「入ったー! 打球はバックスクリーンへ一直線! 場内総立ち! 港東高校サヨナラツーランホームラン! 決めたのは、そうこの人。昨夏、一年生ながら初打席初ホームランという華々しいデビューを飾り、一躍スターに躍り出た、黒田剣都。四番に座り、チームの主砲となって帰って来た選抜の舞台でも見事その仕事をやってのけました」
剣都のサヨナラホームランに興奮する実況のアナウンサー。
競った試合に会場からは温かい拍手が送られている。
舞台は、まだ肌寒さが残る中、盛り上がりを見せる春の甲子園。
ではなく……。
新年度を前に賑わう、春のテーマパークでございます。
「きゃあ~」
急降下するジェットコースターで紅寧が叫ぶ。
その顔には笑顔が浮かんでいる。
「いぃ~」
一方、紅寧の隣に座っている大智は眼球が飛び出しそうなほど目を見開いていた。
「ふぅ~」
楽しむ紅寧。
「あぁ~」
うな垂れる大智。
「やっほ~」
紅寧はジェットコースターを心から楽しんでいる。
反対に大智は……。
チーン……。
魂が抜けた後の抜け殻のようになっていた。
ジェットコースターから降りた二人は、次のアトラクションに向かわず、近くで休憩できそうな場所を探し、腰を下ろした。
「だ、大丈夫? 大兄」
休憩できそうな場所を見つけると、すぐに腰を下ろした大智を見て、紅寧が心配そうに声をかける。
「お、おぅ……。なんとか……、な」
と言うものの、腰を下ろした大智は、力が抜けたようにぐでぇとなっている。
声にも力がない。
「大丈夫……、じゃないよね?」
その様子を心配そうに見つめる紅寧。
「大丈夫、大丈夫。久しぶりだったから、ちょっと驚いただけだ。今のでもう慣れた。ちょっと休んだら次行くぞ」
大丈夫だと言い張る大智だが、今の一回だけでも見るからに疲弊し切っている。
そんな大智の姿を前に紅寧の顔は曇ったままである。
「本当に大丈夫なの? 大兄、無理してない?」
「大丈夫だって。無理なんかしてねぇから。俺のことは気にすんな」
はきはきとした口調で言う大智。
しかし、紅寧の顔色は変わらない。
「で、でも……」
そう言いながら紅寧は俯く。
「大・丈・夫! いいか? 俺に気を遣って遠慮なんかするなよ。今日はノートのお礼と紅寧の合格祝いも兼ねてんだからな。遠慮なんかしたら絶対に許さないからな!」
大智は真剣な眼差しで紅寧をじっと見つめる。
そんな大智の真剣な眼差しと言葉を受けた紅寧は目を潤ませていた。
「大兄……」
紅寧が潤んだ目を擦る。
「うん、わかった。じゃあ、少し休んで大兄が回復したら、私が行きたいところじゃんじゃん行くからね。カッコイイこと言ったんだから、ちゃんと付いて来てよ?」
紅寧はそう言うとニコッと笑顔を浮かべた。
「おう! じゃんじゃん来いや」
大智は胸を張り、握り拳で自身の胸を一つ叩いた。
時は少し進み、お昼時。
「大兄、本当に何も食べなくてもいいの?」
昼食を取る為にパーク内にあるカフェテリアに入った二人。
普通に食事を取る紅寧に対して、大智の前には飲み物しか置かれていなかった。
「ん? あぁ、注文しようとは思ったんだけどな。意外と腹減ってなかったみたいでな。多分、朝飯いつもの調子で食ったから、食い過ぎだったみたいだわ」
大智はそう言って愛想笑いをする。
「嘘でしょ?」
紅寧が睨む。
「いや、ほんとに」
大智は紅寧から視線を逸らした。
「視線、逸れてるよ?」
紅寧は変わらずじっと大智を見つめている。
観念した大智は本当のことを話し出した。
「ジェットコースター乗ってから気持ち悪くて……。食べ物が、喉を通りません……」
大智はボソッと呟くように言った。
「もう……。それならそうと言ってくれればよかったのに。大兄、やっぱり絶叫系苦手なんでしょ?」
紅寧が眉尻を下げて大智に訊く。
「別にそんなことは……」
大智は顔を横に大きく背ける。
それを見て紅寧ははぁっと息を漏らす。
「無理しなくてもいいよ、大兄。もうわかってるから。本当は絶叫系のアトラクションが苦手なのに、私の為に我慢して一緒に乗ってくれてるんでしょ? もういいよ。私はその気持ちだけで十分だから。午後からは大兄も落ち着いて楽しめるアトラクションに行こう?」
「バカ言ってんじゃねぇよ」
紅寧が言い終わった直後、大智は語気を強めて言った。
「え?」
その声に紅寧は驚く。
「前にも言ったけどなぁ、男が言ったことをそう簡単に取り下げられっか。俺に気を遣って遠慮するなつったろ? いいか? 時間が許す限り、紅寧が行きたかったところ全部行くぞ。いいな?」
大智はギリッとした目で紅寧をじっと見つめる。
「大兄……」
紅寧の目には涙が滲んでいた。
紅寧はすぐにそれを手で拭って、続けた。
「わかった! じゃあ、もう本当に気にしないからね。もし、大兄がぐったりしてても引っ張って次行くから」
紅寧はまだ潤む目で笑顔を作って言った。
「あぁ、そうしてくれ」
大智は優しく微笑む。
「よし。じゃあ、これ食べたら、すぐに行くからね」
「おう」
二人は再びパーク内に繰り出して行った。
太陽は傾き、パーク内を朱色に染める。
雑多だった人の動きが、次第に入り口ゲートへと向かうようになっていた。
帰りのバスの時間が迫っている大智と紅寧も入り口ゲートの方に向かう。
二人はゲートを出る前に入り口近くに設けられている土産物ショップに立ち寄った。
店内は二人と同じく、帰宅前にお土産を買おうとする人で溢れ返っていた。
「うわ~。凄い人……」
店内にごった返す人を見て、紅寧は唖然とする。
「だな……」
大智も呆然と店内を眺めていた。
二人は邪魔にならないよう、一旦店の外へ出て、相談を始めた。
「どうする?」
紅寧が訊く。
「う~ん。正直この中に入って行くのは気が進まんけど、どうせ他の店も同じような感じだよな~」
「多分ね……」
「だよな。つっても、他の店を見てる時間もないしな。てか、紅寧はここの店でいいのか?」
