは返信することを止めた。

 結果。鈴鹿佳晴は受験に失敗した。
 後にニュースで報道されていた内容からするに、二次試験の解答を放棄し、面接では一言も話すことすら出来なかったらしい。

 そして合格発表の朝、一本の電話が入った。
 三月の冷たい朝だった。
 カーテンを開けた時に空に広がっていた朝焼けが美しく、その幻想的な景色はあたしの網膜に強く焼き付いている。
 携帯電話の着信音で目を覚ましたあたしは着信に出ながらカーテンを開けた。
 世界は藍色に染まっていて目を見開いた。
『綺麗……』
 口から漏れた言葉に、受話器越しの声が頷く。
『そうだね』
 その声を聴いて初めて、電話の相手が佳晴だと知ったあたしは、なぜ彼が電話してきたのかと考える。なにか特別な日だったっけ?
 カチャと何かが動く音が聞こえた。この音はあれだ。窓の鍵を開ける音。あたしがあの部屋で煙草を吸いにベランダに出る時によく聞く音。
『……佳晴? なにしてるの?』
 返事は返ってこない。代わりにギシギシと何かが軋む音が聞こえた。
『綺麗だね。朝焼けが綺麗だ』
 その声に感情は籠ってなかった。
 何もない抜け殻の声。
『まーちゃん』
 受話器の向こうで鳥が鳴いた。
『ごめんね』
 そして通話は切れた。
 あたしは大きく目を見開いた。
 ただの数分の電話だった。たった数個の言葉だった。
 でも最後の言葉が別れの挨拶だと察するには充分だった。
「……飛んだんだ」
 あたしの目は締まらない。
 目の前の藍色の空が痛い程目に焼き付いた。
 呼び止めることもできずに、佳晴は死んだ。
 悩みを聞くこともできずに、佳晴は死んだ。
 見届けることもできずに、佳晴は死んだ。
 あぁ。
 あたしのせいで、佳晴は死んだ。
 窓を開けると冬の外気が肌を刺した。
 涙は出なかった。声も出なかった。
 数分後、朝の静けさの中で遠くの方で響きだしたサイレンの音が、あたしの耳をいつまでもいつまでも責め続けた。



 電車のアナウンスで目を覚まし、慌てて電車から飛び降りる。
 今行くからさ。夢の中まで出てこないで。ストーカーかよ。
「気持ち悪いなぁ」
 久しく使っていなかった言葉を無意識に出して改札から出る。
 佳晴が死んで私は壊れた。
 二十にもならない子供にとって、身近な人間の死は酷く心を蝕む。
 私に残ったのは死んでしまいたい程の重荷と、死ぬことへの恐怖。
 世界の理不尽さと、世の中への嫌悪。そして自責の念に押しつぶされた。
 佳晴の自殺後、警察に長い間事情徴収されたのも応えたのだろう。
 そりゃあ優等生の家に長い間上がりこむ不良少女は怪しい存在だ。取り調べを受けるにつれ更に佳晴を殺したのは私ではないかと考え始め、もうそこからは記憶がない。
 佳晴への贖罪のつもりで勉強を始め、教師を目指した。何もない自分にとっては、縋りつきたい藁だった。他人の夢を自分の物だと思い込んで、それだけを考え続けた。
 東大には行けなかったものの、そこそこの大学の教育学部に合格し、今ではこの通り、私も抜け殻。
 莉緒に救われなかったら、生きる意味さえ見いだせなかっただろう。
 佳晴の詩は今でも私の中に大きく傷跡を残している。傷跡、いや、生傷と言った方がいいかもしれない。長年のカウンセリングで幾分かはマシになったものの、今でも条件によっては酷い幻覚症状に襲われる。
 ここ最近では特にそうだ。
 莉緒が死について語るもんだから、佳晴の死を呼び起こしてしまったのか。
 それとも、彼女から見る私の像があの時の佳晴と同じなことに気がついてしまったからなのか。
 いずれにせよ私の中で凍り付いていた時間と記憶は彼女の熱によって溶かされた。
 今日はそれの清算だ。
 今まで背けてきた分。きっちりと向き合う。
 それがケジメだ。
 携帯電話の地図を頼りに佳晴がいる墓地へ辿り着く。勿論佳晴が死んでから初めて訪れる。八年間目を逸らし続けてきた罪は重い。
 園内を歩きながら鈴鹿の文字を探す。珍しい苗字だから複数あることは無いだろう。
「鈴鹿、鈴鹿……あ」
 足を進めていると、明らかに一ヶ所、立派な墓地に鈴鹿という文字を見つける。敷地内に生垣と松が植えられ、最近誰かが来た形跡もある。こんな地方に立派な墓地。多分ここに佳晴がいる。
 私は佳晴の両親に酷く嫌われている。鉢合わせでもしたら、なんて考えたけれど最悪の事態は防げたようだ。
「まぁ、息子についていた悪い虫のせいで死んだも同然だから、仕方ないよね」
 私はパパのお墓にやったように掃除をすると、線香に火を点けた。ライターを出すときにポケットから煙草が落ちて、墓の前で笑ってみる。
「銘柄まだ変えてないんだよ」
 呆れられた顔が浮かぶ。
「まだ美味しいとは感じられないけどね」
 線香を供えて、しゃがみ、手を合わせる。
 パパの時もそうだった。故人と話すときにはその頃の自分になってしまう。
 だから私は自分の口から汚い言葉が出ることに少し驚いてしまう。
「……なんで死んだんだよ。……馬鹿」
 すぐに涙は流れ出た。
 八年間氷漬けにしていた涙だ。どれだけ泣いても足りない程ある。
「馬鹿だなぁ。ほんと。あんたは馬鹿でしょ……。死んだら、なにもなくなっちゃうじゃん……」
 そのまま私は泣き始めた。嗚咽交じりの子供じみた泣き方。そのうちしゃがむのもつらくなって両手を前に着く。
 泣きながら今までの生活を順を追って話した。激動の高校生活の事。大学入学後の事。沢山を話して。何かを話すたびに口癖のように謝った。
 これまで墓に来なかったから謝る事すらもできなかった。今まで溜め込んだ八年間の謝罪を彼に向かって投げ続けた。
 顔をぐちゃぐちゃにしている私を見て、きっと彼はいつもの様に無感情な笑みを浮かべている。
「やめてよ、その顔」
 泣いて泣いて、謝って。
 空の雲は流れて、太陽は傾き始める。
「そうだ。ねぇ、佳晴。あたし、高校教師になったよ?」
「あれから、猛勉強して、大学に入って、はさっき言ったか」
「佳晴が先生になってたらもうちょっと上手くできたのかな」
「って言っても、あんた人に教えるの下手糞だったから無理かも」
「……まぁ、あたしは教員免許すら取れないんだけど」
「笑わないでよ? 今年落ちたのはあんたが悪いんだから」
「……あたし、佳晴が目指してた先生になれたかな」
「慣れてるといいな」
 佳晴が笑っている。僕は僕みたいなのを減らしたくて教師になりたかったのに。まーちゃんが僕になっちゃ駄目じゃない。なんて言ってるんだろう。
「それに気づいたのも最近」
「気づかされたって言った方が正しいかも」
「あ、そうだ」
 涙でぐちゃぐちゃの視界で見る墓標には夕日が橙の光を被せている。それを見て莉緒を彼に紹介したいな、なんて思ったり。
「ねぇ、佳晴」
 なに? まーちゃん。声が聞こえたような気がした。
「今ね。心に何かを抱えている女の子と一緒に住んでるの」
「同居って言うか……。匿う、みたいな感じ」
「佳晴があたしに居場所をくれたから。……あたしも彼女に居場所をあげたくて」
「最初に会った時に橋から飛び降りようとしてたんだよ? 信じられる?」
「……あたし必死で。気づいたら彼女を呼び止めてて」
「……彼女を呼び止めることができて、よかった」
 佳晴はまた笑う。
「あたしね。彼女を助けたいんだ」
「方法は分からないけど」
「今度は、絶対に助ける」
 彼は頷いた。
「今度は、逃げないから」
 一人で決意表明を行う。周りから見たら立派な変質者。
 僕を神社の神様みたいに扱わないでくれ、なんて言いそうだから私は笑って否定する。
「だったら手伝って。あたしが莉緒を救うから。何かあったら助けてよ」
 めちゃくちゃだね。
「そうだね」
 私達は笑った。
 カラスが鳴いて時計を見る。既にここに来て一時間が経過していた。
「じゃあ、そろそろ帰る」
 まーちゃん、帰るときはいっつも急だよね。
「仕方ないじゃん。帰る時まで帰ることを忘れてるんだもん」
 バカみたい。
「残念ながら最高学歴はあたしの方が上」
 そうだね
「ほら、死んでろくなことないじゃん」
 まーちゃんはこっちに来ないでね。
「当分行かない」
 じゃあ見ててあげるから。
「見てなくていい。一方的に見られてると思うだけでぞっとする。気持ち悪い」
 いつものだ。
「昔のだよ」
 そう。
「そうだよ」
 そろそろ暗くなっちゃう。
「前は夜中までいたけどね」
 もう若くないんだから。
「ぶっ飛ばすぞ」
 こわいこわい。
「……じゃあね。帰るよ。私」
 うん。じゃあね。
「また、今度」
 私は古い友人との会話を終えて帰路につく。
 私の傷が塞がったとは言えない。
 ただ、その傷を受け入れることは出来たような気がした。
 私の中の時計はゆっくりと動き始める。
 朝焼けの景色は明けた。
「おはよう」
 外は雨が降っている。朝日は部屋に入らず、暗い天井を見た。
「……あ、莉緒いないんだった」
 無意識のおはようの返事は帰ってこない。それが無性に寂しく、また私は深い眠りに手招かれる。体が動かない。昨日は自分が思っている以上に疲れたのだろう。それもそうだ。八年間の清算が並大抵の労力で終わる筈がない。
 体は正常で何一つ傷ついていない。ただ精神は比べ物にならない程ボロボロだ。今まで麻痺していた痛みは、当時を思い返すように私の心に牙を剥く。切り裂かれ、穿たれ、押しつぶされ。ぐちゃぐちゃになって、また私を形成する。
 これは夢ではない。だが、そこらの悪夢より、よっぽどきつかった。
 目を覚ましてしまいたい。起きていれば外部からの情報で幾分かは痛みがマシになるだろう。だが、彼女がいない私はすんなりと意識を浮上させることが出来ない。
「ラムネ……」
 頭の上あたりに手を這わせるが、もちろんそこに緑色のプラスチックケースはない。
 私は睡魔に引きずり込まれるように、再び目を閉じた。
 耳には激しい雨の音だけが、ずっと響いていた。

