その様子を、澄江は社殿の中に隠れて覗いていた。

「あかねちゃん、ちょっと強引すぎだったんじゃないかしら?」

 鳥居の向こうを見遣りながら、澄江が不安げに言う。

「あやつのように鈍い男には、過ぎるほど周りが世話を焼くくらいでちょうど良いんじゃ」
「へぇ、そういうものなの? でもそうね。姉さんもじれったいくらい内気だから、お似合いだわ」

 あかねが、子どものころに一緒に遊んだ姿のままなので、澄江もつい、子どものときと同じように話してしまう。
 あかねの眉間に、ちょっとだけしわが寄った。

「……おぬしは、本当にこれで良かったのか?」
「だって、いまのまま家やお店のことにかまけていたら、姉さんはおばあさんになってしまうもの」

 五年前に母を亡くしてからというもの、八重は澄江にとって母親代わりでもある。しかし、いつまでも甘えているわけにはいかない。

「あかねちゃんこそ、そんなにおしゃれしたのに良かったの?」
「ふん。たまには違う格好をしてみたかっただけじゃ」

 少し朱に染まった頬を隠すように鳥居のほうへ首をひねると、澄江も視線を向ける。
 やがてふたりの姿が完全に見えなくなり、どちらともなくほっと溜め息をついた。
 澄江は手にした風呂敷包みを掲げてあかねを誘う。

「父さんにぼた餅を作ってもらってきたの。あかねちゃん、一緒に食べよう」

 子どものときのように二人並んで拝殿の階に腰掛け、包みを開くと、重箱一杯にぎっしりとぼた餅が並んでいる。
 懐紙に取り分け、ずっしりと重い餅をあかねに渡した。

「あのふたり、大丈夫かな」
「妾たちは、お膳立てをすることしかできん。あとは、それぞれの努力次第じゃ。なに、お互い好いた者同士なのじゃ、なんとかなるだろうて」
「……うん、そうだね」

 睫毛を伏せた澄江は、ぼた餅を箸でつつく。
 その顔をのぞき込んだあかねは、言いかけた言葉を餅と一緒に胃の腑へ収めた。

「まったく、ふたりとも大人なのに世話が焼けるんだから」

 呆れた溜め息をつき、厚い餡子にくるまれたぼた餅を口に入れる。

「あれ? 父さん塩加減、間違えたのかな。なんだか、しょっぱい……」

 そう言うそばから、澄江のぼた餅の上に、ぽたりぽたりと大粒の滴が落ちていく。

「あかねちゃん、お願い聞いてくれてありがとうね」
「……うむ」

 澄江の『ありがとう』は、願いが叶ったというのに少し寂しさと切なさを感じるもので、甘いはずの餡子が、あかねにもちょっとだけ塩辛く感じる。

「ねぇ、また来てもいい?」
「妾は、いつでもここにおる」
「うん。ありがとう」 

 今度の『ありがとう』は、胸の中にぽっと小さな灯火が点くものだった。


 西の空が茜色に染まりはじめたころ、社に信吉と八重の姿があった。拝殿の前に並んで立ち、持ってきた供物を供える。
 手を合わせ終わった信吉が、だれかを探すように周りを見渡すがふたりのほかに人の姿は見えない。

