東港高校のシートノックが終わった後、グラウンド整備が行われている間に大智は大森と軽くキャッチボールをして試合に備えた。
 グラウンド整備が大方終わったところを見計らって二人はキャッチボールを終えた。
「いよいよだな。調子に乗って初回から飛ばし過ぎるなよ」
 大森が大智にボールを手渡しながら言う。
「さっき同じことを言われたな」
「愛莉ちゃんにか?」
「あぁ」
 大智は大森から受け取ったボールを手の上で適当に動かしながら呟くように返事をする。
「俺が言うまでもなかったみたいだな」
「いや。お前に言われなかったら初回から飛ばしてたよ」
 大智は手にあるボールを軽く上に投げながら言う。
「だろうな。愛莉ちゃんからそんなこと言われたら、お前は意地でも初回から最後まで全力投球を続けようとしただろうな」
「流石は相棒。でも安心しろ。ちゃんとお前のリード通り投げるから。でも……」
 大智はそこまで言うと、話すのを止めてしまった。
「でも、何だ?」
 途中で話すのを止めた大智に大森が問いかける。
「最初だけ、最初の打席だけでいいから、剣都と真向勝負、させてくれないか?」
 一度視線を地面に落としていた大智だったが、顔を上げると真っすぐな眼差しを大森に向けて言った。
「三年生の先輩にとっては最後の試合だぞ?」
 大森は睨むような眼差しで大智に訊き返した。
「わがままなのは勿論わかっとる。だから最初の打席だけだ。最初の打席だけ、あいつと正面からぶつからせて欲しい。あとはちゃんとお前のリード通りに投げる。だから」
 大智は深々と頭を下げて大森に頼み込んだ。
「条件がある」
 目前で深々と頭を下げる大智の上から大森が呟くように言った。
「条件?」
 大智が深々と下げていた頭を上げて訊く。
「一番を必ず押さえること。それができなかったら剣都と真向勝負の話はなしだぞ」
 それを聞いた大智は顔をパアッと明るくした。
「あぁ、勿論。わがままを言うんだから、それくらい当たり前だ」
 大智は目をキラキラとさせながら言った。
 そんな大智の姿を大森は呆れ笑いを浮かべながら見ていた。
「で? 剣都を抑えられる自信は?」
「五分五分、かな? いや、四・六? いやいや、三・七かな? 二・八、かも……」
「お~い。どんどん自信なくなってんじゃねぇか」
 大森が汗を垂らしながらツッコむ。
「ま、冗談はさせ置き。正直わかんねぇな。高校に入ってからのあいつのことは何も知らないしな」
「そっか……。ま、打たれたら、打たれただ。その後、ちゃんと俺らで点取り返して、責任取ろうぜ」
「俺ら? 剣都との勝負は俺のわがままだぞ?」
 大智は怪訝そうな顔を浮かべて訊いた。
「バーカ。俺らはバッテリーだろ? 剣都との真向勝負を認めた時点で俺も同罪なんだよ」
 大森はそう言うとふっと笑みを浮かべた。
「大森……」
「勝てよ。大智」
「あぁ!」
 二人は互いに拳をぶつけあった。

「お願いします!」
 球審の合図でホームベース前に整列した両軍の選手が互いに挨拶を交わす。
 対面して並ぶと、何とか出場にこぎつけた千町高校と優勝候補の一角にも数えられる港東高校のメンバーとでは体つきが一回りも二回りも違うことが一目瞭然だった。
 挨拶を終え、後攻の千町高校ナインがグラウンドに散らばって行く。
 大智が投球練習を終えると大森がマウンドの大智の許へと駆け寄ってきた。
「とりあえず、剣都の打席が終わるまでは好きにしていいぞ。ただし、一番を出さなかったら、だけどな」
 大森が念を押すように言う。
「出さねーよ。絶対にな」
 大智はキッとした目で大森を見た。
「だろうな。楽しみにしてるぜ」
 大森は微笑を浮かべながらそう言うと、大智の胸をミットで二度叩いた。
「あん?」
 大智が首を傾げる。
「俺だって見たかったんだよ。お前たちの本当の真向勝負をな」
 大森は笑顔でそう告げると、踵を返して自身のポジションへと帰って行った。
「たくっ。滾るねぇ」
 大智は帽子の鍔を顔に被せるように被ると、ホームに背を向けた状態で天を仰いだ。

「プレイ!」
 すべての準備が整ったことを確認した球審が試合開始の合図をかける。
 一塁側の港東高校スタンドからは軽快な吹奏楽の演奏と甲子園を目指して初陣を戦うナインに向けての大声援が響き渡った。
 だが大智はそんなまるでアウェイのような雰囲気など物ともしていないかのように、審判の合図を確認するとゆっくりとリラックスした状態で投球モーションに入った。
(余裕ぶっこいてたら、足下すくわれるぜ!)
 大智が心の中で呟く。
 大智はゆったりとしたフォームから一球目を投じた。
「ストライク!」
 球審のコールが高々と響く。
 その瞬間、スタンドからの声援が一瞬弱まった。
 港東の一番バッター、杉山は軽く目を見開いて、驚いた表情をしていた。
 二球目。
 杉山が打ちにいく。
 だが、大智の球はそのバットの上をすり抜けて大森のミットに収まった。
 杉山は一球目よりも驚いた表情を浮かべると、ギッとマウンド上の大智を睨みつけた。
「睨んだところで打てるかよ!」
 大智が三球目を投げる。
 ストライクゾーン、三球勝負。
 杉山はその球を打ちにいくが、バシッと大森のミットが音を上げた。
 三球三振。
 港東高校の一番を打つ杉山は信じられないといった表情で自軍のベンチへと引き上げていった。
 港東ベンチも信じられないといった表情でバッターボックスから帰って来ているチームメイトの姿を見つめていた。
 そんな中、ネクストバッターズサークルに座っていた剣都は口元をニッとさせ、不敵な微笑みを浮かべていた。だが目は燃え盛るようにギラギラとしている。
 剣都はバッターボックスから帰ってくる杉山と入れ替わるようにバッターボックスへと向かった。
 剣都が右打席に入り足場を整える。
 まだ誰も使っていないバッターボックスに自身の足場を作って剣都はバットを構えた。
 そして、キッとした目でマウンド上の大智を見つめた。
「あの日、誓った約束の幕開けだな」
 大智が投球モーションに入りながら呟く。
「派手に行こうぜ!」
 大智は一球目を投じた。
 金属音が球場に響き渡る。
 その音と同時に港東高校スタンドからは大歓声が上がった。
 打たれた大智はボールの行方を追っていた。
 剣都が捉えたボールはレフト線上空を飛んで行く。
 スタンド目がけてぐんぐんと伸びていく打球はポールの手前で左へと切れて行った。
 ファールボール。
 三塁塁審が頭上で両手を大きく広げている。
「あっぶね~」
 大智はボールの行方を見つめながらホッとしたように肩を撫で下ろしていた。
「公式戦の初打席ぐらい、緊張しやがれ!」
 大智が二球目を投げる。
 鋭い金属音が響いた後すぐに、ボールがバックネットを揺らした。
「ちっ。なんちゅうスイングしやがる」
 大智がキッとした目つきで剣都を見ながら呟く。
 一方の剣都は口元を緩ませて大智を見ていた。
 そんな剣都の顔を見た大智はギュッと唇を噛みしめて剣都を睨みつけた。
 三球目。
 真向勝負に無駄球はなし。
 三球勝負。
 ストライクゾーンに向かって来る大智の球を剣都は迷うことなく打ちにいった。
 剣都の綺麗なスイングが大智の球を捉える。
 剣都のバットが捉えたボールはセンター方向へ高々上がっていく。
 球場にいる皆の視線が一様にその打球へと注がれていた。
 そんな中、打たれた大智だけは、まるでその球の行方がわかっているかのように、投げ終わったファームのまま、ギリッと奥歯を噛みしめていた。
 打球は勢いを落とすことなく、ぐんぐんと伸びていく。そして、バックスクリーンへと飛び込んだ。
 その瞬間、港東高校サイドからは割れんばかりの大歓声が上がった。
 得点した際の定番の音楽と喜びを表すようにメガホンを叩く音が球場全体を覆う。
 そんな大歓声の中、剣都は悠々とダイヤモンドを回っていく。その顔は一見、冷静そうに見えるが、秘かに口元を綻ばせているようだった。
 ダイヤモンドを一周した剣都がホームへと還って来る。
 剣都がしっかりとホームベースを踏んだことを確認した大森は、マウンドから、ボールが飛び込んで行ったバックスクリーンを見つめている大智の許へ向かった。
「公式戦初打席にして初ホームラン。これ以上ない、ど派手なデビューだな」
 マウンドに着いて早々、大森は大智の背中に向けて言った。
「けっ。ど派手過ぎんだろ。強豪校で一人だけ一年生で出てんだから、少しは緊張しろってんだ」
 大智が顔をしかめながら言う。
「そうならないから一年から試合に出れてんだろ? それに……」
「それに?」
 大智が首を傾げて訊く。
「お前が相手だからだよ」
「あん?」
「大智が相手だからいつも通り、いや、それ以上のスイングができたんだろ。じゃなかったら、普通あの球をあそこまで飛ばせやしねーよ」
 大森がバックスクリーンを見ながら言う。
「力負けってことか……」
 大智は天を仰いだ。
 それを見た大森は大智の左肩に自分の右手を添えて言った。
「気にすんな。まだまだ始まったばかりだ。試合も。お前らの戦いもな」
 大森はそう言って大智に微笑みかけた。
「そうだな」
 大智はそう言いながら帽子を深く被り直した。
「ま、なんにせよ、一先ず勝負はお預けだ。ここからは試合に勝ちに行くからな」
 大森が力強い声で言う。
「あぁ。今の打席で、現時点での俺と剣都との力の差もわかったことだし、これ以上わがままなことは言わねぇよ。何より三年の先輩たちにとっては最後の大会なんだからな」
 大智は大森の目を真っすぐ見つめる。
「ま、そういうことだ。きっちり頼むぜ」
 大森はそう告げると踵を返して自身のポジションへと戻って行った。