 目を覚ましたのは正午を過ぎたあたり。
 痺れを切らした母親が私を叩き起こした。正直助かる。あのまま過去を見続けていたら、またカウンセリングを受ける羽目になりそうだ。
「朝ご飯は食べる?」
「んー」
「もう昼だけどね。いつまで寝てるんだか」
 夏の初めに戻ったみたいだ。彼女とこんな会話をした記憶がある。
「なんか今日と明日で降るらしいから、帰る時は気を付けな?」
「台風?」
「わかんない。台風ってニュースで言ってないから違うんじゃない?」
「じゃあ新幹線は止まらないか」
 あっても在来線が遅れるくらいだろう。それくらいなら差支えはない。
 私は出された朝ご飯兼昼ご飯を食べ、新幹線の時間を確認する。
「十三時にはここ出ようかな」
「あと一時間もないじゃない」
「それが一番いい電車だった」
「ほんと麻里はいつも急なんだから」
「……それ、昨日も言われた」
「誰に?」
「なんでもない」
 目の前のものを食べ終わり、食器を下げる。シンクには他に洗い物が無く、もう朝の家事を粗方終えた後だった。
 私がそのまま水を出し、スポンジを手に取ると母親はまた驚いた顔をする。
「今度はなに?」
「いや、どう見ても洗い物でしょ」
「あんたが?」
「このくだり、昨日もやったから」
 冷たい水を両手に浴びながら、茶碗を洗っていく。いつも料理はしないけど、後片付けくらいはできるんだ。そこまで莉緒にやらせちゃ、きまりが悪い。
「駅まで送ってく?」
「おねがい」
「あ、これも持って帰んなさい。この間、暑中見舞いで貰ったの。ほら、最近ちょっと有名になったでしょ。国道線沿いにある洋菓子屋さん」
「いや、知らない」
「そう?」
「どうせ有名になったってここら辺だけの話でしょ?」
「まぁ、いいじゃない。実家からのお土産って職場にでも持ってきなさい」
 職場に実家からのお土産を配るほどの人脈は無いんだけどね。とも言えず。しぶしぶ頷く。
 そもそも他の先生は夏休みは部活に出ずっぱりなわけで。持って行くだけ嫌味に思われそうだ。
「荷物、入るかな」
「あんな大きなワインボトル持ってきたんだから、これくらい入るでしょ」
「……それもそうか」
 冷蔵庫で冷やしてからは一度も飲まなかったワインを思い出し、それに付随してあのイヤリングも思い出す。
 莉緒は喜んでくれるだろうか。こんなの付けないとか言いそうではあるけれど、無理やり押し付ければきっと受け取ってくれる。
 プレゼントしたニット帽はお気に入りだし、買った服もあれから着てくれている。思えば全身を私色に染めているようで少し恥ずかしい。今度靴も買ってあげようか。
「ほら、早くしなさい。送ってくから」
「はーい」
 私は洗い物を終え、眉毛を引く為に洗面所へ向かった。



 在来線から新幹線。そこからまた在来線。そしてバス。
 いくつもの交通機関を乗り継ぎ、バス停を下り傘を差したのは五時を回る頃だった。
 夏は一日が長い。空は雲空とは言えどまだ日中で、日暮れまでは時間があった。
 私は旅行鞄を雨で濡らしながら小さい傘で頭を守り歩く。
 莉緒はもう帰っているだろうか。彼女に会ったら沢山思い出話をしよう。和男さんの事、パパの事、佳晴の事。無理やり持たされたクッキーを食べながら、彼女の話も聞かなくちゃ。きっと彼女にも話したい事の一つや二つあるだろう。
 もしかしたら、何か新しいことを教えてくれるかもしれない。
 彼女が辛い顔を見せるなら、抱きしめてあげなくちゃ。
 そうすると。彼女を守ると決めたんだ。
 辿り着いた自分の部屋は鍵が掛かっていた。そういえば鍵はポストに入れて貰ったんだった。面倒臭がりながら一階に降り、ポストを開く。そこには銀色の鍵がぽつんと一つ。莉緒がまだここに帰ってきてないことを物語っていた。
「まだ帰ってきてないのかぁ」
 一抹の寂しさを感じながらまた自分の部屋を目指す。
 とりあえず、彼女が帰ってくるまでに部屋の掃除でもしよう。
 鍵を差し込み、回す。ガチャと重い音がして鍵が外れ、ドアノブに手を掛けた。
「ただいまー」
 返事など帰ってこない挨拶。そして彼女の靴の無い玄関。
「寂しいなぁ」
 なんて言いながら靴を脱ぎ、部屋の奥へ進む。
 そして。
 目を見開いた。
「……なにこれ」
 部屋の中は綺麗に掃除されていて、埃一つない。
 私が出る時に脱ぎ散らかしたパジャマも、朝ご飯を食べた後出しっぱなしだった食器も綺麗に片付けられている。
「おかしい……」
 部屋を見回す。おかしい。そんなのおかしい。
 ない。何一つとしてない。
「莉緒?」
 この部屋の中に莉緒の物が無い。
 部屋の端に纏めて置いてあった彼女の私物がない。
 私の家に来てから買った数々の生活用品と私服。ホームセンターで買った物騒な物。
 それらをまとめた袋が無い。
 恐る恐るキッチンへ行く。戸棚を開けるとそこには夏以前に使っていた私の茶碗。
 彼女の茶碗も、彼女から貰った新しい茶碗も消えている。
「どうして……?」
 洗濯機の蓋を開け、洗濯物を出してみる。
 出てくるのは私の服。彼女の身に着けていた物なんて一つもない。
 リビングのコンセントを見る。いつもならそこに刺さっている筈の彼女の携帯電話の充電器が無い。
「家に持って帰った……?」
 いや、そんな筈はない。服と携帯だけならまだしも、食器に日用品まで。そんなことある筈がない。
 彼女が買った物。彼女に与えた物。彼女が手を加えた物。全てが消えている。
「……莉緒……っ!」
 私は慌てて本棚に駆け寄る。
 いくつかの参考書をまるで空き巣のように散らかして取り出す。
 あれは。
 あれはどこ。
 私と彼女のルールが書かれたノート。何ページかに渡って彼女を縛り付ける約束を書いたノート。
「あった!」
 参考書の中に一冊のノートを見つける。
 慌ててそれを開いた。
「なんで……」
 表紙を捲ると、そこにあったのは私の文字で書かれた「したいこと」
 彼女とのルールのページは綺麗に破られていていた。
「……莉緒……。なんで。……なにこれ」
 本棚の前に座り込んでいた私はふらふらと立ち上がる。
 なにかの悪戯?
 それとも夢?
 おかしい。こんなの、おかしい。
 その時、ノートの中から一枚の紙がするりと落ちる。
 ノートの一ページだ。
 拾い上げるとそれは彼女が破ったこのノートの一ページ。二人で作ったルールの次に彼女が書き込んだ問題。私達が一緒に解こうとした難問。
『以下の命題の真偽を述べ、真の場合にはここに証明し、偽の場合には反例を上げよ』
『私は生まれてきてよかった』
 奥歯を噛む。
 その紙の切れ端を裏返すと、更に一言、書き加えてあった。
『約束を破ってごめんなさい』
 手の中で紙がくしゃっと潰れた。
 こんなの。
 こんなの……。
「間違いに決まってるでしょ!」
 私は玄関に立てかけた傘を持ち、無我夢中で飛び出した。