「うん。お土産に特にこだわりはないよ。何でもいいから買えたらそれで。大兄は?」
「俺も別に何でも大丈夫」
「じゃあ、決まりだね。ここにしよっか」
「おう」
そうして二人は再び店内へ入った。
ついさっき見て、店内の状況がわかっていたにも関わらず、店内に入った瞬間、大智は顔を引きつらせる。
紅寧も人の圧に圧倒されかけていた。
「そうだ!」
突然、紅寧が何かを思い付く。
「どうした?」
「大兄、手、出して」
紅寧にそう言われ、大智は不思議そうに首をひねりながらも、言われた通り、自身の右手を差し出した。
「あ、逆」
「あぁ、こっち?」
大智は右手を引っ込め、左手を差し出す。
「うん」
笑顔で頷く紅寧。
すると、紅寧は自身の右手で大智の左手を握った。
「えっ!? ちょっ、紅寧?」
突然紅寧に手を握られ、戸惑う大智。
「これではぐれる心配はないでしょ?」
紅寧はニッコリと笑顔を浮かべる。
その頬は微かに赤らんでいた。
「いや、それはそうかもしれんけど、手を繋ぐのは、ちょとな……」
「え~、いいじゃん。昔は良く手繋いでくれてたでしょ? あ、もしかして、大兄、照れてる?」
紅寧は意地の悪そうな顔で大智に訊いた。
「ばっ。そりゃあ、お前。高校生にもなって手を繋ぐなんて恥ずかしいに決まってんだろ。カップルじゃあるまいし……」
大智は紅寧から顔を背ける。
「カップルだったらいいの?」
すると突然、紅寧の発する声のトーンが真面目になった。
「え?」
その問いに大智は驚いた顔を浮かべ、紅寧を見た。
「カップルだったら、このまま何も言わず、繋いでてくれるの?」
紅寧は俯いている。
その声はどんどんと低く、重くなっていた。
「あ、いや、そういう意味で言ったんじゃ……」
大智はあたふたと顔を動かし、どうしたらいいのかわからない様子だった。
「な~んてね」
紅寧の表情と声色が急転する。
紅寧は笑顔を作り、声を明るめて言った。
「冗談だよ、冗談。私ももう子供じゃないんだから、それくらいわかってるよ。ただちょっと昔が懐かしくなっただけ」
紅寧はそう言うと、握っていた手を離した。
声を明るめて言う紅寧だが、その声にはどこか寂しさが混ざっている。
「行こっ、大兄。見て回る時間がなくなっちゃう」
紅寧はそう言うと、店の奥へと歩みを進めた。
「おう……」
大智は先ほどまでの紅寧の様子を気にしながらも、すぐに紅寧の隣に並び、一緒に歩いた。
だが、実際に人混みに入ると、どうしてもすぐに、はぐれそうになってしまう。
二人は逐一、互いの居場所を確認しながら、込み合う店内を進んで行った。
目ぼしい商品をいくつか見た後、二人は一旦、人混みの少ない場所に出た。
「手……」
突然、大智が紅寧の前に左手を差し出した。
ただ、恥ずかし気で、紅寧から顔は背けている。
「え?」
紅寧は驚いた顔を浮かべ、背けている大智の顔を見つめた。
「ん」
大智は紅寧の顔をチラッと見ると、差し出した手を軽く上下させた。
紅寧は顔を徐々に笑顔に変えていく。
そして、満面の笑みに変わった瞬間、紅寧は大智の手を握った。
紅寧が手を握ったのがわかった大智は紅寧に視線を向ける。
紅寧は大智と目が合うと、ニッコリと笑った。
そんな紅寧の嬉しそうな笑顔を見て、大智はまた顔を背ける。
その顔には照れと笑みが混在していた。
「とりあえず、今日だけだからな」
「とりあえずってことは、また繋いでくれるの?」
紅寧は期待を込めた声で訊く。
「その必要性があったらな」
「だよね……」紅寧は小声で呟く。
「そっか。了解」
紅寧は笑顔で返事を返した。
「あ~!」
ゲートを出た瞬間、突然、紅寧が叫ぶ。
「ど、どうした?」
その声に驚いた大智が訊く。
「写真……。撮ってない……」
紅寧は絶望した顔で、力なく佇ずんでいた。
「そう言えば撮ってなかったな」
一方、大智は平然としていた。
「どうしよう。もう時間がない……」
紅寧はそう呟きながら慌てて辺りを見渡した。
「あ! あそこ! 大兄、あそこをバックに撮ろ」
紅寧はゲートを出てすぐの所にある、モニュメントを指差している。
既に足はそこへ向かって動いていた。
「大兄、早く!」
紅寧は忙しなく大智を呼ぶ。
大智は急いで紅寧の後を追った。
適当な距離までモニュメントに近づいた紅寧は鞄からスマートフォンを取り出した。
カメラを内側にし、自撮り形式で写真を撮る準備をする。
そこへ大智が追いついて来た。
「大兄、早く、早く!」
紅寧が手招きをする。
「ここでいいのか?」
「うん。入って、入って」
大智はスマートフォンを構える紅寧の隣に少し離れて並んだ。
「大兄、もっと近く」
「お、おう」
大智はほんの少しだけ紅寧に近寄った。
「もっと。それじゃあ、カメラに入らないよ」
紅寧の頬が少しだけ膨れる。
大智はまたほんの少しだけ、紅寧に近づいた。
「も~う」
紅寧が完全に頬を膨らませる。
「こうなったら……。えい」
紅寧は自ら大智に近づいた。
紅寧と大智の体が触れる。
「ちょっ」
紅寧の体が触れ、大智は戸惑いの表情を浮かべる。
だが、大智が戸惑っている様子を気にすることなく、紅寧はスマートフォンを構えた。
「ほら撮るよ。大兄笑って。ハイ、チーズ!」
紅寧は近づいた勢いのまま、写真を撮った。
そして、撮った写真をすぐに確認する。
「うん、ちゃんと撮れてる。大兄の顔がちょっとぎこちないけど」
紅寧は撮った写真を見て、微笑んでいた。
「あ、やばっ。大兄、行こっ! バス来ちゃう」
紅寧が高速バスの停留所へ向かって一目散に走り出す。
大智は先を行く紅寧の背中を黙って追った。
帰りのバスの中。
無事、予定のバスに乗車した二人。
発車後、程なくして、大智はスヤスヤと眠り始めた。
眠った大智の横顔を紅寧はじっと見つめている。
「本当は怖いのに、ずっと我慢して付き合ってくれたもんね。お疲れ様」
