喜一は驚愕のあまり声も出せずに、目を見開いたまま動けないでいる。
 もうダメだ。これまた同時にふたりが思ったそのとき、清らかな一陣の風とともに白い塊が飛び上がった。
 それは、落ちてくる左之助を、地面に追突する直前で襟首を捕まえ、くるりと一回転させ衝撃を和らげてから、地に放した。
 木の根元に大の字になって伸びた左之助に、喜一が駆け寄る。

「しっかりしてっ!?」

 喜一がペたぺたと頬を叩く。「うーん」とうなり声を立てながら左之助は目を開けた。

「……おれは助かったのか?」

 信じられないというように頭を振って身体を起こすと、全身を確認する。

「怪我は? 痛いところはない?」

 自分のことのように顔を蒼くして心配している喜一に、左之助はうなずいた。

「平気みたい」
「よかったあ」

 無事を確信し安心したふたりは、いまさらにへなへなと腰を抜かしてへたりこんだ。

「だから、神木に登ってはいかんと言ったであろうに」

 ふたりしかいないはずの雷鳴が鳴り響く境内で、お互いとは別の声が聞こえ、左之助ちは同じように首をかしげる。

「そのようなところにおっては、雷に打たれるぞ」

 また聞えてきた声のほうを見て、喜一たちは文字通りに飛び上がった。

「な、な、なに!? 白い……犬?」
「しゃべる犬?」
「犬にしては、大きいんじゃない?」
「よく見てみろよ、喜一。尻尾が三本あるぞ!?」

 いったん顔を見合わせて、ふたりいっしょに謎の獣を指差して震えあがる。

「お狐さま!?」

 ものの見事に重なった声に、白狐がうんざり顔になってそっぽを向いた。

「丸焦げになりたいならば、いつまでもそこに居るがよい」

 ぷいと尾を向け、のっそりと社に向って歩き出す。
 激しさを増す雨と、いっこうに止まる気配がしない雷鳴。またもや鋭い稲光が、暗い雨空に走った。
 高い杉の木の側にいたら、本当に雷に打たれてしまうかもしれない。左之助と喜一はどちらからともなく手を繋いで、恐る恐る白狐の後ろに付いていった。

 社に入る前に、狐は後ろにいる左之助たちにはお構いなしに、ぶるぶると身体から水滴を払い落とした。

「ぎゃっ!」

 飛び散った雫がかかり、左之助が大げさな声を上げる。
 軒下で、喜一が懐からさっき友達に借りた手ぬぐいを出して、左之助に渡した。
 左之助はそれを受け取ると、ごしごしと喜一の頭を拭き始める。

「先に左之助ちゃんが拭きなよ」

 頭を手ぬぐいで包まれながら喜一が言っても、左之助は手を止めなかった。

「おめえに風邪でもひかれちゃ、おれが怒られるんだよ」

 ようやく喜一の全身を拭き終え、自分はずいぶんとおおざっぱに雨粒を拭う。
 建物の中は薄暗く、ときどき光る稲妻で中の様子がわかる。奥で、身体にほんのりと白い光を帯びた狐がこちらを向いて座っていた。

「そこでは、雨が降りかかろう。こちらに来るがよい」

 ふたりは一瞬ためらったが、そろりそろりと近付いていく。
 白狐の前に並んで正座し、がばっと土下座をした。

「もうしわけありませんでした!」

 床に額を押しつけて、ぶるぶると震える。

「それは、なにに対しての謝罪なのじゃ?」

 左之助が額を床にぺったりと付けたままで言った。

「ご神木に登ったことです。本当にすみません!」

 半ば怒鳴るような左之助の声が、狭い社殿の中で反響する。すると、続いて喜一も蚊の鳴くような声で陳べた。

「左之助ちゃんは、わたしの竹トンボを取りに行ってくれたんです。だから悪いのはわたしです。祟るのはわたしだけにしてください!」
「違います。勝負をしようって言ったおれが悪いんです。おれのほうを祟ってください!」