「しゃあ、続け、続けぇ!」
 港東高校ベンチから活気のある声が飛び交う。
 剣都が打った先制ホームランの効果か、ベンチから声を出している港東ナインの顔には余裕が伺えた。
 続く三番、四番バッターに対し、大智は大森のサイン通り投げた。
 結果は三番をセカンドライナー、四番をセンターフライに打ち取った。
 四番バッターは一塁ベースを回りながら悔しそうな表情をしていた。
「ふ~、さすがは強力打線のクリーンナップ。嫌なスイングしやがる」
 マウンドからベンチに戻ってきた大智が大森の側に寄って言う。
「あぁ。あれなら剣都を二番に置けるのも納得だよ。紅寧ちゃんのノートがなかったら、絶対に九回まで持たなかったな」
 大森がしみじみと言った様子で言う。
「だな。紅寧にはほんと感謝しないとな」
「ほんと、ほんと」
 大森が頷く。
「こりゃ、勝っても負けても何かお礼しないとな」
「どうせなら勝利と一緒にプレゼントしようぜ。剣都には悪いけどな」
 大森がニッと笑う。
「そうだな」
 大智もニッと笑い返した。

 円陣を終え、ベンチの中に入った大智はすぐさま愛莉の許へと向かった。
 そして、置いておいた自身のタオルを取ると、汗を拭いながら愛莉に問いかけた。
「どうだった? 俺と剣都の勝負は」
「複雑……」
 愛莉は声をかけられても、大智に顔を向けることなく、真っすぐホームの方を見つめながらぼそっと呟くように言った。
「そっか……。ま、そうだよな」
 大智はベンチ椅子に深く腰掛けると、斜め上に覗く青空を見つめた。
「剣都の公式戦初ホームランが見られたのは凄く嬉しい。でも……、その相手が大智だった。それに今は千町のベンチにいるから。正直、色んな感情が混ざり合ってて、自分でもよくわからない……」
 愛莉が心苦しそうに語る。
 と、その時、大智の隣に難波がドスッと座ってきた。
「あれ? お前一番だろ? こんなことで何してんだよ」
 大智が眉間に皺を寄せて訊く。
「もう終わったよ。初球、キャッチャーフライ」
 難波が大智の反対側に顔を向けて言う。
 それを聞いた大智は苦い顔を浮かべていた。
「おいおい、初球かよ」
「打てそうな気がしたんだけどな。ホームラン」
 難波は不思議そうな表情を浮かべていた。
「いや、だからだろ……」
 大智の顔は更に苦い顔になっていた。
「ま、終わったことをグチグチ言ったって仕方がない。俺は俺で、さっきの借りをきっちり返さないといけないしな」
 大智はそう言うと、椅子から勢い良く立ち上がった。そして、ヘルメットを被り、バットを持ってベンチを出て行く。
 大智がベンチを出た時、二番の上田は既にバッターボックスに立ってバットを構えていた。大智は急いでネクストバッターズサークルへと向かった。

 二ボール、二ストライクからの五球目。
 金属音と共にボールがライト上空へと飛んで行く。
 大智はその場にバッと立ち上がった。
「よっしゃ! ツーベー……、ス?」
 ボールは大智の予想に反し、ライトスタンドへと吸い込まれていった。
「あらら」
 ボールが吸い込まれたライトスタンドを見ながら大智が呟く。
 ダイヤモンドを一周して還って来た上田を大智はハイタッチで迎えた。
「たった二か月ほどでブランクを埋めるとはな。驚いたよ」
「バーカ。相手が舐めてきてくれたからだよ。次はそう上手くはいかんだろ。この後打つお前もな」
 上田は真っすぐな目で大智に訴えかけた。
「だろうな」
 大智はマウンドから自分達のことを見ている相手のバッテリーを横目で見ながら、呟くように言った。
「しかし、あの一点は俺の責任だから俺が返すつもりでいたんだけどな」
 大智がバックスクリーンに記された一回表の一点を見ながら言う。
「なら、このまま逆転しちまえよ」
「この後はそう上手くいかないんじゃなかったのか?」
 大智が訊く。
 上田は大智に背を向け、ベンチへと足を踏み出した。
「責任を感じてんなら意地で取れよ」
 上田が大智に背を向けたまま言う。
「正論だね」
 大智はヘルメットの位置を整えると、バッターボックスへと向かった。
 大智の放った打球が左中間を破って行く。
 大智は悠々と二塁に到達すると、自軍のベンチに向けて軽くガッツポーズをした。
 千町高校のベンチでは大智と同じようにガッツポーズをする者がいたり、手を口元に持って来て大声で大智に賛辞の声をかける者もいたりと、大いに盛り上がりをみせていた。
 四番の大森が打席に立つ。
 大智の二塁打に盛り上がりを見せていた千町高校ナイン声の対象は打席に立つ大森に変わった。
 千町高校ベンチからは大森への激励の声が飛び交っている。
 二ボール一ストライクからの四球目。
 外よりの球を大森は強引に引っ張りにかかった。
 ボールは転がりながら一、二塁間を抜けて行く。
 打った瞬間にスタートを切っていた大智は三塁を蹴ってそのままホームへと向かった。
 一、二塁間を抜けた打球をライトの剣都が前進しながら捕球する。剣都はボールを掴むと素早く右手に持ち替え、ホームへと送球した。矢のような送球がキャッチャー目がけて真っすぐ進んで行く。
 三塁を回っていた大智がホームへと還って来る。
 剣都からの送球もキャッチャーの許へと還って来た。
 剣都がホームへと滑り込む。
 それと同時に剣都からの送球を捕ったキャッチャーが大智の足にタッチする。
 球場は静まり、審判の判定を待った。
「アウト!」
 審判の握った右手が上がり、高らかなコールが響き渡る。
 アウトの判定を受けた大智はユニホームに付いた土を払い落しながら自軍のベンチへと戻って行った。
「惜しかったね」
 ベンチに戻ってきた大智に愛莉が声をかける。
「たくっ。さっきのホームランといい、今のバックホームといい、緊張という言葉を知らんのか、奴は」
 既にライトの定位置に戻って、次のプレーに備えている剣都を大智は顔をしかめて見ていた。
「そういえば、剣都が野球で緊張してるところって見た事ないかも」
 愛莉が思い立ったように言う。
「あいつは昔から飛び抜けて上手かったからな」
「センスの塊みたいなものだったよね」
「あぁ。でもってそんなやつが誰よりも努力するんだからな。プレッシャー以上に自信があるんだろう」
「そうかもね……」
 大智と愛莉がそんな会話しているうちに、五番の小林はセカンドゴロに倒れていた。
 愛莉と会話をしながらもそれを見ていた大智は、グラブを持って椅子から立ち上がった。
「ま、だからと言ってこっちも負けるわけにはいかないけどな」
 椅子から立ち上がった大智は愛莉の方に振り返ると、ふっと笑みを浮かべてからベンチから出て行った。
「頑張れ。負けるな」
 愛莉は小声でそう呟きながら、大智の背中を見送った。

