今夜のご飯はほかほかのおいなりさん。
油揚げを甘く煮つけて、ほんのり甘い酢飯を詰めて。
そうだ、中に詰める酢飯は五目御飯にしようか。にんじんやごぼうや鶏肉を炊き込んだご飯を詰めてもおいしい。
鶏肉は昨日買ったものの残りがあるから、それを使って……ごぼうはないから、ほかのものを入れようか。こんにゃくでもいいかね。
そのようなことを考えながら歩いているのは、一人のおばあちゃん。
おばあちゃん、とはいうものの、まだ七十少し過ぎで、この高齢化社会というご時世では老人の中では若い部類だろうか。
そのためにまだまだ足取りはしっかりしていて、手に持っているエコバッグもゆらゆらしているが、それなりにたくさんの野菜などが入っていた。
午後三時少し過ぎ。スーパーに寄って帰るところである。
帰る家は、今は誰もいないだろう。いては困る、一人暮らしなのだから。
昔はそれなりに家族が多かったのだけど。
娘が結婚して家を出るまでは同居していたし、その頃はまだ夫も健在だった。
娘は歩いて十五分という、近いといえば近いところに住んでいるし、一週間に一回くらいは様子を見に来てくれるから、孤独というわけではないけれど。
それでも一軒家に一人暮らしというのは少し寂しい。
夫に先立たれた今では、料理をして誰かに食べてもらうという楽しみも薄れてしまったし。
しかしたまにはこうして張り切っておいしいものを作ることにしていた。
料理をするのは好きなのだ。手をかけて、自分好みの味のおいしいものを作るのはとても楽しいし心も満たされる。
今日はおいなりさんを作るつもりだった。せっかくだから、娘一家にもお裾分けしようかと思う。
娘の息子……おばあちゃんにとっては孫になるが、その子もおいなりさんは好んでくれる。少しばかりなら、夕食の邪魔にもならないだろう。
帰ったら『すまほ』から娘に連絡をしてみよう。
そういう算段をすれば、帰りの足取りは軽かった。
このおばあちゃん、名前を春野 小桜(はるの こざくら)という。彼女がその軽い足取りを止めることになったのは、ある曲がり角を曲がったときであった。
「おっとと!」
小桜は声をあげて、突っ込んできた『それ』をなんとか避けた。ぶつかるのは回避できたものの、一瞬ふらっとして、どさりとエコバッグが地面に落ちた。
卵などを買っていなくて良かった。体勢を立て直して、小桜は思った。
そこでやっと、突っ込んできたものを見たのである。
それは黒っぽい生き物であった。犬だろうか、猫だろうか。野良犬というのは近頃少ないから、猫かもしれない。
そう思ったのだけど、どうも違うようだ。
小桜と同様になんとかぶつかるのを避けて立ち止まった『それ』は、見た目は犬に近かった。
けれど犬にしては尻尾が太い。どこかもっさりとしていた。体は細いのに。
ただ、細く見えるのはその生き物が痩せているからかもしれなかった。
いや、痩せているどころではない。ガリガリではないか。
よく見れば毛艶も良くない。ずいぶんパサついているようだ。
小桜のことを、じっと見ていたけれど、急に、ふっと力が抜けるような様子を見せた。その場にうずくまってしまう。
野良の生き物であれば、触るのは良くない。
思ったものの、どうも弱っているようなのだ。放っておいて帰るのも可哀想だ。
心優しい小桜はそう思い、おそるおそるその生き物に近付いた。『それ』は警戒するように小桜を見上げた。ふーっふーっと荒い息をついている。
そのとき、ばさばさっと頭上から音がした。小桜がそちらを見上げると、どうやらそれは大きな鳥。鷹……かなにかだろうか? 猛禽と呼ばれるもののような気がした。
近くの電柱にとまったその鳥はしばらくこちらを見ていた。
その様子で小桜は理解する。どうやらこの生き物を追いかけていたようだ。
猛禽とはいえ、こんな犬か猫のような生き物を食べるだろうか。
不思議に思ったけれど、人間がそばにいるのだ。
その鳥はじっとこちらを見ていたけれど、不意に、ばさっと羽を広げた。飛び去ってしまう。山のほうへ向かって一直線に飛んでいくのを小桜は見送った。
「……もう大丈夫のようだよ」
声をかけていた。動物なので言葉がわかるはずもないのに。
しかしその生き物は、言葉が通じたように小桜を見上げた。目が合う。
小桜は、おや、と思った。動物特有の、ぎょろっとした目をしているけれど、その目は案外愛嬌があった。警戒心がなければかわいらしいかもしれない。