 彼女が家を出たのは恐らく二日前。
 最悪なことを考えれば、もう遅すぎる。
 携帯電話で彼女の番号にかけるが、もちろん繋がらない。
 そのままニュースサイトを開くが、目立ったニュースは無かった。
「どこにいるの……」
 当てもなく走る。彼女との会話を思い出しながら、彼女が行きそうな場所を回る。
『家に帰るなら死んだ方がマシ』
 実家には帰っていない? 探し回って見つからなければ学校に行って彼女の住所を探そう。ルールが綴られたページは破かれた。彼女への干渉をしない約束だって無効だ。
「先に約束を破ったのはあんただからね」
 まずは家から回れる場所を探す。彼女とどこに行った? 考えろ。
 夕日を見た橋で彼女と出会った。
 彼女を匿うことになってからコンビニへ行った。
 それから様々な飲食店に行った。
 隣町のショッピングモールで様々な物を買った。プレゼントを渡しあった。
 彼女に言われて毎日公園を歩くようになった。
 彼女に服を買った。スカートを履かせた。
 帽子を外して色んな所を歩いた。
 浴衣を着て花火を見に行った。
 二人で遠出をして温泉旅行に行った。
 彼女のわがままで水族館にも行った。
「どこ……」
 まずは公園。こんな所にいないことは分かっている。でも万が一を考えると選択肢から切ることができない。ここ以外はどこも遠い。花火を見た河川敷も旅行に行った箱根も、水族館も。電車でかなりの時間を掛けなきゃならない。
「そんな時間ないっての!」
 公園を走りながら忙しく視線を回す。雨と風が木々を揺らし、まるで迷路に迷い込んだようだった。道が歪み、眩暈が起きる。体をはち切れさせんばかりの不安が体内で暴れている。
 怖い。
 もう誰かを失うのが怖い。
 この公園で彼女が言った言葉が幻聴として聞こえる。
『私、首吊りなんて嫌なんで安心してください。苦しいし綺麗じゃないですし。死ぬときはもっと綺麗に死にますから』
 綺麗に死ぬって何。馬鹿みたい。ふざけないで。こんなに人を心配させて。なにが綺麗だ。
「馬鹿!」
 公園を見切って道路に出る。どこに行けばいいかもわからずに、その場にしゃがみ込む。
 今度は私の言葉が聞こえる。
『私の知らないところで私が知らないまま死んでよ』
「なのに莉緒を探してるのは、どこのどいつだよ……」
 訳が分からなかった。
 自分が考えていることが分からなかった。
「私も大概馬鹿だ」
 私は莉緒を救いたい。
 いや、救いたいなんて綺麗な言葉じゃない。
 私は莉緒に生きていて欲しい。
 それは彼女の為なんかじゃない。
 私のエゴ。私が彼女に死んでほしくないから、彼女を引き留める。
「学校に行こう……」
 今必要なのはやはり実家の住所と電話番号。彼女が見つからなくてもいい。まずは彼女の親と話さなくちゃ。
「全部話して、謝ろう。まず、それから」
 ふらふらと立ち上がり、車通りが多い交差点に行く。
 タクシーは普段からあまり見ない。駅の方に行かなきゃ。
 傘を持ちながら駅の方向へ走る。体力はない。足がもつれる。しかし何とか気力だけで前に進む。体はすでにびちょびちょで、きっとタクシーでも白い目を向けられる。
 でも、そんなことを構っていられなかった。
 そんな時、前方から珍しくタクシーが近づく。慌てて手を上げると、運よく客の乗っていなかったタクシーは私の隣で停車した。
 車内のクーラーが一気に私の体を冷やす。雨と汗で濡れた私の体が熱い。
 運転手に学校の名前を伝えると、バックミラー越しに一度怪訝な目を向けられ、ゆっくりと動き出す。
 車窓には酷い私の顔が写る。寝不足だったもんね。酷いクマ。目元は黒く、顔面は蒼白。
 体調の悪さまで感じる。
 揺れる窓にもたれるように頭を預けると意識が遠のく。
 真っ暗な空間に莉緒が立っている。
 そんな彼女が一瞬で真っ赤に染まる。
 絶対に止める。
 命を絶ってどうするというんだ。
「……さん? お客さん?」
「……ん」
「お客さん……。着きましたよ……? 大丈夫ですか?」
「……ええ。はい。すいません」
 表示された料金をトレーに置き、レシートを断る。
「雨降ってるんで気を付けてよ。元々ずぶ濡れだったのに。風邪ひいちまう」
「……ありがとうございます。すいません。ご迷惑を」
「ほんと参るよ。一昨日も変なお客さん来て。丁度お客さん乗せたあたりに呼ばれて、行ってみたらすごい荷物で。今のあんたみたいに顔色悪かった」
「……?」
 なぜか、何かが引っかかった。
「そのお客さん、どこまで?」
「病院だよ。体のどっかでもやったんだろ。目がギラギラしてて気持ち悪かったんだよ。覚えてる」
「……莉緒?」
「はい? なぁ、もう降りてくれ。こっちも仕事なんだ」
 気が付けば私は運転席と助手席の間から身を乗り出し、運転手の肩を掴んでいた。
「おいっ! なにしやがる!」
「その子。女の子でしたか?」
「は……?」
「身長が小さくて、えっと、ニット帽とか、被ってませんでした?」
「あんた知り合いかよ。そうだよ。こんな暑いのにニット帽被って」
「その病院に行ってください」
「何言ってんだよ。てか、まず手を放してくれ!」
 手を跳ねられ、私は慌てて席に戻る。
「ごめんなさい……。病院にお願いします……」
 運転手は大きく舌打ちをしながら、学校に横付けした車を動かす。
「あんた、ものによっちゃ、警察沙汰だかんな!」
「……すいません」
「ったく。二人そろって、気色の悪い目してよ……」
 イライラとシャツを正して運転し始める男に申し訳なさを抱きながら私は考えた。
 病院。
 なんで莉緒が病院に?
 そういえば、一度病院の話題を出した時に彼女の反応がおかしかった。
 あの時はその小さな変化に目を背けたけれど、今なら明確におかしいと思える。
 最近の貧血。旅行の時の出血。そしてあのパニック。
 あの病院、確か、精神科も入っていたっけ。あのパニックは私の物と似ている。カウンセリングを受けていてもおかしくない。
 じゃあ、何か過去のトラウマが?
 彼女に一歩近づいた途端。今までの疑問が線で繋がれていく。
 ただ、まだ真相には遠い。
 そもそも病院に行って彼女がいるとは限らないんだ。
 カウンセリングを受けてそのまま実家に帰っていてくれたら。そんな現在の最善択を祈る。
 お願いだから何事もなく、無邪気な笑いを浮かべていてほしい。
 私の胸の中には未だに形容できない感情が渦巻いている。年上の人間としての庇護欲にしてはあまりに大きく。恋愛感情と呼ぶには甘さが足りない。
 この感情は何なのか。自分のことも莉緒のことも分からぬまま、強く強く莉緒を想った。



「……ですから、何度も説明した通り当院に藍原さんという患者様は現在入院しておりません」
「じゃあ、一昨日に彼女がここを訪れたかだけでも」
「お答えできません」
「なんでですか!」
「……個人情報の取り扱いには細心の注意を払っておりますので……。申し訳ありませんが……」
 病院に到着して真っ先に受付に走った私は、その勢いに任せて、ここに莉緒が入院しているのか。この病院に診察に来たのか。そういった事を次々に質問した。
 しかし結果として、殆どの答えを『答えられない』と返されることになった。
 私も昔精神科に入院した身だ。面会を拒否すれば、その病院にいるという情報も伏せることができることくらい知っている。
 私が一度莉緒の名前を出した時、受付の女は手元のパソコンで名前を調べ、そこにある情報を目で追っていた。つまり莉緒は確かにここに関係がある。しかし、個人情報漏洩に厳しいこの時代があと一歩のところで莉緒に届かせてくれない。
 私にずっと何かを隠していた莉緒だ。きっと事情を隠したいと考えるだろう。彼女がどんなことでこの病院に関係しているのか。それが分かるまでここから離れるわけにはいかない。
 一刻を争うんだ。
 もし、ただの診察であったなら学校に戻って住所を調べ直さなければならない。
 その時、背後でコンビニの袋のようなものが落ちる音がして無意識に振り向く。
 広く騒がしい待合室だったが、その音は綺麗に私の耳に届く。
「……莉緒」
 そこには、パジャマ姿でこちらを茫然と見つめる莉緒がいた。
「……なんで、こんな」
 彼女は大きく目を見開くと、次の瞬間、私が足を動かすより先に逃げ出した。
 彼女が地面に落とした物には目もくれず、私は彼女の後を追う。
 後ろで受け付けの女が私に止まるよう声をかけた気もするが、そんなものは耳に届かなかった。
 莉緒は病院の奥へと続く道を走る。その小さな背中を私は追う。
 莉緒の手を掴まなきゃ。彼女を引き留めなきゃ。
 それだけが、私の足を進めた。
 途中何人かの患者に驚きの眼差しを向けられ、何人かの職員に注意を受けた。それでも止まらない莉緒の背中を追って院内の曲がり角を一回、二回と曲がる。
 そして。
 三回目の曲がり角を曲がった瞬間。
 莉緒は私の足元に現れた。
 蹲るようにして、彼女は倒れていた。
驚きながらも勢いの付いた体をどうにか操り、彼女を踏んでしまうことだけは避ける。
「……え? え? ちょっと! 今誰か呼んで――」
「大丈夫!」
「……?」
「大丈夫だから……。ちょっと待ってて」
「待っててって……」
「ただの貧血だから。……大丈夫」
 ふらふらと壁に手をつき立ち上がろうとする莉緒の足には、明らかに力は籠っていない。
 一度がくっと体勢を崩し、それを抱きとめるようにして私は莉緒を両手で受けとめる。
「大丈夫ですか!」
 背後から慌てた男の声が響く。振り返ると、白衣を着た初老の男性が息を荒げながらこちらに走ってくる。
「鴨田先生……」
「藍原さん? 大丈夫ですか?」
「……はい」
「息が上がってます」
「ちょっと走ったら……」
「何を考えてるんですか……。あれほど安静にしてくださいって釘を刺しましたよね」
「はい」
 私に支えられながら彼女は病院の先生と思われる男に叱られる。
 そのやり取りから見る二人の姿は、一時の患者というよりは、長い間柄のように見えた。
「自分の立場が分かっているんですか? 貴女は――」
「ストップ! ……ストップです先生……」
 莉緒は先生の言葉を手の平で止める。
 そして私の方をちらりと見た。
「そう言っても……。ここまで来て隠し通すのは無理がありますよ」
「……はい」
「だったら早く言ってしまった方が、拗れずに済みます」
「はい……。だからせめて、私の口から」
「……そうですか。分かりました」
 鴨田先生と呼ばれた男は静かに頷くと、ゆっくりと言葉を付け加えた。
「ここでは他の患者さんに迷惑が掛かります。藍原さん。病室に戻りましょう」
「……はい」
 莉緒は私に「大丈夫」と小さく告げると、体を支える私の腕を振り払うようにして歩き始める。。
 ゆっくり、ゆっくり私から離れていく彼女を見て、どうしても私は足を踏み出せなかった。
 足が震えている。
 頭の中は突如現れた新しい情報でパンク寸前だった。
 莉緒が生きていてよかった。
 莉緒は入院している?
 なんで倒れた?
 数々の質問が渦巻く中で、一つだけ確かに感じているのは紛れもない恐怖だった。
 莉緒の病室へ行くのが怖い。そこには彼女が必死に守ろうとした秘密がある。それがいざ目の前にあると知ると、足がすくんでしまう。
 なんて情けないんだ。私。
 もう一度触れたら壊れてしまいそうな程繊細で華奢な彼女の背中を見る。
 一歩一歩確かめるように、よろめきながら歩く姿は、生にしがみつく彼女そのもの。
 消えてしまいそうに儚いその体の中からは、正しく彼女の命が燃えている熱が見えた。