紅寧はそう呟いて、微笑みを浮かべる。
「今日は本当にありがとう。すっごく楽しかったよ」
紅寧は眠る大智に向けてニコッと笑った。
静寂に包まれるバスの車内。
多くの乗客が、幸せそうな顔を浮かべて眠っている。
そんな中、目が冴えて眠れないでいる紅寧。
その肩には隣でスヤスヤと眠る大智の頭があった。
紅寧は大智の頭を肩に乗せたまま、乗車前に撮った大智とのツーショット写真をじっと見つめていた。
その顔は笑顔だが、どこか後悔の色が交じっているようにも見える。
「ちょっと、やり過ぎちゃったかな……」
紅寧がぼそりと呟く。
「でも、大兄は振り向いてくれないかもしれないけど。愛ちゃんには申し訳ないけど……」
紅寧は窓の外へと目を向ける。
「やっぱり私は、大兄のことが……」
車窓から見える遠くの街の灯りを、紅寧はじっと見つめた。
「もしかしてこれ、全員紅寧が集めたのか?」
ぽかぽか陽気の春空の下。
大智の前にずらっと並ぶ新入生、述べ十人。
想像以上の人数に大智は驚き、信じられないという表情をしていた。
「そうだよ」
紅寧は大智からの問いにニコッと笑顔を浮かべて答えた。
「俺たち……」
突然、新入生の一人が声を上げる。
「ん? どうした? 岡崎」
その新入生とは大智が中学の時の後輩でもある岡崎だった。
「俺たち、黒田に春野先輩の夢を聞いて、皆、それに感動したんです。俺らも、千町を甲子園に連れて行って、地元を盛り上げたいんです。なぁ!」
岡崎は他の九人に声をかけた。
「おう!」
皆、声を揃えて返事をする。
「お前ら……」
それを見て、大智は目頭を押さえながら俯く。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「せめてこっち見て言えよ!」
大智は顔を引きつらせ、隣にいる紅寧にも聞こえない程度の小声で怒った。
何故なら、皆の視線が大智の隣にいる紅寧に向けられていたからだ。
大智は一度、はぁとため息をつき、紅寧に訊いた。
「紅寧。お前、何て言ってこいつら集めたんだ?」
「え? さっき岡崎君が言ってたでしょ? 皆、大兄の夢を聞いて集まってくれたんだよ?」
そう言って紅寧はニッコリと笑う。
「いや、絶対それだけじゃねぇだろ」
(現にこいつら俺の方見てなかったし……)
大智は苦笑を浮かべて、再び紅寧に訊いた。
「え~、他には特に何も言ってないけどな~」
顎の前に人差し指を当てて考える紅寧。
「あ! でも、一緒に甲子園に行きたい、みたいなことは言った、かも?」
ピンッとは来ていないのか、紅寧は首を傾げている。
(いや、絶対それだろ……)
一方の大智は、目をパチパチと瞬きさせながら、心の中でツッコんでいた。
「どうしたの、大兄?」
大智のおかしな様子に紅寧が気づく。
「いや、何でも……」
大智はすぐに紅寧から視線を外し、他方へ移した。
(全員、見事に紅寧に釣られたわけだ……)
大智は斜め上に空を見つめながら、苦笑を浮かべる。
(でも、ま、本当の理由がどうであれ、目指してるところは一緒だ)
そう考えた大智は挨拶に移った。
「初めまして。二年の春野大智、ピッチャーだ。初めに言っておくが、俺らみたいな田舎の公立校が甲子園に行くのはそう簡単なことじゃない。けど、決して、不可能なことでもない。一緒に千町旋風を巻き起こそうや」
大智は新入生に向けて、ニッと笑った。
「はい!」
新入生の揃った声がグラウンドに響き渡った。
一方、港東高校グラウンドでは……。
「よう、関口」
剣都が中学の後輩であり、新入生の関口に声をかける。
「黒田先輩。お久しぶりです」
関口は帽子を取って、丁寧にお辞儀をした。
「久しぶり。そして、ようこそ港東高校野球部へ。お前は千町には行かなかったんだな」
「えぇ、まぁ。千町に行ったら、またあの人が卒業するまで、エースとして投げられなくなりますから」
そう語る関口の顔は無表情に近い。
「おいおい、そんなあっさりと負けを認めるのかよ。俺らはまだ、高一と高二だぞ?」
「認めますよ、あっさりとね」
「あん?」
剣都は関口の答えを聞くと、眉間に皺を寄せた。
「あんな球をずっと間近で見せつけられてたんですよ? レベルが違うことくらい、誰でもわかりますって。しかも、あれであの人、人一倍努力するんだからかなわないっす。同じチームにいたら……、ですけどね。けど、敵としてならも負けるつもりは毛頭ありませんから。絶対にね。俺は千町戦のマウンドに登って、あの人に勝つために必死こいて勉強して、ここへ入ったんです。黒田先輩がいる港東にね」
「俺がいるから?」
「えぇ。今、県内であの人の球に真向から対抗できるのは黒田先輩、あなただけですから」
関口は剣都の目をじっと睨むように見つめている。
「なるほどね。てか、地味にプレッシャーかけて来るのな」
関口のピリピリとした口調とは異なり、剣都はやや暢気ともとれる口調で返した。
「打つ自信ないんですか?」
キッとした目つきで剣都を睨む関口。
しかし、剣都は気にしていない様子である。
「自信はある。けど、その通りにならないのが、野球だろ?」
剣都はふっとした笑みを浮かべて、関口を見た。
それを受けて、関口は剣都から目を逸らした。
「もう少し肩の力抜けよ。あんまり自分を追い詰め過ぎると、ろくなことねぇぞ」
剣都は関口に背を向けそう言うと、関口の許から離れて行った。
さて、新入生を迎え入れ、新たなスタートを切った各校。
夏の選手権大会まで残り三か月ちょっと。
一年生はじっくりと育てるチームもあれば、即、戦力として使わなければならないチームなどチーム事情は様々。
二、三年生合わせて七人しかいない千町高校は必然的に最低でも一年生を二人は試合に出さなければならない。
千町高校のグラウンドでは、早速一年生の実力が試されようとしていた。
「どうぞ、監督」
選手のアップを待っている間、紅寧が藤原にノートを渡した。
