「おいおい。どこだって?」
 相手チームの北山東高校の監督が唖然とした様子で呟く。
「へ? ここは市営球場ですけど」
 隣にいるスコアラーの女子生徒がそれに答えた。
「んなことわかっとるわい。今戦っとる相手はどこだって意味じゃ」
「どこって……千町高校ですけど……」
 ストライク! バッターアウト!
 北山東のバッターが空振りの三振に倒れた。
 現在、試合は七回の裏、二アウトランナーなし。
 千町 八対0 北山東
「去年まで人数ぎりぎりじゃったのに、これはどういうことなんだ」
「さ、さぁ? 私に言われても」
「特にあのクリーンナップ。何であんなのが、千町なんてド田舎の県立校におるんなら」
「いや、だから、私に言われても……」
 ストライク、バッターアウト!
 審判の右手が上がる。最後のバッターが見逃し三振に倒れた。
 七回コールド勝ちに沸き立つ千町高校スタンド。
 皆、自然と手を取り合って喜んでいた。

「ふー。やっぱ初戦は緊張したなぁ」
 球場を出て、荷物を降ろした大智が、ほっと一息吐いて呟いた。
「こいつ、緊張って言葉の意味知ってんのかな?」
 大智を指差しながら大森が紅寧に訊く。
「多分、知らないんじゃないですかね」
 紅寧は苦笑する。
「おいおい。俺を何だと思ってんだよ。俺だって緊張くらいするぜ」
 大智は怪訝そうな表情を浮かべる。
「よく言うぜ、あんなピッチングしておいて。七回二安打完封、四球も一つだけ。ヒット二本は当たり損ないのポテンヒット。おまけに七回で三振が十五個。これのどこに緊張していた要素があるんだよ」
 大森の話を聞くと、大智は途端にキョトンとして黙ってしまった。
「ん? どうした?」大森が訊いた。
「いやー、改めて数字で聞くと、我ながら素晴らしい内容ですな」
 大智は後頭部に手を当てて、照れた様子で笑顔を見せた。
「褒めるな、褒めるな。自分で自分を」
 そう言って、大森は顔を引きつらせる。
 すると大智は途端に真面目な顔になった。
「何言ってんだ。自分が自分を褒めてやらんで誰が褒めてやるんだよ」
「それは確かに」
 紅寧はポンと一つ手を叩いた。
「おいおい、紅寧ちゃんまで……」
 大森は苦笑を浮かべた。
「真面目な話に戻すと、確かに今日はコントロールがいまいちだったよね」
 紅寧が改まった様子で、話を本題に戻した。
「そうそう。まぁ、今日の大智の球なら相手がどこでもコントロールはさほど関係なかっただろうけどな」
「ダメです。今日は相手に助けられただけ。あれだけ三振してるのに、何の策もないんですもん。上に行ったら絶対に後半に捕まりますよ。ただでさえ、ベスト八からは試合と試合の間が短くなるんですから」
「流石。厳しいね、紅寧ちゃんは」
 そう言って、大森は冷汗を垂らす。
「ま、紅寧の言う通りだわな。俺らが目指すのはあくまで甲子園出場。つまりこの大会で優勝することじゃからな。今日はちょっと雑になったところは確かにあったな」
「おかげで無駄球を投げずに済んだってのはあるけどな」
「ま、今日のピッチングは賛否両論ってことで、次に生かして行こうぜ。んでその次の相手はどうなってる? 確か今日、他球場でやってるんだよな?」
「ちょっと待ってね。ええっと……。あ、瀬川だって。スコアは……、七対四。これといった特徴は特になし。普通のチーム。普段通りやれば大丈夫。だって」
「だって? 誰か知り合いにでも観に行ってもらってたのか?」
 大智が訊く。
「うん。頼んでビデオ撮ってもらってるんだ」
「へー。そりゃ、ありがたいな」
「うん。今日、これからまとめて、明日持っていくね」
「今日、これこれからまとめて、明日? おいおい、大丈夫か? 無理するなよ」
 大智は心配そうに紅寧を見つめる。
「大丈夫、大丈夫。次の試合まで時間があると言っても、四日しかないんだから。早いに越したことはないでしょ? それに次の試合は一年生の二人が投げるんだから、準備できることはしておかないと。何が起きるかわからないし」
「それはまぁ、そうだが……」
 それでもまだ大智の心配は拭えていなかった。
「もう、大兄心配し過ぎ。本当に大丈夫だから」
 そんな大智に対して紅寧は少し語気を強めて言った。
 それを受けて、大智は表情を緩めた。
「わかったよ。ありがとうな」
「お礼なんていいよ。私は、私がチームの為にできることをやってるだけなんだから」
 それを聞いて、大智は小刻みに頷く。
「そっか。そうだよな」
 大智は紅寧に向けて微笑んで見せた。
 投球練習を終え、ふーっと息を吐く。
 二回戦に先発する一年生投手の岩田は、胸に手を当てて、自身を落ち着けるように、深呼吸をしていた。
 そこへキャッチャーの大森がやって来る。
「緊張してるのか?」
「あ、えぇ。少しだけ」
「公式戦初先発だもんな。無理もねぇわな。けど、あんまり気負うなよ。ミーティングで言ってた通り、大した打線じゃねぇんだ。お前が普段通りのピッチングさえすれば、そう簡単には打たれやしねぇよ。とにかく任された三回をしっかり抑えることだけ考えろよ」
「はい。三回、全力でねじ伏せにいきます」
「こらこら、力が入っとる。力を抜け、力を」
 大森が冷汗を垂らしながらツッコむ。
「いつも言うとるけど、お前のストレートが低めに決まれば、そう簡単には打たれんよ。んで、その為には?」
「肩の力を抜いて、しっかりと腕を振って投げること」
「そっ。わかってんじゃねぇか。左右のコースは多少甘くなってもいいから、しっかり腕振って低めに投げて来い」
 大森は岩田にそう告げ、自身のポジションへと戻って行った。

 キィーンと金属音が鳴って、白球が外野の間を抜けて行く。
 スコアボードの一回の表には4の文字が記された。
 一回の表、瀬川の攻撃。四連続四球の後、五番のタイムリー二塁打で四点が入った。
 そして、なおもノーアウト二塁のピンチ。
「監督、流石にこれ以上は……」
 紅寧が藤原に言う。
「ううむ……」
 藤原は険しい表情でグラウンドを見つめている。
「監督!」