 莉緒の病室は個人部屋で、そこまで広くはない。
 病室に入った瞬間、パパの姿がちらつき、口の中に苦いものが広がった。
「挨拶が遅れました。私、彼女の担当医をさせて頂いております。鴨田昭利と申します」
 そう自己紹介した男は首元に下がった名札を右手で持ち上げて会釈する。
 名刺を差し出してくるので、私は財布の中に入っていた予備の名刺を手渡す。形式ばった挨拶を済ませるが、私の体はずぶ濡れで格好がつかない。
「は、はい。長瀬麻里です。この子の……。学校の教師です……」
 私が言葉を選びながら自己紹介すると、先生は優しく微笑む。
「大丈夫です。彼女から聞いていますよ。ここ一か月彼女と一緒に過ごしていた方ですよね?」
「え……」
「僕はそこら辺の事情を色々と知ってますから。彼女が楽しそうに話してましたよ。長瀬さんとの生活は楽しかったって」
「……そうですか。すみません」
 莉緒の友好関係でここまで親しくしてくれる大人の存在を予想していなかったので、話しながら驚いてしまう。
「すみません。彼女から一方的に聞いてしまうような真似をして。何せ彼女が楽しそうに話すもので。ついつい聞いてしまいました」
「あの、彼女とはいつから?」
「かなり昔からですよ。それこそ、彼女が自殺未遂のような事を繰り返していることも知っています」
「……」
 私が黙ると、これまで沈黙を貫いていた莉緒が会話に混ざる。
「先生。それ以上は」
 病室に入るなりベッドに座り、足を布団の下に隠した莉緒は、パジャマ姿という事もあってどこからどう見ても病人だ。
「そうでしたね。どうしますか? 私は席を外していた方が?」
「ううん。できれば先生もここにいて欲しい」
 莉緒の口から先生という言葉が発せられる度に肩が跳ねてしまう。私に向かって発せられたことなんて数えることしかないその言葉は、とても自然に莉緒から流れ出る。
 彼女にとって、先生という単語は教師ではなく医師を指すものらしい。
 鴨田先生は莉緒の言葉に小さく頷き、ベッドから距離を取る。私の視線に気が付くと、一度微笑みゆっくりと体を回し、窓の外へ視線を向けた。きっと私達への配慮なのだろう。
「ごめんね。心配かけたよね」
 ベッドに座る莉緒はこちらを見てへなっと笑う。
 私は込み上げる涙を必死に抑えながら、ベッドの横にある丸椅子に腰を下ろした。
「当たり前でしょ……。あんな置手紙して」
「本当はここが見つかるつもりじゃなかったんだけどな……」
 どうやって見つけたの? と首を傾げる。私がどれだけ心配したと思っているんだ。その無邪気な顔を思いっきり平手打ちしてやりたい気持ちにかられる。
「莉緒を探してタクシーに乗ったら、その運転手が丁度莉緒を乗せた人だったんだ……」
「なにそれ……。都合よすぎ。最悪だよ……」
「この町、タクシーの数少ないし」
「それでも確率おかしいよ」
「そうだね。私も運が良かったと思う」
 彼女に辿り着いたのは本当に運の力だった。昨日佳晴に無理を言ったのが効いたかもしれない。いや、あいつはそんな手助けしてくれないか。
「ねぇ……。どうして? どうして、黙って消えたりしたの?」
「……色々とあったんだよ……」
「色々って……」
「約束を破ったことは、謝る」
 莉緒はそれっきり下を向いてしまう。
 沈黙の中で私は幾つも彼女に問いただそうとした。
 なにがあったの?
 なんで病院にいるの?
 私になにを隠しているの?
 どうしてそんなに、穏やかな目をしているの?
 彼女に聞きたいことは山ほどある。しかしそのどれも、口にすることは出来なかった。
 沈黙の空気感が私の口を開けさせてくれなかった。
「ねぇ、麻里さん」
「――っなに?」
 莉緒が口を開き沈黙が破られると、私は彼女の言葉に食らいつく。
 しかしその内容に、また私の声は奪われた。
「麻里さんとした約束。他のも守れそうにないや」
 小さくふっと息を吐いて、私の目を見る。
「私、もうそろそろ死んじゃうから」
 静かだった。
 落ち着いたその声は、今までとは明らかに違う。
 すーっと耳に入ってくる、静かな声。
「麻里さん。私が今から言う事さ。全部本当だから。ゆっくり聞いて」
「……え」
「麻里さんが知ろうとした私の全部。もう隠せそうにないからさ」
「……莉緒」
「麻里さんになら言ってもいいって思えたんだ。特別だよ? 麻里さんは特別」
「……やめて」
「これを聞き終わっても、私を愛してくれると、嬉しいな」
「……」
 そして、彼女の唇が動く。
 窓の外に響く雨の音も。いつもは五月蠅い蝉の声も。天井で唸るエアコンの駆動音も。
 全てが消えて、無音だった。
 私の耳に聞こえるのは。
「私ね。急性骨髄性白血病患者なの」
 彼女の優しい声だけだった。
 始まりは小学校二年生の時。元気だけが取り柄だった私は慢性的な頭痛と貧血に見舞われた。友達も多く学校が好きだった私が数日間登校を拒んだことを心配して、両親が病院に連れて行った。
最初は自分でもただの風邪だと思っていたし、小さな病院の医者にも同じことを言われた。
しかし症状は一向に好転しない。
それどころかしばらくすると、私は止まらない鼻血を出すようになった。
両親は嫌な予感を覚え私を大きな病院に連れて行き、そこでの検査の結果、私は自分が難病患者だと知らされた。
治療は迅速に行われ、私がことを把握するよりも早くに、病院に閉じ込められた。
よくわからないまま薬を飲んだ。
よくわからないまま検査は進んだ。
よくわからないまま手術は成功した。
いくら両親に聞いたところで返ってくるのは励ましの言葉と慰めの言葉。
また学校へ通うようになる頃には、周囲の月日は進んでいて、病院に閉じ込められていた私はまるで竜宮城から帰った浦島太郎の気分だった。
私の障害となったのは、経過した年月のズレだけではない。
闘病生活の中で髪は抜け落ち、体はやせ細り、筋力は衰えていた。
私は必死に周囲に溶け込む練習をした。学校の復帰を心待ちにし、皆に追いつけるよう勉強をし、流行りのテレビ番組を見た。
 頭の何処かでは、皆に置いて行かれてしまうのではないかと恐怖していた。
 しかし、いざ学校へ復帰してみると、皆優しく、私を迎え入れた。
 両親も長い闘病を終えた私を憐れんだのか、私の願いを何でも受け入れてくれた。
 世界に愛されているのだとさえ思った。
 そしてすぐにそれが異常だと気が付いた。
 皆、優しすぎた。
 欲しいおもちゃを与えられ。行きたい場所に連れて行ってもらえる。
 体力がなくなった私の為にクラスのみんなが外で遊ぶのを諦めて、私と室内で遊んでくれるようになった。
喧嘩になるとすぐに先生が間に入ってくれた。先生はいつでも私の味方だった。
 その時、先生がクラスの子に言い聞かせていた言葉を今でも覚えている。
「莉緒ちゃんには、優しくしなきゃダメでしょ」
 その言葉が私を正気に戻してくれた。
 特別扱いされることは嬉しいことではない。
登下校も体育も給食も、他人と違うということは、差別だった。そこに良いも悪いもない。
 卒業を控える頃には、優遇されることに疎外感を感じ、普通に憧れた。
 両親の好意には遠慮するようになり、先生にも友達にも普通に接してほしいと頼んだ。
 体がそれに追いつかないこともあったが、鞭打って皆に追いつこうとした。
 特別枠になるくらいなら、皆と同じ場所で劣等生になりたかった。
 そうして私は普通を目指した。


 中学に上がり私は孤独になった。
 特別な待遇をされるくらいなら一人の方がマシ。
 自分の病気の事を理解し始めた頃からそう思うようになった。
 周囲に溶け込むことへの執念はもはや病的だった。
 体の弱い私は体育の授業について行けず、部活にも入ることが出来なかった。
 そんな自分の体が大嫌いだった。
 おそらく私の知らないところで噂は広がっていたんだろう。
 好んで話しかけてくる生徒は殆ど居なかった。
 私は孤独な時間を様々な知識を得る時間にあてた。
 今後長い人生。今を捨てても将来が浮かばれればいい。
 現状に目を逸らすようにして、本に噛り付いた。
 その中で医学書に手を付けた時期がある。
 両親に聞いてもはぐらかされるだけの自分の体について、知らなければならないと思ったんだろう。
 そして私はその時になって初めて一つの事実を知った。
 白血病は再発のリスクがある。
 それは両親が私に隠しておきたかった情報なのだろう。
 調べればすぐに分かるこんな情報を私はそれまで知らなかった。
 そして、この情報は私にとって絶望にも等しいものだった。
 一度乗り越えれば終わりだと思っていたこの生活が、再び訪れる可能性がある。
 確率は高くはない。
 それでも引かない確率ではない。
 自分はこの先、一生再発のリスクに恐怖しながら生きていくのだと考えた時、体が凍った。
 そして、なにかがぷつんと切れた音を聞いた。
 それから私の精神状態は次第に不安定になっていき、また病院にお世話になる羽目になる。
 検査とカウンセリングをする度に私の精神は擦り減った。
 両親がこうなることを危惧していたのだろう。
 案の定、心の幼い私に抱えきれるほどの重荷ではなかった。
 強がりで抑え込んでいた感情は決壊し、私は一気に弱くなった。
 子供の様に泣きじゃくり、かんしゃくを起こすようになった。
 鬱病のように死へ縋りたくなる日々が続いた。
 中学三年の夏。初めて手首を切ろうとした。
 自分の腕に刃物を立てる緊張と、もしかしたら死ぬかもしれないという恐怖感。
 怖かった。恐ろしかった。冷や汗は止まらずに、涙が出た。
 そして同時に、自分は生きているんだと感じた。
 結局刃物は私の皮膚に触れることは無かった。
 恐怖感を欲した私には、実際に肌を切る必要性はなかった。
 そして幸か不幸か。死への恐怖が人一倍強い私は日常の些細なことで簡単に恐怖を感じ取ることができた。
 日常の中で高まる恐怖と緊張が私を安心させた。
 私は生きていると、早くなる鼓動が教えてくれた。
 一度知ってしまったこの感情には中毒性がある。
 定期的に襲われる鬱にも近い感情と、求めるように自ら手を伸ばす恐怖感。
 私は安寧を手に入れながらも一歩一歩確実に破滅へ向かっていた。



 そして高校に入った時。決意した。
 死から逃げる恐怖に耐えきれなくなり、本気で死にたいと思った時。私は死のう。
 死に追われる恐怖から唯一逃げることのできる場所が死だった。
 怖がりな私が選んだ最後の選択肢は、逃げ切ることだった。
 そう決意した時、少しだけ気が楽になった。
 なにかが吹っ切れたような気がしたんだ。
 いつ終わるか分からない人生を、全力で生きる。
 恐怖に追いつかれないように必死に楽しむ。
 死ぬ気で、好きなことをやり切る。
 そのために人生に課題を作った。
 私の人生の証明問題。
 そして毎日を後悔なく終わらせるというルール。
 私はその日から、残りの寿命全てに火を点けて燃やし始めた。
 密度の濃い時間を過ごすために、出し惜しみなくすべてを燃やした。