 二、三回はどちらのチームもランナーを許すことなく三者凡退に終わった。
 試合は四回の表、港東高校二番からの攻撃。剣都との二回目の対決を迎えていた。
「とりあえずホームラン以外ならなんでもOKだからな」
 守備に就く前に大森はマウンドに言って大智に声をかけた。
「敬遠でもいいか?」
 大智が真顔になって言う。
「お前がそれでいいんならな」
 大森も真顔で言い返した。
 それを聞いた大智は大森から顔を背ける。
「んにゃ。それだけは絶対にしねぇ」
「じゃあ嘘でもそんなこと言うんじゃねぇよ」
 大森はホームの方に振り返り、大智に背中を向けて言った。
「へ~い」
 大智は帽子を深く被り直しながら返事を返した。

 四回の表。
 先頭バッターの剣都が打席に入る。
 一打席目に放ったホームランの期待感からか、スタンドからの応援が他の選手の時よりも大きくなっている。
(今回はそう簡単には打たせねぇ、ぜ)
 大智が一球目を投じる。
 剣都はそのボールを見送った。
 コースは外角低めいっぱい。
「ストライク」
 審判がコールする。
 二球目は同じく外角のストレート。
 しかし、初球よりも僅かに外れてボール。
 三球目。外へのスライダー。
 剣都のバットがボールを捉える。
 ボールは一塁側スタンドへと飛んで行った。
 ファールボール。
 一ボール、二ストライク。
 カウントでは大智が剣都を追い込む形となった。
 しかし、剣都はなかなか打ち取れない。
 剣都は大智が投げる球を次々とファールにしていった。
 厳しいコースに投げたストレートも、タイミングを外そうと投げた変化球も、ことごとくファールにされた。
 次第に大智と大森は精神的に追い込まれていった。
「なるほど。真向勝負して来ないなら、するように仕向けるまでってか?」
 悠然とした様子でバッターボックスに立っている剣都を見つめながら大智が呟く。
 大智は大森からのサインを確認する。
 大森からのサインはストレート。
 そして首を縦に動かした。
 それを見た大智もゆっくりと首を縦に一度動かした。
 振りかぶった腕の間から覗く大智の顔つきが変わる。
 大智は渾身のストレートを投げ込んだ。
 だが、剣都は待ってましたと言わんばかりのタイミングでバットを振りにかかる。
 剣都のバットが大智の渾身のストレートを捉える。
 鋭い金属音と共に、地を這うような打球がショートの正面へと転がっていく。
 ほぼショートの定位置。難波がグラブを構える。
 しかし……。
「なっ!」
 見たこともない打球の速さに難波はボールを弾いてしまう。
 難波は急いでボールを拾いに行ったが、打球の強さもあって、大きく弾いていたボールを拾った頃には剣都は既に一塁へと到達していた。
 それを見た難波は拾ったボールを大智へと返した。
「わ、わりぃ」
 ボールを投げ返しながら難波が謝罪の言葉を述べる。
「気にすんな。ほとんど練習もできてなかったのに、今の打球から逃げなかっただけでも大したもんだよ」
 大智は平然とした態度で難波に言った。
「あ、あぁ」
 しかし、難波の返事の歯切れは悪い。
 踵を返して定位置に戻って行く難波の足取りは重く見える。
 そんな難波の様子を大智は少し心配そうに見ていた。

 三番バッターの打球が再び難波の許へと転がって行く。
 先ほどの剣都の打球とは違って平凡な当たり。
 難なく処理できる打球でゲッツーも狙えるコースだ。
 難波は、今回は難なくボールを捕球した。
 そして、セオリー通り、ゲッツーを狙う為、難波はセカンドへとボールをトスしようとした。
 が……。
 ボールをトスしようとした瞬間、難波はボールを握り損ねてボールを落としてしまう。
 結果、ランナーはセカンドへ進塁。
 打ったバッターも一塁へ出塁した。
「す、すまん」
 難波は申し訳なさそうに謝りながら大智にボールを戻した。
「どんまい、どんまい。次、次」
 大智はできるだけ明るく難波に声をかけた。
 しかし、大智にボールを返した後の難波は俯いていて、大智の声が聞こえているのかどうかわからない状態だった。
「ふむ……」
 そんな難波の様子を見て、大智が呟く。
 大智はそのまま、静かにマウンドへと戻って行った。
「プレッシャーに弱ぇ~」、「達者なのは口だけかよ」、「負けたのあいつのエラーのせいだろ」、「俺たちの三年間返してって感じ」
 難波の頭の中では過去に言われた、心ない言葉の数々がうごめいていた。
 そして、それは難波の体に重くのしかかる。
 難波の目はホームの様子を捉えてはいるが、心ここにあらずの状態だった。
「ストライク! バッターアウト」
 大智が相手の四番を三振に取る。
 ピンチで四番が相手ということもあり、まだ序盤ながら、大智は全力で相手を抑えにいった。
 大智は続く五番、六番バッターも気迫溢れるピッチングで連続三振に切って取った。
 ピンチの場面なので、打たせないという気迫が込もるのは当然だが、この時の大智にはそれ以外にも何かしら特別な思いを込めているようにも感じられた。
 それを一番感じていたのは難波だった。
 エラーの後、心ここにあらずの状態だった難波だったが、大智の気迫溢れるピッチングを見るとハッとして、意識をグラウンドに取り戻していた。
 その後は大智のピッチングに見惚れた様子でその場に立ち尽くしていた。
 三アウトを取った後も佇んだままだった難波は皆がベンチに戻って行くのを見ると慌ててベンチへと向かった。
 難波が皆から少し遅れてベンチ前に着くと大智は難波の許へと寄って行った。
「な~に暗い顔してんだよ」
 大智が少しおどけた声で話かける。
「すまねぇ……」
 難波は俯きながらか細い声で謝った。
「気にすんな。0点で抑えたんだ。もう切り替えろよ」
 大智は難波の肩に手を置くと笑顔を向けた。
「ごめん。やっぱり俺、無理だわ……。他の誰かと交代してくれないか」難波は俯いたまま、大智から顔を背けるようにして言った。
「ば~か。九人ちょうどしかいないうちのどこに代わりがいんだよ」
 難波は見ていないが、大智は眉をひそめている。
「あっ。あぁ、そうか……。じゃあ、他の人とポジションを……」
 難波はそう言いながら顔を上げて周りを見渡す。
 しかし、周りはきょとんとした様子で難波を見ていた。
 そんな難波の様子を側で見ていた大智は突然、難波の両肩をガッと掴んだ。
「おい! さっきから何、弱気になってんだよ! お前と代われるやつなんて、今のこのチームにはいねぇんだよ」
 大智は掴んだ難波の肩を揺らしながら強めの口調で言う。
「けど、このままじゃ俺、絶対にまたエラーするし、迷惑かけるぞ……」難波はまた視線を地面に落としていた。
「いいんだよ。エラーしても」大智の声色が穏やかに変わる。
「は?」大智のその言葉を聞いた難波は顔を上げると首を傾げていた。
「エラーに限らず野球にはミスがつきもんなんだよ。プロでもあるまいし。俺らはただのアマチュア。ミスして当たり前なんだよ」そう語る大智の表情はどこか穏やかに感じられる。
「バッター!」
 球審が千町高校ベンチに声をかける。
「おい。次、大智からだぞ」
 審判の声を聞いた大森が大智に声をかける。
「お~っと。そうだった、そうだった」
 大智は急いで打席に向かう準備にかかった。
 打席に向かう準備をすぐに終えた大智だったが、ベンチから出るとすぐにはバッターボックスには向かわず、ベンチから出たところで立ち止まった。
 そして、ベンチに背を向けた状態で難波に声をかけた。
「それとな、難波」
 名前を呼ばれた難波は大智に視線を向けると、黙ってその背中を見つめた。
「例え誰かがミスしたってな、周りがカバーすればいいんだよ。野球は一人でするもんじゃねぇんだからな」
 大智は振り返って、難波に笑顔を送るとバッターボックスへと向かった。
 難波はただ呆然と大智の後ろ姿を見ながら涙を堪えるように唇を噛みしめていた。