「仕方ない、一先ず春野と交代だ。岩田はレフトで一度休ませる」
 藤原はそう言うと、伝令を遣って、レフトの大智とピッチャーの岩田の交代を告げた。
「すみません……」
 マウンドに集まった内野手と大智に、岩田は今にも泣きそうな顔で謝った。
「気にすんな。まだ一回だ。一点ずつ返していけばいい。それよりも切り替えろ。ベンチに下げないってことは、もう一度マウンドに上がる可能性があるってことだぞ」
 大森が岩田の肩をポンポンと叩いて励ます。
「えっ……。でも……」
「監督はこの試合、出来れば一年の二人に投げ抜いて欲しいんだろ。多分、二回はまたお前をマウンドに上げるぞ。だから、この回はレフトでしっかり気持ち切り替えとけよ」
「でも、また俺がマウンドに上がって、これ以上点を取られたら……」
「おいおい、そんな弱気でどうするよ。まぁ、確かにこれ以上は失点したくないけども」
「その時は俺がいる」
 大智がレフトからやって来て、微笑みながら言った。
「後ろには俺がおるし、必ず逆転してやる。だから安心しろ。この回は俺に任せて、次の回からはまた頼むぞ」
「大智さん……」
 岩田は唇を噛みしめる。
「はい。すみませんがこの回はお願いします」
 岩田は頭を下げて、大智にボールを渡した。
「おう!」
 大智は岩田からボールを受け取ると、ギュッと握り締めた。

「岩田にはあぁ言ったけど大丈夫か? 投球練習、あんましてないだろ?」
 マウンドからの解散後、大森だけが残って、大智と話をしている。
「大丈夫だよ。てか、あんだけ大見栄切っといて、やっぱりダメでしたとか格好つかねぇだろ」
「まぁな」
「こっから三人、いきなりトップギアで行くぜ」
「OK。ま、この空気も換えときたいしな。それでだ。おそらく、六番は送ってくる。こっからは打力が落ちるからな。相手としてはどうにかランナーを三塁に置いて、ラッキーでもいいからもう一点欲しいところだろ。一塁は埋めてもいいから、六番には厳しいところを攻めて行くぞ」
「わかった」
「頼むぜ、エース」
 大森は大智の胸をグラブで叩いた。

 キンッと短い金属音と共に、ボールがホーム上空に上がって行く。
 落ちて来たボールは大森のミットに収まった。
 大森はボールを大智に返すと、人差し指を立てて、一を表現し、大智に向けた。
 先頭の六番バッターを大智はバント失敗のキャッチャーフライに抑えた。瀬川の六番バッターは大智のストレートに押され、ボールをバットの上っ面に当てていた。
 続く七番も、送りバントを試みたが、二度のファールボールで追い込まれた後、空振りの三振。
 八番は大智の前になすすべなく三振を記した。
「ナイスピッチ!」
 ベンチに戻って来た大智に、皆から賛辞が送られた。
 チームメイトに囲まれる大智の許に、少し遅れて、岩田がレフトの守備から帰ってきた。
「大智さん。ありがとうございました」
「気にすんな。それより、次の回から頼むぜ」
「はい」
 岩田はそう言うと、監督である藤原の前へ立った。
「ん? どうした、岩田」
「お願いします。次の回、もう一度、マウンドに上がらせてください。必ず抑えてみせます」
 岩田は藤原に向けて、深々と頭を下げた。
「当然だ。この試合は春野を休ませるつもりだったんだ、初回で降板されちゃ、こっちが困るからな。次の回、切り替えて、しっかり頼むぞ」
「はい!」
「お前らも。一年がこんだけ責任感じてんだ。初回、一点でも援護してやれよ」
 藤原がそう告げると、ナインからは気合のこもった返事が返って来た。
 一回の裏、千町高校の攻撃。
 先頭の難波が俊足を生かし、ショートへの内野安打で出塁する。
 二番の大西は手堅く送りバントを決め、一アウト二塁で三番の大智に回って来た。
(好球必打!)
 大智が初球を叩く。
 バットの先で……。
「げっ」
 大智は思わず声を漏らした。
 打球はボテボテの当たりで、セカンドへ飛んで行く。
「ちっくしょー」
 大智は全力で一塁まで駆け抜けた。
 が、あっけなくアウトとなった。
「ナイスバント」
 ベンチに戻って来た大智にネクストの大森が声をかけた。
「やかまし」
 大智は苦い顔をする。
「春野先輩、ナイスバント」
 大智がベンチに入ると、紅寧が言った。
「お前もかい」
 大智は顔を引きつらせて、苦笑を浮かべていた。
「春野。次の回もいつでも行ける準備はしといてくれよ。この回無得点なら、すぐにまたマウンドに上がってもらうことになるかもしれんからな」
「わかりました。でもそんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
「あん?」
「四番が必ず打ってくれますから」
「そりゃ、わしもそれを願うが……」
 その時、キーンと金属音が鳴る。
 話をしていた大智と藤原は同時にグラウンドへ目を向けた。
 上田が打った打球が高々と上がる。
 打球はあっという間にレストスタンドへ吸い込まれて行った。
 ベンチ上のスタンドが沸き上がる。
「ほらね」
「あ、あぁ」
「何ですか、その反応は。まさかチームの四番を信じてなかったわけじゃないですよね?」
 大智は怪訝そうな顔を浮かべて訊いた。
「信じてたさ。勿論。ただ、まさかいきなりホームランを打ってくれるとまでは思ってなかったけどな」
「そりゃ、まぁ、確かに」
 大智は真顔に戻って言った。
「全く、頼りになる奴らだよ、お前らは」
「今年はこんな所で転ぶわけにはいきませんからね」
「……そうだな」

 上田のホームランで流れを取り戻した千町高校。
 五番の大森のヒットと六番遠藤の四球で再び二アウト一、二塁のチャンスを作ったが、続く七番の岡崎がライトフライに倒れ、一回は二点止まりとなった。
 二回の表の守りに就く前に藤原が岩田に声をかける。
「とりあえず、二点差までは追いつけた。一点取られるまでは代えんから、しっかり投げて来い。頼んだぞ」
「はい」
 岩田は大きな声で返事をすると、ダッシュでマウンドに向かった。

「お疲れさん」