 それがここにいる私。
 藍原莉緒の全て。



 莉緒は私の目を見たまま淡々自分の過去を話した。
 私がここ一カ月手を伸ばして、届かなかった真相。
 藍原莉緒という人間の全て。
 彼女が読み終えた本を閉じるように、ふ―っと息を吐き儚く笑う。その瞬間、世界の音が鳴るのを思い出したかのように騒ぎ始めた。
 いつの間にかこの場に鴨田先生の影は無くなっていて、病室には私達だけが残されている。
 なにか彼女に声を掛けなくては。
 彼女を優しく抱きしめてやらなくては。
 しかし、いざ目の前に提示されると、身が竦んでしまう。
 私の目には涙が溢れていく。
 どんどんと彼女の顔が滲んでいく。
 あぁ、今気が付いた。私の中にあったこの感情の名前が分かった。
 彼女の輪郭がぼやけていくにつれて、私の心が輪郭を持つ。
 この胸の中にある感情は庇護欲でも愛情でもない。
 これは、憧れだ。
 私は彼女の目に宿る命の輝きに。彼女の心の強さに。体から漏れだすその生き方に。憧れていたんだ。
 初めて会ったあの橋の上で、確かに彼女に憧れを抱き、見惚れたんだ。
 だって、彼女は私が一番欲しかった物を持っていた。
 私が後悔し続ける過去の私とは、全く違う物を持っていた。
 もし、佳晴から逃げていなかったら。そんなことを何度も繰り返し考えた。そんな時、必ず現れる「もし」の強い自分に、彼女は似ていたんだ。
 私は震える手を抱くように自分の左手首を右手で握った。
「ねぇ、麻里さん」
「……なに?」
「私はね。麻里さんに救われたんだよ」
「だから私は何もしてないって」
 本当に。貰ってばっかりだ。
「この夏は私の人生で、一番楽しい一カ月だった」
 私は返す言葉を見つけられず、ただ俯く。
「麻里さんは、どうだった?」
「そんなの。……楽しかったに決まってる」
 莉緒は小さく笑うと、私の左腕に手を乗せた。
「麻里さん。もう一度、聞いていい?」
「うん」
「私は麻里さんを救えた?」
「うん」
 私の声は震えている。嗚咽交じりの声が、彼女に縋りつく。
「莉緒は私を救ってくれた。凍り付いた私の時間を溶かしてくれた。背中を押してくれた」
「……そっか」
「楽しかったんだよ。この一か月。本当に楽しかった」
「うん」
「だから。……ありがとう」
「うれしい」
「ありがとう」
 私は莉緒の手を握り、額につけるようにして泣く。
 子供の様に泣く声が病室中に響いた。
「麻里さん。泣かないでよ」
「……だって」
「じゃあ一つ。秘密にしていたことを教えてあげる」
「まだ秘密があるの?」
「沢山あるよ。女の子は秘密でできてるんだから」
 微笑む莉緒の顔はまだ滲んでいる。
「私と麻里さんが橋の上に会った時ね。麻里さん自分がどんな顔してたか、知らないでしょ?」
「……うん」
「ちなみに麻里さんはどんなことを考えてたの?」
「どんなことって」
 あの時は確か、夕日の赤を背負う莉緒が。
「すごく美しくて。すごく怖かった」
「変なの」
 ケタケタと莉緒は笑う。
「麻里さんね。あの時、神様を見たような顔をしてたんだよ」
「え?」
「希望って言った方がいいのかな。自分で言うのも恥ずかしいけど。死んだ目に光が灯っていくのが見えた。助かった。みたいな感じかな。たとえるなら……。あ、体育でペア組んでって言われた時に、あぶれた自分の他にもう一人見つけた人。みたいな」
 分かる? と首を傾げる莉緒に、私は大きく頷く。
「分かるよ。だって……」
 だって、その顔は見たことがある。
「なんだ……。やっぱり私、佳晴に似てるじゃん」
 また涙が溢れた。突然訳の分からないことを言い出す私に莉緒は慌てる。
「莉緒は、私のヒーローだね」
「それ、あんまり嬉しくない」
「じゃあ、救世主」
「それもあんまり」
 私は泣きながら言葉を探す。莉緒にピッタリな言葉。私を救ってくれる彼女のような存在。
「天使」
「許す」
「莉緒は私を変えてくれた天使だ」
「告白じゃん」
「そうかもね」
 莉緒は私を抱きしめた。小さく細い体で私を強く抱きしめた。
「ねぇ、麻里さん」
「うん」
「私は、もう天に帰るからさ。麻里さんはちゃんと前に進んでね」
「……莉緒、いや」
「私はもう駄目だから」
「駄目なんかじゃないよ」
「私がいなくなっても。麻里さんはこれからを生きるんだよ」
 私は莉緒の腕を振りほどいて彼女の両肩を掴んだ。
「……莉緒、やめて」
 声を振り絞った音の無いような声に莉緒は首を振る。
「莉緒……。いかないでよ」
 またもゆっくり首を振る。
「置いて行かないで」
「……ごめんね」
 私は彼女の目を見つめる。
 ずっと力強く燃えていた炎が、そこにはもうなかった。
「死なないで」
 全ての嵐が過ぎ去った目をしている。
 すべての波が治まり、静かに優しく凪いだ目は言う。
「もう、死ぬよ」
 私は取り乱す。泣き崩れながら莉緒の肩を揺らした。
 馬鹿な真似は許さないと莉緒を怒鳴った。
 どこにも行かないように強く強く彼女を抱きしめた。
 しかし、終始彼女は優しく落ち着いていて、私を抱きしめながら宥める。
 私の頭を慈しむように撫でながら、彼女も泣いていた。



「ねぇ、麻里さん。そろそろ時間だよ」
 私が落ち着きを取り戻してからどれほどの時間が流れたのだろう。私はしがみつくように莉緒を抱きしめていた。一瞬でもその手を解いてしまえば彼女はどこかに行ってしまいそうで。その小さな体を繋ぎとめようと必死に力を入れていた。
「麻里さん。ありがとう」
 ぽんぽんと私の頭に一定のテンポを保ったまま触れながら、彼女は様々な話をした。
 それは私と出会ってからの答え合わせ。
 例えば、生活の中での些細なこと。
 大皿を囲むのは、感染症のリスクを減らすために実家ではしなくなった。だとか。
 迷信とされていながらも、白血病の再発リスクがあるという噂から、生食を食べることが無かった。だとか。
 父親は莉緒の病名が分かったその日から煙草を辞めたから匂いが懐かしかった。だとか。
 生活のことを話すにつれて徐々に明らかになっていく彼女の両親像はどこまでも優しく、疑っていたことが申し訳なくなる。
 莉緒のしたいことであれば何でも許してくれる。その優しさが彼女にとっては辛いのだとしても、両親からは娘へのできることの全てなのだろう。
 この夏に娘がどこかに泊り続けることもきっと不安だっただろう。それでも送り出した両親の覚悟は尊敬に値する。
「あのお金だってそうだよ。私の人生の前借だって。軽く百万くれたの。強く生きれるようになったら、自分で稼げって言ってね」
 優しいんだか厳しいんだか分からないよね。と笑う。
「きっと私が自殺するって言っても、泣きながら許してくれるんだと思う」
 そう言って彼女は笑顔のまま泣いていた。
 彼女が自分の体調に異変を感じ始めたのは半月前。実家に帰って自分のノートを取りに行った日。あの日から徐々に体の重さを感じ始めたらしい。
 花火大会の日には本格的に倦怠感を感じて察しはじめ、温泉旅行の鼻血で確信したんだそうだ。
 それからは不安からくるストレスを始めとした、白血病患者の症状が彼女を苦しめた。
 どこからか貰ってきたただの風邪が体を蝕み、症状により抵抗力が落ち、悪化した。
 患者特有の出血時に中々血が止まらない現象と生理が重なり、旅行日から大量の出血を重ね、貧血に見舞われた。
 そしてこれまた症状の一つである痣のできやすさにより、体中に痣ができた。
 追い打ちの寝不足だ。不安で不安で眠れなかったと笑っていたが、ここまでボロボロになっていた彼女に気が付かなかった自分が情けない。
「麻里さんは鈍感だから」
「……そうだね」
 一通り話し終えた頃には空はもう真暗で、激しい雨の音だけが響いていた。
「そろそろ麻里さん帰らなくちゃ」
 別れを告げられたように思えて、肩をこわばらせる。
「明日もここに来てくれればいいじゃん。そんなに早く病気は回らないよ」
「……わかった」
「あ、でも、明日は夕方に来てくれるとありがたいかな。昼間は両親が来るんだ。色々話すから」
「……わかった」
 震えながら彼女の手を離さない私を、莉緒は子供をあやすように宥める。
 最後に頬にキスをされたが、それがどうしようもなく悲しく感じた。



