私らしい、ってなに。
 ほかの女の子と話しててもスルーできるような優しい彼女でいてってこと?
 理不尽な怒りがこみ上げる。
 その感情が幸希にその日見たことを言わせてしまった。
「今日、女の子とお茶してたでしょ」
 幸希の言ったことで、幸希の思いを一瞬で理解したのだろう。
 でも志月の声のトーンは変わらなかった。数秒の沈黙だけがそれを伝えてくる。
『……ああ。大学の先輩です。偶然会って』
「そう」
 そっけない返事をしてしまう。
 教えてくれたというのに満足できないなんて。
 思ったものの、とまらない。胸の中が痛すぎて。
 吐き出してしまいたかった。
 本人にこんなこと言ってはダメだ。
 わかっているのにここまで追い詰められては。
「優しそうだったね」
 私にだけじゃないんだ、と言いたかったのは流石に思いとどまった。
 そんなことを言うのは最低すぎるから。
 ここまで言って今更かもしれないけれど。
『だって、女性ですよ。それなりに優しく接さないとでしょう』
 当たり前のことを言われた。
「それはわかってる、わかってるけど……」
 そんなことわかっている。
 けれどどうしようもないのだ。だって抱いている感情は。
『……妬いてくれるのは嬉しいですけど』
 はっきり言い当てられて、顔と頭の中が熱くなった。
 それはふたつの感情。
 羞恥と怒り。
 志月に知られたくなかったし言われたくはなかった。
 そういう気持ちをそんなふうにはっきり言うなんてひどい。
 思ったとしてもはっきり言わないでほしかった。
 言わせたのは自分のくせに。
 そう思わせることを言ったくせに。
 それなのにまだ自分を良く見せたいなんて。
 このあとのことは志月の言葉に対してだけではない。自分に苛立ってしまったのもある。
「そういうふうに言わないで!」
 幸希が志月に対して声をあげたのは初めてだった。
 というか、これまでの彼氏にもしたことがない。家族や友達と喧嘩したり、そのときくらいだ。
『だってそうでしょう』
 でも志月の声は落ち着いていた。
 それがまた幸希の気に障る。
 つまらないことをしている。嫌な女なのは自分だ。
 非のない彼氏にこんなこと、こんな口調で言うなんて。
「ごめん。切るね。おやすみ」
 やっと、それだけ言った。
 こんなところで会話を終わらせるのはまるで逃げるようだった。事実その通りなのだが。
 通話終了アイコンをタッチして、スマホを放り出して、ぼすんとベッドにダイブする。
 やりきれない。
 涙は出ないものの、枕に顔をうずめた。ふんわりした枕の感触も、今は幸希を慰めてはくれない。
 志月ははっきり言わなかったけれど、そして幸希も具体的には言わなかったけれど、『ほかの女性とのやり取り』に幸希が気分を害したことは伝わってしまった。
 そこから露見したであろう、自分の嫌な部分。言わなければ良かった、と今更思う。
 一度は言うまいと思ったのに、衝動に負けて口に出してしまったことが悔やまれる。
 でも。
 このまま抱えていたら直接言ってしまったかもしれない。それよりはましだろうか。
 思って、しばらく沈黙して。
 幸希はごろんと転がって今度は枕を抱えた。壁に向き直って、うう、とうめく。
 ましだとかましじゃないとか、そういう問題ではない。
 嫌な感情はひとつではなくて、嫉妬だとか自分への嫌悪感だとか……たくさんありそうで頭の中はパンクしそうだ。


 夜はまるで眠れなかった。
 それはこれまで平穏な関係を続けてきた志月との、初めてのいさかいだった。
 翌朝目が覚めて、鏡を覗き込んで。
 寝不足でくっきりできてしまったクマを見ながら、幸希はためいきをついた。
 泣いてはいないので目は腫れていない。けれどひどいありさまであることに変わりはなかった。
 今日はアイメイクを少し念入りにしなければ、と思う。濃いメイクは好きでないけれど仕方がない。
 コンシーラーを使って、ファンデーションも少し厚めに……。
 考えながらまずはキッチンへ向かう。
 しかしこちらも問題があった。食欲がないのだ。
