「おーい、大智―っ」
 廊下を歩く大智は後方から聞こえてきたその声に反応し、後ろに振り返った。
 そこには、背丈は小柄だが、体つきはがっちりとしている少年の姿があった。彼は大智の許へと向かってきていた。
「よう! 野球センスはあるのに背が小柄だからという理由で強豪校からの誘いがほとんどなく、俺と一緒に千町で下剋上を目指すことにした、中学時代からの相棒、大森じゃないか」
 大智が説明口調で言う。
「いや、誰に説明してんだよ」
 大森は苦笑を浮かべていた。
「そんなことより。どうすんだよ、野球部」
 大森が続けて言う。
「説明しよう。千町高校野球部は田舎にある地元に密着した高校で、この少子化や野球人口の減少の影響をモロに受け、絶賛、人数不足なのであ~る!」
「……いや、だから誰に説明してんだよ」
 大森は再び苦笑を浮かべながら大智を見ている。
「どうするもこうするも、とにかく人を集めるしかないだろ? 最低でもあと二人、何とかしないとな……」

 それは昨日のこと。
「すみません。野球部の部室ってここであってます?」
 大智は野球部の部室だと思われるドアを開いて中に入った。大智の後ろには大森の姿もある。
 ドアが開き、大智が中に入ると、部室内にいた五人は一斉に大智の方を見た。そして、五人のうちの一人が慌てて大智の方に駆け寄って来た。
「もしかして、入部希望者!?」
「そうです」
 側に寄って来た部員の質問に大智が答える。
「あ、俺もです」
 大智の後ろから大森が顔を出した。
「おぉ」
 大智の許に駆け寄ってきた部員は大智と大森が入部希望者だとわかると、嬉しそうにそれぞれの手を順に手に取って両手で握手をした。
「あ、そうだ。自己紹介しないとだよね。キャプテンやってます、小林です。とりあえず二人の自己紹介をお願いできるかな?」
「はい、勿論」
 大智はニコッと笑った。
「潮窓《うしおまど》中出身、春野大智。ポジションはピッチャーです」
「へ?」
 大智の自己紹介を聞いた小林は目を丸くしたまま固まっていた。
「同じく潮窓中出身、大森雅之。ポジションはキャッチャーです」
「はい?」
 小林は大森の自己紹介を聞くと更に驚きの表情を浮かべていた。
「えぇっと、潮窓中の春野と大森って、もしかして、あの春野と大森?」
「えぇ、多分。ご想像頂いている通りかと」
 大智が答える。
「あのって何のこと?」
 部屋の奥にいる四人の部員のうちの一人が周りに訊いている。
「いや、お前知らねぇの? 去年、潮窓中が中学野球県大会で優勝した時のバッテリーの春野と大森だよ」
 質問者の側にいた一人がそれに答える。彼も小林同様に驚きの表情を浮かべていた。
「えぇ~~~」
 大智たちの正体を知った部員が突然、声を大にして驚きの声を上げた。
「そ、そんな二人がどうしてうちの高校なんかに?」
 小林が焦った様子で大智に訊く。
「地元の高校で野球がしたかった。じゃあダメですかね?」
「い、いや、ダメってことはないけど……。でも、うちは人数も揃ってないし、なかなか試合もできないよ?」
 小林が気まずそうな顔をしている。
「人は俺たちが何とかします。俺たちに任せてください」
 大智は胸を叩いて、自信満々な表情を浮かべた。

「まぁ、頑張れば何とかなるんじゃないか?」
 回想から戻った大智が言う。
「何とかなるって、お前な。そもそも、うちの野球部が人数不足なのは通学エリアの奴なら誰だって知ってることだろ? うちの高校に本気で甲子園目指して野球やろうなんて奴はいないぞ」
 大森は険しい表情をしている。
「いいんだよ、最初は本気で目指してなくても。始めてから、自分達も頑張れば甲子園にいけるかもって希望を持ってもらえればな。希望が必要なんだよ。この学校には。いや、この町には、な。俺とお前がいるんだ。できないことはないだろ?」
 大智はキリとした目と口角を上げた顔を大森に向けた。
「それはそうかもしれんけど……」
 大森はあまり納得していない様子で、眉をひそめている。
「ま、とりあえず夏までには間に合わせようぜ。夏の大会で少しでも名を挙げれば、来年の春に入って来る新入生にも少しは期待が持てるだろうしな」
「わかったよ。で、どうやって人を集める気なんだ?」
 大森は首を傾げて大智に訊いた。
「とりあえず、無難にポスターとチラシからいくか」
「まぁ、そうだよな。ん? でも、デザインはどうするつもりなんだ? 俺もお前も絵とかデザインのセンスは全くだろ?」
「大丈夫。適任者がいるだろ?」
 大智は口元をニッとさせて笑った。
「あぁ、なるほど。愛莉ちゃんに頼むわけか」
 大森が納得いったという表情を見せる。
「そういうこと。そうと決まれば行こうぜ」
 大智がそう言い終わると二人は早速、愛莉を探しに向かった。