その瞳にほだされたように。
「うちに寄っていくかい。少しばかりなら食べるものがあるよ」
思わずその生き物に話しかけていた。
おいなりさん作りは後回しになった。その生き物の介抱が先になったのだ。
なんの生き物かわからないけれど、狸ではないか、と、うしろをとことことついてくる『それ』を小桜は推察した。
歩く様子を見れば、子供の頃に学校、山の中の小さな木造の小学校へ降りてきた狸はこのような姿をしていた、となんとなく思い出したのだ。
狸なら肉食だろう。犬か猫の餌で代用できそうだ。
「ただいま」
鍵を開けて、からりと玄関の戸を引いて、小桜は誰もいない家の中へ、一応挨拶した。
「おはいり」
狸らしき生き物に声をかけると、やはり言葉がわかったように、玄関のたたきに入り、ちょこんと座った。従順な様子はかわいらしさすらある。
「今、ご飯を持ってくるからね」
もうひとつ声をかけて、台所へ向かった。昔ながらの昭和の台所……と言いたいが、数年前に改築してしまったのである。小桜にとっては前の台所のほうがよっぽど使いやすかったのだけど、壊れているところもあるから直したほうがいい、ついでに『りふぉーむ』と言われれば、断るのも悪いと思った。
よって、ずいぶん現代的な台所。
小桜は水や火を使うことなく、棚に手をかけた。
かつおぶしのパックやら、お茶っ葉やらが入っているところをごそごそと探る。
確か奥のほうに……。
「あった」
手に固いものが触れた。
それは缶詰め。ただ、人間の食べるものではない。
少し前に野良の猫にやっていたものだ。近所に住んでいた野良猫。お腹を空かせているようだったから、餌をやったらたまにやってくるようになったのだ。
それで猫の缶詰め、いわゆる猫缶を買って、与えていた。
けれどそれも長くは続かなかった。娘に指摘されたのだ
「お母さん、最近は野良に餌をやるのは良くないんだってよ」と。
なんでも、野良猫の糞などの被害があったり、小さな子供が引っかかれたりするのではないかという不安があるそうだ。
まったく、生きづらい世の中になったものだよ。
内心嘆きながらも、近所に迷惑をかけるわけにはいかないから「そうかい。それは悪かった」と素直に受け入れて、それきり餌をやるのはやめてしまって。でも余った猫缶がいくつか棚に残ってしまっていたのである。
あの野良猫はどうなっただろう。上手く餌を取れているといいのだけど。
小桜は三毛の毛並みをした野良猫のことを、少しだけ思い出した。
しかし今は、とりあえず猫缶である。
裏を見れば、賞味期限も切れていない。良かった、と安堵して、フタを開けた。
そしてこれまた、野良猫に餌をやっていたうつわに中身を入れる。しっとりとした猫の餌、カツオかマグロかなにかわからないが、魚の良い香りが漂った。
これで食べるだろうか。毒ではないだろうけど。
思いつつも小桜はそれと、もうひとつのうつわに水を入れ、玄関へと向かった。
どうも缶を開けて中身を移しているときの匂いに反応したようで、狸……と仮にしておこう。狸はそわそわとしていた。
「さぁ、おあがり」
狸の前にふたつのうつわを置く。小桜の言葉もろくに聞かない様子で、狸は餌に食いついた。がつがつと猫缶の中身を食べていく。
小桜は、ほっとした。
食べた。
たたきの前。家に入るための段差に腰かけて小桜はそれを見守った。野良猫に餌をやっていたときと同じように、だ。
ちらっと「これも給餌になるだろうか」と思ったけれど、今回だけの特別だと思うことにした。これほど弱っていたのだ。一回餌をやるのも駄目などと、それは非情すぎるだろう。
餌を食べ、時折水を飲み、狸は五分ほどでぺろりとすべて平らげてしまった。
ふぅ、と満足のため息が聞こえてきそうだった。
「美味しかったかい」
もう言葉が理解されているものだと半ば確信していたので、小桜は尋ねた。
まぁ狸が「はい」などと言うはずがないので、ただ、くりっとしたその目で小桜を見上げただけだった。
けれどその目は確かに「美味しかった」と言っていた。
小桜は、ふっと笑ってしまう。立ち上がった。
触られるのではないか、と警戒してか。狸の体がちょっとこわばるのを感じたけれど、小桜は驚かせないように、そっと玄関の戸に手をかけた。からら、と開ける。
「さ、住まいへおかえり。もう鳥なんぞに襲われるんじゃないよ」