 おなかがすくわけもないではないか。クマができるほど眠れなくて、悩んでしまったのだから。
 でも一日仕事をするのだから食べないわけにはいかない。
 ちょっと悩んで、幸希が取り出したのはダイエットシェイクのパウチパックだった。牛乳と混ぜるだけで、おいしいシェイクができあがる。
 ダイエットをしようと思っていた時期があったので、そのとき買い込んでいた。チェックすると賞味期限もきていない。冷やしていないのでひんやりおいしい、というわけにはいかないが、別段味が変わるわけではない。問題ないだろう。
 このシェイクは名前のとおりダイエット用だが、もともとの目的は『摂取カロリーを減らすこと』。
 そしてそれだけではないところは、『必要な栄養素をカットしないこと』だ。
 つまり、必要な栄養を摂りつつ、軽く食べたいときにも向いている食べ物でもあるのだった。
 牛乳は買い置きがあったので取り出して、用量を測ってシェイクと混ぜる。
 選んだシェイクは白桃味。
 何味でも良かったのだけど。味を選んで楽しむ余裕などないのだから。
 シェイクは数十秒で出来上がる。それを持って居室へ戻って、起きたときにつけたテレビの前に座った。
 もったりしたシェイクをスプーンですくい、口に運ぶ。
 一応、おいしかった。そのくらいはわかる。
 しかしそれで心が明るくなるかはまた別問題。
 このダイエットシェイクを食べるのが久しぶりであるように、ここのところ、ダイエットもさぼりがちだった。
 もともと太っているというわけではないけれど、ダイエットはいくつになっても女子の重要項目だ。立派な女子であるなら、体型維持のために、痩せようとしなくても体型や体重を気にすることは欠かせない。
 さぼりがちになってしまった理由は、志月とあちこちおいしい店に行っていたこともある。
 それが楽しくて、幸せで。
 体重計に乗るのもご無沙汰だった。
 そしてそれは示していた。
 体重や体型を気にしないくらいに、気を抜いてしまっていたことを。今まではこんなことなかったのに。
 いかに彼氏に好かれ続けるか。
 そのために綺麗な自分でいられるか。
 綺麗であれば愛してもらえる、なんて自分に言い聞かせていたから。
 志月に対してそれ……体型に気を遣ったりそういうこと……つまり『愛してもらう努力』がなかった理由は明白だった。
 心配しなくても、向こうから与えてもらっていたからだ。
 溢れるくらいに、たっぷりと。
 それに慢心してしまっていたこと。今ならわかる。
 その思考は断片的に幸希の頭に浮かんだけれど、なるべく深く考えないようにした。
 反省はしなくてはいけない。
 けれどそれは今じゃない。
 今必要なのは、感情を殺して、日常をこなして、会社へ行ってきちんと働くこと。昨日のことをどうこうするのはそのあとになってしまうが、社会生活をする以上、仕方がない。
 これも言い訳だけど、なんて内心呟いて、次にまた、心の中だけでため息をついた。
 そんなことを考えながらも黙々とシェイクを食べて、ごちそうさまでした、と呟く。
 シェイクを食べたカップとスプーンを洗ってしまったら、次は顔を洗って、メイクだ。
 いつもより丁寧に顔を洗って、そのあといつもより丁寧にメイクをした。
 下地を塗ったあとにクマの上にコンシーラーのペンシルを慎重に乗せながら思う。
 今までの恋を。
 恋をしてこうなったこと、クマを作るくらいに眠れなくなったり、もっと悪くして泣いたせいで目を腫らしてしまうようなこと。今までにもあった。
というか、好きであった彼氏に何度も振られていたのだから当たり前かもしれない。
 当然のようにそのたびに傷ついて、泣いて。
 振られたそのときだけではない。
 彼氏が自分を見ていない。
 自分に飽きた。興味がなくなった。
 それを察知した時点でもうクマを作るくらい心を痛めてしまったものだ。
 でも志月にはそれがなかった。
 だって、向こうから言ってくれたのだ。
 優しくされることを教えてあげます、と。
 だからその言葉に、気付かないうちに甘えすぎていたのだろう。
