「ピンクが好きなんですか?」
歩く間に戸渡が訊いてきた。
駅で浴衣の話をした続きだ、とすぐにわかった。途中のままに水木の車についてしまっていたのだ。
そのとおり、幸希の浴衣はピンク色に小さな花が散っているものだ。お気に入りで何度か着ているもの。
でもピンク色を着るのにはやはり少しためらったのだ。少し前の結婚式のドレスと同じ。年齢的に。結局『デートなんだから多少かわいくても許されるだろう』と思って、思い切ったのだけど。
「さ、流石にもうかわいすぎるかなかと思ったんだけど」
幸希の言葉を戸渡は簡単に否定した。
「そんなわけはないでしょう。いくつになってもピンク色は女性を綺麗に見せてくれる色ですよ」
思い切ってよかったのだ。言われて幸希は、ほっとした。
話しているうちに出店の並んでいるエリアへ入る。
「はぐれないように気を付けてくださいね」と、きゅっと手を握られた。幸希も「うん」と握り返す。
「お腹がすきましたか? なにか食べましょうか」
「そうだね、軽く」
もう夕ご飯の時間だ。花火大会に来たら、まずはなにか軽く食べてから見て回るのが定番。
よってお好み焼きと焼きそばを買って、近くのベンチで食べた。
ちょうどよく空いていたのだ。早めに着いたからだろう。
お腹がそれなりに膨れたところで出店を見て回る。
食べるもの以外にもたくさんの店があった。
金魚すくい、ヨーヨー釣り、射的。定番の店がいっぱいだ。
なんだか子供時代を思い出して、お祭はいくつになっても楽しいもの。
「僕、金魚すくいが得意なんですよ。子供の頃はお祭に行けば絶対にやって、何匹も金魚を連れて帰って水槽で飼ってました」
言う戸渡は誇らしげだった。
「けど、今は一人暮らしですからね。飼えないですね」
「そうだねぇ、一人暮らしだとペットはね」
通りかかった金魚すくいの屋台を見ながら話し、残念ではあったがその前は通過した。
「なにか買ってあげましょうか」
色々見ながら、戸渡がふと言った。
買うもの。
候補はたくさんある。
食べるものでも、簡単なアクセサリーでも、雑貨でも。
「私のほうが先輩なんだけど」
でも『買ってあげる』という物言いは子供にするようなものだったので、幸希は少し膨れる。
「あはは、すみません。じゃ、沖縄長期旅行に行っちゃったお詫びってことで、ワンコインで」
「お土産もらったじゃない」
沖縄のお土産として、大きな箱のお菓子と蛍石のキーチェーンをもらっていた。
青と水色がとても綺麗な蛍石。今は、遊びに行くときのバッグに着けている。
今日はピンク色の浴衣だったのでちょっと合わないかなと思って、お留守番になっていたけれど。
「それとこれとは別ですよ」
結局押し切られた。
ま、いいか、と幸希も受け入れることにする。
後輩だろうが、もう彼氏だ。なにか買ってもらってもおかしくはないだろう。
「なににしよう……」
買ってもらえるとなると途端にわくわくしてしまう。
アクセサリー、雑貨……条件はワンコイン。
流石に100円では安すぎるだろう。500円が妥当か。
思いながらあれこれ見て回ったのだけど。
幸希はある出店の前で足を止めた。
「見ていきますか?」
「うん」
そこはガラス細工を扱うお店だった。値段もちょうど良さそうである。
高級品ではないだろうが、日常に取り入れるにはこのくらいでもじゅうぶんだ。
アクセサリーは勿論、文鎮のようなガラス玉、ストラップ、置物……種類は様々。
その中で、幸希は子犬のマスコットに目を留めた。
透けたブラウンが綺麗で、愛嬌のある顔。どこかの誰かを思い出させる。
おまけにちょうど500円だ。
「これ、いい?」
「はい、勿論ですよ。かわいいですね」
幸希の言葉は簡単に受け入れられて、戸渡はそれを買ってくれた。店主に代金を払って、割れないように簡単な緩衝材に包んでくれたそれを受け取る。
