「なんですか? 私、あまり時間がないんですけど」
言外に迷惑だと訴えても、蓮は気にせずに話を続ける。
「雪香が消えたと聞いたんだけど、本当か?」
なんだ、その件か。
「本当だけど、詳細は雪香の父親に聞いて下さい、私もよく分からないので」
そう言い残し立ち去ろうとすると、蓮に道を塞がれた。一体何なの?
「待てよ。雪香が消えたのはお前が原因だろ? 雪香に何をしたんだ、答えろ!」
蓮は断言しながら鋭い視線を向けて来る。私の言い分を聞く気配は全く無い。
「言いがかりは止めてくれる? 私は何の関係もないから」
「言いがかりじゃない。雪香は沙雪に恨まれてると言い恐れていた。何か有ったと思って当然だろう?」
私は内心困惑していた。
雪香が私を怖がっていた? まさか。私の前ではそんな素振りは一切なかった。
「……雪香が悩んでいるようには見えなかったけど。どちらにしても私はもう関わりたくないから」
うんざりする気持ちを隠さずに吐き出す。けれど蓮は気にも留めずに私に圧をかけてくる。
「お前、雪香が消えたって聞いた時笑ってたな。何で笑った?」
彼は強い口調で私を非難する。何もかも見透かすような目で、私の一挙手一投足を窺っている。
ここに来て私は察した。この男にごまかしや、偽りは通用しない――。
ならば取り繕わずに、言いたいことを言おう。
「笑ったけど、だから何? 妹の失踪を悲しまなかったからって犯人扱いするわけ?」
別にこの男にどう思われようと構わなかった。
本音を言って軽蔑されたとしても、もう会う機会もないだろうから、何の問題も無い。
開き直った私の態度に、蓮は怒りを覚えているようだった。目付きが更に険しくなる。
「何で笑ったのか聞いたんだ、答えろ!」
「ねえ、さっきから命令口調で偉そうだけど、何様のつもり? 質問には答える気は無いから。そこをどいて。退かないなら大声上げるわ」
強く言うと、蓮は舌打ちをしながらも、諦めたようで道を空けた。
蓮の横を通り過ぎる。
「これで終わりだと思うなよ」
脅しのような言葉が耳に届き、背筋が冷たくなった。
「なんなの、あの男!」
家までの道のりを、私は怒りにまかせ、勢いよく歩き続けた。
鷺森蓮との会話を思い出すと、イライラとしてどうかしそうになる。
初対面でこれ程嫌悪感を持った相手は初めてだった。
雪香から聞いていた人物像とは全く違う。
雪香はあの人のどこが良かったのだろう。偉そうで、無礼で思い込みが激しくて、優しさなんて見当たらなかった。
それとも雪香の前では、別人のように穏やかで思いやりに溢れた態度なのだろうか。
彼の態度は最低だったけれど、雪香を心配してるのは確かだ。
鷺森蓮は雪香を大切に想っている。
そう考えると気分が沈んだ。
あんな男に好かれたいわけじゃないけど、皆に大切にされる雪香が妬ましい。
どうして、雪香ばかりが愛されるのだろう。
直樹は二年も付き合った私より、出会ったばかりの雪香を迷う事なく選んだ……どうして?
立ち止まり大きな溜め息を吐いたとき、バックの中のスマートフォンが振動した。
マナーモードにしたまま、戻すのを忘れていたんだった。
急いで取り出し画面を確認する。その瞬間、驚きのあまりスマートフォンを落としそうになった。
雪香の名前が表示されていたのだ。
動揺しながら、応答ボタンを押す。
「……はい」
「……沙雪? 私……雪香」
寒いのか、怖いのか、分からないけれど雪香の声は震えていた。言いようの無い不安がこみ上げる。
「雪香……何してるの?! どうして居なくなったの?」
雪香が居なくなっても、心配すらしなかった私が、今ひどく動揺している。
電話越しの雪香の様子は普段と違っていた。まるで何かに怯えているようで、それが私を不安にする。
「私もう戻れない……だからお別れを言おうと思ったの……今までありがとう。そして、直樹のことごめんなさい」
鼓動が一際激しくなる。
「戻れないって、どうして! 何があったの?」
「戻っても決して許されない……決めたの。何もかも捨てるって」
弱々しいのに意志の力を感じる声だった。私は返す言葉を失っていた。
許されないと雪香は言ったけれど、何に対して? 誰に許しを請うているの?