「愛莉―っ」
 教室の入り口で大智が大きな声で愛莉の名を叫ぶ。
 教室内にいた愛莉は慌てて大智の許に駆け寄った。
「ちょ、ちょっと。大きい声で呼ばないでよ。恥ずかしい」
 愛莉は大智を捕まえると、教室から逃げるように出て行った。愛莉は大智の腕を引きながら人気のない場所まで移動した。
「すまん、すまん。探すのが面倒だったもんで、つい」
 大智は愛莉が振り返ると、頭を掻きながら、笑って謝った。
「もうっ」
 愛莉が大智を睨む。
「まぁまぁ、愛莉ちゃん」
 側にいた大森は愛莉を宥めに入った。
「あら、勉強はダメだけど、野球脳は抜群。中学時代は大智と剣都がいて目立たなかったけど、県大会優勝の陰の立役者だった大森君じゃない。こんにちは」
 愛莉は大森にニコッとした笑顔向けた。
「いや、だから誰に説明してんの」
 大森は大智の時と同様に、苦笑を浮かべながら愛莉にツッコミを入れた。
「この物語を読んでくれている心優しい読者の方々にですね……」
 愛莉が真顔で言う。
「はい?」
 大森はまた苦笑いを浮かべていた。
「そんなことより、愛莉。部員募集のポスターとチラシのデザインをしてくれないか?」
 話をしている二人の横から大智が入ってくる。
「私が?」
 愛莉は首を傾げて訊き返した。
「あぁ、頼むよ。ほら、俺ら二人とも絵とかデザインの才能ないだろ?」
 大智からそう言われ、愛莉は自身の記憶を辿った。
 確かに大智は昔から絵を描くのが得意ではなかった。寧ろ下手だと言い切ってもいいくらいだ。大智の絵に愛莉は何度も度肝を抜かれた。大森に関してはそこまでのインパクトではなかったが、確かにお世辞にも上手いとは言い難いレベルではあったことを愛莉は記憶していた。
「……確かに。でも、私もそういうのを描くのは初めてだから、上手く描けるかどうかわからないよ?」
 愛莉はそう言って不安げな表情を浮かべていた。
「大丈夫、大丈夫。俺らがやるよりもいいのができるのは間違いないからな」
 愛莉の不安を他所に大智は楽観的に笑っている。
「そうそう。俺らが描いたやつじゃ、来るものも来なくなってしまうからな」
 大森もそう言う言いながら笑っていた。
 そして、大智と大森は顔を見合わせると、二人してわははっと声を上げて笑った。
「二人とも潔いんだね……」
 愛莉はそんな二人の姿を、苦笑いになって見ていた。
「わかった。じゃあ、週明けまでにデザインの案を考えとくから」
「描いてくれるのか?」
 大智は愛莉の言葉を聞くと、笑うのを止め、喜びと驚きの表情を浮かべていた。
「うん。二人がやると凄いことになりそうだし。それに、私にできることなんてこれくらいしかないから……」
 愛莉は俯きながら少し寂しそうな表情になっていた。
「十分だよ。ありがとな、愛莉」
 大智は愛莉の表情を見て、優しい微笑みと声を愛莉に送った。
 大智の声を聞いて愛莉が顔を上げる。
「ううん。頑張ってね、大智」
 愛莉の顔にも優しい微笑みが浮かんでいた。
 グラウンドのあちらこちらから士気を高めようとする声やプレーの指示をする声が飛び交っている。
 バッティングゲージに入った剣都はスパイクでバッターボックスの土を削り、足場を整えていた。
「おい、お前!」
 バッティングゲージの後ろから、先輩部員の一人が怒気を含んだ声で剣都に声をかけてきた。
「はい?」
 その声に反応し、先輩部員の方に振り返った剣都は、困惑の表情を浮かべていた。
「お前一年だろ。誰に許可を得てゲージに入ってんだよ」
 怒り口調で言う先輩部員には有無を言わせない雰囲気が漂っている。
「私が許可したんですが、何か問題でも?」
 タイミングを見計らったように先輩部員の後ろから監督が近づいて来た。だが、先輩部員はまだそのことに気が付いていない。
「問題も何も入ったばかりの一年にいきなりフリーバッティングをさせるなんて、そんなことがあっていいわけが……。か、監督!」
 先輩部員は後ろに振り返り、声の主が監督だったことに気が付くと、後ろにひっくり返りそうなほどの勢いで驚いていた。
「何か問題でも?」
 監督がスンとした顔で先輩部員に問いかける。
「い、いえ」
 先輩部員は言葉を失って固まっていた。
「いいぞ、黒田。打て」
 監督は何も言わない先輩部員から剣都へと視線を移した。
「はい」
 監督に声をかけられた剣都がはきっとした声で返事をする。
「しかし、何故なんです、監督。まだ入って間もない一年にいきなりフリーバッティングをさせるなんて聞いたことないですよ!?」
 先輩部員が思い切った様子で監督に訊いた。
「あいつは特別だ」
 監督はゲージにいる剣都に目を向けたまま、きっぱりと言った。
「何故です!」
 監督の答えに納得がいかなかった先輩部員は再び食い入るように訊いた。
 その瞬間、鋭く、澄んだ金属音がグラウンドに響き渡った。
「え?」
 監督に迫っていた先輩部員がその音に反応する。
 その音を合図に、剣都はマシンから出てくるボールを鋭い金属音を響かせながら、次々と外野へと、更にはその先へと飛ばした。
 港東高校の野球部員たちは練習の手を止め、剣都のバッティングに見入っていた。
「説明が必要か?」
 監督は側で唖然とした表情で剣都を見ている先輩部員に改めて訊いた。
「い、いえ。す、すみませんでした!」
 先輩部員はそう言って頭を下げると、逃げるようにその場を後にした。
 フリーバッティングを終え、ゲージを出た剣都はヘルメットを脱ぐと空を見上げた。
(さっさと上がって来よ、大智。じゃないとおいて行くからな)

「お願いしまーす。お願いしまーす……」
 朝の登校時間、大智と大森は校門周辺で部員募集のチラシを手分けして配っていた。
「どうだ、大森?」
 チラシを配り始めてからしばらく経った頃、大智が大森の許に来て訊いた。
「全然受け取ってもらえん」
 大森は首を横に振りながら答えた。
「厳しいってことはわかっといたけど、まさかここまでとはな」
 大智はそう言うとガクッとうなだれた。
 チラシを配り始めてから今日で三日目。思うような成果は出ていなかった。
「おはよう」
 話をしている二人の許に愛莉がやってきた。
「おぉ、愛莉か。おはよう」
 大智が暗く細々とした声で言う。
「どうしたの? そんな暗い顔して」
 愛莉はうなだれている大智の顔を横から覗いた。
「あんまり思うようにいっていなくてな」
 大智はうなだれたまま答えた。
「もしかして、デザインが悪かった?」
 愛莉が急に不安そうな顔になる。
「いやいや、愛莉が考えてくれたデザインは全く問題ないよ。寧ろチラシ自体は好評と言っていいくらい。俺も大森も凄く気に入っているしな」
「じゃあ何で……」
 愛莉は顔をより一層不安そうにした。
「それ以前の問題なんだよ。チラシを渡そうとしてもほとんど受け取ってくれん」
「そうそう。見向きもしてくれない」
 大森が大智に賛同する。
「そっか……」
 愛莉は俯きながら呟いた。
「ねぇ……」
 俯いていた愛莉が顔を上げる。
 愛莉は二人の顔を交互に一度見た。
「私も手伝う」
「え!?」
 大智が驚きの声を上げる。
「いや、いいよ。愛莉、こういうの苦手だろ?」
 大智は慌てるようにして、愛莉の申し出を断った。
「そうだけど。でも、二人が頑張っているのを黙って見てなんていられないから……」
 愛莉は視線を地面に落としていた。
「愛莉……」
「愛莉ちゃん……」
 大智と大森がそれぞれ愛莉の名を呟く。
 大智は一つため息を吐いてから口を開いた。
「わかったよ。じゃあ明日八時から一緒にお願いできるか?」
「うん」
 大智の言葉を聞いた愛莉は顔を上げて、一度頷いた。
「でも無理はしなくていいからな。もし、やっぱり無理だと思ったらいつでも言ってくれればいいから」
 大智は心配そうな顔で愛莉を見ている。
「大丈夫。私、頑張るから」
 愛莉は心配そうに見つめる大智の目に対して真っすぐな瞳で見つめ返した。