もう一度、狸は小桜を見た。くりっとした瞳がなにを言いたいのか、小桜にはわからない。
向こうにはこちらの言いたいことがわかっているようなのに、こちらからはわからないのが少し申し訳なくなった。
しかしとりあえず、こちらの言いたいことは通じたようだ。狸はそろそろと玄関を抜けた。
くるっと一回だけ振り返って、そして。
たたっと地面を蹴って、行ってしまった。その足取りは、ぶつかってきそうになったときや、小桜のあとについてきたときとは比べ物にならないほどしっかりしていた。
その後ろ姿を見ながら、小桜は、ほうっと息を吐き出していた。
不思議な生き物だった、と思った。
感じたように、狸……に近いのだろうけれど、ただの野生の狸ではないような気がした。
鳥に追われていたり、ぎょろりとしていつつも愛嬌のある、おまけに意志ありげな瞳で見つめてきたり。おまけに言葉がわかるかのような様子すら見せていた。
いや、狸じゃないならなんだって言うのさ。
小桜は胸の中で言って、ちょっと首を振った。
とりあえず、狸を助けることは出来たのだ。少し回復したようだったから、すぐに命にかかわるようなことはないはず。
もう会うこともないかもしれないが、それでいいだろう。野生動物なのだったら、会わないほうが良いのだろうし。
からりと玄関を閉めて、狸の残したうつわを取り上げる。
そこで、おや、と思った。
うつわの中に、なにか入っている。餌の入っていたほうに、だ。
それはなにか、紙のようなものだった。けれどずいぶん古い紙らしい。黄ばんでいてぼろぼろであったし、和紙であることくらいしかわからない。
おまけに、こんなものはさっきあっただろうかと小桜が手を伸ばし、指先が触れた瞬間、その古い紙のようなものは、ほろほろと崩れてしまったのだから。
それは数日後のことだった。秋深まる折、小桜が庭の柿の木の様子を見ようと縁側に出た、昼下がり。
柿の木には夏の終わりから実ができて、順調に膨らんで色づいていったところだった。
渋柿だから食べられない。けれど、干しておけば甘い干し柿になるのだ。
良い頃合いまで熟れたらタイミングを逃さないように摘んでしまわないといけない。
そうでないと鳥についばまれてしまう。そうなったらもう干し柿になりやしない。
この柿に関しては、毎年、鳥との勝負ともいえるのだった。
その毎日のことだったのだが、今日はなにか妙なものがいた。
妙なもの、どころではない。柿の木に腰かけて、ぷらぷらと足が揺れているそれは、少年だったのだから。
小桜は仰天した。子供が勝手に庭に入っておまけに柿の木などに座っていれば、当然であろうが。
「ど、どこの子だい」
柿泥棒など、小桜が子供の頃は定番も定番だったけれど、この令和の世の中でそんなことは非常識極まりないとよく知っている。
「いい柿だね。干せば甘くなるよ。今年は特別甘いだろう」
しかし少年は小桜の質問には答えなかった。ひとつもいだ柿を、手でもてあそんでいる。おまけにそんな、よくわからないことを言った。
柿が特別甘くなるなんて、どうしてわかるのか。
現代の少年、小学生くらいに見える、長そでシャツとハーフパンツ、焦げ茶の短い髪なんて外見のごく普通の男の子がそんなことを言うだろうか。
「そ、それは渋柿だから、食べたところで美味くなんてないよ。おかえし」
いや、悪戯っこなんだろう。柿の木くらい、やんちゃな子ならのぼるさ。近所では見たことのない子だけど……どこか、親戚なんかから遊びに来ているのかもしれないし。
自分に言い聞かせる。なんとか気を張って、小桜は手を差し出した。
けれど少年は柿を返してはくれなかった。ぽんぽんと手の上ではずませている。
「盗りやしないよ。この実はもう食べ頃だからもいでおいてあげたのさ」
しれっとそんなことを言い、少年は立ち上がった。そのとき、ふわっと風が揺れた。少年の髪を揺らす。
今日は風なんてなかったのに。
静かな小春日和だったのに。
おまけに今吹いた風は冷たいどころか、何故か春風のようにぬくもりを持っていたのだ。
「柿食えば、鐘が鳴るなりってね」
法隆寺。
ぼうっと、小桜は胸の中で呟いていた。
有名な俳句だ。今、そんなことは関係ないだろうに。
けれど関係なかったのだろうか。すぐにそれはわからなくなってしまった。
「さぁ、鐘が鳴るよ。五つ鐘が鳴ったら戻って来いよ」
ぶわっと。