「ここのお稲荷さまはすごいですね。僕は、願いをふたつも叶えてもらえました」
「ふたつ?」

 顔を上げた八重が、拝殿と信吉を交互に見て首を傾けた。

「親方が認めてくれますように。餡子と――」

 信吉の目が一瞬八重の瞳をとらえて、すぐさま橙色の空に向けられる。

「八重さんとのこと」

 八重の目がまあるく開いて、頬が夕焼け色に染まった。

「じゃあ、いま私がお願いしたことも叶うかしら」

「なんですか?」信吉が問うと、かろうじて信吉に届く声で言う。

「信吉さんと、これからもずっと一緒にいられますようにって」 

 参道にふたつの影が長く長く伸びて、そっと寄り添った。


「お千代や。カキ氷というものは、聞くほどよいものではないな」
「そうなんですか? お婆は食べたことがありませんけど」

 雑巾がけする手を休めずに、千代が答える。

「餡子の浮かんだ、ただの甘ったるい水じゃったぞ。あの餡なら松乃家のほうがうまい」

 信吉たちがカキ氷だと言って椀を置いていったのだが、あれは違うものなのか。
 しきりに首をひねるあかねに、千代が笑いを堪えて教えてくれた。

「それはきっと、溶けてしまったんじゃありませんかね。氷を削ったものですから」

 この陽気だ。ここまで持ってくる間に、もとの水に戻ったのだろう。せっかくの珍品だったのにがっかりである。

「しかし人も面倒なまねをするものよ。氷なんぞ、わざわざ作らんでも冬まで待てばよいものを」
「それでは寒くて、とても食べられませんでしょう」

 さもあらん。あかねはお揚げを丸飲みする。
 
「冬は湯豆腐に限る。あれに餡子をつけたらうまいだろうか」 
「それはどうですかねえ」

 千代が顔をシワを増やす。その表情で、あかねは冒険を断念した。
 熱々の豆腐にかけるのは、とろりと甘辛い(きのこ)の餡のほうがうまそうだ。

 境内では鳩たちがしきりに地面をつついているが、そこになにがあるのか、あかねにはとんとわからない。

「つまらんのう」

 毎日のように食べていた菓子が減って、甘味が恋しいと愚痴を溢すあかねを、千代がからかうように笑った。

「あかね様が待っていたのは、お菓子ではなくて信吉さんだったんじゃあございませんか?」
「ち、違うぞ。妾は、餡子が食べたいだけで……」

 願いを叶えた信吉は、もうあかねのことなど忘れてしまっただろう。
 それで良い、とあかねは思う。
 なにかにすがらなければ叶わない願いなど、ないに越したことがない。
 
「のう、お千代。他人(ひと)の幸せを願い事にした者は、それが自分の想いをころして叶ったとしても、うれしいものなのだろうか」

 それはあかねが、澄江に聞けなかった疑問。
 千代が少し悩んでからゆっくり口を開いた。

「そうですねぇ。この世はしがらみがあって、なかなか難しいことですけど。皆が皆、自分以外のだれかの幸せを思いやれたら、きっとよい世の中になるんでしょうね」
「ふぅん。人間とは、ほんにややこしい生き物じゃな」

 あかねが空を見上げると、ぽつりと雨粒が落ちてきた。
 もうじき、梅雨に入る。



   【 あんこ慕情 完 】 
 人々にとっては鬱陶しいが、農作物には恵みとなる雨の季節が終わり、本格的な夏がこの町にもやって来た。
 町中が浮き足立っているのは、もうすぐ夏祭りがあるからである。
 守狐のあかねが住まう小さな社も、この日ばかりは祭りの中心となり、狭い境内が賑やかな歓声に包まれるのだ。
 氏子たちが支度に集まり、社殿の掃除を始めた。居場所を失ったあかねは、一本杉に登って避難する。
 それまでうるさく鳴きわめいていた蝉が、慌てて隣の木に移って、また騒ぎはじめた。

「今年の夏は、また一段と暑いですね」
「ほんと、食欲が出なくて骨と皮だけになっちまうよ」

 恰幅のよい肉屋のおかみが、臨月のように突き出た腹をさすると、どっと笑いがおきる。

「そういえば、酒屋のおかみさんが見えないようだけど」

 氏子総代の連れ合いのキミが、集まっていた顔ぶれを見回して眉根を寄せた。

「それが、しばらく家を空けられそうもないってね。代わりに、店のほうの手が空いたら、若おかみが来るって言ってましたよ。わたしは無理しなくていいって伝えた漢字(かんじ)んだけど」

 豆腐屋の千代が顔を曇らせながら言うと、皆の手が止まる。

「そう。暑い日が続いているからかねぇ」
「あたしらだって、参っちゃいそうだもの。ましてや……」
「祭りのお囃子でも聴いて、少しでも元気が出ればいいけど」
「あぁ、左之助さん大好きだもんね、お祭りさわぎ」

 一同は気を取り直して再び作業に戻り、準備は着々と進む。
 それを眼下に眺めつつ、あかねが杉の太い幹に寄りかかり休んでいると、古い樹洞(うろ)を寝床にしていた小さなモモンガが飛び出してきた。
 女童姿のあかねと目が合うと、丸い目をさらに大きくして上の枝へと登っていってしまった。

「逃げることもなかろうに。だれも、獲って喰いはせぬ」

 昔ならいざ知らず、いまのあかねは曲がりなりにも神の眷属。殺生など、とんとしていない。
 暇つぶしに遊んでやろうと思ったのに。不機嫌に頬を膨らましていると、下から呼ぶ声がした。