「ん? 何、これ?」
「一年生のプロフィールです」
「プロフィール?」
藤原はノートを開いた。
ノートには一年生の身長や体重などの身体測定の結果から、野球選手としての特徴までびっしりと記されている。
そんなノートを藤原は目を丸くして見つめる。
藤原は全員のプロフィールに目を通し、顔を上げた。
「これ、全部黒田が調べてまとめたの?」
藤原がノートを指して訊く。
「はい、勿論」
紅寧は当たり前だろと言わんばかりの表情で藤原を見つめる。
「だよな……。ついでに訊くけど、ちゃんとそれぞれのポジションに選手がいるのも、黒田の意図?」
「そうですよ」
紅寧は真顔で藤原を見つめた。
「ははっ……。こりゃ、たまげた」
藤原は呆気に取られている。
「だから、言ったじゃないですか。私に任せてくださいって」
怪訝そうな目を向ける紅寧。
「いや、確かに言われて、任せたけど、まさかここまでするとは思ってなかったもんでな」
「もう。大兄といい、監督といい、何で、これくらいで驚くかな~」
紅寧は頬を膨らませた。
「いやいや。驚くでしょ、普通」
藤原が小声で呟く。
「何か言いました?」
「いんや、何も」
藤原はとぼけるように紅寧から顔を逸らした。
選手がアップを終えると、早速一年生の実力を確かめることになった。
その間、二、三年生はグラウンドの隅でティーバッティング。
まずは守備力から。
ポジションに就いてのシートノック。
一年生がそれぞれのポジションに散らばって行く。
各ポジション一人ずつ。ただし、ピッチャーは二人。
気持ちを新たに、スタートを切った一年生の動きは軽やかで初々しい。
人数が増えたことも相まって、千町高校野球部は活気で溢れていた。
一年生のシートノックが始まる。
二、三年生はティーバッティングの傍ら、その様子をチラチラと眺めていた。
特に三年生の三人はかなり気にしている様子だった。
紅寧が集めて来たとあって、一年生は軽めのシートノックを無難にこなした。
全員基礎はしっかりしている印象だ。
次にマシンを使ったバッティング練習に移る。
マシン二台を一年生が順に打っていく。
その様子を三年生たちは練習の手を止めて、じっと見つめていた。
「気になりますか?」
三年生の様子が気になった大智は、集まっている三年生の許へ行って声をかけた。
「春野…‥。うん……。やっぱ、ちょっとね……」
大西が自信のなさそうな声で言う。
「でもやっぱり流石だね。皆上手いよ。打って、守れるし、動きも全然違う。俺ら敵わないかも……」
大西はそう言って俯く。他の二人も大西に続くように俯いた。
「何言ってんすか!」
大智が喝を入れるようにバシッと言う。
それを受けて、三年生の三人は一斉に顔を上げ、大智を見た。
「確かに総合力だけで見れば、先輩たちよりも力のある一年は何人もいます。けど、守備の安定感なら間違いなく大西さんの方が上。てか、部内でも一番です。バントも上手いですしね。派手なプレーがなくても、大西さんみたいな職人気質の選手がいるだけで、チームは全然違うんです。自信持ってください」
「春野……」
大西が大智をじっと見つめて呟く。
その目には微かに涙が浮かんでいるように見える。
次に大智は加藤に目を向けた。
「バッティングの怖さなら加藤さんがダントツです。一年生は、ミート力はありますけど、まだまだ非力な奴も多い。ピッチャー目線から言わせてもらえば、一年生は全然怖くないです。打席に立った時、スイングした時の威圧感なら加藤さんは誰にも負けていませんよ。それに、去年の夏からミート力もかなりアップしてますしね。もし、俺がピンチで加藤さんに投げるとしたら、正直ちょっとびびりますね」
加藤も大西と同様に、大智を見つめながら「春野……」と呟いた。
「足の速さ、走塁の上手さは大橋さんが部内一です。守備範囲もかなり広がりましたしね。それに、この一年、俺がピッチングしてる時、打席に立って、選球眼に磨きをかけてきたじゃないですか。大橋さんが四球で塁に出れば二塁打も同然。一ヒットで一点です。こんな魅力のある選手どこのチームだって欲しがりますよ」
それを聞いて、大橋も、大智の名を呟く。
三人はじっと大智を見つめていた。
その顔に、大智が話す前に浮かべていた、不安さや自信のなさは、もうない。
彼らの瞳には闘志が宿っている。
「総合的な力があるに越したことはないですけど、野球はそれだけが全てじゃない。スペシャリストだって必要なんです。苦手なことがあるなら周りが補ってやればいい。グラウンドには九人がいるんですから」
「うん」
三年生の三人は力強く頷いた。
一年生の実力試しも終え、夏に向けた練習を本格的にスタートさせた千町高校。
ある晴れた日の放課後。
シートノックを受け終え、ベンチに左利き用のグラブを置く上田。
水分補給をしながら、タオルで汗を拭う。
そこへ、ピッチング練習を終えた大智がやってきて声をかけた。
「随分と様になってきたんじゃないか?」
「あん?」
「左投げでのファースト。日に日に動きもよくなってんじゃねぇか?」
「一年間、毎日のようにノック受けてんだ。そりゃ、多少はマシな動きにもなんだろ」
上田は淡々と話す。
「これなら、もう十分試合でも通用するんじゃねぇか?」
「どうかな?」
「あん?」
「ノックの球と試合の打球は全く別物だからな。いくらノックの球が捕れるようになったからって、試合でも同じように捕れるとは限らねぇよ。甲子園に行くようなチームとの試合ならなおさらな」
「そりゃ、まぁ、そうだが……」
「俺らが目指してんのは甲子園なんだろ?」
「あぁ、勿論」
「だったら、こんくらいのことで褒めてんじゃねぇよ」
上田は持っていたタオルを置いてその場から立ち去る。
その背中に向けて、大智は帽子を脱いで一礼した。
「一歩目が遅い! 足が動いてないよ! 捕ってからもっと速く! 打倒港東!」