今度は目の前になにかが散った。雪のような細かいものだ。
目に入る、と咄嗟に小桜は顔の前を手で覆っていた。
しかし手に触れたものは冷たい雪などではなかった。
ふわりとやわらかなそれは、花びら。花びらを渦巻かせる風も、ぬくい、ぬくい春の風。
ごーん……という、鈍い鐘の音は一体どこからしただろう。
花びらの舞う向こうだったことは違いない。
舞い散る花びらでちっとも見えやしなかったけれど。
花びらがやっとやんで、小桜はそっと目を開けた。
一体なんだったのだろう。
白い花びらも、春のようなあたたかい風も、そして柿の木にいた少年も。
とりあえず、確かめなければ。
小桜はそろそろと手を下ろす。
いや、下ろそうとした。
下ろそうとしたのに、その手は途中で止まってしまう。
ふわっと手首の下が揺れたのだ。
なにか、布の感触。そしてこの感覚は知っている。
着物を着たときの袖だ。
けれどおかしい、今は着物なんか着ていない。
そもそもずいぶん前から洋服しか着ていないのだ。着物を最後に着たのはなにか、娘と食事に行ったとかそういうときくらいだったかもしれない。
今日だって、地味なセーターとゆるっとしたズボンを身に着けていたのに。何故着物の感覚なんて。
しかし着物など些細なことだった。
目に入った、自分の手。今度は「おかしい」どころではなかった。
つるりとした、しなやかな手。
それは若い女性のものだったのだから。
七十も過ぎた小桜の手はもうしわが多く、こんな手であるものか。
いや、でも知らないわけではない。こういう手であった頃もあった。
それはもう……五十年、六十年……。そのくらい、前、に。
ぼうっとしながら、小桜は手を動かした。
思い通りに動いた。
本当に自分の手のようなのだ。
なにか、夢でも見てるんだろうか。
小桜は思って、次々に自分の身を確かめていった。
淡い黄色の着物を着ているらしいことがわかった。
この着物は知っている。昔、これを持っていた。今はもう、どこにあるとも知れないけれど。
薄い一重の、桜が散った着物。下はえび茶の袴を穿いていた。足元は草履だ。
肩には髪が触れている。焦げ茶色の、つやつやとした髪の先が僅かに見えた。
じわじわと、小桜の頭にある可能性が浮かんできた。
なめらかな手を握って、開いて、あちこち触れてみて。
どれも現実そのものの感触がした。夢かもしれないが、それにしては感触が現実的すぎた。
最後におそるおそる、頬に手を当てた。
思った通り、こちらもつるりとしたなめらかな感触の肌が触れた。
それで小桜は完全に理解した。
十六、十七。
今の小桜の姿はそのくらいの『娘』なのだ。
着物を持っていた時期とも、肌や髪の具合からも、そのときの年頃だと一致する。
嬉しいよりなにより先に、戸惑った。
どうやら奇妙な夢かなにかに迷い込んでしまったようなのだ。
散った花びらと、あたたかな風にさらわれたよう。
実際そうなのかもしれない。
だって、目の前に広がる光景は、住み慣れた自宅の庭なんかではなかったのだから。
柿の木も少年も綺麗に消え失せている。
見えたのは寺。もうずいぶん長く見ていなかったけれど、知っている寺だ。
だって、よく訪ねてきた。
法隆寺、なんてほど大層なものではないし、ただの、地域にひとつはあるような名も売れていないような寺だったけれど。
そうだ、十六、十七の頃。よくここへ来ていたのだ。
それは散歩や遊びに来たのではなく、ある目的のために。
そこまで小桜が思ったとき。
低く、しかしあたたかみのある声がした。うしろから小桜を呼んだそ声。小桜はよく知っていた。
「さくらちゃん」
もうどのくらい長く呼ばれていないかわからぬその愛称を口にしながら、微笑を浮かべているそのひと。
着物の中にシャツを着て、下は袴を身に着け、すらりとした体躯を持った青年だった。
なつかしい、なつかしいその姿。
彼は目元を緩めて小桜に手を差し出した。
「さぁ、行こう。お参りが終わってしまうよ」
握ったその手のあたたかさに、小桜はこれが夢ではないことを嫌でも理解させられた。
だってとても懐かしい感触なのだ。
大きな手にすっぽり包まれることも、その優しい温度も。
この感触がとても好きだった。
「今日は少し遅かったんだね。もう一時の鐘が鳴ったよ」
『彼』は小桜を見遣って、少し笑った。
小桜はどきりとしてしまう。
