朝、いつも以上の暑苦しさと蝉の声で目を覚ますと、私の体は動かなくなっていた。金縛りかも、なんて少し考えたが、徐々に体が覚醒していくにつれ、原因は明白になっていく。
「おーい。莉緒さーん」
 莉緒は私の身体をがっしりと手足でホールドし、まるで抱き枕のようにして眠っている。
 暑くて苦しい。声を掛けても起きる気配がないので、その拘束を無理やり剥がそうと、私の体から彼女の体を引っぺがしていく。
「もうっ」
 道理で暑いはずだ。莉緒の体温は元気な小学生かと思わんばかりに高く、タオルケットの中はサウナの様に蒸されている。
 腕、足、タオルケット、と順番に投げ捨て、最後に私の肩に乗る莉緒の顔をベッドに押し付ける。寝言のような呻きと共に寝返りを打つ彼女の顔を見てみると、目から流れるようにして涙の跡が残っていた。
「……」
 胸が締まった。
 彼女は強い。弱さを表に出すことは無く、一人で生きていけるとばかりに気を張っている。そんな彼女の無防備さを見て、彼女の歳を思い出す。
「そんなに強がらなくてもいいのに」
 その言葉は彼女に放ったはずなのに、どこかそれに昔の自分を重ねているような気がした。
 いや、昔の私は彼女のように強くはなかったかも。
 私はベッドから降り、昨日途中まで進めた規制の準備と、朝食の用意をする。
 莉緒よりも早く起きることなんて今まであっただろうか。莉緒に朝ご飯を作ることに我ながら達成感を感て、彼女に教わった通りフライパンに油を引く。
 フライパンに卵が落ちる音を聞いても莉緒は目を覚まさなかった。
 ここ最近眠れていないと言っていたし、疲れがたまっていたんだろう。私と一緒に寝ることで彼女が深い場所まで眠ることが出来ていることが嬉しい。
 二人分が乗ったフライパンから半分だけを皿に移し、熱いそれを今度は口へ運ぶ。
 一分やそこらでそれを食べ終え、シャワーを浴び、軽く化粧をする。
 時計を見ると既に十二時を過ぎていた。
 安心して深い眠りに落ちていたのは彼女だけではなかったらしい。
 予約していた新幹線の時間を考えると、そろそろ家を出ても良い時間。莉緒に目をやると未だに体を丸めて眠っていた。
「莉緒~。私そろそろ出るよ? そろそろ電車の時間」
「ん~……。あー」
 莉緒は目を開けて朧げな眼差しを私に向けると、もう一度ぱたりとベッドに倒れる。
 絶対見送る、なんて言っていたのに、なんとも呑気なものだ。
 折角よく眠っている莉緒に強く出るわけにもいかず、これで最後にしようと彼女のほっぺたを人差し指で突いてみる。
「おーい。朝だよー。私もう行くからねー」
「んー」
 さっきよりは幾分かクリアな返事が聞こえたが目が開く気配はない。
 これはもう駄目だなと思いながらベッドから離れると、背後でもぞもぞと籠った声がした。
「起きる……」
「いいよ。寝てな」
「起きるー」
「じゃあ起きなよ」
「起きれないー」
「なにそれ……」
 溜息をついてみると莉緒はぼそっと口を開く。
「キスしてくれたら目が覚めるかも」
「馬鹿じゃん」
 それだけ言うと何事もなかったかのようにまた静かになる。
「じゃあ、行くね」
「ちゅーして、ほら、ちゅー」
「絶対起きてるでしょ」
 寝起きながら揶揄ってくる彼女にもう一度溜息を零す。
 会話ができるなら丁度いい。メモを残さなくて済むからちゃっちゃと要件を伝えておこう。
「今日何時ごろここ出るの?」
「んー。ちょっと今は動けないかも。もう少ししたら出る」
「私もう時間なんだけど出ちゃって大丈夫?」
「大丈夫。鍵どうすればいい?」
「ポストにでも入れといて」
「了解です」