私に対してではない。
だって、雪香は私に謝罪をした。許されないとは思っていないからだ。
「沙雪」
考え込む私の耳に、雪香の声が届く。同時に、大きな鐘の音が鳴り響いた。
嘘……私は信じられない思いで目を見開いた。
これは教会の鐘の音だ。雪香は今、教会にいるの?
皆で散々探しても見つからなかったと言うのに、
盛大な鐘の音は続いている。けれどそれが途切れた。
「さようなら」
雪香の別れの言葉と共に、電話は切られてしまったから。
こちらからかけたけれど既に電源は落とされていた。
私は教会に駆け戻る。焦燥感がこみ上げる。
もう大分離れていたけれど、距離が気にならないくらい夢中で走り、たどり着いた時には、すっかり息が上がっていた。
「雪香!」
休む間もなく、大声で呼びかける。
消えて欲しいと願ったのに……憎んでいる相手なのに、私はどうしてこんなに必死になっているのだろう。
自分の気持が分からないまま、日が暮れるまで雪香の姿を求め探し続けた。
結局雪香を見つける事は出来なかった。辺りはすっかり暗くなっている。
私は、落胆しながら教会の鐘を見上げていた。
雪香は間違いなく、ここにいたはずなのに。
疲れたきった足で、駅までの長い道のりを歩き始めた。
雪香は、何故私に電話をして来たのだろう。双子といっても私達の間には、特別な絆などないのに。
それどころか私は雪香を恨んでいて……もしかして私以外にも、雪香を憎んでいる人がいるの?
ふと思い浮かんだ考えだけど、とても信じられなかった。
雪香はいつも輝いて見えた。恵まれた環境で育ち、親からも直樹からも愛されて。
こんな風に逃げ出さなくてはならない何かがあるとは思えない。だけど……。
『雪香はかなり悩み弱っていたんだ』
蓮の言葉を思い出した。
あの時は聞き流したけれど、もし本当に悩んでいたとしたら?
慕っていた蓮にも話せない何かに怯えて……それはいったい何?
沢山の疑問が頭の中を、グルグルと回る。
直樹は雪香の悩みを知らないようだった。
私と同じように、悩んでいたことにすら気付いてなかったのかもしれない。
雪香を一番分かっていたのは、婚約者でも双子の姉でもなく、鷺森蓮だったんだ。
雪香と蓮はどんな関係なのだろう。かなり親しそうで、ただの友達とは考えられない。
直樹は知っているのだろうか……。
酷く取り乱していた直樹の姿を思い出しながら、私は歩道橋の階段をゆっくりと上った。
さっき迄止んでいた雪がまた降り出し、私の体にも落ちて来る。
人気がないせいもあるのか寒さが急に増した気がして、少し早足になりながら歩道橋を渡った。
突き当りの左側に階段があるが、灯りが乏しく足元が見づらい。
ゆっくりと下りようと、一歩足を踏み出した瞬間、背中に強い衝撃を受けた。
「……きゃあっ?!」
私の体は宙に浮くように前に飛び出していた。
夢中で腕を伸ばし、なんとか手すりにしがみつく。
それでも勢いに負けて、何段か滑り落ちてしまった。
「う……」
突然の出来事に対する驚きと恐怖に、すぐには立ち上がれなかった。
体のあちこちが痛み、膝がガクガクと震えている。
それでも辺りを見回し、人気がないか確かめた。
誰かが私を落とそうとしたのは間違いない。けれど、歩道橋には誰もいない。
静かに雪が降り積もる中、私は独りきりだった。
夜の暗さをこんなに怖いと思ったのは初めてだ。
とにかくこの場から逃げ出したくて、立ち上がる。
身体の痛みよりも恐怖の方が強くて、私は足を引きずりながら、遠くに見える灯りを目指した。とにかく人が沢山居るところに行きたかった。
やっとの事で駅にたどり着き、普段は使わないタクシーに乗ってアパートに帰った。
自分の部屋に戻ったことで、ようやく安心する事が出来た。
明るいところで痛みを感じる部分を確認すると、擦り傷が出来ており血が滲んでいた。
右足首を捻ってしまったようで、動かすと激痛が走った。手すりを掴んだ手首にも違和感が有る。
薬箱を出して手当てをしながら、私を突き飛ばしたのは誰なのか考えた。
ただの通り魔的なものなのか……それとも私と分かっていて狙って来たのか。
でも、本当に私を狙ったんだとしたら、一体誰の仕業なのだろう。大怪我をさせられる程、人に恨まれる覚えは無いし、目立たない私を妬む者もいないと思う。
「やっぱり、通り魔的なものなのかな……」
酷い目にあったけれど、個人的に狙われたんじゃないなら、今後危険な目に遭う心配はないだろう。
少し気が楽になるのを感じながら、薬箱を片付けた。
キッチンで温かい紅茶を入れてお気に入りのクッションに座ると、ようやく一息つけた。
しばらく休んでから、帰って来て放り投げたままだったバックを手に取る。
明日は仕事だから、必要な物を通勤用のバックに入れ替えなくては。
財布を出し、次にスマートフォンを手にした瞬間、心臓がドキリと跳ねた。
歩道橋での出来事のせいで、すっかり頭から抜けてしまっていた雪香の事を思い出したのだ。
着信履歴をチェックする。
予想はしていたけど、雪香からの新たな連絡はなかった。
気分が重く沈んで行く。何かに怯えるように弱々しい声で、許されないと言った雪香。
結婚式当日に、姿を消さなくてはならない程追いつめられていた。
もしかしたら、さっきの出来事は、雪香が消えたことと関係が有るんじゃないの?
