ようやく九人のメンバーを揃えることができた千町高校野球部。
 そしてあっという間の抽選会。
 夏はもう目前なのである。

 抽選日の夕方。
 大智と大森、そして愛莉はキャプテンの小林から抽選結果が送られてくるのを大智の家で待っていた。
「連絡、来ないね……」
 愛莉が空の色が変わり始めた外の様子を見ながら呟く。
 愛莉は先ほどから一人そわそわと落ち着かない様子だった。
 それに対して大智と大森はのんびりと漫画を読み漁っていた。
「気にならないの?」
 愛莉はあまりにもリラックスしている二人を見かねて、怒り気味になって訊いた。
「気にしたって仕方ねぇだろ? 気にしたところで俺らにできることなんて何もないんだし」
 大智は愛莉に目を向けてそう言うと、再び手元の漫画に目を落とした。
「それはそうだけど……」
 愛莉は顔をムスッとさせている。
「それに、どこと当たろうと関係ねぇしな。どうせ俺らより強いんだろうし。ま、前評判は、だけどな」
 大智はそう言いながら、再び愛莉へと視線を向けると、ニッと笑った。
「何にせよ、最低でも一勝はしたいよな。来年の為にも」
 大森が二人の間に入って言う。
「だな。まぁ、俺が点をやらなきゃいいだけだし、俺と大森で最低でも一点。そこそこのチームのピッチャーならブランクのある上田でも長打が狙えるだろうし、何とかなりそうじゃね?」
「多分な。でも練習試合を一度も出来なかったってのは痛いな」
 大森が顔を歪める。
「ま、おかげで俺らの正体がバレずには済んでるけどな」
 大智が付け加えた。
「まぁな。けど、先輩たちも随分と試合からは遠ざかってるし、緊張して固くならないかが心配だな」
「まぁ、確かに……」
 大智がそう呟いた後、部屋には少しの間沈黙が流れた。
「ま、何にせよ、ここであぁだ、こうだ考えたところで意味がないことには変わりないけどな」と大智が言い終えた瞬間、タイミングよく大智の携帯電話の通知音が鳴り響いた。
「来た!」
 大智はさっきまでのんびりしていたのが嘘のように、素早くポケットから携帯電話を取り出した。
 大森と愛莉は大智が携帯電話を取り出している間に大智の側に寄って来ていた。
「開くぞ」
 大智が側に寄って来ていた大森と愛莉の顔を交互に見つめる。
 大森と愛莉は大智と目が合うと一度だけ首を縦に動かし、頷いた。
 二人に視線を送った大智は小林から送られて来たトーナメント表の画像をゆっくりと開いた。
「千町、千町っと……」
 大智はトーナメント表を拡大して、画像の左上から学校名を一つずつ確認していった。
「あった! 相手は……。ん? 港東?」
 対戦相手の高校名を見た瞬間、大智が固まる。
「ん?」
 大森と愛莉も声を揃えてそう言うとそのまま固まっていた。
「なぁ、剣都が行った高校って、どこだったっけ?」
 大智は誰となしに訊いた。
「港東」
 愛莉が淡々と答える。
「だよな。対戦相手は?」
 大智はもう一度確認するように訊いた。
「港東」
 今度は大森が淡々と答えた。
 その瞬間、ほんの束の間、部屋は無音に包まれた。
「はぁ~!」
 静寂を破るように大智が突然大声で叫ぶ。
「え~!」
 愛莉も大智に続く形で叫んでいた。
「何で一回戦から港東となんだよ。港東はシードじゃねぇのかよ」
 大智が声を荒げる。
「一応シードは取ってるぞ。Bシードだけど」
 大森は大智が床に落としていた携帯電話を拾って、トーナメント表の画像を見ながら冷静に答えた。
「じゃあ何で、一回戦で当たんだよ」
「どうやらBシードで一回戦が免除されるのは四校中一校だけみたいだな」
「んだよ。素直に一回戦免除になっとけよ」
 大智は大森から自身の携帯を受け取ってトーナメント表を確認しながら言った。
「全くだな」
 大森は腕を組みながら答えた。
「チッ。相手はどこでも関係ないって言ったけど、相手が剣都のいる港東となると話は別だな」
 大智はそう言って腕を組むと、困ったようにう~んと悩み始めた。
「どうする、大智?」
 悩む大智に大森が訊く。
「どうするもこうするも、初回から飛ばしていくしかないんじゃね? 格上相手に力をセーブしてる余裕なんてねぇだろ?」
「だよな」
「たくっ。まさか高校初の公式戦で剣都と当たるとはな」
 大智は険しい顔を浮かべていた。
「普通こういうのは三年の夏とかトーナメントのもっと上の方でやるもんだろ。ですよね? みなさん」
「いや、誰に訊いてんだよ。てか、久々だなこのやり取り」
 大森は苦笑を浮かべて言った。
 一方、大智と大森がそんなやり取りをしている間も、愛莉は終始浮かない顔をしていた。
「無理に見に来なくてもからな」
 愛莉が浮かない顔をしていることに気がついた大智が言う。
「でも……」
 愛莉は俯いた状態でぼそっと呟いた。
「まさかいきなり剣都と戦うことになるとは思ってもみなかったしな。それにこっちはやっとこさ人数が整ったところだ。正直今回は剣都との勝負に力を割く余裕もなさそうだしな。なぁに、剣都との勝負は来年以降、もっと然るべき舞台で見せてやるよ」
 大智の気持ちを聞いた愛莉は少し考え込んでからゆっくりと口を開いた。
「大智の気持ちはわかった。でも剣都にも気持ちを訊いておきたい」
「そうだな……。まぁ、試合を見に来るかどうかは愛莉に任せるよ」