 ベンチの奥で休む岩田に大智が冷やしたおしぼりを渡した。
「大智さん。ありがとうございます」
 岩田はそれを受け取って、顔を拭いた。
「よく立て直したな」
 二回、再びマウンドに登った岩田は、初回とは打って変わって、相手を抑え込み、五回まで投げ抜いた。その代わり、ペース度外視で投げていた為、疲労も早かった。五回を投げ終えた岩田はこの回で交代を告げられていた。
「えぇ、何とか。先輩たちが初回に二点返してくれたおかげです。それで少し楽になりました」
「そっか。でも悪かったな。お前が投げているうちに逆転してやれんで」
「いえ、俺は二点返してもらっただけでもありがたいです。けど、そろそろ……」
「だな。そろそろ、最低でも同点にはしておきたいよな」
「ですよね……」
「ま、後のことは俺らに任せろ。お前はよく投げてくれたよ」
「すみません、お願いします」
「任せんしゃい」
 打席に向かう準備をした大智は岩田を背に手を上げて、ベンチを出て行った。
 五回の裏、三巡目を迎えた千町打線が火を噴く。
 この回、一番から始まった千町高校の攻撃は打者一巡の猛攻を見せ、一挙五点を上げた。
 五回終了で七対四。
 六回からマウンドに上がった一年の左投手、吉川は落ち着いたピッチングを見せた。
 打たせて取るピッチングで、六回から八回をきっちり0点で抑えた。
 一方、千町高校は六回に二点、七回にも一点を加えスコアを十対四とした。
 そして九回、大智がマウンドに登る。
 瀬川側からは必死の声援が送られている。
 だが、大智はそれを物ともしない。
 大智は瀬川のバッターにかすらせることもなく、連続三振に切って取った。
「くっ……」
 岩田がベンチで声を漏らす。手には拳がギュッと握られていた。
「悔しい?」
 紅寧が岩田に訊いた。
 岩田は「うん」と頷いた。
「だったらよし」
「は?」
「その悔しさがあれば、岩田君はもっと成長できるよ」
「そうだな。あいつらだって、去年の敗戦があったからここまで成長できたんだ。岩田、敗戦から学ぶことは多いぞ」
 藤原が二人の会話に入って来て言った。
「はい」
 岩田は噛みしめるように返事をした。
 一方グラウンドでは大智が最後のバッターも三振に切って取っていた。
 試合終了。十対四。
 千町高校は三回戦へと駒を進めた。
『千町高校 二十年ぶりのベスト八 二年生エース春野 シード校相手に三安打完封』
 地元新聞のスポーツ欄。他校の結果よりもひと際大きい文字でそう記されている。
 紅寧はその記事を切り取ると、ノートに張り付けた。
「よし!」
 紅寧は記事をノートに張り付けると、満足そうに微笑みを浮かべた。
「おーい、紅寧。今日の新聞知らんか?」
 部屋の外で声がする。
 父親が新聞を探しに来た。
 紅寧は記事を切り取った新聞を慌ててたたみ、鞄を持ってドアへと向かった。
「はい、これ」
 紅寧は部屋を出ると、すぐに新聞を父親に手渡した。
「おぉ、ありがとう。これから部活か?」
「うん」
「どうした? 随分、ご機嫌だな」
「まぁね」
 紅寧は笑顔で言った。
「あ、もう時間だから行くね。行ってきます」
 紅寧はそう言うと、足早にその場を去って行く。
「おう、行ってらっしゃい」
 父親は駆けて行く紅寧の背中に向けて言った。

 紅寧を見送った父親はリビングへ向かった。
 ダイニングチェアに腰を下ろす。
 キッチンでは母親がコーヒーを入れていた。
「さてさて、昨日の結果はと……」
 父親は新聞を捲って、スポーツ欄を開いた。
「あれ?」
「どうかしました?」
 キッチンから母親が訊いた。
「ここの記事知らない?」
 父親は新聞の切り取られた部分を指して訊いた。
「さぁ?」
 母親は首を傾げる。
「紅寧じゃありませんか?」
「なるほど、それで慌てた様子で出て行ったのか。たくっ。切り取るならせめて夕方にしろよ」
「まぁ、まぁ。相当嬉しかったんでしょ。昨日、帰って来てからも随分とご機嫌な様子でしたし」
 母親は入れたコーヒーを夫の前に置いて、対面に腰を下ろした。
「勝ったそうだな、千町」
「えぇ、大智君がシード校相手に完封したんですって」
「おぉ、そうか。やるなぁ、大智君。剣都も順調に勝ち進んどることじゃし、今年は決勝で二人の対決が見られるかもしれんなぁ」
「そうだといいですね」
 母親は微笑む。
「しかし、まぁ、なんだ。紅寧から千町へ行くって聞いた時、最初は反対したけど、今のあの子を見ていると、行かせて良かったかもなと思うよ。あんなに夢中になって頑張っているんだからな」
 父親が微笑んで言う。
「私は少し頑張り過ぎてやしないかって、心配になりますけど」
「まぁな。けど今は静かに見守ってやろうじゃないか。あの子が自分の意思で頑張っているんだ。親の出る幕じゃない」
「そうですね」
 静かなダイニングで二人はコーヒーを口に運んだ。


 三回戦の翌日。
 千町ナインは次の対戦校のビデオを見る為に集まっていた。
 部員の前で紅寧が話し始める。
「皆さん知っての通り、準々決勝の相手は谷山高校です」
「へ?」
 大智が声を上げる。
「え、どこ、それ。城南じゃねぇの?」
 大智は隣にいる大森に訊いた。
「あぁ。そういえば大智は取材でおらんかったもんな。負けたんだよ、城南は」
「え、マジで?」
「あぁ、マジだ」
「どうして?」
「知らん。それをこれから観るんだよ」
「あぁ、なるほど」
 大智は手を叩いて納得の表情を浮かべた。
「春野先輩、そろそろいいですか?」
 紅寧が訊く。
 僅かに顔を引きつらせていた。
「あ、はい。すみません」
 大智は謝罪を述べると、少しだけ体を小さく縮めた。
「では、谷山高校について、簡単に説明します。谷山高校はうちと同じ、郊外の公立高校です。これまたうちと同じく、かねてより人数不足に悩まされてましたが、昨年、地元の有力選手がこぞって谷山に入学。それが今の二年生です。そして、谷山のチームスタイルですが……」
 そこまで言って、紅寧は言葉を詰まらせた。
「どうした?」