 翌日。
 三人は約束通り、朝、八時から校門周辺でチラシ配りを始めた。
 チラシを配り始めてから数分。大智は愛莉のことが気になって仕方がなく、ことあるごとに愛莉の様子を確認していた。
 愛莉はチラシを配ろうと試みてはいるものの、なかなかチラシを渡すまでには至っていなかった。勇気を出して歩く人の前にチラシを出してはみるものの、大智が見ていた限りでは、愛莉のチラシを受け取ってくれた者は誰一人としていなかった。
 それからまた数分が経って、愛莉の様子を見かねた大智はチラシを配る手を止めて、愛莉の許へと向かった。
「愛莉、もういいよ。無理するなって」
 大智は愛莉の許に着くと、開口一番で愛莉にそう告げた。
「大智……。ごめん。私……」
 大智が声をかけると、すぐに愛莉の目から涙が零れ落ちた。
 通行中の何人かはその様子を見て、こそこそと話をしている。
「ばっ、ここで泣くなって」
 周りに見られていることに気がついた大智は、慌てて愛莉を人目のつかない場所に連れて行った。
「ごめん、大智……」
 愛莉は移動している間に落ち着きを取り戻していた。
「だから無理するなって言ったろ?」
 大智は困り顔を浮かべていた。
 愛莉は大智の顔は見ずに、下を向いたまま、黙り込んでいた。
「人には得意不得意があるんだから無理することねぇのに」
「でも!」
 大智の言葉を聞いて、愛莉はバッと顔を上げる。
「気持ちだけで十分だよ。いや、ポスターとチラシのデザインをしてくれたんだ。それだけでも十分なくらいだよ」
 大智は愛莉に優しく微笑んだ。
 大智の微笑みを見た愛莉はまた黙って俯いた。
「じゃあ俺はもうちょっと配ってくるから」
 大智は愛莉にそう告げると、校門前に戻って行った。
 大智の背中を見送る愛莉はギュッと唇を噛みしめていた。
「大智、どこ行ってたんだ?」
 校門の近くまで戻って来た大智の許に大森が駆け寄ってくる。
「あれ? そういえば愛莉ちゃんの姿が見当たらないな」
 大智の許にやってきた大森は辺りを見渡して、愛莉の姿を探した。
「愛莉はやっぱり無理そうだったから止めさせた。泣いてしもうたから、人目のつかない場所に連れて行ってたんだ」
「そっか。やっぱり難しかったか……」
 大森が悲しそうな表情をして呟く。
「あぁ」
 大智も大森と同じように悲しそうな顔をしていた。
「でも、人見知りの激しいあの愛莉ちゃんが手伝うって言ってくれたのには驚いたな」
 大森の顔に少しだけ嬉しそうな表情を浮かぶ。
「そうだな」
 大智はその目に哀愁を漂わせながらも、左右の口角を少しだけ上げていた。
「愛莉に気を遣わせない為にも頑張らないとな」
 大智は校門から続々と入って来ている人だかりに目を向けた。
「だな。頑張ろうぜ」
 大森が大智の前に拳を突き出す。
「おう」
 大智は大森の拳に自分の右手の拳をコツンとぶつけた。
「あん?」
 突然、大智が何かに反応する。
「どうした?」
 大森は驚いて大智に訊いた。
「何かあっちの方が騒がしくないか?」
 大智は声が聞こえて来ている方を指で示した。
 大森は大智が示した方に耳を傾けた。
「ほんとだ。何か賑やかな声がするな」
「だろ?」
「どうする? 行ってみるか?」
「あぁ。行ってみようぜ」
 大智がそう答えると、二人はすぐに騒がしい声がする方へと向かった。
 二人が賑やかな声がする場所に近づくと、何故かそこには男子が群がっていた。それを見た二人はその集団の人混みをかき分け、塊の中心付近まで無理やり入って行く。中心付近に辿り着いた二人は目を丸くして驚いた。
「あ、愛莉!?」
 大智が叫ぶ。
 そこには男子に囲まれながらチラシを配る愛莉の姿があった。
 愛莉の手元にあるチラシはみるみるうちに減っていき、あっという間に愛莉の手元からチラシが消えてしまった。
 愛莉の手元にあるチラシがなくなると次第に騒ぎは落ち着いていった。騒ぎが落ち着くと、愛莉は大智と大森がいることに気が付き、二人の許へと駆け寄った。
「大智! 大森くん」
「何がどうなってんだ?」
 大智は眉をひそめながら愛莉に訊いた。
「私もよくわからない」
 愛莉は夢でも見ているかのようなふわふわとした状態になっていた。
「よくわからないって?」
 大智が首を傾げる。
「あの後、大智を見送った後ね。やっぱり悔しくって、もう一回頑張ってみようと思ってあそこでチラシを配ろうとしたの。とにかく一枚だけでもと思って一枚配ってみたら、その後は気がついたらあんなことになってて……」
 愛莉は俯いた状態で話した。
 それを聞いた大智と大森は互いに目を見合わせていた。
「ま、愛莉ならわからないでもないな」
 大智は一つ息を吐いてから話した。
「だな」
「え? どういうこと?」
 愛莉は二人を不思議そうな顔で見つめている。
「そういうことだよな?」
 大智が大森に問いかける。
「そういうことだな」
 大森は言い切るように言った。
「二人ともさっきから何のこと言ってるの?」
 愛莉は困ったような表情で二人に訊いた。
 大智と大森は愛莉からそう問われると再び目を見合わせた。
 大森が大智に話すように視線を送ると、少し間を空けてから大智が話し始めた。
「愛莉が可愛いからだよ」
 大智は愛莉と目を合わせないように、顔を横に向けて言った。
「へ?」
 愛莉は不意を突かれたようにキョトンとした表情をしている。
「だ・か・ら! 愛莉が可愛いって噂が広まったから男どもが群がってきたんだよ」大智は口をとがらせながら愛莉に説明した。
「そんなこと……」
 愛莉が声をくぐもらせる。
「そうなんだよ」
 大智はきっぱりと言い切った。
「でもどうする? 愛莉ちゃんが配るとチラシが捌けるのはわかったけど、このまま愛莉ちゃん一人で配らせるわけにはいかないだろ?」
 大森が大智に問う。
「そうだなぁ。今日みたいなことになるのはまずいよなぁ」
 大智は手を顎の下に付けて考えを巡らせ始めた。
「ごめん……」
 二人の会話を聞いた愛莉が声をくぐもらせながら謝罪の言葉を述べる。
 それを聞いた大智は一旦考えるのを止めて愛莉に声をかけた。
「愛莉が謝ることじゃないだろ?」
「でも、また私のせいで迷惑かけちゃってるし」
 愛莉は悲しそうな表情をして俯いている。
「気にすんなって。今回のことは予想外の出来事だったんだし。それに愛莉のおかげで今日だけでもかなりの数が配れたんだ。本当に助かったよ」
 大智はそう言って、愛莉に向けて優しく微笑んだ。
「そうそう。俺らの数日分は配ってるよ」
 大森も笑いながら優しく愛莉に話かけた。
「威張れることじゃねぇけどな」
 大森が話した内容を聞いて大智がすかさず大森にツッコミを入れる。
 ツッコミを入れられた大森は苦い顔をしながら大智を見つめていた。
「それで、愛莉はどうしたい? 俺らはこれまでの分だけでも愛莉には十分過ぎるくらい助けてもらったと思ってるし、もの凄く感謝してる。だからこれ以上は無理してまでやろうとすることはないぞ? 勿論、愛莉がまだやりたいって言うなら止めはせんけど」
「私は……」
 愛莉はそう言うと少し間を空けてから続きを話し始めた。
「やりたい! 出来る限り二人の力になりたい!」
 愛莉は真剣な目で大智と大森を交互に見つめた。
 二人は愛莉を見つめたまま、黙り込んでいた。
 大智がふーっと息を吐き、口を開く。
「わかった。じゃあ、明日も頼むよ」
 大智は眉をハの字にしながらも少し嬉しそうな表情をしていた。
「おはよう。俺たちも手伝うよ」
 朝、八時より少し前に登校し、チラシを配る準備をしていた大智の許にキャプテンの小林がやってきた。その後ろには他の四人の先輩部員もいた。
「先輩! おはようございます。でも……」
 小林からの突然の申し出に、大智は困り顔を浮かべていた。
「任せておけって言った手前、手伝ってもらうのは恥ずかしいかもしれないけどさ。俺たちだって出来ることはやりたいんだ。だから、良かったら俺たちにも手伝わせてもらえないかな?」
 小林は真っすぐな目を大智に向けている。
 小林の後ろにいる四人の先輩たちも真剣な目を大智に向けていた。
「先輩……」
 大智はそう呟くと、自身の鞄に手を突っ込み、中からチラシの束を取り出した。
「じゃあ、すみませんけど、お願いします」
 大智は頭を下げながら、小林にチラシの束を渡した。
「うん」
 小林が大智からチラシの束を受け取る。
 チラシの束を受け取った小林は後ろにいる他の四人にもチラシを渡した。
 チラシを受け取った先輩たちは校門の前へと向かって行った。
「どうしたんだ、先輩たち?」
 大智と先輩たちが話していることに気が付いた大森が大智の許へとやって来た。
「手伝いに来てくれたんだ」
「え? もしかして、気を遣わせてしもうたかな?」
 大森はそう言って申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「いや。俺らが独りよがりになってたんだよ。本当は先輩たちにだって試合に出る為に野球部を何とかしたいって思いはあったんだ。けど、あの時俺らが任せてくれって啖呵を切ってしまたばかりに、今まで気を遣ってくれてたんだよ」
 大智は校門前でチラシを配り始めている先輩たちを見つめていた。
「そっか。申し訳ないことをしちゃってたんだな、俺たち」
 大森も大智に続いて校門前にいる先輩たちに視線を向けた。
「なぁ、大森?」
 大智が先輩たちに視線を向けたまま、大森に声をかける。
「うん?」
 大森は大智の方に視線を向けた。
「絶対に人揃えて、試合やろうぜ」
 先輩たちを見つめていた大智は大森の方へ顔を向けると、真剣な眼差しで大森を見つめた。
「あぁ、勿論だよ」
 大森も真剣な眼差しを大智に送り返した。