「おーい。あかね!」

 木の根元に立ち上に向って手を振っていたのは、酒屋の勝一だった。
 あかねは音も立てずに枝から飛び降りる。その軽やかな動きに、勝一が思わず手を叩いた。

「すげーな、おまえ」

 ぴくっとあかねの眉が上がるが、無邪気に感心するようすに、小さく溜め息を吐くだけにした。

「なんのようじゃ。おぬし、家の手伝いはしなくて良いのか?」

 祭り前の酒屋は猫の手でも借りたいくらいに大忙しだろうに、猫の手よりはいくらかましな、五つの勝一がここにいる。

「子どもにも『いきぬき』がひつようなんだよ! かあちゃんが、子どもみこしを見にいっていいって」
「ほぅ。子ども神輿か」

 いまごろ、近所中の子どもが集まって、わいわいと飾り付けをしているのだろう。
 勝一の瞳が、期待にきらきらと輝いていた。

「うん。あかねもいっしょにいかないか?」

 木の上にあかねをみつけて、わざわざ声をかけてくれたらしい。その気遣いがあかねは嬉しかった。
 だが――。

「妾は行かぬ」
「ええー、なんで? おみこし、でっかいよ」

 予想外に断られて、勝一の赤いほっぺがぷっくりと膨れる。

「妾は忙しいのだ」
「……木の上でねてたくせに」
「子どもには分からぬのじゃ」
「あかねだって、子どもじゃん」
「……」

 あかねの大きな目が吊り上がり、勝一を睨めつけた。
 びくりと勝一の肩が震え、口がへの字に曲がる。

「ふ、ふん。もう、あかねなんか、あそんでやんねーぞ」

 黒目勝ちの眼を潤ませて精一杯の強がりで言うと、くるりと背を向け走り出す。
 その後ろ姿へ、あかねが思いだしたように声をかけた。

「おい。左之助は元気にしておるか?」

 勝一は律儀にもぴたりと足を止め、ゆっくりと振り向いた。

「しらない! ひいじいちゃんのへやに、ばあちゃん、オレ入れてくれないもん」
「そうか。呼び止めてすまなかったな。気をつけて行くがよい」

 あかねがにこりと微笑んで手を振ると、勝一が気まずげに俯く。

「……じゃあ、またなっ!」

 下を向いたままぼそりと言い捨てると、鳥居をくぐりぱたぱたと走って行った。

「ふむ」

 あかねが思案顔で、酒屋がある西の空を見やる。
 真夏の眩しい太陽は、沈むまでにはまだ少し時間がありそうだ。
 緑のある社といえども、夏の夜は暑い。
 まとわりつくような熱気と、絶え間なく鳴き続ける虫の音に、あかねは少々うんざりしていた。
 自慢のふさふさの尻尾を団扇代わりに、ばさばさと振ってみるが、熱い風しか起こらない。
 ぺたんと手足を広げ木床に腹をつけると、ほんの少しだけひんやりとして気持ちよかった。

 やっと眠りにつけるとほっとしたそのとき、拝殿の鈴がガランと音を立てた。
 風か? そう思っていると、今度は柏手を打つ音までしたので、あかねの三角耳がぴんと立つ。

「まさか、丑の刻参りではあるまいな」

 それはそれで面倒だと、さらに聞き耳を立てる。すると、よく知った声が頭の中に届いてきた。
 女童姿になり拝殿まで出ていくと、合わせた手をそのままに、老爺が顔を上げた。

「おや、あかね様。こんばんは」

 しわだらけの顔の中に隠れるような細い眼を、さらに細めて挨拶する。彼の者の頭髪は、もう三十年も前から見かけていなかった。

「久し振りじゃの、左之助や。このような夜中にいかがした」

 酒屋のご隠居、勝一の曾祖父の左之助の姿が、十六夜の月明かりにぼんやりと浮かび上がった。

「なに。ばあさん……ああ、嫁の(とよ)さんがな、出歩くなっていうからよ。こんな時間になっちまって」

 しゃんと伸びた腰は九十を超えたようには思えないが、着流した浴衣の袖や裾から覗く手脚は、枯れ枝の様に細い。

「そうか。しかし無理はいかんぞ。皆が心配しておる」

 昼間のおかみ連中の会話を思いだし灸を据えると、老爺は呵々と笑った。

「棺桶に片足を突っ込んでる老いぼれに、皆、気を遣いすぎなのさ」
「して、その死に損ないが何用じゃ」

 お灸がまったく効いていないようだ。あかねがぶっきらぼうに尋ねると、佐之助はふぅっと息を吐き、よっこらせと階に腰掛ける。
 懐に手を差し込んで白髪眉を寄せた。

「さすがに煙管はねぇや」
「あたりまえじゃ。煙など吸ってなにが楽しいのか、妾にはさっぱりわからぬわ」

 あいかわらず不機嫌なあかねに左之助は苦笑いで応え、居住まいを正す。

「実は、探し物をしておりまして。あかね様のお力を拝借したく……」

 夜夜中《よるよなか》にひとり、わざわざ社にまで出向いた理由を語り始めた。

 ――あれは、そう。八十年以上前のこと。
 まだ、黒い煙を吐く船が来る前。江戸のお城には徳川の殿様がいらして、髷を結った二本差しのお侍様が町中を我が物顔で歩いていたころの話。
 左之助の家は、そのころからすでに酒問屋を営んでいた。五人の姉を持つ末っ子の左之助はずいぶんと甘やかされて育ち、近所でも名の知れた悪童だった。
 当時、社の敷地は今よりももう少し広く、殿舎の裏にはちょっとした森もあり、季節を問わず左之助たちは入り浸っていた。
 木の枝を拾って戦ごっこをしたり、だれが一番早くてっぺんまで登れるか、木登り競争をしたり。
 そんな毎日が当たり前のように過ぎていく。

「もうすぐ、夏祭りだよな」
「おお! 今年も、子ども神輿をかつぐぞー!」
「あーあ、早く、おとなとおなじの神輿が担ぎてえなあ」
「おめえみてえなチビ助、無理だって」

 社の境内に円陣を組み、裏の森で拾った竹で竹トンボを作る左之助たちの話題は、数日後に迫った祭りの話題でもちきりだった。
 器用に小刀を使い竹片を切り出しているのは、大工の倅の松太郎だ。負けず嫌いの左之助も、ちらちらと相手の技を盗み見しながら竹を削る。
 そのうちに皆が無言になり作業に熱中していると、輪の中心に影が落ちた。
 急に暗くなった手元に、左之助が顔を上げる。