「おーい。初戦の相手が決まったぞ」
 夕暮れ時。
 港東高校のグラウンド。
 部室から副キャプテンが出て来てグラウンドで練習をしているチームメイトに声をかけた。
 グラウンドで練習をしていた港東のナインはその声を聞いて集まってきた。
「どこになった?」
 部員の一人が訊く。
「千町だと」
「千町?」
 対戦相手の名前を聞いた多くの部員たちは首を傾げていた。
「あれ? あそこって人数足りてたっけ?」
 部員の一人が言う。
「さぁ? まぁ大方、一年が入って足りるようになったか、助っ人でも呼んだってところだろ。うちが普通にやりゃコールドだよ」
 部員間で話が進む。
 会話に緊張感は感じられない。
「千町……」
 剣都は呟くように千町の名を口にすると、口元だけ笑わせていた。
「どうした黒田。相手が格下で安心でもしたか?」
「いえ、別に。そんなんじゃないです。俺はどこが相手でも全力でやるだけなんで」
 剣都は先輩たちにそう告げて輪の中から外れた。
「相変わらず真面目だね~」
 剣都を見送る部員から声が上がる。
 輪を抜けた剣都はバッティングゲージへと向かった。
 剣都がバッティングゲージに入る。
 その初球。
 マシンから放たれた球を剣都は場外へと運んだ。
「へ?」
 剣都があまりにも凄まじい打球を飛ばしたので集まっていた先輩部員たちは唖然としていた。
(まさか高校初の公式戦で当たるとはな。本当ならもっと先で当たりたかったところだが……。けど、当たってしまったものはしょうがない。悪いが勝たせてもらうぞ。大智)
 剣都は口元を笑わせながら、マシンから放たれる球を次々と場外へと運んだ。
「愛莉? 愛莉じゃねぇか! 久しぶりだな」
 夜遅くに帰宅してきた剣都は自宅前に愛莉の姿を見つけると嬉しそうな顔をして愛莉の許へと駆け寄った。
「久しぶり。急にごめんね」
「全然かまわんさ。寧ろ凄く嬉しい。でも、どうしたんだ、急に?」
「実は剣都に訊きたいことがあって……」
 愛莉は俯きながら言う。
「一回戦で千町と当たることか?」
 剣都は迷うことなく言った。
「うん……」
 愛莉は少し間を空け、ゆっくりと頷きながら返事をした。
「やっぱりそうか。しかし、びっくりだよな。まさかいきなり大智と戦うことになるなんて思ってもみなかったよ」
 剣都が頭上に広がっている星空を眺めながら言う。
「そうだね」
 愛莉は変わらず俯いたままで答えた。
「見に来るのか?」
 剣都が夜空から愛莉へと視線を移す。
「正直……、迷ってる」
 愛莉は俯いたまま顔を動かさない。
「大智は? 大智は何て言ってた?」
「大智は無理に見に来なくてもいいって。今回は剣都との勝負に力を割いてる余裕はないだろうからって。剣都との勝負はもっと然るべき舞台で見せてやるって言われた」
 愛莉から大智の話を聞いた剣都は一度フッと笑みを浮かべてから口を開いた。
「なるほどな」
「何がなるほどなの?」
 愛莉が首を傾げる。
「いやな、正直なところ、俺は今回の大会に千町が出てきただけでも驚いてるんだ。今の千町で部員を集めることはそう簡単なことじゃないってことは地元の奴なら誰だってわかってたことだしな。例え、それが大智だとしてもだ」
「それはそうだけど、それとさっき話したこととどう関係があるの?」
 愛莉は相変わらず首を傾げていた。
「大智がちゃんと冷静に状況を判断できていることだよ。もしあいつが今の状況で俺との勝負にこだわるようなら試合の結果は目に見えてたからな。でも大智がそのつもりなら、いい試合が出来そうだと思ったんだよ」
 剣都は嬉しそうに言った。
「そっか」
 愛莉は納得がいった様子を浮かべた。
「見に来いよ。愛莉」
 剣都が真っすぐな目で愛莉を見つめる。
「え?」
「本当は見たいんだろ?」
 剣都が優しい表情と声で問う。
「それは……」
 愛莉は剣都から視線を逸らした。
「今回は千町の応援でもいいぞ」
「で、でも……」
 愛莉は困った表情をしている。
「そもそも愛莉は千町の一生徒でもあるんだしな」
「それはそうだけど……」
 愛莉の表情はまだ晴れない。
「俺の応援はその後からでいいさ」
 剣都がそう言った瞬間、愛莉の顔が急変した。
 愛莉は困った表情を一変させ、怪訝そうな顔で剣都を見ていた。
「どっちが勝つかなんてまだわからないでしょ?」
 愛莉の声には怒りの感情が混じっている。
「勝つよ。俺がな。いや、港東が絶対にな」
 剣都はそう言うと口元をニヤッとさせた。
 それを聞いた愛莉は露に怒りの感情を顔に浮かべていた。
「野球に絶対なんてないでしょ」
 愛莉はムスッとした表情で語気を強めて言った。
 だが剣都の表情は変わらない。それどころか口元を綻ばせていた。
「そう大智に伝えてくれ」
「へ?」
 剣都のまさかの発言に愛莉はすぐにはその発言の意図を理解できていない様子だった。
 剣都はそんな愛莉の様子を見て、クスッと一笑すると自らの発言の説明を始めた。
「俺がそう言えば、あいつはもっと燃えるだろ?」
 剣都はそう言い終えると、ニカッとした笑顔を愛莉に向けた。
「もうっ……」
 そんな剣都の表情を見て愛莉は呆れた表情を浮かべていた。
「わかった。そう伝えとく」
 愛莉はそう言うと少しだけ左右の口角を上げて微笑んだ。
「悪いな」
「ううん。こちらこそ疲れてるのに時間取らせちゃってごめんね」
「気にすんな。寧ろ久しぶりに愛莉の顔が見られて疲れなんて吹っ飛んだよ。これからも偶には顔見せてくれよな?」
「うん、わかった。今日はほんとにありがとう。剣都に相談してみてよかった」
 愛莉が微笑む。
「愛莉の力になれたならなによりだよ」
 剣都は顔を綻ばせていた。
「もし本当に港東が千町に勝ったら、その後の試合の応援にはちゃんと行くから。頑張ってね、剣都」
 愛莉は剣都に向けてニコッと笑った。
「サンキュ。愛莉がそう言ってくれると何より力になるよ」
 剣都はそう言うと優しく微笑んでいた。