 監督の藤原が訊く。
「とりあえず、ビデオを見てもらってもいいですか?」
「そりゃ構わんが」
「ではすみませんが、先にビデオを見てください」
 そう言って紅寧はビデオを流した。

「ふむ……」
 ビデオが終わると、藤原はそう声を漏らし、口を噤んでいた。
 難しい顔をして、何やら考え込んでいる。
「春野どう思う?」
 黙り込んでいた藤原が口を開いて訊いた。
「全員が徹底的にセンター返しのバッティング。実に基本に忠実ですね。異様なほどに……」
「大森は?」
「確かにバッティングの基本はセンター返しですが……。ランナーがいてもいなくてもそのスタイルを変えないっていうのは大智が言うように明らかに異様ですね」
「そうだな。バッティングの基本はセンター返しで間違いないが、ランナーがいれば話は別。ランナーが一塁にいれば、ゲッツーを避ける為に普通はセンター返しを避けるところだが、谷山はそれすらしようとしていない、寧ろ、常にセンター返しを狙っている感じだったな」
「ピッチャーでしょ?」
 大智が声を上げる。
 全員が大智に注視した。
「信じ難い話ですが、多分、谷山の選手は意図してピッチャーを狙って打っている。それで、城南のピッチャーはリズムを崩して、自滅したんだ」
 千町ナインが見た谷山対城南の三回戦は、城南のエースがリズムを崩したとによる大量失点で勝敗が決していた。
「あれだけ鋭い当たりが頻繁に飛んで来たら、ピッチャーは嫌でも印象に残るからな。早く打球処理に移ろうとして、リズムを崩すのも無理ないかもな」
 大智が話し終えると、続けて紅寧が谷山についての補足を入れた。
「そう。谷山はこれまでの試合全て、相手のピッチャーの自滅で勝ち上がって来ています。これは明らかに意図したもの。インタビューなどでは、基本を大事に、センター返しを心がけていると答えていますが、実は逆。実際は、セオリーを無視した、ピッチャーを徹底攻撃するスタイル。おそらく、うちとの試合も徹底的にピッチャーを潰しにかかって来るでしょう……」
「大智……」
 大森は心配そうな目を大智に向けた。
「打たせなきゃいいんだろ?」
 対照的に大智はあっけらかんとしていた。
「いや、そう簡単に言うけどだな……」
「大丈夫、何とかなる。一から三番以外は……な」
 大智はそう言うと、目を真剣な眼差しに変えた。
「ちゃんとわかってたんだな」
 大森が言う。
「あぁ。一番白神、二番大月、三番景山。こいつらは段違いにスイングが早ぇ。特に、一番の白神。あいつは要注意だ」

 その谷山高校では。
「どうだ、次の相手」
 部屋で一人、千町高校の試合のビデオを見ていた白神の許に大月が来て訊いた。
「いいぜ、最高だ。特にこのピッチャー、いい顔してる」
 白神はそう言うと、ふっと笑った。
「珍しいな、お前がそこまで言うなんて。そんなにいいピッチャーなのか?」
「あぁ、特に目がな。子供みたいに目をキラキラさせながら投げてやがる」
「ほー」
 大月が相槌を入れる。
「ほんと、最高だよ。最高に虫唾が走る」
 そう言って白神は、体をぶるぶると震わせていた。
「如何にもお前が嫌いそうなピッチャーだな。けど、こいつは今までみたいにはいかないんじゃないか? 俺らならともかく、他の連中は当てるのも苦労しそうだぞ」
「まぁな。つうわけで、バントの練習させといてくれ。ピッチャーに捕らせるやつを徹底的にな」
「あぁ、わかった」
 大月はそう返事をすると部屋を出ていった。
 白神は再びビデオに視線を戻した。画面には大智の姿があった。
「待ってな。そのキラキラした目、俺が絶望に変えてやるよ」
 白神はそう言うと、「くっくっく」と不敵に笑い始めた。
 真っ青に晴れた夏空の下、大歓声に包まれて、千町高校と谷山高校による準々決勝が始まった。
 両校とも歴史的快挙を続けていることもあり、スタンドには多くの人が応援に駆けつけている。
 先攻、谷山の一番白神が打席に入り、プレイボールがかかった。
 大智が初球を投じる。
 パンッと気持ちの良い音をさせて、大森のミットに収まった。
「ストライク」
 この試合一発目とあって、球審は気持ちのこもった声を響かせた。
「ほう……」
 大智の球を見送った白神がぼそりと呟く。
 二球目。
 大智のストレートを白神が打ちにいく。ボールはバットを掠め、バックネットへと飛んで行った。
「……なるほど。こりゃあ、なかなかめんどくせぇな」
 白神が大智を睨みながら呟く。
 一球外してからの、四球目。三振狙いの変化球。
 白神はその球をカットする。そして次も、次も、その次も。
 白神はボール球には手を出さず、ストライクゾーンを掠める球はことごとくカットしていった。
「にゃろう……」
 マウンドで大智が苛立たしそうに呟く。
 そして、カウント三ボール二ストライクからの十一球目。
 大智はギアを一つ上げ、力を込めたストレートを投げ込んだ。
「なっ!」
 大智の球を見た白神が声を漏らす。
 大智の投げた渾身のストレートに白神の反応が遅れる。
 白神は大智の球に対して、バットを出せなかった。
「ストライク! バッターアウト」
 白神は潔くバッターボックスからベンチへ帰っていった。
 白神と二番の大月がすれ違う。
 大月が、どうだった、と訊いた。
「どうやら初回は抑え気味でいくつもりらしい。が、それでもその辺のピッチャーとは段違いだ。打てないことはないが、早めに疲れさす必要があるな」
 白神がそう告げると、大月は、了解、と言って打席に向かった。
 二番の大月、三番の景山は白神と同様、フルカウントになるまでファールで粘った。
 最終的には大智が渾身の力を込めたストレートでどちらも三振に切って取ったが、結果、大智は初回だけで三十球近くを投げさせられることとなった。

「わかってはいたけど、嫌なことやりやがるな」
 ベンチに帰って来て、大智が大森に言った。
「あぁ。あからさまにファール狙いで来とるけど、ちゃんと振っとるから何も言えん。プレースタイルは気に入らんけど、やつら、練習は相当して来とるぞ」