 思いあがっていた自分が嫌になる。最初はあれほど優しくされることを恐れていたのに。
 人間の順応性がうらめしかった。
 ほしかったもの。
 手に入ってしまえばあって当たり前のことなんだと誤解して、思いあがってしまうようになる。
 おまけに『嫉妬した』と指摘されて恥ずかしくも怒ってしまったのも、志月に甘えていたのだろう。近しい友達や家族にするように声をあげてしまったことが、それを示していた。
 優しい志月はそれを許してくれるだろう、なんて無意識に思って、また甘えて。
 謝らなければいけなかった。全面的に自分が悪い。
 最初からわかっていたけれど、いや、口に出してしまう前から嫉妬の感情なんて感じたことすら自分が悪いとわかっていたけれど。
 ああ、ほんとに最悪の事態、負の連鎖。
 思いながらもベースができたあとはいつもどおりの手順でメイクをした。
 オフィス用の、控えめなメイク。もう意識しなくても簡単に作れる。
 朝ごはんもメイクも終わって、あとは着替えだけ。もう随分寒いのだからカーディガンの上に、薄手のコートも必要。何故か今日はいつもより余計に寒く感じた。
 こんな気持ち抱いていたら当たり前か。
 思って、カーディガンをいつもより少し厚手のものにしておいた。体だけでも冷やさないようにしないと、と思って。
 支度ができて、誰もいない家だけど一応「いってきます」を呟いて。
 そのあとの一日は流れ作業だった。
 オフィスに着く。
 掃除をする。
 出勤してきた同僚に挨拶をする。
 事務所で席について、毎日の入力作業。
 こなしながら、こんな無為なこと、まるで志月と再会する前のようだ、と思った。
 いや、志月と再会する前だったら、今より日々は楽しかった。彼氏が居なくても「まぁいいか」と思ってしまうくらいには。
 でも今はそんなこと思えない。
 それは志月がたっぷりと愛をくれたから。
 優しくされることも愛されることも、そこからえられる幸せも教えてくれたから。
 ああ、もう自分は彼無しではいられないんだ。
 思ったときは流石に胸が痛んだ。
 涙が込み上げて、でもオフィスだったので無理やり飲み込んだ。パソコンの液晶を睨みつけて。
 謝らないと、と思う。
 仕事上がりにラインをしてみようと思う。
 スマホの画面越しではなく、実際に会って「ごめん」とは言うつもりだ。
 けれどその約束だってあらかじめとりつけなければいけないし、でも志月が「はい」とか「いつにしますか?」とか言ってくれるとは限らない。
 「頭を冷やしたい」とか……最悪「もう別れましょう」と言われるとか。
 しまいにはそんなネガティブな思考すら浮かんだ。自分の心が弱ってしまっていることを思い知らされる。
 ダメ、そんなことは悪い妄想だから。
 嫌なことを思ってはそのように自分に言い聞かせながら過ごす一日は、嫌な意味でとても長かった。
「お疲れ様でした」
 退勤して外に出るなり、幸希はスマホを取り出した。
 本当は、心のすみで少しだけ期待していた。志月のほうから連絡してくれるのではないか、と。
 そんなことはやはり甘えであるので、それも自己嫌悪に繋がったのだけど、浮かんでくる思考としてはどうしようもなかったのだ。
 それはともかく、しかし志月から連絡はなかった。
 スマホは沈黙したまま。家族や友達からすら連絡がない。今日はそれがちょっと寂しかった。
 でも連絡がないなら、こちらからするまで。
 ちょっと悩んだけれど、オフィスから少し歩いたところにある公園へ入った。ベンチに腰掛ける。
 歩きスマホは危険な上に、入力する内容をよく考えられない。
 かといって、カフェに入る気分でもない。
 それよりは少しだけ真剣に考えたあと、もう家に帰ってしまいたいという気持ちだった。
 ベンチの頭上には綺麗に色づいた黄色いイチョウが葉をつけていたけれど、それを見る余裕は今の幸希にはない。
 画面を見つめて、ゆっくり入力していく。画面の活字に丁寧もなにもないのかもしれないが、少しでも真摯にできるように。
『昨日はごめん』
 まずはそれだ。
 今はスタンプで誤魔化していいところではない。