「んだと、あの野郎~!」
 後日、愛莉から剣都の伝言を訊いた大智は憤慨していた。
「どうした、どうした?」
 二人の後ろから大森が来て訊いた。
 愛莉は先日の剣都とのやり取りの全てを大智に聞こえないよう注意しながら大森に伝えた。
「あ~、なるほど。そういうことね」
 大森は苦笑を浮かべながら納得した表情をした。
「しかし、どうするかな~。まさかいきなり港東と当たるとは思ってなかったからデータも何もないんだよな……」
 大森は大智の近くの椅子に座ると、机に肘をついて一人悩み始めた。
「はい、これ。後はよろしく」
 突如、大智が大森に一冊のノートを渡した。
 ノートを渡し終えた大智はまるで何事もなかったかのようにまたすぐに一人で憤慨し始めた。
「何だこれ?」
 何も聞かされず、ただノートを渡された大森は困惑した表情で大智に訊いた。
 だが大森の声は大智には届かなかったのか、大智は自分一人の世界に入ったままだった。
「たくっ……」
 その様子を見た大森は大智に訊くのは諦めて、一先ずノートを開いてみることにした。
 ノート開いた瞬間、大森の目がノートにくぎ付けになる。ノートにくぎ付けになった大森は次々とページを捲っていった。
 そして、ノートを最後まで一通り目を通すとバッと顔を上げた。
「おい、大智! これどうしたんだよ」
 顔を上げた勢いそのままに大森は剣都に訊いた。
「紅寧がくれたんだよ」
「紅寧ちゃんが?」
 時は抽選会の翌日に遡る。
「大兄~!」
 夕方、ランニングに出かけようとしていた大智の許に紅寧がやって来て、後ろから抱き着く。
「うぉ!」
 大智は突然のことに驚いて、声を上げていた。
「あ、紅寧?」
 背中に顔をくっ付けている紅寧に大智が声をかける。
 大智に名前を呼ばれた紅寧は顔を上げると大智の顔を見てニコッと笑みを浮かべていた。
「大兄、久しぶり」
「久しぶり。元気にしてたか?」
 大智は優しく微笑みながら紅寧に声をかけた。
「うん。元気だよ」
 紅寧が笑顔で言う。
 しかし、紅寧は急に表情を変える。
「でも、大兄に会えなくて寂しかったんだから」
 紅寧は言葉の通り、寂しそうな顔をしている。
「すまん、すまん。高校入ってから何だかんだ忙しくてな」
 大智は困った表情を浮かべ、頭を掻いた。
「あ、そういえば夏大はどうなった?」
 困った大智はわざとらしく話を変えた。
 だが、紅寧はそのことは気にする様子はなく、大智に夏の大会の結果を訊かれると、いたずらっ子のような顔を大智に向けた。
「聞きたい?」
「その顔は良かったな」
 大智もニヤリとした顔を浮かべながら紅寧に訊いた。
 そんな大智の顔を見た紅寧は得意げな表情に変わり、へへっと笑っていた。
 そして、嬉しそうに話を始めた。
「県大会出場、決めたよ!」
 紅寧は満面の笑みで大智にVサインを送った。
「おぉ! そうか! 良かったな。俺らの後でプレッシャーとかもあったろうに。みんな良く頑張ったんだろうな」
 後輩の県大会出場の報告を聞いた大智は本当に嬉しそうな顔をしていた。
「うん。去年の秋は悔しい思いをしたからね。夏は必ず借りを返すんだって張り切ってたし。みんな本当に良く頑張ったんだよ」
 紅寧は本当に嬉しそうにこれまでのことを話した。
「そっか。ほんま、良かったな」
 大智はもう一度紅寧に微笑みかけた。
 大智の笑顔を見た紅寧は少しだけ頬を赤らめて照れるように笑っていた。
「あ~、ちきしょ~。俺も負けとられんな。よっしゃ~。俺も頑張ろ!」
 大智は一人でそう言いながら、自身を奮い立たせる。
 その顔は溢れんばかりのやる気に満ちていた。
「剣兄のとことやるんだよね?」
 大智が一人で盛り上がっている横でその様子を静かに見ていた紅寧だったが、突如、かしこまるように大智に訊いた。
 その顔には先ほどまでの嬉しそうな表情はなく、心配そうな表情を浮かべていた。
「あぁ。しかし、びっくりだよな。何もいきなり当たることないのにな」
 大智は紅寧が心配そうな表情をしていることに気が付いて、おどけるような言い方をした。
「大兄?」
 紅寧が少し間を空けてから大智の名を呼ぶ。
「ん? どうした?」
 大智は首を傾げながら、優しい声で愛莉に訊いた。
「良かったら、これ……」
 紅寧はそう言うと持っていた鞄から一冊のノートを取り出し、そっと大智に渡した。
「これは?」
 ノートを受け取った大智は開く前に紅寧に訊いた。
「中、見てみて?」
 紅寧にそう言われた大智は首を傾げながらノートを開いた。
「こ、これは!」
 ノートの一ページ目を見た大智は目を丸くして驚いた。
 そして次々とページを捲っていった。
「こんなものいつの間に?」
 ノートに一通り目を通した大智はすぐさま紅寧に目を向けて訊いた。
「剣兄の試合を見に行った時、データを取ってたの。余計なことだったかもしれないけど……」
 紅寧はそう言うと視線を下に向けた。
「そんなことねぇよ。すっげぇ助かる」
 大智は嬉しそうに言った。
 それを聞いて紅寧の表情も明るくなった。
 だが、大智が急に表情を変える。
 今度は少し怪訝そうな顔つきになって紅寧に訊いた。
「でも何で? これが俺に渡ったら剣都の学校が不利になるんだぞ?」
「剣兄には申し訳ないけど、私は大兄の応援だから。昔からそうだったでしょ?」
「それはまぁ、そうだったけど……」
 大智は戸惑っていた。
「大兄はいつだって挑戦者だった。例え相手がどんなに強大でも、何度でもその相手に向かって行っていた。今回だってそう。あえて人数も揃わないような学校に行って、何とか人数を揃えて、強大な相手にも臆することなく立ち向かおうとしてる。私はそんな大兄が大好きだし、大兄の力になりたいの」
 紅寧は真っすぐな目を大智に向けていた。
「紅寧……」
 紅寧の真っすぐな目を見ながら大智が呟く。
「わかったよ。これはありがたくもらっとく。ありがとうな」
 大智はこの日一番の優しい笑顔を紅寧に向けた。
 大智の優しい笑みを見た紅寧はほっぺを赤くしながら微笑んでいた。

「しかし、凄いな。港東の打者の得意コースから苦手な球種、打席での特徴までびっしりだ」
 大智が紅寧からノートを受け取った経緯を話している間もノートにくぎ付けになっていた大森がノートから顔を上げて言った。
「あぁ。ほんと頭が下がるよ。そこまでできる奴はそういやしない。ほんと紅寧の野球に対する取り組み方は俺も尊敬する」
 大智がしみじみと言う。
「ま、これはそれだけじゃないだろうけどな」
 大森が横目で大智を見ながらぼそりと呟いた。
「ん? 何か言ったか?」
「んにゃあ、何も」
 大森はとぼけるように大智から顔を背ける。
「でも剣都のデータはないんだな」
 大森がノートをパラパラと読み返しながら訊く。
「そこは多分俺に気を遣ったんだろ。俺と剣都との勝負には手を出しちゃいけないってことがわかってるんだよ、紅寧は」
「ま、剣都のことはお前が一番良くわかってるだろうしな」
「中学卒業までは、な」
 大智はそう言うと窓の外に目を向けた。
「けど今の剣都のことは何も知らねぇ。高校に入ってから四か月。あいつが進化してないはずがないからな」
 大智はそう言い終えると大森の方に向き直った。
「それだったら大智だってそうだろ?」
 大森がニッと笑みを浮かべる。それを見て大智も口元を綻ばせた。
「まぁな。でも四か月野球だけのことを考えてたやつと、部員集めに奔走してたやつじゃ、その差は明らかだろ? しかもその相手が天才黒田剣都なら尚更な」
 真剣な表情でそう話す大智だったがその顔はどこか嬉しそうでもあった。
「大丈夫。才能ならお前も負けてねぇよ」
「バカ言え。あいつと俺とじゃ才能の差は明らかだろ。俺はただ剣都に勝ちたくって必死こいてやってるだけだよ」
 大智が語気を少し強めて言う。
 それを聞いた大森はふーっと一つ息を吐いた。
(バーカ。それができるのが一番の才能だろ)
 大森は呆れた顔で大智を見つめながら心の中でそう呟いていた。
 さぁ、いよいよ夏の選手権大会地方予選の開幕!
 とその前に……。
 期末テストでございます。
 ペコリ。

「だ~、ちくしょ~。愛莉ヘルプ!」
 大智は机にだらんと体を伏せるようにして愛莉を呼んだ。
「また?」
 大智に呼ばれた愛莉が眉をひそめて大智を見る。
「さっぱりわかんね~」
 大智は涙ながらに愛莉に助けを求めた。
「もうっ。普段、野球のことしか考えてないから、いつもテスト前に慌てるんでしょ? いい加減学習しなよ」
 愛莉は叱るように大智に言った。
「すみません……」
 大智は体を机に伏せたまま、首だけを動かして愛莉に謝罪を述べた。
「中間テストの時も同じようなやり取りを見たな」
 側で一人黙々と勉強に励んでいた大森が二人の様子を見て苦笑を浮かべながら言った。
「中学の時からよ」
 愛莉がムッとしながら言う。
 大森が大智と愛莉と一緒に勉強するようになったのは高校に入ってからのことで、これが二回目である。中学の時はここに剣都と紅寧がいた。
「毎回の恒例行事みたいなもんだよな」
 大智がニッコリと笑いながら言う。
「わかってるならちゃんとやって!」
 愛莉は語気を強めて言った。
「すみません……」
 愛莉に怒られた大智はしょんぼりしながら謝った。
「いつもはでかく見える大智もテストの時だけは小っちゃく見えるな」
 大森はそう言うと一人、ケラケラと笑っていた。
「やかましい」
 大智は吐き捨てるように言った。
「で、今度はどこがわからないの?」
 愛莉が大智の側に来て訊いた。
「全部。もうどこがわからんとかじゃなくて、どこもわからん」
 大智は一応申し訳なさそうに言った。
「もう~」
 愛莉は呆れたようにため息を吐くと大智の前に手を差し出した。
「参考書貸して」
「はい」
 大智が愛莉に参考書を渡す。
「じゃあ、一から説明するから。ちゃんと聞いてよ?」
「はい」
「あと、わからないのに見栄を張って空返事しないように」
「はい」
「じゃあ、やるよ」
「お願いします」
 そんな二人の様子を傍から見ていた大森はわははっと笑った。
「まるで先生と生徒だな」
 大森は笑ってしまうのを我慢しながらそう言うと、また、わははっと腹を抱えて大笑いしていた。
「うるさい!」
 大智と愛莉の声が揃う。
「す、すみません」
 二人の勢いに押された大森は笑うのを止めると、体を縮こませていた。