「だな。初回の三人のスイングは本物だ」
「この試合、相当ハードになるぞ。大丈夫か?」
「たりめぇだろ。何の為に一年間みっちり走って来たと思ってんだよ」
「そうだったな。けど、気をつけろよ。相手の本当の狙いはお前を潰すことだ。後半、球威が落ちてきたら狙ってくるぞ」
 大森がそう言うと、大智は、あぁ、とだけ答えて、打席に向かう準備をした。

 一回の裏、千町高校の攻撃。
 相手、谷山のピッチャーは山上。右のサイドスローで、外角低め一点勝負のピッチングスタイル。外角低めへストレートと横と下へ逃げて行く変化球を投げ込んで来る。コントロールミスがなければ、大怪我や連打は難しい。それに加え山上の場合、スピードはそこまでないが、腕の振りが変わらない。その上、球のスピードもほとんど変わらないので、かなり打ちづらい。むやみやたらと力を込めて三振を狙ってもこないので、ボール球も少ない。攻撃側からしたら、かなり厄介な相手だ。
 この日も山上のピッチングが冴えわたり、千町高校の前に立ちはだかる。
 初回の千町の攻撃。
 一番の難波が二球、二番大西を三球で内野ゴロに打ち取られ、あっという間にニアウト。
 そして三番の大智も、四球目のスライダーでライトフライに打ち取られてしまった。
 合計九球。
 両校の攻撃は対照的な形で初回を終えた。

 二回の表、谷山の攻撃は四番から。
 一から三番にチームの強打者を並べている谷山はここから実力が少し落ちる。
 初球、谷山の四番はバントの構えを見せた。
 それを見て、大智は素早くマウンドから降りて、チャージをかけた。
 が、バッターはバットを引いてボールを見送った。
 その後、四番バッターはニストライクに追い込まれるまでバントの構えを見せるだけ見せて、バントはしなかった。
 そして、二ストライクに追い込また後、ピッチャー正面より少し左寄りに、綺麗にバントを決めた。
 大智はそれを難なく処理した。
 そしてそれは四番に限ったことではなかった。
 五番も、六番も、二ストライクに追い込まれるまで、バントの構えを見せるだけ見せて、バットを引いた。
 谷山のバッターは二ストライクからスリーバント失敗を恐れるどころか、ものの見事に大智に捕らせるようなバントを決めて来た。
 所謂、バント攻撃。
「無理せずサードに任せてもいいんだぞ」
 ベンチに帰って来て大森が言った。
「そりゃ無理だ。体が勝手に反応しちまう」
 日頃の練習で反復して身に付けた癖はそう簡単に抑えられるものではない。
 真剣になっていれば尚更。考えるよりも先に動いてしまっている。
「そりゃまぁ、そうか……」
「そういう事。相手の思うつぼかもしれんけど、変に相手に合わせようとしたら、それこそ調子崩しちまう。相手がどんな手を使ってこようと、正面からぶつかっていけばいいんだよ」
「そうだな、悪かった。じゃあ、いつも通り、伸び伸び投げてこい」
「おう」
 大智と大森はグータッチを交わした。
 試合は四回の表まで進み、依然、0対0のまま。
 谷山の攻撃。打者は先頭に帰って、一番の白神から始まる。
 初球、白神はこれまでのバッターと同様、バントの構えからバットを引いてボールを見送った。
 白神はマウンドからダッシュで降りてくる大智を見ると、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
(にゃろう、お前もかよ……)
 大智はマウンドに戻りながら、心の内で呟いていた。
 だが、そうではなかった。
 白神は二ストライクに追い込まれると、バントをしにはいかず、一打席目同様、ファールで粘った。
「またかよ……」
 大智は投げる球を立て続けにファールにされ、少し苛立ち始めていた。
 空は夏のカンカン照り。太陽の熱が惜しみなく注がれた黒土のグラウンドはまさに灼熱地獄。上からも下からも熱が押し寄せてくる、蒸し風呂状態になっている。
 当然ながら、大智の額からは大量の汗が流れ出ていた。
「これで三振しやがれ!」
 大智が渾身のストレートを投げ込む。
 だが、白神は初回とは違い、その球をいとも簡単にフォールにした。
「なっ……」
 大智は呆然とする。
 そんな大智を見て、白神はにんまりと笑っていた。
「くそっ」
 大智がストレートを投げ込む。
 しかし、余計な力が入り、ボールはストライクゾーンから大きく外れる。
「フォアボール」
 余計な力が入るようになってしまった大智は白神を四球で一塁に歩かせてしまった。
「タ、タイム」
 大森がタイムをかけてマウンドに向かう。
「力入り過ぎだ」
「わりぃ。つい、ムキになっちまった」
 大智が悔しそうに謝る。
「ま、歩かせちまったもんはしょうがねぇ、切り替えろ。それより、次だ。この試合初めてランナー、しかも、それがあの白神だ、何を仕掛けて来るかわからねぇぞ」
「あぁ」
 大智と大森は横目で一塁ランナーの白神をこっそり見る。
 白神はマウンドにいる二人を見下すように見ていた。
「中盤に入ってくるし、無警戒ってわけにはいかんけど、あんまり気にし過ぎるなよ」
「わかってるよ。走って来たら任せるぞ」
 大森は大智からそう言われると、おう、と返事を返して自身のポジションへと戻って行った。
 谷山の二番、大月が打席に立つ。
 バッターボックスに入った大月はバントの構えを見せている。
 大智がセットポジションに入る。
 一塁ランナーの白神がリードを取った。
 それほど大きくない、寧ろ小さいくらい。
 大智は白神の様子を伺いながら、大月へ初球を投じた。
 白神が動く気配はなかった。
 相手の様子を警戒したバッテリーは初球を外に外した。
 ボール球と判断した大月はバットを引いて、ボールを見送った。
 二球目、大月はストライクゾーンに来た球をバントに行くが、バットの上っ面に当てた。
 ボールが後ろに飛んで行く。ファールボール。
 三球目。
 大智が投げた瞬間、大月はバントの構えからバットを引いて、打つ構えに入った。
(バスター!)