「持ちますよ」と言われたけれど、「巾着に入るから大丈夫だよ」と幸希は持ってきていた赤い巾着に袋を入れた。
包んでもらったのは、持ち手もないただの紙袋だったのだ。特にバッグのようなものを持っていない戸渡に持たせるより、自分の持ってきていた巾着に入れるのが合理的。
「犬、好きなんですか?」
言われたので、幸希は、ふふ、と笑ってしまう。
「好きだよ。でもアレ、誰かに似ていたから」
戸渡はきょとんとしたが、すぐに眉根を寄せる。
「まさか僕ですか」
「勿論」
今度は戸渡が膨れる番だった。
「まさか犬に例えられるとは」
「戸渡くんは犬みたいなところがあるからね」
「褒めてるんですかそれ」
「勿論」
戸渡はどうにも不満のようだったが、空気はほのぼのとしていた。
そのあともいくつか店を見て回って、そして花火を見るために食べ物を少し買い込んだ。
フランクフルトや焼きとうもろこしなどの食事になるもの。
りんごあめ、わたあめなどの甘いもの。
そして最後にかき氷。溶けてしまうので早く食べないと、と一番観覧席に近い場所で買った。
そして観覧席へと向かう。
会場まで負担にならないようにと車を後輩に頼むほどの用意周到さだ。もしかして、と思ったがやはり戸渡が向かったのはごちゃごちゃとしていて人だらけの一般席ではなく、『関係者席』であった。チケットを出して、柵の中へ入る。
「ゆっくり見たいですからね」
戸渡はそれしか言わなかったし、幸希もどこでそれを手に入れたのかは聞かなかった。おおかた、会社のつてであろう。
出来た恋人にもほどがある、と感動すら覚えながら、幸希は用意してもらっていた椅子に座った。ただのパイプ椅子ではあったが、人だらけの一般席でレジャーシートなどに座ることを思えば玉座にも等しい。
席について、花火はまだだったがかき氷を二人で食べはじめた。
もうずいぶん溶け出している。花火を待っていたらただの色付き水になってしまうので、仕方がない。
いちご味のかき氷。懐かしい味がした。
「いちご味が好きですか?」
「うん、昔から」
かき氷は口に入れると、さっと溶けてしまう。冷たくて口の中が気持ちいい。
そのあとはフランクフルトをかじったり、食べ終えてわたあめを口にしている間にアナウンスがあって、やがて沈黙が落ちる。
ぱっと空が明るくなり、花火の一発目があがった。
少し遅れて、どぉん、という鈍い音。わぁ、と客席から歓声が上がる。
それを皮切りに次々に花火が打ち上げられた。
「綺麗ですねぇ」
戸渡がしみじみと言った。
「うん。……あ、これ、ネコの形だ」
「本当だ。変わり種もあるんですね」
言いながら手を伸ばされて、また手を握られる。
熱い折だ。戸渡の手は汗ばんでいたけれど、ちっとも気にならなかった。むしろそれすら心地良さに変わる。
幸希はちょっとだけ目を閉じた。
こんな素敵な恋人と花火を見られること。
数ヵ月前には想像もできなかった、と思う。
花火は何発あがったかもわからなかった。
ピンク、緑、黄色。カラフルな花火。
きっとこの花火は今夜眠る前にまぶたの裏に浮かぶことだろう。
帰りは歩きだった。
「足、痛くないですか?」
会場を出る前に訊かれたものの、今日履いてきた下駄はもう何回も履いているので痛くはない。もともと下駄や草履には慣れているので、それほどひどく合わないものではない限り、足が痛くなったりはしないのだ。
「大丈夫だよ」
幸希が言うと、戸渡はほっとしたように言った。
「じゃ、歩きで帰っても大丈夫ですか。ちょっと歩きたい気持ちで」
「いいよ」
確かにバスやタクシーを使うよりも、歩いて帰りたい気持ちはわかる。
なんとなく、花火を見た余韻を感じたい。
それにもう一度後輩を呼ぶ、と言われるのもなんだか悪いし、とも思う。
よって、夜道を二人で歩きはじめる。