 ある日の放課後。
 大森のキャッチャーミットから乾いた革を叩く音が鳴り、グラウンドに広がって行く。
「ナイスボール」
 ボールを捕った大森はブルペンのマウンドで投球練習を行っている大智に声をかけた。
 大森からの返球を受け取った大智は大森のミット目がけて次々とボールを投げ込んだ。
「ひえ~」
 二人の様子を見ていた五人の先輩たちは唖然としたまま固まっていた。
 順調に投げ込みをしていた大智だったが、突然、何かに気が付いた様子を浮かべた。
 大智は大森からの返球を受け取ると校舎の方に視線をやった。
「どうしたんだ? 大智」
 次の球を受けようと待っていた大森がマスクを外しながら大智に声をかける。
「すまん。ちょっと行って来る」
 大智はそう言うと、グラブをブルペンのマウンドに置き、ダッシュで校舎の方へと向かって行った。
「行ってくるってどこへ?」
 大森は走り去って行く大智に届くように大きな声で叫んだ。
 だが、その声は大智には届いていなかった。いや、届いていたのかもしれないが、大智から反応が返って来ることはなかった。

「ねぇ、ねぇ、秋山ちゃん。バスケ部のマネージャーになってよ」
 バスケのユニフォームを着た一人の男子生徒が顔をニヤつかせながら愛莉に言い寄っている。
「ごめんなさい。私、バスケのことはあんまりよくわからないから」
 愛莉はそう返事をして、その男子から遠ざかろうと試みた。
 しかし、バスケのユニフォームを着た男子は遠ざかろうとする愛莉の進路を妨害した。
「大丈夫、大丈夫。俺が秋山ちゃんをバスケ好きにさせてあげるからさ。天才プレイヤーであるこの俺。難波一輝様がね」
 難波と名乗る男は相も変わらず顔をニヤニヤとさせながら、愛莉に言い寄った。
「本当にごめんなさい。私、野球が好きなの」
 愛莉は難波に頭を下げて言った。
「野球? でも秋山ちゃん野球部のマネージャーをしてるわけじゃないんでしょ? だったらいいじゃん!」
「それは……」
 愛莉が声をこもらせて呟く。
「あんな活動をしているのかどうかもわからない弱小野球部なんて放っておいてさ。ね? ね?」
 難波は愛莉の顔に自身の顔を近づけながら愛莉に言い寄った。
「その辺にしとけよ」
 練習の手を止め、愛莉の許にやって来た大智はそう言いながら難波の襟の後ろ側を掴むと、難波の顔を愛莉から離すように後ろへと引っ張った。
「ぐえ~」
 襟の前側が首に引っかかった難波が苦しそうな声を上げる。
 大智はその声を聞いて難波の服の襟を離した。
 大智が襟を離すと、難波はゲホッ、ゲホッと咳込んでいた。
「だ、誰だ!」
 咳が止まった難波は後ろに振り返り、大智と目が合うと、大智を睨みつけた。
「ただの弱小野球部の者です」
 大智は睨みつけてくる難波の目を無視するようにそっぽを向いていた。
「大智!」
 愛莉は嬉しさと安堵が入り混じった声で大智の名を呼ぶと大智の許へと駆け寄った。
「大丈夫か、愛莉」
「うん」
「チッ。何だよ、お前。邪魔するなよな」
 難波が改めて大智を睨みつける。
「いやいや。セクハラで訴えられそうなところを助けてやったんだから逆に感謝して欲しいくらいですがね」
 大智は難波を見ることなく、そっぽを向いていた。
「何だと~!」
 難波は怒りに満ちた顔で大智を睨みつけた。
「何だよ」
 大智が初めて難波に目を向ける。
 大智は難波と目が合うと、負けじと難波を睨みつけた。
「おい。この俺を誰だと思ってんだ! 泣く子も黙る天才プレイヤーの難波様だぞ」
「へ~。見たまんまの名前なんだな」
「は?」
 難波が険しい表情のまま首を傾げる。
「なぁ?」
 大智は側にいる愛莉に同意を求めた。
 愛莉も何のことかわかっていないようで、大智に訊かれても黙ったままだった。
 三人の間にしばしの間、沈黙が流れる。
「いや、ナンパじゃねぇよ! ナ・ン・バ!」
 沈黙を破るように難波が声を荒げて言った。
「おい、難波。何やってる。休憩終わってるぞ」
 近くに見えている体育館の方から難波が声をかけられた。
「あ、は~い。すぐに戻ります」
 難波は声色を変えてその声の主に返事をした。
 難波は返事をし終わると、チッと舌打ちをしながら大智と愛莉の方に直った。だが、大智には目をくれることはなく、愛莉だけに視線を向けて話を始めた。
「ま、とりあえず一回でいいからさ、見に来てみてよ。んじゃあ、よろしくね」
 難波は格好つけながらそう言い残すと、体育館へと向かって行った。
「何だ、あいつ」
 去って行く難波の後ろ姿を大智は険しい表情で見つめていた。
「それにしても随分と愛莉に対して馴れ馴れしかったけど、知り合いか?」
「知り合いというか、クラスが同じなの。でも、べつにそんなに話したことがあるってわけじゃないんだけど……」
 愛莉の顔には明らかに困惑の表情が浮かんでいた。
「たくっ。しょうがねぇやつだな。ナンパの野郎は」
 大智が真面目な顔をして難波の名前を間違える。
「ナン・バね」
 愛莉は苦笑を浮かべながら大智にツッコんだ。
「あ!」
 突然、愛莉が何かを思い出したように声を上げる。
「どうした?」
「そういえば、クラスで自己紹介した時、難波君、小学生の頃は野球してたって言ってたような……」
 愛莉はその時のことを懸命に思い出そうとしていた。
「本当か!?」
 大智が食い気味に愛莉に訊く。
「う、うん。あんな感じの人だから印象には残ってるし、多分、間違いないと思う」
 愛莉は大智の勢いに気圧され、体を引き気味にしながら答えた。
「そうとわかれば……」
 大智は難波が去って行った体育館の方に目を向けた。
「野球部に誘うの?」
 愛莉が訊く。
 だが大智はすぐには返事をせず、愛莉を見つめると、そのまま固まってしまった。
 そして、少しすると、今度は手を顎に当てて、う~んと考え込んだ。
「とりあえず、部活やってるところを見てみたら?」
 愛莉にそう言われた大智は愛莉の方を見ると、考えるを止めた。
「それもそうだな」
 体育館ではボールが床に着く音やシューズと床が擦れる音、仲間への掛け声など、様々な音がひっきりなしに響いている。
 大智と大森は体育館の下に設けられている小窓からバスケ部の練習の様子を覗いていた。
「確かにあれは只者の動きではないな」
 難波のプレーを観察しながら大森が呟く。
「あぁ。口だけの野郎ってわけでもなさそうだ」
 大智は難波の動きを見て、納得した様子を浮かべていた。
「バスケ部なだけあってフットワークは抜群だな」
 大森が横目で大智を見ながら言う。
「周りもよく見えてるよ」
 大智も横目で大森を見て言った。
「どっちの候補? セカンド? ショート?」
 大森は体育館の中を指差しながら大智に訊いた。
「それは肩の強さを見てみないとだろ?」
「だよな。ま、あの動きができて経験者なら高校のレベルに慣れればどっちかの穴は埋まりそうだな」
「まぁな。つっても見つけただけじゃ意味ねぇけどな。問題はどうやって助っ人を頼むかだ……」
 大智は険しい顔をしながら腕組みをしていた。
「素直に頭を下げれば?」
「やっぱそれしかねぇかな~。この間のことがあるから、できればそれはしたくないんだけどな~」
 大智は両手で頭を掻きむしっている。
「そんなこと言っても背に腹は代えられないだろ?」
「だよな~」
 大智は掻きむしる手を止めると、今度は頭を抱えて悩み始めた。
「あれ? 愛莉ちゃん?」
 悩み込んでいる大智を他所に、体育館内に視線を戻していた大森が呟くように言う。
「は?」
 頭を抱えて悩んでいた大智だったが、愛莉の名を聞くと、慌てて体育館を覗き込んだ。
 中には大森の言った通り、確かに愛莉の姿があった。
 愛莉が体育館に入ると、それに気が付いた難波が愛莉の許へ向かった。難波は愛莉の許へ行くと、嬉しそうに話をしていた。
「チッ。音がうるさくて何も聞こえやしねぇ」
 大智は愛莉と難波がいる方向に耳を傾け、何とか二人の会話を聞こうとしていた。
「おい、こっち来るぞ!」
 体育館の中を見ていなかった大智に大森が声をかける。
 大智は大森の声を聞いて、体育館の中に目を向けた。
「ヤベッ、隠れろ!」

