翡翠は私の近くに座って足を崩した。

「帰ってくるような気がして」
「お母さん?」
「まあ、その内帰ってくるんだけど。男と別れて。そんとき、物がなくなってたとか言われるの面倒くさいから」

平気じゃないけど慣れる。
慣れることで痛みは感じなくなるから。

「そんな、泣くようなことじゃない」

それは私に言っているというより、自分に言い聞かせているみたいだった。
そうやって自分を納得させているような。

翡翠も泣いたのかもしれない。

そんな空間の中、私のお腹の虫が叫びを上げた。

「え」
「お腹空いた……」


思えば、夕飯を食べる前にここに飛び出してきたのだった。

「そんなに腹減ってんの」
「うん、帰る……」
「食ってく? 肉しかないけど」

え、と顔を上げる。翡翠が笑った。今度は本当に笑っていた。

「顔が食べるって言ってる」

そうして翡翠はご飯を作ってくれた。
唐揚げだった。ほかほかのご飯とお味噌汁もある。

「おいしそう! いただきます!」
「飯を前に元気になるんだな」

本当に美味しかった。同い年の男子が作ったとは到底思えない。
私は感動して語彙を忘れる。

「美味しい。美味しい以外の言葉が分からない」


「それは鵠のボキャブラリーが少ないだけなんじゃ」
「本当においしい。天才なの?」

その言葉に、翡翠が肩を竦める。

「それは言い過ぎだ」
「だって本当。私の最後の晩餐は翡翠の料理に決まった」
「最後に一緒にいられたらな」
「ずっと、は無理だけど」

ごちそうさま、と手を併せる。
翡翠が何かを言いたげにこちらを見る。

私も言いたいことがある。

「うち、四月に引っ越すことになったの。翡翠とずっと一緒にはいられない」

私たちはきっと、その時、強く感じていたと思う。

子どもは無力だ。

早く大人になりたい。


高校三年の春、本当に鵠の姿はなかった。

誰もがそれを寂しがっていたけれど、桜が全て散る頃には皆受験に目が向いていた。

俺の母親も春休み中には帰ってきて、ストレス発散のように部屋のものを片端から片付けていた。

鵠とは連絡先も交換していなくて、どこに引っ越したのかも聞かなかった。
それでもいつか、どこかで会えるんじゃないか、という期待もあった。

そう、期待だった。
俺たちは子供で、住む場所も好きには決められなかったけれど。

心の深い傷は、優しさに変われば良い。

あわよくば、強さにも。


高校を出て、調理師の免許を取った。俺ができることが料理しか無かったからだ。

就職をして家を出て、大変なことも色々あったけど、なんとかここまでやってきた。

期待は期待でしかなかった。
鵠は廊下で見かけるみたいに、現れた。

俺は鵠に期待していたんだ。

どうして、とか、何故、とか。
そういう理由は何でも良かった。

金を借りにきたのかもしれないし、人を殺してそれを埋める手伝いを要していたのかもしれない。

そこで思い出して、来たのが俺のところだったのが嬉しかった。

炒飯を食べて、落ちるように眠った鵠を見る。




朝飯はリクエスト通り、ホットサンド。
いちおう昼飯も用意しといた。

「今日落ち着きないな」と先輩に笑われた。

家に帰ったら居ないだろうと思ったら、居た。

夕飯も食って寝てる。理由は未だよく分からない。

理由……理由……。

『最後の晩餐は――』

あの言葉をふと思い出した。

いや、まさか。
あんなの冗談で言っただけだ。
覚えているのも俺だけだ。

鵠は今でも底なしの明るさを持っている。変わらないそれに、俺はやっぱり救われていた。

じゃあ尚更、俺は聞いた方が良いんじゃないか。
寧ろ、鵠はその為に来たんじゃないか?


目が覚めると、リビングの天井だった。
首が痛い。ソファーで眠ったからだ。

明日から床に敷物でも敷いて寝るか、と思いながら起き上がる。

カーテンを開けて、キッチンの方へ行く。

そもそも、自分の料理が最後の晩餐になるのか?

薬缶に火をかける。それから寝室の扉をノックした。返事はない。
多分まだ寝てるんだろう、と踏んで扉を静かに開けた。

「鵠、ヒーター取ら……」

寝室は静かだった。
鵠は居なかった。

毛布はそのままで、いつ出ていったのか分からない。

玄関に鵠の靴は無かった。

考えるより先に体が動いた。
扉を開ける。鵠を探しに。



すぐそこに、鵠はいた。すぐそこ、玄関の外に。
ノブに手をかけようとしていたみたいで、謎の場所で手が固まっていた。

「……びっくりした」
「……それはこっちのセリフだ」

お互い驚いた顔をしていて、それから先に鵠が笑った。

「どしたの、仕事?」

寝起きの格好だけど、と面白そうにしている。

「お前が……変なこと言ったからだろ」
「変なこと?」
「最後の晩餐とか」

もう覚えてないだろう、と思いながら口にする。鵠が目を瞬かせた。

「懐かしいこと、覚えてくれてるね」

その言葉の真意は分からない。


鵠が静かに微笑む。

「最初は、確かに最後の晩餐にしようと思ってここに来たんだけど」

空が白んできた。辺りが明るくなる。
朝がくる。

「翡翠の作る料理を食べられるなら、こんな世の中も少しはマシに思えてきてさ」

鵠は自分のことをあまり自分から話さなかった。
話さなかっただけで、もしかしたら尋ねたら教えてくれたのかもしれない。

「貴方の作る料理にはそういう力があるよ」

そうやって、他人のことは簡単に舞い上がらせる。

光がビルの向こうから覗く。
鵠の髪に当たって、キラキラと反射した。