戸渡は人の多い道ではなく、少し人通りの少ない裏道を選んだようだ。大通りは明るくて安心するけれど、ここは少し暗い。
ちょっとどきどきしてきた。
恋人同士のすること。
まだ手を繋ぐしかしていない。
けれどもう大人なのだ。その先のことだってきっとあるだろう。
わかってはいるけれど、そして初めてではないけれど、緊張はどうしようもないと思う。
「実は高校時代から、先輩の着物姿が好きだったんです」
歩くうちに戸渡が、そこまでの会話とはまったく違うことを言った。唐突に昔話をされて、幸希はきょとんとする。
「凛として、格好良くて。でも着物の色や柄のチョイスはかわいらしくて。格好良さとかわいさが両方感じられて不思議だったんですが、そのバランスが好きでした」
戸渡はとつとつと続けた。あまりに褒められてくすぐったい。
「……褒めすぎだよ」
「本心ですよ」
高校時代のこと。茶道部でのこと。点前の会での着物の姿だろう。
あの頃はどんな着物を着ていただろう、と思う。
10代の女の子ではあったが、茶道の点前は正式な場。なのでシンプルなものを選んでいたはずだ。
それでも女性の着物は華やかさも必要とされる。生地は明るい色が多かったし、控えめではあるが柄の入っているものも多かった。
その着物をかわいらしいと言ってもらえたのも嬉しかったし、それ以上に。
自分の立ち振る舞いを格好良いと言ってもらえたことのほうが嬉しかったかもしれない。それは着物を選ぶことよりももっと、幸希の本質に近いのだから。
「勿論、先輩のこともそのとき好きだったんですよ」
ふと、戸渡は足を止める。
そして言った。
幸希の心臓は勿論ひとつ跳ねる。
高校時代から?
私を?
しかし高校在学当時、そんな素振りはまるで見せなかった戸渡だし、特にたくさん話をしたりということもなく、幸希の卒業でそのまま離れてしまった。
実際、戸渡が偶然幸希の勤めるオフィスを訪ねてくるまで連絡のひとつも取るどころか、どうしているかだって知らなかったのだ。存在すら忘れていたほど。
そこに、突然こんなこと。
幸希が呆気にとられたのを見たのだろう。戸渡は照れたように笑う。
「当時は勇気が無くて、告白なんかできなかったんですけど。子供でした」
なるほど、と幸希はそれだけで納得した。
大人になってからも、好きになったひとに気持ちを伝えることなんて簡単にはできない。高校生にとってはもっと、もっと難しいだろう。
実際、幸希も同じ経験をしていた。同級生の男の子に片想いをしていたのだが、結局告白はできなかったし、そのまま卒業で別れてしまった。
ほかの子に片想いしていたからだからだろうか。
少しは身近ともいえた戸渡からの気持ちに気付かなかったのは。
それもなくはないと思う。
「だから、再会できたときすごく驚きましたし、すぐ思いました。今度こそ先輩に想いを伝えようと。きっとこの偶然はそのためにあったんだと」
見つめて言われて、幸希は思った。
このひとはもうただの後輩ではなく、一人の男の人だ。自分にとって特別な存在。
「……ありがとう」
幸希の目元は緩んだ。
それを見て戸渡も安心したのだろう。同じように笑みを浮かべる。
そして。
そっと顔を近づけられた。
どくりと心臓が高鳴ったものの、幸希は当たり前のように目を閉じた。
くちびるが触れ合う。
触れるうちに、戸渡の手だろう、なにかが頬に触れた。花火を見ていたときと同じようにやはり汗ばんでいたけれど、やはり不快ではなく。
そのようにひとつ恋人同士として進んでから、幸希は帰り道、言った。
「そろそろ『先輩』は、やめにしない?」
幸希からの申し出に、戸渡は驚いたようだ。
けれど、多分ぱぁっと顔が輝いた。歩いていたのではっきり正面からは見えなかったけれど。
「えっと、じゃあ、幸希さん」
「呼び捨てでもいいんだよ?」
言ったけれど、戸渡はすぐにそれを拒否してくる。