「ねぇ、ねぇ、話って何? もしかして、バスケ部のマネージャーをやる気になってくれた?」
 愛莉の後を付いて行く難波は体育館を出ると顔をニヤつかせながら愛莉に訊いた。
 だが、愛莉はそれを振り切るように難波の方に振り返ると、勢い良く頭を下げた。
「お願いします! 野球部の助けになってあげてください!」
 愛莉は精一杯声を張って言った。
「野球部? 何で俺が野球部の助っ人なんか……」
 愛莉の頼みを聞いた難波は眉をひそめていた。
「難波君、自己紹介の時に言ってたよね? 昔、野球をやってたことがあるって」
「ん? あぁ、あるよ。少年野球では三番ショートだったんだ」
 難波はこれ見よがしに胸を張っていた。
「ショート!」
 近くに隠れていた大智と大森は目を見合わせると、声は出さないようにして口だけ動かした。
「ほんとに!?」
 愛莉の顔が少しだけ明るくなる。
「あぁ、本当さ!」
 難波は相変わらず自信満々の表情をしており、今度は腕組みまでしていた。
「お願いします。掛け持ちになって大変だとは思うけど、今年の夏だけでもいいから野球部の力になってあげてください」
 愛莉は体が垂直になるまで深く頭を下げて頼んだ。
「愛莉……」
 陰で愛莉の様子を見つめている大智がぼそりと呟く。
「ふむ。まぁ、秋山ちゃんの頼みなら聞いてあげないこともないけど?」
 そう答える難波だが、その顔はどうも怪しい。
 だが、愛莉は顔をパッと明るくしていた。
「ほんと!? じゃあ!」
「その代わり、俺とデートしてよ」
 難波は如何にも悪そうな顔を面に出した。
「え……」
 愛莉の顔が一気に曇る。
「別に変なことしようって言ってるわけじゃないんだよ。ちょこちょこっと遊ぶだけ。それで願いが叶うんだから安いもんだろ?」
 難波は顔をニヤニヤとさせていた。
 二人の会話を陰で聞いていた大智はそれを聞くとギリッと奥歯を噛みしめ、手をギュッと握り締めた。
「で、でも……」
 愛莉は困った顔をして俯いていた。
「頼むなら今の内だよ。今日を逃したら条件追加しちゃうかもよ?」
 難波は意地の悪そうな顔でプレッシャーをかけるように愛莉に迫った。
 その様子を陰からじっと見つめていた大智は糸がプツンと切れたように、その場に立ち上がった。
「おい! いい加減にしろよ!」
 大智が立ち上がりながら声を張り上げる。
 立ち上がった大智は難波を鋭い目で睨みつけた。
「お、お前は!」
 突然現れた大智の姿に難波が驚く。
「だ、大智!?」
 愛莉も大智の姿を見ると驚きの声を上げた。
「何だよ。また邪魔をするのか」
 難波が大智を睨み返す。
「あぁ。本当は邪魔したくなかったけどな」
「なら、邪魔するんじゃねぇよ」
「勘違いするなよ。俺が邪魔したくなかったのはお前のことじゃなくて、愛莉のことだからな。けど、さすがに限界だわ。相手の弱みにつけ込んで自分の欲を満たすような奴はこっちからお断りだ!」
 大智は今まで以上に強く難波を睨みつけた。
「大智!」
 愛莉が慌てて大智の名前を叫ぶ。
「いいんだ、愛莉。俺はただ野球ができる奴が欲しいんじゃないんだ。甲子園を目指して一緒に夢が見られる仲間が欲しいんだ」
 大智は表情と声を和らげて愛莉に言った。
「はっ。甲子園だと? 真面に人数も揃わない弱小校がか?」
 難波が大智を嘲笑うように言う。
「やってみねぇとわかんねぇだろ?」
 大智はまた難波を睨んだ。
「例え人数が揃ったところであんなメンバーで出られるわけねぇだろ。まぁでも、俺がいれば可能性はグンッと高くなるだろうけどな」
 難波はそう言うとわははっと一人で高笑いをしていた。
「話にならんな。愛莉行くぞ」
 大智が踵を返す。
「え? あ、うん……」
 愛莉は戸惑いながらも、その場を後にしようとする大智の許へと向かった。
「行こうぜ、大森」
 大智が立ち上がった後、遅れてその場に立っていた大森に大智は歩きながら声をかけた。
「あ、あぁ」
 大森も戸惑いの表情を浮かべながらも、大智と愛莉の後ろに付いて歩いた。
「本当にいいのか! 後から後悔しても知らねぇからな!」
 立ち去って行く三人の背中に向け、難波は叫んだ。
 その目に寂しさを宿らせながら……。
「ねぇ? 本当に良かったの?」
 体育館から十分離れたことを確認した愛莉は心配そうに大智に訊いた。
「いいんだよ」
 大智は愛莉に話かけられても愛莉の方には振り返らず、前方に目を向けたままだった。
「難波くんの力が必要なんじゃないの?」
「お調子者で、自信過剰なだけなら、な。人の弱みに付け込んで来るような奴はいらねぇよ」
 大智はそう言うと愛莉の方に顔を向けた。
「で、でも……」
 愛莉はまだ何か言いたそうにしている。
「そんな心配そうな顔すんなって。まだ部員集めは始めたばかりなんだ。野球に興味がある奴の一人や二人くらいすぐに見つかるさ」
 大智は愛梨に笑顔を向けた。
「でも、それじゃあ、勝つのは難しいんじゃ……」
 愛莉は変わらず心配そうにしている。
「大丈夫だよ。俺が相手にまともに打たせなかったらいいだけなんだからな」
 大智は自信ありげに言う。だが、愛莉の心配そうな表情は崩れない。
「そんな簡単に言うけど……」
「大丈夫なんだよ。なんてったって俺には信頼のできるキャッチャーが付いているんだからな」
 大智はそう言うと後ろを歩いている大森の方に振り返り笑顔を向けた。
「簡単に言ってくれるな……」
 大森は苦笑を浮かべていた。
「頼りにしてるぜ。相棒」
 大智の顔が満面の笑みになる。
 大智の笑顔を見た大森は呆れながらも笑みを浮かべ、ふっと息を漏らしてから返事を返した。
「あぁ」
 大森はそう返事をすると右手の拳を体の前に突き出した。
 それを見た大智は大森の拳に自身の右手の拳を付けた。
「もう……」
 そんな二人の様子を見ていた愛莉は変わらず心配そうな目をしながらも、左右の口角を上げて微笑んでいた。