 四回の裏、先頭の大智がセンター前ヒットを放って一塁へ出塁する。
 続く四番の大森もライト前にヒットを放ち、大智に続いた。
 千町高校が初回ぶりにチャンスを作った。
 ノーアウト一、二塁。
 五番小林は送りバントを決める。
 警戒される中できっちりサード線にボールを転がした。
 大智と大森がそれぞれ一つ先の塁へと進塁する。
 これで一アウト二、三塁。
 より点が入りやすい形を作った。
 打席に六番の木村が入る。
 ランナーの大智と大森、バッターの木村が監督藤原のサインを確認する。
 藤原は両手を使い、顔と体の部位を触って三人にサインを送った。
 とは言え、その動き自体に意味はなかった。
 初球、相手バッテリーはスクイズを警戒して外にボールを外す。
 それを見て藤原は再び意味を持たないサインを送った。
 二球目。
 変化球が外角低めストライクゾーンをかすめ、ストライクとなる。
 藤原がサインを送る。
 今回も意味はない。
「スクイズしないんですか?」
 藤原の隣でスコアブックを付けている愛莉が尋ねる。
「あぁ」
 藤原は腕を組んで、グラウンドを見つめたまま答えた。
「でも、上位打線ならまだしも、うちが港東みたいな強いチームから点を取るには何かしらしかけないといけないんじゃ……」
「それはそうなんだがな……」
 藤原は相手バッテリーの様子を見ながら答える。
「じゃあ、どうして何もしようとしないんですか?」
「ん? いやな、おそらく相手もそれくらいのことはわかっているだろうと思ってな。打者が一巡して、うちの打線が上位と下位では実力差が激しいことくらいわかってないわけないだろうしな」
「確かに」
 愛莉が納得したように頷く。
「となれば、チャンスで下位に回った場合、当然相手はこちらの動きを警戒してくる」
「そうですね」
「だから今回はあえて何もせん。相手が警戒して自滅してくれれば儲けもんだ。それに、下手に動いて春野の体力を無駄に削りたくはないしな。もし春野が早々にバテて点差でも付けられようもんなら、それこそこちらに勝ち目はなくなってしまうからな」
 藤原は腕を組みながら堂々と語った。
 愛莉は藤原が語り終えると、藤原の方をじっと見つめた。
「ん? どうした?」
 藤原が不思議そうな様子で愛莉を見る。
「いや、結構ちゃんと考えてるんだなと思って」
 愛莉は手元のスコアブックに視線を戻しながら言った。
「おいおい。俺を何だと思ってたんだ?」
 愛莉はそう訊かれると、顔を上げて無言で藤原を見つめると、顎に手を当て、「う~ん」と悩み始めた。
「楽観的で、ただ野球が好きなおじさん、……かな?」
 愛莉は作った笑顔を藤原に向けた。
「あの~。俺、仮にも君らの先生だし、監督なんだけど……」
 藤原は自身を指差しながら苦笑している。
「あ、すみません。忘れてました」
 愛莉はそう言って、頭を掻きながら、てへへっといった表情を浮かべていた。
「お~い」
 藤原は再び苦笑いを浮かべ、呟くようにツッコんだ。
「てか、そんなことより試合に集中してください!」
 愛莉はハッとすると、藤原に強めの口調で言った。
「すみません」
 愛莉の勢いに押された藤原が頭を下げて謝る。
(威厳ね~)
 ベンチで二人の様子を伺っていた選手はその様子を見て一斉に心の中で呟いていた。
 一方、グラウンドではスクイズを警戒した港東バッテリーが六番の木村を一塁へと歩かせていた。
 空いていた一塁も埋まり、一アウト満塁となった。
 一本出れば大量得点のチャンス。
 しかし、塁が埋まったことで、内野ゴロを打った場合、ダブルプレーを取られると、一瞬にしてチャンスを潰してしまう可能性もある。
 この後の結果次第で一気に試合の流れが変わる場面だ。
 七番の加藤が右打席に入る。
「ここで加藤か……」
 監督の藤原が腕組みをしながら難しい顔で呟く。
「加藤さんならタッチアップが期待できますね」
 藤原の呟きに愛莉が反応する。
「あぁ。ただし……」
 打席の加藤が初球を盛大に空振りする。
「当たればだけどな……」
 藤原と愛莉は盛大に空振りをしてバランスを崩している加藤を見つめながら、冷汗を垂らしていた。
 加藤は続く二球目もボールとバットの間を大きく空けて空振りをした。
「おいおい。今、ボールとバットの間が三十センチは空いてたんじゃないか?」
 藤原が冷汗をかきながら言う。
 すると次の瞬間、愛莉は突然ベンチから立ち上がると、ダグアウト前の手すりに手をかけ、バッターボックスの加藤めがけて思いっきり叫んだ。
「加藤さん! ボールをよく見て!」
 愛莉の声が届いたのだろう、加藤はベンチの方に振り返った。
 加藤は驚いた顔でベンチを見つめていたが、しばらくすると表情を落ち着け、一度だけ大きく首を縦に動かした。
 加藤が頷いたのを見届け、愛莉は自身の場所に戻ろうと後ろに振り返る。
 するとそこには両耳を手で覆い、苦笑いで立っている藤原の姿があった。
「意外と大きな声出せるのね」
「す、すみません!」
 愛莉は急に我に返ったように慌てふためくと、顔を真っ赤に染め、すぐさまベンチに座り直した。
「いやいや、全然いいんだけどさ。というか、秋山ちゃんが叫んだ効果、あったみたいよ」
「へ?」
 藤原はバッターボックスの加藤を指差した。
 それを見て、愛莉はホームに目を向ける。
 バッターボックスでバットを構える加藤からは先程までの硬さがなくなっていた。
 そんな加藤の姿を見て、愛莉はほっとしたように一つ息を吐いた。
 加藤に対しての三球目。
 外に逃げるように変化する球を加藤は悠然と見送った。
「よしよし、ちゃんと見送ったな。けど、さっきまでの加藤だったら、いとも簡単に空振りしてただろうな」
「かも……、しれませんね」
 愛莉は少し恥ずかしそうに藤原に返事を返した。
 相手は四球目も外のボール球になる変化球を投げて来た。
 だが今度は三球目よりも内側に来ている。
 加藤はその球に思わずバットを出しそうになる。
 が、何とかバットを出すのを堪えた。
 これで二ボール二ストライク。
 五球目。
 内角、胸元へのストレート。
 加藤はその球を反射的に打ちにいった。
 だが、タイミングは遅い。空振り、良くても確実に詰まるタイミングだ。
 加藤は持ち前のスイングスピードで辛うじてバットにボールを当てた。
 しかし、当たった場所はバットの根っこ、グリップに近い部分。
 加藤のバットからは鈍い金属音が響いた。
 それでも力のある加藤のスイングは何とかボールを外野まで運んだ。
 ボールはライト方向へ飛んで行く。
 ライトに就く剣都はほぼ定位置の場所で足を止めていた。
「ちっ。微妙だな」
 ライトが構えている位置を見て藤原が小さく呟く。
 三塁ランナーの大智は、三塁ベースに付いて、いつでもスタートを切れる体勢を取っていた。
 ボールが剣都の許へと落ちて来る。
 剣都がグラブでボールを掴む。
 その瞬間、大智はホーム目がけてスタートを切った。
 ボールを掴んだ剣都は一瞬も躊躇することなく、流れるような一連の動作でホーム目がけてボールを投げた。
 スタートを切った大智はただ一点、ホームベースだけを見つめて走っている。
 大智がホームにヘッドスライディングで滑り込んだ。
 一方、剣都からは初回と同様に矢のような送球が返って来た。
 剣都からの送球を受けたキャッチャーが大智にタッチに行く。
 外から見たタイミングは、ほぼ同時。
「アウト! アウト!」
 審判の右拳が上がる。
 大智の手は間一髪のところでキャッチャーのミットに妨げられ、ホームに届いていなかった。