「いえ、いけません。いきなりそれは一足飛びすぎます」
「そうかなぁ」
やはり忠実なワンコのよう、と幸希は笑ってしまったのだけど、結局「幸希さん」で良いことにした。
そのほうが戸渡らしい、と思ってしまったゆえに。
丁寧な言葉遣いが似合うというのは、まだ彼を後輩扱いしているかなぁ、と思わなくもないのだが、そう接されるのが心地いいのだからそれで良いと思う。
「じゃあ、私からも名前にしてもいい?」
もう一度顔が輝いただろう。
幸希はくすくす笑って、呼んだ。初めて呼ぶ呼び方で。
「志月くん」
「はい」
にこっと笑って答えてくれる戸渡……志月はもう後輩の顔だけではなかった。
対等な恋人関係にもなった、顔。
「お久しぶり、戸渡くん」
「お久しぶりです。鈴木先輩」
久しぶりに会った、共通の知人。待ち合わせをしていたイタリアンの店に遅れて入ってきた志月は『鈴木先輩』に頭を下げた。亜紗はそんな彼と幸希の前で「懐かしいね」とにこにこしている。
亜紗は、幸希にとっては友人。
志月にとっては先輩。ただし、それなりに遠い関係だ。
数日前に「今度亜紗と会うんだ」という話をしたところ、「へぇ、懐かしいですね」と志月は言った。
「鈴木先輩、ですよね? 茶道部の部長だった」
「そうだよ。よく覚えてるね」
「部長さんでしたから、お世話になりましたよ」
当たり前のように志月は言ったけれど、やっぱり幸希と同じくらいの期間しか関わった時間はないだろうにすごいことだと思う。
そこで亜紗に言われていたことを思い出す。「戸渡くんと付き合うことになったんだって? 今度、私にも会わせてよ」と。
幸希にも問題はなかったので「いいよ」と軽く約束をした。
「志月くんもどう? 一緒に」
数日前の幸希の誘いに、志月は目をまたたかせた。
それはそうだろう、幸希は「亜紗と会う」としか言わなかったのだ。
「え、いいんですか?」
「亜紗が紹介……っていうのもヘンか、一応知り合いだし。会いたいって」
「そうですか……では、なんだか女子会にお邪魔するようで悪いですが、お邪魔しましょうか」
そのような経緯で、三人で会うことになったわけだ。
日曜日だった。幸希と亜紗は普通に休日なので、昼間から会ってショッピングなどしてきた。
志月はやはり当たり前のように仕事があった。なので仕事上がりの夜に、三人で軽くディナーでもという話になったのだ。
日曜日なのは、志月への気遣いだ。翌日の月曜日が休みだというので。日曜日が休みの幸希と亜紗の予定に合わせてもらったので、そこは気を遣わせてもらうことにした。
「戸渡くん、なににする?」
仕事後だからか、志月はスーツ姿だった。クールビズをやっているそうで、上は半袖のシャツだけだったが。それでもきちんとした格好だ。
「そうですねぇ……」
「私と幸希は、もう前菜いただいちゃったけどごめんね」
「かまわないですよ。むしろ遅くなってすみません」
話しながら志月はメニューを見ていった。チェーン店などではないので、メニュー表も凝っている。
幸希と亜紗の前にはシャンパンのグラスがあった。志月を待つ間、一時間ほどあったのでサラダや軽いつまみをいただきながら一杯先にやらせてもらっていたのだ。
なににしようかメニューをめくって見ている志月を見ながら、亜紗はゆったりシャンパンを傾けている。
亜紗は高校時代、部の部長を勤めていただけあって積極的な性格だ。
そう、交際前に戸渡くんと再会して、という話をしたときすぐに「付き合っちゃいなよ」と言ったくらいには。
なので10年ぶりに再会した志月に対してもなにも臆する様子を見せずに、すぐに普通に話し出した。それは高校時代のときのような、でもちゃんと大人になったやりとりのような、不思議な喋り方だった。
メニューも決まって、すぐに志月の選んだワインも来た。濃い口の赤ワインだ。濃紫がうつくしい。