 もう結構覚醒してるじゃんと内心思いながらも、伝えることは伝えた。何か忘れていてもここを空けるのはせいぜい三日だ。何とかなるだろう。
「じゃ、私行くからね」
「あー。起きますー。待って」
「もう……」
 莉緒は目を瞑ったまま天井に向けて両手を伸ばす。
「引っ張ってください」
「えー」
「それくらいいいじゃないですか。スキンシップです」
 めんどくさがる私にぶんぶんと腕を振る。もちろんまだ目は瞑ったまま。
「わかったわかった。埃立つからやめて」
「分かればいいんです」
 彼女に近づき掲げられた手を取る。なぜかその手は震えていた。
「なんで震えてんの」
「朝だからじゃないですか」
 私は彼女の両手を自分に向けてゆっくりと引っ張り上げた。
 しかし、ゆっくりと私に持ち上げられる筈だった彼女は途中で腕を曲げるようにして加速し、気付けば私の唇に彼女の唇が触れていた。
「――っ」
 私は勿論驚く。目を大きく見開いた私の顔は我ながら良いリアクションだったと思うが、当の悪戯を仕掛けてきた本人は気まずそうな表情を浮かべていた。
「……ごめんなさい」
「謝るならやらなきゃいいのに」
「いや、違くて……」
 莉緒は視線を逸らすようにそっぽを向くと、ベッドにうつ伏せに倒れ込む。
「ちょっと。起きるんじゃないの?」
「…………ごめんなさい。……ほら、電車もうギリギリじゃない?」
 情緒が不安定な莉緒を心配するが、彼女に時間の話題を出されて、そうはいかなくなる。
「あっ! 馬鹿に構ってたらもうこんな時間じゃん!」
 ふふっと笑うような声が枕に押しつぶされて聞こえる。
「じゃあ、私、18日の午後に帰ってくると思うから」
「うん」
「莉緒もそのくらいに帰ってくるんでしょ?」
「……うん。ほら、私はいいから早く行きなよ」
 どう考えても莉緒の様子はおかしかったが、今の私にはタイムリミットがある。
 きっと実家に帰ることでナイーブになっているんだろう。
 じゃあねと一言付け加えて彼女の頭を撫でる。
「うん。じゃあね。麻里さん」
 莉緒の言葉を聞いてからキャリーバッグを手にし玄関に走る。
 靴を履いて、鍵を開けて、熱い外気に肌を晒しながら室内に行ってきますの声を投げる。
 そうして私は莉緒の顔も見ずに家を飛び出した。



 電車が揺れる。止まっては進み、止まっては進みを繰り返し、次第に体は重くなり、尾骶骨が軋み始める。そのたびに思い出したように腰を浮かせて体勢を変えてみたり、乗り換えの駅に着けば大きく伸びをしてみたり。
 在来線を乗り継ぎ、予定通りの新幹線に乗り。そしてまた在来線のシートに座る。
 初めはパンパンに詰まっていた電車の中身も、時間の経過とともに漏れ出すように減っていった。少し前には隣の席の人間の腕がぴったりと私の肌に触れ、こみあがる不快感と格闘していたのに、今では車両の中を見回してもちらほらと疎らに見えるだけ。その誰もが私と長旅を一緒にしているようだ。一様に疲労を顔に浮かべ揺られている。
 乗り換えを繰り返すうち、いつしか座席は向かい合いのボックス席になり、扉は勝手に開かなくなった。時たまカチっとボタンが押される音と共に扉が左右に割れ、生暖かい空気がなだれ込み、乗客が眉を顰める。
 そんな不快感と倦怠感をぐっと胸に抑え込んで、聞きたくもない地名が聞こえるのをひたすらに待った。



 昼過ぎに家を出たのだから当然と言えば当然なのだが、実家の最寄り駅につく頃にはもう時計の短針は力無く垂れ下がり、蝉の鳴き声は昼間にも増して強くなっていた。
 ここにつく数駅前から連絡を取り合っていた母親はすでに駅についているのだろう。駅舎を出て眼前に広がる駐車場の中に見知った車を探す。少し古い形をしたシルバーの車体を探すがどこにも見つからず、もう一度連絡しようかと携帯電話を取り出す。