 アウトの判定を受けた大智がゆっくりとベンチに向かう。
 全力疾走とヘッドスライディングで上半身を地面に打ち付けたせいで、大智の息遣いは荒くなっていた。
「ゆっくりでいいからな」
 キャッチャーのポジションに向かう大森がすれ違いざま、大智に声をかける。
「あぁ」
 大智は軽く頭を上下させながら答えた。
「はい、大智」
 ベンチに帰って来た大智に愛莉が飲み物とグラブを渡す。
「さんきゅ」
 大智は愛莉からグラブと紙コップを受け取ると、紙コップに入った飲み物を一気に口に入れた。
 そして、もう一度お礼を言いながら空になった紙コップを愛莉に渡した。
「頑張って」
 紙コップを受け取った愛莉が大智に声をかける。
「あぁ。行ってくる」
 大智はそう言いながら帽子の位置を整えると、ベンチから飛び出して行った。
 五回の表、港東高校の攻撃。
 七番から始まる港東打線を大智は三者凡退に切って取った。
 しかし、三塁からホームまでの全力疾走とヘッドスライディングで体力を消耗した後、すぐにマウンドに上がった大智の球は前の回よりもスピードもコントロールの制度も落ちていた。
 七番からの下位打線とは言え、相手は強打を誇る港東高校打線。
 簡単に打ち取れるはずもなく、大智はこの回だけで三十球近く投げることとなった。
 結果的には三者凡退だったが、まだ試合の中盤だというのに、大智は既にかなりの体力を消耗していた。
「大丈夫?」
 息を切らしてベンチに帰って来た大智の姿を見て、愛莉が心配そうに声をかける。
「何が?」
 大智は滝のように流れ出ている汗をタオルで拭いている。
「体力。五回でこんなに疲れてる大智なんて見たことないから……」
「だろうな」
「へ?」
 大智の返答に愛莉は一瞬、虚をつかれたようになる。
 だが、大智は気にせずに続けた。
「やっぱ強ぇよ、港東は。剣都以外も油断したら一気に持っていかれそうな雰囲気をプンプン漂わせてやがる」
 大智はタオルから顔を上げると、グラウンドの港東ナインを見渡した。
「九回まで持つの?」
「さぁな」
 大智は平然とした様子で答える。
「さぁ、って……」
「なんたって九回を投げるのは初めてだからな。どんなもんなのかさっぱりわからん」
 大智はあっけらかんとしている。
「それはそうなのかもしれないけど……」
 あっけらかんとする大智とは違って愛莉はかなり心配そうにしている。
「でも、だからこそ、この試合は最後まで思いっきりいける気がするよ。九回投げるしんどさを知らないからな」
 大智はそう言うと、愛莉に微笑みかけた。
 そんな大智の微笑みを愛莉は呆れた様子で見ながらも、口元には笑みを浮かべていた。
 そんな二人の許に九番の大西がやって来る。
「春野、すまん」
「えっ? 何がです?」
 大智はわけがわからないといった様子で大西を見ながら、首を傾げていた。
「てか、なに打席に立つ前から謝ってるんですか。そんな弱気じゃ、打てるものも打てな……、い……」
 大智はそこまで言うとあることに気が付いた。
「あれ?」
 大智がグラウンドに目を向けると、港東高校ナインはベンチに戻っていた。
 この回、八番から始まっていた千町高校の攻撃はあっという間に三者凡退で終わっていたのだ。
「えぇ……」
 それを見て大智は唖然とする。
「もう……、交代……」
 大智はグラウンドを呆然と見つめていた。
「ご、ごめん」
 大西が再び大智に謝る。
「いや、大丈夫ですよ。ええ、全然……」
 言葉とは裏腹に大智の顔は引きつっている。
 明らかに大丈夫そうではない。
「体力も落ちて、剣都に打席が回るこの回が踏ん張りどころだぞ」
 愛莉が大智にグラブを渡す。
「たくっ。ピンチだね~」
 大智は顔を上げ、帽子を顔にかぶせる。
 数秒その体制のままでいて、元に戻ると、正しい位置に帽子を被り直した。
「うしっ! 行くか!」
 大智は自身に気合を入れて、ベンチを飛び出した。
「どこ行くの?」
 ベンチを出て行く大智を止めるように愛莉が声をかける。
「どこって、マウンドに決まってんだろ」
 勢いを止められたことへの不満か、大智は眉間に皺を寄せていた。
「もしかして知らないの?」
 愛莉が真顔で訊く。
「何を?」
 大智の眉間には皺が寄ったままである。
「五回終了後、グラウンド整備があるってこと」
「へ?」
 大智の顔が一瞬にしてきょとんとした表情に変わる。
 大智はゆっくりとグラウンドの方へと振り返った。
 グラウンドでは既に整備が行われていた。
 それを見た大智はまるで何事もなかったかのように淡々とベンチへ引き返すと、自分の定位置へと腰を下ろした。
「けっ。気合十分だったのにな~」
 整備中のグラウンドを見ながら大智は口をとがらせている。
「まぁ、まぁ。でも良かったじゃない。剣都に回る前に少しでも回復できるんだから」
「まぁな。でも俺、追い込まれた時の方が燃えるんだけどな~」
 大智はベンチの天井を仰ぐと顔にタオルを乗せていた。
「それはそうかもしれないけど、その気合は終盤まで取っておいたら? 最低でもあと二回は剣都に回るんだし」
「ん? あぁ。ま、それもそうだな」
 大智は上げたタオルの隙間から一瞬だけ愛莉を見ると、また顔にタオルを乗せて、天井を仰いでいた。