「じゃ……幸希と戸渡くんの交際にかんぱーい!」
亜紗がグラスを掲げて、チン、と音を立てて3つのグラスが触れ合った。
なんだか恥ずかしかったけれど。
交際を祝われるのは。
でも嬉しい。仲の良い亜紗に祝ってもらえて。
「今日はショッピングに行ってきたんですよね」
ワインをひとくち飲んでから志月が言った。
「うん。久しぶりだから色々見ちゃった。セールもやってたし」
嬉しさからか、はじめは亜紗の前で志月と話すことにちょっと緊張を覚えていたけれど、すぐにいつもどおりに話せるようになったのは。
「買い物にはちょうどいい季節ですよね。まだ夏ものも着ますしね」
言った志月に、亜紗がにやにやとしながら言った。
「幸希、新しいワンピース買ったんだよ。戸渡くんに見せたいって」
「ちょっと、亜紗!」
幸希は、あわあわと言った。
どうやら亜紗はちょっと酔っているようだ。シャンパンももう二杯目なので仕方がないかもしれないが。
「あ、ごめん。サプライズのほうがよかったよね」
「そうじゃなくて!」
幸希と亜紗のやりとりを見て、むしろ志月のほうが苦笑する。
「聞き出したみたいになっちゃいましたね。ごめんなさい」
「や、そんなことは、ないけど」
幸希はちょっと戸惑いながら言う。
確かにデートで初めて着て、「いいですね」とか「似合ってますよ」とか言われたかった、とは思っていたので。
最近買ったことはわからなくても、志月なら服を褒めてくれると信じていたので。
もう、亜紗ったら。
亜紗のことをちょっぴり恨んだ。この楽しさの中ではシャンパン一滴くらいではあったけれど。
「鈴木先輩と幸希さんは、本当に仲がいいですね。高校時代からそうでしたよね」
やりとりを見ながら志月も楽しそうに言ってくれた。運ばれてきたパスタをフォークで巻き取りながら。
「あれ、よく見てたね。確かにそうだったけど」
亜紗も自分のドリアにスプーンを入れながら答えたけれど、なんだか不思議そうだった。
やはり、同じ部活だったとはいえそれほど長い時間を一緒に過ごしたわけではないのに、把握されているのはちょっと不思議だろう。それにはちゃんと理由があるのだけど。
そして志月はするっと言ってのけた。
「それはそうですよ。だって、僕は幸希さんばかり見ていましたからね」
「え、ちょっと、戸渡くん、それって」
「はい、高校時代も幸希さんのことが好きでした」
ああ、やっぱり。
幸希の顔が熱くなる。
実際に面と向かって言われているので知ってはいたけれど、亜紗という共通の知人に話されるのはやっぱりちょっと恥ずかしい。
「へーえ、そうだったんだ」
亜紗は当然のように、にやにやと笑った。
これ以上放置すれば、亜紗から余計なことを言われかねない。幸希は慌ててストップをかける。
「ちょっと志月くんも! 二人してそういうことばっかり言わないで!」
「あはは、照れてる」
それでも亜紗には流された。こういう性格なのだ。
でもこの話はここでおしまいにしてくれた。そのくらいには空気を読んでくれるのだ。
「もうデートとかしたの?」
こっちはこっちで恥ずかしいけれど。
幸希は亜紗ほど積極的な性格ではないので、言葉少なになってしまいながらパスタを口に運んだ。チーズをたっぷり使っているパスタは濃厚でおいしい。初めてくるところだったけれど、いいお店に当たったな、と思う。
「はい。まだ何回かですけど」
「そうなんだ。どこに行ったの?」
デートや交際について亜紗に色々聞きだされた頃には、パスタなどのメインの料理もなくなって、デザートがきた。
デザートはシャーベットだった。季節のシャーベットはオレンジ。わずかに酸味があって、濃厚なパスタを食べたあとの口の中をさっぱりさせてくれる。
「幸希さん、って呼び方いいね。戸渡くんらしい」