「それにしても、愛莉ちゃんは自分の勉強はいいの?」
 長時間、大智に付きっ切りで勉強を教えていた愛莉に大森が訊いた。
「私なら大丈夫だよ。私は二人みたいに普段から忙しいわけじゃないから勉強する時間もあったし。テスト前にこうなることは予めわかってたことだしね。それに、大智に教えようと思ったら、私もちゃんと内容を理解していないといけないから、私にとってもいい勉強になってるの」
「なるほど。愛莉の頭の良さは俺のおかげでもあるのか」
 愛莉の話を聞いていた大智が嬉しそうな顔をして言う。
「調子に乗るな!」
 すぐさま大森がツッコミを入れる。
「調子に乗らない!」
 大森の声に重なるように愛莉も大智にツッコミを入れていた。
「すみません……」
 また大智がしょんぼりとする。
 だが、大智はすぐに顔を上げて続けた。
「ま、冗談はさておき。無理してまで俺に付き合う必要はねぇからな、愛莉」
 大智がキリッとした目をして言う。
「何言ってんの。今更ほっとけるわけないでしょ?」
 愛莉は顔をしかめながら言った。
「うん」
 大森が愛莉の意見に賛同するように頷く。
「え~、俺、今めっちゃ決まったと思ったのに」
 大智は体を後ろに逸らすようにして残念さを表現していた。
「決まるも何も、成績が絶望過ぎてなぁ?」
 大森が愛莉に同意を求める。
「ねぇ」
 愛莉は大森の顔を見て賛同の意を示した。
「何だよ」
 大智が怪訝そうな目で二人を見つめる。
「説得力がないというか、安心できないというか……。放っておくと逆に心配でこっちが集中できなくなる」
 大森が言う。
 愛莉は大森の言葉を聞きながら何度も頷いていた。
「なっ!」
 大智が顔を歪める。
「けっ。見てろよ~」
 大智は吐き捨てるようにそう言うと、解いていた問題集に向き直り、問題を解き始めた。

「どうだった大智?」
 テストの返却が終わり、大智の許に来た愛莉が訊いた。
「ほれ」
 大智は返却されたテストの束を愛莉に渡した。
 テストの結果を見た愛莉は目を見開いて驚いていた。
「凄いじゃない、大智。中学の時も含めて過去最高じゃない?」
 愛莉が驚きと喜びが混じった声で言う。
「はっはっは。見たか。これでもう心配だなんて言わせねぇぞ」
 大智は勝ち誇ったように言った。
「ようやく平均点だけどね」
 あまりにも堂々としている大智の姿を見て、愛莉は苦笑を浮かべていた。
「どれどれ」
 愛莉と一緒に大智の許に来ていた大森が愛莉から大智のテストを受け取る。
 大森は余裕の表情を浮かべながら大智のテストに目を通した。
 しかし、途中から大森の顔が徐々に真顔に変わっていく。
 大智のテストを全部見終えた大森は、机の上で束を整えると無言で愛莉に渡した。
「どうしたの?」
 大森の様子の変化に気が付いた愛莉が声をかける。
「ささっ。練習に行きましょ、行きましょ」
 大森は二人に背を向けると教室のドアへと向かって行った。
 そんな大森の姿を見ていた大智と愛莉は顔を見合わせて首を傾げていた。
 さて、期末テストも無事に終わり、いよいよ夏の選手権大会地方予選が開幕目前!
 グラウンドでは試合に向けて汗を流す千町高校のナインの姿がある。
「さてさて、オーダー発表のついでにここいらでメンバーのおさらいもしとこうかね」
 三十代男性が言う。
「あ、お久ぶりです。皆さん覚えてらっしゃるでしょうか? 以前、春野大智との対決で腰を痛めて救急車で運ばれた野球部監督の藤原です。ぎっくり腰はすぐに治って復帰したんですが、何せ出番がなかったもので」
 藤原が上を見つめる。
 ギクリ……。
「ま、それはさて置き、それではメンバー発表、いってみましょう!」

一番 ショート 難波一輝 (一年) 右投げ左打ち
 今大会はバスケ部からの助っ人として参加。本格的に練習に参加したのはバスケ部のインターハイ予選を終えてからなので練習不足は否めない。センスは感じられるが全体的にプレーが大雑把。フットワークは良いが捕球動作に雑なところが目立つ。他にもブランクを感じられるとこが多々有る。バッティングは大振りになることが多い。足があるのでミートを心がければ良い一番打者になれるのだが。センスだけに頼らないようにすれば春野や大森にも匹敵する選手になれる可能性を秘めている。

二番 ファースト 上田刀磨 (一年) 右投げ右打ち
 中学時代に肩を壊して一度は野球から離れるも、春野からの勧誘を受けて野球界に復帰。今大会は肩を壊したまま利き腕での出場。右の長距離砲。強豪校と対等に渡り合えるポテンシャルは十分にある。試合までにブランクをどれだけ埋められているかが鍵。長打が期待できるのでクリーンナップに置きたいところだが、ブランクとチーム戦力の関係で今大会は二番での出場。来年以降の活躍にはかなりの期待感が持てる。

三番 ピッチャー 春野大智 (一年) 右投げ右打ち
 ノビのあるストレートが持ち味のエース。伸びしろもまだまだ有る。持ち球は縦横二種類のスライダー。高校入学後、試合経験がないので、九回を投げ切るスタミナがあるかどうかわかっていないのが不安要素。港東高校に通用するピッチングをどれだけ続けられるかが勝敗の分け目になる。バッティングはピッチングほどではないがそれなりにセンスはある。ただし、チャンスにはめっぽう強い。

四番 キャッチャー 大森哲也 (一年) 右投げ左打ち
 小柄ながら全身を使ったパンチのある打球を飛ばす、左の中距離ヒッター。外野の間を抜く二塁打を打つのが得意。春野の中学からの相方。春野の球の凄さで目立たないが、野球IDはかなりのもの。学校の成績はそこそこ。春野のスタミナに不安があることを考えると大森のリードが試合の行方を左右する一つの大きな鍵となりそう。

五番 サード 小林 (三年) 右投げ右打ち
 キャプテン。リーダーシップを発揮するタイプではないが、人一倍真面目で努力家。その為、春野や大森ら一年からの信頼も得ている。優秀な指導者や後輩が入って来たことで技術面が大幅に成長。もう一年あればと悔やまれる。真面目で責任感が強いのでプレッシャーに押し潰されないかがやや心配なところ。

六番 レフト 木村 (三年) 右投げ右打ち
 副キャプテン。二人しかいない三年生のうちのもう一人。小林の親友。全体的にどれも上手くはないが下手でもない。ミスター器用貧乏。

七番 ライト 加藤 (二年) 右投げ右打ち
 当たれば飛んで行きそうな体格とスイングの持ち主。ただ、滅多に当たらない。当たれば儲けもの。

八番 センター 大橋 (二年) 左投げ左打ち
 足は速いが非力。盗塁はチーム一上手い。如何に出塁して上位打線に回せるかどうかが活躍の鍵。

九番 セカンド 大西 (二年) 右投げ右打ち
 上級生の中では一番守備に安定感がある。バントは部内で一番上手い。一見目立たない選手だが、職人気質の仕事ができる貴重な選手。