「ふん。喜一か」

 大きな目を輝かせて竹トンボ作りをのぞき込んだのは、左之助の三軒隣の家の喜一だった。
 喜一は呉服屋の息子らしく、とても遊びに来たとは思えない仕立ての良い着物で現れ、それが色白い顔によく似合う。町人の子どもに見えないくらいの品の良さが、ときおり左之助の気を苛立たせていた。

「なんの用だ?」

 つっけんどんに尋ねると、それを気にしたようすもなく喜一がニコニコと笑う。

「わたしも、作ってみたいな」

 ひとつ年下のくせに、やけに落ち着いた話し方も気にくわない。口をへの字に曲げて意地悪を言った。

「よそゆきでできるわけないだろう」

 もし左之助がそんな上等な着物を汚したら、三日はご飯を抜かれてしまう。 
 ところが喜一は自分の着物を眺め、折れそうに細い首をかしけて、ほんわりと笑んだ。

「そんなんじゃないよ。気にしないで」

 左之助はまだ憎まれ口をたたこうとしたが、最年長の松太郎が割って入った。

「出てくるなんて久し振りだな。身体は大丈夫なのか?」
「うん。最近は熱も出してないから、少しだけならいいって」

 生まれつき身体が丈夫でない喜一は、ほかの子のように外で遊ぶことがなかなかできずにいた。肌の白さも手足の細さもそれ故だ。

「よかったな」

 松太郎が席を詰めて自分の隣に場所を空けてやると、喜一は着物が汚れるのも気にせずちょこんと腰をおろす。
 左之助は不機嫌な顔になるが、穏やかだが身体の大きい松太郎には力で敵わないので、黙々と自分の作業に没頭した。

「できた!」

 喜一が嬉しそうに完成した竹トンボを高く掲げると、松太郎も目を細める。

「初めてにしては上出来だぞ。がんばったな」

 褒められて頬をほんのりと赤くするようすを、左之助は面白くなさそうに横目で見ていた。

「じゃあ、オレは親父の手伝いに戻らなきゃいけねえから」

 全員のトンボ作りが終わったのを確認すると、松之助は帰り支度をする。
 面倒見の良い彼は去り際に左之助を手招きして、言い聞かせるのを忘れなかった。

「いいか、仲良くするんだぞ。喜一は身体が弱いんだ」
「……わかってらい」

 そっぽを向きながら答える左之助を不安そうに何度も振り返りながら、松太郎は帰っていった。
「よし。じゃあ、だれが一番高くまで飛ばせるか競争だ!」

 それぞれが、思い思いの方向に竹トンボを飛ばしはじめる。
 ある者のトンボは木の枝に突っ込み、葉陰で休んでいた小鳥をびっくりさせ、ある者のは上まで登らず、石畳の参道にカラリと落ちた。
 その中で左之助のトンボは群を抜いてよく飛び、一本杉の脇をすり抜け向こう側へ着地した。

「左之助ちゃんのトンボ、すごいねぇ」

 喜一が目を丸くして感心すると、左之助は得意気に鼻をこする。
 気をよくした左之助は、喜一に挑むように言った。

「おまえもあれくらい飛ばしてみろよ」
「うん!」

 見よう見まねで喜一は、手の中の竹トンボをくるくると回し空に放った。
 夏の青空に飛び込むように喜一の竹トンボは登っていく。
 くるくると回りながら上を目指して飛ぶ様を、喜一は口をぽかんと開け、眩しい日射しを避けるよう両手でひさしを作って見守る。
 トンボは拝殿の屋根の真上で失速し、そのまま落ちた。屋根にぶつかり、カランコロンと乾いた音を立てて転がり落ち、地面に敷かれた砂利で止まる。
 それを喜一が慌てて拾いに行き、傷が付いていないかを熱心に確認してから、大事そうに丁寧な手つきで砂を払う。

「けっこう飛んだなぁ」
「うん。左之助のより高く飛んだんじゃねえか?」
「やるなあ、喜一」

 仲間たちから受ける生まれて初めての讃辞に、喜一は照れ笑いで応えていた。
 それまで自分に向けられていた仲間の関心を、いまは喜一が一身に集めている。左之助はむかっ腹をたて、八つ当たりのように喜一に言った。

「おい、喜一。おれの竹トンボとどっちが高く飛ぶか、勝負しようぜ」
「え? でも、左之助ちゃんのトンボ、よく飛ぶから勝てないよ」
 
 突然の対決の申し出に困り顔の喜一を、左之助がせせら笑う。

「なんだ、負けるのが怖いのか? お坊ちゃんは、尻の穴までちっちゃくてお上品だ」

 すると、周りまで調子に乗って口々にからかいだしてしまう。

「へえ、見せてみろよ」

 ひとりが着物の裾をめくろうとする。
 喜一は必死で前身頃をおさえた。

「やめてよ!」
「まだ襁褓(むつき)をしているんだろう」
「赤ん坊はお神輿なんてかつげないぞ」
「やーい。弱虫毛虫、意気地なし」

 だれかが言い出すと、たちまち合唱がはじまった。
 弱虫だの意気地なしだのとはやしたてながら、喜一を囲んで全員でぐるぐると周り追い詰める。
 ついさっき、自分の竹トンボを褒めてくれた友達の手のひらを返した言葉の暴力に、喜一の眼が潤みはじめた。固く目をつむり耳をふさいでその場に座りこんでしまう。
 そこにいるだれもが、赤子のように大泣きするだろうと予想していた。
 けれど喜一は白い手の中のトンボをじいっと見つめ、いまにもこぼれそうなほどに溜まった涙を、ぐいっと袖でぬぐい去った。