 グラウンド整備は速やかに終えられ、六回の表、港東高校の攻撃から試合が再開された。
 港東高校は打順良く、一番から攻撃が始まる。
「フォアボール!」
 港東高校の一番バッターが悠々と一塁へと向かう。
「ちょっと、ちょっと。自らピンチを招いてどうする」
 マウンド上の大智を見ながら愛莉が呟く。
 大智は足下の土を荒々しく削っていた。
 二番の剣都がバッターボックスへと入る。
 この試合、ここまでで唯一大智の球をまともに弾き返しているだけあって、期待の声が高まっている。
 この試合初めてランナーを置いての対決。
 いや、今まで試合で対戦したことがなかった二人にとって、これは初めてのシチュエーションでの対決である。
 大森は剣都との対決の前にタイムを取ってマウンドの大智の許へと向かった。
「間違いなくこの試合のターニングポイントになるぞ」
 大森はマウンドに着いて早々、大智にそう告げた。
「わーってるよ」
 大智は平然とした様子で答える。
「なら先頭を四球で出してほしくはなかったんだけどな」
 大森はそっぽを向いて言った。
「しゃあねぇだろ。出しちまったんだから」
 大智が口を尖らせる。
「責任は?」
「三振でいいか?」大智がふっとした笑みを浮かべる。
「欲を言えばゲッツーがいいな」
 大森はニッとした笑みを浮かべた。
「それが出来たら苦労しねぇよ」
「冗談だよ。この回を0点で抑えれば十分だ」
 大森は笑顔でそう言うと、大智の胸を二度ミットで軽く叩いてから自身のポジションへと戻って行った。
 ノーアウト、ランナー一塁。
 大智は一塁ランナーを警戒しながら、剣都へ一球目を投じた。
 鋭い金属音が響いたかと思うと、目にも止まらぬ速さの打球がサードの横、三塁線上に飛んで行く。
 大智はすぐさま打球の方向に振り向いた。
 サードの小林はあまりの速さに動けないでいた。
 港東高校のスタンドは湧き立っていた。
「ファール!」
 三塁の塁審がファールの判定を下す。
 港東高校側からは球場を埋め尽くすほどのため息が漏れていた。
 大智は審判の判定を見てふ~っと安堵の息を漏らす。
「うしっ」
 大智はホームに背を向けて腕をぐるぐると回し始めた。
 その様子をマスク越しに見つめながら大森が呟く。
「おいおい。今更かい……」
 港東高校の応援のボルテージが高まる中、大智が剣都に対して二球目を投じる。
 大智の投げた球が大森のミットにバシッと音を立てて収まった。
 ストライク。
 剣都はピクッと動いただけで、大智の球を打ちには来なかった。
 三球目は外角へストライクからボールになる変化球。
 大智と大森は剣都に対して三振を狙いにいった。
「なっ!」
 ボールを捕ろうとする大森の目の前に剣都のバットがパッと現れる。
 剣都は外に逃げて行く球をバットの芯で捉えると、シャープにバットを振り抜いた。
 鋭い打球があっという間に一、二塁間を抜けて行く。
 大森はその打球を見ながら唖然と立ち尽くしていた。
「あいつにチームバッティングをされたらたまらんな……」
 一塁ベース上にいる剣都を見ながら大森は、顔を引きつらせ冷汗を垂らしていた。
 ノーアウト一、二塁。
 ここで港東高校のクリーンナップを迎える。
 まずは三番。
 だが、相手の三番は打ちには来ず、大智の球をきっちりと転がし、送りバントを決めた。
 これで一アウト二、三塁。
「二、三塁にランナーを置いて、バッターは強打を誇る港東高校の四番……、か。しかもまだ一アウト……」
 大智が二塁、三塁、ホームを順に見渡しながら呟く。
「どうしよ……」
 大智は苦笑を浮かべていた。
 大智は一旦、大きく深呼吸をすると、ベンチいる愛莉に目を向けた。
 すると愛莉と目が合った。
 だが、愛莉は大智ち目が合っても、全く動じることなく、ただじっと大智を見つめていた。
「決まってるか……」
 大智は帽子をグッと深く被った。
 港東高校の四番が打席に入る。
 その姿には名門校の四番という風格が確かに漂っている。
 だが、大智は全く動じない。
 寧ろ相手を押さえつけるかの如く、力技でねじ伏せにかかった。
「ストライク! バッターアウト!」
「うちの四、五番がチャンスの場面で連続三振だと……」
 港東高校の監督は呆然とグラウンドを見つめていた。