「以上九名。一人でも欠けたら不戦敗になってしまうギリギリのチーム。さぁ、次回はいよいよ夏の選手権大会地方予選が開幕! 千町高校対港東高校。紹介は千町高校野球部監督、藤原がお送りしました。では次回、乞うご期待!」
 藤原がビシッと何処ともなく指を指す。
「誰に言ってんすか?」
 藤原の許にやってきていた大森が訊く。側には大智もいた。
「誰って、そりゃあ……。なぁ?」
 藤原が大智に視線を送る。
「ねぇ」
 大智は躊躇することなく返事を返した。
「はい?」
 そんな二人の様子を見て、大森は首を傾げていた。
「読者の皆さんでしょ」
 大智と藤原が大森のことを真顔で見ながら言う。
「いや、だから読者って誰よ? てか、どこで気が合ってんだよ」
 大森は呆れたような目で二人を見ながら言った。
 夕焼けの空でカラスが鳴いていた。
「剣都、何番で来ると思う?」
 大智は地面に腰を下ろし、ストレッチをしながら側にいる大森に訊いた。
 この日、第二試合に出場する千町高校は一試合目の試合経過を見て、補助グラウンドでアップを始めていた。
「どうだろうなぁ。練習試合では特に固定されてなかったしなぁ。あ~、でも、下位打線での出場が多かったよな。ま、結果は下位を打つような人間の成績じゃなかったけど」
 大森は紅寧のノートしに記されていたことを思い出しながらそう言うと、苦笑を浮かべていた。
 紅寧のノートには剣都に関しての詳しいデータや紅寧の見解は記されていなかったが、港東高校の春からの試合のスコアは記されていた。その為、剣都がこれまでどんな成績を残してきたのかは知りうることができていた。
「大方、今大会の秘密兵器扱いなんだろ」
 大智が言う。
「多分な。多少、投手力に不安がある港東にとったら点はいくらでも取っておきたいだろうからな」
「たくっ。ただでさえ、強力打線だってのに、そこに剣都が入るとなったら少々のピッチャーじゃすぐに打ち込まれちまうぞ。それこそ、ほとんどの学校がコールドで試合が終わっちまう」
 大智は眉間に皺を寄せていた。
「ま、それが狙いだろうな。投手力に不安がある分、早めに試合を終わらせたいんだろ」
 大森が淡々と語る。
「ちっ。今更だけど、なかなかしんどいね~」
 大智は帽子を脱いで頭を掻きながら言った。
「心配すんな。お前がいつも通り投げられれば、港東でもそう簡単には打てやしないよ。あ、でも、剣都の前にランナーは出すなよ」
「わかってるよ」
 大智は吐き捨てるように答えた。
「お、キャプテン、帰って来たぞ」
 大森がグラウンド入り口を指差して言う。
 グラウンドの入り口にはオーダー票の交換に行っていたキャプテンの小林が戻って来ていた。
「キャプテン、先攻後攻どっちになりました?」
 チームの許へ戻ってきた小林に大智が一番に駆け寄って訊いた。
「後攻だよ」
「後攻かぁ」
 大智が少し残念そうな顔をする。
「あれ……。ダメ、だった?」
 小林は不安そうな顔になって訊いた。
「あ、いえ、そんなつもりじゃ。すみません」
 大智が焦るように謝る。そして続けた。
「ただ、先攻だったら相手が油断してくれているから点が取りやすいなと思っただけなんで。ほんとすみません。気にしないでください」
 大智は申し訳なさそうに小林に理由を述べた。
「あ、それより、相手のオーダー票、見せてもらってもいいですか?」
 大智は小林の持っていたオーダー票を指差して訊いた。
「あぁ。うん。はい、これ」
 小林が大智の前にオーダー票を差し出す。
「ありがとうございます」
 大智は小林にお礼を言ってオーダー票を受け取ると、すぐにオーダー票へと視線を落とした。
 するとパッと目を見開いたかと思うと、次の瞬間、突然、大声で叫び出した。
「はああああああ!」
「ど、どうした!?」
 側にいた大森はその大声に一度は体をのけ反らせるも、すぐさま元に直ると、大智の手からオーダー票を抜き取り、港東高校のオーダーを確認した。
「なにぃぃぃ!」
 港東高校のオーダーを確認した大森が大智と同じように突然叫び出す。
「どど、どうしたの? 二人とも」
 二人が急に叫び出したことに驚いた小林が二人に声をかけた。
「す、すみません。ちょっとあまりにも予想外なオーダーだったもんで」
 小林の声で先に落ち着きを取り戻した大森が頭を掻きながら答える。
 二人が叫んだ理由を聞いた小林だったが、大森が説明した内容に納得していないのか、首を傾げていた。
「そう? そんなに変なオーダーには見えないけど……。あ、でもこの二番の子は一年生だよね? 確かに港東みたいな強豪校で一年生が上位打線にいるのは珍しいことには珍しいけど、そんなに驚くことじゃないんじゃない?」
 小林はそう言うと、もう一度首を傾げた。
「そいつが普通の一年生でしたらね?」
 大智がぼそりと呟くように言う。その顔は小林の方ではなく、他方を向いていた。
「へ?」
 小林が虚をつかれたような表情になる。
「そいつ、俺の幼馴染なんですよ」
「え? じゃあもしかして……」
 小林がそう言うと、大智は小林の方に振り返った。
「えぇ。俺らの代、四番だった奴です」
「ええええええ! な、何でそんな子が二番に入ってるの?」
 小林は二人ほどではないが、かなりの大きさの声を上げていた。
「さ、さぁ? こっちが訊きたいくらいなんで」
 大智は小林のあまりの驚きように、少し当惑している様子だった。
「これはあれだな。最近流行りの二番最強説ってやつだな」
 大森が大智と小林の会話に入ってきて言う。