 自分の部屋の玄関を開けると、地元からの荷物が綺麗な部屋に転がっていた。
 旅行鞄から荷物を取り出すと、彼女と食べようとしていたお菓子が目に入り、そっと冷蔵庫に仕舞う。様々な物を鞄から取り出し、最後に底に残ったものを拾い上げて目を伏せる。
 彼女の為に買ったガラスのイヤリングは割れていて、私はそれをそっとゴミ箱に捨てた。
 体も心も疲れきっている。それでも眠ることはできなかった。
 真暗な部屋の中、テレビが発する色取り取りの明かりがチカチカと目に焼き付く。
 明日の天気は雨のち晴れで蒸し暑い日だと、アナウンサーとマスコットが元気よく話している。
 明日で、真夏の猛暑は終わり。
 こんな暑い毎日ともおさらばですね。そう笑顔でこちらに語り掛けてくる。
 もう夏は終わり。
 あぁ、きっと明日、莉緒は私の目の前からいなくなるんだろうな。
 何故だかはっきりとそう思った。
『長瀬さんの携帯で間違いないですか?』
「はい」
 鴨田先生から携帯電話に着信が入ったのは十八時を少しだけ過ぎた頃。
『落ち着いて聞いてください。……藍原さんが病院から逃げました』
「……そうですか」
『そうですかって! なんでそんなに落ち着いてるんですか!』
「……なんででしょう。なんとなくそんな気がしていたからかもしれません」
 だって天気予報通り、昨日から降り続いていた豪雨は午前中に止み、その後は雨空が嘘だったようにこの上ない快晴が広がったから。
 そんなに日に。私は彼女と出会ったから。
『このままだと彼女。……自殺しますよ』
「……はい」
『時間が無いんです。どこか彼女が行きそうな場所に心当たりは?』
「……分かりません」
 私はコツコツと靴を鳴らしながら歩く。きっと受話器には蝉の声が入り込んでいるんだろう。
 車通りも人通りも少ない。だから私の声は聞こえるだろう。
「鴨田先生。先生は自殺についてどうお考えですか」
『私、ですか?』
「はい。考えを聞きたくて」
『私は……。最期の手段としては否定はできません。でも、彼女には未来がある。まだいくつもの可能性がある』
「……そうですね。私は逆でした。自殺なんて絶対にしてはいけないことだと思ってたし、して欲しくないと思ってました。……でも、今の私は多分。莉緒を止められません」
『どうして、ですか』
「私は友人を失くしたことがあります。自殺した彼の目は絶望に染まっていた。……でも莉緒は違ったんです。彼女は死を目の前にして、幸せそうに笑うんです」
『そんなの一時の感情の波です。死ぬことで苦悩から逃げられると思っているだけです』
「それでも。いいじゃないですか。莉緒の救いはもうそこにしかないんですから」
『とにかく。彼女の場所がわかったらすぐに連絡してくださいね!』
「……はい」
 私は耳から携帯電話を離し、着信を切る。
「ごめんなさい……」
 ツーツーと無機質な音のなるそれをポケットに仕舞い、私は前を向いた。
「莉緒」
 視界に広がったのは夕暮れに相応しい真赤な空。
 少し黒を混ぜたような、重い赤。
 その中に、雑に千切られた雲が真っ黒な影を落として、浮かんでいる。
 どうしようもなく綺麗な景色だった。
 そして。
 私の声に振り向くのは。そのすべてを背負う少女。
「ねぇ、麻里さん。知ってますか?」
「なに?」
「午前中に雨が降って。午後にはカラっと晴れて。そんな日には」
「空が良く染まる。でしょ?」
「正解です」
 知っている。だから今ここに来たんだ。
 莉緒と私が出った橋の上。私が彼女に見惚れた距離。
 あの日と同じように空は美しく橙に染まっていて、まるで時間が巻き戻ったみたいだった。
「やっぱり。ここだと思った」
「麻里さんなら来てくれるって信じてた」
 莉緒は出会った時と同じ服を着ている。
 中学生に見える小柄な体躯に短い髪。袖口から露わになる肌はあまりに白い。しかしこの季節には不釣り合いなニット帽だけは、最初とは違った。
「麻里さん。それ以上近づかないでね」
「分かってる。行かないよ」
 あの日のように下手に飛び出したりしない。
 もう私は、分かっている。
「自殺幇助になっちゃいます」
「今でも十分危ないけど」
 私は息を整えて、彼女に届くように少し大きめの声で言う。
「飛び降りたりなんかしません。って言ってくれないの?」
「……言えないです」
「そっか」
 彼女を引き留めたい私と、彼女の意思を尊重したい私。
 二人が私の中で争っている。
 あれだけ自殺に嫌悪感を持っていたのに、笑えるな。
 だから私は彼女を止めるために用意したたった一つの理由だけを、彼女に伝える。
「莉緒の為だなんて言わない。この先の莉緒の未来だなんて、綺麗ごとは言わない。私は、ただ私が莉緒に死んでほしくないだけ。……だから、手すりを超えてこっちに来て」
 莉緒は遥か上の空を見上げて深呼吸をする。そして静かに首を振った。
「夕日が、綺麗だね」
「……そっか」
 彼女の短い黒髪が、夕日の中で揺れた。
「さっきね。お父さんとお母さんに話をしたんだ」
「うん」
「やっぱり私には耐えられないって。今まで育ててくれてありがとう。ごめんねって。……そしたらさ、殴られちゃった」
 えへへと私からは見えなかった頬を笑いながら見せてくる。
 そこには痛々しい痣ができていた。
「娘の顔を殴るなんてひどいよね。殴られたのなんて初めて。ましてや痣ができやすい人間だって言うのにさ」
 頬を触りながら彼女は涙を流した。
「痛かったな……。痛かった……。…………嬉しかった」
 ぼろぼろと涙を零しながら、頬を摩る。その手つきは痛さを誤魔化すものではなく、愛おしい物を大切に撫でるようだった。
「こんなの初めて。今まで何をしても許してくれたのにさ。怒ってくれないのが、何よりも辛かったのにさ。最期に……こんな。酷いよ」
 彼女の声は今にも解れそうに震えていた。
「でも、殴った後に、抱きしめてくれた。そしてごめんねって。おかしいよね、謝るのはこっちの筈だったのにさ」
 私は彼女の言葉に頷くしかなかった。
 彼女の覚悟は固く、もう誰が何を言おうと揺るがない。
 だったら私は彼女の両親がそうしたように彼女を尊重するしかない。
 それが、彼女の幸せだから。
「麻里さん。夕日が綺麗だね。川に光が反射してキラキラ光ってる。どうしようもなく、綺麗」
「そうだね。綺麗だ」
「麻里さんは怒らない?」
「怒ったよ。昨日散々怒った。……だからもう受け入れるよ。莉緒の選択」
「ありがとう」
「私が今、ここから飛び降りても、追いかけてこないでね」
「この前言ったじゃん。大丈夫。追いかけたりしないよ。もう、大丈夫」
「よかった。麻里さんには前に進んで欲しいから」
「どれだけ私の事好きなの」
「聞きたい?」
「是非」
「死ぬほど」
「馬鹿」
「……ねぇ、麻里さん」
「ん?」
「私の最期見ててくれる?」
「……うん。見てるよ」
「……よかった」
「今ならね、なんとなくわかるの。莉緒の気持ち。最初はわかるはずないって思ってたのにね」
「あれだけ一緒にいたもんね」
「たった一カ月だよ」
「それでも私には長くて短い大切な一カ月だった」
「私もだよ」
 莉緒は一度伸びをすると、いつもの揶揄うような顔で私を見る。
「全身打撲だから結構えぐいことになるかも」
「うん」
「この後、色々と迷惑をかけるかもしれない」
「いいよ。もう覚悟した」
「警察のお世話にもなると思う」
「うん」
「でも、全部話していいからね。私もできる限りのことはしたけど、多分色々と問題になると思う」
「何したの?」
「ちょっとね。できるだけ周りには迷惑を掛けたくないから」
「そう」
「だからさ。全部話して、全部過去の思い出にしてほしい。忘れて欲しくはないけど、忘れたっていい」
「忘れるわけないじゃん」
「本当に?」
「一生のトラウマ」
「それはそれでいいポジション」
「……よくないよ」
「麻里さんの中にある過去の後悔とトラウマ。私が全部上書きしちゃうから」
 莉緒は真面目な顔に戻ると、目を強く瞑ってから、私の目をまっすぐと見た。
「私が麻里さんを救ってあげる。私はね。後悔なんて一つもないんだよ。清々しい気持ちで空を飛ぶの。だから麻里さんも笑って送り出してほしいな。過去の麻里さんができなかったように、私を見送ってほしい」
「……それが、救う」
「駄目かな?」
「ううん。莉緒らしい」
 私は流れる涙を拭って、空を見る。もう夕暮れも本番だ。
 カラスと蝉がお互いに鳴き合い、日暮れの匂いが濃くなる。
 そして世界が深い色に近づく。
「最後に一つ。私の答えを聞いて」
「うん」
「私が生まれてきたことは、正しかったのか。今ならはっきりと分かるんだ」
「聞かせてみ?」
 私は教師の顔で彼女の回答を聞く。
 莉緒はこれまで見せた中で一番輝いた笑顔で、彼女の回答を提示した。
「私ね。今、とっても幸せ」
 そして二人はまた涙を流した。声にならない涙を流して、彼女は私に聞く。
「どうかな。私の回答は正解かな。教えてよ麻里先生」
 だから私は、すぐに答えた。
「答えなんて分からないよ」
 そして莉緒は笑う。
「そうだね」
「だからさ。待ってて」
「うん」
「私も一生考えて、答え合わせに行くから」
「うん。待ってる」
 莉緒の目は、優しく凪いでいる。
 しかし、夕日の光を反射して、きらきらと輝く。
「ねぇ、麻里さん。笑ってよ」
 彼女の目にはあの時見た命の炎が灯っている。
 それは神増世の最後の光。
「麻里さんが笑ってくれないと、私、笑って死ねない」
「わかった」
 莉緒は静かに呼吸をして微笑む。
「じゃあ、そろそろ行くね。綺麗な夕日が沈んじゃう」
「うん」
「私、人生で初めて。誰かの特別になりたいと思った」
「莉緒は私の特別になったよ」
「嬉しいな」
 涙が止まらなかった。それでも私は笑顔を作る。
 彼女の旅立ちを祝福する笑顔。
「じゃあね。麻里さん。大好きだったよ」
「じゃあね。莉緒。行ってらっしゃい」
 彼女は空を飛んだ。
 そして意図も呆気なく。赤い花は咲いた。

 あれから数十日が経った。
 彼女が飛んでから夏休みが終わるまで、長く苦しい時間が延々と続いたことを今でも鮮明に思い返すことができる。



 彼女が夕日に飛び、私はその場に崩れた。
 泣き喚くように喉を鳴らしながら、最後の理性で警察と消防に通報。数分後駆けつけた警察は泣き崩れる私を任意同行という形で署へ連れて行った。
 そこからは度重なる事情徴収と取り調べ。私は彼女の言葉の通り、署で全てを話した。私の罪に最も相応しかったのは自殺幇助。彼女は私が罪を被せられることに納得しないだろうが、現実問題難しい話だとは思っていた。その覚悟のうえで彼女を見送ったのだ。
 しかし、私の立場はどんどんと好転していった。
 まず警察署宛に届けられた彼女の遺書。聞いた話によればその内容は、両親を始めとする彼女の周囲の人間に一切の非はないという言及から、自分の自殺を知っていた者を糾弾しないで欲しいという願い。そしてその人達に、他言することで自死を選ぶという脅迫を含んだ言葉を掛けたとする内容と、それに関する様々な証拠が連ねられていたらしい。
 推察するに私と彼女が交わした約束を綴ったノートのページもそれに使われたのだろう。
 私が彼女と橋の上で出会った際、咄嗟に止めようと走った姿や、彼女の最期を説得するように語り掛けている姿は、河川の氾濫を監視するためのカメラ映像に残っており、私が彼女の自死を止めようと動いていた証拠にもなったらしい。
 彼女が残したのはそれだけではない。
 彼女が飛び降りた直後、動画投稿サイトに一つの動画がアップロードされた。
 今まで生きていくうえで隠してきた自分をそこで曝け出すように、私に話した自分の人生や死生観を語り。病気の理不尽さと、自身の抱える恐怖。そして人間の命の自由について考えを纏めた動画だった。
 インターネットの拡散力は大きく、規制されても誰かが無断で保存し、無断で公開する。そうやって日本中に広がる網の上を彼女の言葉は渡り、マスコミの目にも留まった。
 勿論彼女の両親は私と比にならない苦痛の時間を過ごしたのだろう。話題ができたマスコミはこぞって集まり、報道し、賛否を電波でばら撒いた。それにも負けず彼女の両親は「娘の考えを尊重した」と訴え続けた。
 彼女の両親のその後は分からない。私も自分のことで精一杯だった。結果として私は数日で自宅に帰ることができ、弁護士からはこのままいけば不起訴で終わるだろうという話を聞かされた。これも聞いた話だが彼女の両親が私に対して強い感謝を抱いていたらしい。それが調査に関係したのかは分からないが、激動の中にいる人間に感謝されるほどのことを私はしていない。むしろ私は彼女にしてもらったんだ。
 そんなことは言えないまま見上げた夏の空は青く、彼女がこの結末にどのような感情を抱いているのか考える。
 きっと納得はいっていないのだろう。しかし、笑ってくれていると、思う。
 私の身に起こった後始末はそんなところだ。
 実名は公表されず、教師が生徒と一カ月を共にしたという内容も詳しく報道されることは無かった。
 学校側も自殺者が出たことによる対応に多忙を極めている。学校側にどれ程まで事情が伝わっているのかは分からなかったが、私が戻る場所なんてそこには一切ないように思えた。
 だから私はこの件を機に教師を辞める決意をした。
 元より自分ではない男の目指した夢だ。その時には過去の自分が己に課した罪の意識は薄れていて、教師という名前を手放すことに躊躇いは無かった。
 不起訴という事もあり、学校側が下した判断は元の契約期間をもっての退職。つまり今見ている生徒を送り出すのと同時に、私も教壇から降りることができる。
 教師に執着は無くても受け持っている生徒の将来には少なからず責任を感じていたから、私は残りの半年を最後の贖罪として受け入れた。
 もちろん両親にも全てを話した。母親とも腹を割って話す機会が生まれ、少しは距離が縮まったとは思う。両親に今後の身の振り方を聞かれ、私は一つの目標を語った。明確なビジョンはない。実現する可能性もわからない。ただ、私が向かうべき方角はなんとなく決まっていた。方位磁石が自然と北を向くように、私は莉緒に向かっていた。家族の間で交わされる話題としては不適切な物だったけれど、結果として二人は私の背中を押してくれた。これも莉緒が残してくれた物なのかもしれない。彼女は何から何まで私の面倒を見てくれる。頭が上がらない。
私は始業式の帰りに大きな図書館に寄り、臨床心理士に関する本を片っ端から借りた。
 私は彼女が知りたかった。
 その時の感情が原動力だった。
 彼女の考えを理解していたなんて到底言うことはできない。私の解釈が全然の的外れだった可能性もあるし、私の中の莉緒とは逆のことを考えていたかもしれない。それでもなんとなく、本当になんとなく、彼女を「わかっていた」ような気がしないこともない。
 だから勉強したいと思った。
 私は理解したいんだ。
 藍原莉緒という女を理解したい。
 藍原莉緒という哲学を理解したい。
だから私はこの道を選んだ。
後日、彼女のカウンセリングも行っていたと言っていた鴨田先生に謝罪を兼ねて連絡を入れた。是非会って話がしたいと言うので緊張しながら赴くと、鴨田先生は私に一通の封筒を手渡した。「彼女から頼まれてしまいまして」
そう言って笑う先生の顔は穏やかで、彼女が幸せに人生を終えたことに対して、安心しているようだった。



