人々にとっては鬱陶しいが、農作物には恵みとなる雨の季節が終わり、本格的な夏がこの町にもやって来た。
 町中が浮き足立っているのは、もうすぐ夏祭りがあるからである。
 守狐のあかねが住まう小さな社も、この日ばかりは祭りの中心となり、狭い境内が賑やかな歓声に包まれるのだ。
 氏子たちが支度に集まり、社殿の掃除を始めた。居場所を失ったあかねは、一本杉に登って避難する。
 それまでうるさく鳴きわめいていた蝉が、慌てて隣の木に移って、また騒ぎはじめた。

「今年の夏は、また一段と暑いですね」
「ほんと、食欲が出なくて骨と皮だけになっちまうよ」

 恰幅のよい肉屋のおかみが、臨月のように突き出た腹をさすると、どっと笑いがおきる。

「そういえば、酒屋のおかみさんが見えないようだけど」

 氏子総代の連れ合いのキミが、集まっていた顔ぶれを見回して眉根を寄せた。

「それが、しばらく家を空けられそうもないってね。代わりに、店のほうの手が空いたら、若おかみが来るって言ってましたよ。わたしは無理しなくていいって伝えた漢字(かんじ)んだけど」

 豆腐屋の千代が顔を曇らせながら言うと、皆の手が止まる。

「そう。暑い日が続いているからかねぇ」
「あたしらだって、参っちゃいそうだもの。ましてや……」
「祭りのお囃子でも聴いて、少しでも元気が出ればいいけど」
「あぁ、左之助さん大好きだもんね、お祭りさわぎ」

 一同は気を取り直して再び作業に戻り、準備は着々と進む。
 それを眼下に眺めつつ、あかねが杉の太い幹に寄りかかり休んでいると、古い樹洞(うろ)を寝床にしていた小さなモモンガが飛び出してきた。
 女童姿のあかねと目が合うと、丸い目をさらに大きくして上の枝へと登っていってしまった。

「逃げることもなかろうに。だれも、獲って喰いはせぬ」

 昔ならいざ知らず、いまのあかねは曲がりなりにも神の眷属。殺生など、とんとしていない。
 暇つぶしに遊んでやろうと思ったのに。不機嫌に頬を膨らましていると、下から呼ぶ声がした。

「おーい。あかね!」

 木の根元に立ち上に向って手を振っていたのは、酒屋の勝一だった。
 あかねは音も立てずに枝から飛び降りる。その軽やかな動きに、勝一が思わず手を叩いた。

「すげーな、おまえ」

 ぴくっとあかねの眉が上がるが、無邪気に感心するようすに、小さく溜め息を吐くだけにした。

「なんのようじゃ。おぬし、家の手伝いはしなくて良いのか?」

 祭り前の酒屋は猫の手でも借りたいくらいに大忙しだろうに、猫の手よりはいくらかましな、五つの勝一がここにいる。

「子どもにも『いきぬき』がひつようなんだよ! かあちゃんが、子どもみこしを見にいっていいって」
「ほぅ。子ども神輿か」

 いまごろ、近所中の子どもが集まって、わいわいと飾り付けをしているのだろう。
 勝一の瞳が、期待にきらきらと輝いていた。

「うん。あかねもいっしょにいかないか?」

 木の上にあかねをみつけて、わざわざ声をかけてくれたらしい。その気遣いがあかねは嬉しかった。
 だが――。

「妾は行かぬ」
「ええー、なんで? おみこし、でっかいよ」

 予想外に断られて、勝一の赤いほっぺがぷっくりと膨れる。

「妾は忙しいのだ」
「……木の上でねてたくせに」
「子どもには分からぬのじゃ」
「あかねだって、子どもじゃん」
「……」

 あかねの大きな目が吊り上がり、勝一を睨めつけた。
 びくりと勝一の肩が震え、口がへの字に曲がる。

「ふ、ふん。もう、あかねなんか、あそんでやんねーぞ」

 黒目勝ちの眼を潤ませて精一杯の強がりで言うと、くるりと背を向け走り出す。
 その後ろ姿へ、あかねが思いだしたように声をかけた。

「おい。左之助は元気にしておるか?」

 勝一は律儀にもぴたりと足を止め、ゆっくりと振り向いた。

「しらない! ひいじいちゃんのへやに、ばあちゃん、オレ入れてくれないもん」
「そうか。呼び止めてすまなかったな。気をつけて行くがよい」

 あかねがにこりと微笑んで手を振ると、勝一が気まずげに俯く。

「……じゃあ、またなっ!」

 下を向いたままぼそりと言い捨てると、鳥居をくぐりぱたぱたと走って行った。

「ふむ」

 あかねが思案顔で、酒屋がある西の空を見やる。
 真夏の眩しい太陽は、沈むまでにはまだ少し時間がありそうだ。