「いや、冷静に分析してる場合か」
 大智がツッコむ。
「キャッチャーだからな」
 大森は堂々とした態度で返した。
「冷静に返してくんな」
 大智が再びツッコミを入れる。
「まぁまぁ、落ち着けって。と言いたいところだけど……。改めて見るとえげつない打線だな」
 大森は再び港東のオーダー票に目を落とすと、真顔になって言った。
「ど、どうしよう……」
 それを聞いた小林がそわそわとし始める。
「落ち着いてください、キャプテン。相手の打順がどうであろうと、うちがやることは変わらないですよ」
 大智は小林を落ち着かせるよう、優しい口調で言った。
 大智に声をかけられた小林は動きがを少しずつ落ち着かせていった。
「そ、そうだよね。うちと港東との実力差を考えたら、今更相手打線がどうであれ関係ないよな。自分達の実力が出せたらそれでいいんだよな?」
 小林は何かを求めるような目で大智を見た。
「えぇ。相手がどこであろうと、どうであろうと、俺たちは自分たちの野球をやればそれでいいんです」
 大智は小林の不安を払拭するように、胸を張って力強く答えた。
「だよね。よし、どこまでできるかわからないけど、最後まで頑張ろう。うん、頑張ろう」
 小林は自分を奮い立たせるよう、独り言のように言った。
 その顔からは少しだけ不安が取り除かれているようだった。
「その意気です。先輩たちが後悔しないような試合にできるよう俺も頑張りますから」
 大智は小林に向けて力強い目と笑顔を送った。
「うん。ありがとう。俺も春野の足を引っ張らないよう、精一杯頑張るよ」
 小林はそうお礼と意気込みを述べると、笑顔を見せて、大智と大森の許から離れて行った。
「良かったのか? あれで」
 小林が去った後、大森は怪訝そうな顔になって大智に訊いた。
「いいんだよ。俺たちは勝つつもりですなんて今言ったら余計に緊張させてしまうだけだろ?」
「そりゃ、まぁ、そうだな」
「試合中に、もしかしたらいけるかもって気持ちになって貰えればいいんだよ」
 大智が一人アップを始めた小林を見ながら言う。
 その言葉を聞いた大森はふっと息を一つだけ吐いてから話し始めた。
「そうだな。でもそうなると責任重大だぞ? 自信はあるのか?」
「自信がないやつがこんな大口叩くと思うか?」
 大智はそう言うと大森の方を向いてニッと笑った。
 それを見た大森は大智と同じようにニッと笑い返したかと思うと、大智の背中をバンッと叩いた。
 それを受けた大智はゲホゲホと咳込んでいた。
「んだよ、急に」
 大智がせき込みながら言う。
「いつも通りで安心したよ」
 大森が微笑む。
「何を今更」
 大智は軽く顔をしかめた。
「高校生になって初めての試合だからな。一応確認だよ、か、く、に、ん」
 大森が大智に背中を向けながら言う。
「心配症だな……」
 大智はそう言いながら眉をひそめていた。
「キャッチャーなもんでな。でも今ので大丈夫だってわかったよ。勝とうぜ、大智」
 大森は大智の方に振り返ると、大智の目を真っすぐ見つめながら拳を体の前に出した。
 それを見た大智は大森の拳に自分の拳を付き合わせた。
「あぁ」
 試合前のシートノックを行う為に千町高校のメンバーがそれぞれのポジションへと散らばって行く。控え選手がいない為、ピッチャーの大智もノックの補助に入った。
「お~、お~。どうやら完全になめられているようですな」
 大智が相手ベンチにちらちらと目をやりながら呟く。
 相手ベンチの会話の内容が大智に聞こえていたわけではないが、彼らの動きやその様子から、千町高校を見下しているのは明白だった。
「ま、どっからどう見てもレベルが違うは一目瞭然だしな。そりゃそうなるだろ。けど、一人だけ全くスキのないやつもいるけどな」
 大森はグラウンドのナインを見ながら自身の後方にいる大智に返事を返した。
「だな……」
 大智はそう呟くと、もう一度相手ベンチを横目でちらっと見た。
 港東ナインは一見、真剣な表情を保とうとはしているが、節々に油断やスキとも取れる表情が見て取れた。だが、そんな中で剣都だけは全くと言っていいほど油断もスキもなく、闘志をむき出しにしていた。
「既に闘志むき出しだな、おい」
 ノックの合間にちらっとだが港東ベンチを確認した大森が冷汗を垂らしながら呟く。
「まさかだったとは言え、正真正銘、高校初対決だからな。それに、正式な試合での対戦は本当に初めてだ。あいつが燃えないわけがないんだよ」
 剣都のことをそう話す大智だったが、その大智の目にも闘志のような熱いものが宿っているようだった。
「ま、剣都が闘志むき出しにしてるのはそれだけじゃないだろうけどな」
 大森がぼそっと呟く。
「あん?」
 大智は首を傾げて大森の背中を見ていた。
「それより、大智はどうなんだよ? ちゃんと燃えてるのか?」
「それを訊く?」
 大智はキョトンとした顔をしている。
「いや、今日はやけに冷静だなと思ってな」
「抑えてんだよ、今はな。本当はさっきから体中が疼いてしょうがねぇ」
 そう告げる大智の顔には笑み浮かんでいた。
「だよな。じゃあ、マウンドに上がるまではちゃんと抑えとけよ。今日は無駄な体力を使ってる余裕はないからな」
「わかってるよ」
 大智はそう返事を返すと、もう一度港東ベンチにいる剣都に目を向けた。
 大智が剣都に目を向けた瞬間、二人の目が合う。
 大智は一瞬、ハッとした表情を浮かべたが、すぐにキッとした目つきになって、じっと剣都を見つめた。