シャーベットを食べながら亜紗が、ふと言った。
会話の中で志月がずっと「幸希さん」と呼んでいたからだろう。
「はい。なんとなくこれがしっくりきて」
「彼氏になったんだからてっきり呼び捨てかと思ったけれど」
確かにそういう話をはじめてのデート、花火大会で名字呼びから一歩進むときに言われた。
「幸希さんもそれでいいって言ってくれたんですけどね、やっぱりこっちのほうがいいなって」
そしてそのとおりのことを志月も言った。
「逆に幸希からは『志月くん』なんだね」
「私もかな……なんかしっくり……」
「あはは、同じだ」
一度笑ったものの、亜紗は優しく言ってくれた。
「でも、呼びやすいのがいいよね」
そう言ってもらえると嬉しい。幸希の顔に笑みが浮かぶ。
自分たちの関係を肯定してもらえた気がして。
「よーし! もう一軒行こう!」
食事がすべて済んで店を出て。
亜紗は勢いよく言った。
『もう一軒』とは勿論飲みに行こうという意味だろう。バーかどこかへ。
「ちょっと亜紗、私たちは明日仕事なんだけど?」
幸希の言葉は一蹴された。
「えー? 大丈夫だよぅ。まだ10時にもなってないし、一時間くらい。ねっ?」
確かにまだ少し時間は早いけれど。
でも日曜の夜なのだ。明日は当たり前のようにいつもの時間に起きなければいけないし、早く帰っても別に普通だ。というか、それが翌日ラクだ。
「先輩たちが良いなら僕はかまいませんけど、大丈夫ですか?」
志月はそう言った。確かに志月は明日休みなのだから、少し遅くまで付き合ってくれたところであまり支障はないだろう。
「じゃ、行こ! まだ色々聞きたいしさ」
幸希の言葉はスルーされて、もう一軒ということになってしまう。
仕方ないか。
幸希も苦笑した。
この強引さが亜紗らしいし、嫌いでない。むしろ高校時代……今よりもっと引っ込み思案だった頃は、この行動力にずいぶん助けられたものだ。
「あんまり変なこと聞かないでよ?」
「へー、どんなことかなぁ?」
にやにやと言う亜紗が二人を連れて行ってくれたのは、たまに行くのだというバーだった。
どちらかというと静かなお店で、幸希もくつろぐことができて。
酒の力も手伝ってか、するりと志月とのことを話すことができた。そして亜紗も、ここまでの強引さが嘘のように、優しくその話を聞いてくれたのだった。
結局日付が変わるくらいまで飲んでしまって、そして家まで志月が送ってくれた。飲んだのでタクシーだったが。
「ごめんねぇ、戸渡くん。私まで乗せてもらって」
亜紗はずいぶん酔ったようで、口調がふにゃっとしている。
タクシーはまず亜紗の家を目指していた。
「なに言ってるんですか。当たり前ですよ。鈴木先輩だけ一人で帰すなんてしません」
タクシーを呼んでくれたのは志月だった。自分は助手席に座って、幸希と亜紗を後部座席へ乗せてくれた。
「だってさぁ。幸希、良かったね。優しい彼氏ができて」
亜紗が言ってくれる声があまりに優しかったので。
幸希もそのまま肯定していた。
「……うん」
志月はちょっと驚いたような空気が伝わってきたが、すぐに、ふっと嬉しそうな声が返ってくる。
「……ありがとうございます、幸希さん」
「んふふ。お幸せにぃ」
「ちょっと、亜紗」
亜紗は心底嬉しそうに言って。
隣に座る幸希の腕に腕を絡めてくれた。
この優しい親友がいてくれたことを、幸希は心から感謝した。
夏も終わって、秋と呼べる季節になった。
近頃は冷える日と暑い日の差が激しい。冷える日は「10月下旬並みの気温です」なんて天気予報は言っていたし、暑い日は「真夏並みの暑さです」と言った具合。
このところの異常気象は本当に困ってしまう。二ヵ月も気温が振れているではないか。ここ数年はそれが特にひどいと感じていた。
それでも天気や天候はどうしようもない。だから羽織りものを調節するなり、オフィスにブランケットを置くなりして、それに合わせた服装をしていたのだけど。
