19時過ぎと言えば夕飯時だろう。大半の人が夕飯を食べていると思われる時間帯に彼は毎日の様にやって来る。
カラランッ。
昔ながらの少しだけ重い押し扉を開け、カウベルを鳴らして入って来たのは、いつものアノ人だ。
「クリームメロンパンは今日は売り切れか…」
来店する度にスーツ姿な彼はボソリと呟き、ノーマルなメロンパンに手に握っているトングを伸ばした。残念そうにトレーの上にメロンパンをポサッと置いて、右隣に並んでいる今が旬のさつまいもパンをトングで掴む。
私がレジ台から眺めていると今度は、「パンダパンも売り切れか…」とまたもやボソリと呟く。
最近は体調が優れない上に憂鬱な事ばかりが身の回りに起きていて落ち込み気味なのだが、綺麗な顔立ちをしている彼がパンを嬉しそうに選んでいる姿に癒されている。
様々な種類のパンを10個以上も吟味してトレーに乗せた後、私が立っているレジ台へとやって来た。
「有難うございます、1550円になります」
いつもは3個位を買って行くんだけどな…、今日は随分と多い。
ビニール製の手袋をはめた手にアルコール除菌スプレーをかけて擦り込んだ後、パンを一つ一つ手早く袋に入れていく。
入れ終わると「はい」と手渡しをされた2000円を受け取り、そそくさとお釣りを渡す。
パンをまとめて入れたビニール袋を渡した時、「クリームメロンパンの取り置きは可能ですか?」と聞かれたので「大丈夫ですよ」と笑顔で答えた。
翌日も同じ時間に買いに来てくれて、今度はあんドーナツの取り置きを頼まれた。
あんドーナツを翌々日に買いに来てくれた時は肌の白い綺麗な女性も一緒だった。その女性もまた、パンを大量に買ってくれて、その日は品切れになった。
「いつも有難うございます!お知り合いの方も一緒に連れてきて下さり嬉しいです」
パンが閉店前に品切れになるなど滅多になく、店長でありパン職人の父も驚きを隠せずに日持ちする焼きドーナツなどの"おまけ"を袋に詰め込んでいた。
「馴染みのパン屋があると教えたら、是非行きたいと言っていて一緒に来ました」
ニコリと笑い、パンが入った袋を彼は受け取る。
彼の笑顔はどこか艶のある笑顔で鼓動の高鳴りを感じるが、肌の白い綺麗な女性が彼女か奥さんなのかと思うと諦めもついてしまう。
家族経営のパン屋で働いていると恋なんて遠のいてしまうものだ。
男性が来店しても家族連れだったり、カップルだったりする。主となるお客様は女性が多く、出会いさえもない。
彼は唯一の貴重な存在だったのだ。
彼女が彼にとってどの様な存在なのかは謎だが、二人きりで一緒にパンを買いに来たのだから大切な存在なのかもしれない。
期待はしてないのだけれども、何か言いたげな表情をして彼は私の顔をじっと見つめているので顔が火照り始める。
「あの…、何か?」
「…大変失礼かとは思いますが…最近、体調が優れないとかの症状はありますか?」
「え…?」
「顔色が悪いので……」
「実は肩が重くて、災難続きなんです」
「そうですか…」
袋を受け取った彼が私の顔を見ていると思っていたら、顔色の悪さに気付いてくれたらしい。
ここ二週間位の間に車に轢かれそうになったり、頭上から鉢植えが落ちて来て危うく怪我をしそうになったり、熱が出て三日間寝込んだりもした。その他にも肩に何者かが乗っているのではないか?と思う程にずしりとした重みを感じている。
「今度、外で会えませんか?出来れば夜に…」
「……?はい、夜ならば私も都合が良いです」
「なるべく早い方が良いな…。今日か明日、どちらか都合はつきますか?」
「今日でも大丈夫ですよ。お店閉めたら上がれますから、おそらく三十分後には…」
「では、近くの公園でお待ちしております」
「はい、なるべく急いで行きます」
何のお誘いなのか分からないままに約束をしてしまった。彼は無表情なままに約束を取り付けると彼女を置いて、先に外に出た。今まで黙って会話を聞いていた綺麗な女性が口を開く。
「あの人、貴方の事もパンの事も気に入っているのよ。普段ならノーマネーの安請け合いはしないから。じゃあ、また買いに来るね」
ヒラヒラと私に向かって手を振り、店を後にした。彼女が私に近付いた時、何となくだが凍り付くような寒さを身近に感じたが気のせいだったのだろうか?
