目が覚めると、リビングの天井だった。
首が痛い。ソファーで眠ったからだ。
明日から床に敷物でも敷いて寝るか、と思いながら起き上がる。
カーテンを開けて、キッチンの方へ行く。
そもそも、自分の料理が最後の晩餐になるのか?
薬缶に火をかける。それから寝室の扉をノックした。返事はない。
多分まだ寝てるんだろう、と踏んで扉を静かに開けた。
「鵠、ヒーター取ら……」
寝室は静かだった。
鵠は居なかった。
毛布はそのままで、いつ出ていったのか分からない。
玄関に鵠の靴は無かった。
考えるより先に体が動いた。
扉を開ける。鵠を探しに。
すぐそこに、鵠はいた。すぐそこ、玄関の外に。
ノブに手をかけようとしていたみたいで、謎の場所で手が固まっていた。
「……びっくりした」
「……それはこっちのセリフだ」
お互い驚いた顔をしていて、それから先に鵠が笑った。
「どしたの、仕事?」
寝起きの格好だけど、と面白そうにしている。
「お前が……変なこと言ったからだろ」
「変なこと?」
「最後の晩餐とか」
もう覚えてないだろう、と思いながら口にする。鵠が目を瞬かせた。
「懐かしいこと、覚えてくれてるね」
その言葉の真意は分からない。
鵠が静かに微笑む。
「最初は、確かに最後の晩餐にしようと思ってここに来たんだけど」
空が白んできた。辺りが明るくなる。
朝がくる。
「翡翠の作る料理を食べられるなら、こんな世の中も少しはマシに思えてきてさ」
鵠は自分のことをあまり自分から話さなかった。
話さなかっただけで、もしかしたら尋ねたら教えてくれたのかもしれない。
「貴方の作る料理にはそういう力があるよ」
そうやって、他人のことは簡単に舞い上がらせる。
光がビルの向こうから覗く。
鵠の髪に当たって、キラキラと反射した。
親の転勤で学校が変わるのが嫌だった。
大学に入って、家を出て、その価値観が変わった。
今でも連絡を取る友達が多い。それは関係の輪を広げることだと考えるようになった。
でも、結局最後まで連絡先を交換しないで翡翠と別れた。
なんとなく、どこかで出会えると思っていた。
高校の友人と駅でばったり会って、翡翠の話が出た。住所まで知っていたので、驚くと、彼は曖昧に笑った。
「なんで知ってるの?」
「んー、それを生業にしてるから?」
それ以上は突っ込まれたくないみたいで、高校の時からその印象は変わらない。
私もその気持ちは分かったので、お礼を言って別れた。
目が覚めたらまだ夜明け前だった。
変な時間に目覚めるのはいつものことで、起き上がる。閉まったカーテンの向こうは暗い。
いつも置いてある場所から鍵を拝借して、玄関を出て扉を閉めた。秋が去ったこの季節の朝は寒い。
首を竦めながらコンビニに行く。
コーヒーも買ってしまって、店内のイートインスペースでぼんやりしてから、翡翠の家に帰った。
開けようと玄関の前に立つと、勢い良く扉が開け放たれた。ぶつかるかと思った。
驚いた顔の翡翠と目が合う私も、驚いていたと思う。
気持ちを吐露した後、翡翠が熱いコーヒーを淹れてくれた。コンビニのコーヒーとは比べ物にならないくらい美味しい。
「これ、良い豆なの?」
「いや、普通の」
じゃあ私の舌が可笑しいのか。今まで選んで飲んできたコーヒーがまず過ぎたのか。
「本当、翡翠は料理の道に進んで正解だと思う」
「お前は、何の道に進んだんだ?」
尋ねられて、少し考える。
「仕事はね、お菓子メーカーの営業やってたよ。辞めたけどね」
「営業……」
「うん」
「すげえ向いてそうな仕事だな」
「ぴんぽーん。入って二ヶ月で、営業トップ成績を取りました」
ぱちぱち、と拍手もいれる。
翡翠がつられて手を叩こうとする。
「そしたら、元々成績上位にいた先輩からの当たりが強くなってねー」
人の悪意を見るのも良い気分ではないというのに、それを向けられるなんて。
引越し先でうまくやってきた私にとっては、信じ難い事実だった。
「前の良い成績だった人もそれが原因で転職したらしいって同期から聞いて、何で同じ職場で足引っ張り合ってるんだろうって思ってさ」
「で、その先輩を埋めたのか」
真顔で翡翠が言うので、笑う。え、冗談だよね?
「埋めてないよ?」
「これから埋めに行くのか。手伝う」
本気の顔なので、私は笑うのをやめた。
「いや、ううん。埋める価値もない人たちだよ」
正直、頭の中で何度も埋めたのでその必要はない。
私たちがシャベルを持つ必要もない。
翡翠が立ち上がり、キッチンの方へ行った。朝ごはんの準備でもするのかな。
と思っていたら、すぐに戻ってきた。
何かの小瓶を持っている。確認する間もなく、私のコーヒーにそれを振りかけた。
「あ、シナモン」
「コーヒーにシナモン、結構合う」
「本当だー、良い香り」
ふわりとシナモンの香りが立ちのぼる。
少し気持ちが落ち着く。
「身体はそうじゃないけど、精神がどんどん蝕まれていってて。自分でも全然気づかなかったのね、でもある日急に電車に乗れなくなって」
マグカップを両手で包む。
ホームにできた行列。
通勤する人々がどんどん電車に乗っていく。
それをぼーっと見るしか出来なかった。
「もう始業に間に合わないって時間になると、ほっとしたの。反対側の電車には乗れたから、色んな商店街とかぶらぶらしてた」
「うん」
「そういうものに気を取られてる内は良いんだけど、ふともう疲れたなーって思っちゃって」
うん、と翡翠は無理やり相槌を打った。