「わたしは赤ん坊でも弱虫でもない! いいよ、勝負しよう!」

 それまでのどこか頼りなげだった喜一の瞳の奥に静かな炎が灯り、真っ直ぐ左之助を睨んだ。
 突然変わった喜一の表情に、左之助は内心で舌打ちを打つ。
 いつだってやわらかな笑顔で、左之助の後からゆっくりとついてきていた彼の、初めての反抗だった。
 でもここで引き下がっては、次は自分が弱虫の謗りを受ける番だ。戸惑いを気取られないよう腰に手を当て仁王立ちし、精一杯の威嚇をしてみせた。
 それでももう、喜一の瞳は揺らがない。左之助を真正面からしっかり見据えていた。

「よ、よし。勝負だ! 負けても泣くなよ」
「もちろん」

 迷いのない力強い返事に左之助が一瞬たじろいだが、どうにかして踏み留まる。

「そ、そうだ。ただの勝負じゃつまらないから、なにか賭けよう」

 苦し紛れの思いつきに、喜一が首を傾げ不思議そうな顔をした。

「おれが勝ったら……」

 左之助が喜一を頭のてっぺんから爪先までを見渡し、その腰に目を留め、一点を指さして宣言する。

「その根付をもらう!」

 皆の視線が、喜一の帯に挟まれた小さな巾着のひもの先にある根付に注がれた。
 咳止めの薬が入っている袋が落ちないよう付けられた根付は、べっこう飴色をした琥珀である。
 左之助が、前に一度じっくりと見せてもらったそれは、中に小さな虫が閉じ込められている珍品だ。
 喜一は手のひらに乗せた琥珀を見つめ、眉を寄せて考えている。
 おそらくは高価な品なのだろう。怖じ気づいて勝負を断ってくれればいい。そうすれば左之助の不戦勝だ。面目が保てる。
 左之助は卑怯にもそう考えていた。

「わかった」
「へっ?」

 左之助は、予想外に聞えてきた承諾の返事に、思わず間抜けな声が出て顔を紅くする。

「いいよ、これで。でも、わたしが勝ったらなにがもらえるの?」

 言われて、自分の全身をくまなく見渡すが、琥珀に見合うような物はなにひとつ持っていないのは一目瞭然だった。
 うーんと腕を組んで考える。
 ふと、左之助の頭の中に良案が閃いた。

「もしおまえが勝ったら、今度の祭りで子ども神輿の一番前をかつがせてやる!」
「ええーっ!?」

 その提案にほかの一同から抗議の声があがる。
 神輿の先頭の担ぎ手は、言わば祭りの花形。毎年、子どもたちの間で熾烈な場所取り争いが起こるほど人気があるのだ。

「大丈夫だよ、おれが勝つからさ」

 それに万が一負けたとしても、左之助の懐は全く痛まない。ずるい考えが頭の中を横切っていく。

「じゃあ、いいか? あの一本杉を越せるかで勝ち負けを決めるぞ」

 自分はさっき、余裕で越えたばかりだ。今度も大丈夫なはずだと、ドキドキする胸に言い聞かせる。
 喜一はうなずいて、手のひらでくるくるとトンボを回す練習を始めていた。
 それを何回か繰り返すと、そびえ立つ一本杉のてっぺんを見上げ、静かに言った。

「いいよ。受けて立つ」

 二人は両手のひらに竹トンボの軸を挟み、少しでも有利になるようにと高く掲げる。
 仲間が固唾を呑んで見守る中、どちらともなく声が出た。

「いっせいのせっ!」

 勢いよく手のひらをこすると、放たれたふたつのトンボは、羽を軽快に回しながら空高く上昇していく。
 全員の目がその軌跡を追い、天を見上げる。

「あっ!」

 だれかが、小さく叫んだ。
 片方のトンボが失速し、濃緑の葉が茂る杉の枝の中に突き刺さる。
 もう一方は軽々と頂点を越え、かさりと小さく音を立てて向こうの草むらに落ちたのがわかった。
 その音がした瞬間、皆がわれ先にと駆けだし確かめに行く。
 無造作に生い茂った夏草の上に、静かに横たわるひとつの竹トンボを中心にして、たくさんの瞳がそれを見下ろす。
 その中から震える白い手が伸び、そっとトンボを拾った。