グラウンドに紅寧の声が響き渡る。
グラウンドでは紅寧によってノックが行われていた。
「なぁ、おい、春野」
バックネット裏から練習の様子を見ていた藤原が近くを通りかかった大智に声をかけた。
「何です?」
大智が藤原の許へ来る。
すると藤原は、ノックを打つ紅寧を指差して、大智に訊いた。
「マジで彼女何者?」
「上手いでしょ? ノック」
大智が嬉しそうに言う。
「上手いってもんじゃねぇよ。捕れるかどうかギリギリの所を狙って打てるし、打球のバリエーションも豊富。それに加えて、指摘まで的確。彼女、俺よりいい指導者なんじゃ……?」
「えぇ。間違いなく」
笑顔の大智。
そんな大智を藤原はじろっと睨む。
それに気が付いた大智は咄嗟に口元を抑えて、藤原から顔を背けた。
「ま、それは一先ず置いといて。ほんと大したもんだよ。一人で十人をスカウトして、そのデータをまとめて。かと思えば、ノックも打てるし、指導までできる。もはや、マネージャーというより、コーチだな」
藤原は紅寧の働きを振り返りながら、冷汗を垂らしていた。
「だから言ったでしょ? 来年のヘッドコーチだって」
「そう言えばそうだったな。正直、あの時は冗談くらいにしか思ってなかったんだよ。けど、今ならあの時の言葉を素直に受け入れられるよ」
藤原はグラウンドを眺めながらふっと笑う。
「ま、あの時なら冗談だと思うのも、無理もないですけどね。ここまでやるなんて、誰も思いませんから。まぁ、これを言うと、紅寧は怒りますけど」
「みたいだな。この前、怒られたよ。何でこれくらいのことで驚くんだってな」
藤原は紅寧怒られた時のことを思い出しながらふっと笑った。
「これだけやれたら普通は驚きますけどね」
「だよな!」
突然、藤原が声を大きくしながら大智に顔を近づけた。
「え、えぇ」
藤原の勢いに大智は後退った。
「いや~、良かった。俺が彼女を過小評価し過ぎてるんじゃないかと心配になってたんだよ」
藤原がホッとした様子を見せる。
「そこ! 何、ぼーっとしてるんですか! 監督、暇なら変わってください。大にっ……、じゃなかった。春野先輩! ピッチング練習終わったんなら、走りに行きますよ!」
「は、はい」
藤原と大智は背筋をピンッと伸ばして返事をした。
「あ、待って、大に……、じゃない。春野先輩~」
練習を終え、解散後、部室へ戻る大智を紅寧が呼び止める。
紅寧に呼び止められた大智は部室へ戻る足を止め、踵を返すと、紅寧の許へ戻って来た。
「やっぱり、慣れねぇな、その呼び方」
「私も~。つい大兄って呼んじゃう」
紅寧は肩の力を抜くように、はぁ~っと息を漏らした。
「でも慣れるしかねぇよな。幼馴染とは言え、一応、先輩後輩なわけだし」
「まぁね。周りの目もあるもんね」
「だな。で、何で呼び止めたんだ?」
大智が問いかけると、紅寧は急に思い出したように背筋をピンッと伸ばした。
「そう! 大兄、ユニホーム着替えないでね」
「は?」
「あ、正確にはユニホームの上に制服を着るだけの状態で出て来てね」
「え? いや、何で?」
紅寧からの唐突な指示に戸惑いを見せる大智。
そんな大智を他所に紅寧は自分のペースで続ける。
「それは後のお楽しみ。着替えたら校門の前集合ね。絶対先に帰らないでよ」
紅寧はそれだけ告げると、足早にその場を去って行く。
その背中を呆然と見つめる大智。
紅寧の姿が見えなくなってから、ようやくハッと我に返る。
「やばっ! 早よ、着替えんと」
大智は急いで部室へと向かった。
紅寧に言われた通り、ユニホームの上に制服を着て校門を出た大智。
側には通学に使っている自転車が置いてある。
大智が到着後、程なくして、紅寧も校門から出て来た。
「ごめん。待った?」
「いや、そんな待ってねぇよ」
「そっか。よかった。じゃあ、帰ろっか。はい、これ」
紅寧が箱の入った袋を大智に渡す。
袋を受け取った大智はすぐに中から箱を取り出した。
「何だこれ? 靴?」
「そっ。ランニングシューズ」
「は? え? どういう事?」
「そういうこと」
紅寧はニシシッと笑った。
「家まで……、走れってこと?」
大智が唖然とした様子で訊く。
しかし、紅寧は何も答えない。
ただ、ニコニコと笑っているだけである。
「あの~、こっから家までの距離知ってる?」
大智が今度は顔を引きつらせ訊く。
「勿論。大体、十キロくらいでしょ? 大丈夫。大兄なら一時間もかからずに帰れる距離だよ」
しかし、相変わらすニコッと笑っている紅寧。
「いや、そういうことじゃなくてだな……」
「ん?」
紅寧はきょとんとして首を傾げる。
「俺、練習で散々走っとんじゃけど……」
それを聞いた紅寧はあははっと笑った。
「足りない、足りない、あれくらいじゃ。今のままじゃ夏の連戦は乗り切れないよ」
「いや、しかしだな……。やり過ぎるのも良くないんじゃないか? ほら、もうシーズン始まっとるし」
「その辺はご心配なく。ちゃんとメニューは考えてますって。毎回、ただ十キロを走るだけじゃないから安心して。ま、今日は十キロ走だけどね」
それを聞いて、大智は苦笑を浮かべる。
「あれ? もしかして大兄、練習だけでもう限界?」
「バカ言え。なわけあるか」
反射的にそう答える大智。
「じゃあ、出来るよね?」
紅寧はいたずらっ子のような笑顔を浮かべる。
それを見て、大智は一瞬、やってしまったという顔を浮かべた。
しかし、すぐにキリッとした顔つきに戻る。
「た、たりめぇだろ。十キロだろうが、ニ十キロだろうが走ってやろうじゃねぇか」
「流石、大兄。頼もしい」
紅寧はふふっと笑った。
「じゃあ、そっち行って着替えよ。下にユニホームを着てるとは言え、校門の前で脱ぐわけにはいかないしね」
そう言って紅寧は物陰になりそうな場所を指差した。
移動を始める二人。大智は側に置いておいた自転車を押して行く。
人目につかない場所に移動した大智はすぐに制服を脱ぎ、シューズを履き替え、走る準備をする。