ここまでが私の激動の数十日。
慌ただしくて、儚くて、呆気ない、夏の終わり。
そしてカレンダーは九月になった。



その日は夜明けから静かに雨が降り、出勤する頃には青空が広がり、日中は涼しい晴れ模様。
つまり何が言いたいかと言えば、帰り道の路地が鮮やかな赤で染まっていた。
ふと気が付くと耳に入るのは蝉時雨ではなく、鈴虫の大合唱。いつの間にか肌に羽織るものが一枚増え、バスの冷房は穏やかになった。
 もう秋が近い。
 彼女と過ごした夏はもう終わりを迎えるんだ。
 玄関の鍵を開けると、私は煙草とライターを掴んでベランダに出る。
 くすんだ赤。その夕日を眺めながら、私は煙草に火をつける。
 夕日より幾分か鮮やかな色をした炎がじりじりと先端を焼く。ゆっくりと息を吸うと、不味い煙が喉を焦がして体に満ちる。
 静かに息を吐くと共に、優しく涙が零れた。
「煙草も、咽なくなっちゃったよ」
 その言葉は佳晴に向けたのか、莉緒に向けたのか。それとも過去の自分に向けたのか。
 過去を体に刻むための自傷行為だったそれを、少しだけ受け入れることができるようになった。
 苦くて苦しいだけだった味にも、今では落ち着きを覚える。
 これは過去を振り返る味。自分を傷つける為ではなく、過去を懐かしむための味。
 残念だったね莉緒。何もかも私も前から消したつもりだろうけど、私の中には沢山莉緒が残っちゃったよ。
 いつしか彼女が口にした言葉を思い出して、ふっと口角を上げる。
 私もだよ。
 目の前に広がる夕日に向かって、笑ってみる。
「私も夕日を見ると、莉緒の顔が浮かんじゃう」
 込み上げた熱い物を溜息のように煙と一緒に吐き出して、一度部屋の中に戻る。
 ちょっとした忘れものだ。
 私は机の上に置いてあった彼女からの手紙を、壊れ物を扱うように優しく手に取り、ベランダに戻る。
 彼女らしいシンプルな洋封筒だ。
 鴨田先生から渡されてからというものの、忙しさを理由に手に取ることはなかった。
 そして、どこかこれを読むことを拒んでいる自分がいた。
 これを読んでしまったら、本当に彼女とのお別れがやってきてしまいそうで。
 私の知らない彼女の言葉を残しておきたかったのかもしれない。
 けれど、今日の夕日を見て私は決心した。
 きっと彼女もそうしてほしいと願っているだろう。
 手紙は受け取り手が読まなきゃ始まらない。
 私は封をしてある箇所にそっと力を入れて、便箋を取り出す。
 
 夏の終わり。
 彼女との決別の時間だ。



 ねぇ、麻里さん。
 その手紙は、そんな彼女らしい言葉から始められていた。



 ねぇ、麻里さん。
 私がいなくなってからも元気にしていますか?
 ご飯はきちんと食べていますか?
 太陽の光を浴びていますか?
 前を向いて歩いていますか?
 
 この手紙は麻里さんが病院に駆け込んできた日の夜に書いています。
 昨日からずっと雨が降っていますね。
 今天気予報を見てたら、明日は清々しい陽気になるって言ってました。
 きっと、明日は綺麗に空が染まる気がします。
 そうしたら、私は明日、死にます。
 なぜだかは分からないけど、はっきりとそう感じます。
 だからここに麻里さんへの最期の手紙を残したいと思います。
 麻里さんへのラブレターです。
 手渡しできなかったのが少し心残りですが、麻里さんが持ってたら警察に押収されてしまうと思って、鴨田先生に頼みました。
 本当ならここに私の過去の話とか、病気の話とか、家族の話とかを書こうと思っていたのですが、運がいい麻里さんが病院に来てしまって全部話してしまったので、ここには最後まで麻里さんに秘密にしていたことを綴ります。

 はじめに伝えておきたいことが二つあります。
 まず一つ目。私はこの手紙で何度か謝ると思います。でも、それは私が死んでしまうことに対してではありません。私は何も悪いことはしていません。自分の命を責任をもって燃やし尽くした結果です。だからこの謝罪は麻里さんや家族に迷惑を掛けてしまうことに対しての謝罪です。きっと麻里さんもこれには分かってくれると思います。
 二つ目。この手紙を読み終えた時には、綺麗に燃やしてください。麻里さんの周りに私の残骸を残しておきたくないからです。部屋にあった私の物をすべて処分したのもその為です。だって麻里さんの部屋に私の欠片が残っていたら、きっと麻里さんは前に進めない。麻里さんは優しいからずっと過去を振り返ってしまうと思います。だからこの手紙は燃やしてください。
 そういう事で、お願いします。

 私が死んだ後、麻里さんには色々と迷惑をかけてしまったと思います。
 先生の仕事は続けられそうですか?
 私のせいで仕事を辞めることになる、なんてことが起こらないかだけが心配です。
 一応できる限りのことはしましたが、それでも麻里さんには負担をかけてしまうと思います。
 本当にごめんなさい。
 私のことは忘れて貰っても構いません。
 麻里さんが今後元気に未来を歩むことができるのなら、本望です。
 私のことはふっと出て消えていった、夏の幽霊だったとでも思ってください。
 ひと夏の間、おかしな幽霊に振り回されて、春よりも前向きに秋に進めるのであれば私は嬉しいです。

 私は麻里さんを沢山笑わせることができたでしょうか。
 さっき、夏は楽しかったかという質問に頷いてくれたことがとても嬉しかったです。

 これっていわゆる遺書みたいなものだから敬語で書いた方がいいかなって思ってたけど、やっぱり少し砕けた方が私らしいや。
 畏まった敬語だと初めて会った日みたいだもん。
 今、麻里さんいつのことを思い出した?
 多分夕日の橋の上だよね。
 実はね。違うんだよ。
 きっと麻里さんは覚えてないと思うけど、私達、もっと昔に一度だけ話したことがあるんだよ。
 それが麻里さんに最後まで秘密にしていたこと。
 出会った時から別れるまで、ずっと吐き続けてきた嘘。
 麻里さんにとってはそこまで大きなことではないかもしれない。でもね、私にはとっても大きい一瞬だったんだよ。
 これまで何度か言ったよね。
 私は麻里さんに救われた。だから今度は私の番。って。その度に麻里さんは不思議そうな顔をして、私は何もしてないって言うの。だからここで教えてあげる。