 千町高校のシートノックが終わると入れ替わりで港東高校がシートノックを始めた。
「そういえば、剣都が外野を守ってるところを見るのなんて少年野球の時以来だな」
 外野に向かって行く剣都を見ながら大智が呟く。
「そうだね」
 剣都は本来、ショートを本職としているが、ショートには三番を打つ攻守の要となる三年生の先輩がいる。バッティングの秀でている剣都だが、ショートの守備に関しては三年の先輩に一日の長がある。その為、打撃を買われている剣都は、今大会は主にライトで出場することになっていた。
「まぁ、あいつのことだから、しっかり練習もしてるだろうし、どうせ無難にこなすんだろうな。いや、それ以上か……」
 大智はぶつぶつと呟いている。
「剣都はセンスの塊だしね」
「けっ、いい動きしてらぁ」
 外野でノックを受けている剣都の動きを見ながら大智が言う。
「さすがだね」
「てかさ……」
 大智は呟くようにそう言うと、顔を右に向けた。
「何?」
「何で愛莉がここにいんだよ!」
 大智の隣には先ほどからずっと愛莉がいたのだ。
「えっ、今更?」
 愛莉が怪訝そうな顔で驚く。
「仕方ねぇだろ。作者が書き忘れてたんだから」
 大智が眉間に皺を寄せながら言う。
 すみません……。ぺこり。
「ということで、ベンチに入ることになった経緯の説明よろしく」
 大智は愛莉に説明を促してくれた。
「たくっ、も~。しょうがないな~」
 愛莉は渋々と言った様子を醸し出している。
 本当にすみません。
「は~。藤原先生がどうしてもってしつこく言うからよ。あまりにしつこいから今年だけ引き受けることにしたの。てか、勝手に名前書いて提出してたし。まぁ、平日の試合だから、こうやって記録員として堂々と試合も見られるし、良かったといえば、良かったのかもしれないけど。でも本当は大智と剣都のどちらかに肩入れするようなことはしたくなかったから、ベンチには入りたくなかったのに……。まぁ、今回は剣都が大智の応援でいいって言ってくれたからベンチに入ったけど」
「と、いうことですので、皆さんよろしく」
 大智が言う。
「あ! そういえば剣都のやつ、絶対にうちが港東には勝てんとか抜かしやがったんだったけか? やろ~」
 大智は急にそのことを思い出すと一人で怒り出した。
「それこそ、今更……」
 愛莉は呆れた顔で大智を見ていた。
「見てろよ。その真っ黒に焼けた顔を真っ白に変えてやるからな」
 大智はグラウンドでノックを受けている港東ナインに向けて叫ぶような勢いの小声で言った。
「いや、オセロじゃないんだから……」
 愛莉が呆れ顔でツッコむ。
「気合入れるのもいいけど、入れ過ぎて初めから飛ばし過ぎないようにね。そうじゃなくても九回を投げるのは初めてなんでしょ?」
「あぁ。でも先の事を考えながら投げて勝てるほど甘い相手じゃないしな」
「それはそうだけど……」
 愛莉は心配そうな目で大智を見つめている。
「俺らは挑戦者だ。初めから全力で当たってなんぼだろ?」
 大智は愛莉の顔を見るとニッと笑ってみせた。
「もう。そんなこと言って、後半バテても知らないからね」
「大丈夫だよ」
 そう言い切る大智の言葉には力強さが込もっていた。
「何で大丈夫って言い切れるのよ?」
 愛莉は顔をしかめながら大智にその理由を訊いた。
「だって今日は、愛莉がベンチにいるだろ?」
 大智はそう言って微笑む。
「ばか……」
 愛莉は大智から顔を背けてボソッと呟くように言った。
 大智から顔を背けた愛莉の頬は少し紅潮していた。
「おっ、ノックが終わったみたいだな。んじゃあ、ぼちぼちキャッチボールでもしとくかな」
 大智はグラブを持って椅子から立ち上がった。
「大智」
 ベンチから出て行こうとする大智の背中に愛莉が声をかける。
「ん?」
 愛莉の声が聞こえた大智は後ろに振り返った。
「頑張れ」
 愛莉が穏やかな声で言う。
 その穏やかな声はどこか力強く、背中を押されるようでもある。
「任しとけ」
 大智は笑顔でそう答えるとベンチからグラウンドへと足を踏み出した。
 東港高校のシートノックが終わった後、グラウンド整備が行われている間に大智は大森と軽くキャッチボールをして試合に備えた。
 グラウンド整備が大方終わったところを見計らって二人はキャッチボールを終えた。
「いよいよだな。調子に乗って初回から飛ばし過ぎるなよ」
 大森が大智にボールを手渡しながら言う。
「さっき同じことを言われたな」
「愛莉ちゃんにか?」
「あぁ」
 大智は大森から受け取ったボールを手の上で適当に動かしながら呟くように返事をする。
「俺が言うまでもなかったみたいだな」
「いや。お前に言われなかったら初回から飛ばしてたよ」
 大智は手にあるボールを軽く上に投げながら言う。
「だろうな。愛莉ちゃんからそんなこと言われたら、お前は意地でも初回から最後まで全力投球を続けようとしただろうな」
「流石は相棒。でも安心しろ。ちゃんとお前のリード通り投げるから。でも……」
 大智はそこまで言うと、話すのを止めてしまった。
「でも、何だ?」
 途中で話すのを止めた大智に大森が問いかける。
「最初だけ、最初の打席だけでいいから、剣都と真向勝負、させてくれないか?」
 一度視線を地面に落としていた大智だったが、顔を上げると真っすぐな眼差しを大森に向けて言った。
「三年生の先輩にとっては最後の試合だぞ?」
 大森は睨むような眼差しで大智に訊き返した。
「わがままなのは勿論わかっとる。だから最初の打席だけだ。最初の打席だけ、あいつと正面からぶつからせて欲しい。あとはちゃんとお前のリード通りに投げる。だから」
 大智は深々と頭を下げて大森に頼み込んだ。
「条件がある」
 目前で深々と頭を下げる大智の上から大森が呟くように言った。
「条件?」
 大智が深々と下げていた頭を上げて訊く。
「一番を必ず押さえること。それができなかったら剣都と真向勝負の話はなしだぞ」
 それを聞いた大智は顔をパアッと明るくした。
「あぁ、勿論。わがままを言うんだから、それくらい当たり前だ」
 大智は目をキラキラとさせながら言った。
 そんな大智の姿を大森は呆れ笑いを浮かべながら見ていた。
「で? 剣都を抑えられる自信は?」
「五分五分、かな? いや、四・六? いやいや、三・七かな? 二・八、かも……」
「お~い。どんどん自信なくなってんじゃねぇか」
 大森が汗を垂らしながらツッコむ。
「ま、冗談はさせ置き。正直わかんねぇな。高校に入ってからのあいつのことは何も知らないしな」
「そっか……。ま、打たれたら、打たれただ。その後、ちゃんと俺らで点取り返して、責任取ろうぜ」
「俺ら? 剣都との勝負は俺のわがままだぞ?」
 大智は怪訝そうな顔を浮かべて訊いた。
「バーカ。俺らはバッテリーだろ? 剣都との真向勝負を認めた時点で俺も同罪なんだよ」
 大森はそう言うとふっと笑みを浮かべた。
「大森……」
「勝てよ。大智」
「あぁ!」
 二人は互いに拳をぶつけあった。