「てか、このシューズどうしたんだ? もしかして、紅寧が買ってくれたのか?」
大智が靴紐を結びながら訊いた。
「そうだよ」
「そうか……。なら、帰ったら払うよ」
「いいよ。それは私からのプレゼントだから」
「いや、そういうわけにはいかんだろ。そう安いもんでもないし」
「いいの! お金のことは気にしなくて。プレゼントだって言ってるんだから、素直に受け取ってよ」
紅寧は頬を膨らませて怒る。
「紅寧……」
そんな紅寧を大智は真っすぐ見つめた。
「……わかったよ。んじゃあ、これは有難く受け取っとくわ」
「うん」
紅寧は表情を笑顔に変えて頷く。
「代わりに、また何かお礼させろよな」
「いいの?」
「勿論。貰っといて、何も返さんわけにはいかんからな」
「じゃあ、あ……。今度の休み、市内にデ……」
紅寧はそこで一瞬、言葉を詰まらせた。
「で?」
そんな紅寧を見て大智は首を傾げる。
「で、出かけようよ。ほら、あの、駅前の商業施設」
紅寧の様子は何処かたどたどしい。
「あぁ、あそこな。いいぞ」
しかし、大智はあまり気にしていない様子だ。
「やった。じゃあ、約束ね」
「おう」
会話を終えると紅寧は、秘かにほっとした様子を浮かべていた。
「それにしても、大丈夫か? 荷物、二人分持って?」
大智の自転車には紅寧が乗って帰る。
荷物を持って走るわけにはいかないので、紅寧が二人分の荷物を持って、自転車に乗る。
自転車の前かごに大智のセカンドバッグ、自身の肩に自分のセカンドバッグをかけるというスタイルだ。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと乗れるって」
そう言って、余裕な表情を浮かべながら大智の自転車に乗ろうとする紅寧。
しかし、サドルが高く、上手く乗ることが出来ない。
自転車のサドルは百八十センチ近くある大智の身長に合わせて高めに調節してあるので、身長百五十センチちょっとしかない紅寧が乗るのはなかなかに危険である。大荷物を背負っているのだから尚更だ。
紅寧は何度か自転車に乗ろうと試みていたが、流石に無理だと悟ったのか、大智に助けを求めてきた。
「大兄……、高い」
涙目で訴える紅寧。
「下げちゃるわ。動かんようにハンドル持っといて」
「はーい」
紅寧はパッと表情を笑顔に変える。
返事をした紅寧はすぐに自転車のハンドルを握った。
紅寧がハンドルを握ったのを見ると大智は、すぐに自転車のサドルを下げにかかった。
「ほれ」
「ありがとう」
ぱぱっとサドルを下げた大智に、紅寧が笑顔でお礼を言った。
「うしっ。んじゃあ、一丁走りますか」
深く深呼吸をした後、大智が言った。
更に大智は、パンッと顔を叩いて気合を入れる。
「レッツゴー!」
やる気漲る大智を見て、紅寧は笑顔で拳を上に掲げた。
「しゃあ!」
まだ微かに紅さの残る四月の空の下。
大智と紅寧の通学ロードワークが始まった。
「いいよ、いいよ、その調子。いいペースで来てるよ~」
走っている大智の後ろを自転車で追いかけながら紅寧が声をかける。
「あれ? 紅寧?」
するとそこに剣都が自転車に乗って、やって来た。
「何でお前が自転車で帰ってるんだ? てか、その自転車誰の?」
剣都から質問を受けた紅寧は前を走る大智を指差した。
「大智!? 何であいつ走って帰ってんだ?」
「二期連続甲子園出場中の港東を倒す為。そして、剣兄に勝つ為。決まってるでしょ」
紅寧は冷たく返す。
「邪魔しないでよ!」
紅寧は急に後ろに振り返ると、一瞬、剣都を睨んだ。
「わかってるよ。んな怖い顔すんなって」
剣都はそのまま、紅寧の後ろを付いて行った。
「だぁ~。着いた~!」
ゴール地点にしている黒田家の前に着く。
大智はアスファルトの上に、仰向けに倒れ込んだ。
「お疲れ様」
紅寧は仰向けになっている大智の顔を上から覗き込み、飲み物を渡した。
「タイムは?」
大智にそう訊かれ、紅寧は持っていたストップウォッチを大智に見せた。
「はい。記録更新だよ」
紅寧はニコッと笑った。
「しゃあ~!」
大智は寝っ転がったままガッツポーズをする。
が、次の瞬間、急に真顔になった。
「いやいやいや。俺は長距離選手か。箱根目指しとんとちゃうぞ」
「あっ、いいね、それ。甲子園の次は箱根目指しちゃう? 甲子園優勝投手が箱根に出場。そしてプロ野球の世界へ。夢があるわ~」
「いやいや。流石にそれは無理だろ……。漫画や小説じゃあるまいし」
「何言ってんの、大兄?」
「あん?」
「小説でしょ? これ」
それを聞いて、大智はポンッと一つ手を叩いた。
「そう言えばそうだったな。んじゃあ、何でも有りか」
「うん、うん」
紅寧が頷く。
いや、ダメでしょ……。
「随分と絞られてるみたいだな、大智」
自転車を停めた剣都が二人の許へやって来て、声をかけた。
「あん?」
大智の顔が剣都へと向く。
「剣都? 何でお前がいるんだ?」
「やっぱり気がついてなかったか。俺も途中からずっと後ろ付いて来てたんだぜ」
「そうだったんか? 後ろなんて気にしてる余裕なかったからな」
そう言っている間に大智は腰を上げていた。
「だろうな。いい走りだったぜ」
「別に、お前に走りを褒められたところで嬉しくねぇよ。お前とは足の速さを競ってんじゃねぇんだしな」
大智は立ち上がる。
「まぁ、そう言うなよ。素直に褒めてんだから。もう、長距離だけは大智に敵わねぇかもな」
「長距離だけは?」
大智が剣都を睨む。
「あぁ。だけは、だ」
剣都も大智を睨み返した。
「野球も。でしょ?」
紅寧が睨み合う二人の横から声をかける。
紅寧の目は剣都をキッと睨んでいた。
「いや、野球だけは絶対に負けるわけにはいかねぇなぁ。例え、他のこと全てで負けたとしてもな」
「そっくりそのまま返すぜ」
大智と剣都が再び睨み合う。
しばらく睨み合いの時間が続いた。