「ナイピー」
 守備から戻ってきた千町高校ナインが大智に声をかけ、ハイタッチを交わす。
「ナイスピッチ」
 愛莉もベンチの中から大智に笑顔で声をかけた。
「サンキュ」
 大智はニッとした笑顔を愛莉に返した。
「二番から始まるこの回がチャンスだ。頼むぜ、上田」
「あぁ」
 上田はキリッとした目を大智に向け、バッターボックスへと向かった。
「ストライク、バッターアウト」
 上田が空振り三振に倒れる。
「おいおい」
 バッターボックスの上田を見ながら大智が呟く。
「こんだけ粘れば十分か?」
 バッターボックスから戻って来た上田がすれ違いざま大智に訊いた。
「十分過ぎるだろ。見てみろよ、相手のピッチャー。大分肩で息をするようになってるぞ」
 大智がマウンドを指さして言う。
「ま、欲を言うなら塁に出て欲しかったけどな」
「実力不足だ。今日の所は……、な」
 そう告げる上田の口調には悔しさが混ざっている。
 手には拳がギュッと握られていた。
「りょーかい」
 それだけ言って、大智はバッターボックスへと向かった。
 港東のピッチャーは上田への投球の疲労からか、大智に対しては制球が定まらなかった。
 大智は一度もバットを振ることなく四球を選んだ。
 そして、ここまでライト前を二本放っている大森が打席に立つ。
 その初球。
「走った!」
 港東高校のファーストが声を張り上げる。
 一塁ランナーの大智が盗塁を試みたのだ。
「あのバカ」
 大智が走ったのがわかった大森が呟く。
 不意を突かれたキャッチャーは二塁へ送球するも、その送球は逸れてしまった。
 大智の盗塁が成功する。
 大智が二塁へと進んだことで、相手バッテリーは大森とは無理に勝負をしに来なくなった。
 ピッチャーの息を整える意味もあってか、大森には敬遠気味の四球を与えた。
 五番の小林が打席に向かう。
 その目にはこの試合一の闘志が漲っている。
 ベンチでは上級生が懸命に小林に向けて声援を送っていた。
「変わったよな。あいつ」
 藤原が呟く。
「へ?」
 突然のことに愛莉は思わず藤原に訊き返した。
「ん? あぁ、すまん。独り言だ」
「変わったって、どう変わったんですか?」
 藤原は独り言だと言うが、愛莉は問い直した。
「いやな、俺が千町に来た時、あいつはあんなに闘志を燃やすような奴ではなかったんだよ。まぁ無理もないけどな。人数も揃わない、公式戦に出られるどうかもわからないって状況で闘志むき出しにしろって方が難しいわな」
「まぁ、そうですね」
「あいつは、まぁ上級生みんなに言えることだが、楽しそう野球をしていた。けどそれは、あくまで趣味の範囲での話だ。少しでも上手くなって、試合に勝ちたいという意思は、少なくとも俺が千町に来た時の練習からは感じ取れなかった。けど、春野と大森が入ってきた頃から小林の中で何かが変わって行くのを感じるようになった。あいつの中で何かが動き出していたんだ。暗闇の中で一筋の光を見つけたようにな。春からの成長度だったら春野にも引けをとらないよ、あいつは」
 藤原はしみじみとした様子で語った。
「そうだったんですか…‥」
 愛莉はそのままバッターボックスの小林を見つめた。
 一方、その小林はと言うと、立ち直った相手ピッチャーにボール球を挟みながらも、、見逃しと空振りで二ストライクと追い込まれていた。
 カウントは一ボール二ストライク。
 コンッと鈍い音が響いて、ふらふらっとした打球が、セカンドの後方、センターよりに飛んで行く。
 その打球をセカンドとセンターが追っている。
 その様子を見ていた大智はボールが落下してくる前に二塁からスタートを切った。
 しかし、それは博打的なスタート。
 百パーセント落ちるとは言い難い距離である。
 ボールが落ちて来る。
 ボールを追っていたセカンドが打球目がけて後方に飛び込む。
 が、打球はセカンドのグラブを越えて、芝生の上に落ちた。
 その瞬間、千町高校のベンチが大盛り上がりを見せる。
 打球が落ちると信じてスタートを切っていた大智は既に三塁を回っていた。
 落ちた打球をセンターが素早く処理する。
 センターは捕った球を素早くホームへと送球した。
 力強い球がホーム目がけて飛んで行く。
 大智がホームに滑り込む。
 センターからのバックホームは間に合わない。
 セーフ。
 二対一。
 千町高校が一点を勝ち越した。
「ナイスバッティング!」
 格上だと思っていた相手に一点を勝ち越した千町高校。
 ベンチでは皆が身を乗り出し、ヒットを打った小林に向けて賛辞の言葉を送っている。
 一塁ベースに付いている小林は仲間の声に控えめなガッツポーズで答えた。
 照れくさそうにしながらも、その顔は喜びに満ちていた。
「ナイスラン!」
 勝ち越しのホームを踏んでベンチに帰って来た大智も、ベンチにいるチームメイトと喜びを分かち合い、ハイタッチを交わした。
「暴走とナイスランの紙一重だったな」
 仲間と一通りハイタッチを交わし、愛莉の隣の定位置に戻ってきた大智に藤原が言った。
「えぇ。正直、賭けでした」
「だろうな。成功したからいいものを、賭けに出るにはまだ早かったんじゃないか?」
「セオリーで言えばそうかもしれません。けど、うちと港東との実力差を考えたら、常に賭けに出るくらいじゃないと点は取れませんから」
「もし仮にさっきの打球を取られて、ゲッツーをくらっていたら、流れは完全に相手に傾いていたかもしれない。その考えはなかったのか?」
「勿論考えましたよ。でも、玉砕覚悟くらいの気持ちがないと下剋上はできないですから。それにもし、相手に流れが行ったなら取り返せばいいだけのことですから。次の表の守りを三者三振で抑えてね」
 大智はそう言うとニヤリとした笑顔を藤原に向けた。
「……ふっ。大した奴だよ。お前は」
 藤原は呆れと笑みを交えた顔を浮かべていた。
「どちらにせよ、次の守りは重要だぞ。まぁ、お前らなら言うまでもないと思うけどな」
「はい。けど、本当の山場は八回ですよ」
「八回? あぁ、あの二番に回るな」
「えぇ。あいつに回る以上、一点差なんてあってないようなものですから」
「しかし、噂には聞いていたが、噂以上だな」
「えぇ。けど、そう思っているのはグラウンドにいる人間だけですよ。外の人間からしたら俺なんて強豪校が夏のプレッシャーで打ちあぐねている、ぽっと出の一年生くらいにしか思ってないでしょうからね。そんな相手からいくら打ったところで大した評価にはなりませんから」
「そりゃ、ま、そうだ」
「けど、夏の大会が終わる頃には大注目に変わってますよ」
「どっちが?」
 藤原が真顔で問う。
「この試合の勝者……。ですかね」
「どっちが勝つんだ?」
「さぁ? それは野球の神様が微笑んだ方、としか言いようがないですね」
「自分が勝つとは言わないんだな」
 藤原は意外そうな顔で大智を見ていた。
「本当はそう言いたいところですけど、まだ一度もあいつをまともに抑えられてないんでね」
「勝負を避ける気は?」
「ないですね。ダメですか?」
「いいや、結構。勝負から逃げてるやつに、野球の神様は微笑んでくれんからな」
 藤原がふっと笑みを浮かべる。
 大智も同じようにふっと微笑み返した。

 六回裏、千町高校の攻撃は、一アウト一、二塁から六番の木村が四ー六ー三のダブルプレーに倒れ、そこで終了した。
 そして迎えた七回。
 ラッキーセブンとも言われ、何かが起こりそうな回だが、港東高校は六、七、八番、千町高校は七、八、九番がそれぞれ三者凡退に倒れ、あっという間にこの回を終えた。
 試合は八回の表に突入する。
 港東高校の攻撃。
 先頭の九番バッターが三振に倒れ、一アウトで打順が先頭に帰る。
 港東高校の一番バッターが打席に入った。
 大智はテンポよく相手を二ストライクに追い込んだが、港東の一番は追い込まれてから、粘りをみせた。
 残りの攻撃はあと二回。
 絶対に負けるわけにはいかないという熱意が溢れ出していた。
 鈍い金属音が鳴り、平凡なゴロがサードに転がって行く。
 ボールはサードの小林の正面に転がっている。
 小林が捕球体勢に入る。
 だが、次の瞬間、港東高校側のスタンドが沸いた。
 ボールがサード後方を転々としている。
 サードの小林がボールを後逸していたのだ。
 それを見たバッターランナーはすかさず二塁へ進塁した。
「ご、ごめん」
 小林がマウンドに近寄り、大智に謝る。
「全然大丈夫ですよ」
 大智は笑顔で平然を装っていた。
「とは言ったものの……」
 大智はホームに目を向ける。
 バッターボックスには当然ながら次のバッターである剣都が立っていた。
「一アウト二塁で剣都か……」
 呟きながら大智は剣都を見る。
「一ヒットで同点。ホームランなら逆転……、ね」
 大智は後ろに振り返ると、今度はバックスクリーンを見つめた。
 ホームに背を向けたまま一つ大きく深呼吸を入れる。
 そして、ホームへと向き直った。
 延長がなければこの試合最後となる二人の対決。
 ホームへと向き直った大智は剣都と静かに睨み合っていた。
 大智は二塁ランナーを警戒しながらセットポジションに入る。
 二塁ランナーが動く気配はない。
 大智は剣都に一球目を投じた。
「なっ」
 大智の投げた球がストライクゾーンを大きく外れる。
 大森は慌ててその球に飛びついた。
 二球目。
 一球目ほどではないが、はっきりとボールだとわかる球だった。
「逃げてるわけじゃないからな」
 大智にボールを返す際、大森は剣都に近づき、呟くように言った。
「わかってるよ。てか逃げるどころか力で捻じ伏せる気満々じゃねぇか」
 剣都が苦笑する。
「その通り。そろそろ来るぜ」
「だな」
 剣都はそう言うと、軽い深呼吸を入れて、集中力を高めた。
 三球目。
 二人の予想通り、大智の球がストライクゾーンに向かって来る。
 剣都は迷う事なくその球を打ちにかかった。
 だが、大智の球は剣都のバットの上をすり抜け、大森のミットに収まった。
「いっつ~」
 ボールを捕った大森は顔を歪ませながら声を漏らす。
「今日の最速。いや、今まで見てきた大智の球の中でも一番速かったな」
 剣都は平静を装って言うが、口元が僅かに引きつっている。
「流石にお前でも今の球を捉えるのは難しいか?」
「あぁ。ホームランを狙ってたらな」
「は?」
 剣都の答えを聞いた大森は目を丸くしていた。
 大智が四球目を投げる。
 剣都のシャープなスイングは大智の球を捉えた。
 目にも止まらぬ速さの打球が一塁線の右を抜けていく。
「ファ、ファール」
 審判が両手を上げる。
「ちっ、少し遅れたか」
 剣都は打球の行方を見ながら悔しそうに呟いていた。
(二球目でもうあの球にで合わせてくるとは……。やっぱり天才だな)
 大森は横目で剣都を見ながら汗を垂らしていた。
 そして五球目。
 剣都のバットが今度は大智の球を真芯で捉える。
 タイミングもばっちり。
 剣都が捉えた球は目にも止まらぬ速さで大智目がけて飛んで行く。
 大智は反射的にボールにグラブを伸ばした。
 バシッと音がする。
 ボールは大智のグラブに収まっていた。
 その瞬間、「セカン!」と大森が叫んだ。
 その声を聞いた大智は素早く二塁へと振り返った。
 そこには二塁ランナーが飛び出し、慌てている姿があった。
 大智はすぐさま二塁へボールを送った。
 ランナーは忙しない様子で帰塁を試みていた。
 セカンドの大西が二塁ベースに入り、大智からの送球を捕る。
 二塁ランナーは決死のヘッドスライディングでベースに戻った。
「アウト!」
 審判の高らかな声が響く。
 その瞬間、港東高校サイドからは大きなため息が漏れた。
 ベンチに帰ってきた千町高校ナインが大智の許に集まりハイタッチを交わす。
 皆、その顔に笑顔を浮かべている。
 大智も笑顔で皆とハイタッチを交わしていった。
「もしかして、俺たち勝てるんじゃ……」
 セカンドの大西が夢心地な様子でぼそりと呟いた。
「そうですね。でも、油断大敵ですよ。野球は九回からって言いますから」
 大智が大西に言う。
「そうそう。こいつの体力があと一回持つとは限らないですしね」
 ネクストに向かう上田が言う。
「お~い」
 大智は苦笑しながら上田の背中を睨んでいた。