 バントで来るものだとばかり思っていた大智はバント処理に向かおうとしていた。
 大月の動きを見た大智はハッとし、慌てて足を止めようとした。
 ――次の瞬間。
 金属音が鳴り響き、鋭い打球が大智目がけて飛んで行く。
 大智はボールに当たらないようにと必死に体をのけ反らせると、そのまま後ろに倒れてしまった。
 ボールは大智が反射的に出したグラブを弾いて、大智の横を転々としている。
 ショートが大智の弾いたボールを拾いに来る。
 しかし、その後はどこにも投げられない。
 一、二塁ともセーフ。
 プレーが一段落すると、大森は慌てて大智の許へと駆け寄った。
「大丈夫か、大智!」
 大森が問いかけると、大智は、大丈夫、大丈夫、と言って地面から立ち上がった。
「怪我は?」
「ねぇよ。当たったのはグローブだ」
「そうか……。ならよかった」
 大森は安堵の表情を見せた。
 大智がマウンドに戻り、ノーアウトランナー一、二塁から試合が再開する。
 三番の景山への初球……。
 またしても痛烈な打球が大智を襲う。
 大智はまた何とかボールにグラブを当てた。大智のグラブを弾いたボールは、運良く大智のすぐ側に落ちた。
 大智はすぐにそれを拾って、サードへと投げた。
 大智からの送球をサードの岡崎が受けて、一アウト。続けて岡崎は二塁へとボールを送った。二塁もアウトで、二アウト。
 二塁でボールを受けた大西は更にボールを一塁へと送った。
 ファーストの上田がボールを捕る。
 そのすぐ後に、景山が一塁ベースを踏んだ。
「アウト!」
 一塁塁審が右手を掲げる。
 千町高校サイドが大盛り上がりを見せる。
 四回の表、ノーアウト一、二塁のピンチを見事トリプルプレーで凌いだ。
 微かに不穏な足音を残して……。
 四回の裏、千町の攻撃。
 この回先頭の大智が打席に立つ。
 谷山バッテリーの攻め方は、変わらず外角低めオンリー。
 厳しいコース攻めに、大智はカウント、二ボール二ストライクと追い込まれていた。
(相変わらず、外角一辺倒……か)
 ここまで相手バッテリーの攻め方はストライクゾーンの出し入れ、緩急の織り交ぜはあるが、コースは外角低めの一辺倒。
 それはビデオで見た先の試合も同じだった。
 コースがわかっていれば、何とかくらいついていける。
 表の守備でついた勢いのまま先取点が欲しいところ。
 大智はバットを少しだけ短く持ち、僅かに右足を後ろに引いて、左足を踏み込めるようにして、次の球を待った。
 そんな大智の動きに、白神はマスクの下で、ふっと口元を笑わせていた。
 山上が右のサイドからボールを投じる。
 次の瞬間。
(なっ!)
 山上が投げたボールが大智には自分目がけて飛んで来ているように見えた。
 そう見えた大智は慌てて体をのけ反らせる。
 そして、そのまま後ろに倒れ込んだ。
 判定はボール。
「っぶねぇ!」
「おいおい、何驚いてやがる。てめぇが踏み込んで来なけりゃ、ただの内角高めのボール球だぜ」
 白神はそう言いながら大智を見て、キャッチャーマスクの向こうでほくそ笑んでいた。
「だと、この野郎……」
 大智が白神を睨みながら呟く。
 しかし、白神の言う事は確かに正論であった。
 自分が踏み込んでいなければ、そこまで驚く球ではなかっただろう。
 大智は、それ以上は何も言い返さず、ただグッと唇を噛みしめて白神を睨んでいた。
(……ん? ちょっと待てよ)
 大智がハッとあることに気が付く。
 白神のあの顔、明らかに今のは狙っていたに違いない。
 ということは、あのピッチャーはこのタイミングで正確にあのコースに投げて来たってことか?
 ならばかなり厄介だ。
 いつまた今のコースにボールが来るかわからないとなれば安易に踏み込んでいくことは出来ない。
 今までの球がより厄介になってくる。
 これは、かなり……まずい。
 今の内角高めの一球に大智はかなり切羽詰まっていた。
 セオリー通りなら、次は外の変化球で三振を狙ってくるだろう。
 しかし、白神のことだ。
 もう一球内角を攻めて来るかもしれない。
 打席に立つ大智には余裕がなくなっていた。
 そんな大智の不安を嘲笑うかのように、谷山バッテリーが次に投じた球は明らかにボール球だとわかる外の球だった。
「何……?」
 ボールを見送った大智はキョトンとしていた。
 ピッチャーの山上が投じた球は手が滑って抜けた球というわけではなかった。
 山上は明らかにストライクゾーンを避けるようにボールを投じていた。
 それは白神の表情で確信することになる。
 ボールを受けた白神は、大智が自分を見ていることに気が付くと、口元をにっと笑わせていた。
(何を考えてやがる……)
 大智は不信感を抱きながら、フォアボールで一塁へと向かった。
 谷山バッテリーは四番の上田にもフォアボールを与えた。
 ただし、谷山バッテリーは上田に対してボールを投じる前に毎回、一度か二度、タイミングを変えながら、一塁へとけん制を入れた。
 どうやら大智の体力を徹底的に削るつもりらしい。
 上田がフォアボールで出塁したことにより、千町はノーアウト、一、二塁のチャンスを得た。
 表の守備でトリプルプレーを取って盛り上がりを見せていた千町高校はこのチャンスで更なる盛り上がりを見せていた。
 一方、谷山サイドは、スタンドからはため息が漏れていたが、連続フォアボールを与えてしまったにもかかわらず、バッテリーも守備陣も至って落ち着いた様子を見せていた。
 五番の大森が打席に立つ。
 谷山の攻め方は相変わらず、外角のストライクからボールへ逃げて行く球。
 だが、大智に投げた内角の一球がかなりの効果を与えていた。
 大森は外の球を捉えきれず、二ストライクを追い込まれた。
 最終的に大森は、外の落ちる球に合わせるようにバットを出して、ショートゴロを放った。
 ショートは捕ったボールを二塁へと送り、ボールを受けたセカンドは一塁へとボールを送った。
 六ー四ー三のダブルプレー。
 一塁を駆け抜けた大森は悔しそうな表情を見せていた。
 これで二アウト三塁。
 二アウトだが、三塁にランナーがいる為、ミスが出れば一点を取れるチャンスは残っている。
 だが、谷山はそれを許さなかった。
 谷山バッテリーは六番の遠藤をサードフライに打ち取って、四回の裏の千町高校の攻撃を終わらせた。
 キーンと金属音が響いて打球が右中間に飛んで行く。
 打った大智は一塁を回り、二塁へと滑り込んだ。
 五回と六回の表を三者凡退で終え、迎えた六回の裏。
 二アウトランナーなしでバッターボックスに立った大智は右中間への二塁打を放った。
 二アウト、ランナー二塁。
 四番の上田。
 千町スタンドからは、何とか先制の一打を、とエールが送られるが、上田は敬遠で一塁へと歩かされてしまった。
 二アウト、ランナー一、二塁。
 五番の大森が打席に向かう。
 前の打席にチャンスでダブルプレーとなってしまった責任もあってか、この打席の大森はかなりの集中力を発揮している。
 キンッと鋭い金属音が鳴り、痛烈な打球が三遊間を破って行く。
 二塁ランナーの大智が三塁を回る。