 それから数日が過ぎたある休日のグラウンド。
「ナイスボール」
 ブルペンで大智の球を受けている大森の声が響く。
「大森!」
 大森からの返球を受け取った大智は右手を上に挙げて大森を呼んだ。
「どうした?」
 次の球を受けようと座っていた大森はマスクを上げて大智に訊いた。
「ちょっと」
 大智は手招きして、大森を呼んでいる。
 それを見た大森は駆け足で大智の許へと向かった。
「どうしたんだ?」
 大智の許へ着いた大森が改めて訊く。
「なぁ、あのおっさん、また見てるぜ」
 大智が口元をグラブで隠しながら言う。
 大智の話を聞いた大森はライト後方にあるネットの方へと視線を向けた。そこには三十代から四十代の男性の姿があった。
「ほんとだ。最近、良く見るな」
「あぁ。どうする? とりあえず先輩に訊いてみるか?」
「だな」
 大森がそう返事をすると二人はキャプテンである小林の許へと向かった。
「キャプテン」
 ネットに向かってトスバッティングをしている小林に大智が声をかける。
「どうしたの?」
 小林はすぐに練習の手を止めて大智たちの方に振り返った。
「あそこからグラウンド見てる人知ってます?」
 大智がライト後方を指差しながら小林に訊く。
 そのことを相手に気が付かれないように顔は小林の方に向けていた。
「ん? どこ?」
 大智から質問を受けた小林はライト方向に目を向けた。
 しかし、小林はその相手を見つけられないでいた。
「へ? いやいや、いるでしょう? ライトのネットの裏に」
 大智はそう言って自分もライト方向に向いた
「……って、あれ? いない…‥」
 その人物は先ほどまでいた場所にはもういなかった。
「その人って、もしかして、ライトのネット裏からいつもこっちを見てる人のことかな?」
 小林が大智に訊く。
「そうです、そうです」
「なんだ。あの人は野球部の顧問だよ」
「へ?」
 大智と大森は頭に疑問符を浮かべた。
「顧問の藤原先生だよ」
 小林が二人に教える。
 しかし、二人はあまりピンッとはきていなかった。
「へ~。うちの部に顧問なんていたんですね」
 大智が驚いたように訊く。
「一応、部として活動してるからね」
 小林は苦笑を浮かべながら答えた。
「と言っても今年赴任してきたばかり先生だから実は俺もまだよく知らないんだよね」
 小林が少し申し訳なさそうに言う。
「でも野球経験者らしいよ。噂によると現役時代はなかなか凄い選手だったらしいし」
「ほ~」
 大智と大森が驚きの声を上げる。
「ま、所詮過去の話だよ」
 三人が話をしていると、大智と小林の間から例の男性、顧問の藤原が突然ひょっこりと顔を出してきた。
 その瞬間、三人は一斉にビクンとなって驚いた。
「び、びっくりした~」
 大智が驚いた顔のまま藤原を見ながら言う。
「先生! 驚かさないでください」
 キャプテンの小林は強めの口調で藤原に注意をした。
「すまん、すまん。近づいとることに全然気が付いてなかったもんだからつい」
 藤原が右手で頭を掻きむしりながら言う。
(子供かよ……)
 三人はそう心の中だけでツッコミ、冷たい目を藤原へと向けていた。
 一方の藤原はというと、そんな生徒の冷たい目など全く気にする様子もなく、ワハハッと笑いていた。
「この人で大丈夫か?」
 大森が大智の耳元で囁く。
「さ、さぁ?」
 大智は藤原を見つめながら呟くように返事を返した。
「ん?」
 大笑いしていた藤原だが突然笑うのを止めると、無言で大智を見つめていた。
「もしかして君が噂の春野大智?」
 藤原は大智を指差しながら訊いた。
「そ、そうですけど、俺に何か?」
「いや~、噂は耳にしてるよ」
 藤原は大智の右手を手に取ると両手で大智の手を覆った。
「凄い球投げるんだって?」
「えぇ、まぁ……」
 大智が戸惑いの表情を浮かべながら答える。
「いや~。ブルペンでもなかなか良い球投げてたね~」
 藤原はニコニコと笑顔を浮かべている。
「どうも」
 大智は帽子を軽く上げて会釈した。
「そこで一つお願いがあるんだが……」
 藤原はそう言うと、さきほどまでのちゃらけた顔をしまい、真剣な表情に変わった。
「何ですか?」
 それに気が付いた大智も真剣な表情に変わる。
「一打席勝負で君の球を見せてほしい」
「はい?」
 意表を突かれた大智はそう声を漏らしていた。
「勿論、無理にとは言わんが」
 言葉とは裏腹に藤原は真っすぐな眼差しで大智を見つめている。
「大丈夫です。やりましょう」
 大智はすぐにそう答えるとニッと笑顔を浮かべた。その目は輝きを見せている。
「そうこなくちゃな」
 藤原は口元をニヤッとさせていた。
「いいですよ、先生」
 マウンドからの投球練習を終えた大智が藤原に声をかける。
「よっしゃ」
 体をほぐしながら待っていた藤原は大智に声をかけられて、バッターボックスへと向かった。
 藤原が右のバッターボックスに入る。
「判定はキャッチャーに任せるわ。ええっと……」
「大森です」
「そう、大森。君もなかなかやるって噂を聞いているよ」
「ありがとうございます。でも、今はそんなことよりもあいつの球に集中してください。先生の経歴がどれほどのものなのかは知りませんけど、ちょっとやそっとじゃあいつの球は捉えられませんよ」
 大森はマスクを被って屈んだまま、左上にある藤原の顔を見つめながら言った。
「言うね~。まぁでも、何となくそんな気がするよ」
 藤原はそう言うと、マウンドの大智へと視線を向けた。その目は人が変わったようにキリッとした目つきになっていた。
 藤原の視線が自分に向いたことを確認した大智が投球モーションに入る。
 グラウンドにいるメンバーは全員、その対決に注目していた。
 グラウンドには緊張感が張りつめている。
 初球、大智の投げた球が大森のミットに収まる。
「は、速っ……」
 二人の対決を傍から見ていた部員たちはそう声を漏らしていた。
「ストライクです」
 大森がボールを大智に返球しながら藤原に言う。
「なるほど。スピードだけじゃないみたいだな。ノビも一球品だ」
 藤原は嬉しそうにそう呟くと、再びマウンドの大智へと視線を向けた。
 二球目。
 藤原のバットが大智の球を捉える。鋭い打球がレフト線の左に切れていった。
 ファールボール。
「少し焦ったか……」
 藤原は打球の行方を見ながら呟いていた。
「さっきほど球にノビがなかったな」
 藤原の顔が大森に向く。
「まだ硬球に慣れきれていないもので」
 大森は外していたキャッチャーマスクを着け直しながら答えた。
「半年の間に慣らしてなかったのか?」
 藤原は少し驚いた様子を浮かべて大森に訊いた。
「えぇ、まぁ。途中、触ってない時期があったんで」
「どうして?」
 藤原が不思議そうな顔を浮かべる。
「受験の為です」
「受験? うちの学校、そんなに偏差値高くないだろ? 寧ろ低いくらいだ」
「根っからの野球バカなんですよ、あいつは。中学で引退した後も高校で野球をやることしか考えてなかったから、勉強の方はほったらかしで。ギリギリになってようやく自分が置かれている状況に気が付いて、そこから猛勉強。その間は真面にボールを投げていなかったんですよ」
 大森はそう言いながら、マウンドの足場を整えている大智を見つめていた。
「なるほど。当面の課題だな」
「えぇ。でも、この勝負はさっきの当たりであいつの中で完全にスイッチが入ったみたいですよ」
 大森はそう言うと左右の口角を上げて藤原を見た。
「なに?」
 藤原はそう言われてマウンドの大智へと視線を向けた。
 マウンドにいる大智は目をキラキラと輝かせていた。
「あの目をしている時の大智の球はこれまでとは比べものになりませんよ」
 大森はマスク越しに藤原を見て、ニヤリと笑った。
「ほう……」
 藤原はそう言いながらフッと笑みを浮かべると、打席を外して素振りを始めた。
 鋭いスイング音が静寂なグラウンドに響く。藤原のスイングもまた一段と鋭さが増していた。
 藤原のスイングを目の当たりにした大智はより一層の闘志をその目に宿していた。
 素振りを終えた藤原が、バッターボックスへと戻る。
 大森とのサイン交換を終えた大智が藤原に対して三球目を投げた。
 大森の宣言通り、これまでの二球よりも勢いのある球が大森のミット目がけて進んで行く。
 藤原はその球を打ちにいった。

