「身体はそうじゃないけど、精神がどんどん蝕まれていってて。自分でも全然気づかなかったのね、でもある日急に電車に乗れなくなって」
マグカップを両手で包む。
ホームにできた行列。
通勤する人々がどんどん電車に乗っていく。
それをぼーっと見るしか出来なかった。
「もう始業に間に合わないって時間になると、ほっとしたの。反対側の電車には乗れたから、色んな商店街とかぶらぶらしてた」
「うん」
「そういうものに気を取られてる内は良いんだけど、ふともう疲れたなーって思っちゃって」
うん、と翡翠は無理やり相槌を打った。
その気持ちとの闘い。
学生時代をのほほんと過ごした私にとって、それも同様、初めてだった。
思い出しても辛かった。
辛かった、と過去形になっているから良かった。
「そしたらさ」
顔を上げる。翡翠がこちらを見ていた。
「翡翠の作ったご飯食べたいなーって思ったの。今後どうなるにしても、翡翠のご飯食べないとなって」
「……うん」
「だから来ちゃった」
翡翠が立ち上がった。キッチンの方へまた行ってしまう。
次は何を持ってくるのだろう、と待っていたけれども、戻ってこない。
不思議に思って私も立ち上がる。
キッチンへ顔を出すと、翡翠が壁に寄りかかって手で顔を覆っていた。
声を押し殺して、泣いていた。
触れちゃいけないと分かっていても、私はその手を止められなかった。翡翠の裾を掴む。
私たちはやっぱり無力で、不器用で、それでも強く生きていきたくて。
美しい朝日がこれから何度も昇るように。
どんなに泣いたって、それが平気になるように。
何も言わずに翡翠は私を抱きしめた。
大丈夫だ、なんてお互い言わない。
「来てくれて、嬉しかった」
翡翠が呟くように言うのが聞こえて、私はそっちの方が嬉しかった。
開け放たれたカーテンから朝日が差し込む。
「朝飯何が良い?」
君が静かに尋ねる。
「なんでも美味しいから迷っちゃう」
君がその言葉に肩を震わせて笑う。
「それは、お前の為に作ってるからだろうな」
そしてまた、今日が始まる。
初めまして、お久しぶりです。
鯵哉と申します。
飛べない鳥が好きです。
ペンギンとか鶏とかカモノハシとか。
カモノハシは鳥なのかな。
鵠は白鳥の古名らしいです。
翡翠と鵠には飛び立てるように、と祈りをこめて飛ぶ鳥の名前をつけました。
でも飛んでばかりじゃ疲れるだろうから、羽を休めるときもあって良いですよね。
いっぱい休んで、それからまた飛べば良いですね。
ありがとうございました。
高校二年のとき、同じクラスだった翡翠(かわせみ)と鵠(くぐい)。
親の転勤で引っ越してしまった鵠が、その7年後、ふらりと翡翠の家の前に現れる。
翡翠の作る料理に舌鼓を打ち、鵠は「働いていた場所で辛いことがあったこと」「最後に翡翠の料理を食べたいと思ったこと」を明かす。