「……わたしのじゃ、ない」

 喜一がぼそりとつぶやいた。
 竹トンボを目の前に突き出され、左之助がきょとんとしたまま受け取った。たしかに、自分が作ったものである。

「やったあ!!」

 ようやっと勝ちを実感して歓声をあげると、皆が左之助を取り囲んで、それぞれに祝いの言葉を浴びせかける。
 もみくちゃにされ満面の笑みでそれに応えていた左之助が顔をあげると、唇をぎゅっと結んで立ち尽くしている喜一と目が合った。
 
 喜一はしばらく左之助を見つめていたが、はっと気がつくと、腰の巾着から根付けを外す。。
 ゆっくり左之助に近づき、眉を八の字にして薄く笑みを浮かべた。その表情に、左之助の胸の奥がチクチクとうずく。

「やっぱり、左之助ちゃんはすごいや。これは男同士の約束だからね」

 左之助の手のひらに、つるりと光る琥珀をちょこんとのせた。
 その白い喜一の手を見て、目を見開く。そこは、無数の小傷でいっぱいになっていたのだ。
 きっと彼は、今日初めて小刀を使ったのだろう。松太郎に教わりながら、慣れない手つきで竹を削った際にできた傷だった。

「喜一、おまえのその手……」

 左之助の指摘に、皆も気がついて眉を寄せた。

「痛くないのか?」
「あっちの手水舎で洗う?」
「オレ、手ぬぐい持ってる!」

 心配する友達の声に、喜一の顔には自然と微笑みが戻ってきていた。

「ありがとう。でも全然痛くないんだよ。血ももう出ていないし」

 喜一がそう言うと、全員が安心してほっと息を吐いた。

「でも……」

 一本杉を見上げて、喜一の顔が再び曇っていく。喜一の竹トンボが、まだ杉に刺さったままだった。

「あそこじゃあ、無理だな」
「残念だけど、諦めろよ」

 仲間たちの慰めの言葉をかけても、喜一は諦めずに上を眺め続けている。

「しかたがないよ。だってこの木は、なぁ?」
「そうそう。登るわけにいかないもんな」

 子どもひとりでは抱えきれないほどの幹に巻かれたしめ縄に、視線を寄せた。

「ご神木になんか登ったら、お狐さまの祟りにあっちまうよ」

 子どもたちはうんうんとうなずき額を合わせ、ぶるぶると肩を縮こめる始末。
 ところが喜一は、ざらつく樹皮に両手を添えて下駄を脱いだかと思うと、なんと幹に足をかけたのだ。

「お、おい」
「喜一、止めろよ」

 細い身体にしがみついて皆で止めようとするが、喜一も杉の幹にペタリとすがり付いて離れない。

「お願いだよ、離しておくれ。あれを取りに行きたいんだ」

 勝負に負けても泣かなかった喜一が涙声で懇願するが、周りも必死だ。

「ダメだよ。それに、おめえには無理だって」

 言われてみれば、たしかに喜一はしがみつくだけで、少しも上に登れていない。
 ひ弱な喜一が、大木のてっぺん近くまで登るなどとうてい無理なことなのだ。
 自分の非力さを思い知らされがっくりと肩落とすと、ぺたんと根元に座りこんでしまった。
 その姿に、左之助は溜め息をひとつ吐いてから、下駄を脱ぎ捨て着物の裾をたくし上げた。杉の木の上を見据えて喜一の横に立つ。
 突然むき出しの足が横に現れ、驚いた喜一が顔をあげた。

「……左之助ちゃん?」

 呼びかけに左之助が視線を下げ、ぶっきらぼうに答える。

「しかたねえな、おれが取ってきてやらあ」

 そう言い捨て、手足を器用に使ってするすると登り始めた。

「おいっ!左之助までなにやってんだよ」
「ほんとにまずいって」

 焦る仲間を尻目に、左之助はどんどん上へと進んでいく。
 あっという間に小さくなっていく左之助を、皆で見上げていると、つい今し方まで青かった空が、にわかに鉛色の雲に覆われはじめていた。
 生ぬるい風が木々の間を抜けて届き、遠くから雷鳴が届く。
 喜一を止めていた子どもたちの顔からさっと血の気が引いて、ガチガチと歯を鳴らす。

「やっぱり、お狐さまが怒ってる!?」
「お稲荷様が、雷様を呼んだんだ!!」

 恐怖に叫びをあげ、木の上の左之助を置き去りにして、蜘蛛の子を散らすように子どもたちが一本杉の元から逃げ去っていく。
 振り返りもせずに鳥居をくぐって全力で走り帰る彼らの後ろ姿を、喜一は緊張した面持ちで見送った。
 木の上に視線を戻すと、なおも登り続けている左之助に大声で懇願する。