「ま、これ以上ここで口喧嘩してもしょうがねぇ。この先はグラウンドでだ」
先に剣都が動いて、言った。
「あぁ」
大智はふっと口元を笑わせていた。
「さて。んじゃあ、俺も練習するかな」
剣都はそう言って玄関の中からバットを持って来た。
そして、そのまま自宅の庭で素振りを始めた。
大智と紅寧は近くでストレッチをしながらその様子を見ている。
剣都のバットが風を切る。
惚れ惚れする美しいフォームだ。
「たくっ。この距離でまじまじと見せつけられると、恐ろしくてしょうがねぇな」
剣都のスイングを見ながら大智が呟く。
「ほんと憎たらしい音。増々、嫌いになっちゃう」
紅寧は顔を顰めていた。
「何でだよ!」
紅寧の一言に剣都が反応する。
「何でって、そりゃあ、今、剣兄は私達の敵だもん。こんなスイングするバッター、嫌でしょうがないもん」
「お前には頑張っている兄貴を応援しようという気持ちはないんか」
「ない」
真顔で言う紅寧。
「そんなきっぱりと……」
そんな妹の一言に剣都は肩を落とした。
「相変わらずお前は妹に弱ぇな」
大智が言う。
それを聞いて、剣都ははぁと息を吐いてから話し始めた。
「何でこうなっちまったかなぁ」
剣都は腕を組んで考える。
「あ~。やっぱ、あれか? 大智に懐いちまったせいか?」
「おいおい。人のせいかよ」
「いや、そういうわけじゃねぇけど、関係なくはないだろ? 紅寧はずっとお前のことが好きなわけだし、俺はずっとお前をコテンパンにしきたわけだしな」
「ちょ、ちょっと剣兄!」
紅寧が慌てた様子で声を上げる。
「あん? どうした? 何、恥ずかしがってんだ?」
「べ、別に。恥ずかしがってなんか……」
「じゃあ、何、慌ててんだ? そうだろ? お前、昔からずっと大智のことが好きじゃねぇか」
「それは……。そう、だけど。そうじゃない……」
小声で呟いて、紅寧は一度黙る。
「帰る」
紅寧は呟くようにそう言うと、足早に家の中へと入って行ってしまった。
「お、おい。紅寧?」
剣都は紅寧が入って行った玄関のドアを呆然と見つめていた。
「あ~あ」
大智が剣都を横目で見ながら呟く。
「え? 俺、何かまずいことこと言ったか?」
戸惑う剣都。
何故、紅寧が家に入って行ったのか全く見当がついていない。
「言ったんじゃね?」
「えっ、どれがまずかった?」
剣都は大智に助けを求めた。
だが、大智の反応は冷たい。
「さぁな」
「さぁなってお前な。他人事だと思いやがって」
「他人事だろ?」
興味なさそうに言う大智。
「なっ」
剣都は眉間に皺を寄せていた。
「冗談だよ。まぁ、確証があるわけじゃねぇから、一概には言えんけど……」
「心当たりがあるのか?」
「多分じゃけど、お前が、紅寧は昔から俺に懐いてるって言ったとこら辺じゃないか? あの後、急に慌てたようになってたし」
「あぁ、そうだったな」
剣都が小刻みに頷く。
「なぁ、剣都。お前、紅寧は昔から俺のことが好きだったって言ったよな」
「ん? あぁ、言った。言ったけど、それがどうかしたか?」
「それってどういう意味だ?」
大智の目つきが変わる。真剣みを帯びるようになっていた。
そんな大智の目つきに剣都は少し気圧されていた。
「どういう意味って、そりゃあ、お前は紅寧からしたら幼馴染の優しいお兄さんだからな。上手くは言えんけど、家族と言うか、身内と言うか……。まぁ、そんな感じの意味でだよ」
「なるほどな」
大智は腕を組んで頷いていた。
「あん?」
「多分じゃけど、紅寧はお前の言葉をそういう風には捉えてないと思うぞ?」
「と、言うと?」
「紅寧はお前が秘密をばらしたと思ってんだよ」
剣都の眉間に皺が寄る。
「はぁ? 何でそうなる。俺がいつ紅寧の秘密をばらしたよ」
「紅寧は俺のことが好きだってやつだよ」
「は? 何でそれが秘密をばらしたことになるんだよ。紅寧がお前のことを好きなのは、昔から一目瞭然のことだっただろ?」
「あぁ。けど、多分、今は違うんだよ」
「今は違う? 何が違うんだ?」
「まだ確信があるわけじゃねぇけど……。多分、紅寧は俺のことが好きなんだよ。恋愛対象として……、な」
「それ……、自分で言う?」
「だから、多分つったろ。偶にあんだよ。もしかしたらそうなんかもなって感じることが」
「例えば?」
「前に紅寧と二人で遊園地に行った時にな……」
「は? いつ?」
「三月の終わり。お前の選抜一回戦の日だよ」
「おいおい。お前ら応援してくれてなかったのかよ」
「しゃあねぇだろ。その日しかなかったんだから。いいだろ? 勝ったんだから。それに、お前は愛莉が応援してれば十分だろ。あ! つかお前、愛莉と付き合ってるって噂、流れてんだろ」
「みたいだな」
「みたいだなってお前」
「どっかの無責任な奴が勝手に言い出しことだ。気にすんな」
「気にすんなってお前な……。愛莉は何て言ってんだよ」
「愛莉も気にしないって言ってくれてるよ。間違った噂でも広まっちまった以上、消すのは困難だしな。男女のことに関しては特にな」
「まぁ、確かに」
「ま、その話はまた今度だ。今は紅寧のこと優先だからな。んで、遊園地に行った時にどうしたって?」
「あぁ。二人で遊園地に行った時にな、まぁ、詳しくは話せんけど」
「は? 何、お前。まさか紅寧に変なことしたんじゃねぇだろうな」
「してねぇよ。紅寧は俺にとっても妹みたいなもんなんだぞ。んなことするかよ」
「だよな。じゃあ、詳しく教えろよ。何があったんだ?」
「教えねぇよ。お前に話すと話が拗れそうだからな」
「おいおい。俺のこと、信用してねぇのかよ」
「してねぇよ。紅寧に関することだけはな。お前、何故か妹との関わり方だけは異様に下手だからな」
「しれっと酷ぇこと言うな」
大智のあまりにストレートなもの言いに、剣都は冷汗を垂らす。
「事実なんだから仕方ねぇだろ」
「んなら、詳しいことは聞かんとくわ。けど、言える範囲でええから続き放してくれよ」