「お願いします!」
 球審の合図でホームベース前に整列した両軍の選手が互いに挨拶を交わす。
 対面して並ぶと、何とか出場にこぎつけた千町高校と優勝候補の一角にも数えられる港東高校のメンバーとでは体つきが一回りも二回りも違うことが一目瞭然だった。
 挨拶を終え、後攻の千町高校ナインがグラウンドに散らばって行く。
 大智が投球練習を終えると大森がマウンドの大智の許へと駆け寄ってきた。
「とりあえず、剣都の打席が終わるまでは好きにしていいぞ。ただし、一番を出さなかったら、だけどな」
 大森が念を押すように言う。
「出さねーよ。絶対にな」
 大智はキッとした目で大森を見た。
「だろうな。楽しみにしてるぜ」
 大森は微笑を浮かべながらそう言うと、大智の胸をミットで二度叩いた。
「あん?」
 大智が首を傾げる。
「俺だって見たかったんだよ。お前たちの本当の真向勝負をな」
 大森は笑顔でそう告げると、踵を返して自身のポジションへと帰って行った。
「たくっ。滾るねぇ」
 大智は帽子の鍔を顔に被せるように被ると、ホームに背を向けた状態で天を仰いだ。

「プレイ!」
 すべての準備が整ったことを確認した球審が試合開始の合図をかける。
 一塁側の港東高校スタンドからは軽快な吹奏楽の演奏と甲子園を目指して初陣を戦うナインに向けての大声援が響き渡った。
 だが大智はそんなまるでアウェイのような雰囲気など物ともしていないかのように、審判の合図を確認するとゆっくりとリラックスした状態で投球モーションに入った。
(余裕ぶっこいてたら、足下すくわれるぜ!)
 大智が心の中で呟く。
 大智はゆったりとしたフォームから一球目を投じた。
「ストライク!」
 球審のコールが高々と響く。
 その瞬間、スタンドからの声援が一瞬弱まった。
 港東の一番バッター、杉山は軽く目を見開いて、驚いた表情をしていた。
 二球目。
 杉山が打ちにいく。
 だが、大智の球はそのバットの上をすり抜けて大森のミットに収まった。
 杉山は一球目よりも驚いた表情を浮かべると、ギッとマウンド上の大智を睨みつけた。
「睨んだところで打てるかよ!」
 大智が三球目を投げる。
 ストライクゾーン、三球勝負。
 杉山はその球を打ちにいくが、バシッと大森のミットが音を上げた。
 三球三振。
 港東高校の一番を打つ杉山は信じられないといった表情で自軍のベンチへと引き上げていった。
 港東ベンチも信じられないといった表情でバッターボックスから帰って来ているチームメイトの姿を見つめていた。
 そんな中、ネクストバッターズサークルに座っていた剣都は口元をニッとさせ、不敵な微笑みを浮かべていた。だが目は燃え盛るようにギラギラとしている。
 剣都はバッターボックスから帰ってくる杉山と入れ替わるようにバッターボックスへと向かった。
 剣都が右打席に入り足場を整える。
 まだ誰も使っていないバッターボックスに自身の足場を作って剣都はバットを構えた。
 そして、キッとした目でマウンド上の大智を見つめた。
「あの日、誓った約束の幕開けだな」
 大智が投球モーションに入りながら呟く。
「派手に行こうぜ!」
 大智は一球目を投じた。
 金属音が球場に響き渡る。
 その音と同時に港東高校スタンドからは大歓声が上がった。
 打たれた大智はボールの行方を追っていた。
 剣都が捉えたボールはレフト線上空を飛んで行く。
 スタンド目がけてぐんぐんと伸びていく打球はポールの手前で左へと切れて行った。
 ファールボール。
 三塁塁審が頭上で両手を大きく広げている。
「あっぶね~」
 大智はボールの行方を見つめながらホッとしたように肩を撫で下ろしていた。
「公式戦の初打席ぐらい、緊張しやがれ!」
 大智が二球目を投げる。
 鋭い金属音が響いた後すぐに、ボールがバックネットを揺らした。
「ちっ。なんちゅうスイングしやがる」
 大智がキッとした目つきで剣都を見ながら呟く。
 一方の剣都は口元を緩ませて大智を見ていた。
 そんな剣都の顔を見た大智はギュッと唇を噛みしめて剣都を睨みつけた。
 三球目。
 真向勝負に無駄球はなし。
 三球勝負。
 ストライクゾーンに向かって来る大智の球を剣都は迷うことなく打ちにいった。
 剣都の綺麗なスイングが大智の球を捉える。
 剣都のバットが捉えたボールはセンター方向へ高々上がっていく。
 球場にいる皆の視線が一様にその打球へと注がれていた。
 そんな中、打たれた大智だけは、まるでその球の行方がわかっているかのように、投げ終わったファームのまま、ギリッと奥歯を噛みしめていた。
 打球は勢いを落とすことなく、ぐんぐんと伸びていく。そして、バックスクリーンへと飛び込んだ。
 その瞬間、港東高校サイドからは割れんばかりの大歓声が上がった。
 得点した際の定番の音楽と喜びを表すようにメガホンを叩く音が球場全体を覆う。
 そんな大歓声の中、剣都は悠々とダイヤモンドを回っていく。その顔は一見、冷静そうに見えるが、秘かに口元を綻ばせているようだった。
 ダイヤモンドを一周した剣都がホームへと還って来る。
 剣都がしっかりとホームベースを踏んだことを確認した大森は、マウンドから、ボールが飛び込んで行ったバックスクリーンを見つめている大智の許へ向かった。
「公式戦初打席にして初ホームラン。これ以上ない、ど派手なデビューだな」
 マウンドに着いて早々、大森は大智の背中に向けて言った。
「けっ。ど派手過ぎんだろ。強豪校で一人だけ一年生で出てんだから、少しは緊張しろってんだ」
 大智が顔をしかめながら言う。
「そうならないから一年から試合に出れてんだろ? それに……」
「それに?」
 大智が首を傾げて訊く。
「お前が相手だからだよ」
「あん?」
「大智が相手だからいつも通り、いや、それ以上のスイングができたんだろ。じゃなかったら、普通あの球をあそこまで飛ばせやしねーよ」
 大森がバックスクリーンを見ながら言う。
「力負けってことか……」
 大智は天を仰いだ。
 それを見た大森は大智の左肩に自分の右手を添えて言った。
「気にすんな。まだまだ始まったばかりだ。試合も。お前らの戦いもな」
 大森はそう言って大智に微笑みかけた。
「そうだな」
 大智はそう言いながら帽子を深く被り直した。
「ま、なんにせよ、一先ず勝負はお預けだ。ここからは試合に勝ちに行くからな」
 大森が力強い声で言う。
「あぁ。今の打席で、現時点での俺と剣都との力の差もわかったことだし、これ以上わがままなことは言わねぇよ。何より三年の先輩たちにとっては最後の大会なんだからな」
 大智は大森の目を真っすぐ見つめる。
「ま、そういうことだ。きっちり頼むぜ」
 大森はそう告げると踵を返して自身のポジションへと戻って行った。

「しゃあ、続け、続けぇ!」
 港東高校ベンチから活気のある声が飛び交う。
 剣都が打った先制ホームランの効果か、ベンチから声を出している港東ナインの顔には余裕が伺えた。
 続く三番、四番バッターに対し、大智は大森のサイン通り投げた。
 結果は三番をセカンドライナー、四番をセンターフライに打ち取った。
 四番バッターは一塁ベースを回りながら悔しそうな表情をしていた。
「ふ~、さすがは強力打線のクリーンナップ。嫌なスイングしやがる」
 マウンドからベンチに戻ってきた大智が大森の側に寄って言う。
「あぁ。あれなら剣都を二番に置けるのも納得だよ。紅寧ちゃんのノートがなかったら、絶対に九回まで持たなかったな」
 大森がしみじみと言った様子で言う。
「だな。紅寧にはほんと感謝しないとな」
「ほんと、ほんと」
 大森が頷く。
「こりゃ、勝っても負けても何かお礼しないとな」
「どうせなら勝利と一緒にプレゼントしようぜ。剣都には悪いけどな」
 大森がニッと笑う。
「そうだな」
 大智もニッと笑い返した。

 円陣を終え、ベンチの中に入った大智はすぐさま愛莉の許へと向かった。
 そして、置いておいた自身のタオルを取ると、汗を拭いながら愛莉に問いかけた。
「どうだった? 俺と剣都の勝負は」
「複雑……」
 愛莉は声をかけられても、大智に顔を向けることなく、真っすぐホームの方を見つめながらぼそっと呟くように言った。
「そっか……。ま、そうだよな」
 大智はベンチ椅子に深く腰掛けると、斜め上に覗く青空を見つめた。
「剣都の公式戦初ホームランが見られたのは凄く嬉しい。でも……、その相手が大智だった。それに今は千町のベンチにいるから。正直、色んな感情が混ざり合ってて、自分でもよくわからない……」
 愛莉が心苦しそうに語る。
 と、その時、大智の隣に難波がドスッと座ってきた。
「あれ? お前一番だろ? こんなことで何してんだよ」
 大智が眉間に皺を寄せて訊く。
「もう終わったよ。初球、キャッチャーフライ」
 難波が大智の反対側に顔を向けて言う。
 それを聞いた大智は苦い顔を浮かべていた。
「おいおい、初球かよ」
「打てそうな気がしたんだけどな。ホームラン」
 難波は不思議そうな表情を浮かべていた。
「いや、だからだろ……」
 大智の顔は更に苦い顔になっていた。
「ま、終わったことをグチグチ言ったって仕方がない。俺は俺で、さっきの借りをきっちり返さないといけないしな」
 大智はそう言うと、椅子から勢い良く立ち上がった。そして、ヘルメットを被り、バットを持ってベンチを出て行く。
 大智がベンチを出た時、二番の上田は既にバッターボックスに立ってバットを構えていた。大智は急いでネクストバッターズサークルへと向かった。

 二ボール、二ストライクからの五球目。
 金属音と共にボールがライト上空へと飛んで行く。
 大智はその場にバッと立ち上がった。
「よっしゃ! ツーベー……、ス?」
 ボールは大智の予想に反し、ライトスタンドへと吸い込まれていった。
「あらら」
 ボールが吸い込まれたライトスタンドを見ながら大智が呟く。
 ダイヤモンドを一周して還って来た上田を大智はハイタッチで迎えた。
「たった二か月ほどでブランクを埋めるとはな。驚いたよ」
「バーカ。相手が舐めてきてくれたからだよ。次はそう上手くはいかんだろ。この後打つお前もな」
 上田は真っすぐな目で大智に訴えかけた。
「だろうな」
 大智はマウンドから自分達のことを見ている相手のバッテリーを横目で見ながら、呟くように言った。
「しかし、あの一点は俺の責任だから俺が返すつもりでいたんだけどな」
 大智がバックスクリーンに記された一回表の一点を見ながら言う。
「なら、このまま逆転しちまえよ」
「この後はそう上手くいかないんじゃなかったのか?」
 大智が訊く。
 上田は大智に背を向け、ベンチへと足を踏み出した。
「責任を感じてんなら意地で取れよ」
 上田が大智に背を向けたまま言う。
「正論だね」
 大智はヘルメットの位置を整えると、バッターボックスへと向かった。