「左之助ちゃん! もう、いいから。危ないから降りてきてよ!」
「馬鹿言うなよ。あともう少しなんだから、待ってろって!」

 左之助は枝に足をかけ、木にしがみついて上を見たまま怒鳴り返すと、さらに高みを目指しはじめた。
 雷の音はどんどん近付いてきている。
 心配そうな喜一が眺めやると、少し離れたことろでピカピカと閃光が空を切り裂いていた。
 それだけでも不安な気持ちで小さな胸がいっぱいになるのに、見上げる喜一の顔に、ぽつりと大粒の雨まで落ちてきた。
 上に行くにつれ、幹も枝も細くなり足下が不安定になっていく。
 あと少し。ふたりが同時に心の中で思った。
 左之助は枝の先、繁る葉の中に埋もれたトンボに片手を伸ばす。
 指先が触れたそのとき、鋭い閃光と雷鳴が轟いた。 
 幸いなことに雷はこの辺りに落ちたようではなかったが、その音と光は、左之助たちの度胆を抜くには十分すぎるほどに効果があった。

「うわっ!」

 驚いて両手を木から離し足が滑る。左之助はそのまま落下していった。
 喜一は驚愕のあまり声も出せずに、目を見開いたまま動けないでいる。
 もうダメだ。これまた同時にふたりが思ったそのとき、清らかな一陣の風とともに白い塊が飛び上がった。
 それは、落ちてくる左之助を、地面に追突する直前で襟首を捕まえ、くるりと一回転させ衝撃を和らげてから、地に放した。
 木の根元に大の字になって伸びた左之助に、喜一が駆け寄る。

「しっかりしてっ!?」

 喜一がペたぺたと頬を叩く。「うーん」とうなり声を立てながら左之助は目を開けた。

「……おれは助かったのか?」

 信じられないというように頭を振って身体を起こすと、全身を確認する。

「怪我は? 痛いところはない?」

 自分のことのように顔を蒼くして心配している喜一に、左之助はうなずいた。

「平気みたい」
「よかったあ」

 無事を確信し安心したふたりは、いまさらにへなへなと腰を抜かしてへたりこんだ。

「だから、神木に登ってはいかんと言ったであろうに」

 ふたりしかいないはずの雷鳴が鳴り響く境内で、お互いとは別の声が聞こえ、左之助ちは同じように首をかしげる。

「そのようなところにおっては、雷に打たれるぞ」

 また聞えてきた声のほうを見て、喜一たちは文字通りに飛び上がった。

「な、な、なに!? 白い……犬?」
「しゃべる犬?」
「犬にしては、大きいんじゃない?」
「よく見てみろよ、喜一。尻尾が三本あるぞ!?」

 いったん顔を見合わせて、ふたりいっしょに謎の獣を指差して震えあがる。

「お狐さま!?」

 ものの見事に重なった声に、白狐がうんざり顔になってそっぽを向いた。

「丸焦げになりたいならば、いつまでもそこに居るがよい」

 ぷいと尾を向け、のっそりと社に向って歩き出す。
 激しさを増す雨と、いっこうに止まる気配がしない雷鳴。またもや鋭い稲光が、暗い雨空に走った。
 高い杉の木の側にいたら、本当に雷に打たれてしまうかもしれない。左之助と喜一はどちらからともなく手を繋いで、恐る恐る白狐の後ろに付いていった。

 社に入る前に、狐は後ろにいる左之助たちにはお構いなしに、ぶるぶると身体から水滴を払い落とした。

「ぎゃっ!」

 飛び散った雫がかかり、左之助が大げさな声を上げる。
 軒下で、喜一が懐からさっき友達に借りた手ぬぐいを出して、左之助に渡した。
 左之助はそれを受け取ると、ごしごしと喜一の頭を拭き始める。

「先に左之助ちゃんが拭きなよ」

 頭を手ぬぐいで包まれながら喜一が言っても、左之助は手を止めなかった。

「おめえに風邪でもひかれちゃ、おれが怒られるんだよ」

 ようやく喜一の全身を拭き終え、自分はずいぶんとおおざっぱに雨粒を拭う。
 建物の中は薄暗く、ときどき光る稲妻で中の様子がわかる。奥で、身体にほんのりと白い光を帯びた狐がこちらを向いて座っていた。

「そこでは、雨が降りかかろう。こちらに来るがよい」

 ふたりは一瞬ためらったが、そろりそろりと近付いていく。
 白狐の前に並んで正座し、がばっと土下座をした。

「もうしわけありませんでした!」

 床に額を押しつけて、ぶるぶると震える。

「それは、なにに対しての謝罪なのじゃ?」

 左之助が額を床にぺったりと付けたままで言った。

「ご神木に登ったことです。本当にすみません!」

 半ば怒鳴るような左之助の声が、狭い社殿の中で反響する。すると、続いて喜一も蚊の鳴くような声で陳べた。

「左之助ちゃんは、わたしの竹トンボを取りに行ってくれたんです。だから悪いのはわたしです。祟るのはわたしだけにしてください!」
「違います。勝負をしようって言ったおれが悪いんです。おれのほうを祟ってください!」