『会って謝らせてくれる?』
 悩んだものの、最終的に選んだ言葉はそれだけだった。
 でも、それだけでいいような気もする。色々言い繕ってもただの言い訳であるし、大体スマホでやり取りをしたくないと思っていたので。
 数秒悩んで。
 てい、と内心つぶやいて、送信アイコンをタップした。
 しばらく画面を見つめていた。心臓がどくどくと騒ぐ。
 けれどすぐに既読がつくことはなかった。
 まぁそうだろう。営業の志月はまだ仕事中だろうから。
 既読がつくのを見るか、それとも返信がきたとき、また心臓が高鳴ってしまうのは確実だったけれど、とりあえず帰ろう。
 一応の『やること』はなしとげて、幸希は家へ帰るべく駅へ向かった。
 混んでいるホームへ上がって、電車を待って、乗り込んだのだけど。
 そこでぶる、とスマホが振動した。予想していたように、幸希の心臓は跳ね上がる。
 やってきたのは幸希の望んでいたように、志月からの返信だった。
 そしてもうひとつ。
 予想していたのと同じ。
 志月からの返信のはじまりも『僕もすみませんでした』でした。

 謝らないで。

 思って胸が痛んだ。
 責めてくれていいのだ。
 別れる、とは言ってほしくないけれど。
 でも、『幸希さんが悪いです』とは言ってほしい。
 図々しかった自分を諫めてほしい。
 なんてまた勝手なことを思って。
『早いほうがいいですよね? 今日、ご飯一緒にしませんか。定時であがれますから』
 続いてやってきたメッセージを見て、今度こそ、幸希の目の前がじわ、と滲んだ。
 これを見ただけでわかる。
 志月は「別れましょう」なんて言わない。許してくれるつもりなのだ。
『ごめん、ありがとう。予定は大丈夫』
『良かった。じゃ、場所は……』
 素早いやり取りで、時間も場所も決まった。
 幸希の家の方向ではないので、電車に乗りなおさなければいけない。けれどそんなことは些細なことだった。
 幸希は次に止まった駅で電車を降りる。逆側のホームへと向かった。
 そして進んできたのと逆方向、つまり戻る方向への電車に乗った。
 待ち合わせは30分後。まだ遠くまできていなかったので、じゅうぶん間に合う。
 都内のほうへ向かう電車だったので、それほど混んではいなかった。けれどそれなりに人はいて、座席は埋まっているし、立っている人もちらほらいる。
 それらに交じってつり革を握りながら、幸希は暮れつつある車窓の風景を眺めた。志月からメッセージをもらったことで、少し落ち着いたのだ。
 それでも思う。
 今回のこと。
 忘れないようにしなければいけない。
 志月が許してくれたって、それに甘えてはいけない。
 嫉妬するのは仕方がないにしても、ゆがんだ形で出してはいけない。
 素直に伝えるか、別のところで消化するか。そうするべきだったのだ。
 そうして、次はもう繰り返さないように。
 とりあえず明日はダイエットシェイクを買いに行こう、と思った。
「……こんばんは」
 待ち合わせをしていた駅前の広場で会って、顔を合わせるのは非常に気まずかった。再会してから、志月に対してこんな気持ちを抱いたことはない。そしてそれは志月も似たような表情だった。
「お疲れ様です」
 言われて、はっとした。仕事上がりならばこちらの挨拶のほうが適切だ。
「あ、お疲れ様!……です」
 言ったあとに、なんだか気まずくて「です」など付け加えてしまった。
 志月がそれに、ちょっと困ったように笑った。
「行きましょうか」
 でも言われたのはそれだけ。なので幸希も「うん」とだけ言って、志月の隣に並んだ。並んで、志月の行くほうへついていく。
 会う前に駅のトイレでメイク直しをしてきた。クマだってもう一度コンシーラーとファンデーションを塗って隠しなおしたし、アイシャドウとリップも少し濃くした。
 厚化粧ではないけれど、オフィスメイクよりは一歩進んだメイクを。恋人に会うのだから。
 歩く間、手は繋がなかった。
 一緒に歩いて、毎回手を繋いでいるわけではない。
 けれど、会った日は一回は手を繋いでいる。今日は右手が妙にすかすかして感じた。