閉店時間になり身支度を急いで整えて、公園へと早歩きをする。過保護な父が「どこに行くんだ?」としつこく聞いて来たが、私も20歳を過ぎた良い大人だから心配しないで!と念を押して自宅を出て来た。
冬の公園は風が冷たくひっそりとしていて、彼だけがベンチに一人座って居た。
「お待たせしました。寒い中、待たせてしまってすみません!」
急いで行きたくて走って来たのだが、来る途中に何かにつまづいて道路上で派手に転んでしまい、両膝からは血が滲んでいた。擦りむいた傷が痛いが私は笑顔を見せる。そんな私の姿を見た彼は立ち上がり、私の目の前に膝まづいてから、私の左膝に右手を充てると目を閉じた。
「……これで傷は癒えたはずです。どうですか?まだ痛みますか?」
「え?…どうしてだろう?全く痛くないです!」
彼が右手を触れた左膝は不思議な事に痛みが無くなった。私の症状を確認した彼は直ぐ様、右膝にも右手を充てると痛みが引いたのだった。
不思議な現象に目を丸くする私。触れられた両膝がポカポカと暖かく感じられる。
「ちょっと失礼!少しだけ我慢して貰えますか?」
彼は突然にも私の事を抱き寄せて、右肩をポンポンと叩いた。
「あっ、あのぉ…」
「……やはり、一筋縄では行かぬようだな」
ボソリと彼は呟き、私の肩から何かを剥がしとり、公園の地面の上に叩きつけたかの様に見えた。あんなにも重苦しかった肩が一瞬にして軽々しくなる。
彼は何者………?
彼から解放された私は後ろ手に回った。何故だか分からないが、不穏な空気が漂っていて恐怖を感じた。思わず、彼の背中を右手で掴んでしまう。
「オマエハ 鬼ノ 生キ残リカ?」
「そうだ。お前は何故、この者に取り憑いた?」
「コイツハ オレがヒカレテ死ニソウニ ナッテイタノニ 見捨テタカラダ。マダ 死ニタクナド 無カッタ」
最初は見えなかったが、今、目の前には巨大な白犬が存在している。巨大な白犬は私達の方向へと今すぐにでも襲って来そうな体制だ。
思い起こせば二週間前に道路で轢かれてしまった白犬が居た。私はその白犬の横を通過したが、何もしてあげられない状況だった。
「鬼ガ 人間ヲ囲ウナンテ 随分ト落チブレタモンダナ」
巨大な白犬は私達に飛び掛かろうとした時、彼の右手から光の様な物が発されているのが目に入った。
「お前は憎しみ故、犬神と化して関係のない者を巻き込んだ。故に成仏などする必要も無い」
光が巨大な白犬に触れ、パンッと弾ける様な音と共に消滅した。
目の前で起こった現象が理解出来ずにいたが、私は腰を抜かしてしまい、ストンと公園の地面の上にしゃがみ込んでしまった。
白い巨大な犬はさっきのだとしても、鬼とは……?
「大丈夫ですか?」
彼は私の手を取り、ヒョイッと軽々しく抱き抱えてベンチに座らされた。
「驚かれたでしょう?貴方は化け犬に取り憑かれていたんですよ。最近の不幸や体調不良は全部、化け犬のせいです」
彼はスーツのボタンを外し、ベンチに腰掛けながら背伸びをしている。
「えぇ、とても驚きました。初めは目に見えなかったのですが、段々と見える様になって目の前には巨大な犬が居て…」
「化け犬が最大限の力を放った事により、貴方にも見えたのでしょう。今のご気分は如何です?」
彼は急に私の顔を覗き込んだので、驚いて顔を背けた。心臓に悪く、脈を打つスピードが上がる。
「気分は良くなりました。肩も軽くなりましたし…」
「それは良かった!犬の死体を見た時に可哀想だとか同情の念が奴の心に伝わって、取り憑いたのだと思います。動物は悪霊となって取り憑く場合がある故、今後はお気を付けて」
彼は丁寧に説明をしてくれた。私が思うに彼の正体は……。
「はい、気を付けます。……貴方は霊媒師さんなのですか?」
「違いますよ。私には除霊は出来ません」
霊媒師だと特定したのだが私の読みは外れた様で、あっさりと否定された。霊媒師では無いのだとしたら、他に何かあるのだろうか?
「え……?」
「除霊は出来ませんが消滅なら出来ます。消滅した魂は二度とこの世には存在出来ませんが…」
消滅なら出来る?とは何なのだろう。益々、謎が深くなる。この人は一体、何者なんだろうか?
「…貴方は何……者?」
声を絞り出して問いかける。公園の電灯と月明かりに照らされ、妖艶に口角を上げて微笑む彼の額には三角の突起が出ていた。
「私は鬼の末裔です。名は鬼神 皇大郎(おにがみ こうたろう)と名乗っています」
「お、に…なのですか?」
「はい、鬼です。鬼にもランクがありますが、鬼の一族をまとめている鬼神という存在です」
彼の話を詳しく聞いてみると彼は鬼の末裔であり、世間一般では国王や天皇の様な鬼の中でも高貴な存在みたいだ。現代の世の中において、鬼が存在しているだなんて信じ難いが、先程の現象と額の三角の突起を見れば信じてしまう。
「……普段は角?は隠されてるんですか?」
「そうですね。僅かな力で角は隠せますから」
「いつもスーツ姿ですが何かお仕事されているんですか?」
「してますよ。IT企業に務めて居ますが派遣社員です」
「そうですか…」
昔から存在すると言われている鬼が、現代の世の中では派遣社員としてIT企業で働いているとは…時代の流れには鬼も勝てないと言う訳か。
鬼のイメージと言えば、鬼ヶ島の悪い鬼や一寸法師に出てくる鬼とかしか思い浮かばない。あやかしの中でも頂点と崇められている天下の鬼がまさかのIT企業で働いているなんて、私の他に誰が知っていると言うのか?イメージが違いすぎて私に笑いをもたらした。