 かばい合うふたりのつむじの先で、さわさわと尻尾が行き来する。

「先ほどからきいておると、祟るとかなんとか、穏やかではないのう。妾がいつ、そなたらを祟ると申したのじゃ」
「え?でも、雷とか……」

 白狐の言葉に、思わず左之助が顔を上げる。

「雷雨なんぞ、夏にはよくあることじゃろう?だいたい、そのつもりなら、助けたりはせぬわ」
「あ……」

 そうだった。一本杉からの墜落を助けてくれたのは、ほかならぬ、目の前の狐だ。 
 白狐は左之助の前にゆらりと進み出て、怯えの色の映る瞳をじっと見据える。

「妾はいく度も申したはず。神木には登るでないとな。身体は大きゅうなっても、まだまだ童じゃな」
「お狐さま、おれのこと知ってるの?」

 左之助は狐の金瞳をのぞき込むと、不思議なことで徐々に怖さが消えていく。

「そなたと会ったのは、七つ参りの前日が最後じゃったかの」

 数年前の秋のことを懸命に思い出すと、ひとりの女の子の姿が呼び起こされた。

「え? もしかして、あかね?」

 あかねはゆっくりと口の端をもちあげた。
 あの日も、ひとりきりで遊んでいた左之助は一本杉に登ろうとして、突然現れたあかねに怒られたのだ。
 驚きで目を丸くして声も出ない左之助は放っておいて、あかねは喜一に目を向けた。
 それまでやりとりとじっと聞いていた喜一は、あかねの視線が自分に向いたことで背筋をぴんと伸ばす。

「そなたは、あまり見かけぬ顔じゃな。ここの氏子ではないのか?」
「わたしは枡嵜(ますざき)屋の喜一です。あの、身体が弱くって、自分はお宮参りに来れていなかったんです」

 ちいさく産まれた喜一は、お七夜も七つ参りのときも高熱を出し、生死の境をさまよっていたと聞いている。首を縮めて告げると、あかねはやわらかな笑みを向けた。

「そうか。おぬしが喜一か。すまぬな、ちゃんと聞き知っておるぞ」

 思わぬ言葉に喜一が顔を上げると、あかねは嬉しそうに言った。

「なに。そなたの父母が、息子の健康を祈願しによく参りに来ておるのよ。やっと当人に会うことができたわ」
「父さんと母さんが?」

 自分の知らなかった事実を知り、喜一も目を大きく開いて驚いていた。
 そんな二人に、あかねはあらためて諭す。

「よいか。神木に登ったからといっても、すべてが悪いというわけではない。木霊の気を害すものでなければ、災いは起きぬ。しかしあれほどに高くまで登っては、神木でなくとも危険なのじゃ。この社内で人死にが出るのは勘弁してもらいたい」

 厳かに静かな口調で話すあかねの言葉は、子どもたちを思う慈愛に満ちたものであり、左之助たちも神妙な顔つきで聞き入っていた。

「わかったかの?」
「はい。申し訳ありませんでした」

 もう一度揃って頭を下げるふたりに、あかねはぱたぱたと尻尾を振って応えた。
  
 
 しばらくして、左之助が喜一の異変に気付いた。唇を青くして小刻みに震えているのである。
 最初はお狐さまであるあかねに対しての畏れなのかと思ったが、どうやら違うようだった。

「おい、喜一。大丈夫か?」
「……うん、平気」

 そう返した顔は蒼白く、とても普通には見えない。額に手を当ててみると、熱もあるようだった。
 だんだんと呼吸が荒くなっていく喜一に、あかねも顔を曇らせる。

「雨に打たれ、身体が冷えてしまったのだろう。喜一や、近う」

 あかねにそう言われても、喜一は畏れ入って動かない。しかたがないので、あかねが自ら近寄っていく。
 喜一に寄り添い、ほわほわの白い毛皮をくっつけた。

「ほれ、妾を抱くがよいぞ」
「えっ?」

 驚く喜一の袖をぐいっと噛んで、強引に引き寄せると、ぽふっと喜一の身体が、あかねにもたれかかる。

「……あったかい」

 あかねの神気に触れ、喜一の顔色にほんのちょっと赤みが戻ってきた。

「お狐さま、もこもこで気持ちいいです」

 喜一は艶のある滑らかな手触りの毛皮に手を入れて、撫で繰り回している。

「わたし、犬や猫が飼いたかったんですけど、喉に悪いからって許してもらえなくって」

 あかねの顔が急に渋いものに変わる。守狐を、犬猫と一緒にするとは何事ぞ。
 横から左之助がそろっと手を伸ばしてきたが、あかねはそれを一本の尻尾でぴしりと払った。
 やがて雷鳴が遠ざかり、激しく屋根を打ち付けていた雨音も消えた。
 静かな寝息を立てている喜一を起こさぬようにそっと立ち上がると、左之助は社の扉を開いた。
 外には眩しい日射しが戻り、湿り気の多い熱気が流れ込んでくる。
 ふと足下に目を降ろすと、喜一の竹トンボが板の間にぽつんと置かれていた。

「ふん。木霊も粋なことをする」

 あかねが呟き、そっと立ち上がる。
 表のほうから必死に喜一を呼ぶ声が聞え、左之助が飛び出すと、先に帰った仲間が枡嵜屋に報せたようで、喜一の両親が血相を変えて境内を探し回っていた。
 左之助がおとなたちを本殿に連れて行くとすでにあかねの姿は消えており、深い眠りに落ちている喜一だけが残されていた。