 志月もそう感じてくれているだろうか。左手を寂しく思ってくれているだろうか。
 でも幸希から手は伸ばさない。
 ちゃんと謝って、許してもらって、元通りの関係に戻れるまで。
 それをする資格は自分にはない、と思う。
 志月が幸希を連れて行ったのは、小さなイタリアンのお店だった。
 定時後だ。おなかは空いている。緊張でそれどころではないというのはあったけれど。
 それでも食べるものは欲しかった。お茶では足りない。
「なににしますか?」
 メニューを差し出してくれて、志月は言った。
 けれどその内容は幸希の頭にちっとも入ってこない。なんだかどれも同じに見えてきてしまって。
 実際、そうだったのだろう。
 今重要なのは、なにを食べるかではない。
 なにを話すかなのだから。
 結局無難に「ナポリタンのセットで」などにしてしまって、志月も「じゃあ僕も同じで」などと言った。
 そしてそこで、一応の準備は整ってしまう。
 ちゃんとしないと。
 自分に言い聞かせて、すう、と幸希は息を吸い込んだのだが。
「幸希さん」
 その前に志月がなにか言おうとした、のだと思う。幸希の名前を呼んだ。
 ぎくりとして幸希は思わず言っていた。
 ちょっと大きめな声をあげてしまって。
「ストップ!」
 幸希の勢いが良かったからか、声が大きかったからか。
 志月はわずかに身を引いた。
「……なんですか」
 1、2秒黙ったあとに、志月は言った。
 ちょっと不満そうだった。彼は彼で、言おうとすることを決めてきたのだろ うから。それを遮られれば不本意だろう。
「志月くん、謝るつもりでしょ」
 でもそれを言わせるわけにはいかない。
 幸希は言った。
 志月が「遮られるとは思っていなかった」という表情で、返事をする。
「え、……いけませんか」
 その返事に対する態度は決まっていた。
 今日一日で思い切ってしまった幸希は、きっぱり言う。
「ダメ。だって、悪いのは私だから」
 志月はなにも言わなかった。
 なにも言えなかった、のかもしれない。幸希がそのような言い方をするのは初めてだったので。きっと想定外だったのだろう。
 今まで通り優しく接して、「いいんですよ」なんて許してくれる気だったに決まっている。
 でももうそれには甘えられない。
「……そういうところ、甘やかさないで」
 一拍置いて、幸希はそのとおりのことを言った。
 志月がごくりと息を飲んだのがわかる。
 数秒黙り。
 でも言ってくれた。
「……わかりました。ではもう謝りません」
 幸希は、ほっとする。
 そこへサラダが運ばれてきた。
 けれど食べているどころではなかった。幸希はフォークに手を伸ばさなかったし、志月も同じだった。
 サラダはテーブルに放置されたままだが、幸希は、ばっと頭を下げた。
「ごめんなさい。なにから謝ったらいいか、わからないけど」
 言った。
 志月はしばらく黙っていた。
 なにを言ったらいいのかわからないのだろう。彼にとっては想定外の展開になっただろうから。
「でも、一番謝りたいのは、……嫌な言い方して、ごめんなさい」
 それでも志月はなにも言わない。
 事実なのはわかってくれるだろう。
 嫉妬したことより、声をあげたことより。
 嫌味を言うような言い方になったこと。
 それが一番。
「……それは、僕もですよ」
 やっと、という様子で志月は言った。
 今度はそれが幸希の想定外であった。
 きっと「そこはそうですね」などと言われると思っていたのだ。
 志月は笑みを作った。『作った』といえるくらい、努力した、という様子ではあったが。
「幸希さんの気持ちを考えないような言い方をしました。そこは全面的に幸希さんが悪いんじゃありません。幸希さんにそういう言い方をさせたのは僕です」
「……またそうやって」
 志月の言ったことはやはり優しすぎた。
 幸希は思って、言う。なんだか拗ねたような言い方になってしまった。
 そこで志月はまた笑顔を作って、だろうが、少なくとも笑顔を見せてくれる。
「いえ、事実です。甘やかしじゃありません」