知らない内に、巻き込まれていたとしたら……頭に浮かんだ可能性に、血の気の引いた。
再び大きな不安に苛まれ、ほとんど眠れないまま朝を迎えた
時計の針がいつも起きる時間を指すと、のろのろと起き上がり小さなバスルームに向かった。
眠っていないので疲れが取れないままだったが、頭から熱いシャワーを浴びると、スッキリとした。
部屋に戻り紅茶を飲みながら五分程休憩してから、簡単に化粧を始めた。
こんな状況でも、仕事を休む訳にはいかない。
派遣社員だけれど、三ヶ月前にやっとのことで見つけた大切な仕事だ。
アパートの部屋を出るとき、躊躇いを覚えた。昨夜の恐怖が蘇って来たのだ。
外に出るのが怖いなんて初めてだ。それでもここに居る訳にはいかない。深呼吸をしてから不安を振り切るように勢いよくドアを開けた。
外には青く澄んだ空が広がっていた。
雪が降り薄暗かった昨日とは一転して、光に溢れている。平和そのものの光景で、晴れないのは私の心だけのよう。
足の痛みも引く気配がないけれど、今日は病院に行く時間が取れそうにない。
仕事が終わり次第直樹に会いに行こうと思っている。
二度と会いたくなかったけれど、状況が変わったのだから仕方ない。
私は雪香を探すつもりだ。
直接会い何があったのかを聞き出したい。そうしなければ、落ち着いて生活していく事が出来ないから。
雪香が抱える問題に、昨夜の事件が関係しているのかを確認したい。その為には、雪香の婚約者である直樹の協力は必須だ。
駅に着き電車に乗ると、運良く空いている席を見つけた。
これで降りる駅までの三十分間、ゆっくり出来る。
私はスマートフォンを取り出し、直樹宛のメッセージを作成した。
昨日の態度に対する謝罪と、雪香を捜す為に今夜打合せをしたいこと。
彼は結婚休暇中だから、時間は空いているはず。きっと私の話に乗ってくる。
予想通り、電車を降りる直前に了解と返信が届いた。
しかも、わざわざ私の職場近くまで来るおとのこと。彼も雪香を探したくて、私の協力を必要としているようだ。
待ち合わせは十九時。遅くても六時半には仕事を終わらせなくては。
私は商業高校を卒業後、中小企業の経理部で四年間働いていた。
働きやすく良い会社だったけれど、営業先に妻が居てはやり辛いからと、執拗に退職を勧める直樹の言葉に従い辞めてしまった。
今となっては本当に後悔している。
私は本当に愚かだった。その頃、直樹は既に雪香と付き合っていたと言うのに。何も気付いていなかったのだ。
私に辞めて欲しかったのは、捨てる予定の女が取引先に居るのは都合が悪いから。
ただそれだけだった。
真実を知ったのは、家庭の事情と理由をつけ退職した後。
私は恋人も仕事も、そして少しは残っていた、妹に対する家族の情も、何もかも失った。
絶望を味わい私は決心した。
もう誰にも心を許さない。二度と、惨めな思いはしないと。
誰も私の領域に踏み込ませないし、自分の進退は自分で決める。
固く心に誓った。
特に大きなトラブルもなく六時過ぎに仕事を終え、直樹と待ち合わせをしている店へと向かう。
「沙雪、こっちだ!」
約束の時間より十分早く着いたのに、直樹はもう席に着いていて、私の姿を見つけるなり合図を送ってきた。
「……随分早いんだね」
半分空になっているグラスに目を遣りながら言うと、直樹は真面目な顔で頷いた。
「ああ、雪香の件を早く話し合いたかったからな」
昨夜は眠れなかったのか、彼の目の回りは黒ずんでいた。
とても疲れているように見えたけれど、特に労りの言葉はかけずに直樹の正面の席に腰掛けた。
「雪香から何か連絡は有った?」
私の問いに、直樹は憂鬱そうな溜め息を吐いた。
「雪香から連絡が有ったとしたら、こんなところにいる訳無いだろ?」
彼の無神経な発言に苛立つよりも、疑問を覚えた。