「麻里!」
 寂れた駅前には人は多くない。だから遠くから呼ばれる声も蝉しぐれ交じりに耳に入った。
 振り返ると、知らない車に乗った母親が運転席から手を上げている。
 恥ずかしさを覚えながら、コンパクトな赤の車体に近づく。エアコンが掛かった車内に外気が入り込むのを防ぎたかったのか、すぐに窓は閉められる。だから私はトランクに回り荷物を車の後ろに積んだ後、助手席の扉を開けた。
「麻里、遅い」
「なにが」
「帰ってくるのがに決まってるでしょ。もう送り盆終えちゃったよ?」
 座席に座りシートベルトを締める。隣を見ると記憶よりも老けた母親が呆れた顔でこちらを見ていた。
 なんで私は他人に呆れ顔を向けられることが多いんだろう。莉緒にはまだしもこの人にこんな顔を向けられる覚えはないんだけど。
「いいよ。墓なら明日行くし」
「せっかくなんだから一緒にやってくれた方があの人も喜ぶでしょ」
「わかんないよ。死んだ人の気持ちなんて。誰にも」
 私の言葉をきっかけに車内に悪い空気が蔓延する。母親と話すといつもこうだ。何度か会話をキャッチボールすると必ずどちらかがボールを放棄する。
 自分の父親を「あの人」なんて言われたら腹が立つでしょ。ましてやその妻だった人間に言われているんだから。
 初めて乗る車はゆっくりと駅前を進んでいく。商店街は大半がシャッターを下ろし、通行人は見当たらない。高い建物もなければ綺麗なコンビニもない。あるのは壁に亀裂が入るような古い住居と、夜には閉まる個人営業の店。
 暫く道を進むと国道に差し掛かり、駅前と比べれば妥協点と言えるほどの賑わいを見せる。ポツポツと飲食店が並び、新しい住居がまばらに散らばる道を、駆動音が静かな車が走る。
「車、変えたんだ」
「一昨年の夏にね。あんた全然帰ってこないから始めて見るでしょ」
「軽自動車?」
「乗る人間も二人しかいないしね」
 ほどなくして車のエンジンが止まる。住宅街の中にある安めの戸建て住宅。何のこだわりもないテンプレートのような建売の住宅。
 車を降りると何かが焦げたような匂いがする。玄関の前のコンクリートに燃えカスが黒く残っていて、先ほどまでここで送り火が焚かれていたことを物語っていた。
「麻里。お父さん中にいるから、顔見せなさいよ?」
「……ん」
 お父さんという言葉を聞いただけで胃がキリキリと痛む。胃薬を飲んで来ればよかった。こうなることなんて経験上分かっていた筈なのに。
 車のトランクから荷物を降ろして玄関へ向かう。誰にも聞こえないように深呼吸をして扉を開けると、お迎えと言わんばかりに玄関に大きな男が立っていた。
「おかえり、麻里ちゃん」
「……ただいま。和男さん」
「久しぶり、だな」
 長身で筋肉質。大柄で優しい目つき。
 未だに父親だと認めることが出来ない男の人。こんな私にもめげずに優しく接してくれる男の人。
「そうだね。大学を卒業した時ぶりかな……」
 目線が合わせられず、靴を脱ぎながら言葉を交わす。
 この野太い声にはまだ慣れない。そして今私に向けられているのであろう優しい目つきも、まだ受け入れることが出来ない。
「麻里ちゃんが帰ってくるって言ってたから母さん張りきっちゃって。もうすぐ夕飯もできると思うぞ」
「……うん。ごめん。ちょっと荷物置いてくる」
「あ、あぁ。すまん」
 私は脱いだ靴を整えると、荷物をもって階段を上がる。
 溺れた人間が息継ぎをするように、自分の部屋に逃げ込み乱れた心拍を整える。
 別に和男さんが嫌いな訳じゃない。
 昔はそれこそ反抗もしていたが、もう私も大人。再婚は仕方ないし、和男さんが優しい人間だってことも分かっている。ただ、父親だとは思えない。