「……志月くんは、優しすぎるよ」
 幸希はそう言うしかなかった。志月が『甘やかし』たり、もしくは幸希の機嫌を取るためなどではなく、本気でそう思っているだろうことがわかったから。
 このやさしいひとに大切にしてもらっていること。有り余る幸福だったのだ。
 志月の言い方ひとつ、表情ひとつ。
 でもそのすべてから幸希に伝わってくる。
「言ったでしょう。好きなひとには優しくしたい、と」
 それは幸希に告白してくれた日に、あたたかいカフェラテを前に言ってくれたこと。
「僕はそういう気持ちを忘れたくありません」
 きっと志月の気持ちはあの日と同じなのだ。
 忘れたくない、なんて思わなくてもこのひとは変わらないと、幸希は思った。だって、そこが彼の根幹なのだから。
「幸希さんにも悪いところはあったかもしれません。でも僕の態度だって完璧じゃなかったんです。だから、……仲直り、しましょう」
 言われて、幸希の表情は崩れた。
 泣きたい気持ちになって。
 でもそれは、嬉しさから。
 泣き笑い、というのだろうか。涙はこぼさなかったけれど。
「それは私が言うべきだったんだよ」
「あ、取っちゃいましたか……すみません」
 志月は言って、そしてくすっと笑った。
 今度は作った笑顔ではなく、本当の笑顔だ。幸希にはわかった。
 心の中が熱くなって、すぐにでも志月に抱きつきたくなったけれど。
 それはすべてディナーを食べ終えて、店を出てからにしておいた。
「食べましょう」
「僕たちの仲直りを祝って」
 と言ってくれた志月とパスタをおいしく食べたあとに。
「幸希さんは真面目ですよね」
 初めての喧嘩……というのか、そこまでいかぬいさかいか。それが起こってから一ヵ月ほどが経っていた。
 暖房を入れた幸希の部屋。コーヒーを入れたマグカップを手に、志月が言った。
「どこが?」
 幸希も同じようにマグカップを持っていたが、ひとくち中身を飲んで尋ねる。唐突にそんなことを言われた意味がわからなかったので。
 飲んでいるホットコーヒーがおいしいくらいに、季節はもうすっかり冬の手前まできている。
 コートも厚手のものにした。
 服も新しくニットやウールのものを買った。
 季節の変化。
 幸希は寒いものがあまり好きではなかったが、服を選んだり、ホットの食べ物や飲み物といった季節のものを食べられるのだけは楽しいことだと思う。
「一ヵ月くらい前。僕とちょっと衝突したとき、自分を責めたでしょう」
 志月に言われて幸希はちょっと顔をしかめた。あのことはできれば思い出したくない。
 が、志月の口調にも言葉にもまるで責める色はなかった。普段通り、おっとり優しい口調だ。
「反省するのは普通のことじゃないかな」
 あまり話題にしたくなかったが、言われてしまったことは仕方ない。幸希は言った。
 言ったことは本心だ。
 自分が悪かったのだ。
 自分を責めて当たり前だ。
 反省するべきところだったのだから。
 そのように幸希は思ったのだが。
「確かになにか悪かったな、と思うことがあったら反省は必要ですけど」
 志月は目の前のテーブルに置いてあった皿に手を伸ばした。薄いクッキーを一枚手に取る。
 幸希もつられるように手を伸ばしていた。
 くるみの入った、さくさくしたクッキー。幸希の気に入りのケーキ屋さんで扱っている焼き菓子だ。
 いさかいを起こしてしまったお詫びとして、あれから一週間ほどあとに「ワンコインで」と、幸希が買ってあげたもの。
 クッキーはワンパック500円だった。ワンコイン、だ。
 志月は勿論「そんなお気遣い」と言ったけれど、幸希は「せっかく買ってきたんだから、もらって」と押し付けた。
 「それじゃ、……いただいておきます」と受け取ってくれたのだが。
 それを「今度一緒に食べましょう」と言って、実際に今日のおうちデートに持ってきてしまうくらいには、やはり志月は優しいのだった。
 今回は、ワンパック500円のクッキー。
 これまでには、ピザだったりポカリ1本だったりした。
 なにかしてあげたり、してもらったりするたびに、『ワンコイン』。