「グキッ?」
 打球音と共に聞きなれない音が聞こえてきた為、大森は首を傾げた。
 しかし、すぐに我に返り、大森はマスクを外して打球を追った。藤原が打った打球は高々と上がっている。だが、落ちて来たのはマウンドにいる大智の許だった。
 ピッチャーフライ。
 勝負は大智が勝利。
 すると次の瞬間「こ、腰が……」と唸るような声が大森の足下の辺りから聞こえて来る。
 大森は「ん?」とその声の方へと目を向けた。
 するとそこには腰を抑えて倒れ込む藤原の姿があった。
「せ、先生!? ど、どうしたんですか!?」
 大森は慌ててしゃがみ込みながら藤原に声をかけた。
「スイングしたら、腰が……」
 藤原が絞り出すように声を発する。
「う、動けますか?」
「む、無理……。きゅ、救急しゃあぁ……」

 藤原を乗せた救急車がサイレンを鳴らしながら学校から出て行く。
「おいおい、大丈夫か……」
 大智と大森は呆然と救急車を見送りながら、そう呟いていた。
 グラウンドに賑やかな歓声がこだましている。
 春の清々しい青空の下、千町高校では朝から球技大会が行われていた。
「あ~、どっかに野球が上手い奴いたりしねぇかな~」
 他のクラスが行っているソフトボールの試合を眺めながら大智が呟く。
「いないから苦労してるんだろ?」
 大智の隣に腰を下ろして、同じようにグラウンドを眺めている大森がぼそりと言った。
「だよな~」
 大智はそう言うと空を仰いだ。
「あ~、次の試合まで暇だし、愛莉の様子でも見てくるかな~」
 大智はそう言うと空を眺めるのを止め、立ち上がろうとした。
 愛莉は体育館でバレーボールの試合に出ることになっている。
「ん?」
 立ち上がろうとしている大智の横で突然大森が声を漏らした。
「どうした?」
 大智はその声を聞いて大森の方に顔を向ける。
「大智、危ない!」
 大森が突然大きな声で叫んだ。
「あん?」
 大森の大声を聞いた大智は反射的に大森の視線の先に目を向けた。
 大智の視線の先には青い空をバックに白い点が大智目がけて飛んできていた。
「げっ!」
 それを目にした大智は咄嗟に向かって来ているボールから身を守る行動をとった。
 大智目がけて飛んで来ていたボールが大智の一メートルほど右横に落下する。ボールはそのまま勢い良く転がって行った。
「あっぶね~」
 転がって行くボールを見ながら大智が呟く。
「大丈夫か、大智」
「あぁ。そんなことより、誰だ、今の打球を飛ばしたのは? こんなとこまでところまで飛ばすなんて俺らでもそうできるもんじゃないぞ」
 そう語る大智の目はキラキラと輝いていた。
「あいつだよ」
 大森が一塁側にいるチームを指差す。
「どれ?」
「ほら、あの一番端。片足立てて座ってるやつ」
「なるほど……。あいつか」
 大森が示していた男は見るからに体格が良く、他の生徒とは明らかに違う雰囲気を醸し出していた。それを感じとった大智が大森を見つめる。大森も同じように大智の顔を見つめていた。
「いたな」
 大智が顔をニヤッとさせる。
「あぁ。いた」
 大森もニヤッと微笑み返した。