 が、そこでストップ。
 打球が速く、レフトの打球処理も早かった為、ホームには帰れないと三塁コーチャーが判断し、大智を止めた。
 これで二アウトながら満塁のチャンス。
 バッターボックスには六番の遠藤。
 前の打席に続いて、二度目のチャンスの場面に遠藤のスイングには力が入っていた。
 表情も少し硬い。
 遠藤の放った打球は大きく跳ねて、ショートの前へ転がって行く。
 ショートの大月が思いっきり前へチャージをかける。
 遠藤も懸命に一塁へと走った。
 大月がボールをショートバウンドで処理し、素早く一塁へと送球する。
 遠藤は飛び込むように一塁ベースにヘッドスライディングをした。
 タイミングはほぼ同時。
「セーフ!」
 一塁塁審が両手を水平に広げる。
 次の瞬間、千町高校サイドから大歓声が上がった。
「ホームだ!」
 キャッチャーの白神が歓声を蹴散らすように叫ぶ。
 二塁ランナーの上田が今のプレーの間に、三塁を回ってホームへと向かっていた。
 それに気が付いたファーストは、急いでホームの白神へとボールを送った。
 上田がホームへ滑る込む。
 ファーストからのボールを受けた白神が滑り込む上田の足にタッチに行く。
 傍から見たタイミングは……アウト。
「アウト!」
 球審の手が上がる。右手の拳。
 上田は悔しそうに地面を叩いた。

 六回の裏に最後までランナーにいた大智は、ほとんど休む間もなく、水分補給だけして、マウンドに向かった。
 惜しみなく注がれ続ける太陽の光。
 熱を吸収した黒土のグラウンド。
 試合は……終盤。
 休む間もなくマウンドに向かった大智は、これまでに比べて明らかに疲労の色が見て取れた。
「ここだな」
 投球練習をする大智を見て、白神が呟く。
 目元をキッときつくさせている。
 勝負所と睨んでいる目。
 七回の表、谷山の攻撃は一番の白神から始まる。
 白神が打席に立つ。
 これまでのような余裕のある表情ではない。
 真剣そのもの。
 虎視眈々と獲物を狙う獣のような目つきをしている。
 その初球。
 白神が大智のストレートを捉える。
 会心の当たり。
 痛烈なライナーがピッチャーの大智に向かって飛んで行く。
 大智は慌ててボールから体を逃がせようとする。
 が、何せ打球が速い。避けられない。
 シュッと白神の打球が大智の顔の横を通って、抜けて行く。
 大智はボールを避けようとした勢いでその場に転げた。
「大智!」
 大森が叫ぶ。
 大智はすぐに手を上げて、無事だと大森に示した。
 大智が無事なことが確認出来た大森は、ホッと肩を撫で下ろしていた。
 ノーアウト、ランナー一塁。
 ここから大智のピッチングが狂い始める。
 大智は二、三番に対し、一球もストライクを取れずに連続の四球を与えた。
 コントロールの良い大智にしては珍しいこと。
 大智の異変を感じ取った大森は、すぐにマウンドへ向かった。
「大丈夫か、大智。フォーム、少し乱れてるぞ」
「えっ……?」
 大智が驚いたように返事を返す。
「左手、全然使えてなかったぞ」
 大智はピッチャー返しを気にしてか、投げる際の左手の引きが甘くなっていた。
「あ、あぁ、そうか。それでか……」
「ピッチャーライナー、気にしてるのか?」
 大森の質問に大智は、いや、と言いながら首を横に振って否定した。
「じゃあ、無意識か……。まずいな……」
「大丈夫だよ。わかればすぐに修正できる」
「バカやろ、そんな簡単にいくか。いいか、今まで無意識で出来ていたことが意識しないと出来なくなったんだ。それだけで神経を使うし、無駄な体力も使う。何より、今まで絶妙なバランスで投げていたフォームがどこかを意識することで崩れてしまう可能性だってなくはないんだからな。とにかく、一回気持ちを落ち着けて、これまで何千何万回やってきた自分のフォームを思い出せ。変にどこかを意識して力むなよ」
 大智は大森のアドバイスに、わかった、と首を縦に動かして返事を返した。
 ノーアウト満塁で試合が再開する。
 バッターは四番から。
 とはいえ、谷山の場合は前の三人に比べてレベルが落ちる。
 大森からフォームの指摘を受けての初球。
 塁が全部埋まった為、大智はしっかりと足を上げていた。
 ゆったりとしたフォーム。
 大智が初球を投じる。
 勢いのある球が大森のミットに吸い込まれるように収また。
 球審のストライクコールが久々に響き渡る。
「チッ……」
 今の大智の投球に、白神は三塁で舌打ちをしていた。
 悔しそうな表情。
 この球でリズムを取り戻した大智は、四、五番を連続三振に切って取った。
 調子を取り戻した大智の顔に生き生きとした表情が戻っていた。
 そんな大智の様子に白神はギリッと歯を鳴らす。
 白神はベンチに向かって、何やら指示を出し始めた。
 それを受けて、谷山のベンチが慌ただしく動く。
 ネクストにいた六番バッターがバッターボックスに向かわず、ベンチに下がった。
 代わりに背番号十六番をつけた選手が出て来た。
 代打、背番号十六、星田がアナウンスされた。
 グラウンドに出て来た星田が軽く素振りをする。
 スイングは悪くない。が、恐怖を感じるほどではない。
 星田への初球は外角低めのストレート。
 星田は見逃す。
 判定はストライク。
 二球目もストレート。
 星田が打ちに来る。
 だが、タイミングが遅い。
 空振り。
 チャンスで出てきた星田だったが、あっという間に追い込まれた。
 大智のストレートに全く付いていけていない。
 三球目、大森は念のため、星田からストレートの意識を逸らす為に、外へボールになる変化球を要求した。
 振ってくれれば儲けものだ。
 大智は要求通り、外角低めのボールになる変化球を投げ込んだ。
 その球に星田は体が前傾になったが、バットは振らなかった。
 それを見て大森は、よし、と思った。
 四球目、大森はストレートのサインを出した。
 大智は自信に満ちた顔で頷く。
 大森は外角低めへドンとミットを構えた。
 その時だった。
 三塁ランナーの白神はどういうわけか、口元をニッと笑わせ、不敵な笑みを浮かべていた。
 そんなことを知る由もない大智は星田に対してストレートを投じた。
 次の瞬間。
 大智は、気が付いた時には既に体のバランスを崩していた。
 世界がスローモーションになる。頭は真っ白。
 そのまま何も出来ず、大智はその場に倒れた。
 意識が鮮明になると左足に激痛が走った。
 大智の足に当たって弾かれたボールは、キャッチャーの前へと転がっていた。
 大森が素早く処理して、一塁へと送る。
 アウト。スリーアウト、チェンジ。
 しかし、足にボールが直撃した大智は、足を押さえたまま動けないでいた。
 空から降り注がれる光が、オレンジがかった色に変わっていた。
 大智は病室のベッドの上から、じっと窓の外を見つめていた。
 左足の骨折。全治三か月。元の状態に戻れるまでには、そこから更に一か月は必要だと言われた。
 この夏はもう投げられない。
 それどころか、秋大にも間に合わない。
 くそっ、くそっ、くそっ!