 二年半前って言えばいいのかな。
 私がこの高校に入学した日。
 多分麻里さんが初めて先生として生徒の前に立った日。
 私ね、中学の時から一人だったからまた高校は一人でいようと思ってたの。周囲に気を使われて距離を置かれて、教室の端でいつも本を読んでる。そんな静かな学校生活を送って、時間の経過を耐えようとしてた。
 病気のことは先生にしか伝わってなかったけど、同じ中学の人からすぐに広まると思って諦めてた。薬のせいで短くするしかなかった髪を見ればすぐに分かるしね。
 だからせめて「病人」じゃなくて「変人」だって周りから避けられるように、入学式には昔から使ってたニット帽を被っていったの。ううん。それだけじゃない。おっきいヘッドフォンも首にかけて、さもヤンキーみたいに。今思い返すと笑っちゃう。体を大きく見せて威嚇する動物みたいだった。
 内心怒られるんじゃないかってビクビクしてたの。比較的校則の緩いうちの学校でもニット帽にヘッドフォンはマズいだろって思ってた。入学式の日に怒られればその噂も一緒に回って一石二鳥かななんて考えたりもした。
 でもね、先生は誰一人として私を注意しなかった。
 むしろそんな私を見て憐れんだ目を向けるの。
 それが苦しくて、教室に着いた瞬間ヘッドフォンは外した。ニット帽も脱ごうか迷ったけど、コンプレックスの頭を晒すことが怖くて脱げなかった。
 もう私は入学式の前から挫けそうで、これからが不安で一杯だった。奇異な目を向けられながら廊下に並んで体育館に向かわされて。まるで囚人みたいな気分の時に、一人の先生に注意されたの。
 きっとその先生は初めての仕事に張り切ってたんだろうね。
 偉そうに、私の腕を引いてわざわざ列から外してさ。
「その帽子は何?」
 なんて質問してきた。
 帽子を外すのは怖かったから仕方なく名前を伝えたんだけど、なぜかピンときてなくて。
「よくわからないけど、特別扱いなんてないよ。高校に入ったんだからルールは守りなさい」
 なんて言ってさ。
 そこからはもうびっくりだよ。
 怒られながらしぶしぶ帽子を取ったらその先生、あろうことか笑ったんだよ。そしてなんて言ったか覚えてる?
「髪切るのに失敗したの?」
 だって。
 薬とストレスで明らかに薄くなってて、それが目立たないように短くした髪を見てその言葉だよ。本当だったらしっかり怒られる行為だよ。
 でもね、それが私には嬉しかったの。
 目の前の先生が緊張で空回りしている最中だったとしても、息巻いて説教することに夢中で洞察力が最低だったとしても、普通の人間として接してくれたことが嬉しかった。怒られるのなんて久しぶりで泣きそうなくらい嬉しかった。
 帽子を取ったらすぐに列に戻してくれたんだけど、私の潤んだ目を見てフォローしなきゃとでも思ったのか、去り際に「そんなの誰も気にしないよ」って全然的外れな言葉をかけてくれた。
 それがさらに嬉しくて。何故だかその言葉に励まされて。
 それで式の途中に開き直ったの。
 周りの事なんて気にするかって。全部曝け出して生きてやるって。
 全力で生きようって初めて思ったのもその時だった気がする。
 本当に死にたくなったら死ぬ。だからそれまでは必死に生きる。そんな決意が入学式が終わる頃にはもう私の中に固まってた。
 式が終わった後の自己紹介じゃ、自分から率先して病気のこと言って、ニット帽を取って髪の毛見せた。でも、うつることはないし、気を使わなくてもいいって明るく言いきった。
 そしたら、案外皆普通に接してくれた。高校生って大人よりも素直だなって感動した。
 次の日のオリエンテーションで新任の先生が自己紹介して、その先生の名前を知った。
 元々明るい性格だった私はいつの間にか教室でも明るく振る舞えるようになった。
 深い友達を作るのは怖かったから一定の距離は保っていたけど、普通の生活を送ることができた。
 やりたいことが多すぎて学校には不登校気味になったけど、教室で気を使われることはなかった。
 廊下で偶々擦れ違う非常勤講師は私の事なんて覚えてないように挨拶をするけれど、それでもよかった。いつの間にかその先生を自分に生きる意味を与えてくれた人みたいに思うようになって。
 気が付けば、長瀬麻里っていう非常勤講師を好きになってた。
 そして何よりやりたいことを全力でする毎日はキラキラ輝いいてて、最高に楽しかった。
 人生を謳歌してるって思えた。
 それは全部あの日、麻里さんに出会ったから。
 ただの偶然で、麻里さんをしては失敗だったのかもしれない。
 でも私は確かに麻里さんに救われた。
 麻里さんに人生を変えてもらったの。
 そんな人が、ある夕暮れの日に死のうとしている私を止めたの。
 運命だと思った。嬉しかった。けど、同時に悲しかったの。
 だって私、もう学校では有名だったからさ。きっと他の先生みたいに私を壊れ物みたいに扱うんだろうなって。他の大人みたいに私と触れ合うんだろうなって。そう思ってた。
 でも、麻里さんは私の名前を聞いても反応を示さなかった。
 それどころか、縋りつく様な目で私を見て離さなかった。
 その時は奇跡だと思った。
 舞い上がって調子に乗って、その先を望んだ。
 一応言っておくけど私が話したことは嘘じゃないよ?
 でも少し話して分かったの。この人はどうしてか自殺志願者を絶対に見捨てられない人だって。優しさとか道徳心とかそんな陳腐な物じゃなくて、自殺に対して強い何かを持ってるって。
 だから正直に自分の自殺衝動について話した。
 私、今になって思うんだ。
 麻里さん、きっと私と初めて出会った時から、私のこと知ってたよ。
 だって先生なら全員新しく入学する問題児のことを聞かされている筈だもん。
 だから麻里さんは最初から私のことを知ってた。
 でも人間は弱い生き物だから、直視できないものには目を逸らしちゃうんだ。私が病気で死ぬことから目を逸らすのと一緒。麻里さんは目の前の理不尽な命から目を逸らしたかったんだよ。
 白血病は血液のがん。麻里さんもそれくらい知ってると思う。私は麻里さんのお父さんと同じがん患者で、佳晴さんと同じく命を捨てようとしてる。
 そんな人間を麻里さんが放っておけるわけなかったし、直視できるはずもなかったんだと思う。
 記憶力のいい麻里さんが私のことを覚えていない訳なんて、それくらいしか思えない。
 根拠はないけどね。
 理由はどうあれ、麻里さんは私に居場所をくれた。一緒に過ごしてくれた。私にとってはこれ以上ない幸せだった。
 でもその生活の中で麻里さんの危うさを知った。
 私を見る目もそうだったけど、大きかったのは麻里さんが熱を出して倒れた日。
 私が買い物から帰ってマンションの階段から外を見てたら麻里さんは凄い形相で私を引き留めた。死なせないとばかりに私を抱きしめて泣いていた。麻里さんは覚えてないだろうけど、あの日、麻里さんずっと亡くなったお父さんと佳晴さんの名前を言ってた。幻覚を見ているように暴れて、糸が切れたように静かになって。
 麻里さんを何とかベッドに運んだ時に腕のリストカット痕にも気が付いた。
 麻里さんは心の中に癒えることのない傷があるんだなって。 
 それで思ったの。今度は私が麻里さんを救うんだって。
 私の命の恩人だもん。私も麻里さんを救いたいと思った。その背中に背負っている荷物を分けて欲しいと思った。
 だからずっと気にしてたんだ。
 私がいて麻里さんは楽しいかな。麻里さんを変えられているかな。ってずっと考えてた。
 途中で病気が再発するとは思ってもみなかったけど、案外すっと受け入れることができたんだ。
 こう言ったら麻里さんは怒るかもしれないけど、麻里さんを救うことが私の使命だったんだって思えた。
 だから天使って言ってくれて本当に嬉しかったんだよ。
 私は私の命を使って、最後に使命を果たせたの。
 だから、ありがとうね。
 私はこの先の麻里さんを見ることはできないから、きっと未来の麻里さんが笑顔になっていると信じてる。
 たまに麻里さんの顔を空の上から見るからさ、いつ私が見てもいいように、いつでも楽しく生きていてください。

 これが、私が麻里さんに隠してきた真実。
 私だけの思い出。
 
 あ、空が明るくなってきた。
 いつの間にかこんな時間。
 人生最後の朝日だと思うと、涙が出てくるね。
 私は今日まで堂々と生きたんだって胸を張れる。
 涙が止まらないや。
 便箋が濡れちゃうね。きっと私いま、すごい顔してる。
 そろそろ書く時間も無くなってきちゃった。
 お母さんとお父さんにも手紙かかなかきゃ。あと鴨田先生にも。
 だからこの辺で、手紙を締めてもいいかな。
 ごめんね。ずっと書いていたいけど。時間は有限だから。
 
 ここから書くのは私のお願い。
 麻里さんは大丈夫だと思うけど、念のためね。

 この先どんな辛いことがあっても、命を捨てるようなことはしないで。
 辛い時、死はとっても綺麗に見えるんだよ。
 でも、こっちに逃げてきたら私怒るから。
 多分麻里さんのお父さんも怒るし、佳晴さんも怒る。
 私がお願いできる立場じゃないのは分かってるけど、それでもお願い。
 すごく迷惑かもしれないけど、私の分まで生きてね。
 
 だから麻里さんに、先人からの知恵をあげる。
 命に一生懸命向き合った私が思うに、命は炎だと思うの。
 命の炎は絶対に消しちゃ駄目で、人は食べて寝て、日々の刺激を燃料に変えてる。
 私は多分、高校の三年間で命の燃料を全て使い果たしたんだ。死ぬ気で楽しんで、死ぬ気で笑って、死ぬ気で生きたから。一気に燃料を投下して激しく燃やしたの。
 そんな私と一緒にいたんだよ。
 きっとね、その熱は麻里さんにも移ってると思うんだ。
 麻里さんの燻ってたものに火を移したから、大丈夫。
 無気力に鞭打っといたから、これからは嬉々として生きてね。
 計画的に、燃費よく、炎を燃やしてくんだよ。
 たまに辛いときには無駄遣いしてもいいけど、長く生きるためには、細い火を灯し続けなきゃね。
 
 って、なにこれ、ひどいポエム。
 書きながら無責任に笑っちゃった。
 痛い痛い。
 こんな恥ずかしいポエムを保存なんてしたら怒るから。
 約束通り、きちんと始末してね。
 でもね。私の炎が麻里さんの炎を大きくしたのは本当だと思うんだ。
 だって麻里さん、私と生活してから日に日に変わっていったもん。
 麻里さんも自覚してたけど麻里さんは変わったよ。
 だから大丈夫。こんなに必死に生きた人間の炎も移ったんだもん。必死に生きれない訳ないよ。
 
 最後に一つだけ。
 私は麻里さんが笑てくれたからここまで生きてこれたし。
 私は麻里さんが綺麗に笑えるようになったから死のうと思えるの。
 だから麻里さんはずっと笑っていてね。
 この手紙を読んでるときにはさ、きっと私、麻里さんを見てる。
 ねぇ、麻里さん。
 笑ってよ。
 うん。
 いい笑顔だ。
 じゃあね。



 いつの間にか夕日は沈み、真っ暗な空が広がっていた。
 風がすーっと通り抜け、私は自分を抱くようにして震える。
 もう半袖では肌寒い季節。
 さらさらと大きな木にぶら下がった葉が風に吹かれ音を立てている。
 この青い葉も時期に赤く染まるのだろう。夕日のような綺麗な赤に。
 私は新しい煙草に火をつけ、大きく吸う。
 ゆっくりと心を落ち着けるように何度かそれを繰り返し、室外機の上に置かれたガラスの灰皿を手に取った。
 眼下に広がる世界には次々に電気が灯っていく。それを乱反射させてキラキラと光るガラスをベランダの手すりに置き、その上に彼女の手紙を添える。
 じゃあね。
 口に咥えていた煙草を手紙に押し当てると、莉緒の最期の言葉はゆっくりと黒くなっていく。
 その姿はなんだか弱々しく、見るに堪えない。
 なんというか彼女らしくない。
 私はライターのキャップを外して、彼女が見せるような無邪気な笑顔を浮かべる。
 こんな顔もできるようになったよ。
 ありがとう。
 感謝と共に私は灰皿に液体を零す。
 そして鮮やかで激しい炎が視界を覆った。
 一瞬だった。
 一瞬で燃え尽きた。
 その光景に私は彼女を重ねる。彼女の激しく燃える目を。彼女の激しく燃えた命を思い出す。
 灰皿には黒く焦げた残骸とオイルがゆっくりと明かりを灯していて、細い煙を上げていた。
 それがまるで線香の煙のように見える。
 今なら彼女に声が届くような気がして、私は笑う唇を動かした。
「ねぇ、莉緒」

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