 一枚のコイン分の気持ちが行き来している、と、クッキーを買いながら幸希は思ったのだった。
 別に純粋に『相手になにかしてあげたい』という気持ちで自分はしているし、多分志月からもそうだと思う。
 それでもなにかにつけて、二人でいたずらっぽく言い合う。
 スタートは自分が志月のことを、『ワンコのようだからワンコイン』なんてシャレのつもりではじめたことだったのに。いつのまにか、二人の合言葉のようになっていた。
「あそこ、ほかの女の子に優しくしないで、って言っても良かったんですよ」
 さく、とその500円で買ったクッキーをかじって、志月は言った。さくさくと咀嚼する。
 自分もひとくちクッキーをかじったけれど、幸希の言う声は濁ってしまった。
「それは……さすがに」
 はっきり嫉妬の気持ちを口に出すなんてみっともない。
 そんな、彼氏を束縛するような女になんて、なりたくなかった。少なくともそれを表にだしたくはなかった。
「でも幸希さんは、少なくともはっきり言わなかった。それは自制心がいることだったかもしれないのに。嫌な思いをしたのは確かだったでしょうに」
 言う志月の声は優しかった。クッキーを食べてしまって、ティッシュでクッキーの粉を拭う。
「……だって、オトナなんだから、そんなつまらないことで」
 幸希はやっぱりもにょもにょと言ったのだが、志月はやはりそれを簡単に否定した。
「それができない大人も、世の中には多いですよ?」
 言われて、それはなんだか少し嬉しかった。
 立派なひとだ、と言ってもらったようなものなので。幸希はちょっと笑った。
「それならできるほうでいたいよ、私は」
「僕もですよ」
 当たり前のように言った志月のほうが、やっぱり自分よりずっと真面目じゃないか、と思うのだけど。
 幸希は違うことを言った。
「……ほら。志月くんもやっぱり優しい」
 やさしさをあげます。
 そう言ってくれた、あのときのことを思いだしたから。
 そして志月も幸希の言葉からそれを思い出したのかもしれない。懐かしそうに、といえる表情で笑う。
 表情からなんとなくそれがわかるくらいになってしまったことを、幸希は嬉しく思う。
「そうですか? そう思ってもらえているなら嬉しいですね」
 声も嬉しそうな色でそう言って。
「これ、開けていいですか」
 次に志月が手に取ったのは、甘栗の袋だった。先日、デートに行った中華街で買ったものだ。甘栗のそこそこ大きな袋詰め。
 これは別にワンコインではない。幸希が「食べたいから」と勝手に買ったものだ。
 今日のお茶うけに、とテーブルに置いておいた。
 クッキーを食べていたのでまだ未開封だったけれど、幸希も食べたいと思っておいていたので、「いいよ」と簡単に答える。
 ぱり、と甘栗の袋を開けて、志月は新しい皿に栗をころころと出した。
 それを見ながら、ふと幸希の思ったこと。
 ちょっとためらったけれど、優しさに甘えてみようか。
 今の『甘え』は、きっと悪いものではないだろうから。
「じゃ、優しいついでに……な、なにか変わったんだけど、わかる?」
 幸希の言葉に、志月は甘栗に手を伸ばしていた手を留めて、きょとんとした。
 幸希の目を見つめる。
「えっ……、えーと……気付かなくてごめんなさい」
 やっぱりまたそこから謝るのだった。
「謝らなくていいから。わかる?」
 それは実にささいなことで、別に志月がわからないとしても不思議はない。
 ただのたわむれだ。
 でも、ちょっとそんなやりとりで遊んでみたかった。
 志月は数秒、悩む様子を見せた。いくつか考えたようだったが。
「……えーと……ちょっと痩せました?」
 言われた『回答』に、幸希の頬はかぁっと熱くなった。
 痩せた、と言われたこと自体は嬉しかったが、以前は太っていたと思われていたのか。
 そう考えてしまったので。
「そ、それは言わなくていいの!」
 実際に体重は落ちていた。それは体型にも着実に反映されていたようだ。
 ウエストを測ったり、などはしていなかったし、毎日鏡で自分の顔を見ていれば、顔つきの変化だってすぐにはわからない。他人のほうがわかるだろう。