 大智は歯を食いしばり、自身の太ももを殴りつけた。
 コン、コンとドアを叩く音がする。
 その音で大智はハッと冷静さを取り戻し、すぐに、はい、と返事をした。
 ドアが開き、愛莉が部屋に入って来た。
 浮かない顔を浮かべている。
「愛莉……」
 大智は呟くように愛莉の名を呼んだ。
「試合……終わったよ」
 それを耳にした瞬間、大智は心臓がドキッと大きく一度鼓動するのを感じた。それを合図に心臓がドクドクとはっきりとした鼓動を打ようになった。
 大智は恐る恐るといった様子を浮かべ、愛莉に訊いた。
「どう……なった」
 愛莉は黙り込む。
 その様子を見て大智は、これから愛莉の口から告げられるであろうことを受け入れる心の準備をした。
「ダメ……だった」
「……そうか」
 大智は再び窓の外に目を向けた。
 愛莉の様子から予想はしていたが、実際にその言葉を聞くと、思った以上に落胆が大きかった。
「負けた……か」
 愛莉は、うん、と静かに頷いた。
「大智が運ばれた後、八回の表は十番の子が投げたんだけど……」
 十番……岩田か。
「逆転されちゃった。先頭打者をフォアボールで出して、そこからガタガタっと。スタンドから見ていても緊張しているのがわかったし、相当責任を感じているんじゃないかな。試合が終わった後、一人では歩けないくらい泣いてたし」
「そうか……」
 きっと相当なプレッシャーがかかっていたはずだ。
 ベンチから見ていて、相手がピッチャーを狙っているのもわかっていただろう。
 そのプレッシャーもあったに違いない。
 しっかりケアしてやらないとな、と大智は岩田を思い浮かべながらふと考えていた。
「足……どうだった?」
 翌日の手術までの応急処置が施された大智の左足を見ながら愛莉が訊いた。
「全治三か月だと。んで、今までみたいに動けるようになるには、そっから更に一か月かかるらしい」
 愛莉は一瞬目を見開いて驚いた様子を浮かべたが、すぐに、そっか、と言って俯いた。
 ある程度予想はしていたのかもしれない。
「当然、秋大には間に合わない。実質、俺の今シーズンは終了ってわけだな」
 大智は自虐的に、ははっ、とから笑いを浮かべた。
 悔しさを紛らわすように。
「大智……」
 愛莉は悲しそうな目で大智を見つめる。
「剣都との対決も来年の夏までお預け……か。しかも四か月のブランク付きだ。なかなか厳しいな」
 大智は、ふっ、と息を吐くように苦笑した。
「大丈夫。大智なら埋められる」
 愛莉が大智をまっすぐ見つめながら言った。
「おいおい、相手は剣都だぞ。口で言う程簡単じゃねぇよ」
「大智ならできる」
「いや、だから……」
「できる!」
 愛莉は大智から目を逸らさない。
 ずっと真っすぐ大智を見つめている。
 そんな愛莉の真っすぐな目に大智は、ふーっ、と息を吐いて、肩の力を抜いた。
「不思議だな」
「何が?」
「愛莉に、できる、って言われたら、何かできそうな気がしてくるよ」
 大智がそう告げると、愛莉はふっと微笑みを浮かべた。
「約束、叶えてくれるんでしょ?」
「あぁ、勿論」
「じゃあ、弱気になってる暇なんてないぞ。今の間にも剣都はどんどん成長していってるんだから。大智も入院している間にできること考えないと。時間も剣都も待ってはくれないぞ」
「だな。うしっ!」
 大智は自身の顔をパチッと叩いた。
「あ、でも絶対に無茶は禁止だからね」
「あん?」
「あん? じゃない! もし、疲労骨折でもしたら、それこそ来年の夏も出られなくなっちゃうでしょ」
「あぁ、そりゃま、確かに」
「無茶する気満々だったでしょ」
「そりゃ、剣都との穴を埋めようと思ったら多少の無理はしないとな」
「多少で済めばいいけどね。大智、放っといたら壊れるまで無茶するんだから」
「そこまで俺もバカじゃねぇよ」
「どうだか……。まぁ、今は紅寧が近くで見てくれてるからそこまで心配はしてないけど」
「そうそう、だから心配すんな」
 大智は少しだけ口角を上げて、微笑んだ。
「待ってろ。来年の夏は絶対に、俺と剣都で最高に熱い戦いを見せてやるから」
 大智がそう言うと、愛莉は優しく微笑み、うん、とゆっくりと一度、頷いた。