雪香は、婚約者である直樹に、なぜ連絡しなかったのだろう。
謝罪、別れの言葉、伝えることはあったはずなのに。
「……沙雪?」
黙り考え込む私を、直樹は怪訝そうに見つめてきた。
「なんでもない。それよりも直樹には心当たりはないの?」
「ああ。友達のところには全部連絡したし、親戚関係はお義父さんが連絡しているけど、雪香はどこにも居なかったんだ。それから……」
「ちょっと待って、心当たりって言ったのはそういう意味じゃないの」
暗い表情で話す直樹の言葉を、最後まで聞かずに遮った。
「え?」
「雪香を恨んでいそうな人に、心当たりは無いのかと聞いたの」
「恨んでるって……どういう意味だよ?」
「昨日直樹も言ってたでしょ? 雪香は事件に巻き込まれたのかもしれないって。私もその可能性が有ると思う。雪香の人間関係はどうだったの? トラブルとかなかったの?」
直樹は私の質問の意図をようやく理解したようで、大きく頷いた。
「俺が言った“事件”って言うのは、何かに巻き込まれたんじゃないかってことだ。だってそうだろ? あの雪香が誰かに恨まれてるなんて考えられない」
彼の言葉に、私は失望し大きな溜め息を吐いた。
「雪香は教会の控え室に居たのよ。 教会には大勢の招待客がいたし、中への出入りは制限されていたんだから、知らない人が入ってきて雪香を連れて行ける訳がないでしょう?」
「それはそうだけど……」
直樹は困惑したように、視線を彷徨わせる。
「結婚式当日に居なくなるなんて異常よ。誰かに脅されて逃げていたとか、考えられない?」
「まさか……脅されだなんて、話が飛躍し過ぎている」
「あの……本当に雪香を探す気あるの?」
私はうんざりと吐き捨てた。
「有るに決まってるだろ! なんでそんな言い方をするんだ?」
侮辱されたと感じたのか、直樹は顔を赤くして声を荒げる。
「だって直樹は現実を見てないように見える。雪香はトラブルを抱えていたんじゃないかと考えるのが自然なのに、否定的な発言ばかりするじゃない」
「それは……」
「それは何?」
「雪香は明るくて、優しくて、いつも人の中心にいた。それが俺の知ってる雪香だ。誰かに恨まれているなんて俺の知っている雪香じゃない。事実だとしても知りたく無いんだ」
直樹の言葉を、私は冷めた気持ちで聞いていた。焦っている割に必死に頭を使い考えているように見えかったのは、真実を知って自分が傷つくのを恐れていただけか。
どっと疲れが襲って来て、私は溜息を吐いた。
雪香からの不審な電話、歩道橋での出来事。それらを直樹に話すかどうかを決めかねていたけれど、今、伝えないと決心した。
直樹を信用出来ない。
雪香を見つけ出し、何が有ったのか聞き出す目的が、直樹と一緒では果たせそうにない。
危険があると知ったら、彼は何も解決しないまま雪香をどこかに隠してしまいそうだ。
直樹は雪香さえ無事なら私の安否なんてどうでもいいのだから。
心の中で決断していると、直樹が気をとりなおしたように落ち着いた口調で言った。
「意見の違いはあるが、今はとにかく雪香を捜すのが優先だ。けどもう手がかりはない……沙雪は双子の姉だろう? もっと情報を持っていると思ったのに、どうして何も知らないんだよ」
冷静さを装っても、情けなさは変わらないままのようだ。
「……これ以上話していても進展は無さそうだし、帰るわ」
席を立とうとする私を、直樹が慌てて引き留める。
「沙雪? 待てよ!」
「何?」
「どうしたんだ? 突然帰るだなんて」
戸惑う直樹を、私は細めた目で見返した。
「時間の無駄だから。現実を直視せずに人任せな直樹と話していても、雪香は見つからないもの」
冷たく言い放つと、直樹の顔が強張った。