「おい。何の用だ」
 球技大会を終え、昇降口から教室までの道のりを一人歩いていた上田刀磨は、突然その歩みを止めると、進行方向を向いたまま、怒りを交えた声を発した。
 その声を聞いた大智が物陰から出て来る。
「すまん、すまん。別に後を付けるつもりはなかったんだ。声をかけるタイミングを伺っていただけで……」
 背中を向けたまま大智の話を聞いた上田はそこまで聞くと、大智の方に振り向いた。
「野球ならやらねぇぞ」
「まだ何も言ってないだろ?」
 大智は苦い顔を浮かべた。
「ふん。大方、ソフトの試合で俺の打球でも見て誘いに来たんだろ?」
 上田が馬鹿にしたような口調で大智に言う。
「わかっているなら話が早いな。そうだ。お前を野球部に誘いに来たんだ。あんな打球を飛ばせる奴はそうはいないからな。なぁ、一緒に野球やらないか?」
 大智は真剣な眼差して上田を見つめた。
「言ったろ。野球はやらねぇ。まぁ、正確にはできないって言った方が正しいけどな」
 上田はそう言うと、フッと自嘲的に笑っていた
「どうして?」
 大智が顔をしかめる。
「肩がぶっ壊れてんだよ。使いものにならねぇくらいにな」
「どれくらいなら投げられる?」
「塁間がやっとさ。それもひょろ球でな」
 上田は相変わらず自嘲気味に話した。
 その表情にはどこか寂しさが混ざっているようだった。
 上田の話を聞いた大智は黙り込んでいた。
「わかったらどっか行きな」
 上田が踵を返す。
 だが、大智はその場で何やらぶつぶつと呟き出していた。
「ふむ。まぁ、ファーストなら何とかなるか。この夏までには間に合わんけど、来年の夏までにならなんとか……」
「おい。何をぶつぶつ言ってやがる」
 大智の独り言を耳にした上田は再び大智の方に振り返った。
「ん? いや、お前にどこで出てもらうかをだな……」
 大智が何食わぬ顔で言う。
「おい! 何勝手に俺が入るって決めてやがる。さっきも言っただろ。俺は野球はやらねぇ。できねぇんだよ」
 上田が怒りを爆発させる。
「できるだろ?」
 大智は上田の怒りなどお構いなしに相変わらず何食わぬ顔をしていた。
「なんだと?」
 上田は眉をひそめた。
「あれだけの球を飛ばせるんだ。今のうちならバッティングだけでもお釣りがくるよ。それに守備は送球機会の少ないファーストならできないことはないだろ?」
「そんなことして何になる」
 上田が大智を睨む。
「あん?」
「将来、野球で飯を食っていけるわけでもねぇ、甲子園に出られる可能性があるわけでもねぇのに、野球なんてやって何になるんだってんだ」
 上田は訴えるように大智に言った。
「可能性があればいいのか?」
「あぁっ?」
「甲子園に出られる可能性が感じられれば野球部に入ってくれるのか?」
 先ほどまでの何食わぬかとは一転して、大智の顔には真剣みが帯びていた。
「ふん。人数が揃うかどうかもわからないこんな田舎の学校で、そんな可能性を感じられるとは思えないが……。いいぜ。それが出来たら野球部に入ってやるよ」
「言ったな。男に二言はないぞ」
 大智が顔をニッとさせる。
「あぁ、たりめぇだ。その代わり、俺が可能性を感じられないと判断した場合は二度と野球部の誘いになんか来るんじゃねぇぞ」
 上田はキッとした目つきで大智を睨んだ。
「あぁ、いいぜ。約束だ」
「よし、交渉成立だ。んで、その可能性とやらはいつ見せてくれるんだ?」
「いつでもいいぜ。何なら今からでも」
 大智が上田を見つめる。
「ふん」
 上田は軽く顎を上げて大智を見下していた。
 投球練習を終えた大智は自身が投げやすいようにマウンドの土をスパイクで削っている。
 大智が投球練習を終えたのを見て、右のバッターボックスに入った上田も自身が打ちやすくなるよう、足下の土を削っていた。
「準備はいいか?」
 足場を整え終えた大智が上田に声をかける。
「あぁ、いいぜ。いつでもこいよ」
 上田は大智に睨みを効かせながらバットを構えた。
 大智は上田の返事を聞くと、フッと一瞬だけ笑顔を浮かべ、大森とのサイン交換に入った。
 サイン交換を終えた大智が投球モーションに入る。
「いい構えだ」
 大智はそう呟きながら、一球目を投じた。
「なっ!」
 大智が投げた球を見た上田が声を漏らす。
 大智が投じた球は真っすぐ大森のミットに収まった。
 大智の球を見送った上田は目を丸くして驚き、バットを構えたそのままの状態で固まっていた。
「ストライクだぜ」
 大森は大智にボールを返球しながら、固まったままの上田に声をかけた。
「何故だ……」
 上田がぼそりと呟く。
「あん?」
「何でこんな球を投げる奴がこんな学校にいる」
 固まったままだった上田はようやく動き出し、キャッチャーボックスで屈もうとしていた大森の方に振り返って言った。
「バカだからだよ」
 大森は上田に声をかけられても動きを止めることなくそのままその場に屈み、マウンドの大智を見ながら上田の問いに答えた。
「なにっ?」
 上田が眉をひそめる。
「次、来るぜ」
 大森は上田ではなくマウンドの大智を見ながら言った。
 大森にそう言われた上田はマウンドの大智へと視線を戻した。
 大智は既に次の球を投げるモーションに入っていた。
 大智が二球目を投げる。
 上田がそのボールを打ちにいく。
 大智が投げた球は上田のバットの上を通り抜け、大森のミット届いた。
「くっ」
 振ったバットが空を切った上田は悔しそうな表情を浮かべていた。
「ただの野球好きの野球バカなんだよ」
 大森がボールを捕った状態のままで上田に言う。
「は?」
 上田は首を傾げた。
 大森は大智にボールを返球すると上田と向き合った。
「これだけの球を投げるわけだから強豪校からの誘いはもちろんあったんだ。けど、もとから強いチームに入って勝っても面白くない。負けると思われているチームが、勝って当然だと思われているチームに勝つ方が断然面白いだろって言って、強豪校からの誘いはことごとく断りやがったんだよ。あいつは」
「そいつは確かにバカだな」
 上田はフッと笑みを浮かべた。
「だろ? ま、理由はそれだけじゃないけどな」
「他にもあるのか?」
「あいつは地元が大好きなんだよ。だから今この辺りの町に活気がないのが嫌なんだと。千町に行って千町を甲子園に連れて行く。俺が町に希望を与えて、町に活気を取り戻す。昔からのあいつの口癖さ」
 話をしながらキャッチャーボックスに戻っていた大森は、話を終えるとマスク越しに上田の顔を見て一笑した。
「なるほど。ただの野球バカってわけでもなさそうだな」
 上田がマウンド上の大智に目を向けて言う。
 その顔には穏やかさが混ざっていた。
「いや。ただの野球バカだよ。マウンドにいる時はな。今のあいつはお前から空振りを取ることしか考えてねぇよ」
「そうみたいだな」
 上田はマウンドの大智を見て一瞬だけ微笑みを浮かべると、キリッとした目つきに戻って、バットを構えた。
 上田が自分に注意を向け直したことを確認した大智はゆったりとしたフォームから三球目を投げた。
(ど真ん中!)
 大智の投げた球を見た上田は心の中で叫びながら打ちにいった。
 だが、ボールはまたしても上田のバットの上を通り抜ける。
 大森のミットからは乾いた革の音が響き渡った。
 上田はバットを振り終えたままバッターボックスで固まっていた。
「チッ」
 上田が舌を鳴らして動き出す。
 バッターボックスを出た上田はバットとヘルメットを元の位置へと返し、自身の鞄が置いてある一塁側のベンチへと向かった。
「おい!」
 上田の行動を見た大智が慌てて上田の許へと駆け寄る。
「何時からだ」
 上田は駆け寄って来た大智に体の横側を向けた状態で訊いた。
「は?」
 大智は首を傾げながら訊き返した。
「明日は何時からだって訊いてんだよ」
 上田が大智の方に振り向きながら訊く。
 訊かれた大智は笑顔を浮かべていた。
「八時半からだ。遅れるなよ」
 上田は笑顔の大智からそう聞くと、フッと笑ってその場を後にした。

 翌日。
「春野くん、その人は?」
 集まっている五人の先輩を代表して小林が訊いた。
「紹介します。新入部員の……。ええっと……。そう言えば名前訊いてなかった」
 大智はそう言うと頭を掻きながら照れ笑いを浮かべていた。
 そんな大智の姿を見た五人の先輩はお笑い芸人の如くズッコケた。
「そういや、俺もお前らの名前知らねぇな」
 上田が大智に向かって言う。
「潮窓中出身の春野大智だ」
「なにっ!?」
「同じく潮窓中出身の大森哲也だ。よろしく」
「なるほど。道理であんなスピードもノビもある球を投げるわけだ」
 上田は納得した表情をいていた。
 そして、五人の先輩の方に向き直ると姿勢を正してから話し始めた。
「旭南中出身、上田刀磨です。中学時代は三番でピッチャーをしていました。今は怪我をして塁間を投げるのもやっとの状態で皆さんに迷惑をかけるかもしれませんがやるからにはチームの力になれるよう精一杯やりますので、どうかよろしくお願いします」
 上田は挨拶を終えると深々と頭を下げた。
 するとキャプテンの小林が上田の前まで出てきた。
 それを感じた上田は下げていた頭を上げた。
「ようこそ千町高校野球部へ。上田君みたいな力のある人が来てくれて俺たちも嬉しいよ。俺たちの方こそ下手くそで迷惑をかけてしまうかもしれないけど、一緒に頑張ろう」
 小林はそう言うと、上田の前に右手を差し伸べた。
「……はい」
 上田は小林の手をギュッと握り締めた。

あの日誓った約束

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