 八回裏、千町高校の攻撃。
 この回先頭バッターである一番の難波は平凡なセカンドゴロに打ち取られた。
 バッターは二番の上田。
 上田は甘く入って来たストレートを狙い打つ。
 キッーンと鋭い金属音が響き、打球が左中間を破って行く。
 打った上田は悠々と二塁へ到達。
 表の守りを切り抜け、盛り上がりを見せていた千町高校ベンチが更なる盛り上がりを見せる。
「よ~しっ!」
 大智はバットをギュと握り締めネクストから立ち上がる。
 その瞬間、大智は僅かに動きを止め、一瞬何かを考えるような仕草を見せた。
 だが、すぐに動き出し、その後は何事もなかったようにバッターボックスに入ってバットを構えた。
 しかし……。
「ストライク! バッターアウト!」
 大智はストライクが来ても一度もバットを振ることなく、見逃しの三振に倒れた。
 チャンスで見逃し三振に倒れたにも関わらず大智は悠然とした様子でベンチに戻って来る。
 その道中、次のバッターである大森とすれ違う。
 大智の様子がおかしいことに気が付いていた大森はすれ違いざま大智に声をかけた。
「珍しいな。大智が一回もバットを振らずに帰って来るなんて」
「別に。コースが厳しかっただけだよ」
 そう告げる大智だが、目が泳いでいる。
 如何にも嘘をついている様子だ。
「嘘だろ」
 大森ははっきりと告げた。
 それに対し、大智はおどけるように答える。
「バレた?」
「お前分かりやす過ぎ。目が泳ぎまくってたぞ」
「え、マジ?」
「誰でもわかるレベルだったぞ。さっきのピッチャーライナーの時か?」
 大森は神妙な面持ちになって訊いた。
「あぁ。まだ少し痺れてやがる」
 大智は左手を開いたり閉じたりを繰り返している。
「最終回、大丈夫か?」大森は顔を曇らせ、心配そうに訊く。
「大丈夫だろ。痺れは順調に引いてるしな。この打席は念の為だよ。それに左手だぜ? ピッチングにそこまでの影響はねぇよ」
 そう話す大智はあっけらかんとしていた。
「そうか。ならいいけど……」
 大森の表情は完全には晴れないが、その顔には少しだけ安堵の表情が混じるようになっていた。
「あ、そうだ」
 大森の許からベンチへと数歩歩いたところで大智が何かを思い出したように声を上げた。
「心配ならもう一点取っといてくれよ」
 大智はバッターボックスへと向かう大森の方に振り返ってニッとした笑顔を向けた。
「了解」
 大森はふっと笑みを浮かべる。その顔には任せろと言わんばかりの表情が浮かんでいた。
「アウト!」
 しかし、大森はライトフライに倒れる。
「いやはや、頼りになりますな」
 ベンチ前に戻って来た大森に大智が独り言を呟くように言う。
「うっせぇ……」
 大森は怪訝そうな顔でツッコミを入れた。
 だが、そんな大森のツッコミを真面に聞く事なく、マウンドへ向かおうとした大智だったが、三アウトを取られ、チェンジになったにも関わらず、ネクストで座ったままの小林を見つけると、足を止めた。
「あれ? キャプテン?」
 ネクストで座ったままの小林の様子を首を傾げて見つめる大智。
 どうも小林は動く気配がない。
 大智は小林に声をかけに向かった。
「キャプテン? どうしたんですか? チェンジですよ?」
「へ!? あ、あぁ、チェンジか……」
 小林はなんだかふわふわとした様子である。
 顔色もどうにも優れない様子だ。
「え!? 大丈夫ですか? 顔色、あんま良くないですよ?」
 大智が小林の顔を覗きながら言う。
「へ!? だ、大丈夫だよ。ほんとに」
 大丈夫だと言い張る小林だが息遣いは荒く、足取りも重い。
「大丈夫……。じゃ、ないよな?」
 大智は足取り重そうにサードの守備へと向かう小林を指差しながら、大森に訊いた。
「あぁ。少し心配だな」
 大森もサードに向かって行く小林の様子を心配そうに見つめていた。
「つってもうちに代わりはいないしな……」
 大智の顔が曇る。
「小林さんの体力が持つのを祈るしかないだろ」
「だよな……」

 九回表。
 マウンドに大智が立つ。
 大智が投球練習を終え、この回の先頭バッター三番の山本が打席に立つと、港東高校側のスタンドからは、この日一番の声援が送られた。
 その声援には、何としてでも点を取って欲しいという全員の思いが乗せられているのがひしひしと伝わってくるようだ。
 ベンチにいる選手たちも、何としてでも一点をという想いで声を出している。
 それは剣都も例外ではなかった。
「遅すぎたな」
 港東高校のベンチを見ながら大智が呟く。
「野球は何が起こるかわからないんだぜ」
 大智は相手の三番に対し、一球目を投じた。
 ストライク。
 この回を抑えれば勝利とあって、大智の球にも力が込もっている。
 当然、港東の三番バッターのスイングにも力が入っている。
 だが、八回の裏の打席で、手の痺れを気にして一度もバットを振らなかったことが功を奏したのか、大智の球はまだ走っている。
 大智は先頭の三番を空振りの三振に切って取った。
 あとアウト二つ。
 続いて四番桜木が打席に入る。
 ここまで三打数無安打。四、六回のチャンスで相次ぐ凡退。
 そんな不甲斐なさに加え、強豪校の四番としての責任。三年生として最後の大会にかける思い。
 打席に立つ桜木からは彼が抱えている様々な想いがその大きな体から溢れ出していた。
 色々な想いを背負っているにも関わらす桜木の佇まいはどっしりとしている。
 少しでも油断しようものなら一瞬にして取り込まれてしまいそうな雰囲気だ。
 大智は港東の四番、桜木を前に、今一度気を引き締め直した。
 一度深く深呼吸を入れる。
 大智は一球目を投じた。