 私にとって父親は一人だけで、その父親は死んだ。あの時に私の中の家族は壊れたんだ。後から補欠要員のように人員を追加されたって元に戻るわけじゃない。
 ただ、それだけ。
 大きな体と大きな声が幼い私には怖かったってのも苦手な印象付けの理由にあるかもしれない。だってパパは病弱で細くて、それこそ和男さんとは正反対で。私の周りには大きな男の人なんていなかった。だから和男さんの立派な筋肉が、昔の私には抗いようのない力に見えたんだろう。
 和男さんと初めて会った時の事を覚えている。
 私は柄にもなく綺麗な服を着せられて、母親はお金もないのに外食に私を連れて行って。嫌な予感が的中して、案内されたテーブルには知らない男の人が座っていて。
 第一声に「君が麻里ちゃんか」と快活な声が響き、肩に手を置かれた。その手の力強さが私には初めてで。そこで私は「母親は今度は死ななそうな人を選んだんだな」って強く感じた。それが、母親が父親を忘れようとしているように感じてすごく嫌な気持ちだった。
「もっと和男さんがパパに似てたら、納得してたのかな」
 考えるだけ無駄なことに脳のリソースを割きながら、私は荷物を広げていく。
 その中から箱根の美術館で買った手土産のワインを取り出す。
 買った時のまま袋に入れっぱなしだったので、買い物袋を開け、ボトルの入った包装を取り出す。
 ボトルを取り出した袋の中にまだ重みを感じて首を傾げながら手を入れてみる。
「あ、忘れてた……」
 そこには莉緒にと買ったイヤリング。あの日の夜にでも渡そうと思ったまま袋の中に眠っていた。
「まぁ、色々あったしね……。帰ったら渡そ」
 独り言が増えたなぁ、なんて感じながらワインボトルを手に部屋を出る。一階からは夕飯の匂いが昇ってきて、自分が空腹なのだと自覚する。
 莉緒も今頃実家に帰っているんだろう。私みたいに胃を痛めていないといいけど。
 そしたら私も頑張らなきゃ。
 まずは父親との和解。
 まぁ、そもそも喧嘩なんてしてないんだけど、私の中で折り合いをつける。
 そろそろ大人になる頃合いだ。



 階段を降り、洗面所へ向かう。適当に手を洗い、キッチンを覗くと母親が鍋を見つめている。
「もうちょっとかかるからお父さんと話でもしてて」
「……うん」
 私の気配を察したのか背中越しに言葉を放たれる。
 母親がキッチンにいるのはありがたい。話すなら二人きりの方がやりやすい。
 ダイニングルームに入ると和男さんは一人で缶ビール片手に座っていた。テレビに映るのは夕方のニュース番組。どこかの芸能人の不倫報道を、興味の無さそうな目で見ている和男さんに近づき隣から声をかけると、まるで幽霊でも見たかのようなリアクションで驚く。
「びっくりしたぁ」
「ごめん」
「……なんだ?」
「あぁ、えっと、これ。手土産。こないだ箱根に行ったんだけどそこで。和男さんワイン飲めるか分かんなかったけど」
 張り付く喉から必死に声をひねり出す。人と話すのにこんなに緊張したのなんていつぶりだろう。
「ワインか。もう何年も飲んでないな」
「飲めないならいいけど」
「いや、貰うよ。せっかく麻里ちゃんが買ってきてくれたんだし」
 ちょっと待ってろと和男さんが席を立つので私はなんとなく向かいに座る。
 ワインボトルをクルクルとまわし、ガラス細工が施された表面を眺めていると、ふとワインが常温なことを思い出す。
 ワインって冷やした方が良かったかな。冷蔵庫にしまって明日とかにすればよかったかも。
 そう遅すぎる後悔をしていると和男さんがワイングラスを二つ手に持って戻ってくる。
「そんなグラスあったんだ」