 けれど、そこを言われるのは嬉しいような、恥ずかしいような。
「え、そ、そうだったんですか、すみません」
「……まぁ、本当だけど……」
 謝られた。
 けれどダイエットが成功して嬉しかったのは本当だったので、視線をさまよわせてごにょごにょと言うと、志月はやはり嬉しそうな顔をしたようだ。声が、ほっとしている。
「やっぱりそうなんじゃないですか」
「でもそうじゃなくて! あ、……新しいセーター買ったの!」
 嬉しくはあるが恥ずかしいので話題をそらしたいと思ってしまった幸希は、自ら回答を口にした。
 今日のセーター。
 アイボリーでやわらかなニット。
 先週、新しく買ったもの。
 仕事帰りの駅隣接のデパートで偶然見つけたものだったが、一目惚れだった。形はシンプルだが、胸元のビジューがかわいらしかったのだ。値段もそれほどしなかったこともあって、数秒迷っただけで買ってしまったもの。
 ……勿論着るのは、今日が初めて。
「ああ……あの、」
 幸希の『正解』に、志月は『思い当たった』という顔をした。
 そのあと、あの、とちょっと気まずそうに言って、そのとおりの理由を口に出す。
「……去年着ていたという可能性も考えられて」
「それはそうだけど」
 確かに去年の冬は、まだ志月と再会していなかった。
 なので『去年のものを出してきたのかもしれない』と思って、初めて見るものだと思ったようだが、口に出さなかったらしい。
 でも気付いていてくれたのだ。ぽうっと胸の奥があたたかくなったが、次の志月の言葉でそれは熱いものへ変わった。
「かわいいですね」
 う、と幸希は詰まる。その言葉を誘導したも同然だったので。
 けれど、それを望んでいたのも事実。
「あ、ありがとう……」
 素直にお礼を言うと、今度志月はにっこりと笑った。人懐っこい笑み。
「でもそんなふうに言ってくれる、幸希さんのほうがかわいらしいです」
「……また恥ずかしいこと」
 しれっとそう言うのはやめてほしい。嬉しいけれど、心臓がいくつあってもたりないではないか。
 どくどくと鼓動を速くしてしまったというのに、志月はどうでもいいことを言ってきた。
「本心です。はい、口開けてください」
 差し出されたのは、綺麗に剥けた甘栗。いつの間にか剥いていたらしい。
「誤魔化さないで」
「誤魔化してません。ちょうど剥けましたから」
「……剥くのなんて数秒のくせに」
 幸希はそのとおり指摘したのだが、口の前まで甘栗を差し出されてしまった。
「いいですから、はい、あーん」
 観念する。
 子供にするみたいにしなくても、と思ったのだが。
「おいしいですか?」
「うん」
 聞かれたので、もぐもぐと噛みながら頷く。
 甘栗は中華街では一年中売っているが、やはり栗だけあって、秋や冬が一番おいしく感じる、と思う。
「今度はラーメンでも作りに行きましょうよ」
 志月が今度は自分で食べるのだろう、新しい甘栗を剥きながら、何気なく言った。
 ラーメン?
 確かに志月はラーメンが好きだと言っていたし、実際に二度ほど一緒に食べに行ったことはあるけれど、作る、とはいったい。
「作るの?」
「はい。カップヌードルミュージアムっていうところがあってですね、そこでカップラーメン作りの体験を……」
 さらさらと答える志月。次のデートの予定が立っていく。
 夏から秋になって、そして今は秋から冬へと変わろうとしていく。再会したときは夏だったのに、志月と過ごす季節ももうみっつめだ。
 一周するときにはなにがあるのだろう。
 それまで何回も会って、いろんなときを二人で過ごして。
 もっと仲を深められていったらいいな、と思う。
「もうひとつ、食べますか?」
 聞かれたので幸希は「食べる」と言ったのだけど。
 志月は自分のくちもとに甘栗を持っていった。くちびるで軽くくわえる。
 それを見ただけで意味がわかり、幸希の胸が高鳴った。

 もう、馬鹿。

 思ったのだけど、それは口に出さずに、幸希はそっと顔を近づけた。
 幸希のくちびるに届いたのは甘栗だけでなく、その先にある志月のくちびるも、だった。