知っているひと、どころではないし、自分にとってとても近しいひとだけれど、彼は小桜の胸を高鳴らせるにはじゅうぶんな理由を持っていた。
「そ、そうだね、……いえ、そう、ね」
普段使っているような言葉遣いで言いそうになってしまって、慌てて言いなおした。
そこで思い知る。
自分は変わった。言葉遣いすら娘の頃から変わっていたのだ。
「そう、ね。ちょっとお母さんに用を頼まれていたの」
しかし話し出してしまえば、すらすらと出てきた。
昔話していたようなことなのだ。忘れやしない。
思い出すことがもう滅多にないだけで、忘れやしない。
「ごめんなさい、お待たせしたかしら」
しかし遅かったと言われてしまったから、気分を悪くしただろうか。
小桜は、そろそろと彼を見た。
けれど彼は笑って首を振る。優しい笑みだった。
「いいや。少々待ったけれど、待つ時間なんて楽しいもんさ」
その笑みに安心して、小桜もはにかむように笑った。
「そう、……ね。そう言ってくださると嬉しいわ。ありがとう」
それでやりとりはひと段落し、彼は小桜の手を取り直してくれた。
二人は連れ立って歩いていったけれど、小桜には行き先がわかっていた。
さっき遠目に見た、お寺だ。今日はひとが割合多く、同じように寺を目指しているらしいひとや、反対に、用を済ませて帰って行くひとなどが行き交っている。
「なにか美味しいものでも食べたいね」
彼が言った。視線の先には常からある茶屋のほかにも、屋台が幾つか出ているようだ。
「ええ。春の和菓子なんかあるかしら」
「去年は桜餅が出ていたねぇ」
「あら! 今年もあるといいわ」
もうすっかり、昔の調子を思い出した。そんなことまで言えてしまう。
「さくらちゃんは桜餅が好きだもんな」
名前通りだ、と彼は、はは、と声を出して笑った。
からかうように言われてちょっと恥ずかしかったけれど、これすら懐かしくて胸が高鳴る。
そして小桜は思う。
これは夢とうつつの狭間のようなものなのかもしれないけれど、今、この瞬間は確かにある。
一体どうしてこれが起こったのかはわからないけれど、彼がここに居て、隣にいて、その手のあたたかさを感じられているのだ。
放り出して帰る道を探そうなどという気にはなれなかった。
……最期に取った彼の手は、もうすっかりつめたくなってしまっていたから。
そのときの痛み。
ちりっと小桜の胸を刺していった。
けれどその痛みを振り払う。
つめたい手より、あたたかい手に触れたときのほうがずっと、ずっと多いのだ。
そして今、まさにそれがある。
「まぁ先にお参りだよ。ああ、結構並んでるね」
寺の境内に入った。地面の感触が変わって、じゃりじゃりとした足音がした。
「転ばないように気を付けるんだよ」
小桜は草履だったからだろう。彼は支えるように、ぎゅっと手を握ってくれた。
転ぶ転ばぬより、もっと強く伝わるあたたかさとそして力強さが胸に染みた。
大切にして貰っている、と感じられたのだ。
そしてそれはなにより嬉しく、また、胸ときめくものであった。
やがてお参りの列にやってきて、一番うしろに並んだ。
列の進みはゆっくりであったが、寺社仏閣のお参りなんてそういうものだ。
なにもないときならすぐにできるけれど、なにか、催しがあるときは必ず。
そう、今日は催しがある日。
ここには彼とたまに出掛けてくるのだけど、今日は特別だ。
「いやぁ、桜も盛りだ」
並んでいるうちに、並木の桜のうつくしさを堪能することができた。
今は春らしいのだ。桜が咲き誇っているし、空気はあたたかく穏やかだ。
この年の春はなにがあったかしら。
小桜は考えたけれど、すぐに思い出すことができた。
彼がいて、連れ立ってこの寺の花祭りに来たのだ。
花祭りは毎年来ていたけれど、彼と来たのはこの一度きりだった。
花祭りの当日は来られなかったけれど、開催されているうちの一日にやってきた。
だからひとも満員というわけではないのだ。
「綺麗ねぇ」
同じように桜を見上げた小桜だったけれど、不意に寂しいような気持ちが胸をよぎった。
桜の季節。
これを潮に、しばらく彼と桜は見られなくなってしまったのだから。
このあとなにが起こったのか、小桜は知っていた。
現実通りの、自分が娘だった頃のことと同じであるなら。
「どうしたんだい。寂しそうな顔をして」
一瞬、顔が曇ったのを見られてしまったらしい。彼は心配そうに小桜の顔を覗き込んだ。
心配させてしまった。小桜はすぐに笑って見せる。