「あぁ、これ母さんとの結婚式で引き出物にしたんだ。滅多に出さないから知らなかったか」
「……うん」
 そもそも酒が飲めるようになってからこの家に帰ってきたのなんて片手で数えられる回数しかない。知らないのも当然だ。
「ごめん。これ、常温なんだけど」
「別に構わないよ。そんなに俺も飲む方じゃないし。残りは冷蔵庫に入れておけばいい」
 せめてこれくらいはと和男さんのグラスにワインを注ぐ。自分のグラスにも手酌しようとすると、ボトルを奪われて注がれてしまった。
 食うかと手元にあったミックスナッツの皿を私の前に出され、何も考えられない頭でカシューナッツを口に放り込む。
 和男さんがグラスを手に取るので、私も真似をし、二つのグラスがぶつかり甲高い音が響いた。
「……老けたね」
「そうか?」
 ワインを一口飲み、ナッツを一粒口に入れる。その動きを四回ほど繰り返したところでようやく私が口を開く。なんの気も効いていない話題だけど無いよりはマシ。
「白髪とか。増えた」
「もう麻里ちゃんが出て行ってから七年は立つもんな」
「そんな経ったんだ」
 時間の流れは自分からの距離によって変わる。身近な存在ではゆっくりと、離れた存在ではきっと時間は早く動く。もうこの人を知って十年は経つことを思えば、私がいかにこの家から離れていたかがよくわかる。
「でも体の大きさは変わらない」
「縮んでたまるか」
「歳取ると人間、小さくなるじゃん」
「毎日仕事で無理にでも動くからな」
 私はこの人の仕事さえも知らない。大工みたいなことをしているのは薄らと知っているけど、どんな仕事をしているのかも、何を作っているのかも知らない。もしかしたら大工なのは私のイメージなだけで、実際は違ったかもしれない。
 本当に私はこの人を知ろうとしてこなかったんだ。
 ワインを一口含むと口の中に渋みが広がる。喉をさらっと撫でられる感触ような後味が広がり、大きく鼻から息をする。
「仕事は、どうなんだ」
「もう三年目。いい加減慣れたよ」
「そうか」
「今年も資格取り損ねたけどね」
 自虐を交えて笑ってみると和男さんは驚いたように私の顔を見た。
「麻里ちゃんほど頭良くても取れないんか。そりゃあ難しい」
「ううん。私が面接でしくじっただけ。筆記は多分大丈夫」
「あぁ、確かに麻里ちゃん人と話すのは得意そうじゃないもんな。俺は頭からっきしだから人のこと言えないけどな」
 和男さんは私の自虐に負けじと自分を貶める。
 その言葉が私にはとても優しく感じて、私の過去を知っている和男さんについつい愚痴をこぼしてしまう。
「ディスカッションで問題提示されてさ。これの解決策がどうのとかって聞かれて。それのお題が児童虐待で――」
 勿論彼は佳晴のことも知っている。実際の面識はなくて、その名前を知ったのも佳晴の死後だとは思うけれど、義理の娘が壊れてしまった原因として深く記憶には残っているだろう。
「あぁ……。そういう事か。なんだ、その。すまん」
「ううん。謝んないで。私が出した話題だし」
 優しい彼は傷つくと分かっていて、この話題を出してしまった。
 でもどうしようもない。
「墓参りには行くのか?」
「明日行くよ。お盆には間に合わなかったけど」
「いや、きっと来てくれるだけで嬉しいと思う。お父さんも喜ぶよ」
 体がぴくんと反応した。和男さんも私の反応に気が付き、慌てて言葉を戻そうとする。
「あぁ……すまん。またやっちゃったな。俺はこの話題に触れるべきじゃなかった」
 彼は私と話すときに絶対にパパの話をしない。パパの話になることが嫌なことも知っているし、きっと彼自信もその会話には混ざりたくないんだろう。
 私の前で頭を激しく掻き、落ち込んだ目でワインの水面を見つめる和男さんを見る。