 かばい合うふたりのつむじの先で、さわさわと尻尾が行き来する。

「先ほどからきいておると、祟るとかなんとか、穏やかではないのう。妾がいつ、そなたらを祟ると申したのじゃ」
「え?でも、雷とか……」

 白狐の言葉に、思わず左之助が顔を上げる。

「雷雨なんぞ、夏にはよくあることじゃろう?だいたい、そのつもりなら、助けたりはせぬわ」
「あ……」

 そうだった。一本杉からの墜落を助けてくれたのは、ほかならぬ、目の前の狐だ。 
 白狐は左之助の前にゆらりと進み出て、怯えの色の映る瞳をじっと見据える。

「妾はいく度も申したはず。神木には登るでないとな。身体は大きゅうなっても、まだまだ童じゃな」
「お狐さま、おれのこと知ってるの?」

 左之助は狐の金瞳をのぞき込むと、不思議なことで徐々に怖さが消えていく。

「そなたと会ったのは、七つ参りの前日が最後じゃったかの」

 数年前の秋のことを懸命に思い出すと、ひとりの女の子の姿が呼び起こされた。

「え? もしかして、あかね?」

 あかねはゆっくりと口の端をもちあげた。
 あの日も、ひとりきりで遊んでいた左之助は一本杉に登ろうとして、突然現れたあかねに怒られたのだ。
 驚きで目を丸くして声も出ない左之助は放っておいて、あかねは喜一に目を向けた。
 それまでやりとりとじっと聞いていた喜一は、あかねの視線が自分に向いたことで背筋をぴんと伸ばす。

「そなたは、あまり見かけぬ顔じゃな。ここの氏子ではないのか?」
「わたしは枡嵜(ますざき)屋の喜一です。あの、身体が弱くって、自分はお宮参りに来れていなかったんです」

 ちいさく産まれた喜一は、お七夜も七つ参りのときも高熱を出し、生死の境をさまよっていたと聞いている。首を縮めて告げると、あかねはやわらかな笑みを向けた。

「そうか。おぬしが喜一か。すまぬな、ちゃんと聞き知っておるぞ」

 思わぬ言葉に喜一が顔を上げると、あかねは嬉しそうに言った。

「なに。そなたの父母が、息子の健康を祈願しによく参りに来ておるのよ。やっと当人に会うことができたわ」
「父さんと母さんが?」

 自分の知らなかった事実を知り、喜一も目を大きく開いて驚いていた。
 そんな二人に、あかねはあらためて諭す。

「よいか。神木に登ったからといっても、すべてが悪いというわけではない。木霊の気を害すものでなければ、災いは起きぬ。しかしあれほどに高くまで登っては、神木でなくとも危険なのじゃ。この社内で人死にが出るのは勘弁してもらいたい」

 厳かに静かな口調で話すあかねの言葉は、子どもたちを思う慈愛に満ちたものであり、左之助たちも神妙な顔つきで聞き入っていた。

「わかったかの?」
「はい。申し訳ありませんでした」

 もう一度揃って頭を下げるふたりに、あかねはぱたぱたと尻尾を振って応えた。
  
 
 しばらくして、左之助が喜一の異変に気付いた。唇を青くして小刻みに震えているのである。
 最初はお狐さまであるあかねに対しての畏れなのかと思ったが、どうやら違うようだった。

「おい、喜一。大丈夫か?」
「……うん、平気」

 そう返した顔は蒼白く、とても普通には見えない。額に手を当ててみると、熱もあるようだった。
 だんだんと呼吸が荒くなっていく喜一に、あかねも顔を曇らせる。

「雨に打たれ、身体が冷えてしまったのだろう。喜一や、近う」

 あかねにそう言われても、喜一は畏れ入って動かない。しかたがないので、あかねが自ら近寄っていく。
 喜一に寄り添い、ほわほわの白い毛皮をくっつけた。

「ほれ、妾を抱くがよいぞ」
「えっ?」

 驚く喜一の袖をぐいっと噛んで、強引に引き寄せると、ぽふっと喜一の身体が、あかねにもたれかかる。

「……あったかい」

 あかねの神気に触れ、喜一の顔色にほんのちょっと赤みが戻ってきた。

「お狐さま、もこもこで気持ちいいです」

 喜一は艶のある滑らかな手触りの毛皮に手を入れて、撫で繰り回している。

「わたし、犬や猫が飼いたかったんですけど、喉に悪いからって許してもらえなくって」

 あかねの顔が急に渋いものに変わる。守狐を、犬猫と一緒にするとは何事ぞ。
 横から左之助がそろっと手を伸ばしてきたが、あかねはそれを一本の尻尾でぴしりと払った。
 やがて雷鳴が遠ざかり、激しく屋根を打ち付けていた雨音も消えた。
 静かな寝息を立てている喜一を起こさぬようにそっと立ち上がると、左之助は社の扉を開いた。
 外には眩しい日射しが戻り、湿り気の多い熱気が流れ込んでくる。
 ふと足下に目を降ろすと、喜一の竹トンボが板の間にぽつんと置かれていた。

「ふん。木霊も粋なことをする」

 あかねが呟き、そっと立ち上がる。
 表のほうから必死に喜一を呼ぶ声が聞え、左之助が飛び出すと、先に帰った仲間が枡嵜屋に報せたようで、喜一の両親が血相を変えて境内を探し回っていた。
 左之助がおとなたちを本殿に連れて行くとすでにあかねの姿は消えており、深い眠りに落ちている喜一だけが残されていた。