それも追いつかなかったらしい。
ある朝、起きると喉が痛かった。
やだな、クーラーにあたったかな。
昨夜は暑かったからと、クーラーをかけて寝たのは寒すぎたのかもしれなかった。幸希は喉を押さえて思った。
それでも夏の間はたまにあったことだった。なので喉の薬を飲んで、のど飴を舐めていればそのうち治るだろう、くらいに思っていつもどおりに出勤の支度をする。
朝ごはんは飲み込みやすいスープメインにして済ませて、メイクをきちんとして。
外に出て気付いた。
今日は随分寒い。カーディガンだけでは寒かった。街行く人たちも薄手のコートを着ている人が多い、と駅に近付くにつれて幸希は思う。
喉の痛みにとらわれて、毎日見ている天気予報も見てこなかったことに今更気が付いた。そんな余裕もなかったようだ。
そこからすでになにかおかしい、と感じてはいたのだが。
オフィスについて、軽く掃除をする。
冷たいお茶はもう作らなかった。来客にもあたたかいお茶を出すようになっている。
そのまま自分の席について、普段のルーティンワークどおり入力作業をはじめたのだけど。
やはりなんだか寒かった。
事務所、もうクーラーじゃ寒いのかなぁ。
思った幸希は温度をあげさせてもらおうとクーラーのスイッチのところへ向かったが、そこでちょっと顔をしかめてしまった。クーラーのスイッチは入っていなかったのだ。
「今日はクーラー、入れてないんですか?」
店長に聞いたが、彼は、ああ、と頷いた。
「ああ。朝は入れてたんだが寒いから切ったよ。暑い?」
「いえ」
むしろ寒い、と思ったのだがそれは言えなかった。薄々思い浮かぶことがあったので。
そしてその『嫌な予感』は当たった。
午前中を終えて、昼休みに入る頃にはのど飴などなんの意味もないほど喉ははっきり痛むようになっていた。
それに寒い。ブランケットを膝にかけてもなにも変わらなかった。毛布を肩からかぶりたいくらいだ。
昼休みは作ってきたお弁当を食べるのだが、それも食べたいとは思わなくて、幸希は認めざるを得なかった。
どうやら風邪を引いてしまったようだ。
ああ、寒暖差が激しいから仕方がないかもしれないけれど。
今日の午後だけは我慢して、帰ったらもう風邪薬でも飲んで寝てしまおう。
明日はまだ平日だけど出勤できるかな。
今から憂うつになってしまう。
夏が終わるなり、サラリーマンの秋の転勤ラッシュがあってオフィスが忙しかったのもたたったのだろう。
いろんなひとが出入りする以上、風邪の菌なども空気中に漂っている。免疫力がしっかり働いていればそんなものはブロックしてくれるのだけど、疲れから働きにくくなって、感染してしまったようだ。
午後の仕事はとてもつらかった。本当ならすぐにでも横になりたい。
そしてそれはオフィスの同僚たちにも気付かれたらしい。
「鳴瀬さん、顔色があまり良くないね」
営業の一人に言われてしまう。
「はい、なんだか風邪でも引いたみたいで」
「マジか。無理しないほうがいいよ」
「ありがとうございます」
気遣われるのは嬉しかった。それでコトが良くなるわけではないけれど、そのくらいには体調不良のところを無理やり働かせる会社でないことがありがたい。
なんとか一日を終えて、「明日、調子が悪かったら、朝電話してくれよ」と言ってくれた店長にまた「ありがとうございます」と言って帰路についた。
帰り道、ドラッグストアに寄って風邪薬やポカリスウェット、それにパウチのおかゆなども買い込む。いかにも風邪を引いた人の買い物だ、と思ったけれど仕方がない。
帰宅して、買ってきたおかゆを鍋で沸かしたお湯の中に入れる。おかゆは自分で作ることもできるけれど、もうそれもおっくうだったのだ。
できあがった白がゆに梅干しを入れて食べる。それを飲み込むのもやはり喉が痛かった。
