私が絵を描き始めたのは物心つく前だったらしい。
なんとなくで描いたであろう絵を両親が褒めたところ、嬉しくなった当時の私は絵を熱心に描くようになったとか(きっと、また褒められたいという単純な動機からだったのだろうと今の私は推測する)。
ハッキリと物心がつく……小学生くらいだろうか。
その時からどんな気持ちでどんな絵を描いてきたかは記憶している。
ぼんやりとした動機だったけれど、それはとにかく上手い絵を描きたいというものだった。
だから人物を描いたり、キャラクターを描いたり、無機物を描いたり、動物を描いたり、植物を描いたり。
彩色方法についても、線画を基本として、クレヨン、色鉛筆、水彩、油、グリザイユその他諸々。
統一感なく、とにかくあっちこっちに手を出した。
そしていつしか――絵を仕事にしたいと思うようになる。
けれど甘い世界ではない。
どういうジャンルを描くにしろ、技術と経験と運と、覚悟がいる。
ただ自分で言うのもなんだけれど、私は良い人間ではない。
ちょっとしたことで感情的になり、言い過ぎてしまう時が多くなる。
どくろさんは私の舌鋒に負けじと応じてくれるが、普通の人はそうはいかない。
これでは友人ができないのも当たり前である。
その報いかどうなのか、日頃ツイてると思う時はないし、むしろツイてないなということが多く起きる。
自分に運はないのだ。
そしてピカソらのように巨大な才能があるかも分からない。
いや……たぶんないのだろう。
ならせめて技術と経験を積もう。
その考えから、使える限りの時間を絵に費やすようになった。
学校が終われば即帰宅、自室にこもり筆を走らす。
誰かと過ごす時間は無駄だと見なし、部活にも行かず、誰かと遊ぶこともなくなった。
しかし、ある時ふと我に返ったのだ。
私は一体なにをしているのだろう――と。
確かに普通の人よりは絵を上手く描けるようになった。
だがそれがなんだという?
私は絵で仕事がしたいと言うけれど、それは絵をなによりも描くことが好きだから――ではない。
悟る。
自分にとって絵を描くことはあくまで手段で、目的は誰かに認めてもらうことだったのだのだと。
コンクールのたびになんとなく察していることだった。
自分の絵と、最も輝かしい台に上った絵のなにが違うのか。
それは〝心〟だ。
筆に乗せる想いの量と質が異なるのだ。
私のようなやり方を俗に『アイデンティティ労働』と呼ぶらしい。
自分をキャラ立ちをさせるために、アイデンティティを獲得するために、感情を費やして働くというもの。
だから私はいつまでたっても、自分の絵を輝かすことができない。
ただ上手いだけ。
ただ認められたいだけ。
表現したいものがなにもない。
つまり、そこには誰かの心を突き動かすような感動は存在しないということである。
スランプという言葉で括れるほど生やさしいものではなかった。
いつか治るとはまったく思えなかったのだ。
そんな折に、部長からスクープをしてきてくれとお願いをされた。
珍しく良い機会だった。
お願いされたその日の夜に学校に赴いたのは、面倒な仕事だから早く片付けたい――のではなく、すぐにでも絵のことを忘却したかったからに他ならない。
ようは逃避である。
絵という脅威から、逃げようとしたのだ。
閑散とした校舎は、なにもない私にはとても居心地が良かった。
誰もいなければ、誰にも認められる必要はないのだから。
キャラを確立させる必要なんてないのだから。
けれど、そんな風に佇む私を『ガシャ』『ガシャ』『ガシャ』という奇妙で不気味な音で起こす者がいる。
辿った先にいたのは、全身骨のあやかし『がしゃどくろ』――通称どくろさん。
彼はまさにあやかしという言葉を体現するように、粗雑で、乱暴で、威圧感があって、しかしどこか遊び心と思いやりがある。
久しぶりに〝楽しい〟と感じた時だった。
それから彼に連れられてあやかしの世界にも訪れた。
たくさんの異形の者たちとの接触は、私の心を少なからず変えてくれた。
押し込んでいたハートを呼び起してくれたのだ。
これは大袈裟な言い方と思われるかもしれないがこの一件――救われた、と表現してもいい。
だから彼らが窮地に立たされたというのなら、助けたい。
それが私の本音で本心だ。
そうなると、自分もひとつ覚悟を決めなければならないだろう。
どくろさんたちに大嶽丸という脅威から逃げるなと言うのだ。
なら私も――自分にとっての脅威に立ち向かわなくてはいけない。
置いていた筆を、再び握り直す。
ロマンを抱け、私。
忘れていたものを取り戻せと胸を叩く。
これから走らせる線は私のためだけではない。
私たちのための、あるいは私たちをつなぐための線である。