「わかったよ。まぁ、簡潔に言えば、その時にいつもと少し違う感じがしたんだよ」
「いや、簡潔過ぎだろ……」
剣都は唖然とする。
「これ以上はちょっとな。遊園地に行ったことも言ってよかったんかどうか……。あ、今までの話、全部聞かなかったことにしろよ。紅寧には絶対に話すんじゃねぇぞ」
「わかってるよ、それくらい」
「口を滑らせても言うなよ」
「口を滑らせた時点でもう言ってんじゃねぇか?」
それを聞いて大智はきょとんとする。
「ん? あぁ、そうか……。て、んなこと、どうだっていいんだよ。とにかく、紅寧の前では絶対に口に出すなよ」。わかったな!」
「わかったよ。お前との約束だ。絶対に守るよ」
「頼むぞ」
「あぁ」
「で、お前はどう思ってるんだよ」
剣都が訊く。
「どうって、何が?」
「紅寧のこと。お前はどう思ってるんだ? 好きなのか?」
「さぁ、どうなんだろうな……」
大智は天を仰いだ。
「さぁってお前な」
剣都が言う。
その声には少しだけ怒りが込められていた。
大智は地面に視線を落として言う。
「わからないんだよ。俺自身、紅寧のことをどう想っているのかがな。紅寧のことはずっと本当の妹のように想ってきたんだ。急に恋愛対象として見れるかって訊かれても、正直よくわかんねぇんだよ。まぁ、そもそも紅寧から実際に告白を受けたわけじゃないしな。あくまで俺の推測で話ただけだ。これ以上、憶測で話をするのはやめようぜ」
その言葉を受けて、剣都は頷く。
「そっか。ま、それもそうだな。しかし、お前、これ、違ってたら相当恥ずかしいぞ」
大智はふっと一つ息を吐き、「だな」と言って、苦笑を浮かべた。
「なぁ、この際だ。改めて確認するけど……。大智、お前、愛莉のこと好きか?」
剣都が問う。
しかし、この質問に大智は答えなかった。
代わりに「お前は?」と剣都に質問を投げ返した。
「好きだ。大好きだ。約束のことがなけりゃ、とっくに告白してる」
「だろうな」
大智はそう言うと、再び天を仰いだ。
何か思うことがありそうな様子で夜空を見上げている。
「どうした?」
「なぁ、剣都。俺、最近思うことがあるんじゃけどさ」
剣都は「うん」と小さく頷いて、相槌を打つ。
「あの約束が、愛莉を、いや、愛莉だけじゃなくて、俺ら四人を縛ってるんじゃないかってな、最近思うようになったんだ」
「どうして?」
「ほら、俺らくらいの歳の恋愛ってさ、もっと心のままにというか、もっと自由にしていいはずだろ? けど、俺らはあの約束のことを気にするあまり、互いに遠慮しとるところがあるし、自らの気持ちを押し殺している」
「それはまぁ……。そう、だな……」
「だろ? 特に愛莉は自分が言い出した事じゃからって、どこかずっと自分を押さえつけてしまってる気がするんだ。俺らに気を遣って、自分の気持ちは後回しにしている。愛莉はそういう奴だからな」
「そうだな。それに愛莉は絶対に自分からは約束のことをなかったことにはしない」
「それなんだよ……。あいつ、変に頑固なところがあるからな」
大智は腕を組んで考え込んでいる。
「なぁ、剣都」
「ん?」
「俺は愛莉を約束の呪縛から解放してやりたいと思うとる。俺らとの約束なんか忘れて、愛莉の思うままに生きて欲しいと思うとる。その為にも俺は残りの三回のチャンスを死に物狂いで取りに行く。俺も約束を叶えて、愛莉を自由にさせてやる。絶対にな」
「なるほど……。お前の気持ちはよくわかった」
剣都はそう言うと、一つ息を吐いてから話を続けた。
「言われてみればそうだな。ガキの頃、何気なく交わした約束がずっと愛莉を縛りつけていたんだな……。愛莉には悪いことをしたな」
「あぁ……」
「しかし、あの約束がなかったら、俺らの関係、今頃どうなってたんだろうな。約束がなくても、愛莉は俺ら二人の内どちらかを好きになってたと思うか?」
「さぁな。それは愛莉にしかわからねぇことだろ」
(いや、誰にもわからねぇか……)剣都に言った後、大智はそう思った。
「そうだな。けど、他のやつだったらちょっとショックだな」
「まぁな。けど、側にはずっとお前がいたんだ。ちょっとやそっとの奴じゃ、あいつはふり向かなかっただろうよ」
「どうかな」
「あん?」
「俺は、愛莉はお前みたいな放っておけないタイプの奴の方が好きな感じがするけどな。だからあいつは千町を選んだんだ」
「違うだろ。俺のことは、ただ危なっかしくて、放っておけないだけだよ。あいつが俺の方を向いているのは、ただただ心配だからだよ。好きとかそういうんじゃねぇよ」
「お前、鋭いのか鈍いのかはっきりしろよ……」
剣都が小声で呟く。
「あん?」
「何でもねぇよ。ま、そうかもな」
「そうだぜ。あいつは多分、お前のことが好きなんだからな」
(たくっ。こいつ、何で愛莉に関してはこうも鈍いかな……)
剣都は呆れた目で大智を見ていた。
「そうだ、大智。一つ言い忘れてたことがあるんじゃけど、ええか?」
「何だ?」
「俺はどんな理由があろうと、お前が愛莉の為を思っていようと、甲子園だけは一度たりとも譲る気はないからな」
「たりめぇだろ。んなこと言われなくてもわかってるよ」
「負けても恨むなよ」
「恨まねぇよ」
「けど、甲子園に出られなかったら、さっきの話、どうするつもりだ?」
「今からダメだった時のことなんか考えてねぇよ。どこに試合する前から負けた時のことを考える奴がいんだよ」
それを聞いて、剣都はふっと息を吐いて微笑を浮かべた。
「そうだな。悪かったよ」
「ま、もし仮に俺が甲子園に行けなかったとしても、その後の心配はしてねぇけどな」
大智が小声で呟く。
「あん?」
「何でもねぇよ。とにかく、俺はお前を、港東を倒して、絶対に甲子園に行くからな」
「おう。いつでもかかってこい。待ってるからな」
剣都がそう言い終わると、二人は互いの拳をぶつけ合い、静かにその場を後にした。