 やっぱりこの人は優しい。
 そろそろ終わりにしよう。
「ううん。いいよ別に」
「……なにがいいんだ?」
「そろそろさ。私も大人にならなきゃなって」
 私は残りのワインを一気に煽って無理やり笑ってみる。百点満点中ニ十点も貰えない様なみすぼらしい作り笑いで、距離を詰めようとする。
「そりゃ、色々と私の中で折り合いがつかないこともあるけど。それでも、これからはもう少しマシな娘になるように頑張るからさ」
 和男さんは驚いて目を開けている。
「今までごめんね」
 驚き開かれた目が一気に濡れる。
「え、ちょっと、泣かないでよ」
 驚いた表情のままボロボロと涙を流し始める和男さんに私も驚き、慌ててティッシュ箱を渡す。何枚かを豪快に取り、これまた豪快に鼻をかむ。こういうところが慣れないんだ。なんて言えずに引き攣った笑いを浮かべてみる。
「すまん。……母さんとは、なんだ、その、折り合いってやつはついたのか?」
「ううん。あっちはまだ冷戦中。多分距離が近かった分、難しい」
「そうか」
 和男さんは涙を腕で擦ると、まだグラスにたくさん残っているワインを一気に喉に流し込み、そして盛大に咽始める。
「何やってんの……」
 私は年寄りを介護するように背中を摩る。あ、私もこの家で呆れた顔ができるんだ。
「ワイン、あんまり得意じゃねぇんだよぉ」
「苦手なら最初からそう言ってよ」
 ゲホゲホと何度か咳き込んだ後、深く息を吸い、手に持ったままだったグラスをテーブルに置く。
「美味かった」
「はいはい」
 私はもう一度呆れた顔をしながら、彼の広い背中を撫でる。
 近づいてみるとこんなに大きい背中が、今じゃ小さく感じる。これは私の中で和男さんが恐怖の対象ではなくなったからだろうか。
「……でも、すごいな、麻里ちゃんは」
「なにが」
「……俺は何年もここにいるのに、俺の方から歩み寄ってやれなかった」
「十分歩み寄ってくれてた。私が悪かっただけ」
「麻里ちゃんは優しいな」
 大きく小さい背中が弱音を吐いている。撫でれば撫でる程、この人が弱く見えるのが不思議で面白い。
 だから私は今日三年ぶりに顔を見せて、ぞっとしたことの訂正を求めて見たり。
「ねぇ、和男さん」
「なんだ?」
「その、私の事、ちゃんづけは流石にやめて欲しいなぁって」
「え、あ、あぁ。嫌か」
「まぁ、そんな歳じゃないし」
「すまん。気が利かなくて。えっと、そうだな。……麻里」
 彼があまりにも恥ずかしそうに言うもんだから、こっちまで恥ずかしくなってくる。そして呼び名が変わることにむず痒さと小さな喜びを感じた。
 そういえば莉緒と最初に会った時の私がこんな感じだったっけ。
 恥ずかしがりながら「莉緒ちゃん」と呼んだ私を見てどう思ったんだろう。いつの間にか変わっていた「莉緒」の呼び方にどう感じたんだろう。
 莉緒のことを考えると、すぐにでも莉緒に話したくなって。帰ったらこんな話をしよう、あんな話をしようと頭の中にどんどんとメモ書きが増えていく。
「コップ下げちゃうよ。多分そろそろ夕飯もできるでしょ」
「あぁ」
 二つのグラスとワインボトルを持ってダイニングルームを後にしようとし、立ち止まる。
「そうだ、和男さん。一つお願いしていい?」
「お願い?」
「お願いって言うか、約束かな?」
「なんだ?」
 和男さんはぽかんと私の顔を見る。
「和男さんはすぐに死なないでね」
 その言葉に和男さんは緊張が解けたように豪快に笑った。
「任せとけ。それだけが取り柄だ」
「そう。良かった」
 ダイニングルームから出ると、優しい醤油の匂いが鼻孔をくすぐる。
 普段料理をしないからこの匂いが何の料理なのかは分からなかった。