なんとかすべておかゆを食べてしまって、風邪薬を飲んだ。
病院は出来れば行きたくないなぁ、と思う。病院が好きなひとはいないだろうが。
お風呂に入る気力はなかったので、明日にすることにしてメイクだけ落とす。そのままベッドに入った。
まだ9時にもなっていなかったが、幸希はすぐにうとうとしはじめた。ここしばらくの疲れと風邪の初期症状からの眠気だろう。
夢も見ずに、いつのまにか朝になっていた。
ぴぴぴ、と鳴るスマホの目覚ましで目が覚めたけれど、症状はまるでよくなっていなかった。
むしろ悪化したようで、頭まで痛くなっている。
痛い、というか頭が重い。
熱が出たのかもしれないと思って、体温計を使ってみるとそのとおり。37度と少しの微熱ではあるけれど、確かに普段より体温が高かった。完全に風邪である。
無理をすれば出勤することもできる、と思った。
けれど営業のひととは違って、幸希の仕事は基本的に急がない。それに有休もまだいくらか残っていた。
悪いけれど、有休を使って休ませてもらおう、と思う。
休ませてください、と言うのはやはりあまり気が進まなかったのだが、仕方なく店長に電話をした。
店長は「やっぱりか」と言って、「流行ってるからね」と続けた。そして「早く治せよ」と休みを了承してくれた。幸希はありがとうございます、と言って電話を切る。
もう一度布団に横になった。すぐに眠気が襲ってくる。
病院へ行こうかと思ったのだが、それもおっくうだった。
外になど出たくない。病気なのだ、メイクなどはマスクをしてサボるとしても、外に出て歩くという行為すらおっくう。
食べるものはなんとかある。買い置きのゼリーなどで誤魔化せばいいだろう。薬もある。
まぁなんとかなるでしょう、なんて楽観的なことを思って、薬を飲んで寝てしまうことにした。
薬はなにか食べなければ飲めないので、そのカップのゼリーをなんとか食べて、そして薬を飲んでもう一度寝た。
一晩ぐっすり寝たのに、また深い眠りに落ちてしまったようだ。
眠る幸希の耳に、今度はぴろりん、と違う音が聞こえた。その音が幸希の意識を少しだけ現実へ戻してくる。
ライン通知だ。
誰だろう。
そのとき思った。
志月だったら良いのに、と。
優しくしてほしかった。今は余計に。
もそもそと動いて枕元に置いていたスマホを掴んで画面を付けるけれど、ラインは母親からだった。
猫のスタンプが押されていて、『幸希、元気? お米でも送ろうか?』と何気ない内容。自分を気づかってくれるものなのに、ちょっとがっかりしてしまって幸希は罪悪感を覚えた。
エスパーではないのだから、志月が勝手に『幸希が風邪を引いた』なんてこと、わかってくれるはずもなかったのに。
『ちょっと風邪ひいちゃった』
寝たまま、ぽちぽちと返信を入力して送る。
返事はすぐに返ってきた。
『あら。病院は行った?』
『行ってない』
『仕事は大丈夫?』
『明日ダメだったら病院行くよ。ありがとう』
『動けないほどつらかったら連絡しなさいよ』
短いやり取りをいくつか続けて、それで母親とのラインはおしまいになった。スマホの画面を暗転させて、枕元にぽいっと置く。
もう一度眠る体勢になって、幸希は目を閉じる。
まぶたの裏に浮かんだのは、志月の顔だ。そういえばしばらく会ってもいなかった。
それはそうだ、幸希のオフィスが転勤ラッシュに忙しかったということは、同業である志月だって忙しいのだろう。
営業の当人である志月は自分自身がとても忙しいだろうし、おまけに主任や店長を狙っている以上、ここが力の見せ所である。いい成果をあげて、評価してもらえるようにしなければいけない。
ああ、邪魔しちゃいけないな。
思った。
でも次に思った。
……会いたいなぁ。
早く治して、それでデートのひとつでもしてもらいたかった。