「……悪かった……でも少しは理解してくれ。結婚式当日に花嫁が消えたんだ、周りには逃げられたと思われている……有り得ない屈辱だよ。現実逃避したくもなるだろ?」
打ちひしがれる直樹を、しばらくの間見下ろしていた私は、小さな溜め息を吐いた後、再び椅子に座った。
同情する気にはなれないけれど、直樹の気持ちはよく分かる。
誰よりも信用していた相手が突然去っていった時の衝撃は、私も半年前に味わったばかりだから。
私がそうだったように、直樹も今、精神状態がおかしいのかもしれない。
「直樹……確かに雪香はみんなに愛されていたけど、だからこそ誰かに妬まれていても不思議じゃないと思うの。逆恨みって有るでしょう?」
私の言葉に、直樹はハッとしたような表情になり、大きく頷いた。
「ああ、それなら有り得るな」
良かった。上手く直樹の気持ちを誘導出来たみたいだ。
「直樹は雪香の友達と面識があるでしょ? 連絡とって聞いてみて欲しいの。雪香が何かトラブルに関わってなかったか、様子がおかしくなかったかって」
「雪香の友人とは何度か会ったことが有るから聞いてみる。何か分かったら沙雪にも知らせる」
はっきりとした口調で答える直樹の様子に、私はホッとして肩の力を抜いた。
「良かった、私は雪香の知り合いって言ったら、鷺森蓮しか知らないから」
「え……鷺森蓮って誰だ?」
直樹は不満そうに眉をひそめた。
「……雪香の知り合いだけど、直樹だって名前くらいは聞いていない? 昨日の式にも来てたんだし」
「いや……披露宴には招待していなかったし、雪香からも聞いた覚えが無い」
「本当に?」
どういうこと?
私にはしつこいくらいに蓮の話をしていたのに、直樹には名前すら出さなかったなんて。
披露宴に呼ばないのは、男友達だから直樹に遠慮したのかもしれない。でも式に出席してくれるほど親しい相手の話を全くしていなかったのは不自然だ。
「なあ、鷺森蓮ってどんなやつなんだよ?」
「私も昨日初めて会ったから詳しくは知らないけど友人でしょう? 雪香が居なくなった事を知り心配していたわ」
「……そうか」
納得いかないような表情で、直樹は頷いた。知らない男が友人で、気分が良くないのだろう。
私はそんな彼の様子をぼんやりと眺めながら、蓮について考えていた。
雪香と蓮は、ただの友人ではないのかもしれない。
もっと深い関係……婚約者には決して言えないような。
そう考えると、蓮を疑わしく感じる気持ちが芽生えてきた。
昨日、私を責めるような事を言っていたけれど、蓮こそ何かを知っているのではないかと思った。
また連絡すると約束をして、直樹と別れた。
アパートの最寄り駅に着くと、いつもの帰り道とは別の明るい大通りの方向に足を進める。
遠回りだけど、安全の為だ。
それなのに、十分程歩いたところで、不審な気配に気が付いた。
つけられている?
私が立ち止まると足音も止まる。歩き出すと足音も動きだす。私たちの他に通行人はいない……気のせいじゃなくて絶対後を追われている!
背筋にぞくりとした寒気が走る。
怖くて仕方ない。心臓がドキドキと脈うち、手の平からは汗が滲みだした。
アパートまでが果てしなく遠く感じる。
強い恐怖に息苦しさを感じながら歩き続けた。あともう少しで右折する。
そうしたら一気に走って逃げよう……今だ!
バッグを抱え、最高の速度で駆け出そうとした。
けれど、昨日痛めた足首に激痛が走り、その場に倒れこんでしまった。
「……いたっ!」
早く逃げなくちゃいけないのに!
急いで立ち上がろとするものの、足に力が入らず上手くいかない。
焦る私の背後に、足音が迫って来た。
振り返るより先に肩を掴まれ、私は体を強張らせた。
あまりの恐怖に体が凍りついたように、悲鳴すら出て来ない。
どうすればいいの?
混乱する私の耳に、どこかで覚えの有る声が聞こえてきた。
「おい、どうしたんだ?!」