「さぁ描こう、霊ヶ峰怜!」
なんとなくで描いたであろう絵を両親が褒めたところ、嬉しくなった当時の私は絵を熱心に描くようになったとか(きっと、また褒められたいという単純な動機からだったのだろうと今の私は推測する)。
ハッキリと物心がつく……小学生くらいだろうか。
その時からどんな気持ちでどんな絵を描いてきたかは記憶している。
ぼんやりとした動機だったけれど、それはとにかく上手い絵を描きたいというものだった。
だから人物を描いたり、キャラクターを描いたり、無機物を描いたり、動物を描いたり、植物を描いたり。
彩色方法についても、線画を基本として、クレヨン、色鉛筆、水彩、油、グリザイユその他諸々。
統一感なく、とにかくあっちこっちに手を出した。
そしていつしか――絵を仕事にしたいと思うようになる。
けれど甘い世界ではない。
どういうジャンルを描くにしろ、技術と経験と運と、覚悟がいる。
ただ自分で言うのもなんだけれど、私は良い人間ではない。
ちょっとしたことで感情的になり、言い過ぎてしまう時が多くなる。
どくろさんは私の舌鋒に負けじと応じてくれるが、普通の人はそうはいかない。
これでは友人ができないのも当たり前である。
その報いかどうなのか、日頃ツイてると思う時はないし、むしろツイてないなということが多く起きる。
自分に運はないのだ。
そしてピカソらのように巨大な才能があるかも分からない。
いや……たぶんないのだろう。
ならせめて技術と経験を積もう。
その考えから、使える限りの時間を絵に費やすようになった。
学校が終われば即帰宅、自室にこもり筆を走らす。
誰かと過ごす時間は無駄だと見なし、部活にも行かず、誰かと遊ぶこともなくなった。
しかし、ある時ふと我に返ったのだ。
私は一体なにをしているのだろう――と。
確かに普通の人よりは絵を上手く描けるようになった。
だがそれがなんだという?
私は絵で仕事がしたいと言うけれど、それは絵をなによりも描くことが好きだから――ではない。
悟る。
自分にとって絵を描くことはあくまで手段で、目的は誰かに認めてもらうことだったのだのだと。
コンクールのたびになんとなく察していることだった。
自分の絵と、最も輝かしい台に上った絵のなにが違うのか。
それは〝心〟だ。
筆に乗せる想いの量と質が異なるのだ。
私のようなやり方を俗に『アイデンティティ労働』と呼ぶらしい。
自分をキャラ立ちをさせるために、アイデンティティを獲得するために、感情を費やして働くというもの。
だから私はいつまでたっても、自分の絵を輝かすことができない。
ただ上手いだけ。
ただ認められたいだけ。
表現したいものがなにもない。
つまり、そこには誰かの心を突き動かすような感動は存在しないということである。
スランプという言葉で括れるほど生やさしいものではなかった。
いつか治るとはまったく思えなかったのだ。
そんな折に、部長からスクープをしてきてくれとお願いをされた。
珍しく良い機会だった。
お願いされたその日の夜に学校に赴いたのは、面倒な仕事だから早く片付けたい――のではなく、すぐにでも絵のことを忘却したかったからに他ならない。
ようは逃避である。
絵という脅威から、逃げようとしたのだ。
閑散とした校舎は、なにもない私にはとても居心地が良かった。
誰もいなければ、誰にも認められる必要はないのだから。
キャラを確立させる必要なんてないのだから。
けれど、そんな風に佇む私を『ガシャ』『ガシャ』『ガシャ』という奇妙で不気味な音で起こす者がいる。
辿った先にいたのは、全身骨のあやかし『がしゃどくろ』――通称どくろさん。
彼はまさにあやかしという言葉を体現するように、粗雑で、乱暴で、威圧感があって、しかしどこか遊び心と思いやりがある。
久しぶりに〝楽しい〟と感じた時だった。
それから彼に連れられてあやかしの世界にも訪れた。
たくさんの異形の者たちとの接触は、私の心を少なからず変えてくれた。
押し込んでいたハートを呼び起してくれたのだ。
これは大袈裟な言い方と思われるかもしれないがこの一件――救われた、と表現してもいい。
だから彼らが窮地に立たされたというのなら、助けたい。
それが私の本音で本心だ。
そうなると、自分もひとつ覚悟を決めなければならないだろう。
どくろさんたちに大嶽丸という脅威から逃げるなと言うのだ。
なら私も――自分にとっての脅威に立ち向かわなくてはいけない。
置いていた筆を、再び握り直す。
ロマンを抱け、私。
忘れていたものを取り戻せと胸を叩く。
これから走らせる線は私のためだけではない。
私たちのための、あるいは私たちをつなぐための線である。
「さぁ描こう、霊ヶ峰怜!」